見まごう邪馬台国

◇残余の傍国

 残余の傍国は以下の如くあり、邪馬壹国と伊都国との位置関係や支配関係は如何なるものか。殆ど資料はないので、使われる漢字の音や、その語義から推測する。

  自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
  次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支(郡支)國 次有彌奴國 次有好古都國
  次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 
  次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 
  次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡。其南有狗奴國男子爲王 其官有狗古智卑狗不屬女王
  
 陳寿は、女王国より以北の国々は、その戸数や道里を略載できるが、その餘の傍国は遠絶で詳らかにできない。とし、道程として記載された国々、對海国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不彌国は、狗邪韓国の東南ではなく南側に属すと認識したので、女王国から見ると北側に属す事になる。その後、次に斯馬国有り~(中略)、次に奴国有り、これが女王国の境界尽きる所、その南に狗奴国有り、男子為す王、その官に狗古智卑狗有り、女王に属さず。とする。

 これも陳寿の筆法か、奴国を二回記載、「~次奴国有り、これ女王国境界が尽きる所」の奴国と、道程に記述された「奴国」を同一国とし、その南側に狗奴国があるとすれば、末盧国を起点に斯馬国から東回りで、奴国に戻り、そこから逆に烏奴国を起点に西回りする等を示唆すると考えられる。詰まり、その中央部の最南部に西から奴国と邪馬壹国の順に横一列に並び、その北側に西から伊都国と不彌国の順に横一列に並び、残餘の傍国は、その東側と西側に広がるとせざるを得ない。また、投馬国だけは別ルートと云う事からすれば、連合国の一員だが独立国だろう。他にも以下の記述が在る。

  夏后少康之子封於會稽 斷髮文身以避蛟龍之害 今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽
  後稍以爲飾 諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差 計其道里當在會稽東冶(東治)之東
 
 其風俗不淫 男子皆露紒以木緜招頭 其衣橫幅但結束相連略無縫 婦人被髮屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之

 夏后少康の子、会稽に於て封じられるに、断髪文身、以て蛟龍の害を避けさせた。今、倭水人は上手に潜水、魚貝類を捕る。また、文身で以て大魚水禽を厭わす~云々。その道里を計ると、当に、その会稽東冶(東治)の南側や北側でなく東側に在る
 陳寿が女王国領域を会稽東冶(東治)の東側に当たる所とした理由は、会稽付近に住む人々と、女王国に服属する倭人だけではなく、列島沿岸部に住む全ての倭種の生活習慣等がよく似ていると云う認識があった事が、その一つと考える。
 問題の「東冶」と「東治」は、大陸東海岸の会稽(現・上海の北側)に封じられた夏后少康が東海岸に住んだ海民や蛋民を治めたとすれば、夏后少康之子が会稽の東を治む、当在会稽東治=会稽の東を治めた、当に、その東側に在る。また、方向性ではないが、下記の如くも記述される。

  自郡至女王國萬二千餘里 男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自稱大夫
  其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王名曰卑彌呼

 帯方郡より女王国に至る一万二千余里。その国の男子、大(人)も小(人)も皆、顔に黥面、身体に文身をした。古より、此迄、その使い中国に詣で皆大夫と自称する。その国、本、また男子を以て王とし、70~80年住まう。倭国乱れ、年を歴て相功伐、共に一女子を立てて王と為す名卑彌呼となり、この前代、70~80年と、この邪馬壹国は同じ為政者や支配関係でないと判る。
 次回から傍国の名称に使われる漢字音や、その意味を考え併せて分かる限りだが、国名が云わんとする事や、その比定地を推測してみたい。

二回記載=「魏志東夷伝」馬韓在西。其民土著、種植知蠶桑作綿布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借。散在山海間無城郭。有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、内卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十餘萬戸。辰王治月支國。臣智、或加優呼臣雲、遣支報安邪、踧支濆臣、離兒不例拘邪、秦支廉之號。其官有、魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。*内=[入+冂]

 弁辰亦十二國。又有諸小別邑各有渠帥。大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國樂奴國、軍彌國、軍彌國、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國、馬延國弁辰狗邪國弁辰走漕馬國弁辰安邪國馬延國弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。弁辰韓、合二十四國。大國四五千家、小國六七百家、總四五萬戸。其十二國屬辰王。辰王、常用馬韓人。作之、世世相繼。辰王不得自立爲王。

 馬韓では「莫盧國」、弁辰韓では「馬延國」を二回記載するので、これも奴国を二回記述する事と同様、陳寿の筆法かもしない。また、国数も一つを除外、馬韓は五十四国。弁辰韓は軍彌國の飛び地「弁軍彌國」を除外し、合計二十四国。また、辰王に属す12ヶ国とすれば、弁辰楽奴国と考えられる。
 尚、馬韓の「~卑離国」は、韓国語で城の語義を持つ「伐(ボル)」の漢字表記かも知れないとする研究者も居るが、「散在山海間無城郭」とあり、中央部から離れた卑しい僻地(縁=へり)で、羊等を放牧する遊牧民の国と考えられる。

西から奴国と邪馬壹国=「方向の感覚」項では、投馬国も含めたが、投馬国は別系路と思しき水行20日で至るとされるので、道程で述べられる国々とは同列にはできないと思われる。ここで訂正する。

会稽=浙江省から江蘇省に跨る地域。中国南の浙江省紹興市南東の会稽山とすれば、呉王夫差が越王勾践(こうせん)を降した地。夏の禹(う)が諸侯と会した所と在り、その東側とすれば、大陸の東沿岸部の海民や家船衆、東南岸部の閩粤(びんえつ)と考えられる。
 「史記(越王勾践世家)」会稽の恥=春秋時代、会稽山で越王勾践が呉王夫差に降伏したが、多年辛苦の後に夫差を破ってその恥を雪いだ。
 「中国歴史地名大辞典」漢、冶県を置く。後漢、東侯官と日う。故域は、今の福建省閩侯県東北、冶山の麓に在ると云うが、地名「東冶」は、本当に在ったのか。尚、閩粤の人々が身体に文身(入墨)をしていたとすれば、閩 [mıən][mıən(mbıən)][miən]と同音の「閔(あわれむ・うれえる)」と云う姓が在り、僻地の卑しい姓とも考えられる。春秋時代の(大陸東岸、黄河河口南部の山東省付近)の人、閔子騫(びん・しけん)、名「損」、孔門十哲の一人とある。
 文(あや)=物の面に表れた様々な線や形、特に斜めに交差した模様。入り組んだ仕組。ものの筋道や区別。文章等、表現上の技巧。言い回し。節回し。経糸(たていと)に緯糸(よこいと)を斜めにかけて模様を織り出した絹。斜線模様の織物。綾地(あやぢ)。曲芸の綾織の略。
 「孔門十哲(こうもんじってつ)」=孔子の10人の高弟。徳行に優れる顔回・閔子騫・冉伯牛(ぜんはくぎゅう)・仲弓、言語に優れる宰予・子貢、政事に優れる冉求(ぜんきゅう/冉有)・子路(季路)、文学に優れる子游・子夏。
 「魯」=中国、西周・春秋時代の列国の一つ。周公旦の長子伯禽が封ぜられる。旧く、日神の祭祀があったと云われる。後、分家の三桓氏が実権を握り、頃公の時、楚に滅ぼされた。孔子の生国。大陸東沿岸部、山東省の別称。

自郡至女王國萬二千餘里=帶方郡より一万二千里で女王国に至る。帶方郡から朝鮮半島沿岸部の水行七千里と狗邪韓国から末盧国迄の水行三千里を合わせると、末盧国からの女王国迄は約二千里となる。これ以外に里程はない。これからすれば、南至水行十日と陸行一月も要するはずがないと云うのが大凡の見解だろう。だが、倭人の住地域を帶方郡の東南とした陳寿が狗邪韓国と邪馬壹国の位置関係を、「その北岸」とした事、不彌国迄を里程とした後、南至投馬国水行二十日、南至邪馬壹国水行十日陸行一月と日程にした理由等、陳寿の意識や文脈を全く無視した読み方だろう。


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  1. 2017/01/05(木) 08:57:00|
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(1)斯馬国

  斯[sieg][siĕ][sï]=(字統)机の上にものを置いて、これを拆く
  馬[măg][mă(mbă)][ma]=草原を駆ける馬→天翔る鳥=帆に風を受けて海上を航行する船

 漢字音を併せると、シェッマッ→セマ(サマ→サバ)で、末盧国の東北、佐賀県唐津市浜玉町飯塚・大野・鳥巣・半田(はだ)・横田・山田、玉島神社・大村神社の在る玉島川沿いから福岡県糸島郡二丈町佐波・福井(加茂神社)等、海進に因る海岸線が後退した一帯の狭間(さま→せま)に比定する。
 末盧国の比定域、半田川沿岸佐賀県唐津市半田字天神ノ元の天神ノ元遺跡(弥生前期末~後期)の東北側同市浜玉町谷口字立中の谷口古墳北側、福岡県糸島市二丈鹿家付近の沿岸航海民は家船で生活したのか、円墳(年代不詳)はあるが、住居跡の記述はない。その東側、同市二丈石崎の一貴山遺跡、曲り田遺跡には住居跡がある。更に東側、室見川沿岸部の筑前国早良郡早良(さはら)郷=福岡市早良区有田・四箇、他にも山際の湾奥や河岸、谷間の狭隘な土地に同地名がある。

  山口県佐波郡徳地町(さば)・鯖河内・大野・八坂・奈良原 *佐波川沿岸
  山口県防府市佐波・大野・仁井礼・江良・半田 *佐波川沿岸
  広島県福山市佐波町・奈良津町 *芦田川沿岸
  京都府舞鶴市佐波賀・朝来 *山際の海岸
  岐阜県羽島郡柳津町佐波奈良 *境川沿岸
  滋賀県近江八幡市佐波江町・生須町・金田・白鳥町・長田(をさだ)町・八木町 *日野川河口
  石川県鹿島郡(七尾市)能登島町佐波  *四村塚山麓の日本海沿岸
  埼玉県北埼玉郡大利根町佐波・道目(ドウモク→どうめ) *利根川沿岸部
  群馬県佐波郡玉村町飯塚・福島・八幡原、同郡赤堀町鹿島*鏑木川沿岸
 
 「国名と官名」項でも述べた如く、伊都国の副官泄謨觚(セマコ)は、この国の王で邪馬壹国連合の一員として伊都国の官名を列ねるが、奴国の官兕馬觚(チマコ→ジマコ)は、一大率の副官卑奴母離を受け容れて服属、祭祀と統治権を剥奪された。その同源の地名「チマ(ジマ)→チバ」には芝・柴(シバ)・志波・千葉(チバ)等が在る。

 狗奴国との戦いの最中、女王卑彌呼が亡くなると、「記紀」海幸山幸説話の如く海民(海馬)投馬(タギ゙マ)国等が「チマ=小」「セマ=狭」の二系に別れたのだろう。その事と関連して、「記」垂仁天皇は旦波美知能宇斯王の娘、比婆須比売命、真砥野比売命、弟比売命を召し入れるとし、「紀」景行天皇の熊襲討伐経路に残る地名「轟(木)」は、双子の御子、大碓命の弟、小碓尊(日本武尊)の蝦夷討伐経路には見えない。
 ただ、福井県吉田郡永平寺町(どめき)と在り、私説の景行天皇熊襲討伐の始発地とした福岡県糸島市二丈佐波西側の同県糸島郡志摩町道目木の南、同県前原市雷山(雷山神籠石)、同県直方市道目木の南、同県嘉穂郡(飯塚市)頴田町鹿毛馬(鹿毛馬神籠石)、同県朝倉市杷木町道目木(杷木神籠石)等、他にも以下がある。

 
青森県上北郡横浜町百目木(どめき)、秋田県大館市道目木、山形県山形市百目鬼、岐阜県武儀郡武儀町下之保百々目木(どどめき)、宮城県気仙沼市百目木(どうめき)、同県加美郡中新田町百目木、同県本吉郡本吉町道貫(どうめき)、福島県安達郡岩代町 百目木、茨城県 ヒタチナカ市道メキ、千葉県袖ヶ浦市百目木、愛知県西尾市道目記町、同県岡崎市百々(どうど)、同県豊田市百々。
 四道将軍と関係するか、新潟県妙高市百々(どうどう)、石川県加賀市百々(どど)町、山梨県南アルプス市白根町百々(どうどう)、京都府京都市上京区百々(どど)町、同市山科区川田百々、同市西京区樫原百々ヶ池、同市山科区西野山百々町、岡山県久米郡柵原町百々(どうどう)、同県苫田郡加茂町百々。

大村神社=旧く知識無怨寺と称す。天平12(740)年、政治の乱れと天変地異を憂い、藤原式家広嗣が九州で反乱を起こすも、志ならず値賀島で捕らえられて(佐賀県東松浦郡玄海町値賀川内?)、唐津市浜玉町五反田(ごたんだ)の大村で斬首された。以来、天変地異が絶えず、後、肥前守を任ぜられた吉備真備が、この五反田郷に来て広嗣の霊を弔うために建立したもの(浜玉町史跡より)。長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷、同県大村市や大村湾等も関連が在ると思われる。*大村(おほむら→おほみら)=大海羅、或いは、大臣(おほおみ→おほみ)羅
 吉備真備(695~775)=奈良時代の官人・文人。本姓、下道真吉備。717(養老1)年遣唐留学生として入唐、735(天平7)年に帰国、「唐礼」「大衍暦経」等を持ち帰る。橘諸兄に重用されたが、後、九州に左遷される。その間、遣唐副使として再び渡唐。恵美押勝乱の平定に貢献。正二位右大臣に累進。世に吉備大臣と云う。編著「私教類聚」「刪定(さんてい)律令」等。

佐波=岡山県真庭郡湯原町大字社字谷口大社の佐波良神社(神阿多都姫命、佐波良神)は山深い谷間に在る。静岡県賀茂郡西伊豆町仁科の佐波神社(積羽八重事代主命、應神天皇)は山際の海岸沿いの狭い土地に在る。滋賀県伊香郡木之本町川合の佐波加刀(さはかと)神社(日子坐王、大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遲比賣王、室毘古王) は山中の谷間にある。
 福島県いわき市常磐湯本町三函の温泉神社/佐波古神社(少彦名命、大己貴命)は、尾根に囲まれた盆地に在る。
 延喜式内社であり、社家に伝わる「神幸由来記」等の古文書参考書に拠れば、神代の昔、湯の岳が神体山であって信仰の山である。上古、逸早く少彦名命の鎮座あり、後に日本武尊の進駐の折、大和国、現在の奈良県三輪大社の主神、大物主大神「大巳貴命」が合祀され、以来二神が郷民によって祀れた。白鳳二年九月九日、湯の岳より下山して里宮として遷座、三遷して現在地に遷っ たのが延宝六年とある。

天神ノ元遺跡=甕棺は合口甕棺だが、上甕は身が大きく破壊されており、口縁部の一部のみ残存する。下甕は口縁部が打ち欠かれた中型の甕棺で、上半部に絵画が線刻され、沈線で区画された空間に横を向いた鹿と鉤状の線刻が、夫々、一つずつ描かれる。現存する区画は4つだが、7区画だった様で、鹿は、その区画、夫々に直線で表現された頭部と弧を描く胴部、胴部から直線的に延びる前足・後足、何れも「J」状の角を持つ牡鹿が描かれる。
 20号甕棺は金海式と呼ばれる甕棺で、弥生時代前期末に位置付けられる。甕棺に鹿を描いた例としては、県内初例であり、2頭の鹿を描いた福岡県吉武高木遺跡出土甕棺とともに国内最古段階の絵画土器の一つである。その東北側、福岡県糸島市二丈鹿家にも年代のハッキリしない円墳があるらしい。

