見まごう邪馬台国

(9)対蘇国

 対[tuəd][tuəi][tuəi]=木槌等の道具を持ち行う版築の作業を行う事=対面
 蘇[sag][so][su]=「穌」が初文、紫蘇の類を用いて魚等の生気を保たせる。金文では国名のみ使われる。

 上記の漢字を併せると、ツァッサッ→タサ(トサ)、高知県の旧国名「土佐」と同音かも知れない。「記」土佐国=建依別と在り、速須佐之男命の建(たけ)国=都支国に依り、服属して、前項の(8)姐奴(ざの→さの/たの)国や他の傍国と同様、邪馬壹国伊都国連合から官卑狗(文官や技官)、副官卑奴母離(武官)等が派遣されていたと考える。
 尚、下記の如く同地名が殆どが河岸や海岸等水際に在る。

  大阪府大阪市西区土佐堀・福島区、大阪府堺市土佐屋台
  奈良県高市郡高取町土佐・吉備
  和歌山県和歌山市土佐町・福島
  徳島県那賀郡鷲敷町土佐、徳島同県鳴門市土佐泊浦
  高知県香美郡土佐山田村大平・仁井田、同県土佐市宇佐町福島

 但し、北部九州には福岡県築上郡大平村土佐井(つちさい)以外の他に同地名は見あたらないので、述べてきた比定地の流れに順い推測すると、その近似音から佐賀県鳥栖(とす)市田代町・真木町轟木・麓・姫方(姫古曾神社)・大野付近に比定する。
 付近の柚比遺跡(ゆびいせき)群(青銅器鋳型・鐸形土製品)は、弥生期~奈良期の竪穴住居約1,500棟、掘立柱建物約50棟、弥生期の甕棺墓約1400基等が確認された。出土遺物には縄文~近世にかけての多種多様なもので、弥生期のものは青銅器、及び青銅器関連遺物が特筆される

 茨城県鹿島郡鉾田町鳥栖(とりのす)、愛知県名古屋市南区鳥栖(とりす)等、何れも平地を流れる川縁にあり、上記、鳥栖市も南側の宝満川に流れ込む何本かの支流が流れる平地に位置し、旧くは低湿地帯だった。
 そうした地形の状況を改善するため、「対」=木槌等の道具で行う版築作業民の国で、(5)彌奴(みな)国と共に版築で一段一段と堤防や水路等を造り、治水工事を施し、泥濘地の陸化を担い水田や耕作地にして「足す」と云う意味の国名かも知れない。

 この説を補足する発見があった。朝日新聞に拠ると、太宰府政庁から南東に7㌔の前畑遺跡、姐奴(ざの)国比定地付近の福岡県筑紫野市丘陵上で長さ500㍍に及ぶ7世紀頃の版築工法の大規模な土塁が見つかった。土壁は、高さ1.5㍍・下部の幅13.5㍍の二段構造で東側を急勾配にしてを巡らせた防御施設とされる。
 これからも邪馬壹国伊都国連合には版築作業の技を持つ中国系の人々が居たとして良く、奴国連合王族の出自をを殷王朝最後の紂王の叔父胥余が、周武王より、箕を賜り、朝鮮王を名告って建国したとされる箕子朝鮮の人々(奴)が、燕人(騎馬系)の衛満が起こした衛氏朝鮮に滅ぼされて渡来、建国したとする私説の傍証ともになる。

 尚、見つかった土塁(前畑遺跡)は、同記事の地図に拠ると、想定される外郭線(赤色の点線)の丸く囲んだ部分で、標高49~61㍍の尾根を略南北方向500(残存390)㍍に及ぶとあり、福岡県糟屋郡宇美町四王寺の大野城(姐奴国)、同県大野城市大利の水城(彌奴国)、佐賀県三養基郡基山町の基肄城(対蘇国)等を繋ぎ、太宰府を取り囲む様に築かれる。
 何故か、太宰府市都府楼の東側、福岡県筑紫野市山家付近、宮地岳山頂の阿志岐山城(神籠石)は含まれない。その北側、福岡県宗像郡津屋崎町(福津市)宮司の宮地嶽神社本社、長崎県松浦市今福町滑栄免(宮地嶽神社)、同県北松浦郡(松浦市)鷹島町阿翁面(宮地岳)、佐賀県唐津市宇木(宮地嶽神社)、福岡県前原市神在・作出(宮地嶽神社)が在り、北上してきた狗奴国(邪馬)の攻勢に御岳(みたけ・おんたけ・うたき)を御神体とする末盧国以西の人々が東行して対立したからかも知れない。

版築(はんちく)=古く、中国の竜山文化に始まった土壁や土壇の築造法で、木枠を作り、その中に土を盛り、一層ずつ杵で突き固める。現在、見られる万里の長城も版築に拠る土壁の上から石を積んだ。
 竜山文化=中国の新石器時代の二大文化中、仰韶(ぎょうしょう)文化から発展した。山東省章丘市竜山鎮の城子崖遺跡に拠る命名で、黒陶(こくとう)が見つかる。

柚比遺跡(ゆびいせき)群=鳥栖市北東部及び基山町南部に位置し、標高約30~70mの八ツ手状に伸びる丘陵上に立地する縄文時代から近世にかけての約30箇所の遺跡により構成される。
 主な遺跡としては、柚比本村遺跡、安永田遺跡、前田遺跡、大久保遺跡、平原遺跡等がある。鳥栖北部丘陵新都市開発整備事業及び関連事業に伴い、県教育委員会が20遺跡(約68万平方m)を対象に平成3年度から11年度にかけて発掘調査を実施した。

中国系=西側の佐賀県佐賀市金立には、始皇帝に不老不死の薬を探し求めると進言して、列島に渡来したと伝承される徐福を祀る金立神社がある。

燕人の衛満=燕は、春秋戦国七雄の一つ周姓召公奭(せき)、河北、南満州、北鮮を領し、薊(現北京)を都とするが、秦に滅ぼされる。4~5世紀、騎馬系鮮卑族の慕容氏が前燕・後燕・西燕・南燕を建国した。もしかしたら、高句麗の武人とも関係があるのかもしれない。
 衛満=BC195年頃、建国した衛氏朝鮮が前漢武帝に滅ぼされた後、楽浪郡や帯方郡等の出先機関が置かれたと在る。王族関係者は北部九州に渡来、箕子朝鮮系奴国連合と対立したと考える。
 衛子夫=前漢武帝の后、弟に将軍衛青(?~BC106)=前漢の武将。字は仲卿。姉が武帝の皇后となった縁で将軍となり、匈奴を征すること十数回、武名高く長平侯に封ぜらる。大将軍、後、大司馬。諡は烈侯。その甥、霍去病(かくきょへい)=前漢の将軍。武帝の時、匈奴を討ち、大功を以て冠軍侯に封。驃騎将軍、大司馬に任じられた。諡は景桓侯(BC140頃~BC117年)。

地図=2016年11月29日(火)付の朝日新聞所載
土塁推測図 

宮地岳=本社は福岡県福津市宮司元町の宮地嶽中腹にある古墳羨道奥の石櫃内に御神体があり、祭神は息長足比売命(神功皇后)と勝村大神・勝頼大神。他にも同県八女市川犬と溝口境の宮地嶽神社、同市竜ヶ原と同県筑後市羽犬塚の宮地嶽神社、大分県東国東郡(国東市)国東町岩屋の宮地嶽神社。

御岳(うたき)=沖縄の村々にある聖地で多くは森。石やクバ・ガジュマルの木等があり、最も神聖な場所とされ、祭りの多くは、ここで催される。威部(いび・いべ)=奄美・沖縄地方で、巫女達が神祭りを行う聖地。または、神。御岳中、最も神聖な場所で、神の依代としての神木や自然石があり、香炉が置かれる。
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  1. 2017/05/24(水) 08:26:00|
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(8)姐奴国

 姐[tsiăg][tsiă][tsie]=且(積み重ねた頂上)と女、一番年上の女、姉(卑弥呼→猿女君→天照大御神)
 奴[nag][no(ndo)][nu]=祭祀官下属の民

 漢字音を併せると、ッシァナッ(チァナッ→ジァナ→ザナ)→サナ(タナ)とになり、(5)彌奴国と同様、水耕稲作民の奴を通字とする奴国連合の構成国で、丸括弧内のチァッナッ→タナ(棚)→タノ(田野)とすれば、天候や潮汐の見張り台(棚)だろうか、東千余里の海民の福岡県宗像郡玄海町田野等、他にも以下の地名がある。

  熊本県天草郡倉岳町棚底
  長崎県東彼杵郡川棚町・小串(をぐし)郷・五反田郷
  長崎県佐世保市棚方町
  長崎県平戸市魚の棚
  佐賀県杵島郡有田町田野
  佐賀県東松浦郡(現唐津市)肥前町田野
  福岡県久留米市三橋町棚町
  福岡県北九州市若松区棚田町
  福岡県北九州市門司区田野浦     
  山口県豊浦郡豊浦町川棚川棚神社)・吉永(宮地嶽神社)・小串(こぐし)
  山口県宇部市棚井
  広島県佐伯郡宮島町魚之棚
  広島県佐伯郡大野町棚田
  兵庫県氷上郡春日町 棚原

 訓音の近似性から大分県大分市佐野(さの)、同県豊後高田市佐野、同県宇佐市佐野、宮崎県延岡市佐野町等、河岸段丘や山に挟まれた川沿いの小高い丘を表す地名になる。これに順い、前項からの流れから小高い丘に遮られた福岡県太宰府市大佐野(おおざの)・向佐野(むかいざの)付近に比定する。その西北の丘上には以下の弥生遺跡が在る。

 隈・西小田遺跡群 弥生~古墳時代(福岡県筑紫野市光が丘)勾玉・諸岡型貝製腕輪・芋貝製腕輪・ゴホウラ貝製腕輪・管玉・硝子製小玉等、前漢鏡、細形銅剣・鉄剣・鉄戈・銅戈等、 甕棺130基。
 野黒坂遺跡、弥生時代後期(同市針摺)翡翠製棗玉。
 原口古墳、3~4世紀頃(同市武蔵)管玉・丸玉・三角縁神獣鏡・直刀・鉄斧・前方後円墳(全長80m)。

 次項の傍国(9)對蘇国に使われる「對(版築の作業を云う)」に関連し、福岡県筑紫野市の前畑遺跡から発見された7世紀頃の太宰府政庁の防御施設とされる大規模な土塁は版築工法に拠るものとある。

 (10)蘇奴国と近い音を持つ事から山口県豊浦郡豊浦町小串(こぐし)と同訓の同県宇部市小串、岡山県岡山市小串、長崎県南松浦郡新魚目町小串郷と、長崎県東彼杵郡川棚町小串(をぐし)郷と同訓の広島県比婆郡東城町小串、群馬県多野郡吉井町小串の二系統があり、「記紀」神功皇后と仲哀天皇の夫婦と同様に死別する伊邪那岐(伊奘諾)と伊邪那美(伊奘冉)の男女の二神に通じる「イ・ザナ」にも関連がある。
 更に、「紀」東遷した神武天皇の御名「狭野(さぬ)尊」の関連もあり、三重県伊勢市山手、同県多気郡多気町大字仁田の天照大御神を天石屋戸から引きだした天手力男神が坐す佐那神社の佐那那県(さなながた)=佐野儺県にも繋がる。
 他にも広島県福山市高西町真田(さなだ)、島根県鹿足郡六日市町真田、大阪府大阪市天王寺区真田山町、長野県小県(ちいさがた)郡真田町等の地名も関連があると思う。

