見まごう邪馬台国

◇奴国

 「東夷伝倭人条」自女王國以北其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有、次有好古都國、次有不呼國、次有、次有對蘇國、次有、次有呼邑國、次有、次有鬼國、次有爲吾國、次有、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有、次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國男子爲王。其官有狗古智卑狗不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。男子無大小皆黥面文身。自古以來其使詣中國皆自稱大夫

 上記、「奴國」と邪馬壹国迄の道程に見える奴国が、同国か、その飛び地か、別国なのか、陳寿は何も示唆しないが、「東夷伝韓条」馬韓や辰韓と弁韓にも同国名の重複があり、魏志一行が向かわなかった「奴国」を邪馬壹国への道程でも記述し、再度、傍国の最後に記載する事には、何らかの意図があり、陳寿の筆法として間違いない。
 況んや狗奴国か、女王国東渡海千餘里の倭人を含めないと、30国にはならず、狗奴国を含む倭地、女王国への道程の国々や、余の傍国を含まない邪馬壹国、女王国領域で倭地を含まない倭人系海民の領海(瀚海)として書き分ける。

 傍国は斯馬国を起点に東へ拡がり、不呼国を境に西南へ向かう。要所の奴国で交差、西北方面と西南方面に分かれる。(12)華奴蘇奴国から西側へ奴国の中枢(佐賀県武雄市内)を経て(20)烏奴国、そこから佐賀県伊万里市方面へ北上すると、(19)支惟国に至る。一方、そのまま西南方面に向かえば、投馬国連合の領域に至る(前項の配置図参照)。

 委奴国が邪馬壹国伊都国連合へ交替した理由を、殷王朝の最後王紂の叔父胥余(しょよ)が建国した箕子朝鮮が、周の武王が召公奭を封じたと云う燕の国人衛満に滅ぼされたため、逃れて渡来した人々を委奴国の王族関係者に、漢の武帝に滅ぼされた衛氏朝鮮の王族関係者も渡来したためとする。

 例えば、現代韓国語の成立を、殷王朝系の箕子の関係者に拠る北方系漢語や衛氏関係者に拠る騎馬民族系言語と、大陸東岸を北上した沿岸航海民系や南西諸島を伝い渡来した夏后少康に近い海民の言語等の混合して、「倭人条」冒頭の「舊百餘國漢時有朝見者、今使譯所通三十國」を、文脈から解すると、旧来の委奴国連合の宗主国奴国と同系の狗奴国も使訳を通じる必要はないと思われる。詰まり、使訳を務めた大夫は、「魏」の用いた言語を解した倭人系の航海民とせざるをえない。

 朝鮮半島情勢の悪化に拠り、倭人系海民(綿津見)が航海民の住吉系と河川民の阿曇系に別れたため、倭国の争乱となる。その阿曇系木国(紀伊国)に繋がると思しき、以下の地名が何れも河川沿岸部に見える。

 福岡県大牟田市教楽来(きうらぎ→きょうらぎ)・松浦町
  同県北九州市八幡西区京良城
  同県三井郡北野町高良(こうら)
  同県久留米市高良内町
 佐賀県唐津市七山村木浦(こうら→きうら)・博多
  同県東松浦郡厳木(きうらぎ→きゅうらぎ)町
  同県伊万里市松浦町久良木(きうらぎ→くらき)
 長崎県北松浦郡世知原町木浦原免
  同県西彼杵郡大瀬戸町雪浦久良木郷
  同県天草郡松島町教良木
 大分県佐伯市宇目町木浦内
 愛媛県越智郡伯方町木浦
 新潟県西頸城郡町能生町木浦
 島根県八束郡鹿島町古浦(こうら)

 佐賀県多久市(伊都国)との境、女山峠西麓、委奴国連合宗主国の奴国中枢、同県武雄市若木町川古・御所の南側に(13)鬼国を配置し、奴国の出城(15)鬼奴国との連繋を絶ち、投馬国連合や狗奴国の動向を監視する役目として一大率の武官を派遣したのか、長崎県東彼杵郡波佐見町鬼木郷(おにぎ)=鬼城?との境、佐賀県武雄市板屋、同県藤津郡嬉野町一位原・築城が見える。

自女王國以北~=(倭人系海民の領海を含まない)女王国領内、北から道程、末盧国から不彌国迄の戸数と道里は略載できるが、余の傍国は遠く途絶えており、(道程に含まれないので訪れておらず)詳らかにできない。(女王国への道程最北、末盧国の)次に斯馬国有り~云々、次に奴国有り、これ女王の治める境界が尽きる所。その南狗奴國あり、男子を王と為す。その官、狗古智卑狗あり、女王国には属さない。郡より女王國に至る萬二千餘里。その男子、大小となく、皆黥面文身す。古より以來、その使いが中国に詣でると、皆、大夫を自称す。

30国=「倭人条」の冒頭、旧百餘國、漢時、朝見者有り、今、使訳を通じて朝見する国が三十国とすれば、狗邪韓国・対海国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬壹国に傍国最後の奴国を含めた21ヶ国を足すと、30ヶ国だが、同国とすれば、狗奴国を含めなければ、29となり、足りない。また、旧百余国から邪馬壹国伊都国連合の三十国を除く70余国の全てが狗奴国の構成国として分裂したのかは判らない。

西北方面と南西方面=傍国は奴国起点に東西方向にアラビア数字「8」を横向きか、無限大(∞)の形状に列んでおり、自女王國以北其戸數道里可得略載~=女王国より、以て北側、その戸数、道里を略載できる~として、初め、倭人の領域を帶方郡の東南方面とした後、半島沿岸部を南下し、東行して到着した狗邪韓国で、その北岸として、邪馬壹国と伊都国連合国の領域を南側に限定した理由の一つで、中でも南側への道里上に位置する国々は、戸数や道里等を略載できるが、その東西に拡がる余の傍国には訪問していないので、それを省くと云うニュアンスになる。

胥余=殷の貴族「箕子」。伝説では、叔父胥余(しょよ)は、甥とされる殷王朝の紂王の暴虐を諫めたが用いられず、殷が滅ぶと朝鮮に入り、箕子朝鮮の王として人民教化に尽くし、技術や思想・言語等も伝え、文化的な整備したと云われる。

文脈=旧百余国中、漢王朝時、(使訳を用いず)朝見する者(大夫)があった。今、使訳を用いて朝貢する三十国となる。詰まり、年を歴た争乱後、男王を頂く、旧来の委奴国(海民の投馬国連合を含む)連合から選ばれた女王卑弥呼を共立して収めたのか、政を助ける男弟との間には、卑彌呼の食事を供したり、伝辞を務める男子が居り、詔を伝える役目を務めたとすれば、用いる言語が変わったと推測される。そうした変化を嫌い、狗奴国は独立した。

言語=当時、中国全土で、全く同じ言語が用いられていたとは考えられず、南中国や東南アジアに住んだ海民を外洋航海や沿岸航海に拠る旅客や、物資を諸外国に運び交易するのが生業とすれば、諸国の言語を解するバイリンガルであった可能性は高い。
 昔夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人亦文身、以厭水害也。とあり、浙江省の会稽山付近に封ぜられたと伝承される。おそらく、夏后少康=夏王朝の王子の関係者で呉人に近い海民や、不老不死の妙薬を求めて渡来した徐福等、中国大陸東南岸の言語を齎したと考えられる。

御所=委奴国連合の王が坐したのか。為吾(はぎ/をぎ)国の比定地とした長崎県佐世保市萩坂町と早岐の瀬戸を挟んだ西側、同市針尾島の江上町も御所・名倉があり、投馬国の官彌彌、或いは、副官彌彌那利が坐したとも考えられる。福岡県京都郡勝山町(みやこ町)御所ヶ谷・高屋、同県福岡市中央区御所ケ谷、熊本県上益城郡矢部町御所・市原・一の瀬・大野、同県天草郡(天草市)御所浦町。

嬉野町一位原=佐賀県伊万里市と同県鹿島市(丹生神社)への分岐点にあり、伊万里焼の一種、嬉野焼の窯元がある。当時、塩田川を利用した。尚、丹生神社の見える紀伊半島の三重県一志郡嬉野町一志(いちし)、同郡一志町、同県伊勢市一志町、同県伊都郡カツラギ町御所(ごせ)・教良寺(きょうらじ)・萩原、同郡高野口町大野・九重・名倉(なぐら)、同郡高野町筒賀(丹生神社)、同郡花園村(有田川)がある。*教良寺→木浦路
 突出した荒磯(あらいそ)とは対照的に湾曲した入江の奥にある浦磯(うらいそ)と云う関係からすると、河浦(こうら)→木浦(きうら)の転音で、湾曲した河川内側の泥濘地が治水等で水が抜けた浦州野(うらすの→うれしの)、教楽来(きょうらぎ→きうらぎ)は、泥濘地の水を抜くために通した人口の河川か。    