四箇(しか)=茨城県稲敷郡桜川村四箇、千葉県印旛郡栄町四箇、兵庫県 龍野市龍野町四箇(よっか)等、何れも河川沿岸部の土砂が堆積したと思しき所にある。尚、四日市(よっかいち)・八日市(ようかいち)・八鹿(ようか)等も川沿いの狭隘な低湿地に多い地名。

「チマ→ジマ」=中島(なかしま/なかじま)と訓みわける理由で、おそらく、島(チマ=小)、州(セマ=狭)と云う違いがあったと考える。おそらく、奴国の副官、兕[?][zii][sï]・馬[măg][mă(mbă)][ma]・觚[kuag][ko][ku]と伊都国の副官、泄[siat][siєt][sie]謨[mag][mo(mbo)][mu]の前者は海上に浮かぶ島(ちま)、後者は河川の中州や山際の海岸(せま)等の違いを示唆する。尚、縄文海進期、房総半島も霞ヶ浦付近には水道があったとされるので、千葉(ちば→ちま)として良い。

海馬=海[məg][hai][hai]と馬[măg][mă(mbă)][ma]と在り、上古音が略同音にされる事からも判る様に、旧く草原を走る馬と海原を走る船と云う認識だったと思われる。尚、「記」宇摩志阿斯訶備比古遅(うまあしかびひこち)神とある。

熊襲討伐経路
=「古事記」倭建命の熊曾討伐とされる。日本の名著「日本書紀(中央公論社)」所載の景行天皇熊襲討伐の経路図を参照した。 蝦夷討伐は、当初、遠賀川周辺部に逃れた卑彌呼の宗女「臺與(タィヨ→とよ)」の一族を討伐した事を東国の事として記述されたと考える。また、「紀」垂仁天皇は丹波の五女、日葉酢媛、渟葉田瓊入媛、、真砥野媛、薊瓊入媛、竹野媛を召し入れるが、五女の竹野媛は醜いと返すとある。一方、「記」比婆須比売命、弟比売命、歌凝比売命、円野比売命、併せて四柱。しかし、比婆須比売命と弟比売命の二柱を留めて、その妹の二柱はとても醜かったので故郷に送り返したとある。こうした違いにも何らかの意味があるのだろうが、未だ判然としない。



  1. 2017/01/16(月) 08:36:00|
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◇娑麼

景行熊襲討伐図 
 先述の如く、福岡県内の地名「道目木」には神籠石を伴うが、何故か、一つだけ福岡県東端の京都郡(現みやこ町)勝山町、周防灘を望む御所ヶ谷神籠石には、ずっと北側、同県北九州市小倉南区徳力(とどろき→とづろき→とくりき)以外、道目木・百々や轟(木)は見えない。
  当初、斯馬国や已百支国が管理した長戸(水道)には沿岸航海民の家船が屯し、一大率の武官等が常駐したが、海退や土砂の堆積で使えなくなり、①伊都(yi-du/yi-do)→厳(いづ)→出とされる。狗奴國→邪馬国の攻勢で、その伊都国も東遷、「記紀」筑紫君磐井(竺紫君石井)の乱等を経て、位置関係が変化、後の筑紫(白日別)の一部=糸(いと)=怡土となる。

 「記紀」日向(ひなた)峠付近から南九州へ追われた「轟(木)」を熊襲(熊曽)とし、瀬戸内海や日本海沿岸部を東行した「道目木」「百々」等を東国へ追われた蝦夷とし、そうした経緯を垂仁天皇の皇后佐波遅比賣命と、その兄沙本毘古命の謀反や、景行天皇(小碓命)の熊襲(熊曽)や蝦夷等、異民族の討伐として記述する。

 邪馬壹国の前代、海民は北部九州から長門を経て日本海沿岸部に拡がっていたが、垂仁天皇(奴国王)が旦波美知能宇志王(投馬道主王)の娘を娶ると、(アスィシカ→アシカ)と奴国の連合委奴(ワニ)国として成立、70~80年を経た後、投(たじま)国は新たに渡来した伊都国系の男子を婿とし、争乱の後、邪壹国伊都国連合が成立する。
 おそらく、「紀」謀反を起こした皇后の兄を伊都国の副官泄謨觚(せまこ→しまこ)斯馬(せま→さば)国王(後の百済太子嶋君?)として化体、邪馬壹国伊都国連合と和せず南下していた狗奴国王卑彌弓呼と官狗古智卑狗の北上を助けたのか、女王卑彌呼(沙本毘賣)が死した後、宗女臺與は東遷する。尚、「記紀」旦波美知能宇志王娘、比婆須比売命、弟比売命、真砥野比売命を召し入れるとして女系統の変化を示唆する。

 投馬(タグマ)を当麻(たぎま→たじま→たいま)=但馬(たじま)・旦波(たんば)とすれば、海民の投馬国が斯=佐波(さば→せま)=狭(せま)い土地と、雲海上に浮かぶ山頂の如き海上の島(チマ→ジマ)=志摩、針間ちぬま→はりま)の二つに分裂、奴国王兕馬觚(チマコ→ジマコ)の系統の一部は服従せず、狗奴国として南下(くだ)り、対立する。
 
 「景行紀」熊襲討伐発進地、周芳の沙麼にも関連し、兄沙本毘古(大彦忍代別?)と共に謀反を起こした垂仁皇后の佐波遅比賣(沙本毘賣)命の本拠地を「サバ」とすれば、先の福岡県糸島郡二丈町佐波付近が、本来の娑麼で、海際迄、山が迫り、狭い事が国名「斯馬」の由来だろう。
 この熊襲討伐・巡狩の経路を地図上で確認すると、地名「轟(木)」が点々と付随、終着点の福岡県朝倉市杷木町道目木(神籠石)南側の同県うきは市付近から日向から大和に帰還したとする。
 これを宮崎県北部の日向とせず、南下していた景行天皇→小碓命→倭建命が福岡と佐賀県境の日向(ひなた)峠から二丈町佐波付近へ凱旋、福岡県東部、更には周防の娑麼へ宗女臺與(佐波遅比賣→比婆須比賣)を追い払うが、後、白鳥(おおとり)=倭建命として南九州に蘇る。

 「記」母系祖を垂仁天皇(倭母)皇后の佐波遅比賣(沙本毘賣)→旦波美知能宇斯王の娘、比婆須比売、真砥野比売の二系統とし、父系祖景行天皇を大碓命と、小碓命→倭比賣→倭建命等、幾度か変化(へんげ)させる。その理由は南北朝を経て、熊襲(熊曽)や蝦夷等、全てが併合されたため、その前代として初代の神武天皇と10代の崇神天皇の間に欠史八代の天皇を父母と祖父母系統として挟み込み、夫々、後代の天皇へ繋ぎ、そうした矛盾を解消した。

伊都=伊[・ıər][・ıi][i]・都[tag][to][tu]の上古音「伊都(ヤータ)」としたが、中古音や中世音の変化に拠ると、イイトゥ(飯田)→厳(いつ)・五と考えられる。現代北京音には[du(ツ)][dou(ト)]の二種があり、夫々意味が違うとあり、前者[du]=集まる→みやこ、後者[dou]=全体・全てと在り、幾つかの島だったものが繋がり、一つになり、半島化=全体を示唆するのかも知れない。
 後代、中大兄皇子(天智)が百済の亡命貴族「達率」等に造らせた長門城と筑紫の二城は重複記載ではなく、戦局の悪化等の理由で、当初、長門城は雷山神籠石、筑紫の二城は怡土城とおつぼ山神籠石だったが、基肄城と大野城に移ったのかも知れない。

記(紀)=十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭、第一曰日葉酢媛、第二曰渟葉田瓊入媛、第三曰真砥野媛、第四曰薊瓊入媛、第五曰竹野媛。秋八月壬午朔立日葉酢媛命為皇后以皇后、弟之三女為妃唯竹野媛者因形姿醜返於本土則羞其見返到葛野自堕輿而死之故号其地謂堕国今謂弟国訛也皇后日葉酢媛命生三男二女第一曰五十瓊敷入彦命、第二曰大足彦尊、第三曰大中姫命、第四曰倭姫命、第五曰稚城瓊入彦命、妃渟葉田瓊入媛生鐸石別命、与胆香足姫命、次妃薊瓊入媛生池速別命、稚浅津姫命。
 「古事記」第11代垂仁天皇の后妃として四姉妹が召されたとあり、比婆須比売命弟比売命(沼羽田入毘賣)・歌凝比売命円野比売命が記載される。後者の二人は醜かったために返されて円野比売は乙訓(おちくに)で自殺したとある。こうした事の意味は未だ判然としない。

百済太子嶋君=「雄略紀」六月丙戌朔孕婦果如加須利君言於筑紫各羅嶋産児仍名此児曰於是軍君即以一船送於国是為武寧王百済人呼此嶋曰主嶋(ニムリシマ)也。筑紫の各羅(かから)島で生まれた島君(シマクヌ→しまこ)が百済の武寧王となる。

宗女臺與=女王卑彌呼(佐波遅比賣命→沙本毘賣命)、臺與(比婆須比賣命→沼羽田入比賣)、奴国王(垂仁天皇→品牟都王→本牟智王)、伊都国王(沙本毘古命→大碓命→景行天皇)、狗奴国王卑彌弓呼(小碓命→倭建命)と壹與(景行天皇の妹倭比賣→弟比賣命→円野比賣)と云う関係になると思われる。

海馬(あしか)=「記紀」冒頭の「ウマアシカビヒコヂ」と考えられる。騎馬民族の足が馬で在る様に海民の足を船とし、倭国の海民(鹿)の倭人を足(機動力)を担う国とした。外洋航海民(穂積)と沿岸航海民(住吉)+河民(阿曇)の二系統に分裂、
 当時、通常、馬が一日で進む平均的な距離と船脚を略同距離に設定していたとし、狗邪韓国~對馬国~一大国~末盧国への三度の外洋航海に要する平均日数を予備日や休息日等を含めて10日、帶方郡から狗邪韓国迄の総日数を25日~30日とした。


針間(ちんま→はりま)=「針」の上古・中古音の針[tiəm][tʃıəm][tʃıəm](チェム/チュム)と間[kăn][kʌn][kian]の訓に拠る仮名(ま→ば)に拠る呼称。小(ちま→ちぬま)い、禿(ちび)る→小(ちび)等と同源。後代、土砂の堆積で張り出し、土地が拡がったためか、張間(ハリマ)=播磨(兵庫県の瀬戸内側)、茅渟海(ちぬま→ちぬのうみ)=大阪湾ともされたのかも知れない。尚、足の悪い跛(ちんば)と繋がるのかも知れない。
 尚、景行天皇は吉備臣等祖若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶り、櫛角別王、大碓命、小碓命(倭男具那命)、倭根子命、神櫛王を生す。その櫛角別王は「クシツヌ→キシツン(岸突)」で、筑紫と呼ばれた博多湾岸(津岸=つくし?)や有明湾岸(地岸=ちくし?)の如く幾つかの河口の吐き出す土砂が足の伸びる如く、櫛状に細長く堆積し、岸が角の如く延びる事。その間に薄く堆積した土砂が扇状に拡がる様子を大碓・小碓の「ウス」は示唆するか。
 倭根子=背負子(しょいこ)をネコとも呼ぶので、土地(やまと)の背負い守るのだとすれば、倭(ヤマ・ト)=八間・台は区画を分ける役所と云う語義かも知れない。尚、本来、倭(やま)で、海幸山幸神話の如く、海民の領域を分ける(区画)と云う意味で使われた思われる。

娑麼(さば)=狭端(さは→さば→さま)・狭間(はざま)で、通説的には山口県佐波郡徳地町鯖・西大津・伊賀地(出雲神社)・大野・八坂・御所野・奈良原か、出自を百済王余璋の皇子琳聖太子後裔を称す大内氏の居処、佐波川河口の同県防府市佐波・多々良付近とも考えられる旧く糸島半島と福岡県前原市の間には狭い水道(長戸→長門)があり、独立した三つ程の小さな島(しま→ちま)に別れていた。また、大内氏には任那系帰化氏族多々良公の裔とする説もあり、福岡県前原市の西側、同県糸島郡二丈町佐波と多々羅、その東側、同県福岡市東区多々良がある。
○佐波良(さはら)神社「神阿多都姫命、佐波良神」。(岡山県真庭郡湯原町大字社字谷口大社1272)境内には後期古墳が分布していた。鉄の生産地域であり、これに支えられたものであろうとある。
○矢川神社「大己貴神、矢川枝姫命」古事記・大国主神系譜中、この大国主神、葦那陀迦(アシナダカ)神、亦名八河江(ヤカハエ→ヤカエ)比売を娶り、生みませる子、速甕多気佐波夜遅奴美(ハヤミカタケサハヤチヌミ)神と出ている(滋賀県甲賀市甲南町森尻310)。
佐和良義神社「加具土神」天兒屋根命『社前石灯籠の銘:明和五(1768)年 (大阪府茨木市美沢町9-27)住所は三島郡玉櫛村、また、澤良宣村の産土神とする。『平成祭礼データ、持撰神名牒』  平群都久宿禰『神名帳考証』 早良臣祖神歟『神社録』
 サハラギ→サワラギの意味については諸説、檜の木に似た椹(さわら)か、湿地帯に咲く菊科の多年草で澤蘭(佐波阿良々木)がある。創建年代は不明。式内社。東奈良遺跡は弥生期~室町期にかけての複合遺跡であり、平原古墳と同系統の方形周溝墓、銅鐸の鋳型等が出土している。
○形部(かたば)神社・佐波良神社(岡山県真庭郡湯原町大字社字谷口大社)境内には後期古墳が分布。鉄の生産地域。


矛盾=当初の目的、都合が悪いのではなく、思想や宗教性等、意識の違う、そうした人々をも、天皇(天照皇祖神)を中心として日本民族としての同一性を持たせる事が目的だったと考えられる。


  1. 2017/01/20(金) 10:02:00|
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◇倭母(わも)

 「記」伊久米伊理毘古伊佐知(いさち)命に倣い「紀」活目入彦五十狭茅尊も「狭」の北京音[xia]=シァ→サ、茅(ちがや)=「チ」としたのだろうが、万葉仮名が漢字音を訓音として使われると云う前提とすれば、狭[ɦap][ɦap][hia]と、茅[mŏg][mău(mbău)][mau]の上古音・中古音に拠ると、ファッマゥ→ゥアマゥ→ワム(ファム→ハム)、ワムバゥ(ハムバゥ)→ワボ(ハブ)となる。

 「記」小碓命が兄大碓命を打ちのめしたと聞いた父景行天皇は小碓命→倭建(ヤマトタケル)命の猛々しく荒い乱暴な性格を恐れ、西方にいる従わない無礼な熊曾建の二人を討てと遣わした。この時、未だ、髪を額の上で結っていた小碓命は父の妹、倭比賣(ヤマトヒメ)から衣装を授かり、その懐に剣を納めて出かける。
  剣(けん)=建(けん→たけ→たち)とすれば、懐の剣=小碓命(幼子)は姨倭比賣(乳母玉依姫)の庇護下、倭建命(葺不合=卑彌弓呼)として足が立ち成人した。尚、剣(つるぎ)は、死後、白鳥(おおとり)=鶴岐(⇔鶴美)となり、飛んでいった倭建命になる。