 何れにしても祭祀官(神官)を補佐する下属の奴国連合構成員で、一大率から官卑狗(文官)、副卑奴母離(武官)が派遣される。その武官だったのか、「記紀」誓約に勝った須佐之男命(素戔嗚尊)の乱暴狼藉に恐れをなして天石戸(天磐戸)に隠れた姉天照大御神→天照大神に関連し、狗奴国卑彌弓呼(ひめかな)の北上に拠り、邪馬壹国女王卑彌呼の死後、姐奴国等の連合国は追われて国域が移動し、蘇奴国の領域が拡がる。おそらく、サナギ→サヌキ(讃岐)、長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡香焼(こうやぎ)町但馬(たぬば→たづま→たじま)と同県東彼杵(ひがしそのぎ)郡川棚町白石郷(豊姫神社)・浦川内等も治めたのかも知れない。

田野=熊本県人吉市田野町、大分県玖珠郡九重町田野、宮崎県宮崎郡(宮崎市)田野町、島根県那賀郡弥栄(やさか)村田野原、同県鹿足郡六日市町田野原、和歌山県和歌山市田野、福井県大野市田野、山梨県都留市川棚・大野、高知県幡多郡大方町田野、同県高知市田野町大野、徳島県小松島市田野町等、西日本では小高い丘上や山麓にある。

川棚神社(應神天皇・神功皇后・仲哀天皇)=初め北八幡宮と称したが、1397年の火災で焼失、大分県宇佐市の宇佐八幡宮(應神天皇・神功皇后・比賣大神)を勧請、南八幡宮(仲哀天皇)を併祭したと在る。尚、川棚(かわたな)を河岸丘だとすれば、棚(たな)は、山と山、その麓の河川が流れる谷間の細長い土地を意味すると考えられる。

太宰府市=付近には政庁跡が発掘されており、北部九州の中心で、愛岳山中腹の竃門神社は子孫繁栄のための天之石戸と思われる。また、丸山神社には、天津五神の一人、天之菩卑能命→天菩比命(御子建比良鳥命)/「紀」天之穂日命が祀られる。尚、岐阜県各務原市大佐野(おおざの)町(春日神社)は、木曽川の中州(河岸丘?)に拠り遮られた低湿地を新境川放水路で治水した。

小県=山間を流れる川が合流する谷間の低地に位置する小干潟(ちいさひがた→ちいさぃがた→ちいさがた)と云う転音になる。

速須佐之男命(素戔嗚尊)=滋賀県神崎郡能登川町佐野、同県東浅井郡浅井町佐野、京都府熊野郡久美浜町佐野、大阪府泉佐野市佐野台、同県相生市若狭野町福井、同県豊岡市佐野、同県神戸市兵庫区須佐野通(スサノドオリ)、同県揖保郡新宮町佐野、同県氷上郡氷上町佐野、同県津名郡津名町佐野、和歌山県新宮市佐野、島根県浜田市佐野町、山口県防府市佐野、同県豊浦郡豊田町佐野、徳島県徳島市国府町佐野塚、同県三好郡池田町佐野・同郡東祖谷山村佐野、高知県香美郡土佐山田町佐野、同県高岡郡越知町佐之国。
 尚、日本語の漢字音は、上古音か、中古音に拠るので、佐野は、ッサル・ヂァェ → サダェ → サド → サヅ → サヌ → サノ、或いは、ツァ・ヤ(の) → タ・ヤ(の)と転音する。*左・佐[tsar][tsa][tso]=サ 野[diăg][yiă][ie]=ジェ→ジョ/ヤ

卑彌弓呼(ひめかな)=卑[pieg][piĕ][pi]・彌[miər][miə(mbiə)][mi]・弓[kıəuŋ][kıəŋ][kıoŋ]・呼[hag][ho][hu]で、漢字の音を併せると、ピェミェキゥァッヌッハッ → ペメクァッヌッァッ → ピメカナ(秘狗奴→秘金)で、もしかしたら、秘[pier][pii][pi]・光[kuaŋ][kuaŋ][kuaŋ]が、ピェルクァヌク → ペムカヌッ → ヒムカナ → ヒメカナ(日光を受ける銅鏡)」と転音したか。*卑彌呼(秘巫女)

讃岐=「記」国産神話、伊豫国=愛比賣、讃岐=飯依(いひより→いいより)比古、粟国=大宜都(げつ/いと)比賣、土佐国=建依別と在り、西九州に多く見られる山名「飯盛山」等の飯(いひ/めし/まま)に関連が在ると考える。
  1. 2017/05/17(水) 22:33:24|
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(7)不呼国

 不[pıuəg][pıəu][fəu]=花萼の形で、花弁(巫女)を支える事を意味する。語義「大きい」が派生。
 呼[hag][ho][hu]=(字統)乎が初文と在り、神事に於て神を呼ぶ時に用いた鳴子板の形。

 国名の意味は、乎=鈴を鳴らして舞い喜ばせ、神を降臨させるための道具、神の意思を宣る。不=巫女(爾)を支える神祇官で、伊都国の官爾支は、この国の神祇官や王で、巫女を支えるのかも知れない。
 漢字音を併せると、「ピゥァッハッ→プァハ→パハ(ハハ)/ファハ→ゥアハ→アハ」で、後者の「アフ→アヒ→アイ」は、佐賀県東松浦半島相知(おうち)町相知、同県唐津市相賀(あふち→おうか)、福岡県福岡市博多区相生(あいおい)、同県北九州市八幡西区相生、同県飯塚市相田、同県朝倉市相窪、大分県中津市合馬(あふま→おうま)、山口県下関市阿内(あふち→おうち)、愛知(あいち→えち)や阿波・安房(あほう→あはう→あは)や粟等は川沿いや海岸沿いに多い。
 また、「プァハ→ハハ→ハウ→ホウ」(這・延・匍)とすれば、吐きだされた土砂の堆積した泥濘が這う様に延びた地形を表す言葉で、「記」因幡素兎の舞台とされる伯耆(ははき→ほうき)国や「国々の比定」項で述べた「不彌(ハフ→ハム→ハウ)国」は同源。
 近世音の「ファゥフ→ハコ」にすると、前項の福岡県福岡市東区箱崎付近を流れる多々良川上流とした好古都国「吐くた」等とも近い地形だろうが、述べてきた国々の流れに近似音の地名は見あたらず、全く違う漢字が使われるので、少し成立の状況が違う地名と考える。
 例えば、前者の「パハ(ハハ)→ババ→ハマ」から、巾(はば)、浜(はま)等とすれば、山間の川沿いの細長い低湿地に土砂が堆積した障(さへ)の河原で、穂波川沿岸の福岡県嘉穂郡穂波(ほなみ)、同郡桂川町馬場島(蓑島神社/天照大神・神武天皇・神功皇后)・瀬戸(小市神社/不詳)・土師・出雲・鶴田、同郡郡碓井町臼井付近一帯に比定する。
 これを「ハバ→ハマ→ホマ→ホム→ホン」とすれば、大阪府羽曳野市誉田(ほむた→こんだ)・碓井・白鳥、「ハニフ→ハニゥ→ハヌ→ハニ→ハジ」とすれば、埴生(はぶ→はむ)・土生(はにう→はに)・土師(はじ)等、細長い河原や合流地点の中州に位置するか。
 
 北側の福岡県飯塚市立岩の立岩遺跡(ゴホウラ貝製釧・碧玉製管玉・硝子製棗玉・硝子製管玉・硝子丸玉・内行花文日有喜鏡・内行花文清白鏡・重圏姚皎鏡・重圏清白鏡・単圏久不相見鏡・素環頭刀子・鉄剣・鉄矛等)を、不呼国の中枢とする。
 同郡桂川町馬場島の隣、同郡穂波町大字椿字スダレの弥生中期前半~中頃の墓地には、土壙墓(木棺墓)55基が主。甕棺15基の大部分は小児棺とあり、もしかしたら、花の蕾を守護し、開き切らない稚児の呪力を呼び覚ます役目の国かも知れない。
 その中型甕棺内で発見された成人骨の脊椎に磨製石剣が刺さり、争乱を感じさせるとあり、桂川町馬場島東南、同町豆田の6世紀中頃の王塚古墳には、黄や緑、黒等で、騎馬人物や靭、楯、連続三角文、双脚輪状文が施される。
  こうした墓制は狗奴国、後の邪馬の北上に因る争乱の終息後、北部九州東北部にも拡がったのか。また、線刻系の装飾古墳は、九州以外にも鳥取県や香川県、大阪府等にも分布する。

 尚、平原遺跡(已百支国)の方形周溝墓(二重木棺)と同系古墳が、前漢の武帝が支配した楽浪郡にもあり、伊都国王族を武帝に滅ぼされた燕の衛氏が平壌付近に興したとされる衛氏朝鮮の関係者とした事に繋がる。邪馬壹国伊都国連合の構成は箕子朝鮮系の焼畑農耕民と衛氏朝鮮系の遊牧騎馬民、南中国倭人系(海民と水耕稲作民)等の三つ巴だったと考える。
 
爾支=爾[ŋiəg][niĕ(rıĕ)][ri] 支[kieg][tʃıĕ][tsï]、魏志東夷伝成立期の上古音に拠ると、「ヌギァッ・キェ→ヌガケ」、「記紀」成立期の中古音に拠ると、「ニェ・チュェ→ネチェ→ニチ」で、邇芸速日(にぎはやひ)命の「ニヌギ」や、天津日高日子番能邇邇芸(ににぎ)命等の「ニニギ」とはできない。
 ただ、万葉仮名の甲「き」の漢字には、現北京音が伎[ji]や岐[qi]等、「ジィ」や「チィ」に近い音が使われるので、「ニチ→ニキ→ニイ」と転音したとすれば、焼津(やちつ→やきつ→やひづ→やいづ)と云う転音とも考えられる。

合馬(あふま→おうま)=山国川の扇状地沿いにある大分県中津市合馬と違い、福岡県北九州市小倉南区合馬(おうま)は合馬川沿いの谷間にあるので、奥場(おうば→おうま)かも知れない。東京都青梅市青梅(あふば→おうべ→おうめ)は蛇行する多摩川上流域の谷間にある。手持ちの地図ソフトで河川は見えないが、同地名の栃木県芳賀郡茂木町青梅(おうめ)も、うねる谷間に位置する。また、大場・大庭(おうま→おおば)は、河川合流地手や沿岸部に拡がる河原や扇状地だろう。

障(さへ)=支(さえ→つかえ)」の意、山や丘、堆積した土砂に遮られて流域が変化する事を意味し、塞(さひ)と同源か。英彦山川沿岸の山間で、少し開けたの福岡県田川郡添田(そへだ)も同源の地名と考える。尚、〈類聚名義抄〉山野に構えて禽獣を遮り捕らえる囲いとある。
 「賽の河原」〔仏〕小児が死んでから苦しみを受けるとされる冥途(めいど)の三途(さんず)の河原にも通じるか。石を拾い父母の供養塔を造ろうとすると鬼が来て壊す、これを地蔵菩薩が救う。転じて幾ら積み重ねても無駄な努力とされる。西院(斎院)の河原。

穂波=穂波(ホハ→ほなみ)で、新潟県柏崎市穂波町、長野県上水内郡信濃町穂波、静岡県富士宮市穂波町、愛知県名古屋市千種区穂波町、大阪府吹田市穂波町、鳥取県東伯郡大栄町穂波、何れも川縁の細長い河原、低湿地に在る。
 また、馬の放牧地だったとされる地名「馬場」は、福岡県北九州市八幡西区馬場山、同県大牟田市馬場町、同県八女市馬場、同県行橋市馬場、同県豊前市馬場、同県糸島郡志摩町馬場、同県京都郡苅田町馬場、同県京都郡犀川町木井馬場、佐賀県藤津郡塩田町馬場、三重県一志郡香良洲町馬場、滋賀県大津市馬場(ばんば)、同県彦根市馬場(ばんば)、同県草津市馬場(ばんば)町等が在り、穂波と同様の地形として良く、その開けた河原の平地が馬場にされた事も在ったと考えられる。