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  1. 2017/07/23(日) 17:20:43|
  2. 7.傍国考
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◇地形と傍国の配置

 傍国の記述法で要(かなめ)とした奴国の手前に位置すると思しき、(12)華奴蘇奴国迄、比定地を述べてきたところで、以下、手持ちのゼンリン道路地図で或る縮尺に合わせると表れる地形図と主要道路の状態を用いて作った傍国の配置図を掲示しておく。

傍国図 

 上記、配置図の道路、(1)斯馬国と(6)好古都国間、(11)呼邑国と不彌国と(12)華奴蘇奴国間、有明海沿岸や大村湾岸の道路、(9)對蘇国と邪馬壹国間の筑後川を渡る道路、(17)躬臣国と(19)支惟国間等、山間部の道路、角力灘(すもうなだ)沿岸道路等、地形的な状況からも、全てが当時から在ったとはいえないが、古来、人々は、往来と荷役に便利な幹線道路沿線、海岸や河岸等に群れて住み、集落や村邑、部族国家を営んだ。古くから使われたとして疑いない。但し、そうした耕作民や海民と河民以外、山間や傍国以外の地域に人が居なかったのではないと思う。

 また、佐賀県伊万里市から長崎県佐世保市に架けて道路が見えない理由は海岸際迄、山が迫っていたと云う地形だけでなく、倭寇と呼ばれた海賊がいたとされる事、松浦水軍の拠点だった事を考慮すると、沿岸航路が発達していたためと推測される。
 九州管内では当地にだけに見える「~免(めん)」と云う地名が、そうした違いを示唆する。未だ、「メン」の意味は分からないが、投馬国の領域であろう鬼奴国以南から島原半島に架けては、「~名(ミゥ→ミョウ/ミィ→メィ)」と云う地名が見える。
 投馬国への水行二十日は狗邪韓国から松浦半島西部の伊万里付近への十日と、そこから九州北岸を西へ航海し、長崎県北松浦郡田平町を廻り、同県佐世保市の①早岐瀬戸を通り、大村湾を南下する十日になる。その中継地は点々とある地名「~里」だろう。

 また、配置図に拠ると、「奴国」が女王の境界が尽きる所、その最南端に位置するとし、その南には、素より和せずと云う狗奴国が在ると云う陳寿の記述と符合しないのではないか。と云う疑問が思い浮かぶ。
 ただ、これも「国々の比定」項で述べた様に、旧委奴国連合中枢の奴国(二万戸)の出先津として邪馬壹国への道程で記載されるの華奴蘇奴国と、鬼奴国を出城とすれば、その疑問も解消する。
 また、投馬国も、その官名から邪馬壹国伊都国連合に道程の国々との違いが見て取れるので、これも独立した海民の連合国家で、邪馬壹国伊都国連合とは緩やかな②連繋を保った女王國(五万戸)として狗奴国と対立していたと考える。
 では、奴国はどうか、図に拠ると、北側と西側の海岸線と、東側の境界にも「~奴」とされる国々が配置されず、道程で記述された国々が、委奴国連合国間に楔の如く配置されて、その連繋を、警戒し、断ち切る目的で配置される。
 この様に考えると、(4)都支(たけ)国を「記紀」に記載される剣や矛を持つ武人の冠称「建」「武」と同音とした様に、(5)彌奴国と(8)姐奴国を警戒し、抑え込み、對蘇国は蘇奴国に対して配置され、不彌国が華奴蘇奴国の動向を見張り、華奴蘇奴国と鬼奴国との間に③鬼国を挟み連繋を拒いだと考える。

 「国々の比定」項で、奴国中枢を佐賀県杵島郡北方町馬神の南西側、同県武雄市御所・楢崎・多々良・馬渡付近の杵島山麓一帯とした事と関連し、同市橘町大日付近の犬山岳西側中腹に、その武雄市を見下ろす様に、おつぼ山神籠石が在り、委奴国連合の一員と思しき「鬼奴国」には伊都国配下の都支国から一大率の官や副官等の役人と共に、最南端へ送られた人々が、後の防人(さきもり)如く征夷大将軍に統率され、狗奴国に対する防御的な抑えである共に、機動力を持つ投馬国の動向を警戒する役目をも担ったと考える。

①早岐(はいき)瀬戸=満ち潮に乗って進み、引き潮で抜ける。西側の佐世保市針尾(はりを→はじを)島には御所・伊勢川・名倉、宮田・萩坂・浦川内、同県東彼杵郡川棚町浦川内・五反田郷等、一帯を傍国「為吾国」、その南側の同郡東彼杵町彼杵宿・名切・宮田・里郷等、一帯を「鬼奴国」の比定地とした。

②連繋=「記紀」伊勢の海に祀られる天照大御神(天照大神)とスサノヲが誓約した事と関連があり、後、天降りした日高日子番能邇邇芸命(彦火邇邇杵尊)が娶った大山津見神の娘木花佐久夜比賣(木花咲耶姫)は狗奴国王卑彌弓呼が卑彌呼の宗女壹與を娶り、邪馬臺国を称する事に繋がると考えられる。尚、投馬国連合の構成国は、⑲支惟国、⑱巴利国、⑰躬臣国、⑯邪馬国の四ヶ国か、⑭為吾国を併せた五ヶ国か。邪馬壹国伊都国連合(七万餘戸)

③鬼国=漢和大辞典「鬼」項には、中国の二十八宿(星)の一つ。人間業とは思えない並外れた人以上の力を持ち人間を害する等とある。もしかしたら、後代の陰陽師の様な能力があり、鬼国の人々は女王卑彌呼が能くした「鬼道」に拠って操られる様に鬼奴国を見張る役目を担ったのかも知れない。
 折口信夫は、陰陽道では職神・式神(シキジン)の事を「みさき(御先)」とも称した。壱州に来た陰陽師徒は「御先」を傭うのに簡単な方便は「やぼさ」と云う島に多く居る精霊を呪力で駆使する事。昔は、壱岐に矢保佐・矢乎佐等の社が大変な数になる程あった。「やぼさ」は古墓で祖霊の居る処と考えていたが、陰陽師の役霊に利用される様になったり、その始源が段々、忘却せられて来たのだろう。とする。


  1. 2017/07/10(月) 23:53:00|
  2. 7.傍国考
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(12)華奴蘇奴国

 華[ɦuăg][ɦuă][hua]で、草冠と「垂+于」の合字。花と同音だが、中華・栄華・華麗等に通用されないので、生物的な花と違い精神的なもの。
 奴[nag][no(ndo)][nu]=捕らえた女で祭祀官下属の女囚。
 蘇[sag][so][su]=「穌」が初文で、紫蘇の類を用いて魚等の生気を保たせる。金文では国名のみに使われる。

 漢字を併せると、「フィァッナッサッナッ→ハナサナ」となる。 後部は(10)蘇奴(さなっ→さなう→せのう)=瀬尾と同音で、前部を「ハナ=鼻→岬」とすれば、蘇奴国の比定地とした佐賀県神埼郡東脊振村瀬尾(せのを)・吉野ヶ里付近より、有明海湾岸に近い端(はな)や岬で、奴国に近い所になると考えられる。
 こうした事と述べてきた傍国の比定地の位置関係を考慮すると、道程で奴国の出先機関(はな)の比定地とし、佐賀県小城市牛津町牛尾・樋瀬・前満江・乙柳付近の「生立ヶ里遺跡」一帯に比定する。

 用字からも委奴国連合の構成員で、有明湾岸部の立地から、この国を奴国の出先機関としての船津だったのだろうが、伊都国の監察下に置かれ、一大率から官卑狗(文官)や副卑奴母離(武官)が派遣されて、その機能を管理されていたと考える。
 邪馬壹国伊都国連合に上手く靡いたのか、引き続き邪馬壹国伊都国連合の出先機関として機能していたため、伊都国から分岐する東向きの道に向かったが、その道程として「東南百里奴国」と記述されたと考えられる。

 また、前項(11)呼邑(はや)国の比定地とした福岡県三潴郡三潴町早津崎、佐賀県佐賀郡川副町早津江付近の佐賀市蓮池町牛津ヶ里が見えるので、河民(速)を荷役として使役して居たのかも知れない。

 尚、熊野三山の三神(建須佐之男命、玉男命、事解男)を勧請した云われる牛尾神社の鎮座する小高い丘は、当時、有明海湾岸部が、もっと深く山手に入っていたとされるので、地形的に「岬」や「崎」等と同じ状況だった可能性は高い。もしかしたら、河川の運ぶ土砂が堆積した舌状に延びる土地の海手=端(はな)が、海水面の上昇や、満ち潮に拠り、水没する事、更には、土砂が堆積して「失の尾→牛尾(うしのを)」とされたのかも知れない。
 また、海岸や河岸へ緩やかに降るではなく細く延びた断崖=岬(みさき→はな)や山際の崖=立端(たちはな)とすれば、福岡県八女郡立花町、福岡県浮羽郡吉井町田、福岡県大牟田市、長崎県北松浦郡江迎町末(すゑたちばな)免、佐賀県武雄市橘町、佐賀県伊万里市立花町、熊本県阿蘇郡蘇陽町橘、熊本県玉名郡天水町立花、大分県津久見市立花町等の地名がある。