 「記」垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)が沙本毘古命の佐波遅比賣命を娶り、生す子唖の品牟都(本牟智)和気命(入日子=継子?)、旦波比古多多須美知宇斯王の娘比婆須比賣命を娶り生す子、印色之入日子命・大帯日子淤斯呂和気命(景行)・大中津日子命・倭比賣命・若木入日子命。とある。
 倭(やまと)の「ヤマ」=分ける事とすれば、垂仁天皇の和風諡号「倭母」は御子を産む皇后佐波遅比賣と後添いの旦波美知能宇斯(投馬道主)王の娘、後者は四姉妹(「紀」五姉妹)に変わる事に関わる。
 また、兄比賣(比婆須比賣命)→沙本毘古命、佐波遅比賣命→弟比賣(沙本毘賣=歌凝比賣命)、円野比賣命→双子の倭建命として転生させるが、「紀」は真砥野媛と竹野媛として、
その兄大碓命と繋ぐと考えられる
 小碓(倭建)命が伊玖米(垂仁)天皇の娘、布多遅能伊理毘賣命(ふたち)を娶り生す子、帯中日子命(仲哀)一柱。入水した橘比賣命を娶り、生す子若建王一柱。近淡海之安国造祖意富多牟和気の、布多遅比賣を娶り、生す子稲依別王一柱。吉備臣建日子の、大吉備建比賣を娶り、生す子建貝児王一柱。山代之玖玖麻毛理比賣を娶り生す子足鏡別王一柱。或る妻の子息長田別王。併せて六柱。
 
 尚、「紀」五十鈴川上の磯宮。崇神天皇の御世、豊鋤日賣命が祭祀する。この御世、天照大神の御魂を倭姫命に移し、その鎮座地を求め、現在の三重県東北部の伊勢国に至るとある。

 「紀」景行天皇熊襲討伐の終点「浮羽」から日向峠を越え、福岡県糸島郡二丈町佐波・福井や東側の同郡志摩町百目木の南側、雷山神籠石の同県前原市多久一帯に戻り、景行天皇(沙本毘古命→狗古智卑狗)→倭建命→倭男具那命(狗奴国王)は垂仁天皇の皇后佐波遅比賣命→沙本毘賣命(宗女壹與)を奪い邪馬臺国と称す。
 邪壹国伊都国連合に与した斯(セマ→サバ)国、邪(ヌガマ→ヤバ)国(卑彌呼の出生国?)、投(タグマ→タヌバ/タギマ→タジマ)国等の海民国(~馬国)の何れもが二分裂、それは邪馬壹国伊都国連合自体が分裂した事をも示唆する。それが故、女王卑彌呼の宗女に対する呼称が、「臺與」「壹與」と混乱し、国名が邪馬国から邪馬国が領域を拡げると、邪馬国系が東遷を始める。
 
 例えば、海驢(あしか→あししか)=足鹿(海馬)を船とすれば、地方に拠っては逆転することもあるが、人が牽く荷を担いだ驢馬(ろば)→艫(とも)=船尾=随伴者(とも)、船首(みよし・へさき)=舳(へ)には、航海の無事を祈願した持衰(じさい)=御先(みさき)が坐す。

ハム=巫女を出す国とした不彌(はみ)国と関係があるのだろう。蛇類の総称「ハミ」と同語源「噛む・食む」。鱧=古名「ハム」、ハモ科海産硬骨魚。体形は鰻形で、全長2㍍に達することも。吻(ふん)は尖り、口は大きく鋭い歯を持つ。背部は灰褐色、腹部は銀白色。体は滑らかで鱗がない。青森県以南沿岸部に産し、関西では鱧料理として珍重される。北日本で穴子。
 飯匙倩(はぶ)=クサリヘビ科の毒蛇。沖縄諸島・奄美(あまみ)諸島に分布。全長2㍍に達し、頭はほぼ三角形、飯を盛る匙(さじ)形でマムシに似るが、頭部背面の鱗は小さい。樹上や草陰に潜み、人畜を咬む。攻撃性が強く、猛毒をもつ。奄美・沖縄諸島には太く短い別種ヒメハブも分布。

鶴岐(⇔鶴美)=伊邪那美と伊邪那岐と云う陰陽の神と同様、姨(おば)の倭比賣命(鶴美)から、成人男性の倭建命(鶴岐)に転生する。

佐波遅比賣命=垂仁天皇にも「伊理毘古」とあり、母系制に於て、婿入り先の佐波遅比賣と離婚し、奪い取った御子を継子として垂仁天皇の後添い弟比賣が養う。時系列的には逆だが、「記紀」海幸彦の、山幸彦と豊玉姫が夫婦(めおと)となり、豊玉姫が産んだ葺不合を山幸彦の後添い乳母(玉依姫)が妹背(妹と兄)として養う。詰まり、父系(兄→弟)と母系(妹→姉)の夫婦(姉と弟)となり、御子を生す。
 例えば、「記」邇芸速日命が先住民、那賀須泥毘古の妹、登美夜毘賣を娶り、宇摩志麻遅命を生む事と、「記」末弟の若御毛沼命(神武)の東遷した後、山神が土地の娘に生ませた神の子、七乙女中の長女(姉)を正后として娶り、即位するのと同様。

「記」四姉妹(「紀」五姉妹)=美知能宇斯王)の娘、氷婆州比賣命、次に弟比賣(沼羽田入毘賣)命、次に歌凝比賣命、次に円野比賣命、併せて四柱とある。「紀」十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭、第一曰日葉酢媛、第二曰渟葉田瓊入媛、第三曰真砥野媛、第四曰薊瓊入媛、第五曰竹野媛の五女とする。 

天照大神=豊鋤入日賣命が巫女として祭祀したとすれば、天照大神は男性神(太陽神)だったと思われる。その後、髪の毛が抜けてお祀りできなくなったと在り、その御魂を倭姫命に移すと太陽光を映す女神天照大御神(鏡)となる。
 初め、天津日高日子番能邇邇芸命の天降りを先導した男性の猿田毘古と、伴(とも)の女性天宇受賣命が、目的地の九十(くしふ→くじゅう)の山に着くと、逆転し、先導(先達)が女性の天宇受賣命となり、猿女君の名を負う
とされる。

~馬国=「距離の感覚」項で述べた如く、「馬」と「海」が上古音では近似音とされる事から、「私説」旧くは草原を走る馬を海原を走る船として擬えられており、それが故、一日で馬が走る平均距離と船のそれが略同等に設定されたとした。

邪馬国=狗奴国官狗古智卑狗(山幸彦)の後添いだろうか、宗女壹與(妹玉依姫)が卑彌弓呼(葺不合)を養育し、国王となった後、国名として称した。尚、「記紀」との略関係は以下と考えられる。

 伊都国(旦波道主王娘兄比賣と弟比賣=倭人と垂仁天皇=伊都国)
   ↓支配服属させる  *垂仁=前69~後70 倭国王帥升?
 奴国(沙本毘賣→神功皇后) → 狗奴国として分裂(景行→妹倭比賣→小碓命→仲哀天皇)
   ↓大碓命を東国へ追い払う(山口県佐波郡徳地町八坂→飛鳥→群馬県佐波郡)
 邪馬壹国連合の女王系(佐波遅比賣→八坂入姫命)と伊都国(大碓命→成務天皇)

持衰(じさい)=「魏志倭人伝」其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人。如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病遭暴害、便欲殺之。謂、其持衰不謹。


  1. 2017/02/03(金) 00:36:00|
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◇迫間(はさま)

   佐波(さば)・狭(せま=州)と同源の言葉に、迫(せま)る=間隔が狭い、閉まる・締まる=区画する→終う、縞(しま→せま)=細長く狭いがある。また、迫間(はさま)=谷間の奥まった狭い地形で、物と物との間が狭い所。他にも「狭間」「硲」等、西日本では以下の如くある。

  福岡県豊前市挾間(はさま)・大村・鬼木・轟・広瀬
  大分県大分郡挾間町挾間(はさま)・鬼瀬・鬼崎
  大分県東国東郡武蔵町狭間(はさま)・小城、同郡安岐町朝来
  熊本県菊池市西迫間(はざま・鞠智城跡)・大平・長田広瀬
  熊本県玉名市上迫間(はざま)・亀甲・山田・横田
  島根県大田市久利町佐摩、大屋町鬼村・角折、朝山町朝倉、五十猛町、大代町山田、鳥居町大平
  鳥取県西伯郡大山町佐摩(佐間神社祭神天津彦火瓊瓊杵尊・合祀五十猛命他)・長田・平神社(平)
 
 「記」垂仁天皇の唖(おし)の御子、品牟都(ほむた→ほむつ)和気王は大鳥(倭建命/大和武尊?)が飛ぶのを見て口を利いたため、品遅部(ホムチベ)を定める。一方、「紀」誉津(ほむつ)別王は、景行天皇の和風諡号「大足彦忍代別(オホタラシヒコオシロワケ)は、忍=声が出ないとする。

 「記」品牟都和気王から本牟智ほむち)和気王と御名が変わり、一夜、交わった出雲の肥長比賣が(をろち→へび→はみ)と知り、恐れて逃げ出す。悲しんだ比賣が海原を照らしながら船で追いかけると、御子は山の窪み=迫間(はさま)=船越から船を引き上げ、山を越して逃げ進む。この時、御子は海民の助けを失う。*「
 「記」景行天皇の和風諡号「淤斯呂(うしろ)→尻尾」とすれば、ヲロチの尾を切り裂き出てきた剣(けん→つるぎ)→草那芸大刀(建=たち)で、幼子小碓(倭建)命のが立ち、速く進み東国を討伐するが、その還り、足が多芸多芸(たぎたぎ)しくなる(重くて動かない)。

 景行天皇(大帯日子淤斯呂和気)は船を操る海民唖(オァシ)→国(馬国)を外洋航海民と沿岸や河川航海民の二系に別けたと考える。死後、白鳥(おおとり)となり、飛んで行く倭建命(日本武尊)の孫、「記」品陀(ほむた)和気命(應神天皇)として転生し、五百木之入日子命が尾張連祖建伊那陀宿禰の娘、志理都紀斗賣を娶り、生した御子品陀真若王の娘、高木之入日賣命。次に中日賣命。次に弟日賣命の三柱を娶り、宇佐神宮の比賣神と同体の宗像三女神と繋ぐ。
 八俣大蛇(「紀」八岐大蛇)とは母系海民が分裂、独身(豊玉姫)と夫婦(山幸彦と玉依姫)と云う二系統の成立を示唆する。尚、蛇(をろち)とされた肥長比賣(豊玉姫)と契りを結んだ本牟智和気王は山幸彦(河民)の化体として良い。

 邪馬壹国と狗奴国の戦いの最中、海民が外洋航海民(馬)と沿岸航海民(鹿)に分裂後、更に沿岸航海民が住吉系志賀(志賀海神社)と、河川民の安曇系四箇(飯盛神社)に振り分けられ、後者は稲作民を伴い耕作地を求めて河川を遡り、雲海上の山神と同一視される。

  志賀海神社=底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神、配祀 玉依姫命・神功皇后・應神天皇
  摂社 今宮神社=穂高見神(山神)、安曇磯良神

 「古事記上巻」=此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也阿曇連者其綿津見神子宇都志日金拆命之子孫也」
 「旧事記」=底津少童命・仲津少童命・表津少童命(綿津見神の別号)此三神者阿曇連等所祭筑紫斯香神也

 牡鹿(男神=ヲカ)の角が奉納される志賀海神社は鹿(ちか)=近島として良い。また、大阪府大阪市住吉区住吉の元官幣大社の住吉大社は新羅討伐の航海を扶けた上(表)筒之男神・中筒之男・下筒之男と云う男神と、その男系の女子、神功皇后を祀る。

迫間(はさま)=合間(あひま)は、物と物、人と人との組合せ、多く衣装の配色や人間関係、釣合い、間柄。折(をり)、都合、形勢。間(あひだ)=物と物、時と時との間。隙間(すきま)で、畑の畦(あぶ/あぜ)=田畑の畦畔、平地の小高い所。畦と畝が交互に列ぶ状態、山の谷間で奥まった所とも繋がる。一方、畝(うね)=田畑に作物を植えつけるため、間隔をおいて土を筋状に高く盛り上げた所。山脈・波等、小高く連なった所。織物等とある。畑の畦の場合、少し高い畝との間にある細長く低い所で、畝と畦が交互に列ぶ。ただ、水田の場合、畑とは反対に、田圃に水を貯めるので畦が高い。よく似た地形「迫(さこ)」=山麓にある谷間の先端は、開・拆・裂(さく)や、先・崎・碕(さき)等と同源、地名として略全国的に見られる。
 よく似た字形の「追(おふ)」= 〔他五〕距離をおいた対象を目指し、それに追いつこうと後から急ぐ。先に進むものに及ぼうとして急いで行く=追いかける。場所や物等を目指して進む事や追い求めるとある。

蛇(をろち→へび→はみ)=スサノヲがヤマタノヲロチの尾を切り裂いたとすれば、一本の尾が二本の足に成ったのかも知れない。尚、「はみ」=不彌(はみ)国との関連が考えられる。
 「紀」伊奘諾尊、斬軻遇突智命、爲五段。此各化成五山祇。一則首、化爲大山祇。二則身中、化爲中山祇。三則手、化爲麓山祇。四則腰、化爲正勝山祇。五則足、化爲シギ(酓+隹)山祇。是時、斬血激灑、染於石礫樹草。此草木沙石自含火之縁也。麓 山足曰麓 此云簸耶磨。正勝、此云麻沙柯。一云麻左柯豆。「シギ」此云之伎。音鳥含反。と在り、山(やま)の足(たる→たの)を麓(はやま)とする。

唖(オァシ)=景行天皇の忍(おし→しのぶ)を声を出さずに耐える事とすれば、「唖」も発声できないのではなく、言葉が喋れない事を云う。詰まり、垂仁天皇の御子本牟智(ほむち)和気王を「記紀」言葉の通じない国の人とすれば、「記」喋る様になる=和合、「紀」喋らないまま=不和を示唆するとも考えられる。

五百木之入日子命=次項の(2)已百支国との関連が取り沙汰される。また、尾張連祖伊那陀宿禰の娘、志理都紀斗賣の「都紀」も(4)都支(たけ)国を国とした事とも繋がる。「記紀」成立期の中古音、志[tiəg][tʃei][tsi]・理[lıəg][lıei][li]・都[tag][to][tu]・紀[kıəg][kıei][ki]=志理都紀(チェィレィトキェィ→チリトケィ→チリタチ)、「乙き」紀、「甲き」枳[kieg/tieg][kie/tʃıĕ][tsu]→支と云う違いはあるが、「魏志倭人伝」成立期の上古音とすれば、都[tag][to][tu]・支[kieg][tʃıĕ][tsï]、都支=タキェ→タケ(建)、中古音では、タチェ→タチ(大刀)になる。

雲海上の山神=山頂の神「大山咋神」が大山津見神として川を流れ下り、河口から海中に入ると安曇磯良になる。それが故、天降りした皇孫の日子番能邇邇芸命(彦穂瓊瓊杵尊)が笠沙岬(河口)で、木花佐久夜比賣(木花咲耶姫)を娶ると考えられる。

安曇磯良神=『八幡大菩薩愚童訓』神功皇后が乗った船の舵取りを務めた人で、長く海中に住んでいたために牡蠣等が顔面に付着した磯良の容貌は醜怪であったとあり、安曇磯良神と云う海底の物怪が鹿島明神とされ、古代の海人が持つ信仰に由来すると云う。
 その常陸国「鹿島大明神」が大和の春日明神、筑前の志賀明神が同体異名とする理由は、志賀海神社に牡鹿(をが)の角が奉納される事、春日大明神では神の使いが鹿とされ、何れも鹿と関係がある事。更に云えば、沿岸航海と湖沼や河川航海を鹿(ちか)=近(ちか)とすれば、外洋航海民の乗り物「船=馬」とした様に地名の長崎県対馬や、馬渡(まだら)等、馬=遠(とほ→とぼ→とも)=伴・友と云う関係があるのかも知れない。

