見まごう邪馬台国

◇狗邪韓(クヌガワヌ)国=外洋航海を担う海民国

 「魏志東夷伝韓人条」韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接。弁辰、亦十二國~云々。弁辰與辰韓雜居~。其瀆盧國與倭接界。「同倭人条」倭人在帯方東南大海中~と云う記述からすれば、半島南岸部全体が邪馬壹国に服属する倭人の狗邪韓国と接するのではなく、辰韓に雑居する弁辰の一部族国家瀆盧国領の水道を介した島嶼で、その南側の海域を領有したと考える。
  『まぼろしの邪馬臺国』の著者宮崎康平氏は、この狗邪韓国を韓国慶尚南道釜山市南西海上の巨済(コジェ)島とする。私説も、次項、對海(たま)国を邪馬 壹国側に服属した海民の比定地を長崎県対馬の中央、浅茅(あそう)湾に面した下県郡豊玉町仁位付近とし、同地に鎮座する和多都見神社祭神豊 玉姫は本つ国の姿でお産した後、その御子を置いて海原(うみはら→うみぅあら→うむあら→うまら)に帰り、替わりに乳母として送られた妹玉依姫が長じた御 子の妻になるという説話から、珠(魂=たま)を銜えて天空(あま)を翔る竜→海原(あま)を翔る船→天翔る馬(天馬)と云うニュアンスとすれば、巨済島と 水道を挟んだ慶尚南道沿岸部には、・馬山・蓮華(ヨヌファ)山(寺)・蓮華島、巨済島「竜珠寺」、その東北部浦湾とあり、付近一帯の離島を、その拠点として比定する。
 藤堂明保編「漢和大辞典」や白川静編「字統」等、漢字の語義や解字に拠ると、巨[gıag][gıo][kiu]=定規(矩)→両端の隔たり(渠・ 拒)→大きい・多い。済[tser][tsei][tsiei]=原字「斉」=凸凹のない揃った様→済ます・不足を補って平等に均す→渡す・河水を調整す る。
  その上古音に拠ると、「ギァッセゥ→ガッセゥ→カス」、中古音「ギォッセィ→ゴッシ→コシ」、語義から、隔たり=水道(巨)を渡る(済)島→渡島、渡海民の島→海民の陸鰐島として良いのかも知れない。
 済州(チェジゥ)島の「済」にも近い意味で、元や高麗王朝の頃は流罪の渡島で、政治犯を矯正して一定に均すと云う事か。同字を持つ百済(ペクチェ)の「百」=蛋民や海民と騎馬系諸部族等、多くの民族を、「済」=一定に均し、済して統合する(全一)。
 上記、訓音が日本語の越(こし)とも関連が在るとすれば、狗邪韓(クヌガワニ)国は、北陸(くぬが)とも繋がる。同音の粤・越[ɦıuăt] [ɦıuʌt][iue]=中国東南部に広く住んだ少数民族の海民や蛋民等、その国名、百粤・於越・甌越・閩越等、現広東省の別称とあり、その北側、江西 省や浙江省を流れる揚子江には鰐(わに)が棲息しており、河川を泳ぐ鰐の姿を目一杯の荷を積んで河川を航行する船に擬えたと考える。
 例えば、鰐[ŋak][ŋak][o]と顎[ŋak][ŋak][o]は同字を共有し、同鼻濁音「ヌガク→ガク」とされる理由は、鰐の顎(あご)が強靱 な事として良く、韓国語の「鰐=アックオ→アゴ」にも繋がる。更に云えば、日本海沿岸部に広く住んだ倭人の外洋航海民や沿岸航海民を、「記」因幡で素兎に 騙された鮫の如く、日本近海に生息する顎(あご)が強く口の大きい鮫(わに→さめ)に擬えられたのだろう。
 中国安徽省亳県で発見された後漢期の墓に使われる塼(煉瓦)に「倭人」の文字が見え、他にも斑固の著述「漢書」会稽海外東鯷人が居り、分かれて20余国なり~云々。また、斑固と同時代で、会稽郡上虞県人の王充著「論衡」周の時~云々、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(鬱 金)を貢ずとある。通説的には、これを大陸東海中の日本列島に住んだ倭人とするが、越人と同列に扱う事からも、倭人とは、大陸東南岸の島嶼に依った沿岸航 海民や長江等の河川航行で物資の運搬を担い、それを生業とする蛋民等と同系の水上生活者が稲作民を伴い渡来したものと考える。

豊玉姫=海神の娘が八尋鰐・大熊鰐や竜の姿で御子を出産するのを皇孫彦火火出見尊(穂 穂手見命)に見られ、恥ずかしく思い帰ったと云う神話や大山祇の娘磐長姫(石長比賣)の姿が醜いと天津彦火瓊瓊杵尊(邇邇芸命)に返された事にも繋がる。 何れも皇嗣の魂魄(たま)=命の輪廻転生思想に関連し、生母豊玉姫(魂=精神的な働きを司る)と乳母玉依姫(魄=肉体的な働きを司る)と考える。また、前 者の場合、母系制での婿に対する妻、後者は父系制の夫に対する嫁と云う婚姻制度の違いも示唆する。

=投馬国項で詳述するが、余の傍国の一つと思しき、現在の長崎県松浦市付近から投馬国の比定地とした大村湾奥の大村市への沿岸航路の寄港地だろうか、~里等の地名が見える。

玉浦(オクポ)湾=巨済島を西沿岸部を南下、付近の離島に碇泊する か、一度、西側の深い湾(ハンネ港)に入り、ワヤ峰(316m)を迂回する自動車道路に沿いを流れる河川を遡上した後、魏使や郡使の大使や副使等は輿に乗 り、従者は徒歩で玉浦湾へ向かった。何れにしても對海国から出迎える一大率の官吏や武官に伴われて外洋船で對海国へ向かったと思われる。

「わに→さめ」=邪馬壹(シァマィエ→サメ)は、菟(夏王朝祖禹の後裔夏后少康?)の渡来を扶けて騙された鮫(佐女→外洋航海民) で、後の卑彌呼や宗女臺與と考える。また、「ヌガマィエ→ヌカメ(邪の別音)」とすれば、「記」速吸戸を羽挙き来て神武天皇(箕子系奴国)の東遷を扶け た槁根津比古(衛氏朝鮮系伊都国)を乗せた(沿岸航海民投馬国系壹與)で、これも輪廻転生思想の「槁(高木神)=サヲ(佐男)→スァヲ→アヲ(青=黒馬)」→東「青龍」と云うニュアンスになる。
 尚、天宮とされる北「一白水星」の玄武は、蛇と亀が合体したものとされ、「記紀」蛇の姿で降った山神と麓の娘(亀に乗る玉依姫)との間に生まれた伊須気余理比賣(五十鈴姫)を若御毛沼命(狭野尊=神武)が正后にする事に繋がる。

安徽=中国の省名、江蘇の西、浙江の北西、長江と淮河(わいが)が流れる重要な農業地帯。省都は合肥。別称、皖(かん)。

東鯷人=鯷(ひしこ鰯)=細長い魚、是=真っ直ぐ進む→正しい、これ、匙(さじ)、鞮=革靴、提(さげる)=縦長、堤(つつみ)=横長。駃騠=速く走る馬とあり、東鯷人とは大陸東岸に群れて住み、蓮花(匙)状の小船で迅速な荷役等に従事する沿岸航海民(一尋鰐)や蛋民で、そうした人々と共に仏教は朝鮮半島や南西諸島を経由して伝来したと考える。
 また、鮫(さめ→フカ)とすれば、沿岸航海民や蛋民(河民)の家船=浮家(ふか)として良い。また、先に、倭人=海民+耕作民とした様に、日本書紀の「倉稲魂」を高床式穀倉(浮家)の守り神「ふかのみたま→うかのみたま」と訓ずる理由と考える。

鬱金=生姜科の多年草。アジア熱帯原産沖縄でも 栽培、根茎は肥大して黄色。葉は葉柄とともに長さ約1㍍。夏・秋に花穂を生じ、卵形白色の苞を多くつけ、各苞に3~4個ずつの淡黄色唇形花を開く。根茎を 止血薬・香料やカレー粉・沢庵漬の黄色染料(キゾメグサ)とあり、上記の「倭人」とは南中国から東南アジア、南西諸島との係わりを外しては考えられないと 思う。尚、黄河や黄泉国との係わりからか、黄色は王の色とされる。



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  1. 2016/06/10(金) 09:56:37|
  2. 6.国々の比定
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◇對海(タマ)国=海神(豊玉姫・玉依姫→媽祖)を祀る神祇官の国

 邪馬壹国の役人に付き添われた魏使一行は、對海国の中心地かと話題になった弥生~古墳時代の佐保浦赤崎遺跡、北側三根湾岸の長崎県上県郡峰町三根山部区の三根遺跡の北側、同町中里の田ノ浦やの三根湾付近、或いは、同県下県郡豊玉町卯麦・貝口(佐保浦赤崎遺跡)付近で外洋船を降り、沿岸航海用船に乗り換えて丘の反対側、浅茅(あそう)湾岸部、同町仁位(東の浜遺跡)・佐保塩屋に付近で船を降りて、一大率の役所付属の宿泊施設で休息したと考える。
 対馬中央部の浅茅湾に面した豊玉町仁位港に鎮座する仁位和多都見神社(祭神彦火火出見尊・豊玉姫命)、渡海大明神(対州神社誌)、彦火火出見尊・御子鵜葺草葺不合尊(大小神社誌)と在る。
 湾を挟み南、同町黒瀬の城山には百済式山城とされる金田(かねだ)城跡が在る。詳述は控えるが、最北端上県郡上対馬町大浦(経隈遺跡)東北側、高麗(こうれい)山麓、鰐浦(わにうら)は、「紀」神功皇后が三韓征伐に向かったと伝承される。尚、「倭人伝」に以下の記述が在る。

  女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
  又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
  又有裸國・黒齒國復在其東南船行一年可至

 この倭種と繋がるのか、「記」鮫(わに→さめ)が因幡素兎に騙された伯耆国に近い鳥取県西伯郡会見町金田(かねだ)・鶴田・安曇、同郡大山町長田(長田神社)・稲光と同郡淀江町福井福岡付近にも孝霊(こうれい)山、同郡西伯町北方長田・倭・馬場(長田神社)、同郡岸本町福岡、同郡中山町住吉、同郡名和町小竹(こだけ)・御来屋(みくりや)と在り、松浦半島西側、佐賀県松浦市御厨(みくりや)町、同県北松浦郡吉井町福井免、大阪府東大阪市御厨町・出雲井町・稲葉・豊浦町(枚岡神社)・立花町・長田鏡神社(若江中町)、長野県長野市川中島町御厨・浅川福岡、福井県福井飯塚町・足羽郡美山町奈良瀬・仁位・福島・小浜市板屋町・飯盛・鯖江市大野町・大野郡板倉等があり、上掲の文章からすると、日本海側の能登半島や新潟県佐渡島、太平洋岸の伊豆諸島や小笠原諸島付近迄広がっていたと思われる。
 尚、九州管内に長田(ながた・をさだ)等、共通する地名が以下の如く在る。

  福岡県甘木市(現朝倉市)長田・大平・楢原(ならはら)
  福岡県筑後市長田・鶴田・羽犬塚(宮地嶽神社)
  福岡県大牟田市長田町・甘木・教楽来(きょうらぎ)・四箇・田隈(宮地嶽神社)・橘・松浦町・馬渡
  福岡県山門郡(現みやま市)瀬高町長田・広瀬・女山神籠石(大草)
  長崎県諫早市長田・鶴田町・広瀬馬渡町・諫早市松里町有喜(有喜貝塚)・宗方町・長野町
  長崎県松浦郡世知原町長田代免・中通免
  熊本県上益城郡矢部町長田・犬飼・大野・葛原・御所・鶴田町・広瀬馬渡町・山田
   同郡嘉島町北甘木、同郡甲佐町糸田・三箇・横田・広瀬
   同郡清和村大平・鶴ヶ田、同郡御船町玉来・日向・馬立
  熊本県菊池市長田・大平・広瀬・花房
  熊本県玉名郡南関町上長田・馬立・都留(英彦山神社)、同郡三加和町大平・日向
  熊本県八代市長田町・大平・奈良木・二見下大野町・大村町
  鹿児島鹿児島市長田町

 尚、旧日本海軍が玄界灘と朝鮮海峡と繋ぐ水道として大型艦船航行用に掘削した下県郡(現対馬市)美津島町久須保「狭瀬戸」を沿岸航海用船で東南へ向かい同町嵯峨・住吉・調(たまづけ)・大船越・小船越付近の東海岸で、一大国から迎えにきた外洋船に乗り換えたのかも知れない。何れにしても一行は、潮汐や風の良好な日を選び、外海では対馬海流の影響を考慮、西側へ円弧を描く様に外洋船で南下したと考える。

佐保浦=古代豪族大伴氏に関連する地名「佐保」は、佐賀県佐賀郡大和町佐保・松瀬・久地井(肥前国庁跡)・山田・同県小城郡三日月町石木・土生(土生・久蘇・仁俣遺跡)・久米金田(かなだ)、大阪府茨木市佐保福井穂積・同府高槻市大和、兵庫県加東郡社町佐保久米・同郡滝野町穂積、奈良県奈良市佐保半田町、同県天理市佐保庄町・兵庫町・山田等が在る。
 *佐保神社(天兒屋根命・比売大御神・大名牟知命、養老六年)第11代垂仁天皇の御代に創建され、延喜式に所載の古社。初め坂合神社と呼ばれていたが、いつの頃からか、佐保神社と称される。

渡海大明神(対州神社誌)=「わたつみ」だろうが、漢字音(渡[dag][do][tu]・海[məg][hai][hai])からすれば、「タッマ(玉)」となる。尚、大阪府寝屋川市対馬江町・仁和寺町(仁和寺氏神社 伊奘諾・伊奘冉=白山権現)、同府守口市金田町 (津嶋部神社 津嶋女大神・菅原道眞・素盞嗚尊)の津嶋女大神は、「紀」素戔嗚尊の其子五十猛命・妹大屋津姫命・次抓津姫命の生母か、「記」須佐之男命が 娶り、大年神と宇迦御魂神を生んだ大山津見神の娘神大市比賣とも考えられるが、その生母の名が見えないので、入婿とも考えられる。

高麗(こうれい)山=怡土城跡の在る福岡県前原市高来寺(こうらいじ)・有田、高良山神籠石の在る同県久留米市高良等も同源かも知れない。

北方=福岡県北九州市小倉南区北方(南方)・同市小倉北区山田、佐賀県杵島郡(武雄市)北方町・橘大日(おつぼ山神籠石)・御所・楢崎、熊本県玉名市伊倉北方・南方・亀甲・山田(山田神社)・石貫ナキノ横穴古墳群、大分郡挟間町北方・鶴田奈良原・馬籠・山田、宮崎県宮崎市本郷北方・南方町、同県串間市北方、同県東臼杵郡北方町、鹿児島姶良郡栗野町北方・轟・木場、同県肝属郡内之浦町北方・南方(叶岳)

長田神社「伯耆・会見」長田神社(はちまんさん)(鳥取県西伯郡西伯町大字馬場1)祭神宗像三姫神、五十猛命、岩猛命他。
 長田神社(同県鳥取市大字東町字御宮谷)祭神事代主神 猿田彦神、誉田別尊、菅原道真命。
 賀茂神社(同県西伯郡大山町所子10)祭神瓊瓊杵尊、別雷命 合神 五十猛命他。
 佐間神社(同郡大山町坊領102)祭神天津彦火瓊瓊杵尊 合神 五十猛命他。
 武郷(たけさと)神社(同郡名和町大字小竹1048)祭神 經津主命・武甕槌命・五十猛命 

若江鏡神社(大阪府東大阪市若江南町二)祭神大伊迦槌火明大神・足仲彦天皇命  配祀息長足媛皇后 摂社天照皇太神社(天照皇太神)、塚本稲荷神社(豐受大神) 合祀(勝手明神・楠木正成)、熊野権現社(熊野権現)、水分社(水分 神)、鏡竜社(錦竜權)、御縁地蔵尊社(地藏尊)、鏡神社祭神天照大御神・藤原広嗣公・地主神(奈良県奈良市高畑)

長野県長野市川中島町=長野市南部、千曲川と犀川(さいがわ)の合流地。「出雲国譲」剣神御雷神と力比べをして敗れた御名方神は科野に逃げたと云う。建[kiān][kıʌn][kien]・剣[klıăn][kıʌn][kiem]と在り、「記紀」や万葉集の成立期の中古音が同音で在る事から建(剣)国が熊曽の建日別と肥国の建日向日豊久士比泥別の二つに別れた事(八剣)を示唆する。
 尚、北部九州と瀬戸内海間を周防灘(スファ→スハ→スホゥ)に面した福岡県築上郡吉富町から周防灘に注ぐ佐井(さひ→さゐ→さい)川、同県京都郡犀川町(現みやこ町)大村・柳瀬・松坂・大坂・広瀬がある。
 諏訪(スハ)=長野県中部、諏訪湖に臨み、もと諏訪氏3万石の城下町(高島城)。犀川=石川県東部の富山県境付近の両白山地から北西へ流れ、金沢市街を 流れて日本海へ注ぐ。長野県松本盆地の明科(あかしな)付近で梓川・高瀬川と合流、北東へ流れ、長野市付近で千曲川に注ぐ。

佐渡=新潟県佐渡郡相川町町・橘・大幡神社(大倉)大幡(おほはた)神社「大股主命」貞観三年か、延喜元年の創建。新潟県佐渡郡相川町大字大倉12、佐渡郡小木(をぎ)町金田(かねた)新田・強清水(長者ヶ平遺跡)、金井町三瀬川・吉井、佐和田町石田・中原・八幡・山田、新穂村大野・真野町名古屋、両津市(現佐渡市)大野・品浦(牛尾神社)・真木。*牛尾神社=平安初期創建、佐賀県小城市小城町大字池上
 日吉大社(滋賀県大津市坂本)祭神東本宮 大山咋神(山末之大主神)・摂社牛尾神社(大山咋神荒魂)。牛尾山頂の磐座は琵琶湖を越えて昇る太陽の方向に在り、原始信仰の地で、古い日神信仰を思わせる。
 磐座を挟んで奥宮2座がある。二宮である東本宮が奥宮である牛尾神社に対する里宮。南の奥宮は三宮神社で樹下神社が里宮。泉の湧き出る池上に社殿が鎮座、水信仰の里宮創祀の地である。太陽と水、生けるもの全てへの恵みの神である。里宮の創祀は崇神7年と口伝。
 度津神社「五十猛命 配大屋都姫命・抓津姫命」新潟県佐渡郡羽茂町大字飯岡字一の宮、社名の「わたつ」から、古くは越後佐渡間の航海を司る渡りの神で、 海童(わたつみ)神を祀るとも伝う。五十猛命は神功皇后の航海の守り神となっており、奴国の比定地内とした佐賀県杵島郡白石町大字馬洗(もうらい)の妻山 神社と同神を祀る。飯持(いいもち)神社「保食神」新潟県佐渡郡畑野町大字飯持236