王塚古墳=6世紀中頃の横穴式石室前方後円墳、金環(首飾り)・銀製鈴・琥珀製棗玉・管玉・切子玉・小玉(首飾り)・変形神獣鏡・鐙(あぶみ)・轡(くつわ)・雲珠・杏葉等の馬具50以上、大刀等の鉄製武器、武具、高坏他が副葬される(装飾古墳)とあり、馬具が見られるので、遊牧騎馬民としがちだが、海原を翔る船と天翔る馬を同意識とすれば、位置的な事からも水田を必要としない河川民(安曇系)と共に遡上したのかも知れない。

墓制=線刻系の装飾古墳は直弧文等、幾何学的な文様のものは、九州地方に分布中心を持ち、九州以外では、人物や船、木の葉等の写実的な図柄が中心です。非常に多様性に富み、色々なタイプのものがある。
 「石棺系装飾古墳」西隈古墳(佐賀県)、浦山古墳(福岡県)、石人山古墳(福岡県)、下山古墳(大分県)。「石障系装飾古墳」井寺古墳(熊本県)・釜尾古墳(熊本県)。「壁画系装飾古墳」竹原古墳(福岡県)、鬼塚古墳(大分県)、観音塚古墳(福岡県)、報恩寺山古墳(大分県)、鬼の岩屋1号墳(大分県)、太子古墳(茨城県)、栄安寺西古墳(熊本県)、空山15号墳(鳥取県)、木の葉古墳(香川県)、妻山4号墳(佐賀県)、日明一本松塚古墳(福岡県)、宮ヶ尾古墳(香川県)、千代丸古墳(大分県)、善神さん古墳(長崎県)、姫御前古墳(佐賀県)。「横穴系装飾古墳」石貫ナギノ横穴墓(熊本県)、加賀山横穴墓群(大分県)等、九州以外では茨城県や鳥取県、非常に稀な存在。  
  1. 2017/05/10(水) 23:52:25|
  2. 邪馬台国
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(6)好古都国

 好[hag][hau][hau]=母が子を抱く形で、全てを賞賛する時に用いる
 古[kag][ko][ku]=祝禱を入れた器とそれを護る干(武舞に用いる装飾のある盾)との合字
 都[tag][to][tu]=祝禱を入れた器を埋納し、城壁で囲んだ所

 語義を併せると、安寧を祈る祝禱を入れた器と盾を設け、邑とは違い祖先の宗廟を城壁で囲って護る所と云う名称になる。詰まり、漢王朝から授かった金印「漢委奴国王」の奴国連合委奴国の祭祀を掌る王都だろう。
 漢字音を併せると、ハッカッタッ→ハカタ(博多)→ゥアカタ→ワカタ(若田)・アカタ(赤田)で、(3)「伊邪l国」項の地図に拠ると、当時、現在の福岡市博多区や東区付近の海岸線は深く入り込み、殆どが海中なので、「ハカタ」の語源は、干潮時、河口に吐き出される濁流の土砂が堆積した泥濘地の吐田(はきた)で、福岡県福岡市東区箱崎や同区馬出(まいだし)は治水工事を施した陸地の這出(はいだし)や場出(ばいづる)で、同県福岡市中央区舞鶴(まいづる)、同県三池郡高田町舞鶴、大分県大分市舞鶴町、京都府舞鶴市等も同源と考える。
 地名「ハカタ」は、三重県津市博多町、京都府京都市東山区博多町、佐賀県唐津市七山村博多・木浦、長崎県長崎市今博多町、大分県中津市古博多町、愛媛県今治市伯方(はかた)町古江・木浦等、以上の何れもが幾筋か河川の流れる合流地点や、その河口入江の沿岸部に在る。

 述べてきた事と、この国を守護する武人の都支国や、この国の治水工事にも関わった彌奴国の比定地等、その流れに順うと、福岡県福岡市博多区美野島と多々良川や宇美川を挟んだ東側、筑紫平野東部、3世紀中~後半の光正寺古墳(翡翠製勾玉・碧玉製管玉・変形獣首鏡、鉄器他)のある福岡県糟屋郡志免町や同郡宇美町付近一帯に比定する。
 付近の金隈(かねのくま)遺跡の墳墓には銅鏡や銅矛・鉄剣等、被葬者が持つ権威の象徴を表す副葬品に殆ど見えず、伊国に奴国連合の統治権と祭祀権を剥奪され、殺された王の輪廻転生を阻止する呪詛等もなかったため、当時の一般人(下属の民)を葬った共同墓地とされる。
 もしかしたら、(4)都支(たけ)国の比定地とした福岡県福岡市博多区下月隈(つきくま→たけくま)、弥生後期の宝満尾(ほうまんを)遺跡の土壙墓4基には翡翠製勾玉、 硝子製小玉、中国製明光鏡、素環頭刀子鉄斧等とあり、70~80年続いた委奴国王墓かも知れない。

 邪馬壹国伊都国連合への服属を嫌った奴国連合の委奴国王係累で覡の卑彌弓呼(秘狗奴)が授かった統治権の象徴である金印「漢委奴国王」は跡目争いの最中、奪われたため、従者や関係者を率い狗奴国(カナラ→カナダ/クヌダラ→クダラ)として南下した後、代々の国王を祀る宗廟に安置された金印を警護する武官卑奴母離や神祇官の卑狗が一大率から派遣された。*敵・叶(かなう)

 
その後、狗奴国は邪馬壹国の内部分裂を謀り、成就したのか、その一部(壹與)と繋がり、邪馬国と称した。その攻勢に敗れた邪馬壹国の女王卑弥呼(秘巫女)は亡くなり、通説の伊都国比定地、福岡県前原市の平原遺跡の古墳に葬られたと考える。
 邪馬壹国伊都国の王族は東北方面の遠賀川沿岸部から中国地方の出雲付近へ逃げ延びる時、奴国連合の象徴、金印「漢委奴国王」を狗奴国に奪われるの恐れたのか、埋納し、その宗廟を焼いたのかも知れない。
 後代、中大兄皇子と斉明天皇は百済(くだら)を救援に筑紫に下向し、唐王朝を後ろ盾とした新羅に敗れ、熊本県阿蘇郡大津(おおづ)町瀬田・真木・古城付近から大分県大分市大津、高知県土佐清水市大津、同県高知市大津、徳島県鳴門市大津、大阪府泉大津、滋賀県大津市と移動した。

赤田(あかた)=ハカタ→ゥアカタ→ッアケタとすれば、山口県下関市垢田(綾羅木川)、秋田(あきた)と云う地名も雄物川等が吐き出す土砂が堆積した泥濘地を秋田運河等で治水した同源の地名、若田(ワカタ)→脇田(ワキタ)→和井田とすれば、湧水地にもなる。
 
尚、博多(はかた)と云う漢字の語義は、博=広く薄く、多=夕方から夕方→拡がるとなり、土砂の堆積を示唆する。「記紀」成立期の中古音では、「ハゥコツォ→ホコト→ココト」となり、「紀」興臺産霊(こごとむすび)に比定される。

馬出(まいだし)=福岡県福岡市東区馬出は付近の箱崎八幡宮の神馬(じんめ)を出したと云う地名説話がある。但し、他にも徳島県美馬郡貞光町馬出(うまだし)、富山県高岡市御馬出(おんまだし)町・小馬出(こんまだし)町、石川県小松市小馬出(こんまで)町等は同源の地名だろうが、地図ソフトに拠ると、何れも河川沿岸に位置するが、付近に大きな神社は見あたらない。

壹與=景行天皇が八尺入日子命の娘、八坂入比賣命(生母)を娶り、生んだ五百木之入日子命、五百木入日賣命として良いのかも知れない。また、景行天皇が吉備臣等祖若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶り、櫛角別王、大碓命、小碓(倭男具那)命、倭根子命、神櫛王を生むとあり、「臺與」は景行天皇の妹倭比賣命で、養われた倭建命(日本武尊)は卑彌弓呼に化体されたと考える。
 二十四史の一つ「後漢書(後漢の事跡を記した史書)」本紀10巻、列伝80巻は南朝宋の范曄(はんよう)(398~445)の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭(わ)に関する記事があり、邪馬国とされる。
 
大津(おおつ/おおづ)=当初、伊都国の攻勢に追われて南下(くだ)るが、人口増加に因る食料不足での政情不安からか、北上を始める。その攻勢に押された邪馬壹国伊都国連合の一部が山口県大津郡大津郡(長門市)油谷町大和、島根県出雲市大津、石川県羽咋郡志賀町大津(おおづ)、同県鹿島郡田鶴浜町大津、新潟県刈羽郡西山町大津(おおづ)、同県岩船郡荒川町大津、 青森県三沢市大津へと日本海沿岸部を移動した。
 もう一つ、三重県松阪市大津町、山梨県甲府市大津町、群馬県吾妻郡長野原町大津、神奈川県横須賀市大津町、千葉県東葛飾郡沼南町大津、同県長生郡長柄町大津倉、同県安房郡富浦町大津、茨城県北茨城市大津町(鹿島神社系)がある。*オホ(意富)津→イホ(已百→五百)津

  1. 2017/05/01(月) 08:31:41|
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(5)彌奴国

 彌[miĕr][miĕ(mbiĕ)][mi]=「爾」豊かな毛髪と女性の美しい文身、「弓」男性のトーテムで、矢(婿胤)を射る弓
 奴[nag][no(ndo)][nu]=祭祀官下属の女囚

 漢字を併せると、巫女の教えに従う水耕稲作民(奴=下属の民)の奴国連合の国になる。その訓を「ミェルナッ→メルナ→ミナ→ミヌ→ミヅ」とすれば、有明海沿岸の福岡県三潴(みずま)郡三潴町や同県久留米市山本町耳納、水縄(みのう)山(高良神社・玉垂命)、遠賀川沿岸の同県遠賀郡水巻、同県行橋市蓑島(みのしま)他、三野・美濃等も同源と考えられる。
 前項迄の流れに順うと、福岡県福岡市博多区美野島付近だが、那珂川や御笠川を遡った同県春日市白水(しろうず)・春日野・大和町、同県大野城市瑞穂町付近一帯の小高い所に住み、低湿地や泥濘地に溜め池や水路を造り、治水工事を施して開発した。

 弥永原(やながばる)遺跡、弥生中期(福岡県福岡市南区日佐)勾玉、水晶製玉類 、倭製内行花文鏡、硝子製勾玉鋳型
 須玖岡本遺跡、弥生期(福岡県春日市)硝子製勾玉、硝子製璧、硝子製管玉、草葉文鏡, 星雲文鏡, 重圏銘帯鏡, 連弧文銘 帯鏡、銅剣, 銅矛

 道程で記述された国々とは違い、国名が羅列されるだけの傍国の役目や官名、その比定地は使われる漢字音と語義から推測するしかない。伊都国の台頭に拠り、統治権を奪われた奴国連合の委奴国王係累、狗奴国王卑彌弓呼は官狗古智卑狗と共に再起を期して南下(くだ)ったため、彌奴国は、その後ろ盾を失い服属させられただろうから、一大率から官卑狗(文官)か、副卑奴母離(武官)が派遣されたのは間違いない。
 その伊都国の命に従い(9)對蘇国と共に彌奴の人々は
那珂川や多々良川下流域の福岡県福岡市南区清水(しみず)、同市博多区美野島や同市東区水谷(香椎宮)、有明海沿岸の同県三潴(みずま)郡三潴町付近迄、技術と、その役目を担い派遣されて拡がっていたのかも知れない。
 例えば、福岡県太宰府市の「水城」は、宇美川や御笠川河口から遡り、南側の大川(筑後川)河口、福岡県朝倉市杷木町付近へ抜ける運河の水量を調節したと考えられる。ただ、弥生前期の冷温化に因る海退で、その役目を失うが、内陸部深く入り込んだ博多湾岸にできた泥濘地の治水工事のための貯水池とされた。後代、中大兄皇子が新羅の侵攻に備えた防御的な役割の水城の築造や管理にも彌奴の人々が従事した。