 大陸では漢王朝が滅び、その情勢の変化に乗じ、呉を後ろ楯としたのか、狗奴国が北上してくると、再度、華奴蘇奴国は委奴国連合に従う。同様に女王卑彌呼の宗女壹與が靡き、邪馬国の建国を手助けしたのか、当地に留まった人々や、邪馬国(宗女臺與)伊都国連合の東遷に同行して、よく似た状況の土地に住んだ沿岸航海民と河民の呼邑(呼[hag][ho][hu]・邑[・ıəp][ıəp][iəi]=ハヤ)国の人々とし、船舶の航行に従事する海民を鰐を外洋航海民や沿岸航海民と河民(丸邇→和邇と和珥)等に分けたと考えられる。
 例えば、「古事記」天降条、天津日高日子番能邇邇芸命(ふぁのぅににぎ→はなににぎ)の妻になる大山津見神の娘、木花佐久夜(このはなさくや)比賣の姉で醜いと返された石長比賣(磐長姫)の別名か、「記」建速須佐之男命の子、八島士奴美神が大山津見神の娘、木花知流(このはなちる)比賣を娶り、生んだ布波能母遅久奴須奴神(ふはのもちくなすな)を狗奴(くな)国王の卑彌弓呼(「紀」香香背男?)に化体し、そうした経緯として述べたのかも知れない。

樋瀬=柿は竹や葦等で編んだ、同音の籬や垣(かき)等を使って、治水工事を施した事に拠る地名と考える。

牛津ヶ里(うしづかり)=土砂の堆積や、治水工事に拠る耕作地の拡がりに対応し、新たに蒲田津が造られたため、旧船津が失津(うせつ)→牛津とされ、治水工事に拠る土地化を表す「~ヶ里=~の里」を付けて呼ばれたと考えられる。
 京都八坂神社の牛頭天王は「紀」素戔嗚尊とされる。「記」建速須佐之男命は伊邪那岐が鼻(はな)を洗った時、天照大御神は左目(さめ→スあめ)、月読命は右目(うめ)を洗った時に生る。有明海を挟み東側の福岡県八女市には女山(ぞやま)、西側の佐賀県武雄市付近に女山(おんなやま)がある。



  1. 2017/07/03(月) 08:42:13|
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(11)呼邑国

 呼[hag][ho][hu]=(字統)乎が初文と在り、神事に於いて巫覡が神を呼ぶ時に用いたと云う鳴子板の形。
 邑[・ıəp][ıəp][iəi]=(字統)囗(国構・イ)=城壁を巡らせた所、巴=器の把手の形で、「説文」蟲なり、象を食う蛇なりとして字を蛇形に解するとし、多くの人が生活すると云う意味の合字で、行政区画の一つとされる。

 宗廟先君の在る「都」と無い「邑」とされるが、殷の都を大邑商とし、殷を滅ぼした周初、新邑(洛陽)、列国が弊邑・小邑と称すともあり、大邑商は、周の武王に滅ぼされたため、宗廟先君の祭祀ができなったのか。或いは、本来、安寧秩序を祈念する施設なのかも知れない。

 上記の漢字を併せると、ハッィァフ→ハヤゥ→ハヤ(早・速・南風)となる。「記紀」出雲国肥河上へと遡った建速須佐之男命の「ハヤ」や水戸(みなと)神→河神速秋津日子と妹速秋津比賣と在り、南風(ハィエ)や疾風の如く速く移動できる船を操る沿岸航海民や川民(河伯)に関係があると考える。
 例えば、長崎県諫早市(いさはや)早見、大分県速見(はやみ)郡山香(やまが)町等も在るが、今迄、述べてきた比定地の流れを考慮すると、福岡県三潴郡三潴町早津崎、佐賀県佐賀郡川副町早津江付近に比定する。
 付近には、佐賀県佐賀市諸富町の徳富権現堂遺跡・上大津遺跡等、弥生期の約1,800年前~室町期にかけての遺跡がある。例えば、河川が運ぶ土砂が堆積し、舌状に延びた吐崎(はきさき)に掘っ立て柱に屋根だけ、今でも東南アジアの河川や湖上に見られる簡素な家屋に住み、船の荷役等を糧に暮らす人々の集落と考える。
 そうした暮らしを裏付ける福岡県柳川市大和町の徳益八枝遺跡(弥生前~中期初頭/約2,200年前)の集落跡が下図「D」にあり、調査では軟弱な地盤に柱が沈み込まない様に工夫された掘立柱の建物や井戸が検出された。おそらく、気候変動に因る気温の変化で、海岸が移動、住めなくなり、他所に移ったのかも知れない。

 他にも三重県松阪市早馬瀬(ハヤマゼ)町、滋賀県東浅井郡湖北町速水、同県東浅井郡ビワ町早崎、京都府京都市下京区風早町、同市下京区早尾町、大阪府南河内郡千早赤阪村千早、兵庫県姫路市広畑区早瀬町、同県佐用郡上月町早瀬、同佐用郡南光町林崎、和歌山県田辺市芳養(ハヤ)、鳥取県八頭郡智頭町早瀬、岡山県敷市茶屋町早沖、同県都窪郡早島町早島、広島県福山市赤坂町早戸、同県安芸郡音戸町早瀬、同県豊田郡安芸津町風早、徳島県徳島市国府町早淵、愛媛県今治市風早(カザハヤ)町、同県越智郡宮窪町早川、同県西宇和郡保内町広早、福岡県福岡市東区千早、同県前原市千早新田、佐賀県東松浦郡鎮西町早田、長崎県長崎市早坂町、同県佐世保市早岐(ハィエキ→ハイキ)、同県西彼杵郡西彼町風早郷、熊本県八代郡宮原町早尾、大分県大分市羽屋、宮崎県都城市早水町等、何れも海岸、河岸や河川合流点に在る。

 中古音や中世音「ホヤ→コヤ(木屋・小屋)」とすれば、福岡県北九州市八幡西区 木屋瀬(こやのせ)、福岡県八女郡黒木町木屋等の地名があるが、これは、卑弥呼の死後、狗奴国の北上に伴い、敗れた邪馬壹国連合が東遷した後なのかも知れない。
 他にも兵庫県尼崎市西昆陽(コヤ)、同県伊丹市昆陽、和歌山県和歌山市古屋(コヤ)、島根県大田市三瓶町木屋原(コヤバル)、広島県広島市安佐北区白木町古屋、同県安芸郡坂町小屋浦、同県比婆郡比和町木屋原(コヤバラ)、山口県下関市木屋川(コヤガワ)、同県小野田市木屋、徳島県麻植郡美郷村木屋浦、同県美馬郡木屋平村、同郡貞光町端山木屋(ハバヤマコヤ)、愛媛県越智郡朝倉村古谷、高知県幡多郡大正町木屋ケ内等が在る。

弥生期=柳川市三橋町の磯鳥フケ遺跡では、弥生中期後半(約2,000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査されました。約3,500㎡の広範囲に亘り、掘立柱建物群や井戸等が検出され、集落は広範囲に広がっているとある。同町蒲船津の江頭遺跡では、弥生後期(約1,800年前)の集落跡が調査された。先の二つの遺跡と同じく多くの掘立柱建物が見つかる。
 これらの遺跡以外にも、弥生時代の貝塚として柳川市西蒲池の三島神社貝塚や同市大和町鷹ノ尾の島貝塚が知られる他、柳川市西蒲池の扇ノ内遺跡では石田と呼ばれる田圃に残る大型の石の地下から甕棺が出土しており、支石墓の可能性がある。

下図=「国々の比定」項で掲上した有明海沿岸部の遺跡地図。
有明沿岸遺跡 


  1. 2017/06/21(水) 16:43:11|
  2. 7.傍国考
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(10)蘇奴国

 蘇[sag][so][su]=「穌」が初文で、紫蘇の類を用いて魚等の生気を保たせる。金文では国名以外では使われない。
 奴[nag][no(ndo)][nu]=捕らえた女で祭祀官下属の民。

 上記の漢字を併せると、「サッナッ→ソナゥ→セノゥ」、前述した「記紀」建速須佐之男命(スサノヲ/スツァノヲ)、「紀」武素戔嗚尊(ソセヌオ→ソセノゥオ)に関係が在り、地名や姓氏に見える瀬尾や妹尾(せぬを→せのを)に繋がる。述べてきた比定地の流れに順い佐賀県神埼郡東脊振村瀬尾(せのを)・吉野ヶ里付近に比定する。
 使われる漢字から委奴国連合を組織していたが、王族や巫女等の輪廻転生を促すための神事を掌る神官と考える。邪馬壹国伊都国連合に支配されて服属したため、一大率から官卑狗か、副卑奴母離が派遣されており、その下属として病気や怪我等に処方する薬を製したり、管理する人々と考えられる。