斯香=四箇(しか)と同系。注の志理都紀斗賣の志理(しり)は、志賀=鹿(ちか)と同系音となる。これを斯理(しり)=尻・後・尾とすれば、四箇(しか)と同系音になる。花が咲いた木花佐久夜毘賣命とは反対に、大山津見神の娘木花知流(かはちる→かはちの)比賣は花が散る。
 天皇家の二大史書「古事記」と「日本書紀」の担い手が違うため、古事記は「チマ」と「シマ」と使い分けて示唆し、「記」大山津見の娘木花知流比賣と木花佐久夜毘賣の関係と同様、母系海人の分裂を示唆する。但し、南北朝期以降、日本(やまと→にほん)=二本(古事記と日本書紀)として併合されたため、正史とされた日本書紀は同系として記述する。江戸初期迄、行方知れずだった古事記は、名古屋市内の真福寺から発見されたが、当初、偽書とされた。その後、本居宣長や新井白石等が研究を始める。

住吉大社=二十二社の一つ。摂津国一の宮。他にも下関市住吉神社(長門国一の宮)や福岡市博多区住吉(筑前国一の宮)等、各地にある。


  1. 2017/02/03(金) 00:38:31|
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◇転生  *更新しました(2/20)

 「垂仁記」佐波遅比賣(沙本毘賣)命の系統に婿し、品牟都和気命を儲けた伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁)は、服従せず、謀反を起こした皇后の沙本毘古命と共に、沙本毘賣命が稲城で焼け死に、旦波比古多多須美知宇斯王(開化天皇の御子)の四姉妹を娶る。

 「古事記」氷羽州比賣命を娶り、印色入日子命・大帯日子淤斯呂別命(景行)・大中津日子命・倭比賣命・若木日子命を生む。沼羽田毘賣命を娶り、沼帯別(ぬたらしわけ)命・伊賀帯日子命を生む。阿邪美能伊理毘賣を娶り、伊許婆夜和気(いこばやわけ)命・阿邪美都(あざみつ)比賣命を生む。円野(まとの)比賣命(子女無し)。
 その比婆須比賣(兄比賣)命と弟比賣命を留め、残りの二人は醜いので、阿邪美能伊理毘賣は出産後に返されたのか、歌凝(かごり)比賣命と名を変え、伊許婆夜和気命・阿邪美都比賣命を養う。もう一人の円野比賣命は恥じて山代国之相楽にて木の枝に下がり死のうとした。その地を懸木、今は相楽(さがらか)と云う。(おと)国に到りし時、遂に深い淵に落ちて死んだ。その地を堕(おち)国、今は弟国(京都府乙訓郡)と云う。

 詳細は省くが、「記」御子等は佐波遅比賣と旦波道主王系統を併せたもの(耳成)で、返された二柱は沙本毘古命と沙本毘賣命に化体され、弟国の円野比賣命は、倭比賣命(景行天皇の妹)→小碓命→倭建(倭男具那)命に転生し、仲哀天皇(帯中津日子)に繋ぐ。
 一方、氷羽州比賣命「紀」日葉酢媛→比婆須比賣命(大中姫)→景行→兄大碓命(伊賀帯日子)と転生させ、成務(若帯日子)に繋ぐ。 

 「日本書紀」日葉酢媛を娶り、五十敷瓊入彦(いにしきにいりひこ)命・大足彦尊(景行)・大中姫命・倭姫命・稚城瓊入彦命を生む。渟葉田瓊入媛を娶り、鐸石別(ぬでしわけ)命・胆香足姫いかたらしひめ)命を生む。真砥野媛(子女無し)。薊瓊入媛を娶り、池速別(いけはやわけ)命・稚浅津(わかさつ)姫命を生む。竹野媛(子女無し)。
 子女のない三女真砥野媛(四女円野比賣)、出産後に返された四女薊瓊入媛(三女阿邪美能伊理毘賣→歌凝比賣)と順序を変え、恥じて輿から落ちて死ぬ竹野(たかの)媛を増やし、母系が併合(耳成)した後、誉津別命(胆香足姫)→大碓小碓(大中津日子命)→日本童男(をぐな)→日本武尊(稚足彦=成務)と転生させ、仲哀天皇(足仲彦)に繋ぐ。

 「記」母系制海神の娘、姉豊玉姫は婿の山幸彦の上(うはつ)国で、本の醜い姿(大蛇や鰐)で出産した事を恥じ、御子葺不合を残し、帰国、代わりに妹玉依姫を乳母として遣った如く、養父沙本毘古の下、唖の品牟都和気命は継母沙本毘賣に養われ、娶った妻沙本毘賣命→出雲の肥長比賣命が蛇(をろち)と知り、畏みて逃げると、兄系本牟智和気命として分離独立する。
 「紀」乳母の真砥野媛に養育され、大鳥を見て口の利けるようになった誉津別尊は、名を変えた薊瓊媛を娶り、池速別命・稚浅津姫命を生す。

 例えば、母系(姉と妹)が併合(耳成)した後、竹野媛が弟系統(日本武尊→葺不合)に転生、継母(姨)を娶り、狭野尊(神武)を生す。平安期、母系(天照皇祖神)の男子(兄系光仁天皇)と父系女子(高野新笠)の子、山部王(弟桓武天皇)が姉系藤原乙牟漏を皇后として即位、余計な兄系を蝦夷「鬼(オニ→あに)」として、言葉の通じない東国へ追い払う。
 鎌倉~南北朝を経て、妹玉依姫の生んだ西国の熊曽(「紀」熊襲)、弟若御毛沼命(神武)の東遷後、東国の蝦夷、長髄彦→阿日彦(兄海幸彦)の山神が麓の娘に生ませた女子とし、三輪山の大物主神を祭祀する崇神天皇に繋ぐ。

伊久米伊理毘古伊佐知命=通常、「記」イクメイリヒコ・イサチと訓むが、上古音で、「ィアケゥマゥ・ィアラェビェゥカッ・ィアッサチェ→ヤクモ・ヤリビカォ・ヤサチ」とすれば、「伊理=遣(やり)」となり、「入」と書き分ける理由が判る。おそらく、垂仁天皇(山幸彦)は、婿入り後、母系を別け、前妻の佐波遅比賣命を妹沙本毘賣命として追い遣り、新たに嫁を娶り、男子の系統(天孫)をも別けた天皇と考えられる。*依=余里

開化天皇=若倭根子日子大毘毘命、旦波之大県主名は由碁理の娘、竹野比売を娶り、比古由牟須美命を生む。庶母伊迦賀色許売命を娶り、御真木入日子印恵命(崇神)、御真津比賣命を生む。丸邇臣祖日子国意祁都命妹、意祁都比売命を娶り、日子坐王を生む。葛城之垂見宿禰の娘、鷲比賣を娶り、建豊波豆羅和気を生む。
 日子坐王、近淡海之御上祝が祭祀する天之御影神の娘、息長水依比賣を娶り、丹波比古多多須美知能宇斯王、水穂之真若王、神大根王(八瓜入日子王)、水穂五百依比賣、御井津比賣を生む。その母の袁祁都(をけつ)比売命(姨)を娶り、山代之大筒木真若王(妻丹波阿治佐波毘賣)、比古意須王、伊理泥王を生む。合わせて十一王。

氷羽州比賣=比婆須比賣命(兄比賣)と表記が変わり、島根県境の広島県比婆郡(現庄原市)比和町に在る「イザナミ」の墓と伝承される比婆山と関連、死後、黄泉国へ行ったイザナミが、「記」(生母)氷羽州比賣命「紀」日葉酢媛→比婆須比賣命(巫女の卑彌呼系)として転生する。その後、上国は弟山幸彦と、乳母玉依姫(後妻)→妻玉依姫+葺不合命の二系に分裂する。中国山地には、幾つかの天石戸(磐戸)別神社がある。

阿邪美能伊理毘賣=兄比賣と弟比賣(沼羽田入毘賣?)命を残し、二柱を返す。ただ、円野比賣には子の記載は無いが、阿邪美能伊理毘賣命は「伊理」とあり、出産後、返されり(遣られる)。詰まり、垂仁皇后の佐波遅比賣→沙本毘賣と同様、本来の歌凝比賣命に戻ったと考える。
 尚、「開化記」日子坐王の子、美知能宇志王丹波之河上之麻須郎女を娶り生む子、比婆須比賣命、真砥野(まとの)比賣命、弟比賣命、朝庭別(みかどわけ)王四柱。「垂仁記」と姉妹の順、その名称にも違いが在る。 詳細は省くが、他の御子も、夫々に化体されると思う。

耳成(みみなし)=大和三山の耳梨山に関係し、神遣らいされた速須佐之男命が大気津比賣神に食物(をしつもの)を求めると、大気都比賣は鼻や口、尻から様々な食物を取り出し、調理する。その行動を立ち窺い、穢して献上したと思い、大宜津比賣神を殺す。神の頭に蠶(かひこ)生り、二つの目に稲種(母実)生り、二つの耳に粟(あは)生り、鼻に小豆(あずき)生り、陰部に麥(むぎ)が生り、尻に大豆(まめ)生り。
 「紀」(月読尊に殺される)是時、保食神實已死矣。唯有、其神之頂化爲牛馬。顱上生粟。眉上生蠒。眼中生稗。腹中生稻。陰(ほと)生麥及大小豆(まめ)とあり、「記」両の耳に生る粟(あは)が、顱上で併合(あは)さり、一つになる。*都=合わす・顱上=頭蓋骨上→牛馬

成務天皇=崇神(御真木入日子印恵)天皇、尾張連祖意富阿麻比売を娶り、大入杵(おほいりき)命・八坂之入日子命・沼名木之入日売命・十市之入日売命を生む。その八尺入日子命の娘、八尺入日賣命を娶り、若帯日子命(成務)を生むとある。
 「成務紀」景行皇后の八坂入媛命を播磨太郎姫の薨後、母を皇太后と称すとし、「景行紀」の記述があり、弟媛ではなく、姉の八坂入媛を娶る。

竹野(たかの)媛=光仁天皇(母紀橡姫)の妃で桓武天皇の生母、百済(くだら)王後裔高野真妹の妹(或いは、娘)、高野新笠と関係が在り、現在、京都市内を流れ下る鴨川(妹系→弟系)と合流する高野川(姉系)に関係する。
 尚、福岡県浮羽郡田主丸町竹野、大分県南海部郡米水津村竹野浦、京都府竹野郡丹後町竹野(たかの)、兵庫県城崎郡竹野町竹野・轟・田久日(たくひ)三重県鈴鹿市竹野町(たけの)等。

輿から落ちた=四年春二月甲寅朔甲子天皇幸美濃左右奏言之茲国有佳人、曰弟媛容姿端正八坂入彦皇子之女也。天皇欲得為妃幸弟媛之家、弟媛聞乗輿車駕則隠竹林、~云々。於是天皇権令弟媛至而居于泳宮、之泳宮此云区玖利(くくり)能弥揶、鯉魚浮池朝夕臨視而戯遊時弟媛欲見其鯉魚遊而密来臨池。天皇則留而通之爰弟媛以為夫婦之道古今達則也然於吾而不便則請天皇曰妾性不欲交接之道。今不勝皇命之威暫納帷幕之中然意所不快亦形姿穢陋久之不堪陪於掖庭唯有妾。名曰八坂入媛容姿麗美志亦貞潔宜納後宮天皇聴之仍喚八坂入媛為妃生七男六女。*聞乗輿車駕則隠竹林=天皇の乗る輿車駕(こし)が来ると、聞いた弟媛は、竹林に隠れる。

養父沙本毘古=高群逸枝氏に拠る古代の母系制研究では、男子は婿に入ると、その姓氏や役職等を受け継ぐが、自らの氏神を祀るので出自は変わらない。また、他家の娘との間にも子を生す事がある。但し、生まれた子供は母系統に属すため、通常、母の家で育てられる。それが故、自らが生した子でも養父と認識されたと考える。また、正妻が在地の有力者であれば、生母でも、乳母でもある。

継母沙本毘賣=「記」若倭根子日子大毘毘命(開化=葺不合命)は、旦波之大県主由碁理の娘、竹野比賣を娶り、比古由牟須美命を生む。また、庶母の伊迦賀色許売命[乳母玉依姫]を娶り、[兄]御真木入日子印恵命。次に[妹]御真津比売命を生む。また、丸邇臣の祖日子国意祁都命の、意祁都比売命を娶り、日子坐王を生む。葛城之垂見宿禰の娘、鷲比売を娶り、建豊波豆羅和気を生む。
 この御真木入日子印恵命(崇神)が木国造荒河刀弁の娘、遠津年魚目目微比売を娶り、豊木入日子命、豊鋤入日売命を生む。尾張連祖意富阿麻比売を娶り、大入杵命、八坂之入日子命、沼名木之入日売命、十市之入日売を生む。大毘古命の娘、御真津比売命を娶り、伊玖米入日子伊沙知命、伊邪能真若命、国片比売命、千千都久和比売命、伊賀比売命、倭日子命を生む。
 「記」神武天皇が崩御後、その庶兄当芸志美美命は、神武の嫡后、伊須気余理比賣命(五十鈴媛)を娶り、その三人の弟を殺そうと謀る。


  1. 2017/02/10(金) 10:06:00|
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◇伊佐知

 前項の「注1」でも述べたが、「記」垂仁天皇の和風諡号「伊久米伊理毘古伊佐知命」の伊佐知=八幸(やさち)とすれば、「海幸山幸説話」男系兄海幸彦と弟山幸彦の幸(さち)を分け、母系海民に婿入り後、八雲(伊久米)=母系も姉豊玉姫(生母→巫女)と妹玉依姫(乳母→嫁)を二つに分けた天皇(弟山幸彦)として設定される。
 一方、「紀」活目入彦五十狭茅尊の「狭茅=倭母(わも)」としたが、「伊」に代わりに使われる「五十(50+50)」=百(も)とすれば、母系を分けた天皇として設定されるが、後代、併合(耳成)されて、百(もも)となる。

 「紀」神渟名川耳(綏靖)天皇神日本磐余彦天皇第三子也、母曰媛蹈鞴五十鈴媛命、事代主神之大女(姉)也~。二年春正月立五十鈴媛為皇后(一書云磯城県主女川派媛、一書云春日県主大日諸女糸織媛也)、即天皇之也。后生磯城津彦玉手看(安寧)天皇。

 「記」五穀の起源、二つの目(め=女)に稲種(母実)生るとあり、「紀」活目(いきめ)は、足仲彦(仲哀)天皇の皇后(應神の生母)で、寡婦の息長足姫命(生母豊玉姫)=母系「息(ぉいき→いき)」に関連し、「紀」活目入彦五十狭茅尊は海民に婿入り、母系を二系(臺與と壹與)に別けた天皇で、「記」伊久米伊理毘古伊佐知命は、母系海民に婿入した後、父系を二系(伊都国王と卑彌弓呼)に別けた天皇になる。

 また、阿邪美能伊理毘賣命の「伊理=遣(やり)」から皇后佐波遅比賣→妹沙本毘賣命と同様、出産後、遣られて歌凝(かごり)比賣命と名を変える。*駕籠降(かごり)→籠(かご→こもる)→隠(かくる)

 「紀」四年春二月甲寅朔甲子天皇幸美濃左右奏言之茲国有佳人曰弟媛容姿端正八坂入彦皇子之女也。天皇欲得為妃幸弟媛之家、弟媛聞乗輿車駕則隠竹林~。「聞乗輿車駕則隠竹林」を訓じると、天皇の乗る輿車駕(こし)が来るとを聞いた弟媛は、則ち竹林に隠る。