 これを 「ムナ(ムダ)」とすれば、大牟田市等の牟田(低湿地や泥濘地)、福岡県宗像郡玄海町牟田尻等も考えられる。ただ、宗像大社の三女神は海民が斎き祀るので、役目や特徴に違いがあり、宗像付近は邪馬壹国東側千里に居た同種の倭人とした。
 先述した様に、倭[・ıuar][ıuĕ][uəi](別音[・uar][ua][uo])と同音「委」=(字統)稲魂(穀物神)を被り舞う女性(早乙女)で、舞う姿が低く、しなやかな様とあるので、「倭」の人偏「イ」は委=卑弥呼(天照大御神)を支える伊都国から派遣された補佐役(摂政)の男弟(「記紀」思兼神)となる。
 おそらく、「記」天宇受賣命(猿女君)が天之石戸(天磐戸)の前で舞踊り、太陽(日光)神を呼び出した如く、山麓の河口部で水耕稲作を営む農耕民は、投馬国連合の海民等が持つ天文の知識を用いて農事暦を作り、巫女卑弥呼(≒天照大御神)一族が「能くする」と云う鬼道に、その農耕儀礼や神事を委ね、豊穣を祈願したと考える。
 「記」スサノヲが大山津見神の娘神大市比賣を娶り生んだ大年神を、狗奴国の覡王卑彌弓呼(+官狗古智卑狗)、宇迦之御魂神を女王卑彌呼か、宗女壹與(臺與)が斎き祀った稲魂の化身として記述した。詰まり、「記紀」の編者達も「魏志東夷伝」を読んでいたとして良い。

美濃=三重県松阪市美濃田町、同県名張市箕曲中村(ミノワナカムラ)、同県多気郡明和町蓑村、滋賀県神崎郡永源寺町箕川、同県坂田郡近江町箕浦、同県東浅井郡湖北町美濃山、大阪府堺市大美野・見野山、同府豊中市箕輪、同府箕面市箕面、同府東大阪市箕輪、兵庫県神戸市灘区箕岡、同県姫路市四郷町見野、兵庫県川西市見野、同県津名郡五色町鮎原三野畑、奈良県大和郡山市箕山町、同県山辺郡山添村箕輪、和歌山県有田市箕島、同県海草郡美里町蓑垣内(ミノガイト)、同県東牟婁郡本宮町簑尾谷、島根県益田市美濃地町、岡山県岡山市三野、同県津山市美濃町、同県御津郡加茂川町三納谷、同県邑久郡邑久町箕輪、広島県三原市八幡町美生(ミノウ)、同県福山市箕島町、同県佐伯郡沖美町美能、同県山県郡戸河内町箕角(ミノスミ)、徳島県三好郡三野町清水、香川県三豊郡三野町大見・同郡豊浜町箕浦等、何れも低湿地や河岸や湖岸に多い。

白水(しらみず→しらむず→しらうず)=泥濘地に施す治水工事や水城等の調整池を管理する人々と考える。尚、白水郎(はくすいろう)=白水は中国の地名、海人(あま)の異称とあるが、沿岸航海民や河民で、長江河口部、浙江省等の治水工事に携わり、水路を完備し、河川荷役を発展させたと考える。現在でも、春日神社(比売神=水神光明子?)が地座する白水付近には白水(しろうず)氏がおり、全て、此処が発祥と自称する。

奴国連合=周の召公奭の封ぜられた「」が秦の始皇帝に滅ぼされたため、その国人、衛滿が朝鮮半島へ逃れて、殷王「紂」の叔父胥余が周武王から「箕」に封ぜられて朝鮮に入り、興した箕子朝鮮の王「準」を滅ぼし、衛氏朝鮮を興す。その難を逃れた王族や官吏が奴(「論」箕子、これ下属の女囚とある)として列島に渡来、そうした巫女等の組織や役職を管理して水耕稲作民と海民を支配した委奴(鰐→猪)国連合となる。
 後代、衛氏朝鮮(伊都国系)も前漢武帝に滅ぼされ、その王族や官吏・武官が列島に渡来すると、再度、箕子氏の委奴国連合は支配され、再度、下属の民(女性とは限らない)を差し出す国に貶められる事を嫌った狗奴国(邪馬壹国側に拠る呼称)は再起を図り、南下(くだ)り、対立した。
 焼き畑農耕民と治水工事等の技術者集団(箕子朝鮮の関係者)と、伊都国王(男弟=思兼神?)が遅れて渡来した衛氏朝鮮の関係者で遊牧騎馬民(武人の都支国等)。もう一つ、南西諸島を経て渡来した南中国や東南アジアの海民と耕作民(倭人)が混在した。

委=訓「ゆだねる」「任せる」「詳しい」等、しなやかに踊る巫女に豊穣を委ねる。その姿「委」に対し、覡は「年」(字解)禾+人=大年神。尚、後漢時代の煉瓦(塼)に「倭」という文字が見えるとあるので、遅くとも、その頃には、「イ(人偏)+委」とし、巫女(祭祀)と男弟(摂政王)と云う彼等の習俗や政治形態に則して創られたと考える。

天文=外洋航海民は、昼間、沿岸部の風景や太陽の位置で進行方向を知るが、夜は北極星(妙見)の位置や、中国で28宿(箕や鬼等)と呼ばれた季節に拠って違う星座の位置で方向を定めた。その天文の知識を用いて伊都国王直轄の官僚の下で作られた。後代、暦術は天皇家の所轄する所となる。また、鬼道とは、後代の陰陽道に近いのかも知れない。


  1. 2017/04/20(木) 21:39:29|
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◇竹(ちく)

 漢和大辞典に拠ると、竹(チク/たけ)や筑、築(チク→ツク→ツイ)は、何れも[tıok][tıuk][tʃıu]、紫[tsiĕr][tsiĕ][tsï]・斯[sieg][siĕ][sï]で、筑紫や竹斯とは、竹で編んだ網状の籬(かき→ませ)を衝立として水を抜き、水路(つる)に流す等の治水工事を施した河口部の中州や河岸にできた築地(ちくち・つきち→ついぢ)や築施(ちくせ)と考える。*施[thiar][ʃıĕ][sī]
 おそらく、
「地名」杵築(きつき)・木月(きつき)・築城(ついき)・月瀬(つきがせ)・佃(つくだ)島・月(つき)島等は同源で、そうした築地の環濠集落が村邑(くに)となる。その後、強国に拠る支配が始まり、夫々が連合し、領域が拡がると支配域の全体、北部九州一帯の呼称にされる。
 

 また、現在、海中道で福岡県糟屋郡や福岡市東区や博多区と陸路で繋がる志賀島は、縄文海進期や弥生後期、AD200~300年頃の温暖化に因る奈多や西戸崎等、四つの島だったが、古墳時代の冷温化に因る海退や、潮汐に因る泥砂の堆積に拠って繋がる。
 この場合、築地ではなく、接地=筑紫(つくち→つくし)で、海進期、奥まった博多湾岸に注ぐ河川の流路が自然に変化したか、治水工事を施して変更したか、多くの中州が接合されて繋がる接地(つくち)とも考えられる。

 竹(たけ)→建(たけ→たち)=立で、月立(つきたち→ついたち)=一日(朔)とすれば、月読命は筑紫(つくし)と関係があり、卑彌呼の鬼道とは潮汐(こよみ)を伴って変化する月の形状を観察する暦学で、月読(つきよみ→つ・こよみ→っこよみ)=暦にも繋がる。
 南下した狗奴国=建日別(熊曽)とすれば、月読命は巫女(太陰)が、月夜見尊→月弓尊と表記が変化、卑彌呼自体を祀る覡の建=立(たち)→大刀(卑彌弓呼=ヤマトタケル)、剣(つるぎ)=水流岐(つるぎ)=敦賀(つるが)→駿河(するが)に分裂する。
 更に、「武(武器で止める)」と云う漢字には父系制(家長)での血縁、嫡嗣とは違い、母系制での家督を嗣ぐ娘に婿入した夫が血縁ではなく継ぐと云う意味が在り、武(たけ)=接(つぐ)=継ぐともなる。

 京築(けいちく)地区の福岡県京都郡犀川町上伊良原、標高220㍍の山間、榎遺跡から約九千年前の住居跡が発掘された北部九州東側、豊国の沿岸部も倭人系海民や水耕稲作民の住んだ筑紫だが、弥生後期、人口増加に因る食料不足等が契機か、政情不安に乗じた狗奴国王卑彌弓呼の北
上に拠り、卑彌呼が亡くなり、その宗女「壹與(イチヨ→イヨ)」が靡き、係累の「臺與(タィヨ→トヨ)」が分裂して逃げて豊(とよ)と呼ばれる。
 更に、そこからも追われた臺與は日本海沿岸を東遷する。狗奴国王卑彌弓呼は、壹與を残して後を追う様に周防灘を渡り、瀬戸内海沿岸を東遷、山口県と広島県境付近から北上し、国譲させたと考える。

 有明海沿岸部の肥国(ひのくに)は筑紫の「築地」とは違い、筑後川や矢部川、六角川や牛津川、白川や緑川等の河川に阿蘇山の火山灰が運ばれて土砂として堆積、瞬く間に這うように延びていく泥濘地が「肥える」と呼ばれた。その浅い海で獲れる貝等の水産資源が豊富だったのだろう。
 もしかしたら、今では南西諸島付近でしか獲れない貝輪の材料「芋貝・ゴホウラ」も縄文海進の温暖期には生息していたのかも知れない。その後、小氷期で凍える程に気温が下がって海退すると、泥濘地の水気が抜けて陸地化する。
 それが故か、「凍」も肥(こゆ)と同訓にされる。更に、泥水が濾されて土壌の密度が濃くなり、「越(こし→こゆ)」=上に到る、経過する、抜け出る等の語義があり、日一日と泥濘地は拡がるが、粘土質ではないので土壌改良が施されて水田化されたと考える。

「筑」=中国の古代楽器。箏に似て小さい。頸が細く肩は円い。左手で柱(ちゅう)を押さえ、右手に竹の細棒を持って弦を打って鳴らす。周末より漢初にかけて(えん)の地方を中心に行われた。筑紫国(つくしのくに)の略。

ませ(籬・笆・架)=「間塞」、「馬塞(うませ・うまふせぎ)」の意。竹や木で作った低く目の粗い垣。真瀬垣・籬(まがき)。間狭=劇場の枡の仕切。 馬塞=馬が出られないように作った垣、厩栓棒(ませんぼう)、馬出(まいだし)等の地名は関係が在るのかも知れない。また、動詞「益・増(マス)」の連用形から、ませている事。年齢の割に大人びて見える事。また、その様な子供。おませ。早熟。老成。
 「記」黄泉国から還り、伊邪那伎大神は「なんと恐ろしい恐ろしい穢れた国を訪れてしまったのだ。禊をすべきだろう」と竺紫日向(つくしのひむか)橘小門阿波岐原(吾吐き原)を訪れて禊祓をする時、投げ捨てた杖に生り出でた神名は衝立船戸神~云々。*竺[tıok(tok)][tıuk(tok)][tʃıu(tu)]=太い竹、厚く行き届いている様。阿波岐→淡(あは)き・喘(あは→あえ)く
 「紀」筑紫日向小戸橘之檍原、即投其杖岐戸(ふなと)神~云々。
*檍[・ıək][・ıək][iəi]=〈神代紀上訓注〉橿・黐(もち)の木の古名、梓の類等、未詳。古訓「あはき」とあるが、漢字音に拠ると、「ィアク→ヤク」となる。*厄(やく)原、阨(あく)原、葯(やく)原(葯=雄蘂先端の花粉を生じる嚢)。