 伊都国に関わる新たな人々が渡来し、70~80年続いたとされる前王統の委奴国連合は邪馬壹国伊都国連合に取って代わられたため、女系姐奴(ざな)国の「紀」天照大神と誓約した素戔嗚尊(ソザヌオ→ソザノゥオ)と、「神遣い」された素戔嗚尊の如く不服従の男系狗奴国と、靡いた蘇奴国に分裂する。
 長崎県彼杵(そのき)や讃岐(さぬき)かとも考えたが、これらは大陸の情勢変化に乗じた狗奴国の北上に拠り、邪馬壹国女王卑弥呼の宗女「壹與」が靡いたからか、追われた邪馬壹国伊都国連合が同宗女「臺與」を奉じて東遷した後、男系の蘇奴岐(さぬき)の領域が拡がったと考える。
 神籠石や古代山城とされる遺跡の配置と、「後漢書」倭在韓東南大海中依山島為居、凡百余國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里~。陳寿は、その北岸として邪馬壹国を南側に比定したが、その西北界として東南側にする事からも判る。

 平成2年から発掘調査が開始された瀬ノ尾遺跡(佐賀県神埼郡東脊振村瀬の尾・横田)は、同郡神埼町萩原(吉野ヶ里遺跡)・馬郡北側の丘陵に位置する弥生時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡とある。その調査区南部、古墳時代前期の竪穴住居跡埋土、及び、その上部を覆う包含層から出土した絵画土器は接合できる同一個体の3片中、2片に人物画が描かれる。
 このような武器・武具を持ち頭に飾りをつける司祭者を表した絵画は、近畿、中国、九州地域の弥生時代後期の遺跡から数多く見つかっており、西日本各地でも共通の祭式が営まれたことを示す。

 狗奴国との戦いに敗れた邪馬壹国伊都国連合が東遷した後、「記」天照大御神と速須佐之男命が対立した様に、姐奴国(さの)と対立したとすれば、佐賀県鳥栖市付近に比定した前項の(9)對蘇(とさ)国が、後代、現在の高知県付近に東遷して土佐(建依別)を称し、その対面する国の(10)蘇奴(せのを)国は、現在の香川県(讃岐=飯依比古)一帯を指すのかも知れない。地図を精査すると同様の対立関係が見えるのかも知れない。

 また、佐賀県伊万里市東山代町滝川内讃岐、長崎県佐世保市山手の南側、同県東彼杵(そのぎ)郡川棚町小串(をぐし)郷・日向(八幡山)、福岡県北九州市門司区社ノ木(しゃのき)・柄杓田と関門海峡を挟んだ山口県豊浦郡(現下関市)豊浦町川棚(川棚神社・宮地嶽神社)・小串(こぐし)、山梨県都留市川棚・柄杓流川。茨城県龍ヶ崎市佐貫町、栃木県塩谷郡塩谷町佐貫、群馬県邑楽郡明和町大佐貫、千葉県長生郡睦沢町佐貫、同県富津市佐貫、兵庫県多紀郡(現篠山市)篠山町佐貫、同県三田(さんだ→さぬら)市、鳥取県八頭郡河原町佐貫等が在る。

管理する人々=邪馬壹国伊都国連合の一部は、卑彌呼の宗女臺與を戴き東遷したとすれば、「記紀」出雲の大国主神(「紀」大己貴命)と共に建国したとされる「記」神産巣日御祖命の子、少名毘古那(「紀」高皇産靈尊の子少彦名)に繋がる人々かも知れない。

樂浪郡=前108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして今の平壌付近に置いた郡。後漢末の204年頃、楽浪郡を支配した公孫康は、その南半を割いて帯方郡を設置。313年高句麗に滅ぼされた。遺跡は墳墓・土城・碑等を主とし、古墳群からは漢代の文化を示す貴重な遺物を出土。*楽浪の位置を中国の遼河付近とする説もある。
 後漢書=二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝の宋の范曄(はんよう・398~445)の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭(わ)に関する記事がある。

横田(よこた)=京都府京都市山科区北花山横田町、同府船井郡園部町横田、兵庫県加西市横田町(糠塚山・万願寺川)、同県氷上郡氷上町横田・佐野、奈良県奈良市横田町・佐保・矢田原、同県大和郡山市横田町・高田町・満願寺町・矢田町、鳥取県倉吉市横田・和田、鳥取県八頭郡八東町横田・同郡智頭町横田・鳥栖、同県益田市横田町・有田町、広島県高田郡美土里町横田・山田、愛媛県今治市横田町・矢田、同県伊予郡松前町横田、福岡県飯塚市横田・津島、佐賀県東松浦郡浜玉町横田・飯塚・鳥栖柳瀬・山田、熊本県玉名市横田・山田、同県上益城郡甲佐町横田・柳瀬、大分県大分市横田・佐野・高田、同県宇佐市横田・山田・稲積山等。

人物画=人物は羽飾りを頭に付け、嘴とみられる突起を付けた仮面を装着しており、左手には、上部、中央、下部を鋸歯文帯で飾る盾を持つ。右手は欠けているが、戈を始めとする武器を握っていたと想像されるとある。また、土器は共伴した土器の特徴から古墳時代前期に位置付けられるため、弥生時代的な習俗が古墳時代迄、継承されていることを推測させる。

小串(をぐし)=山口県豊浦郡豊浦町小串(こぐし)の如く、地名「小竹」にも「をだけ」「こたけ」がある事にも関係が在り、前者は、成人して嫁を娶ったスサノヲで、後者は、鬚(ひげ)が伸びても泣きいさちるスサノヲに化体されると考えられる。


  1. 2017/06/12(月) 06:56:12|
  2. 7.傍国考
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◇スサノヲ

 先の(8)姐奴(ざな→さの)国や次項の(10)蘇奴国とも関連し、「古事記(以下・記)」天照大御神、「日本書紀(以下・紀)」天照大神の弟とされるスサノヲの用字は、「記」建速須佐之男(須佐能男)命、「紀」武(神)素戔嗚尊とされる。
 漢和大辞典に拠ると、夫々に使われる漢字音は以下の如く在り、二つの名前は、本来から同訓音だったのかは、甚だ疑問と思う。

 「記」須[ŋiug][siu]siu]/佐[tsar][tsa][tso]/之[tiəg][tʃıei][tsï]/男[nəm][nəm(ndam)][nam]
    能[nəŋ][nəŋ(ndəŋ)][nəŋ](異音[nəg][nəi(ndəi)][nai])
 「紀」素[sag][so][su]/戔[tsān(dzan)][tsen(dzan)][tsien/ts`an]/嗚[・ag][・o][u]

 「記紀」成立期の中古音に拠ると、「記」シゥッ・サノ(シゥ・ツァノ) → スサノ(スタノ)になるが、「出雲神話」須佐能男(すさのぅお)命から、何れも訓音に拠る「之(の)」と「男(ぅお→を)」だが、漢字音とすれば、以下の如く山幸彦や海幸彦の「祖幸(スサチ)」として良い。

  スサチュェィナム(スタチュェィナム) → スサチェィナム(スタチェィナム) → スサチナム(スタチナム)
 
 また、丸括弧内の音「祖大刀(すたち→巣立)」とすれば、冠称の建(たち→たけ)=都支(タケ→トキ)と関連し、二本の足で立ち、巣立つ事、成人して独立、「紀」稲田姫を娶り、所帯を持つ事を示唆する。同時に「記」天照大御神との誓約(うけひ)で、自身が帯びていた十握剣から三女神(タマ)と、天照大御神の五百箇御統珠で五男神(タチ)を生す事とになる。
 その後、乱暴狼藉の理由で神遣いされた速スサノヲが出雲の肥河上で退治したヤマタノヲロチの尾を切り裂いて得た草那芸大刀にも繋がる。それを奇しいと天照大御神に献上すると、誓約の段に戻り、輪廻転生し、「建→神(建日別=熊襲国)」と「武」に分裂する。

 一方、「紀」万葉仮名成立期の中古音には別音があるので、夫々を 一つ一つ書き出すと以下の如くなる。

  ソッセヌオ(ソチェヌオ)/ソッザヌオ → ソセノヲ(ソテノヲ)/ソザノヲ 

 上記、「ソッザヌオ → ソザノヲ」は、「記」スサノヲの姉天照大御神とされるので、長女の意味があるとした傍国(8)姐奴(ザナ)国に繋がると考えられる。また、通説的な訓音の「スサノヲ」は、「記」須佐之男(スサノヲ)、「紀」素戔嗚尊(スォセヌオ → スォセノヲ)だろうが、その後者は次項で述べる傍国の(10)蘇奴(セヌオ→セノヲ)国の近似音として良い。
 