伊豆諸島=「倭人伝」又有侏儒國在其南人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國・黒齒國復在其東南船行一年可至。この裸国と黒歯国を小笠原列島付近かとしたが、上質の黒曜石が採れて樹木の多くない火山島、神津島や恩馳島等の伊豆諸島とも考えられる。
 おそらく、九州東岸南部の侏儒國を経て、四国東岸から太平洋岸沖へ出て黒潮に乗り、東へ向かい、満ち潮に乗り、列島沿岸部の寄港地に碇泊し、引き潮に乗って南下、復路は黒潮の環流(逆流)を用いたと考える。

長田=青森県南津軽郡尾上町長田(をさだ)、岩手県盛岡市長田町、秋田県秋田市仁井田目長田・福島 、福島県耶麻郡猪苗代町長田(をさだ)・八幡、茨城県那珂郡山方町長田(をさだ)、栃木県真岡市長田、同県下都賀郡石橋町長田、千葉県館山市長田・中里、同県成田市長田・久米、石川県金沢市長田町、同県小松市長田町・福岡、同県羽咋郡志賀町長田・福井、福井県坂井郡春江町西長田・兵庫、同県坂井郡坂井町東長田・福島、長野県東筑摩郡坂北村長田・中里・日向、静岡県浜松市長田町・福島町、愛知県一宮市浅井町長田、同県稲沢市下津長田町・長野町、同県碧南市長田(をさだ)町、同県常滑市長田(をさだ)、同県知立市長田(をさだ)、同県豊明市西川町長田(をさだ)、同県名古屋市北区長田(ちょうだ)町、三重県上野市長田、滋賀県東浅井郡虎姫町長田、同県近江八幡市長田(をさだ)町金田・佐波江・板屋、京都府京都市南区吉祥院長田町・同区石原長田町、同府京都市伏見区下鳥羽長田(をさだ)町、同府福知山市長田(をさだ)、同府八幡市八幡長田(を さだ)、大阪府東大阪市長田・御厨、兵庫県神戸市長田区長田町、同県西宮市長田町、同県加古川市尾上町長田、同県三原郡緑町倭文(しつおり)長田、和歌山 県那賀郡粉河町長田、同県有田郡吉備町長田、鳥取県西伯郡大山町長田、島根県那賀郡金城町長田・金田、岡山県岡山市長田、同県真庭郡八束村長田、広島県山 県郡戸河内町長田、同県高田郡向原町長田、広島県世羅郡世羅西町長田、同県 双三郡三良坂町長田、山口県新南陽市長田町、同県美祢郡美東町長田、愛媛県伊予三島市豊岡町長田、高知県宿毛市長田町等。
 手持ちの地名資料には、富山県と岐阜県は「永田(ながた)」以外には見えない。また、宮城県や山形県には「長手」以外は何れも見られない。それ以外、略全国的に見られる。

教楽来=福岡県北九州市八幡西区京良城・大平、熊本県天草郡松島町教良木・大平。尚、熊本県八代郡坂本村久多良木(きう たらき)とあり、厳木(きうらぎ)→木浦木→甲良木・高良木(こうらき)→興梠(こうろき)等も同源か。長崎県西彼杵郡大瀬戸町雪浦久良木(きゅうらぎ→ きうらぎ)郷・瀬戸松浦郷、佐賀県伊万里市松浦町久良木(くらき→きうらき)等も在る。 




  1. 2016/06/18(土) 13:37:50|
  2. 6.国々の比定
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◇一大(イェタ)国=伊都国から派遣された一大(イェタ)率の役所の国

 長崎県壱岐市(旧壱岐郡)郷ノ浦町八幡港東側、石田いしだ→イチタ→イッタ)町湯岳(ゆたけ→いた)・射手吉触(いてよしふれ)付近に一大率の本役所を比定した。その東側一帯の同市芦辺町深江栄触・鶴亀触や同市石田町筒城(つつき)触付近には原の辻遺跡、北側の同市勝本町立石東触付近には香良加美遺跡等、同期の遺跡は多い。
 九州管内には「板~」等の地名が見え、一大(イェタ)率から派遣された官吏(武官)の役所や見張台等の関連施設が在ったのかも知れない。

  福岡県朝倉市(甘木市)板屋
  福岡県福岡市西区板屋・飯盛(飯盛神社)・壱岐・金武
  福岡県福岡市博多区板付・金の隈(かねのくま)
  福岡県前原市板持・油比(ゆび)・志登支石墓群 *佐賀県鳥栖市柚比町
  福岡県県北九州市小倉北区板櫃・到津(いとうづ)・金田(かなだ)
  佐賀県伊万里市波多津町板木・木場・馬蛤(まて)潟(飯盛山)
  佐賀県多久市西多久町板屋
  佐賀県神埼郡千代田町下板
  長崎県北松浦郡吉井町板樋免・木場免・福井免、同郡福島町里免
  長崎県松浦市板橋免・
  長崎県西彼杵郡大瀬戸町瀬戸板浦郷・瀬戸福島郷
  長崎県下県郡(現対馬市)豊玉町板塩屋・仁位・飯盛・上県郡(同市)峰町飯盛
  大分県宇佐郡安心院町板場
  大分県臼杵市板知屋
  大分県大野郡朝地町板井
  大分県別府市南立石町板地
  熊本県球磨郡五木村板木
  熊本県熊本市板屋
  熊本県玉名郡三加和町(現和水町)板楠
  宮崎県児湯郡米良村板谷
  宮崎県日南市板敷

 博多湾沿岸部福岡県福岡市西区生(いき)松原には壱岐神社(壱岐真根子)が在り、佐賀県武雄市若木町の伏尺(ふしゃく)神社には、壱岐真根子と、その娘婿武内宿禰の姿形が似ていたと伝承される。その経緯は、5世紀初頭、履中期の創建と伝承される玄界灘に突き出る福岡県宗像市鐘崎の式内名神大社織幡神社(壱岐真根子・武内宿禰・綿津見三神)に詳しいと在る。
 社名は武内宿禰が旗を織ったと云う故事に拠るとする。また、同県宗像郡(現福津市)津屋崎町宮司(宮地嶽神社)・奴山(ぬやま)南側には対馬見山がある。その社が鎮座する宮地嶽中腹奥宮八神社の一つ不動神社奥に全国でも最大級の横穴式石室古墳が在る。
 上記、福岡県福津市津屋崎町東南側、同市小竹(をたけ)・津丸(神武神社)・飯森山、同県糟屋郡久山町山田と同県福岡市東区大字香椎の境に在る城ノ越山と三日月山麓の三日月温泉、不彌国の比定地とした佐賀県小城郡三日月町石木・金田(かなだ)・同郡大和町佐保・福島、長崎県北松浦郡福島町里免にも山名「城の越」が在る。
 また、壱岐市郷ノ浦町渡良浦(わたらうら)、北側の同市芦辺町住吉触に住吉神社、その東北側、谷江川沿岸箱崎諸津触には男岳神社(猿田彦大神)、箱崎触根抵山、古い社家吉野(壱岐)氏が祀る八幡神社旧号海裏(わたうら)宮の古文書には箱崎八幡宮月読宮(式内月読神社)とあり、福岡県福岡市東区箱崎の筥崎宮(應神天皇 配祀神功皇后、玉依姫命)と同香椎の香椎宮(仲哀天皇・神功皇后)からも海民の夫婦が離縁、「記紀」豊玉姫と玉依姫(乳母→妻)と葺不合尊(継子→夫)に分裂したと考える。
 こうした繋がりと、福岡県古賀市小竹(だけ)の須賀神社素戔嗚尊・櫛稲田姫命・大己貴命・少名彦名命(久斯之神)・五十猛神・事代主命と鳥取県西伯郡名和町大字小竹(だけ)と云う訓みの違いが、東千余里に邪馬壹国に服属しない倭種の国が在ると云う記述と関連し、須賀神社祭神の夫婦(めと)素戔嗚尊と櫛稲田姫命、武郷神社祭神の親子(おや)「經津主命と武甕槌命」と云う違いかも知れない。

壱岐郡郷ノ浦町=嶽山神社摂社に矢保佐神社が鎮座。折口信夫は『漂着石神論計画』で、「やぼさ」について以下の如く述べる。
 陰陽道では職神・式神(シキジン)の事を「みさき(御先)」とも称した。壱州に来た陰陽師徒は「御先」を傭うのに簡単な方便は「やぼさ」と云う島に多く 居る精霊を呪力で駆使する事。昔は、壱岐に矢保佐・矢乎佐等の社が大変な数になる程あった。「やぼさ」は元古墓で、祖霊の居る処と考えていたが、陰陽師の 役霊に利用される様になったり、その始源が段々、忘却せられて来たのだろう。とする。
 私見では、弥帆(やほ)=大船の舳先に張る小さな帆。「魏志倭人伝」航海の安全を祈願し、潔斎した持衰(じさい)と云う者を船の舳先(御先)に置いたとあり、矢保佐(やぼさ=弥帆佐)も同様の役目を担ったと考える。

イシダ→イチタ→イッタ=壱岐市芦辺町箱崎触の芳野家所蔵「神国愚童随筆」壱岐の神人=命婦(イチ)は女官長で大宮司・権大宮司の妻 か、娘がなり、斎(いつき→いっち)は陰陽師の妻が巫女になる。斎女(いつきめ→いっちめ)は、やぼさ社に常に参ると云う。*壱[・iet][・iĕt] [iəi]

原の辻遺跡=一大国の通説的比定地。弥生時代の環濠集落跡「カラカミ遺跡」(壱岐市勝本町立石東触)で鉄生産用の地上炉跡が見つかっ た。弥生時代の地上炉跡は、国内で初めての発見。弥生時代には明確に確認されていない精錬炉の可能性があると指摘、市教委に拠ると、炉跡は弥生時代後期 (AD1~3世紀頃)のもので、少なくとも6基が見つかった。床面に直径約80㌢の範囲で焼けた土が広がっており、床面に直接炉を作る地上式と確認した。 国内で確認されている炉は地下式で、カラカミ遺跡の炉は韓国の遺跡に見られる精錬炉跡に似ている。周辺からは鉄製品の加工時に発生する鉄片は見つかってい ないため鉄自体を精錬していた可能性があるという。
 尚、通説的には日本で鉄の精錬が始まったのは、6世紀後半頃とされる。

箱崎触=福岡県福岡市東区箱崎の場合、河川が運ぶ土砂が吐き出された堆積地に付けられた地名で、丘陵の岬(みさき)等とは違う。
 同地に鎮座する延喜式内社八幡大菩薩筥崎宮(祭神應神天皇一座、配祀神功皇后・玉依姫命)。創建、延喜21(921)年、八幡大菩薩の託宣により、延長元(923)年に筑前穂波郡、福岡県嘉穂郡筑穂町(現飯塚市) 大分(だいぶ)の大分宮より移転した。神亀3(726)年神功皇后が応神天皇と共に、屡々留まった所の大分宮は宇佐八幡宮の託宣によって創られたと云われ る。尚、延久3(1071)年の御神宝の列記では、三の倍数になり、平安後期には三座とされていた。建久7(1196)年、筥崎第二御正体で二座と見え る。おそらく、平家系の御神体が外されたと考えられる。
 遷座した理由は博多大津の役割が軍事よりも貿易に重点が移ってきたからと云われる。その西北側の福岡県鞍手郡若宮町、現宮若市宮永付近には宇佐八幡宮があり、平安期、この付近で宗像大系と八幡神系が対立した。

板~=他にも「糸~」「乙~」等の地名を地図ソフトで検索すると、不思議な事に、その最前線と思しき島原半島や、狗奴国とは同族とした「奴国」比定地の一部、佐賀県藤津郡付近に多い。おそらく、狗奴国の領域は、島原半島と天草諸島、鹿児島県を含む一帯と考えられる。
 尚、人々の移動を示唆するものか、島原半島北部に多い「~甲」「~乙」「~丙」と云う順列的な地名が侏儒國の比定地とした宮崎県にも多い。

娘=豊子とあり、「魏志東夷伝倭人条」卑弥呼を継いだ宗女壹與(イェヨ→イヨ)、或いは、臺與(タィヨ→トヨ)とも在り、混乱しているとする研究者も居るが、おそらく、この臺與(とよ)に関連して武内宿禰(塩土老翁)の娘豊子(とよし→とよこ)にされたと考える。
 一方、女王卑彌呼の死後、狗奴国(卑彌弓呼)に敗れた伊都国系の臺與(豊玉姫)は大分県中津市大貞の元宇佐の薦神社/大貞八幡宮(祭神應神天皇、氣長帶姫命、田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命)・合馬や同県宇佐市宇佐(八幡宮)・葛原(字鬼塚の葛原古墳)・曽根神社(赤尾)・鶴田新田・馬城・和気、更には、大和方面へ逃れる。その後、熊本県八代市や天草諸島・島原半島付近にあったと思しき狗奴国も壹與(玉依姫)を伴い愛媛県八幡浜市中津川・広瀬八代(祇園八尺神社)の伊豫方面へ東遷、再度、大和の豊玉姫系(女帝の推古天皇系)を併合したと考える。

織幡神社=福岡県宗像市吉田の織幡宮は分社で、海民を広幡(鰭)→一尋の諸手(真手=櫂?)と狭幡(鰭)→片手(艪?)、おそらく、外洋航海民と沿岸航海民に分ける事を折鰭→織幡と呼んだと考える。また、端(波多)も手前から見た彼方・一方(片手)となる。
 尚、福岡県北九州市八幡西区陣原に鎮座する旗頭(はたがしら)神社の祭神も武内宿禰と在り、ヤマタノヲロチの頭(手前=舳)と尻尾(後=艫)、身体の三つに分ける事とも関連するのかも知れない。
 佐賀県伊万里市黒川町真手野・同市波多津町馬蛤潟(まてがた)、同県武雄市武内町真手野・馬渡・亀の甲・多々良、三重県多気郡宮川村真手等がある。

宮司(宮地嶽神社)=大分県杵築市宮司・大平・熊野・筒木・奈多・美濃山・八坂・山田、長崎県佐世保市宮地町・八幡町、熊本県八代市宮地町・大村町・長田町・八幡町、滋賀県長浜市宮司・八幡中山町・石田町・一ノ宮町(豊国神社)。
 尚、九州管内に「宮地岳」と云う山名と、同神社は以下の如く在る。

  福岡県前原市神在・作出(宮地嶽神社)
  福岡県筑紫野市山家(宮地岳)
  福岡県八女市川犬と溝口(宮地嶽神社)
   同市竜ヶ原と同県筑後市羽犬塚との境(宮地嶽神社)
  佐賀県唐津市宇木(宮地嶽神社/飯森山)
  長崎県北松浦郡(現松浦市)鷹島町阿翁面(宮地岳)
  長崎県松浦市今福町滑栄免(宮地嶽神社)*城山麓
  大分県東国東郡(国東市)国東町岩屋(宮地嶽神社)

福岡県古賀市=谷山北地区遺跡群=6世紀初頭~7世紀初頭の船原古墳の隣接穴から同時期の金銅製馬具一式が見つかった。近くの宮地嶽 古墳や藤ノ木古墳(奈良県)、埼玉県行田市、和歌山県和歌山市の4例しかない。騎馬民族に必要とされた馬具とあるが、金銅製なので実用品ではないと思う。 宗像氏との関連が取り沙汰される様に、古墳の壁画で船に乗る馬が描かれる事から海民と馬の繋がりは、先述したとおり。
 尚、「海幸山幸神話」で、御子(葺不合)を山幸彦の下に置いて戻った豊玉姫は、玉依姫を乳母として送ったとされ、長じた御子は、その姨を娶ったとされる事からも分かる様に、山幸彦の後添(義母)、義理の親子関係から夫婦の関係に移行する。

五十猛神=「紀」素戔嗚尊の御子「いしぅたける→いすたける→いったける→いたけぬ→いたけづ」は、一大率の長官(武官)かも知れない。







  1. 2016/06/24(金) 09:57:54|
  2. 6.国々の比定
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◇末盧(マツラ)国=海民(陸鰐)の領域南岸の国

 末盧(マツラ)国を水田跡が発掘された唐津湾山手の佐賀県唐津市の菜畑遺跡と松浦川を挟んだ東側の同市中原・柏崎(八坂神社)・鏡・鏡山(領巾振山)・宇木(宮地嶽神社/飯森山)・半田(はだ)・八幡町・矢作(やはぎ)付近一帯に比定する。
 河川水行と漁労を生業とする蛋民系海人の国とすれば、家船(浮家)で屯する沿岸部で平底船に乗り換え、松浦川の河岸より従者に曳かせて遡航した。菜畑遺跡や松浦川を渡った東側、鏡山頂に鏡山神社、西北麓に鏡神社、その東側の同県東松浦郡浜玉町飯塚・大野・横田(横田下古墳)・柳瀬、その東北側、福岡県志摩郡二丈町付近一帯には別の国があったと考える。

 玉島川沿岸部には玉島神社(神功皇后)が在り、「仲哀紀」天皇は陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲叛服常なきは新羅(しらぎ)後援に拠るものとし、自ら男性の髪型に変え、舟師を率い新羅(しらぎ)に向われた。その途、この岡に天神地祇を祭り、必勝祈願の御魂代、御鏡を鎮め崇め給い祈願したと云う。
 他にも熊本県人吉市鹿目町赤仁田(鏡山木浦山)・鶴田町・大村横穴群(青井町)、同県葦北郡芦北町国見(鏡山・天照皇大神宮)が在る。

 また、「記紀」皇后は新羅討伐成否に対して誓約、飯粒(いいぼ)を餌として鮎(あゆ)が釣れて希(めづ)らしいと土地の人、女豆羅(めづら)国と呼んだとあり、その佐賀県唐津市浜玉町を流れる玉島川を遡上すると、同県東松浦郡七山村鮎帰(あゆき)・木浦、その東側には福岡県糸島郡二丈町佐波・立花峠・吉井・福井が在る。
 「記紀」建内宿禰は禊ぎせむと、応神天皇を角賀(福井県)へ連れて行き、御子去来紗別尊と笥飯大神(誉田別神?)の名を易えたと在り、「記」伊奢沙和気(イザサワケ)大神に順い同訓にするが、「去(イ)ぬ・来(キ)ぬ→イキサ」とすれば、下記の如き地名が在る。