立(たち)=「歌舞伎」舞台上で座り、演奏する囃子方に対して、演じる役者を立ち役とする事、同性愛者の男役を立(たち)、女役を猫とする理由も同様(男=立ち、女=寢こ)。例えば、犢鼻褌(たちふさぎ→たっふさぎ)、三毛猫=猫の毛色で、白・黒・茶の3色の毛が混じっているもの。また、その雌猫(雄猫=たま)とされる。詰まり、天皇の和風謚「倭根子」=倭人の母系と云う意味があり、天照大御神が速須佐之男命の帯びた十握剣を物実として生した三女神と、速須佐之男命が天照大御神の珠(たま)を物実として生した五男神(大刀)と考えられる。また、ヤマタノヲロチの尾を斬り裂くと出てきた「記」草那芸大刀(クサナギヌタチ)、「紀」草薙劒(くさなぎのつるぎ)とある。

榎遺跡=県内では二番目の古さとされる
住居は、二本の柱で支える構造で、床にあたる部分の直径2.5㍍前後、定住家屋としては小さく、狩猟キャンプ用の簡易家屋とされる。季節に拠って住居を変えたのかもしれない。同時期の縁に凹凸の飾りが一列ずつ施される柏原式土器の破片、約百点も出土、同様のものが福岡と大分で出土、今回の発見で復元の可能性あると云う。他にも旧石器時代(約1万2~3千年前)のナイフ型石器、鎌倉~室町時代の土壙墓七基から青銅製和鏡等の副葬品も多数出土した

豊国=石塚山古墳 4~5世紀(福岡県京都郡苅田町富久町)琥珀製勾玉、碧玉製管玉、三角縁神獣鏡,、三角縁吾作四神四獣鏡、三角縁獣文帯日月四神四獣鏡、三角縁獣文帯天王日月三神三獣鏡、細線式獣帯鏡、素環頭大刀の銅、鉄製武器、武具。竪穴式石棺前方後円墳全長110m
 御所山古墳 5世紀後半(福岡県京都郡苅田町与原)翡翠製勾玉、翡翠製棗玉、碧玉製管玉、硝子製小玉、倭製四禽四乳鏡,金銅製雲珠等の馬具、鉄製武器他。横穴式石室前方後円墳全長119m「宮内庁書陵部蔵」
 番塚古墳 5世紀末-6世紀初(福岡県京都郡苅田町尾倉)金環、翡翠製勾玉、勾玉、管玉、丸玉、硝子製玉類等、神人歌舞画像鏡 銀箔片、銀捩条片、金銅製飾金具、轡、剣菱形杏葉、鞍金具、革金具他等の馬具、銀象嵌大刀(同心円文、蓮華文、魚文の銀象嵌)
大量の鉄製武器、武具他。横穴式石室前方後円墳全長50m
 下稗田(しもひえだ)遺跡 弥生前~中期(福岡県行橋市下稗田)翡翠製勾玉
 琵琶隈古墳 古墳時代中期(福岡県行橋市延永)翡翠製勾玉, 青色硝子小玉、舶載内行花文鏡、素環頭大刀、短剣1、鉄鏃、靫、 札甲。竪穴式石室円墳径25m
 竹並遺跡竹並横穴墓群 5世紀後半~7世紀(福岡県行橋市南泉)耳環、勾玉、イモガイ製腕輪(釧)、ゴホウラ貝製腕輪(釧)、管玉、丸玉滑石製装飾品、乳文鏡、馬具、銀象嵌鍔と鞘尻金具、双龍環頭大刀、蛇行剣、圭頭太刀他の鉄製武器。
 山田1号墳(福岡県築上郡上毛町安雲)耳飾り、金銅装・装飾品他。 円墳
 黒部古墳群 6世紀末~7世紀中(福岡県豊前市大字松江)瑪瑙製玉類、水晶製切子玉、硝子製玉類等、銀製杏葉、金銅製雲珠、金銅装金具、金銅装鋲他等の馬具、銅製圭頭式柄頭、銅製鉄縁・喰出鐔等の武器。円墳7基

筑紫(ちくし)=福岡県北九州市小倉南区曽根付近を流れる竹馬(ちくま)川と在り、遠賀川中流域を筑豊(ちくほう)と呼ぶ事からも筑紫(ちくし)となる。尚、茨城県南西部の筑波(つくば)山と、琵琶湖東端の滋賀県米原市朝妻筑摩(ちくま/つくま)との関係は如何なものだろうか。
 近江国坂田郡米原町朝妻筑摩の筑摩(朝妻)神社(孝安天皇)では、古く、4月1日等に行われた鍋被り、神輿に従う女性が関係を結んだ男の数だけの鍋を被ったらしいが、今は5月3日に少女が緑の狩衣、緋の袴をつけ、張子(はりこ)の鍋を被って供奉(ぐぶ)する。鍋祭。鍋冠祭
 茨城県つくば市筑波の筑波山神社「伊弉諾尊、伊弉册尊、加具土命」、筑波山の西峯=筑波男神(伊弉諾尊)、東峰=筑波女神(伊弉册尊)の二座を拝し、御神体山と仰いだ。同県新治郡霞ヶ浦町大堤とあり、これも治水工事等を施した新しい端(接く地=生した子加具土命)になる。

国譲=邪馬壹国と伊都国連合は新たに統治権を象徴する金印「親魏倭王」を魏王から授かったため、漢の属国として統治権を委ねられた事を象徴する金印「漢委奴国王」を隠匿する。その後、狗奴国に追われて邪馬は金印を携えて逃げるが、譲り受けて邪馬
称したと考える。尚、隠匿された金印が志賀島で発見されたと伝承される。


  1. 2017/04/12(水) 00:23:48|
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(4)都支国


  都[tag][to][tu]は、祝禱を入れた器を埋納し、城壁で囲んだ所。
  支[kieg][tʃıĕ][tsï]=小枝を手に持ち支える。

 使われる漢字音を併せると、「タッキェッ→タケ(タチェ)」となる。地名は、竹・武・高(たけ)・滝等、国の役割は、都を支える国=の祝禱を入れた器を守り、支える、一大率から派遣された官卑狗や副官卑奴母離等、武人の国とした。
 前項迄の比定地から福岡県福岡市中央区舞鶴の東側、筑紫平野東部、御笠川沿岸の同区板付(いたづけ)の水田稲作跡が発掘された板付遺跡や同区金の隈(金隈遺跡)の西側、
福岡県福岡市博多区竹下、同市南区高宮・高木付近一帯に比定する。後代、那珂川を遡った同県筑紫郡那珂川町成竹も含まれるか。 他にも以下の遺跡が在る。

 宝満尾(ほうまんを)遺跡 弥生後期(福岡県福岡市博多区下月隈)翡翠製勾玉・ ガラス製小玉・中国製明光鏡・素環頭刀子・鉄斧、土壙墓4基
 那珂八幡古墳 4世紀初頭(福岡県福岡市博多区那珂)翡翠製勾玉・管玉・ガラス製小玉(首飾り)・三角縁五神四獣鏡・赤色塗布の高坏他、前方後円墳(全長約75m)。

 狗奴国の北上に拠る攻勢に敗れた後、一部は服属を嫌がったのか、「記紀」建速須佐之男命や建御雷之男命(武甕槌命)の建(ケン)=剣が、建(タケ→タチ)と武(タケ)の二系に分裂する。
 福岡県糟屋郡新宮町立花(岳越山)東北の同県鞍手郡小竹(こたけ)町勝野・南良津(同神社)付近へ追いやられたと考える。ただ、福岡古賀市小竹・須賀神社(素戔嗚尊尊)、同県宗像郡福津市福間町小竹、同県北九州市若松区小竹は「をだけ」と訓むので、狗奴国の北上に因って分裂した武系が東征、佐賀県武雄市、福岡県糸島郡二丈町武、同県前原市武丸、同県福岡市早良区金武、同市西区吉武、同県小郡市力武、同県宗像市武丸島根県八束郡鹿島町武代(たけだい)、同県出雲市武志(たけし)町、福井県武生(たけふ→たけを)市等、日本海沿岸部へ領域を拡げる。
 尚、宮崎康平氏は「慶元本」郡支(クキ)国とするが、武系が福岡県北九州市の洞海(くきのうみ)沿岸部へ移動後の名称で、建(天之)系は出雲付近で国譲し、科野付近迄、追われたと考える。

 「仲哀紀」紀伊国徳勒(とくろく)津を出発した仲哀天皇は使者を角賀(つぬが)に遣わし、皇后に勅し、直ちに出発して穴門(あなと)で会うようにせよ~云々。穴門を現山口県下関市付近、角賀(つぬが)を福井県敦賀とするが、徳勒津の所在は不明とされる。
 漢和大辞典に拠ると、角[kŭk][kɔk][kiau(kiue)]・賀[ɦag][hə][ho]、万葉仮名成立期の中古音「コクファ→カッハ→カハ(カカ)」、福岡県田川市東側、同県京都郡勝山町(現みやこ町)の仲哀隧道(七曲峠)の西側、同県田川郡香春町勾金(まがりかね)の鏡山大神社の河内(かはち→かぁち)王墓(陵墓参考地)、その勝山町と同県行橋市津積(つつみ)の境、御所ヶ谷神籠石があり、九州西北部から神籠石の担い手も移る。
 徳[tək][tək][tə]=生来、備わった本性、本字「彳+直+心」。勒[lək][lək][ləi]=馬を馭する革紐、勝手に動かない様に引き締める=制御、程よく調整する、訓「あらたむ」。
 草原の馬=海原の船とした様に、神功皇后の新羅討伐に助力した住吉系海民(+蛋民の鰐)と外洋航海民の陸鰐等、邪馬臺国伊都国連合に属した海民の連合、投馬(タクマ)国も玉依姫+山幸彦→葺不合系と海幸系豊玉姫→豊玉彦の二系に分裂する。
 「記紀」成立期の中古音で、「タクラク→タクッラッ→タッラ」とすれば、建羅(タクラ→タラ)=多良・太良・足(たり→たら)や、竹田(タクラ→タケダ)で、長崎県西彼杵郡(諫早市)多良見町、佐賀県藤津郡太良町多良等がある。

板付=イタッキ(一大城?)→イタッケ→イタヌケ→イタヅケと転音したか。「紀」素戔嗚尊の子、五十猛(いたける→ぃたけの)命と関係が在るのか、付近には、五十川(ごじっかわ→イカガワ→イラガワ→イタガワ)と在り、他にも山形県長井市五十川(イカガワ)、同県西田川郡温海町五十川(イラガワ)。

「建」[kiān][kıʌn][kien]=近世音[jian]と中古音が同音(剣[klıăn][kıʌn][kiem])。また、「武」=と止の合字とあり、何れも武官だろうが、銅矛と鉄剣の違いかも知れない。また、繭[kăn][ken][kien]ともあり、以下の説話にも関係するのかも知れない。また、「記」国産神話、肥国=建日向日豊久志比泥別、建日別=熊曽国とある。
 「紀」眉上に生れり。漢和大辞典「蠒(爾+虫)」項、繭(まゆ)の別字とあり、眉(まゆ)と通音して対応する。「記」頭(かしら)に蠶(かひこ)生るとし、「蚕」項、蚯蚓(みみず)とし、「記」蠶(替+虫+虫)は「解字」桑の葉の間に入って食べる虫、潜(もぐる)・簪(かんざし)等と同系字で、「蠶」=繭(蠒=まゆ)を被り隠る虫=甲隠(かひこ)は卑弥呼(秘巫女?)かも知れない。