 阿邪美能伊理毘賣命(沙本毘賣→弟媛)を妹姫に化体、沼羽田毘賣命の子、沼帯別命(葺不合)の乳母として遣られ、養育後、景行妃の兄比賣(八坂入媛・八尺入日賣)命の生む若帯日子命(成務)と繋ぐ。
 一方、針間之伊那毘能大郎女との双子「大碓命・小碓命(他三子)」として 弟媛命(歌凝比賣→弟国円野比賣命)を、妹倭比賣→弟小碓命→倭建命→倭男具那命と転生させ、孫の仲哀天皇に繋ぐと考える。
 それが故、「記」景行天皇が自身の子、倭建命の曾孫須売伊呂大中日子王の娘、具漏比売を娶り生む子、大枝王。更には、仲哀の子、品陀和気命(應神)が具漏比売を娶り生む子、川原田郎女、玉郎女、忍坂大中比売、登富志郎女、迦多遅王。その倭建命と弟橘比売命の子、若建王が飯野真黒比売命を娶り生む、須売伊呂大中日子王。この王が淡海之柴野入杵の娘、柴野比売を娶り生む子、具漏比売命とある。

 「伊理=遣」や「入」の付かない兄比賣命(氷羽州比賣→比婆須比賣)を姉豊玉姫は、印色日子命を入婿弟山幸彦とし、沙本毘古の妹沙本毘賣(弟比賣→沼羽田伊理毘賣)を妹玉依姫とし、その継母に養育された品牟都和気命の妻肥長比賣命(「紀」渟葉田瓊入媛(兄媛=八坂入媛)→妹真砥野比賣命→兄系本牟智和気命(蝦夷?)として分離・独立する。

 尚、天神山幸彦が上位者だったからか、豊玉姫は、態々、婿山幸彦の上国で出産、本来の姿(鰐=海民)を見られた事を恥じ、その御子葺不合を置いて帰った後、妹玉依姫を乳母(後妻)として遣る(伊理)。養母と養父(山幸彦)の下で育つと、継母の玉依姫を娶り(余里)、生む末弟の神武天皇(他三人)は、父系(天つ神)に属す家父長制と考えられる。さて、次回から傍国の考察に戻ろうと思う。

五十狭茅尊=「紀」素戔嗚尊の子(母不詳)、五十猛(いたけぬ)命。「紀」垂仁天皇(母・日葉酢媛)の子、五十(いしきに→いふに)入彦命。「開化紀」伊香色謎命為皇后(是庶母也)后生御間城入彦五十殖(いにゑ)天皇等とも関係が在る。

五穀の起源=「記」速須佐之男命に殺された神の頭に蠶(かいこ)が生る。二つの目に稲種(もみ)が生る。二つの耳に粟(あは)が生る。鼻に小豆(あずき)が生る。陰部(ほと)に麦が生る。尻に大豆(まめ)が生る。「紀」(月読尊に殺され)是時、保食神實已死矣。唯有、其神之頂化爲牛馬。顱上生粟。眉上生蠒(まゆ)。眼中生稗。腹中生稻。陰生麥及大小豆。

母系=若倭根子日子大毘毘命(開化)が、近淡海之御上祝が祭祀する天之御影神の娘、息長水依比売を娶り生む子、旦波比古多多須美知能宇斯王品陀和気命(應神)が、咋俣長日子王の娘、息長真若中比売を娶り生む子、若沼毛二俣王一柱。品太(應神)天皇の五世の孫、袁本杼命(継体)が息長真手の娘、麻組郎女(をくみいらつめ)を娶り生む子、佐佐宜(ささげ)郎女一柱。沼名倉太玉敷命(敏達)が、息長真手王の娘の比呂比売命を娶り生む子、忍坂日子人太子(麻呂古王)、次に坂騰王、宇遅王三柱。等が見える。
 佐佐宜(ささげ)=大角豆、マメ科の一年生作物。ヤッコササゲ(ハタササゲ)・ササゲ・ジュウロクササゲの3亜種。アフリカ中部の原産。9世紀頃に渡来。莢・種子を食用とする。ササギ。*継体紀「荳角、此をば娑佐礙といふ」
 また、「紀」敏達天皇の娘、糖手(ぬかて)姫皇女(母系息長)と押坂彦人足大兄皇子との子、田村皇子の和風諡号、息長足日広額(舒明)天皇は母系息長が生んだ男子になる。

阿邪美能伊理毘賣命=旦波美知能宇斯王の娘、比婆須比売(兄比賣)命、弟比売(沼羽田毘賣)命、阿邪美能伊理毘賣(歌凝比売)命、円野比売命四柱。「開化記」日子坐王の子、美知能宇志王丹波之河上之麻須郎女を娶り生む子、比婆須比賣命、真砥野(まとの)比賣命、弟比賣命、朝庭別(みかどわけ)王四柱。「垂仁記」と姉妹の順と名称に違いが在り、こうした事にも何らかの意味や意図があると思えあれる。

妹沙本毘賣=「記」開化天皇が丸邇臣祖日子国意祁都命の妹、意祁都比売命を娶り、生む日子坐が、春日建国勝戸売の娘、沙本之大闇見戸賣を娶り、沙本毘古王、袁邪本王、沙本毘売(垂仁の皇后佐波遅比賣)命、室毘古王(若狭耳別)を生む。
 尚、「紀」垂仁天皇、旦波道主王の娘、薊瓊入媛を娶り、池速別命・稚浅津(わくあさつ→わかさつ)姫命を生む。竹野媛(子女無し)とある。

景行妃=吉備臣等祖若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶り、櫛角別王、大碓命、小碓(倭男具那)命、倭根子命、神櫛王を生む。八尺入日子命の娘、八尺入日売命を娶り、若帯日子命、五百木之入日子命、押別命、五百木之入日売命を生む。或る妾は豊戸別王、沼代郎女を生む。或る妾は沼名木郎女、香余理(カグヨリ)比売命、若木之入日子王、吉備之兄日子王、高木比売命、弟比売命を生む。日向之美波迦斯毘売を娶り、豊国別王を生む。伊那毘能大郎女の妹、伊那毘能若郎女を娶り、真若王、日子人之大兄王を生む。倭建命の曾孫、名は須売伊呂大中日子王の娘、訶具漏比売を娶り、大枝王を生むとある。*余理=依?

印色日子命=「イヌシキイリヒコ」、「紀」日葉酢媛を娶り、五十敷瓊入彦(いしきにいりひこ)命・大足彦尊(景行)・大中姫命・倭姫命・稚城瓊入彦命を生む。渟葉田瓊入媛を娶り、鐸石別(ぬでしわけ)命・胆香足(いかたらし)姫命を生む。真砥野媛(子女無)。薊瓊入媛を娶り、池速別命・稚浅津姫命を生む。竹野媛(子女無し)。
 また、美知能宇が丹波之河上之麻須郎女を娶り、比婆須比賣命真砥野比賣命弟比賣命朝庭別(あさばわけ/みかどわけ)王を生む四柱とあり、「垂仁記」と姉妹の順序と名称に違いが在る。*旦波比古多多須美知宇

家父長=伊勢平氏流れ忠盛(弟山幸彦)の妻、藤原北家太宰帥隆家流れ宗兼の娘、禅尼(妹玉依姫)は、清盛(葺不合)の養母と云われる。仲が悪かったとされる兄弟、大納言平頼盛の生母と考える。
 平頼盛(1132~1186)=平安末期の武将。忠盛の子。母、池ノ禅尼が源頼朝を助けた功により、平家滅亡後も頼朝に厚遇された。池殿。尚、清和源氏多田満仲の流れ頼盛とある。
 継子の清盛と同名が醍醐源氏の後裔岡本氏流れに同名が見える。清盛(得度名「浄海」)は、桓武平氏時信の娘二位尼時子を娶り、生した徳子を高倉天皇の皇后(安徳の生母)とし、平家を創立する。平家滅亡後、建礼門院徳子は安徳天皇(言仁=ときひと)の菩提を弔ったと云われる。
 *建礼門=平安京内裏の外郭門の一つ。南面の中央で内郭の承明門に対する。白馬(あおうま)の陣。


  1. 2017/02/20(月) 23:03:14|
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(2)已百支国

  前項迄、その概略ですが、私見として、「記紀」と邪馬壹国との関係を述べてきましたが、やっと、次の傍国「已百支国」の考察に戻れます。

  已[diəg][yiei][i]=曲がった耜の象形、万葉仮名「い」に使われる「以」と同音。
  百[păk][pʌk][pai(po)]=一と白の合字、成数の百、全一の意に用いる事が多い。
  支[kieg][tʃıĕ][tsï]=小枝を手に持ち支える。

 漢字音を併せると、ヂァッパッキェッ→チァパッケッ→タパケ→タファケ(タマケ)→タァケで、岳・竹・武(たけ)、滝(たき)・環(たまき)とすれば、(1)斯馬国の比定地東側、佐賀県東松浦郡(現唐津市)七山村滝川・鮎帰・博多・木浦(きうら)・松坂、同県伊万里市東山代町滝川内・讃岐、同県西松浦郡有田町大野(八坂神社)、熊本県阿蘇郡(現山都町)蘇陽町滝上・伊勢・大野・八木、同郡(現阿蘇市)波野村滝水、同県上益城郡御船町滝尾滝川・日向等がある。
 これを、タァケ→タァクとすれば、福岡県宗像市田久・田熊・赤間・田島(宗像大社)、島根県飯石郡三刀屋町多久和・神代(同神社)・八幡、同県出雲市(旧平田市)多久町・多久谷町・別所(鰐淵寺)・焼山や、私説で、伊都国領内とした佐賀県多久市別府・納所等がある。
 ただ、「斯馬国」を末盧国東北側、福岡県糸島市二丈鹿家東側一帯としたので、その記述順で時計回りとすれば、通説的な
伊都国の比定地、福岡県前原市多久・中原・有田・五反田・高祖(高祖神社)・宮地岳(託社神社)等の平原遺跡付近一帯とする。
 再起を期して南下していた狗奴国の北上で、伊都国も福岡県前原市多久付近へ逃れる最中、女王卑彌呼が亡くなり、葬られ、宗女臺與(壹與)が女王に擁立されるも、敗れて東遷した後、狗奴国の統治下、怡土(いと)・志摩(ちま→しま)と称される。

 タパケ→タマケ→タマキとすれば、「紀」垂仁天皇が遷都した纏向の珠城(たまき)宮「記」師木玉垣(たまがき)宮と関係があるのかもしれない。
また、卑彌呼・彌彌・彌馬升や彌奴国等、「彌」=爾(豊かな毛髪と女性の美しい文身)と弓(男性のトーテム)で、美しい文身を施した巫女(爾)を生す種胤(弓で射る矢を作る=矢作)で、邪馬壹国の官伊支馬(ヤキェマ=八木山・焼山→活目)は、この国の王(垂仁)で、皇后佐波遅比賣が斯馬国の娘になる。
 ッイァッパッキェッ→イァパキ→ヤパケ→ヤファキ(ヤマキ)→ヤァキとすれば、末盧国の比定地、佐賀県唐津市矢作(やはぎ)・山田、同市浜玉町飯塚・山田・横田伊岐佐、福岡県遠賀郡岡垣町高倉・海老津・山田峠付近を流れる矢矧(ヤハギ)川、その東南、同県飯塚市八木山・横田伊岐須等があり、領域の拡がりか、同意識や同語を持つ人々の移動と考えられる。

 「記」景行天皇が八尺入日子命の娘、八坂入比賣命(生母)を娶り生んだ五百木之入日子命と五百木入日賣命に関係すると云う研究者も居り、男女の御子を生ませ、二系に分裂させるが、針間(はりま)稲日大郎女を娶り、双子の大碓命と小碓命(倭建命)を生し、再度、繋ぐ。
 斯馬国の「斯」=机上で拆(さく)→「サク→サカ(尺・坂)」とすれば、末盧国の比定地とした佐賀県唐津市柏崎に八坂神社、山口県佐波郡徳地町鯖・八坂と奈良原が在る。旧く、奈良坂者と清水坂者が対立したと云う伝承があり、「紀」日本武尊の東征(蝦夷討伐)経路の酒折宮近く、建御雷男神に追われたとされる諏訪大社祭神建御名方富神の妻八坂刀賣神にも繋がると考えられる。

 万葉仮名の甲「き」=支は、父性の男系「伎・岐」=皇子、乙「き」=木国(母系)で三者鼎立の関係を示唆、大和三山や、八咫鏡・草薙剣・勾玉の三種の神器にも関係がある。

タマキ=福井県坂井郡芦原町玉木・轟木・白髭神社(竹田川)、福井県遠敷郡上中町玉置有田・兼田(かねだ)・武生(たけふ→たけを)・三宅、兵庫県朝来郡和田山町玉置・竹田、奈良県吉野郡十津川村玉置川(玉置神社)・大野・葛山・滝川、和歌山県東牟婁郡熊野川町玉置口・和田・倉神社(赤木)、滋賀県近江八幡市玉木町・板屋・金田・佐波江町・八幡町・八木町・赤尾町(白髭神社遺跡)
 玉置神社(奈良県吉野郡十津川村玉置川1)祭神 國常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊 配 天照大神、神日本磐余彦尊
 由緒 磐楯信仰は縄文期からの原始的な信仰か。三重県度会郡二見町海中の二見興玉神社(猿田彦大神、宇迦御魂大神)、三重県熊野市有馬町海岸壁の花窟神社(伊弉冉尊)、和歌山県新宮市神倉平地の小山の神倉神社(高倉下命)、山中深い玉置神社と熊野付近にネットワーク的に在る。神日本磐余彦尊が熊野に上陸し、神邑に到り、天磐楯に登るとあり、高倉下から横刀を受け、危難を逃れたとの説話が古事記にあるが、この磐楯信仰のネットワークの一つが玉置神社である。

平原遺跡=瑞梅寺川と雷山川に挟まれた丘陵上にある。一号墓は、周囲に18m×14mの溝を回らせた四隅が丸い方形周溝墓で、長辺4.5mの墓坑中に長さ3mの割竹形木棺が検出された。棺内の頭部と右腕の付近からは、硝子勾玉・管玉・小玉、瑪瑙管玉・小玉、琥珀管玉・丸玉が多量に出土した。棺外の頭側には中国製の素環頭大刀があり、墓坑の四隅には埋葬時に破砕された鏡が39面も出土した。その中、34面が中国鏡、5面が日本の彷製鏡である。その後、5号墳間でも発掘が続く。
 他にも弥生時代中期 (BC1世紀)の三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡(福岡県糸島市三雲)、翡翠製勾玉、碧玉製勾玉、硝子製勾玉、瑠璃管玉、硝子製小玉(首飾り)、硝子製垂飾、硝子製璧、 計1万個以上 彩画鏡(彩文鏡)-赤青白緑の顔料で彩色した銅鏡、漢式鏡、金銅製四葉座飾金具、博多聖福寺。弥生時代中期の三雲遺跡八龍地区(福岡県糸島市三雲 )翡翠製勾玉。
 弥生時代中期の井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡(福岡県前原市井原)、鉛硝子製連玉(元の色は薄い緑) 銅鏡、漢式鏡20、巴形銅器、刀剣
 古墳時代前期の三雲石崎遺跡(福岡県糸島市二丈石崎)、翡翠製勾玉、同小玉。