   佐賀県東松浦郡相知町伊岐佐(いきさ)・大野・鶴田 *松浦川上流
   福岡県飯塚伊岐須 (いぎす)・甘木・横田 *遠賀川上流

 魏使一行は、松浦川河口奥で外洋船から平底船に乗り換え、松浦川支流の半田(はだ)川や宇木川を遡上、柏崎遺跡や宇木汲田遺跡付近で、一泊、休息日を挟み、翌々日、同川を下り、松浦川を遡って唐津市(旧東松浦郡)相知町牟田部付近から支流伊岐佐川を遡上、伊岐佐(中原遺跡)で一泊、翌日か、翌々日、伊岐佐川を下り、同町山崎付近で、松浦川から支流の厳木川を遡上、同市(旧東松浦郡)厳木町浦川内(河内遺跡)・広瀬付近で、一泊、翌日か、翌々日、従者が大使や副使を輿に乗せ、下賜品を背負い徒歩で笹原峠を越えて伊都国中枢部へ向かう。
 投馬国への乗り換えは、同県伊万里市中里・金武(金武神社・弁財天)・同市立花町(伊萬里神社)・同市黒川町真手野(まての)・同市花房(大野岳)・同市波多津町畑津・馬蛤潟(まてがた)・飯盛山付近とする。
 伊万里湾を挟み対岸の長崎県松浦市御厨、同県伊万里市東山代町讃岐・浦川内一帯の河岸、同市松浦町久良木(くらき→きうらき)、同市山代町西分(黒髪神社)、同県西松浦郡西有田町広瀬村(山田神社)・有田町大野、松浦半島北部同県東松浦郡鎮西町加唐島対馬瀬(つしませ)・馬渡(まだら→まつら)島、同郡肥前町馬渡(まわたり)、福岡県糟屋郡新宮町立花口、同県八女郡立花町白木、同県大牟田市橘(たちばな)・甘木・松浦町・馬渡(まわたり)町・有明町、長崎県佐世保市黒髪町・松浦町・大野町・但馬越・飯盛山、熊本県玉名郡(玉名市)天水町立花、島根県益田市有田町・有明町・波田町・飯盛山・横田町・比礼振山、福井県大野市有明町・花房が在る。

マツラ=末[muat][muat(mbuat)][mo]・盧[hlag(hlo)][lo][lu]=ムァッゥラッ(ムァチゥラッ)→マツラ

別の国=玉島川を遡上した佐賀県東松浦郡七山村鮎帰・滝川・白木・中原・馬川・博多・木浦・松坂付近も含まれるかも知れない。また、玉島川支流の仁部川上流には浜玉町の飛び地「鳥巣(とす)・宇土」がある。

玉島神社=玉島神社祭神は神功皇后で、往古、聖母(せいもん)神社と称した。佐賀県武雄市橘(たちばな)町の「おつぼ山神籠石・潮見古墳」等の古代遺跡が多い。中でも、6世紀初めの玉島古 墳は壱岐直真根子の娘、豊子の婿武内宿禰の伝承に関連するのか、佐賀県下最大の円墳、武雄市と嬉野市塩田町を結ぶ道路側にあり、丸い丘状の典型的な古墳。 竪穴式から横穴式に移行する過渡期の竪穴系横口式石室で、西南方向に開口する。尚、他にも岡山県倉敷市玉島・百々・福島、大阪府茨木市玉島(摂津市に隣 接)と云う地名が在る。
 玉島駅(別名・大村駅)があったらしく、川を挟んだ北側、同町五反田に大村神社(無怨寺)がある。祭神の藤原広嗣は朝廷に反旗を翻すも佐賀県東松浦郡玄海町値賀川内・中通・轟木・石田付近か、値賀島で捕えられて斬首された。
 長崎県大村市玖島の「大村神社」には、藤原広嗣の名は見えないが、藩主大村氏祖藤原鎌足や、叛乱を興す藤原純友を祀る。北陸、或いは、伊勢松坂か、佐賀県神埼町の櫛田宮(素戔嗚命・櫛田姫命・日本武命)から勧請された博多の櫛田神社と縁深い北家藤原純友は四国西岸の海賊と云われるので、式家藤原広嗣も唐津湾や大村湾岸の海民との繋がりを否定できない。

御鏡=「豊前国風土記逸文」田河郡、鏡山。昔、気長足姫尊(神功)が、この山に入らせ られて、遥かに国状を御覧になり、天神も地祇も新羅征伐のために幸福を与え給えと御鏡を以て、ここに安置した。鏡は化して石となり、今も山中にある。名付 けて鏡山と在る。神功皇后と仲哀天皇・応神天皇を併祀、御鎭座より1700余年の御宮居とある。鏡山頂に、鏡山大神社(陵墓参考地の河内王墓)と称す。ま た、佐賀県唐津市の鏡山頂に鏡山神社、山麓に鏡神社と由緒も似ており関連がある。また、同北九州市若松区東二島(旧道岸)山手の日吉神社(大国主神・大山 咋神)裏手には熊襲・新羅討伐のおり、皇后が御顔を写したとされる御影泉(遺跡)が在り、卑弥呼と神功皇后は銅鏡との関係で繋がる。

女豆羅(めづら)国=馬頭(めず)は地獄にいる馬頭人身獄卒馬頭羅刹(らせつ)、牛頭馬頭(ごずめず)、牛頭羅刹とあり、京都八坂神社に祀られる牛頭天王と馬頭観音との関連から神仏混淆の本地垂迹説と逆本地垂迹説の二系とした。

鮎帰(あゆき)→鮎市(あゆち)→愛知(あいち→えち)。例えば、帰[kıuәr] [kıuәi][kıuәi]は、万葉仮名乙「キ」に使われる音に近いが、甲「き」に使われる漢字が、現代北京音では日本語「チ」([jì]伎 [gieg][giĕ][ki]、[qí]岐[gieg][giĕ][k`i])に近い音なので、後代、甲乙の縛りがなくなり、同音にされた後、上記の如 く転音したとも考えられる。*熊本県球磨郡坂本村鮎帰

福井=長崎県北松浦郡吉井町福井免・長野免、福岡県朝倉郡東峰村(旧宝珠山村)福井・大行司、島根県安来市福井(伯太川)、広島県御調郡御調町福井、岡山県津山市楢・金屋・田熊・福井がある。

海髪(いぎす→おぎす→おご)=紅藻類オゴノリ科の海藻の総称。暗紅色で細い紐状。数 多の枝があり乱れた髪形をなす。汽水域の砂泥に覆われやすい内湾の磯や木杭等に付着する。別名、ウゴ・ナゴヤ・江籬(えご)。例えば、「記紀」神功皇后が 熊曽討伐のため髪を解き海に入り禊ぎをすると男性の髪型になったと云う説話から、高知方言「いごっそう(気骨のある)」にも関連が在るか。また、名前を易 えた伊沙別命(去来紗別尊)と福岡県遠賀郡水巻町伊佐座(いさざ)、滋賀県近江八幡市生須(いけす)、茨城県鹿島郡(現神栖市)神栖町息栖(いきす)等、何れも水辺に在り、治水後に付けられた地名だが、地形的には同源(砂州=イサゴス・オィゴス)と考える。また、海髪(おご)→(おご・る)とも繋がる。

二里町=橋本遺跡(二里町大里乙大緑)・西尾遺跡(二里町大里乙西尾)・杢路寺(むくろじ)古墳(二里町)・午戻遺跡石棺墓(大坪町六仙寺)・土井頭(でいがしら)遺跡(黒川町)・小物成(こもなり)遺跡(大坪町)・夏崎古墳・銭亀古墳(東山代町)・小島古墳(山代町)。

立花(たちばな)=投馬(タギマの→タジマの→タチバの)国の比定地大村湾奥の大村市や長崎市付近一帯とした。その南側の島原半島基部西側の千々湾は、橘(たちまの→たちばな)湾とも呼ばれる。

伊万里神社(比古布都押之信命・田道間守命)=旧くは香橘(こうきつ)神社と呼ばれ た。また、武内宿禰の母木国造宇豆比古の妹山下影比賣が祭神ともある。その武内宿禰を祀る神社に佐賀県武雄市武雄町の武雄神社、和歌山県和歌山市安原の武 内神社、付近に武内宿彌の誕生井が在り、この当たりで生まれたとされる。紀氏の傍系であったが、本流が途絶えた事もあって本家になった。数代の天皇に二百 年以上仕えたとされるが、子々孫々同名を名告るのは、商家、役者・職人等にもある。「紀」武内宿彌祖波多氏(佐賀県東松浦郡伊万里市波多津町)、巨勢氏 (同県佐賀市巨勢町)、蘇我氏(奈良県橿原市曽我)、平群氏(奈良県生駒郡平群町)、葛城氏(奈良県北葛城郡當麻)、紀氏は肥前国基肄(きい)郡と和歌山 県の「紀伊」に繋がる。*和歌山県有田郡吉備(キビ→キヒ→キゥイ→キイ)町長田

黒髪神社=長崎県佐世保市黒髪町2817番地(肥前国彼杵郡)にも同名の神社(伊邪奈 美命・事解命・御年神・大年神)。尚、大長谷若建命(雄略)の御子白髪大倭根子命(清寧)は皇嗣が無く、男浅津間若子命(允恭)の御子穴穂命(安康)に謀 殺された市邊忍歯別王の妹忍海郎女(巫女飯豊王)が葛城忍海、高木角刺(つぬさし)宮に坐しましき。後、一度、途切れた伊邪本和気(履中)系統市邊忍歯別 王の二人の御子を見つけ、異系の皇統を繋ぐために皇嗣の無い白髪老人とする。尚、兄弟二人にされた理由は二つの皇統(牛頭天王系と馬頭観音系)を万世一系 にするための方便と考える。
 天皇家以外の大臣の系譜が詳細に記されているのは珍しく権力中枢に於ける紀氏の大きな力を証明するものと云う説等、様々に云われるが、武内宿彌と天皇家 は別系の国だったと考える。武内宿彌祖の各氏族に関連し、福岡県甘木市周辺部の地名が大和にも分布、集団での氏族移動のあったと云われる。また、天之御中 主神の御子天八降尊後裔の橘(たちばな→たちまの)氏は田道間守(タチマモリ)命に繋がるのかも知れない。

対馬瀬(つしませ/たぃませ→とませ→とばせ)=熊本県宇土郡(宇城市)三角町戸馳(とばせ)島波多・御船山田、同郡不知火町高良。熊本県 下益城郡松橋町御船、同県上益城郡御船町御船、長崎県佐世保市御船町。福岡県久留米市高良内町、同県三井郡北野町高良

花房=神功皇后伝説が多く残る福岡県北九州市八幡西区皇后崎・碇地(いかじ)や、同市若松区二島に在る花房山南麓、日吉神社裏手には、現在、水は涸れているが、史跡「御影の泉」があり、神功皇后が熊襲か、新羅討伐のおり、顔を映したと伝承される。
  1. 2016/07/02(土) 22:38:07|
  2. 6.国々の比定
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◇遺跡との照合

 邪馬台国論争での主題は、概ね、末盧国から邪馬台国迄の道程、或いは、不彌国以降の投馬国や邪馬台国への日程で、陳寿が記述した方向性では北部九州説、 不彌国からの日程的には近畿とされる。ただ、「南は東の間違い」は向かう目的地ああるからで、中でも邪馬壹国ではなく邪馬臺国(邪馬台国)の間違いで、 「ヤマタイ→ヤマト」として畿内の大和王朝(纏向遺跡)とする。その最大の理由は、万世一系とする現在の皇室に係わる国体に繋がるからで、或る意味、日本 人としての本源にまで遡るからだろう。
 こうした事も「記紀」初代神武天皇が九州から東遷したとする事や、それ以前に大和王権に縁の深い物部氏遠祖饒速日命が東遷していたとする事とも関連し、 現在、定着している地名に繋がるものが、邪馬壹国の時代、AD200年代から同位置だったのかと云う疑問は持っていたい。

 下図は手持ちの弥生遺跡(環濠集落・古墳等)の資料から、地図上で河川流域に照らした位置関係(アラビア数字)。また、海岸線を示唆すると思しき地名を拾って繋ぎ、佐賀大学低平地研究所作成の推定海岸図とを考え併せ、当時の有明海岸線の概略を赤線で示した。

有明沿岸遺跡    


①佐賀県唐津市柏崎(柏崎遺跡)・宇木(汲田遺跡) → 末盧国
②佐賀県唐津市(旧東松浦郡)相知町伊岐佐(中原遺跡)
③佐賀県唐津市(旧東松浦郡)厳木町浦川内(河内遺跡)・岩屋・広瀬鶴田神社(浪瀬)
④佐賀県多久市多久町牟田辺(牟田辺遺跡))・大橋・仁位所・東多久町納所 → 伊都国
⑤佐賀県小城郡三日月町土生(土生・二俣・久蘇遺跡)・金田・久米 → 不彌国
⑥佐賀県小城郡牛津町柿樋瀬(生立ヶ里遺跡)・乙柳(おつやなぎ)・東多久町納所・柳瀬・松瀬 → 奴国
⑦佐賀市大和町大字尼寺(一本木遺跡)・松瀬・久池井(肥前国庁跡)・佐保・東山田
⑧佐賀県佐賀市金立(丸山遺跡)
⑨佐賀県神埼市千代田町(高志神社遺跡)・下板・大橋・大野
⑩佐賀県神埼郡吉野ヶ里町(旧三田川町)(吉野ヶ里環濠集落)
⑪佐賀県神埼郡東脊振村三津(三津永田環濠集落)
⑫佐賀県三養基郡みやき町(旧中原町)・北茂安町板部(検見谷環濠集落)
⑬佐賀県鳥栖市江島町字本行(本行遺跡)・横田・轟木・大野
⑭佐賀県鳥栖市柚比(ゆび)町(安永田環濠集落)・長野
⑮福岡県小郡市横隈(横隈山遺跡)・乙隈(おとぐま)
⑯福岡県小郡市若山(若山遺跡)・大板井(小郡郡衙跡)・小板井・馬渡
⑰福岡県朝倉市(旧甘木市)平塚(平塚川添遺跡) ・板屋・馬田・中原・一木・奈良
⑱福岡県久留米市大橋町(祇園山古墳/宮地嶽神社/高良山神籠石)・枝光・草野町矢作・朝妻(筑後国府跡)・打越
⑲福岡県久留米市高良内町(持田遺跡)・柳瀬
⑳福岡県八女市新庄(六反田遺跡)・川犬(宮地嶽神社)・室岡(亀の甲環濠集落)・柳瀬・長野・納楚 → 邪馬壹国

 末盧国~不彌国迄の経由地は、松浦川~厳木川の沿岸から従者に曳かせて遡上した 1~5で、休息日を併せた約8日(実質5泊)で間違いないが、狗邪韓国~邪馬壹国の日程「南至水行十日、陸行一月」を末盧国~伊都国(五百里)=2.5日 (35㎞)~5日(70㎞)、伊都国~不彌国(百里)=0.5日(7㎞)~1日(14㎞)、不彌国~邪馬壹国(千四百里)=7日(98㎞)~14日 (196㎞)として、不彌国以降、邪馬壹国迄の7日~14日、平均で10泊と休息日を併せ、最長で約20日の日程として、6~20等の弥生遺跡の何れを経 由したのかを定かにするのは難しいと思う。
 尚、「南至投馬国水行二十日」も、狗邪韓国~對海国~一大国~末盧国迄の外洋航海を最長で「十日」、末盧国から最長で十日間(三千余里)の日程を北部九州西沿岸部を水行、南下したと考える。

弥生遺跡=有明海沿岸部には図に示したものだけでなく、他にも多くの遺跡がある。古来、干拓工事等に拠って失われた遺跡も多いと思う。尚、上図のアルファベットは以下の如くなる。

=佐賀県佐賀市本庄町大字本庄の増田遺跡は、佐賀市西部に位置、脊振山地南麓の洪積台地群南端部に立地する弥生時代から中世にかけての複合遺跡。特に弥生期の甕棺墓を主体とする墓地が広範囲に分布、周辺部の調査では朝鮮半島との関連を示す遺構や遺物が検出されている。
=佐賀県佐賀市諸富町徳富の徳富権現堂遺跡・上大津遺跡等、弥生時代後期、約1,800年前から室町時代の約500年前にかけての遺跡。
=福岡県久留米市田主丸町には、数多くの弥生時代 の遺跡があり、本格的な弥生文化の定着は筑後川の河岸段丘を中心に始まる。弥生前期後半の集落跡である水分遺跡や豊城中ツブロ遺跡、弥生中期中頃の遺跡と して秋成・亀王遺跡、船越一ノ上遺跡、西郷天神免遺跡、弥生後期の遺跡として千代久遺跡などがあり、平野部を中心に弥生文化が展開している。後期に入る と、中心は山麓へと動き、竹野三明寺遺跡、益生田寺徳遺跡と発掘事例は少ないものの有力な集落が形成されていたとある。
=福岡県柳川市大和町徳益の八枝遺跡は、弥生時代 前期から中期初頭、約2,200年前の集落。調査では柱が軟弱な地盤に沈み込まない様に工夫された掘立柱建物や井戸が検出された。また、柳川市三橋町磯鳥 の磯鳥フケ遺跡では、弥生時代中期後半、約2,000年前に比較的短期間に集落営まれた。約3,500㎡の広範囲にわたり掘立柱建物群や井戸等が検出、集 落は更に広範囲に広がる。柳川市三橋町蒲船津の蒲船津江頭遺跡では、弥生時代後期、約1,800年前の集落が調査された。
=佐賀県杵島郡白石町堤(妻山神社)付近の杵島郡白石町大字馬洗字道祖谷の妻山古墳群4号墳や道祖谷(さやんたに)古墳は杵島山系北東部に位置する栗岡山から東に延びる丘陵南斜面に築造された。出土遺物から6世紀後半の横穴式室を内部主体とする円墳。
=佐賀県杵島郡白石町深浦(海童神社)=オツボ山 神籠石は、武雄市街地南杵島山西麓の小丘陵にある。殆の神籠石に共通する特有の構造。柱間隔が平均3mだったので、唐尺の一尺(29.5㎝)として七世紀 後半の築造とされたが、南朝(420~589)の小尺(24.5㎝)の略十二尺とする説も在るらしい。有明海側から見ると杵島連峰の蔭に隠れるので有明海 を意識した山城ではない。

柏崎=青森県八戸市柏崎・沢里・新井田・古里・八幡、岩手県久慈市柏崎・寺里・新井田・外里・日向・山田、同県遠野市土淵町柏崎(八幡山)、宮城県気仙沼市柏崎・八幡前、同県古川市(大崎市)柏崎、福島県相馬市柏崎、石川県羽咋郡押水町柏崎・同郡志雄町柳瀬(やなぜ)、茨城県新治郡霞ケ浦町柏崎、栃木県塩谷郡高根沢町柏崎(出雲神社)・仁井田簗瀬(やなせ)、埼玉県岩槻市柏崎・飯塚・上里・徳力、同県東松山市柏崎・山崎・同県比企郡滑川町打越・広瀬山田、新潟県柏崎市飯塚町・久米・半田(はんだ)・穂波町・大和(やまと)町・吉井

納所=三重県津市納所(のうそ)町・大里山室・里・博多町・半田(はんだ)・八幡町、京都府京都市伏見区納所(のうそ)大野・讃岐町・板橋・下鳥羽長田(おさだ)町・但馬町・伯耆町・大和町・八幡町、岡山県岡山市納所(のうそ)・鮎返・鮎帰・久米・長野・広瀬・福井・室山・八幡・半田(はんだ)・山田・大和町・飯盛山・三光山、広島県三原市沼田東町納所(のうそ)・八坂町・八幡町・同県御調郡御調町福井、佐賀県東松浦郡肥前町納所(のうさ)・晴気・馬渡、福岡県八女市納楚(のうそ)・亀の甲・長野・柳瀬