をだけ=島根県能義郡伯太(はくた→はかた)町小竹(ヲダケ)、富山県高岡市小竹(ヲダケ)・御馬出(おんまだし)町・五十里(いかり)、同県氷見市小竹(ヲダケ)・五十谷(いかだに)・伊勢大町、石川県鹿島郡鹿島町小竹(ヲダケ)、茨城県鹿嶋市高天原、神奈川県小田原市小竹(ヲダケ)・国府津・矢作、千葉県佐倉市小竹(ヲダケ)・飯塚・鹿島干拓・馬渡等がある。
 島根県の鳥取県西伯郡名和町小竹(コダケ)、京都府京都市左京区松ケ崎小竹(コタケ)薮町、瀬戸内海を渡り、徳島県阿波郡市場町小竹(コタケ)へ、或いは、琵琶湖を北上して、新潟県三島郡出雲崎町小竹(コダケ)・住吉町、秋田県南秋田郡井川町小竹(コダケ)花、宮城県石巻市小竹(コダケ)浜・伊勢町、少し飛び、東京都練馬区小竹(コタケ)町・豊玉へ移動した。
 福井県武生(たけふ)市(現越前市)国府は、奈良時代から越前国府の所在地とあり、「ヲダケ=男武」と「コタケ=篠(風神級戸辺神)」か。

武雄市=奴国の中枢とした佐賀県武雄市若木町川古・御所付近の伏尺(ふし)神社伝承には、壱岐真根子と、その娘、豊子の婿内宿禰は、姿形がうり二つで、その身代わりに死んだとされる壱岐直真根子の遺体を壱岐に運ぼうとしたが重すぎて、そこに葬ったとある。
 その経緯は5世紀初頭、履中期創建の玄界灘に突き出る岬の福岡県宗像市鐘崎の織幡神社(壱岐真根子・内宿禰・綿津見三神)に詳しい。 また、博多湾沿岸部福岡県福岡市西区生(いき)松原には壱岐神社(祭神壱岐真根子)が在り、同区今宿付近に湊を持っていたと伝承される。

郡支=上古音に拠ると、「ギゥァヌケ→グァヌケ→ガヌケ→ガケ(崖・垣)」、 「記紀」スサノヲが妻を匿った八重垣(やへがき)や神籠(こうご)石等の垣・籬に繋がるのかも知れない。おそらく、女王卑彌呼没後、服属を嫌い福岡県遠賀郡岡垣町高倉や遠賀川東岸の企救郡(聞物部氏)、現在の福岡県北九州市付近仁移動したか。(5)彌奴国は福岡県宗像(むなかた)市付近、(6)好古都国は大分県中津市博多付近に移動したのか。

紀伊国=紀[kıəg][kıei][ki]・伊[・ıər][・ıi][i](木国)を「キェィァ→ケヤ」とすれば、糸島半島西北岸、糸島郡糸島町芥屋(けや)大門や可也(かや)山、長崎県西彼杵郡多良見町化屋等がある。*穴[ɦuət][ɦuet][hiet]
 尚、
鬼[kıuər][kıuəi][kıuəi]・奴[nag][no(ndo)][nu]=「キゥァ・ナッ→カナ/カノ・カヌド→クド」国とすれば、狗奴(かな→くぬど)国で、本来、同国だったか。竈(くど)神の奥津比賣(大戸比売神)とも関連が在るかも知れない。

角賀(つぬが)=角(つぬ→つづ→つる)とすれば、角賀(つぬが→つるが)=敦賀(鶴賀)ともなり、水流(つる)・都留・鶴等の地名が在る。
 仲哀天皇の父倭建命(日本武尊)が大鳥(おおとり→つる)となって飛んでいく事とも繋がり、福岡県田川市、同県山門郡(柳川市)三橋町、南九州の霧島連山付近には、白鳥神社(倭建命)鹿児島県薩摩郡薩摩町中津川
、白鳥神社(日本武尊)鹿児島県曽於郡有明町伊崎田等。
 他にも大阪府羽曳野市古市の白鳥神社(日本武尊・素盞嗚命・稻田姫命、合祀饒速日命・廣國押武金日命)、岐阜県郡上郡白鳥町、愛知県岡崎市大和町、香川県大川郡白鳥町、白鳥神社「日本武尊」富山県富山市寺町字向田や、白鳥神社「日本武尊」富山県婦負郡八尾町三田字道円、刈田嶺(かったみね)神社「日本武尊」の宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉仲町、刈田嶺神社「日本武尊(白鳥大明神)」同町宮字馬場等が在る。
 尚、角(かど→くま→すみ→つみ)とすれば、注⑥の竈(くど/かまど→くまど)神や、海神綿津見神や穂積(ほずみ→ほつみ)、沿岸航海の神、墨之江(すみのえ)=住吉神、山神とされる大山津見(おおやまつみ)神、河を遡った安曇(あずみ→あつみ)とも繋がる。*日吉(ひえ)=日枝

竹田=福井県坂井郡丸岡町竹田、長野県東筑摩郡山形村竹田、愛知県海部郡十四山村竹田、同県名古屋市瑞穂区竹田町、同県丹羽郡大口町竹田、兵庫県氷上郡市島町竹田、同県姫路市竹田町、同県三方郡温泉町竹田、奈良県橿原市竹田町、同県御所市竹田、同県磯城郡田原本町竹田・宮古・八尾(鏡作神社)、岡山県英田郡作東町竹田・豆田横田、同県岡山市竹田・楢津・山田・大和町、同県苫田郡鏡野町竹田・美作大野(女山)、広島県深安郡神辺町竹田・山田、香川県三豊郡豊中町笠田竹田、福岡県行橋市竹田、同県京都郡勝山町(御所・御所ヶ谷神籠石)、大分県竹田市竹田・玉来、同国東郡国見町竹田津・櫛海・櫛来、同県日田市竹田・有田豆田山田、宮崎県東諸県郡国富町竹田。


  1. 2017/04/03(月) 08:29:08|
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(3)伊邪国

(3)伊邪国

 伊[・ıər][・ıi][i]=尹(弾正台の長官・左右京職の長官の唐名)を補佐する人。
 邪[ŋiăg(yiă)][ziă][sie(ie)]=邪なる事(よこしま・悪い)=呪術等、漢方では陰陽のバランスが悪い事、傾(かし)ぐ。

 漢字音を併せると、ィアッヌギァッ→ィアヌギァ→ィアヌガ→ィアガ→ヤカで、福岡県福岡市南区屋形原、同県柳川市矢加部、同県甘木市屋形原、同県築上郡新吉富村矢方等がある。*屋形原(やかたばる)→伊邪羅原(やからばる)
 ただ、比定地の流れから、「記紀」成立期の中古音のイイジァ(イイチァ)→イイジ(イイタ)で、福岡県福岡市西区飯氏(いいじ)・四箇・金武・飯石神社(御食入沼命)
・女原(出雲大社分院)・飯盛(飯盛神社)、同市早良区飯倉(いいざぅ→いいくら)・有田、同市城南区飯倉付近に比定する。

 野方遺跡=弥生時代後期(福岡県福岡市西区野方)翡翠製勾玉・管玉・硝子玉・玉類等・(舶載)獣帯鏡・内行花文鏡・太刀
 吉武高木遺跡=弥生前期末~中期 (福岡市西区吉武高木)翡翠製勾玉・銅製腕輪・碧玉製管玉・水晶算盤玉・硝子製小玉・多紐細文鏡、重圏久不相見鏡・素環頭大刀・素環頭刀子・把頭飾銅剣・銅剣・鉄剣・銅戈・銅矛・鉄製武器他。
 
 「イシェ→イセ」とすれば、君(女王卑弥呼)の飲食を給仕や伝辞、その託宣を男弟(伊都国王)や官吏に伝える神祇官を排出、伊勢神宮内宮の天照皇祖神を養う外宮の豊受大神と関連する。
 伊都国は安寧と秩序を祈る祝禱を入れた器を護る城壁を構えるが、「邪」=陰陽のバランスの悪い伊邪国は邪馬壹国伊都国連合に服属、祭祀権を奪われ、一大率から卑狗(神祇官)や卑奴母離(武官)が派遣された。 
 「記紀」崇神天皇は娘の豊鍬入姫を伊勢神宮の斎宮(妻)とした後、天照大神の鎮座地を求め、御魂を倭姫命に移すと、男神天照大神→女神天照大御神(倭姫命)に性が変わり、陰陽のバランスが悪かったのか、豊耜入姫は髪の毛が抜けて祀られずとあり、皇孫の生母木花佐久夜比賣命の姉で醜い石長比賣と同様に石女(うまずめ)にされたのだろう。

 「記紀」景行天皇の御子兄大碓命(狗奴国王卑彌弓呼)は、邪馬壹国伊都国連合と対立、南下した後、姨倭姫命→弟小碓命→倭建命(景行)が北上し、五百木入彦命の娘八坂入比賣(壹與)を娶る→熊襲梟帥の娘、弟市鹿文(壹與)と内通し、兄市乾鹿文(臺與)を討伐する。
 「紀」日本武尊は蝦夷討伐の帰途、当芸野を経て、同県上野市(現甲賀市)上野市東側の能煩野(能褒野)で亡くなり、白鳥になって飛んでいったと伝承される。尚、三重県伊勢市西北、同県員弁郡北勢町飯倉(いぐら)が在る。
 地名「白鳥」は全国的に見られ、白鳥神社(日本武尊)は大阪府羽曳野市古市(御陵)、
香川県大川郡白鳥町松原・白鳥、福岡県田川市白鳥、同県山門郡(柳川市)三橋町、宮崎県えびの市末永(白鳥山)・白鳥と、岐阜県郡上郡白鳥町白鳥、神奈川県川崎市麻生区白鳥、宮城県桃生郡桃生町城内字白鳥下(倭建命)、同県白石市白鳥、同県刈田郡蔵王町宮馬場の刈田嶺(かったみね)神社(白鳥大明神)、富山県等にも見られる。

 「仲哀紀」伊覩県主祖五十迹手が船の舳と艫に五百枝賢木を立て、上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡(ますみのかがみ)、下枝に十握剣を掛け~、天皇は五十迹手をお褒めになり、伊蘇志と仰せられ、伊蘇国、伊覩は訛とした後、儺県に至り、橿日宮に居られる。
 旧来の行政区画「郡」の下部に属す県(あがた)の訓「懸け離れる」「遙かなり」を河川が吐き出す土砂が堆積し、海岸や浜辺が離れていく事とすれば、儺吐田(なのはかた→なのあかた)は王都から離れた鄙(ひな)で、県主=卑奴母離として良い。

弾正台=糺す司の意。律令制で京都内の非違を糺弾し、官人の綱紀粛正を司る役所。親王、及び左右大臣以下の朝臣の非違をも太政官を経ず、直ちに奏聞する権力を有した。尹・弼・忠・疏の四等官と巡察弾正とがある。9世紀初頭、検非違使の設置後は形骸化した。
 白川静編「字統」の「尹」=神丈を持つ聖職者と在り、これに祝詞や祝禱を入れる器(口)を加えた「君(巫女)」を口寄せする巫子(いちこ)とすれば、「伊」=女王卑彌呼を補佐する伊都国王(男弟)、或いは、飲食を給し、伝辞する伊邪国の人として良い。

イイダ=飯田は福岡県大牟田市飯田町、同県久留米市善導寺町飯田、同県嘉穂郡碓井町飯田、佐賀県鳥栖市飯田町、同県鹿島市飯田。また、地名「飯盛」や飯盛山が大村湾岸部山手に点々と続き、旧く松浦水軍等の勢力の拡がりに拠るのかも知れない。
 また、「飯倉」は、茨城県稲敷郡阿見町飯倉(イイグラ)、群馬県佐波郡玉村町飯倉(イイグラ)、埼玉県児玉郡児玉町飯倉(イイグラ)、千葉県八日市場市飯倉(イイグラ)以外は見えない。もしかしたら、茨城県鹿嶋市宮中にある元官幣大社の鹿島神宮(武甕槌神、経津主神、天児屋根命を配祀)、古来、軍神として武人の尊信が厚い常陸国一の宮と関係が在るのかも知れない。