岡垣町高倉=奈良・平安期の和名抄では岡垣町西部を垣前(かきさき)郷とする。系図資料では新羅三郎後裔南部氏流横田五郎行長は蠣崎氏を名告ると在る。尚、明治時代、岡県村と垣前(矢矧村)が合併した岡垣村。
 高倉神社(祭神 高倉下命 配 倭得玉彦命 境内社 八幡社、春日社)高倉下命の七世の孫倭得玉彦命が、この地に遷り、祖先をここの霊地に祀ったと云う。神社前の説明板には垂仁天皇代の創建と在る。倭得玉彦命は、卑弥呼の父親との見方がある。
 三重県伊賀市西高倉1046にも同神社があり、邪馬台国建国の謎を解きうる神社の可能性があるとする研究者もいる。また、倭得玉彦命の子に日女命と弟彦命がおり、日女命の孫に乎止与命がいる尾張氏系図が存在する。卑弥呼と男弟、また、臺與に充てる人も居る。大和東の都祁から近江南の柘植へ出るルート沿いに上野市があり、この平野北西に鎮座する。伊賀には縄文、弥生遺跡が多く、銅鐸も発見される。 

八坂=「紀」景行天皇が八坂入媛を娶り生む子稚帯彦命(成務)と在り、天皇京都の東山麓、元官幣大社の八坂神社(京都市東山区祇園町)の祭神は素戔嗚命・奇稲田姫命(八坂媛?)・八柱御子神。例祭の祇園会の他、特殊神事に白朮(おけら)祭がある。二十二社の一つ。もと祇園社と称し、1868(慶応4)年改称。私見で、坂を分けた事を示唆する八坂神社は、坂上田村麿の菩提清水寺の平安京系清水坂者と、平城京系奈良坂者の対立を示唆する。
 地名「八坂」は、福岡県小郡市八坂・馬渡(隣町佐賀県鳥栖市轟木・飯田町)、長崎県諫早市八坂町、大分県杵築市八坂・宮司、広島県三原市八坂町、同県佐伯郡大野八坂、鳥取県鳥取市八坂(八坂山)・玉津・福井、兵庫県西脇市八坂町・角尾山・大野、大阪府寝屋川市八坂町・葛原・対馬江、滋賀県彦根市八坂町、同県甲賀郡水口町八坂、岐阜県岐阜市八坂町・茜部大野、長野県北安曇郡八坂村大平、静岡県現静岡市八坂町・飯田、同県掛川市八坂大野、千葉県東金市八坂台・高倉・山田、福島県二本松市八坂町・大坂・山田、群馬県伊勢崎市八坂・鹿島等。尚、京都、八坂神社の山手、清水寺は坂上田村麿の菩提寺で、その子に大野とある。 

東征=日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の途中立ち寄ったという甲府市酒折(さかをり)町(善光寺)付近とされる。尚、長野県諏訪にある元官幣大社諏訪神社は、建御名方富命と妃とされる八坂刀賣命。諏訪市中洲に上社本宮、茅野市宮川に上社前宮、諏訪郡下諏訪町に下社の春宮・秋宮がある。古来、武事の守護神として武将の崇敬が厚く、6年毎の御柱(おんばしら)祭が盛大。信濃国一の宮諏訪大社と称。長崎市上西山町にも同名があり、御九日が有名。 以下は、日本の名著「日本書紀」(中央公論社)所載の大和武尊の蝦夷討伐経路図。

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甲「き」=万葉仮名甲・乙「き(ぎ)」に使われる漢字は、微妙な音韻違いや、四声違いだけで振り分けられるものが多い。新羅(シルラ)=シルラ・ぎの「ギ」も男系の甲音「岐」「伎」に関係があり、大海人皇子(天武)と中大兄皇子(天智)、更には、母系斉明(皇極)天皇=大山津見神の娘、木花佐久夜比賣や木花知流比賣等、乙音「木(もく/き)」とに関連するのは云うまでもない。
 「記紀」垂仁天皇と皇后佐波遅比賣(+兄沙本毘古)の関係や景行天皇と、その御子の大碓命と小碓命(ヤマトタケル命)との関係、五百木入日子等に繋がり、邪馬壹国の傍国として名を連ねる已百支国が狗奴国に寝返ったのかも知れない。


  1. 2017/03/03(金) 20:34:47|
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◇御真木入日子印邇恵

 「記」崇神天皇が尾張連祖意富阿麻比賣を娶り生んだ御子は、大入杵命、八坂之入日子命、沼名木之入日賣命、十市之入日賣命の四柱。景行天皇が、その八坂之入日子命の娘八坂入比賣を娶り、生んだ五百木入日子(五百城入彦)命と五百木入日賣(五百城入姫)命は「已百支国」に関係すると云う説もあり、漢和大字典に拠ると、両者の漢字音は以下になる。

 已[diəg][yiei][i] / 五[ŋag][ŋo][u](「字統」×字で蓋をする)
 百[păk][pʌk][pai(po)]
 支[kieg][tʃıĕ][tsï] / 木[muk][muk(mbuk)][mu]

 「魏志東夷伝」成立期の上古音を併せると、已百支「デァッ・パッ・キェ→タパケ(タマケ)→タァケ」、一方、「記紀」成立期の中古音を訓に拠る仮名を交えずに併せると、五百木「ヌゴ・パッ・ムッ→ッゴパム→ゴハン」になる。
 地名「ゴハン」は見あたらないが、音から末盧国の比定地東側の佐賀県唐津市浜玉町五反(ゴハン→ゴソル→ゴツォヌ→ゴタン)田とすれば、已百支国に比定した福岡県前原市(糸島市)多久・五反田(宮地岳)・牧(まき)、同県福津市津屋崎町五反田(宮地嶽神社)、長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷等がある。
 また、訓に拠る仮名を交えると、五百木「イッパッキ→イハキ(岩木・岩城)→イマキ(今来)」ともなり、狗奴国に寝返った已百支→五百木国は、今来(ぃまき→っまき)と訓みが変化し、後代、「真木」にされる。その
五百木入日子命の在地は、(1)斯馬国の比定地とした福岡県糸島郡二丈町佐波の東南、佐賀県鳥栖市真木町轟木・麓(ふもと)(對蘇国?)か、熊本県阿蘇郡大津町真木とする。

 福岡県宗像市田久の東南、遠賀川沿岸の同県遠賀郡水巻町や同県中間市付近の古地名「御牧(みまき)郡」は、崇神天皇の和風諡号の御真木入日子印恵命「紀」御間城入彦五十瓊殖尊に関連を説く研究者も居る。
 「御牧郡」の東北、福岡県北九州市若松区の洞海湾岸今光(イハミ津→イバミ津→イマミ津)の背後に聳える水源の石峰山(光明山)は、日本海沿岸部の旧国名「石見(いはみ)」の象徴で、後代、その領域から外れたため、石水(いはみ・の)山→石水(いしみ・ぬ)山→石峰(いしみね)山に転音したと考える。

 女王卑彌呼の死後、邪馬壹国伊都国連合の一部が千余里東側の倭人系海民(宗像)を頼って東遷、伊都母(出水→出雲)と称したのか、出雲国譲で、剣神伊都之尾羽張(天之尾羽張)神の御子、天之(あめの)系統に靡いた御雷神に敗れた御名方神が東国の科野(しなの)に逃げ込んだのと同様、「山幸海幸説話」妹玉依姫(乳母→妻)と葺不合(兄海幸彦)が併合し、父系の弟山幸彦を東国方面へ追い払う。

 「斯馬国」項で同地名とした山口県佐波郡徳地町鯖・八坂、同県防府市佐波町・仁井礼町西北側、同県長門市真木、同県美祢郡秋芳町真木、同県美祢市大嶺町真木へ領域を広げた初国知らすとされた崇神天皇の領域と考えられる。
 他にも島根県飯石郡赤来町真木、福井県福井市真木町、同県丹生郡朝日町真木、富山県東礪波郡上平村真木、新潟県糸魚川市真木、同県両津市真木、同県白根市真木(まぎ)新田、同県西蒲原郡分水町真木山(まぎやま)、同郡中之口村真木、山梨県大月市大月町真木、茨城県筑波郡谷和原村真木(まぎ)、千葉県八千代市真木野、岩手県下閉伊郡田野畑村真木沢、秋田県北秋田郡阿仁町真木沢がある。

 中大兄皇子(天智)が百済(くだら)救援のため斉明天皇と筑紫に下向後、新羅に大敗する。天皇の崩御後、大津宮に遷都した中大兄皇子は、福岡県の太宰府付近から熊本県菊池郡大津(おおづ)町真木(真城)・御所原・古城付近へ南下(くだ)ったと考える。

八坂入媛命=第一曰稚足彦(成務)天皇、第二曰五百城入彦皇子、第三曰忍之別皇子、第四曰稚倭根子皇子、第五曰大酢別皇子、第六曰渟熨斗皇女、第七曰渟名城皇女、第八曰五百城入姫皇女、第九曰麛依(かごより)姫皇女、第十曰五十狭城入彦皇子、第十一曰吉備兄彦皇子、第十二曰高城入姫皇女、第十三曰弟姫皇女。
 又妃三尾氏磐城別之妹水歯郎媛生五百野皇女。次妃五十河媛生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子是讃岐国造之始祖也、稲背入彦皇子是播磨別之始祖也。次妃阿倍氏木事之女高田媛生武国凝別皇子是伊予国御村別之始祖也。次妃日向髪長大田根生日向襲津彦皇子是阿牟君之始祖也。次妃襲武媛生国乳別皇子与国背別皇子一云宮道別皇子、豊戸別皇子、其国乳別皇子是水沼別之始祖也、豊戸別皇子是火国別之始祖也。夫天皇之男女前後并八十子然除日本武尊稚足彦天皇、五百城入彦皇子外七十余子皆封国郡各如其国、故当今時謂諸国之別者即其別王之苗裔焉

「デァッ・パッ・キェ→タパケ(タマケ)→タハケ→タァケ」=戯(たはけ)、謀(たばけ)。岳(たき)=断崖、断崖の多い山。滝=旧くは「タギ(滾る)」、河の瀬や、急な傾斜の所を勢いよく流れる水、激流、奔流、断崖から流れ落ちる水(瀑布)。沖縄では拝所のある山を御岳(うたき)と云う。*
滝に出現すると伝わる童形の怪物を岳童(たきわろふ)

五反田=反=段とも、距離の単位。6尺を1間(けん)、6間=1段。土地の面積、1段(反)は300歩(坪)で、約991.7㎡。太閤検地以前は360歩。布帛の大きさの単位・「端」。成人一人前の衣料に相当する分量。1反は、普通、布では並幅で鯨尺2丈6尺、または、2丈8尺とされる。官狗古智卑狗(山幸彦)か、継子の男王卑彌弓呼(葺不合)と宗女壹與(玉依姫)を合わせた夫「(二=伎・岐)」+乳母(三=美)=五と関係するか。
 三重県松阪市五反田町、同県桑名市五反田、滋賀県甲賀郡甲賀町五反田、京都府京都市右京区山ノ内五反田町、同府京都市右京区龍安寺五反田町、同市伏見区深草五反田町・同区向島五反田、同市西京区樫原五反田、同府八幡市八幡五反田、鳥取県鳥取市五反田町、 愛媛県八幡浜市五反田、長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷等が在る。*伍伴(ごはん)=仲間・連れ

今来(いまき→いばき→いはき)=岩木は、男系卑彌弓呼(葺不合命+玉依姫→五百木入日賣命)、山幸彦(五百木入日子命)、今見(いまみ)=石見は、女系の卑彌呼と云う関係に比定されると考える。
 もしかしたら、狗奴国王卑彌弓呼との戦いに敗れて、亡くなった邪馬壹国女王卑彌呼の宗女とされる臺與(豊玉姫、壹與=玉依姫?)の東遷後、石水→石見→今見と称されたのかも知れない。*伊吹(いふき)→五百木(いほき)→岩城(いはき)

轟木(とどろき)=傍国(9)對蘇(ツィス→トス)国に比定した。「記」土佐国(建依別)と在り、建速須佐之男命の建(たけ)国=都支国に憑依され、服従させられたのか、同音の地名「トサ」は福岡県内には見あたらない。
 尚、福岡県糸島郡二丈町佐波の西側、同郡志摩町道目木(どうめき)の南側、同県前原市雷山(雷山神籠石)、同県直方市道目木の南側に同県嘉穂郡(飯塚市)頴田町鹿毛馬(鹿毛馬神籠石)、同県朝倉市杷木町道目木の南側(杷木神籠石)、東日本にも百目鬼・百目木・道目木等が在る。
また、「日本の名著」日本書紀所載の地図「紀」景行天皇が熊襲討伐経路の伝承地に循い「轟(木)=紫点」が転々と残る。*緑点=麓
麓と轟 
今光(いまみつ)=西側の若松区用勺(ようじゃく)は石見津(いはみつ)の庸津役(ようつやく)で、これと同系の地名には福岡県北九州市八幡西区町上津役(まちこうじゃく)、上上津役・下上津役、これは古遠賀湾か、金山川の「津役」で、湾域の縮小に伴う遠賀川の流域の変化に因り、その役目を終える。他にも彌奴国の比定地とした福岡県春日市白水の西北、同県筑紫郡那珂川町今光・中原がある。
 尚、「光明」とは日光であり、水神でもある。聖武(首皇子)天皇皇后、藤原不比等の娘、光明子も水神と考えられる。東大寺二月堂のお水取りでは、大松明の火の粉を浴びると、一年、無病息災とされる。その大松明(首皇子)を鎮火する水神(光明子)は、春日神社「比賣神」の御神体で、裏手にある水源と考えられる。尚、火之神迦具土神の首(こうべ→くび)から大雷(おほいかづち)が生るとある。*烏賊津(いかつ)臣

剣神=建[kiān][kıʌn][kien]・剣[klıăn][kıʌn][kiem]、「記紀」成立期の中古音が同音である事を考え併せると、剣神の伊都之尾羽張が分裂した後、天之(あめの)=建御雷神が出雲の事代主神と繋がり、服従しない建御名方神を科野へ追い遣ったと考えられる。

東国方面=海民が二つに分裂する事を「山(と陰陽が揃った→間)」と呼んだ。邪馬壹(かまぃえ/がばぃえ/やまぃえ)国伊都国連合の宗女臺與(とよ=豊)は東千余里の福岡県宗像市付近の海民を頼り、福岡県京都郡(現みやこ町)豊津町や響灘沿岸部の山口県豊浦郡(下関市)豊浦町・豊田町、更には日本海沿岸部の島根県石見や出雲市へと逃げた。一方、狗奴国は宗女壹與(いよ)と繋がり、邪馬臺国と称す。
 後代、筑紫君磐井(竺紫君石井)乱等の情勢変化からか、狗奴国王系統(中兄大兄皇子)は壹與(妹→弟)系統を残して東征、先行の宗女臺與系統(皇極天皇)
と蘇我蝦夷と入鹿親子を倒し、政権を握る(乙巳の変)。

大津宮=女王(臺與)と男弟の「邪馬壹国」と、男王と巫女(壹與)の狗奴国→邪馬臺国に分裂し、熊本県菊池市付近の鞠智城南、同県阿蘇郡大津(おおづ)町から大分県大分市大津、高知県土佐清水市の大津、同県高知市大津、徳島県鳴門市大津、大阪府泉大津、滋賀県大津市へと移動した。これとは別に邪馬壹国系が移動したのか、山口県大津郡(長門市)日置町、島根県出雲市大津、石川県羽咋郡志賀町大津(おおづ)、同県鹿島郡田鶴浜町大津、新潟県刈羽郡西山町大津、同県岩船郡荒川町大津、青森県三沢市大津がある。
 もう一つ、山梨県甲府市大津町、群馬県吾妻郡長野原町大津、神奈川県横須賀市大津町、茨城県北茨城市大津町、千葉県長生郡長柄町大津倉、千葉県安房郡富浦町大津が在り、日本武尊(倭建命)の東征に関係するのかも知れない。