 「紀」神日本磐余彦(神武)天皇の御名、狭野(さの)尊は、狭[ɦap][ɦap][hia]・野[diăg(dhiag)][yiă(ʒıo)][ie(ʃiu)]とあり、何れも漢字音ではなく、訓音だが、全て中古音にすれば、H音系がカ行に転音して、ファフ・イァ(ファフ・ジォ) → ファゥヤ(ファフ・ジォ) → ハゥヤ(ハゥジォ)/カゥヤ(カゥジォ)となり、「記紀」河神やスサノヲの冠称「速(はや)」や、日本府の任那(ニムナ→みまな)の伽耶(かや)国、高野(かうや→こうや)の近似音になる。また、「カウジォ」は沖縄の古称「コザ」や和歌山県東牟婁郡古座町古座(こざ)に繋がるのかもしれない。
 
 他にも、京都府亀岡市本梅町加舎(かや)、同府相楽郡和束町木屋(きや)、同府京都市中京区木屋(きや)町、大阪府寝屋川市屋町、岡山県上房郡賀陽(かやぅ)町竹荘、広島県甲奴郡総領町木屋、同県比婆郡比和町木屋原、山口県下関市木屋川町、同県小野田市木屋、徳島県麻植郡美郷村木屋浦、同県美馬郡貞光町端山木屋、同県美馬郡木屋平村、愛媛県松山市木屋(きや)町、高知県幡多郡大正町木屋ケ内、福岡県北九州市八幡西区木屋瀬、同県八女郡黒木町木屋、同県糸島郡志摩町芥屋(けや)、長崎県西彼杵郡多良見町化屋名(けやみょう)、鹿児島建鹿屋(かのや)市等がある。

伽耶=古代、朝鮮半島南東部にあった諸小国の全体をいう場合と、特定の国「金官伽耶」「高霊伽耶」等を指す場合もある。562年、新羅により併合された。日本では多く任那(ニンナ→ニムナ→みまな)と呼ぶ。加羅。尚、朝鮮半島南東部の巨済島(コジェド→カゥジォ)南部には加羅山がある。

高野(かうや→こうや)=桓武天皇の母御、高野(たかの→カゥヤ)新笠は百済(くだら)王後裔とされる。これを三韓時代、半島に在った百済(ペクチェ)と同国とするが、新羅の併合を嫌った伽耶国関係者が、南下(くだり)、渡来したのかも知れない。
  1. 2017/06/03(土) 18:10:36|
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(9)対蘇国

 対[tuəd][tuəi][tuəi]=木槌等の道具を持ち行う版築の作業を行う事=対面
 蘇[sag][so][su]=「穌」が初文、紫蘇の類を用いて魚等の生気を保たせる。金文では国名のみ使われる。

 上記の漢字を併せると、ツァッサッ→タサ(トサ)、高知県の旧国名「土佐」と同音かも知れない。「記」土佐国=建依別と在り、速須佐之男命の建(たけ)国=都支国に依り、服属して、前項の(8)姐奴(ざの→さの/たの)国や他の傍国と同様、邪馬壹国伊都国連合から官卑狗(文官や技官)、副官卑奴母離(武官)等が派遣されていたと考える。
 尚、下記の如く同地名が殆どが河岸や海岸等水際に在る。

  大阪府大阪市西区土佐堀・福島区、大阪府堺市土佐屋台
  奈良県高市郡高取町土佐・吉備
  和歌山県和歌山市土佐町・福島
  徳島県那賀郡鷲敷町土佐、徳島同県鳴門市土佐泊浦
  高知県香美郡土佐山田村大平・仁井田、同県土佐市宇佐町福島

 但し、北部九州には福岡県築上郡大平村土佐井(つちさい)以外の他に同地名は見あたらないので、述べてきた比定地の流れに順い推測すると、その近似音から佐賀県鳥栖(とす)市田代町・真木町轟木・麓・姫方(姫古曾神社)・大野付近に比定する。
 付近の柚比遺跡(ゆびいせき)群(青銅器鋳型・鐸形土製品)は、弥生期~奈良期の竪穴住居約1,500棟、掘立柱建物約50棟、弥生期の甕棺墓約1400基等が確認された。出土遺物には縄文~近世にかけての多種多様なもので、弥生期のものは青銅器、及び青銅器関連遺物が特筆される

 茨城県鹿島郡鉾田町鳥栖(とりのす)、愛知県名古屋市南区鳥栖(とりす)等、何れも平地を流れる川縁にあり、上記、鳥栖市も南側の宝満川に流れ込む何本かの支流が流れる平地に位置し、旧くは低湿地帯だった。
 そうした地形の状況を改善するため、「対」=木槌等の道具で行う版築作業民の国で、(5)彌奴(みな)国と共に版築で一段一段と堤防や水路等を造り、治水工事を施し、泥濘地の陸化を担い水田や耕作地にして「足す」と云う意味の国名かも知れない。

 この説を補足する発見があった。朝日新聞に拠ると、太宰府政庁から南東に7㌔の前畑遺跡、姐奴(ざの)国比定地付近の福岡県筑紫野市丘陵上で長さ500㍍に及ぶ7世紀頃の版築工法の大規模な土塁が見つかった。土壁は、高さ1.5㍍・下部の幅13.5㍍の二段構造で東側を急勾配にしてを巡らせた防御施設とされる。
 これからも邪馬壹国伊都国連合には版築作業の技を持つ中国系の人々が居たとして良く、奴国連合王族の出自をを殷王朝最後の紂王の叔父胥余が、周武王より、箕を賜り、朝鮮王を名告って建国したとされる箕子朝鮮の人々(奴)が、燕人(騎馬系)の衛満が起こした衛氏朝鮮に滅ぼされて渡来、建国したとする私説の傍証ともになる。

 尚、見つかった土塁(前畑遺跡)は、同記事の地図に拠ると、想定される外郭線(赤色の点線)の丸く囲んだ部分で、標高49~61㍍の尾根を略南北方向500(残存390)㍍に及ぶとあり、福岡県糟屋郡宇美町四王寺の大野城(姐奴国)、同県大野城市大利の水城(彌奴国)、佐賀県三養基郡基山町の基肄城(対蘇国)等を繋ぎ、太宰府を取り囲む様に築かれる。
 何故か、太宰府市都府楼の東側、福岡県筑紫野市山家付近、宮地岳山頂の阿志岐山城(神籠石)は含まれない。その北側、福岡県宗像郡津屋崎町(福津市)宮司の宮地嶽神社本社、長崎県松浦市今福町滑栄免(宮地嶽神社)、同県北松浦郡(松浦市)鷹島町阿翁面(宮地岳)、佐賀県唐津市宇木(宮地嶽神社)、福岡県前原市神在・作出(宮地嶽神社)が在り、北上してきた狗奴国(邪馬)の攻勢に御岳(みたけ・おんたけ・うたき)を御神体とする末盧国以西の人々が東行して対立したからかも知れない。

版築(はんちく)=古く、中国の竜山文化に始まった土壁や土壇の築造法で、木枠を作り、その中に土を盛り、一層ずつ杵で突き固める。現在、見られる万里の長城も版築に拠る土壁の上から石を積んだ。
 竜山文化=中国の新石器時代の二大文化中、仰韶(ぎょうしょう)文化から発展した。山東省章丘市竜山鎮の城子崖遺跡に拠る命名で、黒陶(こくとう)が見つかる。

柚比遺跡(ゆびいせき)群=鳥栖市北東部及び基山町南部に位置し、標高約30~70mの八ツ手状に伸びる丘陵上に立地する縄文時代から近世にかけての約30箇所の遺跡により構成される。
 主な遺跡としては、柚比本村遺跡、安永田遺跡、前田遺跡、大久保遺跡、平原遺跡等がある。鳥栖北部丘陵新都市開発整備事業及び関連事業に伴い、県教育委員会が20遺跡(約68万平方m)を対象に平成3年度から11年度にかけて発掘調査を実施した。

中国系=西側の佐賀県佐賀市金立には、始皇帝に不老不死の薬を探し求めると進言して、列島に渡来したと伝承される徐福を祀る金立神社がある。

燕人の衛満=燕は、春秋戦国七雄の一つ周姓召公奭(せき)、河北、南満州、北鮮を領し、薊(現北京)を都とするが、秦に滅ぼされる。4~5世紀、騎馬系鮮卑族の慕容氏が前燕・後燕・西燕・南燕を建国した。もしかしたら、高句麗の武人とも関係があるのかもしれない。
 衛満=BC195年頃、建国した衛氏朝鮮が前漢武帝に滅ぼされた後、楽浪郡や帯方郡等の出先機関が置かれたと在る。王族関係者は北部九州に渡来、箕子朝鮮系奴国連合と対立したと考える。
 衛子夫=前漢武帝の后、弟に将軍衛青(?~BC106)=前漢の武将。字は仲卿。姉が武帝の皇后となった縁で将軍となり、匈奴を征すること十数回、武名高く長平侯に封ぜらる。大将軍、後、大司馬。諡は烈侯。その甥、霍去病(かくきょへい)=前漢の将軍。武帝の時、匈奴を討ち、大功を以て冠軍侯に封。驃騎将軍、大司馬に任じられた。諡は景桓侯(BC140頃~BC117年)。