柳瀬=福島県石川郡石川町梁瀬(やなせ)、富山県砺波市柳瀬(やなぜ)・福岡、石川県羽咋郡志雄町柳瀬(やなぜ)・押水町柏崎、栃木県宇都宮市簗瀬・鶴田・大和、群馬県安中市簗瀬・八幡・日向・山田、岐阜県安八郡神戸町柳瀬(やなぜ)・福井、 同県武儀郡武儀町柳瀬(やなぜ)・多良木、静岡県田方郡中伊豆町柳瀬(やなせ)・八幡、愛知県名古屋市中川区柳瀬(やなせ)町・八幡本通、滋賀県神崎郡五 個荘町簗瀬、和歌山県有田郡広川町柳瀬(やなせ)、同県日高郡龍神村柳瀬(やなせ)・福井、同県伊都郡花園村梁瀬(やなせ)、島根県邑智郡邑智町簗瀬(や なせ)、岡山県後月郡芳井町簗瀬・吉井、高知県香美郡物部村柳瀬(やないせ)・柳瀬神社・仁井田神社、同県吾川郡伊野町柳瀬(やなのせ)、同県安芸郡馬路村魚梁瀬(やなせ)、福岡県福岡市南区柳瀬(やなせ)・鶴田・大和町、同県八女市柳瀬(やなぜ)・長野・納楚(のうそ)、同県京都郡犀川町柳瀬(やなせ)、熊本県球磨郡相良村柳瀬(やなせ)

従者に曳かせて遡上=ローマ帝国でもガレー船等、櫂や帆に拠る推進だけでなく、奴隷に同様の労働をさせて河川を遡上したとされる。 また、魏氏や郡使が派遣された時期は、渡海の安全性から夏場が多かったと云われるので、熱さ対策として多くの休息日を設けたと思われる。
 
  1. 2016/07/08(金) 10:05:59|
  2. 6.国々の比定
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◇唐津市付近の遺跡

 「倭人伝」一大国から寄港地、南の「末盧国」を列島の地形的な状況や伊都国への方向性から佐賀県唐津市付近とすれば、市街地の山手、桜馬場遺跡や菜畑(なばたけ)遺跡とも考えられるが、満潮時に唐津湾から大型外洋船が入れる松浦川河口奥で下船した方が合理的だろう。
 そこで平底船に乗り換えて宇木川か半田(はだ)川を遡上した同市柏崎(八坂神社)の柏崎遺跡や松浦川東岸の同市久里双水古墳遺跡の東側、先の両河川に挟まれた鏡山南麓の丘陵地、宇木汲田遺跡(飯森山・宮地嶽神社)を伊都国方面への始発地(末盧国の中枢)とした。
 柏崎石崎遺跡から3例しか出土してない「触角式有柄銅剣」、柏崎田島遺跡からは「連孤日光銘鏡」という前漢中期の鏡が出土、日本と中国の関係を示す遺物として注目された。
 その北側、コニーデ状の鏡山(領巾振山)は七方向から同形状に見えるので、別名七面山とある。その美しさからか、崇拝の対象として鏡を奉納した神功皇后、夫との別れを惜しんで領巾を振った作用姫の伝承が残る。玄界灘や松浦川を一望できるので、略間違いなく出入する船の見張台等が、中腹か、山頂に在っただろうが、未だ、そうした資料は見あたらない。

 帶方郡衙から末盧国へ、約40日(実質二週間)程の船旅で到着した郡使や魏使は、翌日を休息日とし、翌々日、佐賀県唐津市柏崎付近から松浦川支流の宇木川か、半田川を下り、夕日山を迂回して松浦川沿いを遡上し、佐賀県唐津市(旧東松浦郡)相知町牟田部付近で支流伊岐佐(いきさ)川に入り、同町伊岐佐(三光神社)付近の中原遺跡(弥生後期)へ向かった。ここ迄、大凡14㎞の里程、一泊する。尚、不彌国以降の道筋、佐賀県三養基郡中原町(現みやき町)香田(香田遺跡)・同郡北茂安町部(物部神社)が在る。
 翌日か、休息日を挟み、翌々日、伊岐佐(いきさ)川を下り、佐賀県東松浦郡(現唐津市)相知町山崎付近で松浦川支流厳木川を遡上、相知の熊野神社を経て、同郡厳木(きうらぎ→いつき)町浦川内一帯で、大凡、14㎞になる。尚、その付近には以下の遺跡が在る。

  山神遺跡(浦川内字山神)=縄文
  有ノ木遺跡(浦川内字有ノ木)=縄文
  松尾遺跡(浦川内字松尾)=縄文
  詰原遺跡(浦川内字松尾・柏葉)=縄文
  柳遺跡(浦川内字柳)=縄文
  河内遺跡(浦川内字河内)=縄文・弥生

 上記、浦川内付近で一泊、翌日か、休息日を挟み、翌々日、同県多久市牧瀬付近で厳木川から外れ、笹原峠を徒歩で越えると、伊都国中枢部の同市北多久町莇原(あざみばる)・多久原(宮地嶽神社)に到る。ここ迄、約10㎞。
 多久市では、2万年前から産出するサヌカイト(讃岐石)を用いて狩猟を行い、約一万 二千年前には尖頭器という槍先形の石器を三年山遺跡や茶園原遺跡周辺で製作、最大規模の遺跡が在る。縄文時代、市内各地の台地に定住、狩猟・漁撈・採集生 活を続けた。弥生時代、稲作が普及、多久町南多久町の牟田辺遺跡等に集落を形成し、安定した生活を営んだ。

 尚、そのまま松浦川を遡上すると、享保4(1719)年、波多壱岐守が勧請した熊野神社(相知町相知)が鎮座する松浦川と厳木川に挟まれた小山と八幡岳を迂回して南下すると、奴国中枢部、同県武雄市に至る。その小山から松浦川方面が一望できるので、一大率の山城や砦で出入りを見張り、管理された。もう一つ、多久市内の山犬原川沿岸に海童神社、その南西側の小山には同市西多久町板屋(いたや)と在り、同県唐津市厳木町笹原峠付近から女山と八幡岳尾根道からを通り、女山峠を経て同県武雄市御所(伏尺神社)へ向かう道もあったが、これも一大率の見張台や関所があって検察されたと考える。

遡上=「魏志倭人伝」での陸行を平底船に下賜品と大使等を載せ、河川沿岸から従者に曳 かせて遡上する事とすれば、有明海沿岸部を平底船で向かう事も可能だろうが、もしそうであれば、奴国の外港と思しき、佐賀県小城郡(現小城市)牛津町前満 江付近から船出したらよいので、東行する必要はない。縦しんば、東南の奴国へ向かった後、不彌国へ東行したのであれば、「伊都国」とされた論理的な説明ができない。

柏崎遺跡=特異な出土物から「魏志倭人伝」に記されている末廬国中枢に比定され、有柄銅剣は有力部族長の権力を象徴するもの。故佐原真氏は銅剣の貴重さからみて墳丘墓は王族の墓であることは間違いないとするが、官や副官の名称が見えない事に対する倫理的な説明はない。

七面(しちめん)山=長崎県島原市南千本木町・亀の甲・八幡町、普賢岳の裾野に七面山と眉山、北側の南高来郡有明町甘木、南高来郡深江町と有家町境に鮎帰滝。他にも奈良県吉野郡十津川村、山梨県南巨摩郡早川町と同郡身延町の境にあり、この二つは仏教の聖地に近い。
 また、佐賀県武雄市と同県伊万里市の境、眉山と八幡岳・板屋、徳島県徳島市佐古山町・ 鮎喰(あくい)町・住吉の眉山等、こうした地名や山名の共通性を無視できない。おそらく、七方向から見るのではなく、狗奴国(くなら→くだら→くづら)の 北進に因り、仏教を奉じた奴国(なら→なだ→なな)は領域を奪われて大和方面へ東遷したと考える。
 「灘」は京都府京都市右京区梅津石灘町、兵庫県神戸市灘区灘浜)町、同県三原郡南淡町灘、鳥取県米子市灘町、同県倉吉市上灘町、島根県松江市灘町、同県 平田市灘分町、岡山県児島郡灘崎町、広島県安芸郡倉橋町灘、同県佐伯郡大野町下灘、山口県山口市名田島、同県岩国市灘町、徳島県鳴門市北灘町、同県海部郡 牟岐町灘、愛媛県八幡浜市向灘、同県伊予市灘町、同県伊予郡双海町上灘、同県北宇和郡津島町北灘、高知県幡多郡大方町灘、大分県佐伯市灘、同県宇佐市灘等 がある。
 尚、大分県下毛郡三光村(現中津市)・鮎帰と、同県下毛郡耶馬溪町の境に八方の何処から見ても同形に見えるからと云われる八面(はちめん)山、同県豊後高田市甘木・加礼川に屋山の別名「八面山」、徳島県美馬郡一宇村と、同郡穴吹町の境に八面山、北側に半田(はんだ)町がある。

伊伎佐(いきさ)神社=兵庫県豊岡市(旧城崎郡)香住町余部字宮内の「伊弉諾尊」三 座、文武天皇御代、彦坐王命を伊岐佐丘に勧請とあるが、関連地名は見あたらない。御由緒、文武の御代、慶雲四年七月、諸国に悪疫病が流行す。天皇は、諸国 に神祇を祀る事を命じられし時、美含郡大領椋椅連小楢、彦坐王命を伊岐佐の丘に勧請した事に創まる。今より約千二百八十年前の事。天平七年には伊弉諾命 を勧請し、主祭神とする。 嘉祥4年正月27日時の神祇官より、「正弐位上」が授けられ、数少ない延喜式の小社に列し、延喜22年春3月、奉幣の儀あり官社となる。又、文永7年夏、 異国(蒙古)来襲と聞き、武神男山八幡宮の御分霊、中臣氏祖天児屋根命を勧請し、異賊退治の祈祷式を行う等、由緒ある神社である。
 三光神社=福岡県浮羽郡吉井町大字福益1358の熊野神社摂社に三光神社「天照皇大神 配 月讀神、天加賀世男神」。姫山に鎮座、もと日月山神社と云う が、江戸時代中頃、姫山神社としたが、維新後宰相山神社とも号した。明治末期、境内に鎮座の三光神社を合祀して三光神社と改めた。社は反正天皇の時代に創 建された。創建以後の神職は武内宿禰後裔武田氏で八十有余代を数える。合祀された旧三光神社は、宮城県仙台市の陸奥国青麻三光宮の分霊で、信徒諸国に増加 した。姫山神社の影が薄くなったので、三光神社を合祀した。

多久市=古墳時代、南東部の低丘陵地を中心に集落を形成、小豪族が誕生した。千基を超 える古墳が造られた。奈良~平安期には別府・下多久地区を中心に条里制が敷かれ、高来(たく)の地名が誕生、駅が設置された。当時の遺跡も相次いで発見さ れた。東側の東多久町古賀には古賀山1号墳(壁画系・線刻)がある。多久地区は砥川石工領域であるため、彼らが得意とした岩狛が数多く見られるとある。 尚、彼杵半島と島原半島の繋ぎ目には長崎県北高来郡高来町里名、同県南高来郡西有家町里坊、福岡県行橋市高来(たかく)、同県前原市高来寺(こうらい じ)・油比。
 熊野大権現(佐賀県多久市北多久町小侍)=権現とは権(かり)に現われる事。中世の本地垂迹説では本地である仏が仮に神の姿となって現れて人々を導くと説く。熊野三山の神にも、夫々、仏が割り当てられ、古来、信仰されていた神は実は仏の化身であったという教義が広まった。
 八幡神社(佐賀県多久市東多久町別府)=大永8(1528)年、佐賀領主龍造寺氏が宇佐八幡宮を勧請して創建した。江戸期に至っても龍造寺系多久家代々の尊崇を受け、明治期には村社となる。

熊野神社=大正4年の相 知郷土誌には「相知村相知宿の中央高地に在り、眺望佳なり」、山手に鵜殿石仏が在り、山に囲まれた相知では山岳宗教系の信仰が盛んだった。同郡北波多村と 相知町境の岸岳城跡がある。狛犬の顔立ち等、唐津くんちで曳かれる金獅子や赤獅子に似ており、一般的に知られる獅子舞のものとも共通性がある。
 青幡(あおはた)神社(佐賀県唐津市相知町佐里)=延徳元(1489)年再建の棟札を所蔵する古社。松浦党波多氏の氏神で国常立尊等を祀る。伊万里市に在る同名の神社も松浦党の関連だが、祭神は異なる。尚、「青幡」は神功皇后の軍旗の色に由来する。
 先述した大分県三光(さんこう)村上深水の八面山上には二つの池があり、鎮座する大山祇神社の山神が日神化身(水神)としてが降り、同村下深水の雷神社(水神八代竜王を合祀)に宿る。これも豊穣神タノカンサーが水神となり、麓の祠に宿るとした事に繋がる。
 八幡大神の生母神功皇后のご神体とされる三つの巨石、和与石・石体菩薩・金色犬石が在る。八幡大神が宇佐の法蓮と和与して如意宝珠を受けた所で、神仏混淆の六郷満山へと発展する仲介的な役割を果たした霊山と云われる。尚、雷神社は雨乞いの場で、犬丸川は禊ぎの川。

海童(かいどう)神社=佐賀県杵島郡白石町深浦は海神豊玉姫命(龍神)を祀る。奴国の比定地を佐賀県小城郡牛津町付近としたが、佐賀市嘉瀬町を流れる嘉瀬川と同地名の嘉瀬川(河川は見えない)が在り、同県杵島郡や武雄市にも広がっていたと思う。
 付近の妻山神社には素戔嗚尊の御子五十猛命が韓(から→わに)国から樹木の種を持ち帰り、杵島山に播種し、その発芽を見てから紀伊(きい)の熊野に 行った。全山が緑に覆われたので木島=杵島と呼んだと伝称される。その徳を称える神社を創建、妹抓津姫(玉依姫)命を合祀して勇猛山(妹山)を神奈備にす るか。と在る。こうした伝承も海民(わに)が奴国(姉豊玉姫)と狗奴国(五十猛命と妹玉依姫)に分裂した事を示唆する。






  1. 2016/07/16(土) 10:27:12|
  2. 6.国々の比定
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◇伊都(ヤァタ)国

 伊[・ıər][・ıi][i] 都[tag][to][tu]=ィァタ(八咫)→ヤワタ(八幡)→ヤバタ→ヤマタ(山田)は、末盧国(佐賀県唐津市柏崎付近)から松浦川を遡り、牟田部付近から伊岐佐川を遡上、同市相知町伊岐佐(中原遺跡)付近で一泊、翌日か、休息日を挟み、翌々日、同川を下り、同町山崎付近の松浦川と厳木川分岐点から厳木川を遡上、同市厳木町(いつき→きうらき)浦川内・広瀬・うつぼ木・浪瀬(鶴田神社)で、一泊、翌日か、休息日を挟み、翌々日、大使や副使を輿に乗せ、下賜品を負い従者は徒歩で笹原峠を越えた同県多久市北多久町多久原(宮地嶽神社)・大野・仁位所・松ヶ浦、多久町東ノ原(多久聖廟)一帯に比定する。尚、奴国へ通じたであろう山越道沿い同市西多久町板屋(いたや)にも一大率の役所があり、往来を検察し、出入りを規制した。
 通説の糸島半島基部福岡県前原市にも板持(いたもち)・多久(託杜神社)・雷山(神籠石)・高来寺(こうらいじ)の怡土城跡・神在(宮地岳)と、筑紫平野を挟み東側、奴国の比定地の一つ、同県福岡市博多区板付(いたづけ)・金の隈遺跡、その東側の不彌国の比定地、同県糟屋郡宇美町の東北側、博多湾を望む同郡篠栗町乙犬(いついぬ→おといぬ)が在り、これらも、その往来が検察されたのだろう。
 篠栗町金出(かなで)の飯盛山南側、夫婦山の若杉山太祖神社(糟屋郡篠栗町大字若杉字石ヒシキ1047)には、「記」国産神話で黄泉国から還った伊邪那命が祀られる。博多湾を挟んだ西側、同県福岡市西区飯盛・金武(かなたけ)・飯盛山(飯盛神社伊奘冉)が在る。
 宮地岳や宮地嶽神社は長崎県北松浦郡(現松浦市)鷹島町阿翁免「宮地岳」、同県松浦 市今福町滑栄免(なべるばえめん)「宮地岳神社」、福岡県前原市神在「宮地岳」・同市作出「宮地岳神社」、同県筑紫野市山家「宮地岳」、同県宗像郡(現福 津市)津屋崎町宮地浜・宮司(みやじ)には、宮地嶽神社(神功皇后・勝村大神・勝頼大神)の本社が在る。
 地名「宮司」は大分県杵築市宮司・大平・熊野・筒木・奈多・美濃山・八坂・山田、滋賀県長浜市宮司・八幡中山町・一ノ宮町(豊国神社)、同県坂田郡(米原市)山東町大野木・北方・小田(やないだ)・村居田には息長日広姫陵(神功系)が在る。
 「記」御食津大神(みけつ)を「紀」笥飯(けひ)大神「気比(きひ→きび)」とし、岡山県の旧国名「吉備」との関連を示唆する。また、地名「鮎帰」は佐賀県東松浦郡七山村鮎帰・馬川・木浦・白木・博多、熊本県八代郡(現八代市坂本町)坂本村鮎帰・早水・板持・久多良木(きうたらぎ→くだらき)・百済来川、大分県西国東郡(現杵築市)大田村鮎帰・白木原、岡山県岡山市鮎帰・鮎返・納所(のうそ)・乙子・金田・久米・長野・広瀬・福井・室山・八幡・半田(はんだ)・山田・大和町(飯盛山・三光山)等が在る。
 「記」名前を易えた事に対する御幣(みてぐら)の海豚(イルカ)の血が臭かったので、血浦(ちうら→きうら)と呼んだが、今は都奴賀(つぬが)と云うとする。例えば、仲哀天皇の父倭建命(日本武尊)が白鳥になり飛んでいったと伝承される事、都奴賀を大鳥の鶴賀(つぬが→つづが→つるが)とすれば、河内恵賀に葬られた仲哀天皇と福岡県田川郡香春町の鏡山大神社(河内王墓)の神主鶴賀氏と、「紀」垂仁天皇に会うために渡来したと伝承される同町採銅所の現人神社の「都怒我阿羅斯等」にも繋がり、角賀(つぬが→つづが→つるが)=鶴賀(敦賀)とされた。
 尚、角[kūk][kɔk][kiau(kiue)]・賀[ɦag][hə][ho]の上古音に拠ると、「クッファッ→カハ」で、角賀羅=香春(か・はら→かわら)ともなる。

伊[・ıər][・ıi][i]/都[tag][to][tu]=何度ものべてきた が、隋唐期以降の音でなければ、イト(イツ)とは訓めない。また、乙[・ıĕt][・iĕt][iəi]とあり、旧くは、壱(一・壹)と略同音だった事か らすれば、男弟(伊都国王)が政を佐けたと在る事に影響されたのか、「イツ→オツ→オト」にされた。