  1. 2017/03/15(水) 22:10:03|
  2. 7.某国考
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◇葬送

 女王卑弥呼の墓が出てきたら、そこが邪馬台国と云う研究者も多いが、「魏志倭人伝」以下の記述から狗奴国との戦いが緊張感が伝わり、女王卑彌呼が、その最中に亡くなったとすれば、当初からの所在地や、卑彌呼の宮殿近くに葬られたと云う確証はないので、残念ながら、それも怪しいと云わざるを得ない。ただ、墓が発掘される事で、今迄とは違った議論や論考がなされればと思う。

  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡~(中略)。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。殉葬者奴婢百餘人。

 
仮に邪馬壹国の関係者には、海民を伴い南西諸島を経て渡来した揚子江付近の水耕稲作民と大陸北部から朝鮮半島を経て渡来した人々が混在するとして、棺内に骨が残っており、近縁のDNAを持つ骨が出るか、彼女のDNAが分かっていれば良いが、それも儘ならない。
 邪馬壹国女王卑弥呼とでも記された墓誌が出土し、墓と確定しても、上記の理由で、そこが邪馬壹国女王卑彌呼の宮殿が所在したと確定する事は避けなければならない。

 私見では、通説的な伊都国の比定地の福岡県糸島市有田の平原遺跡一号墓、周囲(18×14)に溝を回らせた長辺4.5mの墓坑中に長さ3mの割竹形木棺を検出。棺内の頭部と右腕の付近で硝子勾玉・管玉・小玉、瑪瑙管玉・小玉、琥珀管玉・丸玉が多量に出土。棺外の頭側に中国製素環頭大刀、墓坑の四隅には埋葬時に破砕された鏡が39面も出土(34面が中国鏡、5面が日本の彷製鏡)。

 遺体を安置する棺の外、頭側に置かれた大刀は被葬者の霊魂の蘇りを阻止するための呪詛で、また、墓坑の四隅から詰まり、棺外から粉砕された鏡39面が発掘されたとあり、もし自然死だったとすれば、こうした葬送の仕方は有り得ないと思う。
 おそらく、王や巫覡等、その持ちものを壊して被葬者の強い霊力を封じ込めるための呪詛と考えられる。その被葬者は女性とされるので、もしも骨が残っているならば、現在の技術でDNAを鑑定して欲しいものだ。
 「倭人伝」祭祀を司る邪馬壹国の女王卑彌呼には強い霊力があったはずだが、狗奴国の北上に抗しきれず、殺されたのかも知れない。何れにしても逃れてきた女王卑彌呼と、その関係者が葬られたのだろうが、国の政を佐けたとされる男弟、詰まり、伊都国王は被葬者ではない。 
 尚、5号墓も1号墓と略同様の方形周溝墓だが、一回り小さい。こちらが伊都国王墓かとも考えたが、両墳の年代差は正確には判らないので、定かではないが、狗奴国に靡いた女王卑彌呼の宗女「壹與」の墓かも知れない。その周溝部から甕棺が出土したと在る。

 枚数の39面は3の倍数(3×13)で、これも何かの呪詛だろうが、朝昼夜、潮汐(干潮=ひると満潮=みつ)等、日々の繰り返しと関連が在り、最高数「九」とすれば、被葬者の霊力や人生の終焉を意味するのかも知れません。

 狗奴国の攻勢に追われて、東千里の海民を頼り、遠賀川沿岸部へ移動した邪馬壹国伊都国連合の人々は石見や出雲と繋がる。後代、「記紀」の云う出雲国譲に関係があり、平原遺跡の四隅を丸くした方墳は、出雲付近の四隅突出型方墳と何らかの繋がりがあると思う。ただ、四方の丸い平原遺跡と四隅の突出した出雲では何らかの違いが在るとして良い。

 狗奴国の北上に伴い邪馬壹国と伊都国が、已百支国の比定地、福岡県前原市(糸島市)多久有田の東側、高祖王丸(おうまる)から福岡県福岡市早良区有田、遠賀川河岸「御牧郡」北側、福岡県宗像市田久・田熊・王丸・武丸(たけまる)、島根県平田市多久町、同県益田市有田町へと移動した。尚、宗像(武ノ像)は、神武や武烈、天武・文武・聖武・桓武等、通字「武」を持つ天皇に関係があると考える。

3の倍数=中国製の鏡34面を魏王から授けられた100枚の一部として、残りの66面は、宗女壹與(平原遺跡五号墓内?)が譲り受けたのか。或いは、宗女臺與が持って逃げたのか。また、五号墓の周溝部から甕棺が発掘されたとあるので、百人が殉葬されたと云う事と関係するか。

四隅突出型古墳=弥生時代の山陰地方の墳丘墓の大きな特色として「四隅突出型墳丘墓」がある。墳丘の表面に化粧石を貼り、墳丘の四隅を突き出させる独特な形をしている。山陰地方を中心とした日本海沿岸に分布し、北陸地方にも石を貼らない形式の四隅突出型があり、それらを含めると約100基を確認。島根県(宍道湖南岸の出雲市・11基、松江市・7基、安来市・9基等)、鳥取県(淀江町福岡・17基)、広島県(三次市・16基)、岡山県(鏡野町竹田・竹田8号)、兵庫県(加西市網引町等、2件)、福井県(丹生郡清水町等、3件)、石川県(松任市一塚町・一塚21号)、富山県(婦負郡婦中町・六基他)、福島県(耶麻郡塩川町・舘ノ内1号周溝墓)が在る。
 天石門別(天磐門別)神社も幾つか祀られる中国山地には、出雲神社・清水寺・蓮花寺の三つを伴う地域が二ヶ所あり、京都府亀岡市千歳町千歳の出雲大神宮に向かったか、ここから出雲へと人々の移動があったのか、出雲国譲に関係が在るのかも知れない。更には長野県や福島県へと逃げ延びた人々も居るのかも知れない。
 もう一つ、鳥取県・福井県・石川県・富山県系統は、広島と島根県境、伊邪那美の墓と伝承される比婆山東麓付近から北上、日本海側へ出た。未だ、その詳細な経路は分からないが、越前から招かれたと云う継体天皇との関係が考えられる。

已百支国(タパケ→タァケ)=(4)都支国を建・武(タケ)国としたが、剣の国が「建(たけ→たち)」と「武(ほこ)」系統に分裂する事と関係が在るのかも知れない。それは「記」速須佐之男命が天照大御神に献上するとしたヤマタノヲロチの尾から出てきた草薙剣と、誓約に於いて天照大御神の物実とした十握剣(羽羽斬剣)は別のもので、十握剣から生まれた三女神が建速須佐之男命の御子とされる。
 他にも、広島県甲奴郡甲奴町有田、同県山県郡千代田町有田、岡山県笠岡市有田、和歌山県西牟婁郡串本町有田・出雲、同県有田郡吉備町長田、同県伊都郡高野町・同郡カツラギ町志賀。 



  1. 2017/03/21(火) 21:36:22|
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(3)伊邪国

(3)伊邪国

 伊[・ıər][・ıi][i]=尹(弾正台の長官・左右京職の長官の唐名)を補佐する人。
 邪[ŋiăg(yiă)][ziă][sie(ie)]=邪なる事(よこしま・悪い)=呪術等、漢方では陰陽のバランスが悪い事、傾(かし)ぐ。

 漢字音を併せると、ィアッヌギァッ→ィアヌギァ→ィアヌガ→ィアガ→ヤカで、福岡県福岡市南区屋形原、同県柳川市矢加部、同県甘木市屋形原、同県築上郡新吉富村矢方等がある。*屋形原(やかたばる)→伊邪羅原(やからばる)
 ただ、比定地の流れから、「記紀」成立期の中古音のイイジァ(イイチァ)→イイジ(イイタ)で、福岡県福岡市西区飯氏(いいじ)・四箇・金武・飯石神社(御食入沼命)
・女原(出雲大社分院)・飯盛(飯盛神社)、同市早良区飯倉(いいざぅ→いいくら)・有田、同市城南区飯倉付近に比定する。

 野方遺跡=弥生時代後期(福岡県福岡市西区野方)翡翠製勾玉・管玉・硝子玉・玉類等・(舶載)獣帯鏡・内行花文鏡・太刀
 吉武高木遺跡=弥生前期末~中期 (福岡市西区吉武高木)翡翠製勾玉・銅製腕輪・碧玉製管玉・水晶算盤玉・硝子製小玉・多紐細文鏡、重圏久不相見鏡・素環頭大刀・素環頭刀子・把頭飾銅剣・銅剣・鉄剣・銅戈・銅矛・鉄製武器他。
 
 「イシェ→イセ」とすれば、君(女王卑弥呼)の飲食を給仕や伝辞、その託宣を男弟(伊都国王)や官吏に伝える神祇官を排出、伊勢神宮内宮の天照皇祖神を養う外宮の豊受大神と関連する。
 伊都国は安寧と秩序を祈る祝禱を入れた器を護る城壁を構えるが、「邪」=陰陽のバランスの悪い伊邪国は邪馬壹国伊都国連合に服属、祭祀権を奪われ、一大率から卑狗(神祇官)や卑奴母離(武官)が派遣された。 
 「記紀」崇神天皇は娘の豊鍬入姫を伊勢神宮の斎宮(妻)とした後、天照大神の鎮座地を求め、御魂を倭姫命に移すと、男神天照大神→女神天照大御神(倭姫命)に性が変わり、陰陽のバランスが悪かったのか、豊耜入姫は髪の毛が抜けて祀られずとあり、皇孫の生母木花佐久夜比賣命の姉で醜い石長比賣と同様に石女(うまずめ)にされたのだろう。

 「記紀」景行天皇の御子兄大碓命(狗奴国王卑彌弓呼)は、邪馬壹国伊都国連合と対立、南下した後、姨倭姫命→弟小碓命→倭建命(景行)が北上し、五百木入彦命の娘八坂入比賣(壹與)を娶る→熊襲梟帥の娘、弟市鹿文(壹與)と内通し、兄市乾鹿文(臺與)を討伐する。
 「紀」日本武尊は蝦夷討伐の帰途、当芸野を経て、同県上野市(現甲賀市)上野市東側の能煩野(能褒野)で亡くなり、白鳥になって飛んでいったと伝承される。尚、三重県伊勢市西北、同県員弁郡北勢町飯倉(いぐら)が在る。
 地名「白鳥」は全国的に見られ、白鳥神社(日本武尊)は大阪府羽曳野市古市(御陵)、
香川県大川郡白鳥町松原・白鳥、福岡県田川市白鳥、同県山門郡(柳川市)三橋町、宮崎県えびの市末永(白鳥山)・白鳥と、岐阜県郡上郡白鳥町白鳥、神奈川県川崎市麻生区白鳥、宮城県桃生郡桃生町城内字白鳥下(倭建命)、同県白石市白鳥、同県刈田郡蔵王町宮馬場の刈田嶺(かったみね)神社(白鳥大明神)、富山県等にも見られる。

 「仲哀紀」伊覩県主祖五十迹手が船の舳と艫に五百枝賢木を立て、上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡(ますみのかがみ)、下枝に十握剣を掛け~、天皇は五十迹手をお褒めになり、伊蘇志と仰せられ、伊蘇国、伊覩は訛とした後、儺県に至り、橿日宮に居られる。
 旧来の行政区画「郡」の下部に属す県(あがた)の訓「懸け離れる」「遙かなり」を河川が吐き出す土砂が堆積し、海岸や浜辺が離れていく事とすれば、儺吐田(なのはかた→なのあかた)は王都から離れた鄙(ひな)で、県主=卑奴母離として良い。

弾正台=糺す司の意。律令制で京都内の非違を糺弾し、官人の綱紀粛正を司る役所。親王、及び左右大臣以下の朝臣の非違をも太政官を経ず、直ちに奏聞する権力を有した。尹・弼・忠・疏の四等官と巡察弾正とがある。9世紀初頭、検非違使の設置後は形骸化した。
 白川静編「字統」の「尹」=神丈を持つ聖職者と在り、これに祝詞や祝禱を入れる器(口)を加えた「君(巫女)」を口寄せする巫子(いちこ)とすれば、「伊」=女王卑彌呼を補佐する伊都国王(男弟)、或いは、飲食を給し、伝辞する伊邪国の人として良い。

イイダ=飯田は福岡県大牟田市飯田町、同県久留米市善導寺町飯田、同県嘉穂郡碓井町飯田、佐賀県鳥栖市飯田町、同県鹿島市飯田。また、地名「飯盛」や飯盛山が大村湾岸部山手に点々と続き、旧く松浦水軍等の勢力の拡がりに拠るのかも知れない。
 また、「飯倉」は、茨城県稲敷郡阿見町飯倉(イイグラ)、群馬県佐波郡玉村町飯倉(イイグラ)、埼玉県児玉郡児玉町飯倉(イイグラ)、千葉県八日市場市飯倉(イイグラ)以外は見えない。もしかしたら、茨城県鹿嶋市宮中にある元官幣大社の鹿島神宮(武甕槌神、経津主神、天児屋根命を配祀)、古来、軍神として武人の尊信が厚い常陸国一の宮と関係が在るのかも知れない。


飯氏(いいじ)=5世紀の兜塚(かぶとづか)古墳(福岡市西区飯氏マツヲ)硝子製玉類(首飾り)・馬具・鎧・鉄刀(前方後円墳全長54m)。
6世紀初~前半、飯氏二塚(いいじふたつか)古墳 硝子製玉類(首飾り)・辻金具・雲珠等の馬具(前方後円墳全長48m)。

飯石神社=島根県飯石郡三刀屋町大字多久和の飯石(いいし)神社(伊毘志都幣命)。出雲国風土記に飯石社、延喜式に飯石神社とみえる式内社で、「出雲国風土記」飯石郡条、飯石と号くる所以は、飯石郷の中に伊毘志都幣命坐せり。故飯石と云ふ。また、郡家の正東一十二里なり。
 
伊毘志都幣命天降り坐しし処なり。故、伊毘志と云ふ(神亀三年に字を飯石と改む)とあり、伊毘志都幣命の天降りましたと伝える磐座が御神体とされるので、本殿はなく、幣殿、通殿、拝殿を配している。即ち磐境、磐座という自然信仰の形態のままで現在に伝え、この地を命の降臨の聖地として、古来、注連縄を用いないのも特殊の習慣である。
 出雲(伊都母)国造家の祖神にあたる御祭神の伊毘志都幣命は天照大神の第二御子天穂日命の御子で、天夷鳥命、武夷鳥命とも云い、出雲国譲に際して三穂之崎に事代主神を尋ね、国土奉還の大業を成就された神とされる。その時に使用された船を熊野諸手船という。尚、別名は、伊都之尾羽張神→天之尾羽張神の子、建御雷之男命→天之御雷神等、冠称が変わる事と同変化と考える。

石女(うまずめ)=太陽神天照大神に斎き祀る巫女(妻)を天照御祖神(日光の化身=女王卑彌呼の鏡)として祀った。「日本書紀」是月天皇聞美濃国造名神骨之女兄名兄遠子弟名弟遠子並有国色則遣大碓命使察其婦女之容姿時大碓命便密通而不復命由是恨大碓命
 「崇神六年」百姓流離或有背叛其勢難以徳治之是以晨興夕惕請罪神祇先是天照大神倭大国魂二神並祭於天皇大殿之内然畏其神勢共住不安故以天照大神託豊鍬入姫命祭於倭笠縫邑仍立磯堅城神籬神籬此云比莽呂岐亦以日本大国魂神託渟名城入姫命令祭然渟名城入姫命髪落体痩而不能祭とあり、これも女神の倭国魂神が男神の日本国魂神に転生したからかも知れない
 九州管内には佐賀県佐賀市伊勢町、長崎県長崎市伊勢町、熊本県上益城郡山都町伊勢、宮崎県日向市伊勢ヶ浜等。伊勢(いせ→いし=石)=イシュァィ→イセ/イァスィァッ→イァサ→ヤセ、勢・世[thiad][ʃıəi][ʃıəi]