地図=2016年11月29日(火)付の朝日新聞所載
土塁推測図 

宮地岳=本社は福岡県福津市宮司元町の宮地嶽中腹にある古墳羨道奥の石櫃内に御神体があり、祭神は息長足比売命(神功皇后)と勝村大神・勝頼大神。他にも同県八女市川犬と溝口境の宮地嶽神社、同市竜ヶ原と同県筑後市羽犬塚の宮地嶽神社、大分県東国東郡(国東市)国東町岩屋の宮地嶽神社。

御岳(うたき)=沖縄の村々にある聖地で多くは森。石やクバ・ガジュマルの木等があり、最も神聖な場所とされ、祭りの多くは、ここで催される。威部(いび・いべ)=奄美・沖縄地方で、巫女達が神祭りを行う聖地。または、神。御岳中、最も神聖な場所で、神の依代としての神木や自然石があり、香炉が置かれる。
  1. 2017/05/24(水) 08:26:00|
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(8)姐奴国

 姐[tsiăg][tsiă][tsie]=且(積み重ねた頂上)と女、一番年上の女、姉(卑弥呼→猿女君→天照大御神)
 奴[nag][no(ndo)][nu]=祭祀官下属の民

 漢字音を併せると、ッシァナッ(チァナッ→ジァナ→ザナ)→サナ(タナ)とになり、(5)彌奴国と同様、水耕稲作民の奴を通字とする奴国連合の構成国で、丸括弧内のチァッナッ→タナ(棚)→タノ(田野)とすれば、天候や潮汐の見張り台(棚)だろうか、東千余里の海民の福岡県宗像郡玄海町田野等、他にも以下の地名がある。

  熊本県天草郡倉岳町棚底
  長崎県東彼杵郡川棚町・小串(をぐし)郷・五反田郷
  長崎県佐世保市棚方町
  長崎県平戸市魚の棚
  佐賀県杵島郡有田町田野
  佐賀県東松浦郡(現唐津市)肥前町田野
  福岡県久留米市三橋町棚町
  福岡県北九州市若松区棚田町
  福岡県北九州市門司区田野浦     
  山口県豊浦郡豊浦町川棚川棚神社)・吉永(宮地嶽神社)・小串(こぐし)
  山口県宇部市棚井
  広島県佐伯郡宮島町魚之棚
  広島県佐伯郡大野町棚田
  兵庫県氷上郡春日町 棚原

 訓音の近似性から大分県大分市佐野(さの)、同県豊後高田市佐野、同県宇佐市佐野、宮崎県延岡市佐野町等、河岸段丘や山に挟まれた川沿いの小高い丘を表す地名になる。これに順い、前項からの流れから小高い丘に遮られた福岡県太宰府市大佐野(おおざの)・向佐野(むかいざの)付近に比定する。その西北の丘上には以下の弥生遺跡が在る。

 隈・西小田遺跡群 弥生~古墳時代(福岡県筑紫野市光が丘)勾玉・諸岡型貝製腕輪・芋貝製腕輪・ゴホウラ貝製腕輪・管玉・硝子製小玉等、前漢鏡、細形銅剣・鉄剣・鉄戈・銅戈等、 甕棺130基。
 野黒坂遺跡、弥生時代後期(同市針摺)翡翠製棗玉。
 原口古墳、3~4世紀頃(同市武蔵)管玉・丸玉・三角縁神獣鏡・直刀・鉄斧・前方後円墳(全長80m)。

 次項の傍国(9)對蘇国に使われる「對(版築の作業を云う)」に関連し、福岡県筑紫野市の前畑遺跡から発見された7世紀頃の太宰府政庁の防御施設とされる大規模な土塁は版築工法に拠るものとある。

 (10)蘇奴国と近い音を持つ事から山口県豊浦郡豊浦町小串(こぐし)と同訓の同県宇部市小串、岡山県岡山市小串、長崎県南松浦郡新魚目町小串郷と、長崎県東彼杵郡川棚町小串(をぐし)郷と同訓の広島県比婆郡東城町小串、群馬県多野郡吉井町小串の二系統があり、「記紀」神功皇后と仲哀天皇の夫婦と同様に死別する伊邪那岐(伊奘諾)と伊邪那美(伊奘冉)の男女の二神に通じる「イ・ザナ」にも関連がある。
 更に、「紀」東遷した神武天皇の御名「狭野(さぬ)尊」の関連もあり、三重県伊勢市山手、同県多気郡多気町大字仁田の天照大御神を天石屋戸から引きだした天手力男神が坐す佐那神社の佐那那県(さなながた)=佐野儺県にも繋がる。
 他にも広島県福山市高西町真田(さなだ)、島根県鹿足郡六日市町真田、大阪府大阪市天王寺区真田山町、長野県小県(ちいさがた)郡真田町等の地名も関連があると思う。

 何れにしても祭祀官(神官)を補佐する下属の奴国連合構成員で、一大率から官卑狗(文官)、副卑奴母離(武官)が派遣される。その武官だったのか、「記紀」誓約に勝った須佐之男命(素戔嗚尊)の乱暴狼藉に恐れをなして天石戸(天磐戸)に隠れた姉天照大御神→天照大神に関連し、狗奴国卑彌弓呼(ひめかな)の北上に拠り、邪馬壹国女王卑彌呼の死後、姐奴国等の連合国は追われて国域が移動し、蘇奴国の領域が拡がる。おそらく、サナギ→サヌキ(讃岐)、長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡香焼(こうやぎ)町但馬(たぬば→たづま→たじま)と同県東彼杵(ひがしそのぎ)郡川棚町白石郷(豊姫神社)・浦川内等も治めたのかも知れない。

田野=熊本県人吉市田野町、大分県玖珠郡九重町田野、宮崎県宮崎郡(宮崎市)田野町、島根県那賀郡弥栄(やさか)村田野原、同県鹿足郡六日市町田野原、和歌山県和歌山市田野、福井県大野市田野、山梨県都留市川棚・大野、高知県幡多郡大方町田野、同県高知市田野町大野、徳島県小松島市田野町等、西日本では小高い丘上や山麓にある。

川棚神社(應神天皇・神功皇后・仲哀天皇)=初め北八幡宮と称したが、1397年の火災で焼失、大分県宇佐市の宇佐八幡宮(應神天皇・神功皇后・比賣大神)を勧請、南八幡宮(仲哀天皇)を併祭したと在る。尚、川棚(かわたな)を河岸丘だとすれば、棚(たな)は、山と山、その麓の河川が流れる谷間の細長い土地を意味すると考えられる。

太宰府市=付近には政庁跡が発掘されており、北部九州の中心で、愛岳山中腹の竃門神社は子孫繁栄のための天之石戸と思われる。また、丸山神社には、天津五神の一人、天之菩卑能命→天菩比命(御子建比良鳥命)/「紀」天之穂日命が祀られる。尚、岐阜県各務原市大佐野(おおざの)町(春日神社)は、木曽川の中州(河岸丘?)に拠り遮られた低湿地を新境川放水路で治水した。

小県=山間を流れる川が合流する谷間の低地に位置する小干潟(ちいさひがた→ちいさぃがた→ちいさがた)と云う転音になる。

速須佐之男命(素戔嗚尊)=滋賀県神崎郡能登川町佐野、同県東浅井郡浅井町佐野、京都府熊野郡久美浜町佐野、大阪府泉佐野市佐野台、同県相生市若狭野町福井、同県豊岡市佐野、同県神戸市兵庫区須佐野通(スサノドオリ)、同県揖保郡新宮町佐野、同県氷上郡氷上町佐野、同県津名郡津名町佐野、和歌山県新宮市佐野、島根県浜田市佐野町、山口県防府市佐野、同県豊浦郡豊田町佐野、徳島県徳島市国府町佐野塚、同県三好郡池田町佐野・同郡東祖谷山村佐野、高知県香美郡土佐山田町佐野、同県高岡郡越知町佐之国。
 尚、日本語の漢字音は、上古音か、中古音に拠るので、佐野は、ッサル・ヂァェ → サダェ → サド → サヅ → サヌ → サノ、或いは、ツァ・ヤ(の) → タ・ヤ(の)と転音する。*左・佐[tsar][tsa][tso]=サ 野[diăg][yiă][ie]=ジェ→ジョ/ヤ