多久聖廟=孔子を祀る。伊都国の支配者層は儒教的思想で統治した周武王の弟、召公奭 (しょうこうせき)か、その子が封ぜられた「燕」の人とされる衞滿が興した衛氏朝鮮の王族に関系するとした。燕=現河北・東北南部・朝鮮北部を領し、薊 (現北京)に都し、43世で秦の始皇帝に滅ぼされた(~前222)。4世紀初め~5世紀初めにかけて鮮卑の慕容氏が建国した前燕・後燕・西燕・南燕・北燕 等の国々(五胡十六国)。河北省の別称。

仁位所=対馬の浅茅(あそう)湾岸部の長崎県下県郡豊玉町仁位(にい)港の仁位和多都見神社(祭神彦火火出見尊・豊玉姫命)に繋がる。もしかしたら、桓武天皇御子葛原親王後裔平忠時の娘で平清盛の妻、二位尼時子と関係が在るのかも知れない。全国に二位田・仁井田・新井田等の地名が在る。尚、佐賀県神埼郡神崎町大字的の仁比山下宮神社「天知加流水姫命(大山津見神の娘)配大山咋命」がある。

託杜神社=伊弉諾命・伊弉册命・瓊瓊杵命・埴安命彦・火火出見命・鵜草葺不合尊・木花開耶姫命。由緒は不詳。「十六天神」とされていたが、慶応年間現社名に改名した。村名とされるが、村の名が「多久」であった理由は定かではない。
 丹生広良氏の丹生神社と丹生氏の研究によれば、本来、託杜咩神は丹生都比売神の異称と云う。一方、この地は天日矛との繋がりが強く、赤留比売神とも云われる。託杜咩神は託宣の神で、本殿背後の丘を祀っているらしく、その遥か延長線上に宮地岳がある。

飯盛山=『飯盛神社由緒』に拠ると、上宮・中宮・下宮に神宮寺を設ける。高皇産霊尊後 裔忌部臣祖の天太玉命が伊奘冉尊を奉齋することを創建のを起源とする。上宮に伊奘冉尊 合祀 宝満大神(玉依比売)・八幡大神(品陀和貴命)、中宮に五十 猛尊を奉齋、下宮に天太玉命(大山咋神)を祀ったと云われ、飯盛三所権現宮と称した。
 佐賀県伊万里市山代町久原にも同神社、長崎県佐世保市指方町(飯盛山)・松浦町・松瀬町・大和町、長崎県北高来郡飯盛町嵩(飯盛山)、「飯盛」は全国に地名や山名として見られ、磐窓神社とも関連が在るとも云われる。佐賀県北松浦郡福島町里免の西北海上、同郡鷹島町には宮地岳、また、福島県会津若松市にも飯盛山が在る。
 「倭人伝」八幡岳や女山(おんなやま)源とする牛津(多久)川で東南方面へ下り、佐賀県小城郡牛津町(奴国の泊津)に向かう。そこから有明沿岸航海で奴国中枢部に向かった。尚、同町乙柳(おとやなぎ→いつやなぎ)付近に一大率の役所があったと思われる。
 尚、そのまま松浦川を遡り、鈴山峠を越えるか、女山(おんなやま)を迂回するか、同県武雄市・御所・多々良・真手野・ 楢崎(ならさき)付近が奴国領で、同市橘町には武雄市を見据える、おつぼ山神籠石、玉島古墳、潮見古墳等、古代遺跡と南側の同県藤津郡塩田町には飯盛山が ある。また、大分県下毛郡本耶馬渓町大字西谷4443番地の山神社の境内社宮地嶽神社、山口県下関市中之町1の1(宮田町)の亀山八幡宮摂社にも在り、長 崎県佐世保市八幡町・宮田町・比良町にも亀山八幡宮、隣町の同県東彼杵郡川棚町日向付近に八幡山、同郡東彼杵町大平・飯盛付近に飯盛山が在る。

宮地嶽神社=社が鎮座する丘陵(宮地嶽)中腹、奥宮八神社の一つ不動神社奥に最大級の 横穴式石室古墳があり、山頂を宮地(宮司)とする人々は東遷後、故地を奪った人々と対立したと考える。他にも宮地(宮司)は、岡山県御津郡建部町宮地、岡 山県上房郡北房町宮地。同県上房郡賀陽町宮地、同県久米郡久米南町宮地、広島県山県郡芸北町宮地、山口県宇部市宮地町、徳島県麻植郡山川町宮地、高知県高 岡郡越知町宮地、長崎県佐世保市宮地町、熊本県八代市宮地町、同県本渡市宮地岳町、同県下益城郡城南町宮地、同県阿蘇郡一ノ宮町宮地、同県天草郡新和町 大宮地・小宮地、滋賀県長浜市宮司町、福岡県宗像郡津屋崎町宮司、大分県杵築市宮司が在る。

血浦(ちうら→きうら)=万葉仮名甲「き」と乙「き」には、旧くは「ki」や「gi」系の音から現北京音「ji(ジ)」「qi(チ)」と転音する漢字が使われる。例えば、以下が在る。*音は順に上古音・中古音・近世音・北京音
  伎[gieg][giıĕ][ki][ji](ギ→キ→ジ)  吉[kiet][kiĕt][kiəi][ji](キチ→キツ→ジ)
  岐[gieg][giıĕ][k`i][qi](ギ→キ→チ) 祈[gıer][gıi][k`iəi][qi](ゲ・キ→キ)

香春町=東側へ抜ける仲哀隧道(七曲峠)付近の御所ヶ岳(馬ヶ岳)西麓、福岡県京都郡 (現みやこ町)犀川町木山、同県行橋市津積(つつみ)・大谷と同県京都郡勝山町大久保の境には御所ヶ谷神籠石が在り、或る時期、この付近が新羅系と百済系 の最前線だったとも考えられる。その福岡県田川郡香春町には、勾金(まがりかね)と云う地名が在り、金(かね→かぬ→かづ→かど)とすれば、曲角(まがり かど)か。

敦賀(つるが)=福井県南部、敦賀湾に面する港湾都市。古代から日本海側における大陸交通の要地。奈良時代には角鹿(つぬが)と称とある。尚、敦[tuər(tuən)][tuəi(tuən)][tuəi(tuən)]とあり、音的には、ツル(ツヌ)の何れもでも良い。前者の語義は、太くてズッシリとした黍稷(キビ類)を盛る祭器、後者は、「形」ズッシリと安定している様子。
 



  1. 2016/07/26(火) 07:57:02|
  2. 6.国々の比定
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◇八幡

 伊都(イァタ→ヤタ/ィエタ→エタ/ヤァタ→ヤハタ→ヤワタ)とすれば、八幡神(応神天皇)=広幡八幡麻呂、広鰭(広幡)と狭鰭(佐波)に繋がり、佐賀県東松浦郡厳木(きうらぎ→きゅうらぎ)町西側同県伊万里市・武雄市・多久市境に八幡岳・女山(おんなやま)・眉山を迂回し、馬神峠から東側へ向かうと、不彌国に比定した同県小城市小城町石木(土生遺跡)・栗原(鏡山)・鯖岡、同郡三日月町金田・久米・三ヶ島、同県佐賀郡(現佐賀市)大和町佐保福島・東山田松瀬・久地井(肥前国庁跡)・尼寺(一本木遺跡)に至る。
 佐賀県東松浦郡相知町中山付近で厳木川に分岐せず、松浦川を遡上した武雄市付近を奴国とした。その東南側、有明海を挟んだ福岡県八女市や同県大牟田市付近が邪馬壹国。奴国南側が委奴国から分裂し、邪馬壹国連合と対立する狗奴国で、末盧国「鏡山」別称「七面山」と佐賀県伊万里市の境界にある眉山(まゆやま)が島原半島にも在り、同族の狗奴(かな)国を島原半島一帯と八代海を挟んだ熊本県南部に比定した。
 八幡(はちまん→ヤハタ)は、「分」「半」の上部「八」=二つに別ける、「幡」=巾(はた)+番(つがい)と云う語義を併せて、夫婦の旗を別ける事→父 母の離縁とすれば、宇佐八幡宮中宮と上宮に母の神功皇后と御子誉田別(広幡の八幡麿)=応神天皇は祀られるが、父の仲哀天皇は祀られずに海峡で別けた山口 県下関市、長門一之宮、住吉神社に仲哀天皇陵墓伝承地が在り、木屋川沿岸の同県豊浦郡豊田町江良(えた→えだ→えら)・飯塚・長野、同郡菊川町岡枝境、華山西麓に天皇の殯葬所跡がある等、その理由が判る。
 おそらく、狗奴国(男王卑彌弓呼+壹與=玉依姫)と邪馬壹国(女王卑彌呼→臺與=豊玉姫)と云う関係をも示唆し、金印を授かった奴国連合の首長だった委奴(わぬ→ゐぬ→いぬ)国王が邪馬壹国と伊都国連合に属す奴国と、狗奴国に分裂した事と繋がる。
 また、古墳とされる山の麓に鎮座する宇佐神宮下宮には須佐之男命と天照大御神の夫婦が祀られる事から、退治されたヤマタノヲロチが、ヤハタ→ヤバタ→ヤマタ(山田)のヲロチとすれば、大分県・熊本県・宮崎県境、祖母山麓一帯では、蛇をヤアタ・ロ(ヤァタの)と呼ぶ事にも関係があり、その北麓、大分県竹田市嫗嶽東側、同県大野郡(現豊後大野市)大野町住吉・矢田が在る。
 後述するが、巴利国の「巴」=(字統)器の把手の形。「説文」蟲なり、象を食う蛇なりとし、字を蛇形として解す。(字統)「邑」=囗(国構・イ)=城壁 を巡らせた所と「巴」=多数が生活する。(字統)「利」禾と刀で、金文には犂鋤や犂の形で見える。禾稲を刈り、収益を得る=利益とあり、大蛇の伊都国配下 の巴利国が為吾国の国人(象)を労役として使役させ、水田の為の治水工事等を担った。
 上記、佐賀県東松浦郡相知には、享保4(1719)年、山を削平した石段上に鎮座する波多壱岐守が勧請した熊野神社が在る。「相知郷土誌」中央高地の相知宿(相知村)は山間に在り、山岳信仰(彦山神社・鵜殿石仏)が盛んだった。
 先述の佐賀県東松浦郡相知町伊岐佐(大野・鶴田)と同地名とした福岡県飯塚伊岐須(いきす)東南側には英彦山神社本社がある。眺望佳なりとあり、松浦川の往来を見張る烽火台や櫓等があったのだろうが、そうした資料は未だ見あたらない。
 その相知町伊岐佐の三光神社と同名の大阪市天王寺区玉造本町姫山は、反正期創建、陸奥国青麻三光宮分霊の神職は武内宿禰後裔の武田氏で八十有余代を数える。その相知町の南側、佐賀県武雄市には武内宿禰と、その妻豊子(壱岐真根子の娘)の伝承が在る。

「イァタ→ヤタ/ィエタ→エタ→エダ→エラ」=下記の地名が在る。
  山口県豊浦郡豊田町矢田飯塚江良・楢原
  山口県山口市大内矢田江良・鰐石町
  島根県安来市矢田町・住吉・福井(伯太川)
  岡山県和気郡佐伯町矢田山田
  岡山県吉備郡真備町箭田・金屋・金山・半田(はんだ)町 
  岡山県阿哲郡哲西町矢田・大野部
  岡山県勝田郡勝田町矢田・大平
  愛媛県今治市矢田・宅間・立花町・馬島
  福岡県嘉穂郡穂波町国(えだくに)
  福岡県北九州市八幡東区光(えだみつ)
  福岡県山門郡(現柳川市)三橋町光(えだみつ)
  佐賀県神埼郡(現神埼市)神埼町ヶ里・馬郡・作出・鶴田山田(仁比山)
  佐賀県鹿島市古、同県藤津郡塩田町大牟田
  熊本県玉名郡菊水町(和水町)江田・竈門(かまど)
  大分県宇佐市時・葛原・山田
  大分建県竹田市・菅生・玉来
  大分県豊後大野市三重町百(ももえだ)・菅生・玉田
  大分建県大野郡清川村宇田
  広島県安芸郡江田島町秋月・山田
  広島県御調郡御調町江田・釜窪・福井山田
  島根県出雲市江田町・大津町・白 
  徳島県小松島市江田町・豊浦町・前原町

奴国=奴国のトーテムが「牛」で、伊都国から不彌國から向かう東方向の道ではなく、東南方向の今出川から牛津川沿いの道を向かうと、奴国の出先津の佐賀県小城郡牛津町(牛尾神社)に至る。ここにも一大率の官吏が常駐する役所(牛津町柳)があったと思われる。
 尚、佐賀県厳木町屋西北側、八幡岳東北側、同町 船山には女山(おんなやま)が在る。その東側に伊都国と不彌国が並ぶ。南側の女山峠を越えると奴国の中枢部に到る。また、その東南側、有明海を挟んだ福岡 県山門郡瀬高町(現みやま市)女山(ぞやま)には女山神籠石が在り、邪馬壹国の比定地とした。

眉山=月読尊に殺された保食神の亡骸、頂に牛馬生れり、顱上に粟生れり、眉上に蠒生れ り、眼の中に稲、陰に麦と大小豆生れり。蠒(かひこ)とするが、繭(まゆ)と同字、蠶(かひこ)は簪や潜等と同系で、隠れる事とすれば、繭に籠む虫(甲 籠)となる。尚、阿波国(徳島県徳島市佐古山町)にも眉山・天神山(天神社・菅原道真)がある。

ヤマタノヲロチ=八頭とは八つの頭ではなく、魁(はたがしら)を二つに別ける事、月読尊に殺された保食神の頂に牛馬生る事に関連する。尚、邪馬壹国の比定地とした福岡県大牟田市甘木(あまぎ)・出雲町・教楽来(きうらぎ→きょうらぎ)・長田町・松浦町・馬渡町・三池(宮地嶽神社)等、祇園社(素戔嗚尊)では大蛇山(だいじゃやま)祭が行われる。

熊野神社=旧日月山神社、江戸中期、嬪山神社とされたが、維新後、宰相山神社とも号した。明治末期、境内に鎮座する三光神社を合祀し、三光神社に改められた。陸奥国青麻三光宮より勧請した三光神社と合併した嬪山神社の跡地に、大学の創始者は学舎を建てたいと願った。
 そこで三光神社の祭神、日、月、山の神と嬪山神社の祭神、仁徳帝、八幡神、稲荷神、風神を合祀、七柱の神を地主神とする事で合意、その名残と云う意味不明の由緒と説明が在る。
 尚、大分県下毛郡(現中津市)三光(さんこう)村宮地・山田、同県中津市金谷・博多町・八幡町・福島、福岡県築上郡(現上毛町)大平村有田・土佐井(つちさい)等が在る。*三光=日(天照大神)、月(月読尊)、星(素戔嗚尊→天津甕星・星神香々背男) 

陸奥国青麻三光宮=祭神「天照大神・月読尊・素盞嗚尊(星神香我背男)・仁徳天皇」、摂社武内宿禰社・野見宿禰社・主守稲荷社とあり、三光の由来は、太陽・太陰・星の三光と在る。





  1. 2016/08/01(月) 08:40:36|
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◇河川陸行

   当時、列島の自然環境や道路状況を考慮するに縦横に走る河川や治水用水路で平底船を使い荷役に利用したと思う。詰まり、ここで云う陸行とは河川航行用の 平底船に大使や副使等の上級者を乗せ、荷物も載せて従者が河岸から船を曳いた。遡上する場合、歩く速度と同程度か、流れに逆らうので、幾分、遅くなるかも しれないが、大使や副使は疲れず、多くの荷物を運べると云う利点がある。下降する場合、川下りの船と同様、流れに乗るので遡上よりも早く進む。  
 奴国の位置関係はややこしい。伊都国と同方向の東南百里で至るとすれば、7~14㎞前後で、不彌国より南西に位置する。詰まり、この国も有明海沿岸部になるが、当時(弥生期)の海岸線は、現在のそれよりも内陸部にあったとされる。*「遺跡との照合」の図参照
 伊都国に到着した翌日を休息日として、翌々日、佐賀県多久市北多久町多久原(たくばる)付近、山犬川の流れで下り、牟田部付近で、八幡岳・女山(おんなやま)を源流の同市西多久町板屋山崎付近を流れる牛津川が合流した多久川から晴気川(小城市小城町晴気付近)に入り、佐賀県小城郡牛津町牛ノ尾(牛尾神社/祭神・素戔嗚尊の五世孫とされる天之葺根命)か、佐賀県多久市東多久町納所・天山・柳瀬松瀬付近が、道程で記述される奴国(同県小城郡牛津町柿樋瀬には生立ヶ里遺跡)だが、先述の如く魏使は向かって居ない。おそらく、奴国の出先機関(湊津)だが、一大率の官吏や武官が常駐し、検察したと考えられる。
 尚、一方の不彌国は、その東多久町別府・柳瀬松瀬か、小城郡小城町山崎や船田付近で下船したか、或いは、河川に拠らず、徒歩で小城町栗原付近の鏡山を目指し、迂回して同郡三日月町石木に向かった。略10㎞(百里)で着く。尚、同郡小城町鯖岡付近が不彌国中枢と考えられる。
 1971年9月、散乱していた土器が鉱害復旧事業で発見された佐賀県小城郡三日月町石木・甘木付近の土生(仁俣・久蘇)遺跡は弥生時代中期の大規模な集落跡で、発見時は登呂遺跡(静岡県)に匹敵する最大規模の遺跡として大きな話題になった。
 佐賀平野における中核的な集落、青銅器づくりの拠点でもあったとされる。朝鮮系無文土器や木製農具、青銅器の鋳型等が数多く出土している事から朝鮮半島 から渡ってきた渡来系の人々との強い繋がりを示す。表面が黒く塗られ、取っ手が牛角の如く尖った壺等、朝鮮半島系の特徴を持つ土器類が多数出土した。 朝鮮半島系から次第に弥生土器へと変遷していく様子が分かる。木製農具や道具も多数出土した。
 同遺跡から初めて完全な形で出土した韓国に伝わる“幻の農具”、土を耕すために人が踏んで使う弓状の踏鋤(ふみすき)は、韓国内でも出土例がない。

ariake2.jpg 

 上図は、末盧国からの河川陸行に使われたと思しき河川の略図で、青矢印は河川の流れる方向。黒矢印は陸路で、手持ちの地図では笹原峠に河川は見えないの で、従者は大使や副使を輿に乗せ、荷物を担いで、峠道を歩いて越えたと考えられる。一日で進む距離は短かいが、従者の疲労を考慮して、翌日、必ず、休息日 を設けたと思う。
 また、多久市南部を東西に流れる多久川を使ったとしても、今出川合流地点から東流する河川は見あたらないので、今出川を遡上し、笹原峠と同様に陸路を徒 歩で向かったか。或いは、福岡県柳川市大和町徳益の八枝遺跡では柱が軟弱な地盤に沈み込まない様に工夫された掘立柱建物が検出されたとあり、伊都国(蛇) 配下の巴利国が為吾国人(象)を使役し、耕作地を拡げたり、水運のための治水工事に従事させたとしたので、河川と河川を繋ぐクリーク(小運河)を造らせた とも考えられるので、平底船で不彌国付近迄も行けたのかも知れない。