飯氏(いいじ)=5世紀の兜塚(かぶとづか)古墳(福岡市西区飯氏マツヲ)硝子製玉類(首飾り)・馬具・鎧・鉄刀(前方後円墳全長54m)。
6世紀初~前半、飯氏二塚(いいじふたつか)古墳 硝子製玉類(首飾り)・辻金具・雲珠等の馬具(前方後円墳全長48m)。

飯石神社=島根県飯石郡三刀屋町大字多久和の飯石(いいし)神社(伊毘志都幣命)。出雲国風土記に飯石社、延喜式に飯石神社とみえる式内社で、「出雲国風土記」飯石郡条、飯石と号くる所以は、飯石郷の中に伊毘志都幣命坐せり。故飯石と云ふ。また、郡家の正東一十二里なり。
 
伊毘志都幣命天降り坐しし処なり。故、伊毘志と云ふ(神亀三年に字を飯石と改む)とあり、伊毘志都幣命の天降りましたと伝える磐座が御神体とされるので、本殿はなく、幣殿、通殿、拝殿を配している。即ち磐境、磐座という自然信仰の形態のままで現在に伝え、この地を命の降臨の聖地として、古来、注連縄を用いないのも特殊の習慣である。
 出雲(伊都母)国造家の祖神にあたる御祭神の伊毘志都幣命は天照大神の第二御子天穂日命の御子で、天夷鳥命、武夷鳥命とも云い、出雲国譲に際して三穂之崎に事代主神を尋ね、国土奉還の大業を成就された神とされる。その時に使用された船を熊野諸手船という。尚、別名は、伊都之尾羽張神→天之尾羽張神の子、建御雷之男命→天之御雷神等、冠称が変わる事と同変化と考える。

石女(うまずめ)=太陽神天照大神に斎き祀る巫女(妻)を天照御祖神(日光の化身=女王卑彌呼の鏡)として祀った。「日本書紀」是月天皇聞美濃国造名神骨之女兄名兄遠子弟名弟遠子並有国色則遣大碓命使察其婦女之容姿時大碓命便密通而不復命由是恨大碓命
 「崇神六年」百姓流離或有背叛其勢難以徳治之是以晨興夕惕請罪神祇先是天照大神倭大国魂二神並祭於天皇大殿之内然畏其神勢共住不安故以天照大神託豊鍬入姫命祭於倭笠縫邑仍立磯堅城神籬神籬此云比莽呂岐亦以日本大国魂神託渟名城入姫命令祭然渟名城入姫命髪落体痩而不能祭とあり、これも女神の倭国魂神が男神の日本国魂神に転生したからかも知れない
 九州管内には佐賀県佐賀市伊勢町、長崎県長崎市伊勢町、熊本県上益城郡山都町伊勢、宮崎県日向市伊勢ヶ浜等。伊勢(いせ→いし=石)=イシュァィ→イセ/イァスィァッ→イァサ→ヤセ、勢・世[thiad][ʃıəi][ʃıəi]

当芸野(たぎの)=次項の(4)都支(たぎ)国(建=剣→刀)と関係があるのかもしれない。ここ迄の流れから伊邪国の東側と思われる。「記」小碓命の蝦夷討伐に於いて、当芸野の辺りにやって来た時、私の心は、いつも空を飛翔したいと願っていた。しかし、今は、私の足は歩くこともできず当芸当芸斯玖なってしまった(足が行かない山田案山子?)と言った。その地を名付けて当芸(たぎ)野と言う。
 その地より少しだけ進んだが、とても疲れたので杖をついて緩りと歩いた。その地を名付けて杖衝坂と言う。尾津前の一本松の所へやって来ると、以前に食事をした時、その地に忘れていた御刀(みはかし→みたち)が、無くならずに未だあった。

儺県=AD200~300年頃、温暖化に因る海進で博多湾は奥に入り込み、福岡県福岡市東区名島の多々良川河口奥に橿日宮が鎮座、同市博多区那珂や同県糟屋郡新宮町、同郡粕屋町大隈等、那珂川流域の河口付近一帯の儺県を拠点として宗女臺與を蝦夷として追い払う。通説的に儺や名島は奴(な)国の「ナ」とされるが、私説は奴国の領域としないので、狗奴(かな→くど)国の北上に因る領域の変化で儺県とされたと考える。
 以下、弥生期の博多湾岸線=「まぼろしの邪馬臺国(宮崎康平著)」所載の図。
博多湾2  


  1. 2017/03/24(金) 08:37:00|
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◇葬送

 女王卑弥呼の墓が出てきたら、そこが邪馬台国と云う研究者も多いが、「魏志倭人伝」以下の記述から狗奴国との戦いが緊張感が伝わり、女王卑彌呼が、その最中に亡くなったとすれば、当初からの所在地や、卑彌呼の宮殿近くに葬られたと云う確証はないので、残念ながら、それも怪しいと云わざるを得ない。ただ、墓が発掘される事で、今迄とは違った議論や論考がなされればと思う。

  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡~(中略)。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。殉葬者奴婢百餘人。

 
仮に邪馬壹国の関係者には、海民を伴い南西諸島を経て渡来した揚子江付近の水耕稲作民と大陸北部から朝鮮半島を経て渡来した人々が混在するとして、棺内に骨が残っており、近縁のDNAを持つ骨が出るか、彼女のDNAが分かっていれば良いが、それも儘ならない。
 邪馬壹国女王卑弥呼とでも記された墓誌が出土し、墓と確定しても、上記の理由で、そこが邪馬壹国女王卑彌呼の宮殿が所在したと確定する事は避けなければならない。

 私見では、通説的な伊都国の比定地の福岡県糸島市有田の平原遺跡一号墓、周囲(18×14)に溝を回らせた長辺4.5mの墓坑中に長さ3mの割竹形木棺を検出。棺内の頭部と右腕の付近で硝子勾玉・管玉・小玉、瑪瑙管玉・小玉、琥珀管玉・丸玉が多量に出土。棺外の頭側に中国製素環頭大刀、墓坑の四隅には埋葬時に破砕された鏡が39面も出土(34面が中国鏡、5面が日本の彷製鏡)。

 遺体を安置する棺の外、頭側に置かれた大刀は被葬者の霊魂の蘇りを阻止するための呪詛で、また、墓坑の四隅から詰まり、棺外から粉砕された鏡39面が発掘されたとあり、もし自然死だったとすれば、こうした葬送の仕方は有り得ないと思う。
 おそらく、王や巫覡等、その持ちものを壊して被葬者の強い霊力を封じ込めるための呪詛と考えられる。その被葬者は女性とされるので、もしも骨が残っているならば、現在の技術でDNAを鑑定して欲しいものだ。
 「倭人伝」祭祀を司る邪馬壹国の女王卑彌呼には強い霊力があったはずだが、狗奴国の北上に抗しきれず、殺されたのかも知れない。何れにしても逃れてきた女王卑彌呼と、その関係者が葬られたのだろうが、国の政を佐けたとされる男弟、詰まり、伊都国王は被葬者ではない。 
 尚、5号墓も1号墓と略同様の方形周溝墓だが、一回り小さい。こちらが伊都国王墓かとも考えたが、両墳の年代差は正確には判らないので、定かではないが、狗奴国に靡いた女王卑彌呼の宗女「壹與」の墓かも知れない。その周溝部から甕棺が出土したと在る。

 枚数の39面は3の倍数(3×13)で、これも何かの呪詛だろうが、朝昼夜、潮汐(干潮=ひると満潮=みつ)等、日々の繰り返しと関連が在り、最高数「九」とすれば、被葬者の霊力や人生の終焉を意味するのかも知れません。

 狗奴国の攻勢に追われて、東千里の海民を頼り、遠賀川沿岸部へ移動した邪馬壹国伊都国連合の人々は石見や出雲と繋がる。後代、「記紀」の云う出雲国譲に関係があり、平原遺跡の四隅を丸くした方墳は、出雲付近の四隅突出型方墳と何らかの繋がりがあると思う。ただ、四方の丸い平原遺跡と四隅の突出した出雲では何らかの違いが在るとして良い。

 狗奴国の北上に伴い邪馬壹国と伊都国が、已百支国の比定地、福岡県前原市(糸島市)多久有田の東側、高祖王丸(おうまる)から福岡県福岡市早良区有田、遠賀川河岸「御牧郡」北側、福岡県宗像市田久・田熊・王丸・武丸(たけまる)、島根県平田市多久町、同県益田市有田町へと移動した。尚、宗像(武ノ像)は、神武や武烈、天武・文武・聖武・桓武等、通字「武」を持つ天皇に関係があると考える。

3の倍数=中国製の鏡34面を魏王から授けられた100枚の一部として、残りの66面は、宗女壹與(平原遺跡五号墓内?)が譲り受けたのか。或いは、宗女臺與が持って逃げたのか。また、五号墓の周溝部から甕棺が発掘されたとあるので、百人が殉葬されたと云う事と関係するか。

四隅突出型古墳=弥生時代の山陰地方の墳丘墓の大きな特色として「四隅突出型墳丘墓」がある。墳丘の表面に化粧石を貼り、墳丘の四隅を突き出させる独特な形をしている。山陰地方を中心とした日本海沿岸に分布し、北陸地方にも石を貼らない形式の四隅突出型があり、それらを含めると約100基を確認。島根県(宍道湖南岸の出雲市・11基、松江市・7基、安来市・9基等)、鳥取県(淀江町福岡・17基)、広島県(三次市・16基)、岡山県(鏡野町竹田・竹田8号)、兵庫県(加西市網引町等、2件)、福井県(丹生郡清水町等、3件)、石川県(松任市一塚町・一塚21号)、富山県(婦負郡婦中町・六基他)、福島県(耶麻郡塩川町・舘ノ内1号周溝墓)が在る。
 天石門別(天磐門別)神社も幾つか祀られる中国山地には、出雲神社・清水寺・蓮花寺の三つを伴う地域が二ヶ所あり、京都府亀岡市千歳町千歳の出雲大神宮に向かったか、ここから出雲へと人々の移動があったのか、出雲国譲に関係が在るのかも知れない。更には長野県や福島県へと逃げ延びた人々も居るのかも知れない。
 もう一つ、鳥取県・福井県・石川県・富山県系統は、広島と島根県境、伊邪那美の墓と伝承される比婆山東麓付近から北上、日本海側へ出た。未だ、その詳細な経路は分からないが、越前から招かれたと云う継体天皇との関係が考えられる。

已百支国(タパケ→タァケ)=(4)都支国を建・武(タケ)国としたが、剣の国が「建(たけ→たち)」と「武(ほこ)」系統に分裂する事と関係が在るのかも知れない。それは「記」速須佐之男命が天照大御神に献上するとしたヤマタノヲロチの尾から出てきた草薙剣と、誓約に於いて天照大御神の物実とした十握剣(羽羽斬剣)は別のもので、十握剣から生まれた三女神が建速須佐之男命の御子とされる。
 他にも、広島県甲奴郡甲奴町有田、同県山県郡千代田町有田、岡山県笠岡市有田、和歌山県西牟婁郡串本町有田・出雲、同県有田郡吉備町長田、同県伊都郡高野町・同郡カツラギ町志賀。 



  1. 2017/03/21(火) 21:36:22|
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◇御真木入日子印邇恵