卑彌弓呼(ひめかな)=卑[pieg][piĕ][pi]・彌[miər][miə(mbiə)][mi]・弓[kıəuŋ][kıəŋ][kıoŋ]・呼[hag][ho][hu]で、漢字の音を併せると、ピェミェキゥァッヌッハッ → ペメクァッヌッァッ → ピメカナ(秘狗奴→秘金)で、もしかしたら、秘[pier][pii][pi]・光[kuaŋ][kuaŋ][kuaŋ]が、ピェルクァヌク → ペムカヌッ → ヒムカナ → ヒメカナ(日光を受ける銅鏡)」と転音したか。*卑彌呼(秘巫女)

讃岐=「記」国産神話、伊豫国=愛比賣、讃岐=飯依(いひより→いいより)比古、粟国=大宜都(げつ/いと)比賣、土佐国=建依別と在り、西九州に多く見られる山名「飯盛山」等の飯(いひ/めし/まま)に関連が在ると考える。
  1. 2017/05/17(水) 22:33:24|
  2. 7.傍国考
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(7)不呼国

 不[pıuəg][pıəu][fəu]=花萼の形で、花弁(巫女)を支える事を意味する。語義「大きい」が派生。
 呼[hag][ho][hu]=(字統)乎が初文と在り、神事に於て神を呼ぶ時に用いた鳴子板の形。

 国名の意味は、乎=鈴を鳴らして舞い喜ばせ、神を降臨させるための道具、神の意思を宣る。不=巫女(爾)を支える神祇官で、伊都国の官爾支は、この国の神祇官や王で、巫女を支えるのかも知れない。
 漢字音を併せると、「ピゥァッハッ→プァハ→パハ(ハハ)/ファハ→ゥアハ→アハ」で、後者の「アフ→アヒ→アイ」は、佐賀県東松浦半島相知(おうち)町相知、同県唐津市相賀(あふち→おうか)、福岡県福岡市博多区相生(あいおい)、同県北九州市八幡西区相生、同県飯塚市相田、同県朝倉市相窪、大分県中津市合馬(あふま→おうま)、山口県下関市阿内(あふち→おうち)、愛知(あいち→えち)や阿波・安房(あほう→あはう→あは)や粟等は川沿いや海岸沿いに多い。
 また、「プァハ→ハハ→ハウ→ホウ」(這・延・匍)とすれば、吐きだされた土砂の堆積した泥濘が這う様に延びた地形を表す言葉で、「記」因幡素兎の舞台とされる伯耆(ははき→ほうき)国や「国々の比定」項で述べた「不彌(ハフ→ハム→ハウ)国」は同源。
 近世音の「ファゥフ→ハコ」にすると、前項の福岡県福岡市東区箱崎付近を流れる多々良川上流とした好古都国「吐くた」等とも近い地形だろうが、述べてきた国々の流れに近似音の地名は見あたらず、全く違う漢字が使われるので、少し成立の状況が違う地名と考える。
 例えば、前者の「パハ(ハハ)→ババ→ハマ」から、巾(はば)、浜(はま)等とすれば、山間の川沿いの細長い低湿地に土砂が堆積した障(さへ)の河原で、穂波川沿岸の福岡県嘉穂郡穂波(ほなみ)、同郡桂川町馬場島(蓑島神社/天照大神・神武天皇・神功皇后)・瀬戸(小市神社/不詳)・土師・出雲・鶴田、同郡郡碓井町臼井付近一帯に比定する。
 これを「ハバ→ハマ→ホマ→ホム→ホン」とすれば、大阪府羽曳野市誉田(ほむた→こんだ)・碓井・白鳥、「ハニフ→ハニゥ→ハヌ→ハニ→ハジ」とすれば、埴生(はぶ→はむ)・土生(はにう→はに)・土師(はじ)等、細長い河原や合流地点の中州に位置するか。
 
 北側の福岡県飯塚市立岩の立岩遺跡(ゴホウラ貝製釧・碧玉製管玉・硝子製棗玉・硝子製管玉・硝子丸玉・内行花文日有喜鏡・内行花文清白鏡・重圏姚皎鏡・重圏清白鏡・単圏久不相見鏡・素環頭刀子・鉄剣・鉄矛等)を、不呼国の中枢とする。
 同郡桂川町馬場島の隣、同郡穂波町大字椿字スダレの弥生中期前半~中頃の墓地には、土壙墓(木棺墓)55基が主。甕棺15基の大部分は小児棺とあり、もしかしたら、花の蕾を守護し、開き切らない稚児の呪力を呼び覚ます役目の国かも知れない。
 その中型甕棺内で発見された成人骨の脊椎に磨製石剣が刺さり、争乱を感じさせるとあり、桂川町馬場島東南、同町豆田の6世紀中頃の王塚古墳には、黄や緑、黒等で、騎馬人物や靭、楯、連続三角文、双脚輪状文が施される。
  こうした墓制は狗奴国、後の邪馬の北上に因る争乱の終息後、北部九州東北部にも拡がったのか。また、線刻系の装飾古墳は、九州以外にも鳥取県や香川県、大阪府等にも分布する。

 尚、平原遺跡(已百支国)の方形周溝墓(二重木棺)と同系古墳が、前漢の武帝が支配した楽浪郡にもあり、伊都国王族を武帝に滅ぼされた燕の衛氏が平壌付近に興したとされる衛氏朝鮮の関係者とした事に繋がる。邪馬壹国伊都国連合の構成は箕子朝鮮系の焼畑農耕民と衛氏朝鮮系の遊牧騎馬民、南中国倭人系(海民と水耕稲作民)等の三つ巴だったと考える。
 
爾支=爾[ŋiəg][niĕ(rıĕ)][ri] 支[kieg][tʃıĕ][tsï]、魏志東夷伝成立期の上古音に拠ると、「ヌギァッ・キェ→ヌガケ」、「記紀」成立期の中古音に拠ると、「ニェ・チュェ→ネチェ→ニチ」で、邇芸速日(にぎはやひ)命の「ニヌギ」や、天津日高日子番能邇邇芸(ににぎ)命等の「ニニギ」とはできない。
 ただ、万葉仮名の甲「き」の漢字には、現北京音が伎[ji]や岐[qi]等、「ジィ」や「チィ」に近い音が使われるので、「ニチ→ニキ→ニイ」と転音したとすれば、焼津(やちつ→やきつ→やひづ→やいづ)と云う転音とも考えられる。

合馬(あふま→おうま)=山国川の扇状地沿いにある大分県中津市合馬と違い、福岡県北九州市小倉南区合馬(おうま)は合馬川沿いの谷間にあるので、奥場(おうば→おうま)かも知れない。東京都青梅市青梅(あふば→おうべ→おうめ)は蛇行する多摩川上流域の谷間にある。手持ちの地図ソフトで河川は見えないが、同地名の栃木県芳賀郡茂木町青梅(おうめ)も、うねる谷間に位置する。また、大場・大庭(おうま→おおば)は、河川合流地手や沿岸部に拡がる河原や扇状地だろう。

障(さへ)=支(さえ→つかえ)」の意、山や丘、堆積した土砂に遮られて流域が変化する事を意味し、塞(さひ)と同源か。英彦山川沿岸の山間で、少し開けたの福岡県田川郡添田(そへだ)も同源の地名と考える。尚、〈類聚名義抄〉山野に構えて禽獣を遮り捕らえる囲いとある。
 「賽の河原」〔仏〕小児が死んでから苦しみを受けるとされる冥途(めいど)の三途(さんず)の河原にも通じるか。石を拾い父母の供養塔を造ろうとすると鬼が来て壊す、これを地蔵菩薩が救う。転じて幾ら積み重ねても無駄な努力とされる。西院(斎院)の河原。

穂波=穂波(ホハ→ほなみ)で、新潟県柏崎市穂波町、長野県上水内郡信濃町穂波、静岡県富士宮市穂波町、愛知県名古屋市千種区穂波町、大阪府吹田市穂波町、鳥取県東伯郡大栄町穂波、何れも川縁の細長い河原、低湿地に在る。
 また、馬の放牧地だったとされる地名「馬場」は、福岡県北九州市八幡西区馬場山、同県大牟田市馬場町、同県八女市馬場、同県行橋市馬場、同県豊前市馬場、同県糸島郡志摩町馬場、同県京都郡苅田町馬場、同県京都郡犀川町木井馬場、佐賀県藤津郡塩田町馬場、三重県一志郡香良洲町馬場、滋賀県大津市馬場(ばんば)、同県彦根市馬場(ばんば)、同県草津市馬場(ばんば)町等が在り、穂波と同様の地形として良く、その開けた河原の平地が馬場にされた事も在ったと考えられる。

王塚古墳=6世紀中頃の横穴式石室前方後円墳、金環(首飾り)・銀製鈴・琥珀製棗玉・管玉・切子玉・小玉(首飾り)・変形神獣鏡・鐙(あぶみ)・轡(くつわ)・雲珠・杏葉等の馬具50以上、大刀等の鉄製武器、武具、高坏他が副葬される(装飾古墳)とあり、馬具が見られるので、遊牧騎馬民としがちだが、海原を翔る船と天翔る馬を同意識とすれば、位置的な事からも水田を必要としない河川民(安曇系)と共に遡上したのかも知れない。