西多久町板屋(いたや)=奴国の中枢部へ抜ける山越えの道沿いで、北西へ向かって流れる川辺の南西に位置する小高い丘の東北側斜面に在り、付近を一望できるので、一大率の見張り台があったと考える。 

土生遺跡(仁俣・久蘇)=佐賀平野西部の標高6~9mの扇状地に立地する弥生中期前半を盛期とする集落遺跡で、昭和4(1971)年 に発見された。多量の弥生土器とともに鋤や鍬、斧柄等の木製農工具をはじめとする豊富な木製品が発見され、青銅器生産は鋳型と土器との共伴関係から弥生中 期前半には本格的に開始されたとされる。また、朝鮮半島から持ちまれた技法とみられる国内で2例目の発見だった「井」の字に組んだ井戸用の板。青銅器の鋳 型(県重要文化財)で、日本で初めて発見された「銅槍鉋」の鋳型をはじめ、銅剣、銅矛等、種類も多く青銅器作りが盛んだった。
 平成4年度には銅ヤリガンナ鋳型1点、13年度には青銅器鋳型2点、14年度には青銅器鋳型4点が出土している。北東側に隣接する弥生時代を中心とする 集落遺跡の仁俣(ふたまた)遺跡は、平成8年の発掘調査で弥生時代中期前半の土器とともに銅矛鋳型1点が出土。久蘇(くしょ)遺跡は、土生遺跡西側から南 西部にかけて展開する弥生時代から近世にかけての複合遺跡であり、平成14年度の発掘調査で銅矛鋳型1点が出土。昭和48年に遺跡の一角が国史跡に指定。
 青銅器の産地は同定鉛同位体比の測定による銅産出地説
 東京国立文化財研究所の馬淵久夫(保存科学部長)により2,500点もの銅器の鉛同位体比が測定され、弥生期の鉛(銅の産地と一致すると仮定した上での 素材供給地の変遷が調べられた。その結果、弥生初期では朝鮮半島から供給され、やがて中国・華北地方へと移行したと結論。その境界は前108年(BC1世 紀)、漢の武帝による楽浪郡の設置に当たった時期としている。
 華中・華南の原料が使用されるようになったのは古墳時代からであり、この時代となると、華北原料は全く認められなくなる。この見解に従うなら、弥生中期から後期にかけての日本の銅器原料は中国華北地域ということになる。
 2007年に韓国立慶尚大学招聘教授の新井宏が発表した研究結果では、弥生前期末から中期初めのものとされる青銅器は、中国最古の王朝とされる商(殷、 BC17~11世紀)や西周(BC12~8世紀)の時代に多く見られる青銅器と、鉛同位体比が一致することが判明し、極めて特殊な鉛の種類が含まれていた という。

最大規模の遺跡=鳥取県米子市と大山町に跨る妻木晩田(むきばんだ)遺跡は、集落は弥 生時代中期後葉(BC1世紀)から形成され始める。弥生時代の遺跡としては佐賀県の吉野ケ里遺跡の3倍以上の面積を持つ集落跡が中国地方の最高峰、大山の 北麓にある。謎の多い古代の山陰地方で、弥生時代から古墳時代への移行期のカギを握る遺跡として注目を集める。
 鳥取県米子市と大山町に跨る152㌶が国史跡。遺跡中、最大の墳丘墓、3世紀後半の築造、仙谷8号墓の石で組まれた石棺から弥生時代最末期の首長の骨が見つかった。この巨大集落は、この後、程無く突然消滅。
 




  1. 2016/08/07(日) 22:34:00|
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◇弥生遺跡

吉野ヶ里遺跡(BC250-300)=北に背振山地と東南に筑後川に挟まれた地形に在り、北に三津永田遺跡、二塚山、検見谷遺跡、少し離れて安永田遺跡、千塔山遺跡がある。
石動四本松遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町三津)=石動字四本松の縄文~平安の複合遺跡。弥生期の甕棺墓、木棺墓、土壙墓、石棺墓等、弥生後期前半のJ032甕棺墓は単棺で棺外口縁部から連弧文昭明鏡一面、棺内から硬玉製勾玉、碧玉製管玉が出土。連弧文昭明鏡は8片に割られ、鈕の部分を抜き集めた状態で発見、面径12.6㎝。銘帯に「内而青而以而昭而明而光而象而日而月而夫而」20字。
三津永田遺跡(佐賀県神埼郡脊振村・東脊振村)=吉野ヶ里遺跡北方の段丘上、甕棺墓と箱式石棺墓。人骨と青銅器や鉄器、貝釧、硝子製品。連弧文清白鏡等、5面の漢式鏡等。
二塚山遺跡(佐賀県三養基郡上八村)=吉野ヶ里遺跡の東方、弥生前期末~後期の甕棺墓、土寇墓、箱式石棺墓。鏡、貝釧、硝子小玉、管玉が出土。鏡は連弧文清白鏡獣帯鏡を含む4面の漢式鏡と小型倣製鏡。
検見谷遺跡(佐賀県三養基郡北茂安町)=一括埋納された銅矛は12本中10本が研ぎ分けによる綾杉状の装飾を持つ。同例は島根県の荒神谷遺跡出土の銅矛16本中、4本にも。
千塔山遺跡(佐賀県三養基郡基山町)=弥生中期~後期の住居跡から青銅鋤先が出土。他41軒の住居跡や8棟の掘立柱建物を確認。
安永田遺跡(佐賀県鳥栖市安永田)=弥生中期後半~末。石製銅鐸鋳型片(横帯文)・砥石・石製銅矛鋳型片・鞴羽口片、方形炉遺構(3×4.5m)
一本木遺跡(佐賀市大和町尼寺)=弥生~鎌倉の集落と墓地。土壙墓の床面直上から長径10.5×短径9.1×厚0.2の猪目型湖州鏡が出土。鏡面上に鑷子(毛抜き)、13世紀前半の下部に陽刻された「湖州石家煉」の文字は類例と方向が異なる。
生立ヶ里遺跡(小城市牛津町乙柳字立籠)=晴気川支流の氾濫で形成された沖積平野の標高3~4mの微高地に立地。弥生~古墳、平安の集落を確認、状態が良好な木製品が多数出土。柱・杭・礎板等の建築部材、剣形木製品・槽等の儀器、鍬・鋤・臼・竪杵等の農耕具、杓子・皿・匙形木製品の農耕具、組合式木甲短冊形。弥生中期前半の槽は一木を刳り抜き、外面に黒漆と赤漆の直線文と重弧文様を描く。
高志神社遺跡(佐賀県神埼市神埼町神埼)=弥生期の集落、墓地、貝塚。北側では弥生前期、末~中期中頃の甕棺墓38基、一基から絹布に巻かれた完形の細形銅剣(35.9㎝)、30~40代、男性の人骨に刺さった銅剣の切先、石剣や石鏃、鮫歯製の鏃等が出土。
増田遺跡(佐賀市本庄町大字本庄)=脊振山地南麓の洪積台地南端、弥生~中世の複合遺跡。弥生期の甕棺墓主体の墓地が広範囲に分布、周辺部では朝鮮半島関連の遺構や遺物、弥生前期~中期の多鈕細文鏡は唐津市宇木汲田遺跡・大和町本村籠遺跡と3例目。
土生遺跡(佐賀県小城郡三日月町土生)=弥生前期末~中期前半の無文土器は朝鮮半島の特色を有す無文土器が多い。福岡市の諸岡遺跡や三国丘陵等、朝鮮半島と同様の物や、この遺跡等で見られる在地の土器に影響を受けた無文土器へと変遷する。

 弥生前期末~中期前半、北部九州各地に国ができ、朝鮮系多鈕細文鏡や細形銅剣・銅矛・銅戈(青銅器)を持つ首長層が現れる。土生遺跡や諸岡遺跡の初期で は、金属器鋳造の炉や滓、送風管の口、鋳型等は見つからない。それは隈・西小田遺跡(福岡県筑紫野市)の隣り、同県小郡市の三国丘陵遺跡群等も同様で、青銅器鋳造の資料は中期前半の無文土器とともに現れる。
 尚、祭祀用具と思しき鏡や銅剣等と、農具の鋤や杵臼、鋳型等の副葬品は国体の違いを示し、順に連合体に列する神官系や武人系、服属した耕作民系、治水や鍛冶鋳造等の技術者系だろう。

無文土器=
隈・西小田遺跡で朝鮮半島系の無文土器が3点ほど出土。朝鮮 で農業が始まった時代、無文土器時代、或いは、青銅器時代の土器で、早期・前期・中期・後期に分類され、朝鮮半島系無文土器と呼ばれ、弥生人は祭祀として ではなく、日用雑器として使った。尚、海上交易を担った倭人に拠るのか、擬弥生土器とされる列島側から搬入されたと思しきものもある。
 一方、弥生前期末から中期後半には、九州の対岸、朝鮮半島の慶尚南道地域にも、この時期の弥生土器を出す遺跡が幾つかある。特に慶尚南道泗川市(三千浦 市)南、南海島付近で狗邪韓国の比定地の西側の勒島遺跡では、弥生中期初頭~前半の搬入・忠実再現品や擬弥生土器がまとまって出ており(全体の7~8% 程)、弥生人(倭人)が長期間集住し、実際に九州と朝鮮南部の相互交流を示す。
 隈・西小田遺跡で少数だが忠実再現品とされる弥生前期末~中期初から直接にせよ間接にせよ、細々とした朝鮮南部との繋がりを示し、中期前半の第3地点 109号甕棺に副葬された細形銅剣を入手できた。当初、無文土器が出る集落は三国丘陵等、福岡県内に散在するが、やがて西の佐賀平野の土生遺跡等で見られ る在地の土器に影響を受けた擬無文土器へと変わっていく。

青銅器鋳造=朝鮮でも後期無文土器とともに鋳型が出た例は未だないので、青銅器を作った人々は極めて限られた集落の限られた人々で、弥生前期末に日本に来た無文土器人に青銅器を作る技術はなかった。そして、こうした人々が拠点集落に配置され、朝鮮との交流の回路を確保して交渉を重ねる中、初めて青銅器工人を獲得できたとする。
 無文土器を使う渡来人の集落は朝鮮半島から来た青銅器の工人が渡り歩くネットワークの拠点だったのかも知れないとするが、八ノ壺遺跡等、南の熊本平野で も在地の弥生土器に交じって見つかっており、その分布は、先の青銅器鋳型の出土範囲と重なるとされる。こうした技術者の全てを半島からの渡来人としてよい のだろうか。





  1. 2016/08/16(火) 08:47:25|
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◇奴(ナッ)国=箕子氏後裔の奴国連合の宗主国

 佐賀県東松浦郡相知町付近を分岐点として、そのまま松浦川を遡るか、天ヶ瀬ダムのある鈴山峠を越えるか、八幡岳・女山(おんなやま)・眉山を迂回、南下した後、東行すると、佐賀県杵島郡北方町馬神、同県武雄市御所・楢崎・多々良・馬渡付近の杵島山麓に至る。同市橘町大日付近の犬山岳西側中腹には有明海側ではなく武雄市を見下ろすおつぼ山神籠石が在り、この一帯を奴国の中枢として比定する。
 有明海を挟み東南側、福岡県山門郡(現みやま市)瀬高町大草・広瀬女山(ぞやま)に女山神籠石、隣町の同県八女市岡山・緒玉(をだま)・福島・八幡が在る。二つの女山は、「記紀」御子葺不合命の生母、海人の娘姉の豊玉姫は離縁、その妹玉依姫は乳母(養母)となり、長じた御子の妻になる事、天降りした天孫に醜いと返された姉の石長比賣と妹木花佐久夜毘賣と云う関係にも擬えられる。
 尚、奴(ナ)・国(羅=ラ)=奈良・楢とすれば、他にも下記の地名が在り、狗奴国との戦いに敗れ、故地を追われた人々が東遷したと考える。

  福岡県甘木市(現朝倉市)奈良ヶ谷・原・長田大平・馬田(まだ)
  福岡県田川市奈良・伊田(いた)
  福岡県福岡市博多区奈良屋町・板付(金の隈遺跡)・山田
  福岡県三潴郡城島町津、同郡大木町蒲池・蒲生
  福岡県鞍手郡小竹町南良(なら)津・新山崎
  大分県宇佐郡安心院町本・大平・轟
  熊本県八代市奈良木町・長田町・八幡町・二見下大野町・大平
  長崎県南松浦郡奈良尾町奈良尾郷
  愛媛県北宇和郡広見町奈良・下大野
  滋賀県犬上郡多賀町
  奈良県天理市町・山田
  奈良県御所市原・玉手
  岡山県岡山市津・原・鮎帰・金田・久米・住吉・福島・八幡・山田
  岡山県津山市・金屋・田熊・福井・八代・山田
  岡山県英田郡美作町原・巨勢
  山口県豊浦郡菊川町崎・大野(大野神社)・岡枝・印内、同郡豊田町原・飯塚・江良・奈留・矢田

 杵島山麓には玉島古墳(六世紀)が在り、唐津市浜玉町の玉島川との繋がりが見える。先述の如く福岡県福岡市西区生の松原付近にある壱岐神社祭神壱岐真根子(いきまねこ)は、姿形がうり二つだった娘婿武内宿禰の身代わりに死んだ伝承され、その末裔が、代々、宮を守る。
 武内宿禰(山幸?)は、壱岐真根子(海人)の娘子の婿、舅と婿の関係になる。同じ伝承が佐賀県武雄市若木町の伏尺神社にもあり、その遺体を壱岐に運ぼうとしたが、遺体が重く、そこに葬ったと伝う。
 佐賀県杵島郡白石町大字馬洗(もうらい)の妻山神社、古記録の焼失で創祀年代は不明、社伝では五十猛命(いしぅたける→いったける)が韓(から→わぬ)国から樹木の種を持ってきて杵島山に播種、杉・樟の発芽を見てから紀伊の熊野に行った。
 全山が緑に覆われたので木島(きのしま→きしま→かしま)=杵島(鹿島)と呼ばれた。その徳を称えるため神社を創建し、妹抓津姫命(勇猛山)を合祀したと在り、勇猛(ゆもう→いぅもう)山=妹山を神奈備にするかに見えるとある。
 祭神抓津姫命を娘豊子、抓津彦命は婿の武内宿禰として良いのかも知れない。この神を祀るのは全国で妻山(つまやま=端山)神社だけで、当社の上宮を前 坊と称したのは神仏習合や修験道との習合とされる。また、豊前坊の名称も豊都彦(豊津彦)の豊国から勧請されたのか、熊野へ向かった後、杵嶋全山が緑に覆 われたため、再度、還ったとも考えられるので、「熊野」は、旧く遠賀川付近だったとも云われるので、五十猛命の有功神とは樹木を植えたからだけではなく、 功(いさを)は、九州北部に多い神功皇后と御子応神天皇の伝承に関係するのかも知れない。

おつぼ山神籠石=佐賀県唐津市厳木町・相知町と同県県多久市の境、女山(おんなやま) と、その東側、福岡県八女市の女山(ぞやま)と云う二つの山から推測すると、母系豊玉姫と玉依姫に関連して乙母(オツ・ボ)=妹母→姨(オッボ→オバ) で、姉母=甲母と云う関係と考えられる。

奴国の中枢=何度か述べたが、道程に於て記述される伊都国から東南百里の奴国は佐賀県 小城郡牛津町柿樋瀬(生立ヶ里遺跡)付近で、その出先津とした。同町山崎・池ノ上の牛尾神社北側の小高い丘には、その動向を探る見張り台、その東側、同町 乙柳(いつやなぎ→おつやなぎ)には積荷等を検察する一大率の役所があったと考える。また、牛津川を挟み西側、同県多久市東多久町納所には、後代だろう が、租税や船の積荷を保管する倉庫群があったのかも知れない。

女山(おんなやま/ぞやま)=卑彌呼の宗女とされる臺與、または、壹與に関連が在ると考える。「記紀」海幸山幸説話に擬えると、狗奴国に抗しきれず、臺與(豊)は九州東北部に東遷、壹與(伊豫)は狗奴国王卑彌弓呼の乳母から妻になったと考えられる。

奴国=使われる漢字音は、奴[nag][no(ndo)][nu]・国[kuək] [kuək][kuo]、国(クァェッ→ケッ)とすれば、「ナケ/ヌダケ」となり、邪馬壹国伊都国連合を受け容れ、承諾した「紀」伊奘諾(イザゥナ ク)、「記」伊邪那岐(イジァナギ)は、そうした状況下へと導いた黒幕か、投馬国(タグマ→ナグマ)の国名(投[dug][dəu][t`əu]・ 海[məg][hai][hai])、その訓音、長(ながい)・長押(なげし)・投(なぐ→なげる)・薙(なぐ)に関連して、長崎県の地名由来の長い岬の囲まれた大村湾を凪海(なぎのうみ→なぐ)とした事に関連があるのかも知れない。

武内宿禰=蒙古襲来以後、北條氏が築いた鷲尾城址(福岡市西区姪浜)の鷲尾山東側の浦山には武内宿禰の出城があったと伝承される。神功皇后が新羅討伐に出港したとされる湊の経営は壱岐真根子か、武内宿禰系統で、当初、倭人の海洋国家を支配した委奴国王かも知れない。
 現在の愛宕神社は、景行期に祀られた鷲尾神社とされる。また、姪浜から室見川を遡上すると、同市西区金武・飯盛・同市早良区四箇(しか)、佐賀県伊万里市二里町大里の金武神社(祭神弁財天)神社、その西側、小高い所に弥生中期の甕棺墓群がある。
 尚、佐賀県多久市との境、女山峠を挟み西側には「御所」という地名もあり、本来、彼等は壱岐から百済や九州北部(倭国?)の小戸等、自由に往来した海民 系統を支配した人々だったが、衛氏朝鮮系統の伊都王と歴年相攻伐した勢力争いに敗れ、服属させられたか。靡いて、一女王卑彌呼を擁立して連合した。それを 嫌がった人々が、狗奴国として南下して対立した。

杵島(きしま)郡=箕子(きし→きね)島/杵島(きねしま→きのしま)/岸島(きししま→きしま)。箕子=殷の貴族、名は胥余(しょよ)で、伝説では紂王(ちゅうおう)の暴虐を諫めたが用いられず、殷が滅ぶと朝鮮に入り、朝鮮王として人民教化に尽くしたと云う。
 箕子朝鮮=古朝鮮の一つ。殷の箕子が紂王(ちゅうおう)の末年に開いたとされる朝鮮の伝説上の王朝。首都は王倹城(現、平壌)。前195年頃、衛満(衛氏朝鮮)に滅ぼされた。尚、論語「微子」箕子、これと為る。と在り、奴国王を箕子朝鮮国や殷(商)王朝後裔に繋がる人とした。