 「記」崇神天皇が尾張連祖意富阿麻比賣を娶り生んだ御子は、大入杵命、八坂之入日子命、沼名木之入日賣命、十市之入日賣命の四柱。景行天皇が、その八坂之入日子命の娘八坂入比賣を娶り、生んだ五百木入日子(五百城入彦)命と五百木入日賣(五百城入姫)命は「已百支国」に関係すると云う説もあり、漢和大字典に拠ると、両者の漢字音は以下になる。

 已[diəg][yiei][i] / 五[ŋag][ŋo][u](「字統」×字で蓋をする)
 百[păk][pʌk][pai(po)]
 支[kieg][tʃıĕ][tsï] / 木[muk][muk(mbuk)][mu]

 「魏志東夷伝」成立期の上古音を併せると、已百支「デァッ・パッ・キェ→タパケ(タマケ)→タァケ」、一方、「記紀」成立期の中古音を訓に拠る仮名を交えずに併せると、五百木「ヌゴ・パッ・ムッ→ッゴパム→ゴハン」になる。
 地名「ゴハン」は見あたらないが、音から末盧国の比定地東側の佐賀県唐津市浜玉町五反(ゴハン→ゴソル→ゴツォヌ→ゴタン)田とすれば、已百支国に比定した福岡県前原市(糸島市)多久・五反田(宮地岳)・牧(まき)、同県福津市津屋崎町五反田(宮地嶽神社)、長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷等がある。
 また、訓に拠る仮名を交えると、五百木「イッパッキ→イハキ(岩木・岩城)→イマキ(今来)」ともなり、狗奴国に寝返った已百支→五百木国は、今来(ぃまき→っまき)と訓みが変化し、後代、「真木」にされる。その
五百木入日子命の在地は、(1)斯馬国の比定地とした福岡県糸島郡二丈町佐波の東南、佐賀県鳥栖市真木町轟木・麓(ふもと)(對蘇国?)か、熊本県阿蘇郡大津町真木とする。

 福岡県宗像市田久の東南、遠賀川沿岸の同県遠賀郡水巻町や同県中間市付近の古地名「御牧(みまき)郡」は、崇神天皇の和風諡号の御真木入日子印恵命「紀」御間城入彦五十瓊殖尊に関連を説く研究者も居る。
 「御牧郡」の東北、福岡県北九州市若松区の洞海湾岸今光(イハミ津→イバミ津→イマミ津)の背後に聳える水源の石峰山(光明山)は、日本海沿岸部の旧国名「石見(いはみ)」の象徴で、後代、その領域から外れたため、石水(いはみ・の)山→石水(いしみ・ぬ)山→石峰(いしみね)山に転音したと考える。

 女王卑彌呼の死後、邪馬壹国伊都国連合の一部が千余里東側の倭人系海民(宗像)を頼って東遷、伊都母(出水→出雲)と称したのか、出雲国譲で、剣神伊都之尾羽張(天之尾羽張)神の御子、天之(あめの)系統に靡いた御雷神に敗れた御名方神が東国の科野(しなの)に逃げ込んだのと同様、「山幸海幸説話」妹玉依姫(乳母→妻)と葺不合(兄海幸彦)が併合し、父系の弟山幸彦を東国方面へ追い払う。

 「斯馬国」項で同地名とした山口県佐波郡徳地町鯖・八坂、同県防府市佐波町・仁井礼町西北側、同県長門市真木、同県美祢郡秋芳町真木、同県美祢市大嶺町真木へ領域を広げた初国知らすとされた崇神天皇の領域と考えられる。
 他にも島根県飯石郡赤来町真木、福井県福井市真木町、同県丹生郡朝日町真木、富山県東礪波郡上平村真木、新潟県糸魚川市真木、同県両津市真木、同県白根市真木(まぎ)新田、同県西蒲原郡分水町真木山(まぎやま)、同郡中之口村真木、山梨県大月市大月町真木、茨城県筑波郡谷和原村真木(まぎ)、千葉県八千代市真木野、岩手県下閉伊郡田野畑村真木沢、秋田県北秋田郡阿仁町真木沢がある。

 中大兄皇子(天智)が百済(くだら)救援のため斉明天皇と筑紫に下向後、新羅に大敗する。天皇の崩御後、大津宮に遷都した中大兄皇子は、福岡県の太宰府付近から熊本県菊池郡大津(おおづ)町真木(真城)・御所原・古城付近へ南下(くだ)ったと考える。

八坂入媛命=第一曰稚足彦(成務)天皇、第二曰五百城入彦皇子、第三曰忍之別皇子、第四曰稚倭根子皇子、第五曰大酢別皇子、第六曰渟熨斗皇女、第七曰渟名城皇女、第八曰五百城入姫皇女、第九曰麛依(かごより)姫皇女、第十曰五十狭城入彦皇子、第十一曰吉備兄彦皇子、第十二曰高城入姫皇女、第十三曰弟姫皇女。
 又妃三尾氏磐城別之妹水歯郎媛生五百野皇女。次妃五十河媛生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子是讃岐国造之始祖也、稲背入彦皇子是播磨別之始祖也。次妃阿倍氏木事之女高田媛生武国凝別皇子是伊予国御村別之始祖也。次妃日向髪長大田根生日向襲津彦皇子是阿牟君之始祖也。次妃襲武媛生国乳別皇子与国背別皇子一云宮道別皇子、豊戸別皇子、其国乳別皇子是水沼別之始祖也、豊戸別皇子是火国別之始祖也。夫天皇之男女前後并八十子然除日本武尊稚足彦天皇、五百城入彦皇子外七十余子皆封国郡各如其国、故当今時謂諸国之別者即其別王之苗裔焉

「デァッ・パッ・キェ→タパケ(タマケ)→タハケ→タァケ」=戯(たはけ)、謀(たばけ)。岳(たき)=断崖、断崖の多い山。滝=旧くは「タギ(滾る)」、河の瀬や、急な傾斜の所を勢いよく流れる水、激流、奔流、断崖から流れ落ちる水(瀑布)。沖縄では拝所のある山を御岳(うたき)と云う。*
滝に出現すると伝わる童形の怪物を岳童(たきわろふ)

五反田=反=段とも、距離の単位。6尺を1間(けん)、6間=1段。土地の面積、1段(反)は300歩(坪)で、約991.7㎡。太閤検地以前は360歩。布帛の大きさの単位・「端」。成人一人前の衣料に相当する分量。1反は、普通、布では並幅で鯨尺2丈6尺、または、2丈8尺とされる。官狗古智卑狗(山幸彦)か、継子の男王卑彌弓呼(葺不合)と宗女壹與(玉依姫)を合わせた夫「(二=伎・岐)」+乳母(三=美)=五と関係するか。
 三重県松阪市五反田町、同県桑名市五反田、滋賀県甲賀郡甲賀町五反田、京都府京都市右京区山ノ内五反田町、同府京都市右京区龍安寺五反田町、同市伏見区深草五反田町・同区向島五反田、同市西京区樫原五反田、同府八幡市八幡五反田、鳥取県鳥取市五反田町、 愛媛県八幡浜市五反田、長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷等が在る。*伍伴(ごはん)=仲間・連れ

今来(いまき→いばき→いはき)=岩木は、男系卑彌弓呼(葺不合命+玉依姫→五百木入日賣命)、山幸彦(五百木入日子命)、今見(いまみ)=石見は、女系の卑彌呼と云う関係に比定されると考える。
 もしかしたら、狗奴国王卑彌弓呼との戦いに敗れて、亡くなった邪馬壹国女王卑彌呼の宗女とされる臺與(豊玉姫、壹與=玉依姫?)の東遷後、石水→石見→今見と称されたのかも知れない。*伊吹(いふき)→五百木(いほき)→岩城(いはき)

轟木(とどろき)=傍国(9)對蘇(ツィス→トス)国に比定した。「記」土佐国(建依別)と在り、建速須佐之男命の建(たけ)国=都支国に憑依され、服従させられたのか、同音の地名「トサ」は福岡県内には見あたらない。
 尚、福岡県糸島郡二丈町佐波の西側、同郡志摩町道目木(どうめき)の南側、同県前原市雷山(雷山神籠石)、同県直方市道目木の南側に同県嘉穂郡(飯塚市)頴田町鹿毛馬(鹿毛馬神籠石)、同県朝倉市杷木町道目木の南側(杷木神籠石)、東日本にも百目鬼・百目木・道目木等が在る。
また、「日本の名著」日本書紀所載の地図「紀」景行天皇が熊襲討伐経路の伝承地に循い「轟(木)=紫点」が転々と残る。*緑点=麓
麓と轟 
今光(いまみつ)=西側の若松区用勺(ようじゃく)は石見津(いはみつ)の庸津役(ようつやく)で、これと同系の地名には福岡県北九州市八幡西区町上津役(まちこうじゃく)、上上津役・下上津役、これは古遠賀湾か、金山川の「津役」で、湾域の縮小に伴う遠賀川の流域の変化に因り、その役目を終える。他にも彌奴国の比定地とした福岡県春日市白水の西北、同県筑紫郡那珂川町今光・中原がある。
 尚、「光明」とは日光であり、水神でもある。聖武(首皇子)天皇皇后、藤原不比等の娘、光明子も水神と考えられる。東大寺二月堂のお水取りでは、大松明の火の粉を浴びると、一年、無病息災とされる。その大松明(首皇子)を鎮火する水神(光明子)は、春日神社「比賣神」の御神体で、裏手にある水源と考えられる。尚、火之神迦具土神の首(こうべ→くび)から大雷(おほいかづち)が生るとある。*烏賊津(いかつ)臣

剣神=建[kiān][kıʌn][kien]・剣[klıăn][kıʌn][kiem]、「記紀」成立期の中古音が同音である事を考え併せると、剣神の伊都之尾羽張が分裂した後、天之(あめの)=建御雷神が出雲の事代主神と繋がり、服従しない建御名方神を科野へ追い遣ったと考えられる。

東国方面=海民が二つに分裂する事を「山(と陰陽が揃った→間)」と呼んだ。邪馬壹(かまぃえ/がばぃえ/やまぃえ)国伊都国連合の宗女臺與(とよ=豊)は東千余里の福岡県宗像市付近の海民を頼り、福岡県京都郡(現みやこ町)豊津町や響灘沿岸部の山口県豊浦郡(下関市)豊浦町・豊田町、更には日本海沿岸部の島根県石見や出雲市へと逃げた。一方、狗奴国は宗女壹與(いよ)と繋がり、邪馬臺国と称す。
 後代、筑紫君磐井(竺紫君石井)乱等の情勢変化からか、狗奴国王系統(中兄大兄皇子)は壹與(妹→弟)系統を残して東征、先行の宗女臺與系統(皇極天皇)
と蘇我蝦夷と入鹿親子を倒し、政権を握る(乙巳の変)。

大津宮=女王(臺與)と男弟の「邪馬壹国」と、男王と巫女(壹與)の狗奴国→邪馬臺国に分裂し、熊本県菊池市付近の鞠智城南、同県阿蘇郡大津(おおづ)町から大分県大分市大津、高知県土佐清水市の大津、同県高知市大津、徳島県鳴門市大津、大阪府泉大津、滋賀県大津市へと移動した。これとは別に邪馬壹国系が移動したのか、山口県大津郡(長門市)日置町、島根県出雲市大津、石川県羽咋郡志賀町大津(おおづ)、同県鹿島郡田鶴浜町大津、新潟県刈羽郡西山町大津、同県岩船郡荒川町大津、青森県三沢市大津がある。
 もう一つ、山梨県甲府市大津町、群馬県吾妻郡長野原町大津、神奈川県横須賀市大津町、茨城県北茨城市大津町、千葉県長生郡長柄町大津倉、千葉県安房郡富浦町大津が在り、日本武尊(倭建命)の東征に関係するのかも知れない。


  1. 2017/03/15(水) 22:10:03|
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