墓制=線刻系の装飾古墳は直弧文等、幾何学的な文様のものは、九州地方に分布中心を持ち、九州以外では、人物や船、木の葉等の写実的な図柄が中心です。非常に多様性に富み、色々なタイプのものがある。
 「石棺系装飾古墳」西隈古墳(佐賀県)、浦山古墳(福岡県)、石人山古墳(福岡県)、下山古墳(大分県)。「石障系装飾古墳」井寺古墳(熊本県)・釜尾古墳(熊本県)。「壁画系装飾古墳」竹原古墳(福岡県)、鬼塚古墳(大分県)、観音塚古墳(福岡県)、報恩寺山古墳(大分県)、鬼の岩屋1号墳(大分県)、太子古墳(茨城県)、栄安寺西古墳(熊本県)、空山15号墳(鳥取県)、木の葉古墳(香川県)、妻山4号墳(佐賀県)、日明一本松塚古墳(福岡県)、宮ヶ尾古墳(香川県)、千代丸古墳(大分県)、善神さん古墳(長崎県)、姫御前古墳(佐賀県)。「横穴系装飾古墳」石貫ナギノ横穴墓(熊本県)、加賀山横穴墓群(大分県)等、九州以外では茨城県や鳥取県、非常に稀な存在。  
  1. 2017/05/10(水) 23:52:25|
  2. 邪馬台国
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(6)好古都国

 好[hag][hau][hau]=母が子を抱く形で、全てを賞賛する時に用いる
 古[kag][ko][ku]=祝禱を入れた器とそれを護る干(武舞に用いる装飾のある盾)との合字
 都[tag][to][tu]=祝禱を入れた器を埋納し、城壁で囲んだ所

 語義を併せると、安寧を祈る祝禱を入れた器と盾を設け、邑とは違い祖先の宗廟を城壁で囲って護る所と云う名称になる。詰まり、漢王朝から授かった金印「漢委奴国王」の奴国連合委奴国の祭祀を掌る王都だろう。
 漢字音を併せると、ハッカッタッ→ハカタ(博多)→ゥアカタ→ワカタ(若田)・アカタ(赤田)で、(3)「伊邪l国」項の地図に拠ると、当時、現在の福岡市博多区や東区付近の海岸線は深く入り込み、殆どが海中なので、「ハカタ」の語源は、干潮時、河口に吐き出される濁流の土砂が堆積した泥濘地の吐田(はきた)で、福岡県福岡市東区箱崎や同区馬出(まいだし)は治水工事を施した陸地の這出(はいだし)や場出(ばいづる)で、同県福岡市中央区舞鶴(まいづる)、同県三池郡高田町舞鶴、大分県大分市舞鶴町、京都府舞鶴市等も同源と考える。
 地名「ハカタ」は、三重県津市博多町、京都府京都市東山区博多町、佐賀県唐津市七山村博多・木浦、長崎県長崎市今博多町、大分県中津市古博多町、愛媛県今治市伯方(はかた)町古江・木浦等、以上の何れもが幾筋か河川の流れる合流地点や、その河口入江の沿岸部に在る。

 述べてきた事と、この国を守護する武人の都支国や、この国の治水工事にも関わった彌奴国の比定地等、その流れに順うと、福岡県福岡市博多区美野島と多々良川や宇美川を挟んだ東側、筑紫平野東部、3世紀中~後半の光正寺古墳(翡翠製勾玉・碧玉製管玉・変形獣首鏡、鉄器他)のある福岡県糟屋郡志免町や同郡宇美町付近一帯に比定する。
 付近の金隈(かねのくま)遺跡の墳墓には銅鏡や銅矛・鉄剣等、被葬者が持つ権威の象徴を表す副葬品に殆ど見えず、伊国に奴国連合の統治権と祭祀権を剥奪され、殺された王の輪廻転生を阻止する呪詛等もなかったため、当時の一般人(下属の民)を葬った共同墓地とされる。
 もしかしたら、(4)都支(たけ)国の比定地とした福岡県福岡市博多区下月隈(つきくま→たけくま)、弥生後期の宝満尾(ほうまんを)遺跡の土壙墓4基には翡翠製勾玉、 硝子製小玉、中国製明光鏡、素環頭刀子鉄斧等とあり、70~80年続いた委奴国王墓かも知れない。

 邪馬壹国伊都国連合への服属を嫌った奴国連合の委奴国王係累で覡の卑彌弓呼(秘狗奴)が授かった統治権の象徴である金印「漢委奴国王」は跡目争いの最中、奪われたため、従者や関係者を率い狗奴国(カナラ→カナダ/クヌダラ→クダラ)として南下した後、代々の国王を祀る宗廟に安置された金印を警護する武官卑奴母離や神祇官の卑狗が一大率から派遣された。*敵・叶(かなう)

 
その後、狗奴国は邪馬壹国の内部分裂を謀り、成就したのか、その一部(壹與)と繋がり、邪馬国と称した。その攻勢に敗れた邪馬壹国の女王卑弥呼(秘巫女)は亡くなり、通説の伊都国比定地、福岡県前原市の平原遺跡の古墳に葬られたと考える。
 邪馬壹国伊都国の王族は東北方面の遠賀川沿岸部から中国地方の出雲付近へ逃げ延びる時、奴国連合の象徴、金印「漢委奴国王」を狗奴国に奪われるの恐れたのか、埋納し、その宗廟を焼いたのかも知れない。
 後代、中大兄皇子と斉明天皇は百済(くだら)を救援に筑紫に下向し、唐王朝を後ろ盾とした新羅に敗れ、熊本県阿蘇郡大津(おおづ)町瀬田・真木・古城付近から大分県大分市大津、高知県土佐清水市大津、同県高知市大津、徳島県鳴門市大津、大阪府泉大津、滋賀県大津市と移動した。

赤田(あかた)=ハカタ→ゥアカタ→ッアケタとすれば、山口県下関市垢田(綾羅木川)、秋田(あきた)と云う地名も雄物川等が吐き出す土砂が堆積した泥濘地を秋田運河等で治水した同源の地名、若田(ワカタ)→脇田(ワキタ)→和井田とすれば、湧水地にもなる。
 
尚、博多(はかた)と云う漢字の語義は、博=広く薄く、多=夕方から夕方→拡がるとなり、土砂の堆積を示唆する。「記紀」成立期の中古音では、「ハゥコツォ→ホコト→ココト」となり、「紀」興臺産霊(こごとむすび)に比定される。

馬出(まいだし)=福岡県福岡市東区馬出は付近の箱崎八幡宮の神馬(じんめ)を出したと云う地名説話がある。但し、他にも徳島県美馬郡貞光町馬出(うまだし)、富山県高岡市御馬出(おんまだし)町・小馬出(こんまだし)町、石川県小松市小馬出(こんまで)町等は同源の地名だろうが、地図ソフトに拠ると、何れも河川沿岸に位置するが、付近に大きな神社は見あたらない。

壹與=景行天皇が八尺入日子命の娘、八坂入比賣命(生母)を娶り、生んだ五百木之入日子命、五百木入日賣命として良いのかも知れない。また、景行天皇が吉備臣等祖若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶り、櫛角別王、大碓命、小碓(倭男具那)命、倭根子命、神櫛王を生むとあり、「臺與」は景行天皇の妹倭比賣命で、養われた倭建命(日本武尊)は卑彌弓呼に化体されたと考える。
 二十四史の一つ「後漢書(後漢の事跡を記した史書)」本紀10巻、列伝80巻は南朝宋の范曄(はんよう)(398~445)の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭(わ)に関する記事があり、邪馬国とされる。
 
大津(おおつ/おおづ)=当初、伊都国の攻勢に追われて南下(くだ)るが、人口増加に因る食料不足での政情不安からか、北上を始める。その攻勢に押された邪馬壹国伊都国連合の一部が山口県大津郡大津郡(長門市)油谷町大和、島根県出雲市大津、石川県羽咋郡志賀町大津(おおづ)、同県鹿島郡田鶴浜町大津、新潟県刈羽郡西山町大津(おおづ)、同県岩船郡荒川町大津、 青森県三沢市大津へと日本海沿岸部を移動した。
 もう一つ、三重県松阪市大津町、山梨県甲府市大津町、群馬県吾妻郡長野原町大津、神奈川県横須賀市大津町、千葉県東葛飾郡沼南町大津、同県長生郡長柄町大津倉、同県安房郡富浦町大津、茨城県北茨城市大津町(鹿島神社系)がある。*オホ(意富)津→イホ(已百→五百)津

  1. 2017/05/01(月) 08:31:41|
  2. 7.傍国考
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