馬洗=馬洗神辺(もうらいこうのへ)は杵島山北部、東に突出した妻山丘陵の東で、旧く は妻山神社領だった。神社西側の高所に弥生中期の甕棺墓群がある。東側妻山古墳群は、6世紀後半の古墳時代後期の遺跡で、妻山神社の社務所前に印鑰(いん やく)石があり、印鑰神社祭神、市杵嶋姫命(弁財天)、その子蘇我石川宿禰を、この社の前身とする見方がある。尚、佐賀県伊万里市二里(にり)町中里の金武神社(弁財天)、同県唐津市浜玉町とも繋がる。
 通常、印鑰神社は国府の近くに置かれるが、志賀島の安曇族祖神を祀る志賀海神社摂社船玉社として鎮座する事から、 『小さき社の列島史』(牛山佳幸著)に印とは国司の印、鑰とは府庫の鍵との説があり、金印との関係を示唆する。
 香椎宮摂社印鑰神社、他にも印鑰神社(熊本県八代郡鏡町鏡村)、この地は八代郡倉跡で、奈良平安期、八代近郷の租米を集めていたが、武家政治となり、郡 倉が廃止された後、郡倉の印と鑰(かぎ)を祀り、祭神として蘇我氏祖石川宿禰を迎えた。印鑰神社(石川県七尾市府中町 223)、その由来には養老三年國府を七尾港付近に設け、港の守護神と鎮祭し、能登國國衙の印璽を保管した由来から印鑰神社と称す。印鑰=官印と官庁の倉 庫のかぎ。天台座主(ざす)の職印と宝蔵を開く鍵で、共に座主となった人が受けるもの。
 御和神社(徳島市国府町府中 644)祭神大己貴神・合祀大山咋神、由緒には名方郡の延喜式内小社で、府中宮(こうのみや)、江戸期には印鑰大明神と呼ばれた。王朝政治の頃、当地は国 司の置かれた阿波国中心地で、印鑰の由来について、当社が国司の官印や国庫の鍵を守護したとされた事、或いは、祭神大己貴命が天子の鍵をお預かりしたと か、弁財天(市杵島比賣)の童児の印鑰が社名となった等、諸説ある。印鑰神社は全国で約20社あり、九州が、その八割を占める。

木島=杵島(鹿島)=武内宿禰の子「紀角(宿 禰祖)」と在り、丹沙産地の杵島郡南側同県鹿島市古枝(祐徳稲荷神社)一帯は塩田川や鹿島川等、数本の川が流れる泥濘地だったと考えられる。その語源は、 糟場(かすば→かしま)・河岸場(くしば→かしま)、霞ヶ浦東側の北浦沿岸部茨城県鹿嶋市宮中(鹿島神宮)・鰐川付近等、殆どが同地形で同源地名となる。

豊前坊=遠賀川沿岸部の福岡県遠賀郡水巻町の豊前坊山、同県北九州市八幡東区荒生田付近にも豊前坊山があった。

神功皇后と御子応神天皇=五十猛命は奴国(奈良→木国)から熊野(遠賀)へ移ったと云う伝承と、福井という地名に関連し、建内(武内)宿禰が御子の禊ぎのため現在の福井県「角賀(つぬが)」へ云ったと云う説話がある。
 「福井」と云う地名が福岡県朝倉郡宝珠山村 福井・同県糸島郡二丈町福井、長崎県北松浦郡吉井町福井免。他にも以下の如く在り、福井をを背負った人々も東遷した後、再度、還り、蘇ったのかも知れない。
 京都府舞鶴市福井、大阪府茨木市福井、兵庫県姫路市網干区福井・同県相生市若狭野町福井・同県宝塚市福井町・同県三木市福井・同県篠山市福井・同県美嚢 郡吉川町福井・同県三原郡南淡町賀集福井、和歌山県海草郡野上町福井・同県日高郡龍神村福井、鳥取県鳥取市福井・同県八頭郡船岡町福井、鳥取県西伯郡淀江 町福井、島根県隠岐郡海士町福井、岡山県倉敷市福井・同県津山市福井・同県総社市福井、広島県御調郡御調町福井、山口県阿武郡福栄村福井、徳島県阿南市福 井町・同県那賀郡那賀川町上福井、高知県高知市福井。


  1. 2016/08/25(木) 20:04:00|
  2. 6.国々の比定
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◇不彌(ハミ)国=美しい文身をした巫女(花弁)を輩出する国を補佐する男王国(萼)

 国名「ハミ→ハビ/ハム→ハブ」と訓んで、佐賀県多久市東側、同県小城郡(現小城市)小城町境、同郡三日月町甘木・石木付近、弥生中期の土生(はぶ)・ 仁俣・久蘇遺跡付近に比定した。他にも福岡県中間市垣生・愛媛県松山市垣生、同県西宇和郡三瓶町垣生、同県新居浜市垣生、山口県厚狭郡山陽町埴生、大阪府 羽曳野市埴生(はにゅう)野、京都府船井郡(南丹市)園部町埴生、富山県小矢部市埴生(はにゅう)等が在る。
 東側に同県佐賀市久保泉町と同県神埼郡(現神埼市)神埼町境、有明海を見下ろす高台に帯隈山神籠石が在り、同県小城市小城町栗原(鏡山)・岡・焼山、その南側、同県小城郡三日月町久米、同県神埼市千代田町余江(香椎神社)、同県佐賀郡大和町佐保・池上・福島・山田にも対馬の豊玉町仁位(仁位和多都美神社・豊玉姫)・糸瀬西北の佐保(佐保浦赤崎遺跡)と同地名が見える。
 「ハミ→フミ・ホミ→ホム」とすれば、応神天皇御名誉田別尊(品陀和気命)や海人穂 積(ほっみ→ほみ)氏とも繋がる。また、前章「思惑と意図」で不彌国の官多模(たま)を仁位和多都見神社(對海国)に繋がる海神を祀る神祇官(神官)とし た様に、比定地の西側、佐賀県多久市東多久町仁位所・別府に、その神祇官の詰所か、船荷等を監査し、検察する一大率の役所が在ったと考える。
 地名「佐波」は、佐賀県東松浦郡(現唐津市)浜玉町の隣、福岡県糸島郡二丈町佐波・福井。他にも福井県鯖江市鯖江、滋賀県近江八幡市佐波江町・板屋町、京都府舞鶴市佐波賀、広島県福山市佐波町、山口県防府市佐波(令)、山口県佐波郡徳地町鯖河内・御所野・西大津等が在る。
  「記紀」大伴氏の「佐保(さほ→さぼ→さば)」や垂仁皇后狭穂(佐波遅)比賣が兄狭穂毘古と共に謀反する事、景行天皇の熊襲討伐前身基地が娑麼(佐波=鯖)と伝承される事とも繋がる。また、「ハンタ→ハタ」とすれば、畑・幡・波多(ハタ)等がある。
 同県小城市小城町東側の吉野ヶ里遺跡の北側、同県神埼市神埼町仁比山の松尾大社分霊仁比山神社(大山咋神・鴨玉依姫・日本武尊他)には729年創建とある。その麓、同県神埼市神埼町枝ヶ里(えだがり)・鶴田山田の山手、同町大字的(いくわ)、仁比山下宮神社(天知加流水姫命・配神大山咋命)の名称由来を仁明天皇と比叡山の二文字とするが、仁比(ニヒ→ニフィ→ニゥイ→ニヰ)=仁位と同源かも知れない。
 佐賀県神埼市神崎町馬郡と隣町同県神埼郡三田川町(現吉野ヶ里町)鶴・田手村付近に吉野ヶ里遺跡、同町と同県佐賀市久保泉町付近に帯隈山神籠石と白髭神社が在る。
 滋賀県高島市高島町鵜川の白鬚神社は「猿田彦大神略記」垂仁25年条、皇女倭姫命が社殿を再建、白鳳二(674)年に比良明神号を賜った。琵琶湖西岸滋賀県大津市志賀町の小野神社・栗原・ 和邇の北側、同県大津市の境、安曇川を遡った比良山(比良嶽)の山神大山咋命で、白髭の老翁、比良神~と在り、琵琶湖周辺には老翁が姿を現す物語が点在。 「長谷寺縁起絵巻」大和国の長谷観音の御依木の運搬を守護する三尾明神が老翁の姿で描かれる。また、水尾神社の賄いの大炊神社隣の長谷本寺にも伝わってい る。
 また、「 ヒラ→ヒダ→ヒタ」とすれば、大分県日田市有田・羽田町・山田、奈良県橿原市飛騨町・久米町・曽我町等が在り、「白髭」の字音が百済(ペクチェ)に通じ、比良・三尾・白髭は同系神とされる。
 邪馬壹国に向かう次ぎの宿泊地は、佐賀県佐賀市金立町金立の丸山遺跡付近か、同市大和町松瀬・東山田・福島・久池井(西隈古墳)・佐保・横馬場(船塚古墳)等の本村籠遺跡付近と考えられる。

鯖(さば)=青魚の代表、秋刀魚(さば→さま→さむま→さんま)や鯵(あぢ→あじ→あ に)も同種で、後者を「アヂ→アチゥ→アツ」とすれば、集まる事と関連が在り、海民(川民)系の地名とされる阿積・安積・安住・安曇・熱海・渥美等にも繋 がる。また、紫陽花(あぢさい)=群がり咲く花となる。また、同訓「暑・熱」=太陽光や火炎等熱源が集積された状態。「厚・篤」=物質、心情が集積された 状態。
 尚、綾朝臣最上の孫に「佐波」、天之御中主神後裔荒木田神主最上の子に「佐波」と在り、「首麿」から藤原氏祖魚名へと続く。更には、孝元天皇後裔武内宿禰の子名称未詳の流れ「首麿」とあり、何らかの関係があると思われる。

香椎宮本社=福岡県福岡市東区香椎4-16-1(筑前国糟屋郡)は境内の印鑰石に武内 宿禰の子蘇我石川宿禰が鎮座していたので、印鑰神社に祀られたと在る。印鑰(いんやく)=官印と官庁の倉庫の鍵。天台座主(ざす)の職印と宝蔵を開く鍵。 何れも座主となった人が受けるもの。

誉田(ほむた)別尊=三輪山の水神を祀る系統大神比義の伝承があり、宇佐神宮には火と水を操る鍛冶神が祀られているとも云われるので、もしかしたら、ホムタ→ホムラ(炎=火群)と転音したのかも知れない。

ハタ=九州管内には、佐賀県唐津市半田(はむだ→はだ)・同市北波多村山彦・山田、同県伊万里市波多津(はたつ)町畑津・板木、大分県大分市判田(はんだ)・羽田(はだ)、同県宇佐市安心院町飯田(はんだ)、同県西国東郡(現杵築市)大田村波多方(はたかた)・鮎帰、同県日田市羽田(はた)町・山田町、熊本県熊本市城山(じょうざん)半田町、同県宇土市三角(みすみ)町波多・山田、熊本県上益城郡矢部町畑(はた)・御所・長田・山田、福岡県前原市波多江(産の宮)・同県豊前市畑(はた)。
 *不[pıuəg(pıuət)][pıəu(pıuət)][fəu(pu)]・彌[miər][miə(mbiə)][mi]=ピゥァッ・ミァル → プァッ・マゥ → パッム → ハム

仁位(ニヰ)=他にも下記の如き地名が在る。尚、仁比山の「ニヒ」が、[ nihi → niui → nii ]と転音したと考えられる。

  福島県福島市仁井田・百目木・大平山(羽黒神社)・鶴田・八幡館・日向・広瀬山田
  福井県足羽郡美山町仁位・奈良瀬・福島・宮地・羽生(はふ→はう・ほう) *伯耆(ほうき)国
  兵庫県佐用郡上月町仁位・大平・金屋・山田(佐用都比賣神社)、同郡三日月町 *佐用都比賣=唐津市の領巾振山
  和歌山県和歌山市仁井辺・広瀬通丁・福島
  山口県防府市仁井令町・江良・大野・大平山・警固町・佐波・多々良
  高知県高知市仁井田・朝倉・金田・福井町・大津(鹿島神社)
  高知県高岡郡窪川町仁井田・榛原町広瀬

 朝倉神社(高知県高知市 朝倉丙2100)「天津羽羽神、天豐財重日足姫(斉明)天皇」(釋日本紀卷第十四)、土左國の風土記に曰はく、土左郡朝倉郷あり。郷中に社あり。神の御名 は天津羽羽(あまつはは)神なり。天石帆別(あまのいはほわけ)神、天石門別(あまのいはとわけ)神の御子なり。これは、土佐の天石門別安國玉主天神の子 であるする。尚、斉明天皇の御陵地は当社から3㌔西南の鵜来巣(うぐるす)山とされており、福岡県朝倉市烏集院(うすのいん)・奈良ヶ谷付近の橘広庭にも斉明陵の伝承地がある。
 度会氏の伝によると朝倉神社祭神、天津羽羽の「はは」は奈良県五條市西吉野町の波宝神社の「波宝」の音に通じ、波宝神社は吉野国栖祖神を祀るといわれ、 これは天津羽羽命であろうとされます。「姓氏録大和神別」吉野国栖祖神とは神武天皇の東征途上、菟田(奈良県宇陀郡)から吉野へ進んだ時、岩を押し分けて 出てきた尾のあった石穂押別之子とある。

白鬚神社=『三代実録』の貞観七(865)年にも近江国の無位の比良神に従四位下を授 くとし、当社の祀る神と云う。本殿後背山に幾つかの摂社が祀られる中、岩戸社北側には磐座があり、山陵を天岩戸と云う。白髭神は渡来人が開拓した地方に多 く祀られる。奈良県桜井市初瀬の白髭神社が本社とも云われる。
 『元亨釈書』(14世紀)、大仏用の黄金を求めていた聖武天皇は、僧良弁に吉野の金峰山の黄金を求めて金剛蔵王に祈らせた。すると、この山の黄金はなら ぬが、近江湖南の勢多県にある山は如意輪観世音の霊地、そこへ行って念ずれば、必ず黄金が得られるとのお夢告があった。
 その地の大岩に座って釣りをしている老翁は、この背後に続く山々の地主の比良明神で、ここは観世音の霊地であると言ってかき消えた。良弁は大岩上に庵を結び、観世音像を安置、絶え間なく読経を続けていると、やがて陸奥から黄金が出たと言う。
 「石山寺縁起」琵琶湖の主も、また白髭明神と呼ばれていた。この神は、湖が七度変じて葦原になるのを見ていた長命の主だと云われる神と記される。この湖は地盤沈下等で南に移動したり、周辺から泥が流れ込んで浅くなったりするが、元の深さに戻ると云う。

曽我町=百済(くだら)と縁が深いとされる蘇我馬子に関連が在る。何れにしても有明海 沿岸部と琵琶湖周辺部、大和方面には百済(+北魏)系との繋がりが見える。その連繋地点と思しき岡山県津山市には、推古(或いは、持統)天皇に百済王を 賜ったと伝承する百済(くだら)氏が居る。


  1. 2016/09/05(月) 09:03:00|
  2. 6.国々の比定
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◇投馬(とっま・たぐま)国=風を受けて海上を航行する船

 トグマッ→トッマッ(苫)→タマ(玉)で、地名として当麻(とうま・たぎま)・田隈・田熊・託麻・宅間、但馬(たぎま→たじま)等が考えられる。例えば、狗邪韓国から末盧国を経て投馬国への水行20日から推測すると、九州西岸の角力(すもう)灘を南下した長崎県長崎市手熊(てぐま)町・田子ノ浦(飯盛岳)・出雲・白木・八幡、同県西彼杵郡香焼町丹馬(たんば→たぬま)がある。
 また、対海(たま)を一海(瀚海)に対面する国とした様に、投[dug][dәu][t`әu]の上古音が「ダグ→ナグ」に転音して、訓「ナグへ る→なげる」になったとすれば、「投馬=ナギマ」となり、細長い陸地(長崎)に挟まれた細長い中海(大村湾)=凪海(なぎま)の基部、同県西彼杵郡時津 (とぎつ)町飯盛(飯盛岳)、同郡長与町山田、同郡多良見町大草・福井田、熊本県天草郡五和(いつわ)町御領・小串、同郡松島町教良木・大平・山田、同郡天草町久良(くら→きぅら)、同郡有明町大間(おおま)崎・福井田、同郡姫戸町山田付近に比定する。尚、他にも下記の如き地名が在る。

  熊本県鹿本郡鹿北町多久・岳間
  福岡県八女市宅間田・緒玉・福島・岩戸山古墳・乗馬古墳・八女古墳群
  福岡県大牟田市田隈・出雲町・教楽来・四箇・広瀬・松浦町・馬渡町・三池(宮地嶽神社)
  福岡県前原市多久(託杜神社)・有田・神在(宮地岳)・作出(宮地嶽神社)・高祖(同神社高磯姫)
  福岡県福岡市早良区田隈・有田・金武・熊本・四箇
  福岡県宗像市田熊・田久・赤間
  佐賀県多久市多久町・板屋・石州分・東多久町仁位所・南多久町大野
  島根県飯石郡三刀屋町多久和・神代(神代神社)・須所(八幡宮)・八幡
  島根県平田市(出雲市)多久町多久谷
  広島県因島市(現尾道市)田熊町・鏡浦町・重井町(馬神山)・土生(はぶ)
  岡山県津山市田熊・福井
  愛媛県今治市宅間・神宮
  香川県三豊郡詫間町詫間・粟島

 「タクマ→タッマ→タマ」とすれば、下記の如き地名が在る。

  佐賀県東松浦郡(現唐津市)浜玉町玉島
  福岡県福岡市南区玉川町・鶴田
  福岡県三潴郡三潴町玉満・田川
  熊本県玉名市玉名(大坊古墳跡)・山田(同神社)
  熊本県玉名郡玉東町白木・同郡南関町八田
  長崎県佐世保市早岐(はいき)・田子の浦
  長崎県南松浦郡玉之浦町
  大分県大分市玉沢・白木・佐野・奈良原・金屋迫(庄原遺跡・蓬莱山古墳)・田島・八幡
  大分県大分郡挟間町挟間・鶴田・馬籠・山田
  大分県大野郡(現大野市)三重町玉田・菅生・大野町
  大分県竹田市玉来・菅生・挾田、同県豊後高田市玉津・甘木・鏡谷・佐野・雷・楢林
  大分県西国東郡(現豊後高田市)真玉町西真玉

 「タギマ→タジマ→タイマ」とすれば、下記の如き地名が在る。

  奈良県磯城郡三宅町但馬
  京都府京都市伏見区下鳥羽但馬町
  長崎県西彼杵郡香焼町丹馬
  大阪府寝屋川市太間(たいま)・対馬江(つしまえ)
  和歌山県西牟婁郡すさみ町太間川

 尚、伊万里湾から大村(おおむら)湾東岸部には寄港地だったのか、~里と云う地名が点々と続く、凪の海は大海浦(おおみ・うら→おおむら)と云う転音した。その最深部の長崎県大村市付近には投馬国出先機関が置かれたと考える。
 奈良県北葛城郡(葛城市)當麻(たぎま→たいま)町、7世紀創建の當麻寺の開基(推 古20年)は聖徳太子の異母弟麻呂古王とし、創建時の本尊は弥勒仏(金堂)とある。その勒(手綱・馬銜)から麻呂古(まろこ→まるこ)も韓国語や蒙古語の 馬(mar)とすれば、蘇我馬子(マルコ)や男子の尊称「麿(まろ)→丸」から男性のトーテム馬の呼名「~丸」と、女神が司る海に浮かぶ船名「~丸」にさ れる事の理由と考える。

角力(すもう)灘=相撲を相(あい→立合い)・撲(うつ→なぐる) とすれば、本来、凪(なぎ)の海の大村湾とは違い、激しく当たり合う相撲の如き波の荒海と云う意味の周防(そばふ→すぼふ→すおう)灘か、諏訪(すはぬ→ すばう→すまう)灘で、当時、海道を領す沿岸航海民以外の航行は困難だった。「長崎(ながさき)」の由来は、凪の海「大村湾」と波の荒い外海の「角力灘」 を隔てる長い岬と考えられる。

託杜神社の祭神、伊弉諾命、伊弉册(伊奘冉)命、瓊瓊杵命、埴安命彦、火火出見命、鵜草葺不合尊、木花開耶姫命。本来、託杜咩神とされる。由緒は不詳。十六天神と伝わるが、慶応年間、現社名に改名する。「多久」であった理由は不明だが、拝殿の正面には土俵がある。
 託杜咩神は託宣の神と在り、後背の丘を祀り、その延長線上の遥か先に宮地岳(福岡県前原市神在)。丹生広良氏の丹生神社と丹生氏の研究によれば、託杜咩 神は丹生都比売神の異称とされる。一方、この地は天日矛とのつながりが強く、赤留比売神ではないかとも推測されている。

神代(かむしろ)神社=島根県簸川郡斐川町宇屋神庭字宇屋谷485、宇夜都辧命・配神 大己貴命、譽田別天皇。荒神谷遺跡側に500m程東で、宇夜都弁命は、この里を治めた女神。石川県羽咋郡志賀町神代の神代(かみしろ)神社、祭神 宇迦之 御魂神、合祀 大物主神・崇徳天皇は、崇神天皇御宇の創建。古来、神代の宮坂と称し、甚だ眺望に富み神代八景として文人墨客が多く来訪した。

粟島=「記紀」国産神話に見える。福岡県北九州市門司区大里(だいり)の山手、奥田の淡島神社(少彦名命)、島根県大田市川合町川合の物部神社摂社。和歌山市加太の淡島神社等、 神功皇后が半島からの帰途、海上で大時化にあい、神に祈って苫(とま→とも→たま)を海に投げ、その流れにしたがって船を進めよとのお告げがあったので、 その通りにすると、一つの島(友の島→艫島)に流れついた。その島には小祠があり、少彦名命、大穴貴命の二神がまつられていたので数々の品を神々に捧げ た。その後、仁徳天皇が、この島へ狩りにきた時、その話を聞き、島では何かと不自由と社を加太の磯間の浦に遷し、神功皇后(息長足姫命)も併せて祀ったと ある。もしかしたら物部氏と蘇我氏の対立かもしれない。
 この淡島神社で少彦名命と神功皇后の男女一対の御神像が並べられたのが、男雛女雛の始まりで、御遷社の日が仁徳五年三月三日(美美→母母=桃)だったの で、この日が雛祭りの日になった。雛祭りの語源は、スクナヒコナ祭りが簡略化して、ヒコナ祭り→ヒナ祭りになったともいう。また、一説に淡鳥願人達が語り 聞かせたもので、淡島様は天照大神の第六番日の姫君。十六才で住吉明神の一の后になったが、下の病に罹り、綾の巻物、十二の楽器と一緒に虚ろ船に乗せられ て堺の浜から流されたが、翌年三月三日に加太の栗島(淡島)に流れ着いた。淡島様はさっそく巻物を取り出し、雛形を刻んだ。これが雛遊びの始まりである。 その後、淡島様は同病救済の悲願をたて、死後、この地に神として祀られたと云う。

タクマ=漢字音、投[dug][dәu][t`әu]、馬[măg] [mă(mbă)][ma]が、dug・mag→dugu・ma(詫間・田隈)→dәgi・ma(當麻)→dәdi・ma(田道間)→dәji・ma(但 馬)→daima(対馬)→danba(丹馬)、或いは、「タチマの→タジマ(田島→但馬)の」へと転音したと考える。

~里=佐賀県伊万里市二里町中里、長崎県北松浦郡福島町里免、同県松浦市御厨(み くりや)町里免、同県松浦市志佐町里免、同県北松浦郡鹿町町口ノ里免、同県北松浦郡佐々町里、同県佐世保市中里町・名切町、同県東彼杵郡東彼杵町里郷・名 切、同県大村市中里町、同県西彼杵郡多良見町中里名・名切、同県長崎市中里町等。

當麻(たいま)寺=草創については不明な点が多く、『上宮太子拾遺記』嘉禎 3(1237)年所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6(692)年頃、現 在地に移築されたとする。前身寺院の所在地には味曽地とする説の他にも、弘長2(1262)年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』等、河内国山田郷とする史料もあり、その河内国山田郷 の所在は交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と大阪府太子町山田とする説がある。また、聖徳太子の父用明天皇と母當麻倉首比呂娘飯女之子(別説葛城直磐 村娘広子)との間に生まれた當麻(たいま)皇子と在る。現在、西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」とそれに纏わる中将姫伝説で知られる。
  1. 2016/09/12(月) 08:56:09|
  2. 6.国々の比定
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◇大村湾


 投馬国への水行二十日は、末盧国以降、伊都国への陸行とは違う寄港地の伊万里川、或いは、有田川沿岸で沿岸航海用の中型船に乗り換えて九州北岸を西行し た後、長崎県平戸市と同市(北松浦郡)田平町間の水道を大村湾最南端迄、東沿岸部を航海したと考える。多くの遺跡が在ると思うが、煩雑になるので、手持ち の資料から投馬国への水行に関連すると思しき弥生遺跡に絞り、地図化すると、以下の如くなる。
大村湾沿岸遺跡 
①馬戻遺跡=伊万里市大坪町六仙寺地区・立花町・松浦町中通・久良木(弥生時代)
②西尾遺跡=伊万里市二里町大里・中里・金武神社・東山代町讃岐・浦川内(弥生時代)
③栢ノ木(かやのき)遺跡=松浦市栢ノ木免・里免・福井免・板樋・長野免・佐志中通(弥生時代)=志佐川沿岸
④池田貝塚遺跡=松浦市池田免・御厨町田代免・板橋免・木場免・笛吹免(縄文~中世)
⑤里田原遺跡=平戸市田原町里免・亀免・荻田免・田代(縄文~弥生時代)
⑥田助遺跡=平戸市田助(旧石器~中世)
⑦中野ノ辻遺跡=平戸市田平町荻田免中野ノ辻(弥生~古墳時代)
⑧根獅子遺跡=平戸市根獅子(弥生時代)
⑨大野台支石墓群=佐世保市鹿町町鹿町免・大野台・口ノ里免・関里・針尾名倉・古里・御所・飯盛山(縄文~弥生時代)
⑩津吉遺跡=平戸市津吉町・田代町(旧石器~弥生時代)
⑪四反田遺跡=佐世保市下本山町・中里・浦川内町・但馬越・名切町・宮田町・中通町・下船越町名切(縄文~弥生時代)
⑫宮の本遺跡=佐世保市高島町(弥生時代)
五反田遺跡=東彼杵郡川棚町五反田郷・八幡山・石木郷浦川内・木場郷日向(弥生~古墳時代)
⑭串島遺跡=西海市西海町天久保郷(縄文~古代)
⑮宮田A遺跡=東彼杵郡東彼杵町八反田郷宮田・名切里郷・木場郷・川内郷木場・飯盛(縄文~弥生時代)
⑯野岳遺跡=大村市東野岳町・北木場・飯盛山(1万3千年前)
⑰黒丸沖田遺跡=大村市黒丸・沖田(弥生時代)
⑱富の原遺跡=大村市富の原(縄文~弥生時代)
⑲伊切木遺跡=西彼杵郡多良見町舟津郷中里名・中通(縄文時代~中世)
⑳化屋(かや)大島遺跡=西彼杵郡多良見町名切名・福井田(弥生時代)

 尚、以下は、投馬国へのルートに係わりはないが、同系の人々として良い。

21河頭遺跡=諫早市湯野尾町(縄文時代早期末~前期及び中期)
22本明石棺群=諫早市本明・香田・開・広瀬、大村市大里・中里・木場(古墳時代初期)
23有喜貝塚=諫早市松里町有喜・鶴田町・宗方町・長野町(縄文~弥生時代)
24開集落跡=諫早市飯盛町開名・里名香田・中通町・木場(縄文~弥生時代)

 距離的な問題として、か、と、の間(佐賀県伊万里市二里町大里の金武神社付近には甕棺墓群)や、1213の間にあっても良いと思うが、現時点で手許の資料には見あたらない。但し、前者の場合、河口奥から引潮に乗り、湾外へ出て、満潮時に沿岸を航海した。後者の場合、佐世保市船越・名切(なきり→なかり)付近で佐世保湾へ船を越し、干潮に変わる頃、早岐瀬戸を通り、飯盛山の向かい浦川内付近で一泊した。
 五反田=京都府京田辺市草内五反田、同府京都市伏見区向島五反田・納所、滋賀県甲賀市(甲賀郡)甲賀町五反田・里、鳥取県鳥取市五反田徳吉・徳尾・里仁(さとに)、愛媛県八幡浜市五反田・大平・広瀬・八代、長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷(八幡山)・石木郷浦川内等、他にも中部以降に多い。尚、鳥取県鳥取市大字徳尾の大野見宿禰(おおのみすくね)命神社=相撲(角力)の神様野見宿禰、土師氏の祖神を祀る。

伊万里市=伊万里川沿岸に位置し、南西の腰岳では黒曜石を産出する。同市の西尾遺跡も有田川沿岸に位置し、東側に腰岳がある。

多良見町=長崎県西彼杵郡多良見町舟津(浦川内・中通)の伊木力(いきりき)遺跡から 縄文前期、最古の丸木舟が発見された。熊本県宇土市宮庄町・轟・一里木(いきりぎ→いちりぎ)付近の曽畑貝塚から出土した曽畑式土器の広範な分布状況から 見て、丸木舟を自在に操る海民の移動があった事は容易に想像できる。

相撲(角力)=これも腕相撲をしたと伝承される建御雷神と建御名方神に由来するのだろうが、長崎県の名称由来と思しき大村湾を形作る長い陸地外側長崎市の外海は角力(すはふ→すばふ→すまう→すもう)灘と転音した。


  1. 2016/09/22(木) 08:54:00|
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◇邪馬壹国=呪術的な女王を戴く首長(全一)国

   訓音は、ンギァッマッイェッ→ガマィ・エl(カメ)、ガマ・ヘ→ガマ・フ(ガモウ)、或いは、ィアマィ・エ→ヤマィ・エ(ヤマヘ)等が考えられる。尚、私説の狗邪韓国から末盧国への水行十日と末盧国から邪馬壹国へ陸行一月の方向性から推測すると、下記の地域一帯に比定する。

  福岡県甘木市(現朝倉市)鎌崎・馬田・早水・楢原・大平山
  福岡県三潴郡大木町蒲生(がもう)、同郡城島町楢津
  福岡県大牟田市亀甲(かめのこ)町・手鎌・甘木・田隈・長田町・三池(宮地嶽神社)
  福岡県八女市亀甲(かめのこう)・蒲原(かまはら)・室岡・岡山・宅間田(八女古墳群)・福島、上陽町打越
  福岡県山門郡(みやま市)瀬高町大草・女山(女山神籠石)
  福岡県鹿本郡植木町亀甲(かめこう)・轟
  熊本県玉名市亀甲(かめこう)・山田

 伊都国を佐賀県東松浦郡郡厳木(きうらぎ→いつき)町と同県多久市に比定したが、「タク」と云う地名が、福岡県前原市多久、同県宗像市田久、島根県平田市(現出雲市)多久とあり、女王卑弥呼の死を契機として狗奴国(壹與=カマ)に追われる様に邪馬壹国伊都国は東遷を始める。

  福岡県筑紫野市山家(やまえ)・若江・宮地嶽
  福岡県北九州市小倉南区蒲生・北方(南方)・菅生・徳力(とくりき→とどりき)・八幡町・山田
  佐賀県佐賀郡富士町蒲原(かまはら)、隣町の同県東松浦郡七山村鮎帰・木浦・白木・馬川
  長崎県島原市蒲田町・安徳・亀の甲、同県南高来郡国見町轟木
  熊本県山鹿市蒲生(彦岳)、同県玉名郡菊水町竃門かまど)・江田
  熊本県上益城郡清和村野・大平、同県八代郡(現八代市坂本町)坂本村瀬・鮎帰
  熊本県球磨郡山江村葛・山田、同郡五木村大平・宮目木・葛八重
   同郡球磨村三ヶ浦(那良川)、同郡錦町大平・福島
  大分県南海部郡蒲江かまえ)町蒲江浦、同郡宇目町木浦内、同郡鶴見町有明浦
  山口県下関市蒲生野・安岡・竜王山、同郡(現下関市)豊浦町川棚、同郡豊北町・山田山(特牛)
   同郡豊田町飯塚・楢原、奈留、同郡菊川町印内・大野・岡枝・楢崎
  鳥取県岩美郡岩美町蒲生・院内・大坂
   同郡国府町稲葉・玉鉾・御陵参考地(谷)・因幡国府跡・宇倍神社
  大阪府大阪市城東区蒲生・永田
  京都府船井郡丹波町(京丹波町)蒲生・院内、同郡瑞穂町桂・鎌谷、同郡八木町八木・広瀬
   同郡園部町曽我谷・半田・埴生(はにゅう→はぶ)・武尾神社(大戸)・鹿嶋神社(殿谷)
   同郡和知町広瀬
  滋賀県蒲生郡安土町豊浦町、同郡蒲生町蒲生堂・葛巻・玉緒神社(川合)
   同郡日野町鎌掛・日田・蓮花寺、同郡竜王町鏡

 ○「シェバ・エ→サバ・エ(サマエ→サメ)」と転音したとすれば、下記の如き地名が在る。

  福岡県糸島郡二丈町佐波・福井、同郡志摩町稲葉・久米・老松神社(船越)、同県前原市作出
  山口県佐波郡鯖・鯖河内・大野・奈良原、同県防府市佐波・警固町・高倉町
  広島県福山市佐波・駅家町江良・金崎・住吉町・奈良津・鏡山(神村町)・竜王山(柳津町)
  京都府舞鶴市佐波賀(宮谷神社)・大君・蒲江・丹後神崎・日向・福井・安岡
  福井県鯖江市大野町(丹波岳)・金屋町・住吉町、同県今立郡今立町との境に八幡山
  滋賀県近江八幡市佐波江・板屋・生須・御所内・玉屋・長田・八幡山(宮内)・八木
  岐阜県羽島郡柳津町佐波、同郡笠松町泉町(白髭神社)・奈良町・八幡町
 
八女古墳群=乗場古墳(福岡県八女市吉田)壁画系・彩色、丸山古墳(同市詫間田)壁画系・彩色。王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町)壁画系・彩色、6世紀の装飾古墳、法恩寺3号墳(大分県日田市刃連町)壁画系・彩色、穴観音古墳(同市内河町)壁画系・彩色、ガラドンヤ古墳群(同市石井町)壁画系・彩色、鬼塚古墳(大分県玖珠郡玖珠町)壁画系・彩色、千代丸古墳(同県大分市)壁画系・彩色、伊美鬼塚古墳 東国東郡国見町 壁画系・線刻、加賀山横穴墓(同県宇佐市四日市)横穴系・彩色、鬼ノ岩屋古墳(同県別府市北石垣)壁画系・彩色、古賀山1号墳(佐賀県多久市東多久町)壁画系・線刻。チブサン古墳(熊本県山鹿市城)壁画系・彩色、丸尾古墳・長戸鬼塚古墳(長崎県北高来郡小長井町)壁画系・線刻等、多くが、福岡県南部と熊本県大分県付近に集中、邪馬壹国や狗奴国の領域を併せたと思しき地域に広がり、後代、狗奴国系に支配されたと推測される。 その他の県。
 丹花庵古墳(島根県松江市古曽志町)石棺系・線刻、梶山古墳(鳥取県岩美郡)壁画系・彩色、空山古墳群(同県)壁画系・線刻、坊ヶ塚古墳(同県)壁画系・線刻。
 宮が尾古墳(香川県)壁画系・線刻、木の葉古墳(同県)壁画系・線刻、綾織塚古墳(同県)壁画系・線刻、 岡古墳群(同県)壁画系・線刻。
 高井田横穴墓群(大阪府柏原市)横穴系・線刻 。
 
太子古墳(茨城県新治郡出島村)壁画系・彩色、吉田古墳(同県水戸市)壁画系・線刻、虎塚古墳(同県勝田市)壁画系・彩色。

打越=福岡県田川郡糸田町打越、長崎県北高来郡小長井町打越名、熊本県熊本市打越町・板屋町・馬渡、同市清水町打越、同県上益城郡甲佐町糸田・横田・田代、同郡砥用町境に打越峠。

女王卑彌呼=死後、女王系統は二つに分裂して、壹與(カマ)は狗奴国に靡き、手を結んだのだろうか、それを嫌った邪馬壹国(臺與=カメ)と伊都国連合の人々は、邪馬臺国(饒速日命?)として東遷を始める。その後、狗奴国(+壹與)系も後を追う様に北上し、東遷したと考えられる。おそらく、そうした経緯が饒速日命と神武天皇の東遷説話に化体されたと考える。

宇倍神社=鳥取県岩美郡国府町宮下字一宮651祭神 武内宿禰命、彦多都彦命 武牟口命 因幡国一宮・法美郡の延喜式名神大社。本殿の後阜亀金岡の雙履石は祭神の雙履の霊石と伝わる。古代文化遺跡の中心地。祭神を因幡国造祖彦坐王の子彦多都彦命(神祇史料)、伊福部氏の祖武牟口命(姓氏家系大辞典)・埴安姫命とする諸説がある。
 『因幡国風土記逸文』難波の高津宮に天の下を治めなされた五十五年春三月、大臣武内宿禰は御年三百六十余歳で当国に御下向あり、亀金の双の履を残して御陰所知れずになった。聞く所によると、因幡国法美の郡の宇倍山麓に神の社があり、これを宇倍社という。これは武内宿禰の御霊である。
 
昔、武内宿禰は東方の夷を平らげ、宇倍山に入った後、終わる所を知らずと云うとし、祭神を武内宿禰としているが、『万葉緯』所引「武内伝」の逸文は、鎌倉期以前には遡らないとされる。明治維新後、宮司家伊福部氏は世襲を断ち、北海道に移住、著名な音楽家伊福部昭氏を輩出する非凡な家系であった。
 『日本の神々』で川上廸彦氏は真の祭神は伊福部氏祖の武牟口命とする。八頭郡の式内社多加牟久神社も武牟口命とされる。


  1. 2016/09/30(金) 17:13:48|
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