当芸野(たぎの)=次項の(4)都支(たぎ)国(建=剣→刀)と関係があるのかもしれない。ここ迄の流れから伊邪国の東側と思われる。「記」小碓命の蝦夷討伐に於いて、当芸野の辺りにやって来た時、私の心は、いつも空を飛翔したいと願っていた。しかし、今は、私の足は歩くこともできず当芸当芸斯玖なってしまった(足が行かない山田案山子?)と言った。その地を名付けて当芸(たぎ)野と言う。
 その地より少しだけ進んだが、とても疲れたので杖をついて緩りと歩いた。その地を名付けて杖衝坂と言う。尾津前の一本松の所へやって来ると、以前に食事をした時、その地に忘れていた御刀(みはかし→みたち)が、無くならずに未だあった。

儺県=AD200~300年頃、温暖化に因る海進で博多湾は奥に入り込み、福岡県福岡市東区名島の多々良川河口奥に橿日宮が鎮座、同市博多区那珂や同県糟屋郡新宮町、同郡粕屋町大隈等、那珂川流域の河口付近一帯の儺県を拠点として宗女臺與を蝦夷として追い払う。通説的に儺や名島は奴(な)国の「ナ」とされるが、私説は奴国の領域としないので、狗奴(かな→くど)国の北上に因る領域の変化で儺県とされたと考える。
 以下、弥生期の博多湾岸線=「まぼろしの邪馬臺国(宮崎康平著)」所載の図。
博多湾2  


  1. 2017/03/24(金) 08:37:00|
  2. 7.某国考
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(4)都支国


  都[tag][to][tu]は、祝禱を入れた器を埋納し、城壁で囲んだ所。
  支[kieg][tʃıĕ][tsï]=小枝を手に持ち支える。

 使われる漢字音を併せると、「タッキェッ→タケ(タチェ)」となる。地名は、竹・武・高(たけ)・滝等、国の役割は、都を支える国=の祝禱を入れた器を守り、支える、一大率から派遣された官卑狗や副官卑奴母離等、武人の国とした。
 前項迄の比定地から福岡県福岡市中央区舞鶴の東側、筑紫平野東部、御笠川沿岸の同区板付(いたづけ)の水田稲作跡が発掘された板付遺跡や同区金の隈(金隈遺跡)の西側、
福岡県福岡市博多区竹下、同市南区高宮・高木付近一帯に比定する。後代、那珂川を遡った同県筑紫郡那珂川町成竹も含まれるか。 他にも以下の遺跡が在る。

 宝満尾(ほうまんを)遺跡 弥生後期(福岡県福岡市博多区下月隈)翡翠製勾玉・ ガラス製小玉・中国製明光鏡・素環頭刀子・鉄斧、土壙墓4基
 那珂八幡古墳 4世紀初頭(福岡県福岡市博多区那珂)翡翠製勾玉・管玉・ガラス製小玉(首飾り)・三角縁五神四獣鏡・赤色塗布の高坏他、前方後円墳(全長約75m)。

 狗奴国の北上に拠る攻勢に敗れた後、一部は服属を嫌がったのか、「記紀」建速須佐之男命や建御雷之男命(武甕槌命)の建(ケン)=剣が、建(タケ→タチ)と武(タケ)の二系に分裂する。
 福岡県糟屋郡新宮町立花(岳越山)東北の同県鞍手郡小竹(こたけ)町勝野・南良津(同神社)付近へ追いやられたと考える。ただ、福岡古賀市小竹・須賀神社(素戔嗚尊尊)、同県宗像郡福津市福間町小竹、同県北九州市若松区小竹は「をだけ」と訓むので、狗奴国の北上に因って分裂した武系が東征、佐賀県武雄市、福岡県糸島郡二丈町武、同県前原市武丸、同県福岡市早良区金武、同市西区吉武、同県小郡市力武、同県宗像市武丸島根県八束郡鹿島町武代(たけだい)、同県出雲市武志(たけし)町、福井県武生(たけふ→たけを)市等、日本海沿岸部へ領域を拡げる。
 尚、宮崎康平氏は「慶元本」郡支(クキ)国とするが、武系が福岡県北九州市の洞海(くきのうみ)沿岸部へ移動後の名称で、建(天之)系は出雲付近で国譲し、科野付近迄、追われたと考える。

 「仲哀紀」紀伊国徳勒(とくろく)津を出発した仲哀天皇は使者を角賀(つぬが)に遣わし、皇后に勅し、直ちに出発して穴門(あなと)で会うようにせよ~云々。穴門を現山口県下関市付近、角賀(つぬが)を福井県敦賀とするが、徳勒津の所在は不明とされる。
 漢和大辞典に拠ると、角[kŭk][kɔk][kiau(kiue)]・賀[ɦag][hə][ho]、万葉仮名成立期の中古音「コクファ→カッハ→カハ(カカ)」、福岡県田川市東側、同県京都郡勝山町(現みやこ町)の仲哀隧道(七曲峠)の西側、同県田川郡香春町勾金(まがりかね)の鏡山大神社の河内(かはち→かぁち)王墓(陵墓参考地)、その勝山町と同県行橋市津積(つつみ)の境、御所ヶ谷神籠石があり、九州西北部から神籠石の担い手も移る。
 徳[tək][tək][tə]=生来、備わった本性、本字「彳+直+心」。勒[lək][lək][ləi]=馬を馭する革紐、勝手に動かない様に引き締める=制御、程よく調整する、訓「あらたむ」。
 草原の馬=海原の船とした様に、神功皇后の新羅討伐に助力した住吉系海民(+蛋民の鰐)と外洋航海民の陸鰐等、邪馬臺国伊都国連合に属した海民の連合、投馬(タクマ)国も玉依姫+山幸彦→葺不合系と海幸系豊玉姫→豊玉彦の二系に分裂する。
 「記紀」成立期の中古音で、「タクラク→タクッラッ→タッラ」とすれば、建羅(タクラ→タラ)=多良・太良・足(たり→たら)や、竹田(タクラ→タケダ)で、長崎県西彼杵郡(諫早市)多良見町、佐賀県藤津郡太良町多良等がある。

板付=イタッキ(一大城?)→イタッケ→イタヌケ→イタヅケと転音したか。「紀」素戔嗚尊の子、五十猛(いたける→ぃたけの)命と関係が在るのか、付近には、五十川(ごじっかわ→イカガワ→イラガワ→イタガワ)と在り、他にも山形県長井市五十川(イカガワ)、同県西田川郡温海町五十川(イラガワ)。

「建」[kiān][kıʌn][kien]=近世音[jian]と中古音が同音(剣[klıăn][kıʌn][kiem])。また、「武」=と止の合字とあり、何れも武官だろうが、銅矛と鉄剣の違いかも知れない。また、繭[kăn][ken][kien]ともあり、以下の説話にも関係するのかも知れない。また、「記」国産神話、肥国=建日向日豊久志比泥別、建日別=熊曽国とある。
 「紀」眉上に生れり。漢和大辞典「蠒(爾+虫)」項、繭(まゆ)の別字とあり、眉(まゆ)と通音して対応する。「記」頭(かしら)に蠶(かひこ)生るとし、「蚕」項、蚯蚓(みみず)とし、「記」蠶(替+虫+虫)は「解字」桑の葉の間に入って食べる虫、潜(もぐる)・簪(かんざし)等と同系字で、「蠶」=繭(蠒=まゆ)を被り隠る虫=甲隠(かひこ)は卑弥呼(秘巫女?)かも知れない。

をだけ=島根県能義郡伯太(はくた→はかた)町小竹(ヲダケ)、富山県高岡市小竹(ヲダケ)・御馬出(おんまだし)町・五十里(いかり)、同県氷見市小竹(ヲダケ)・五十谷(いかだに)・伊勢大町、石川県鹿島郡鹿島町小竹(ヲダケ)、茨城県鹿嶋市高天原、神奈川県小田原市小竹(ヲダケ)・国府津・矢作、千葉県佐倉市小竹(ヲダケ)・飯塚・鹿島干拓・馬渡等がある。
 島根県の鳥取県西伯郡名和町小竹(コダケ)、京都府京都市左京区松ケ崎小竹(コタケ)薮町、瀬戸内海を渡り、徳島県阿波郡市場町小竹(コタケ)へ、或いは、琵琶湖を北上して、新潟県三島郡出雲崎町小竹(コダケ)・住吉町、秋田県南秋田郡井川町小竹(コダケ)花、宮城県石巻市小竹(コダケ)浜・伊勢町、少し飛び、東京都練馬区小竹(コタケ)町・豊玉へ移動した。
 福井県武生(たけふ)市(現越前市)国府は、奈良時代から越前国府の所在地とあり、「ヲダケ=男武」と「コタケ=篠(風神級戸辺神)」か。

武雄市=奴国の中枢とした佐賀県武雄市若木町川古・御所付近の伏尺(ふし)神社伝承には、壱岐真根子と、その娘、豊子の婿内宿禰は、姿形がうり二つで、その身代わりに死んだとされる壱岐直真根子の遺体を壱岐に運ぼうとしたが重すぎて、そこに葬ったとある。
 その経緯は5世紀初頭、履中期創建の玄界灘に突き出る岬の福岡県宗像市鐘崎の織幡神社(壱岐真根子・内宿禰・綿津見三神)に詳しい。 また、博多湾沿岸部福岡県福岡市西区生(いき)松原には壱岐神社(祭神壱岐真根子)が在り、同区今宿付近に湊を持っていたと伝承される。

郡支=上古音に拠ると、「ギゥァヌケ→グァヌケ→ガヌケ→ガケ(崖・垣)」、 「記紀」スサノヲが妻を匿った八重垣(やへがき)や神籠(こうご)石等の垣・籬に繋がるのかも知れない。おそらく、女王卑彌呼没後、服属を嫌い福岡県遠賀郡岡垣町高倉や遠賀川東岸の企救郡(聞物部氏)、現在の福岡県北九州市付近仁移動したか。(5)彌奴国は福岡県宗像(むなかた)市付近、(6)好古都国は大分県中津市博多付近に移動したのか。

紀伊国=紀[kıəg][kıei][ki]・伊[・ıər][・ıi][i](木国)を「キェィァ→ケヤ」とすれば、糸島半島西北岸、糸島郡糸島町芥屋(けや)大門や可也(かや)山、長崎県西彼杵郡多良見町化屋等がある。*穴[ɦuət][ɦuet][hiet]
 尚、
鬼[kıuər][kıuəi][kıuəi]・奴[nag][no(ndo)][nu]=「キゥァ・ナッ→カナ/カノ・カヌド→クド」国とすれば、狗奴(かな→くぬど)国で、本来、同国だったか。竈(くど)神の奥津比賣(大戸比売神)とも関連が在るかも知れない。

角賀(つぬが)=角(つぬ→つづ→つる)とすれば、角賀(つぬが→つるが)=敦賀(鶴賀)ともなり、水流(つる)・都留・鶴等の地名が在る。
 仲哀天皇の父倭建命(日本武尊)が大鳥(おおとり→つる)となって飛んでいく事とも繋がり、福岡県田川市、同県山門郡(柳川市)三橋町、南九州の霧島連山付近には、白鳥神社(倭建命)鹿児島県薩摩郡薩摩町中津川
、白鳥神社(日本武尊)鹿児島県曽於郡有明町伊崎田等。
 他にも大阪府羽曳野市古市の白鳥神社(日本武尊・素盞嗚命・稻田姫命、合祀饒速日命・廣國押武金日命)、岐阜県郡上郡白鳥町、愛知県岡崎市大和町、香川県大川郡白鳥町、白鳥神社「日本武尊」富山県富山市寺町字向田や、白鳥神社「日本武尊」富山県婦負郡八尾町三田字道円、刈田嶺(かったみね)神社「日本武尊」の宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉仲町、刈田嶺神社「日本武尊(白鳥大明神)」同町宮字馬場等が在る。
 尚、角(かど→くま→すみ→つみ)とすれば、注⑥の竈(くど/かまど→くまど)神や、海神綿津見神や穂積(ほずみ→ほつみ)、沿岸航海の神、墨之江(すみのえ)=住吉神、山神とされる大山津見(おおやまつみ)神、河を遡った安曇(あずみ→あつみ)とも繋がる。*日吉(ひえ)=日枝

竹田=福井県坂井郡丸岡町竹田、長野県東筑摩郡山形村竹田、愛知県海部郡十四山村竹田、同県名古屋市瑞穂区竹田町、同県丹羽郡大口町竹田、兵庫県氷上郡市島町竹田、同県姫路市竹田町、同県三方郡温泉町竹田、奈良県橿原市竹田町、同県御所市竹田、同県磯城郡田原本町竹田・宮古・八尾(鏡作神社)、岡山県英田郡作東町竹田・豆田横田、同県岡山市竹田・楢津・山田・大和町、同県苫田郡鏡野町竹田・美作大野(女山)、広島県深安郡神辺町竹田・山田、香川県三豊郡豊中町笠田竹田、福岡県行橋市竹田、同県京都郡勝山町(御所・御所ヶ谷神籠石)、大分県竹田市竹田・玉来、同国東郡国見町竹田津・櫛海・櫛来、同県日田市竹田・有田豆田山田、宮崎県東諸県郡国富町竹田。


  1. 2017/04/03(月) 08:29:08|
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◇竹(ちく)

 漢和大辞典に拠ると、竹(チク/たけ)や筑、築(チク→ツク→ツイ)は、何れも[tıok][tıuk][tʃıu]、紫[tsiĕr][tsiĕ][tsï]・斯[sieg][siĕ][sï]で、筑紫や竹斯とは、竹で編んだ網状の籬(かき→ませ)を衝立として水を抜き、水路(つる)に流す等の治水工事を施した河口部の中州や河岸にできた築地(ちくち・つきち→ついぢ)や築施(ちくせ)と考える。*施[thiar][ʃıĕ][sī]
 おそらく、
「地名」杵築(きつき)・木月(きつき)・築城(ついき)・月瀬(つきがせ)・佃(つくだ)島・月(つき)島等は同源で、そうした築地の環濠集落が村邑(くに)となる。その後、強国に拠る支配が始まり、夫々が連合し、領域が拡がると支配域の全体、北部九州一帯の呼称にされる。
 

 また、現在、海中道で福岡県糟屋郡や福岡市東区や博多区と陸路で繋がる志賀島は、縄文海進期や弥生後期、AD200~300年頃の温暖化に因る奈多や西戸崎等、四つの島だったが、古墳時代の冷温化に因る海退や、潮汐に因る泥砂の堆積に拠って繋がる。
 この場合、築地ではなく、接地=筑紫(つくち→つくし)で、海進期、奥まった博多湾岸に注ぐ河川の流路が自然に変化したか、治水工事を施して変更したか、多くの中州が接合されて繋がる接地(つくち)とも考えられる。

 竹(たけ)→建(たけ→たち)=立で、月立(つきたち→ついたち)=一日(朔)とすれば、月読命は筑紫(つくし)と関係があり、卑彌呼の鬼道とは潮汐(こよみ)を伴って変化する月の形状を観察する暦学で、月読(つきよみ→つ・こよみ→っこよみ)=暦にも繋がる。
 南下した狗奴国=建日別(熊曽)とすれば、月読命は巫女(太陰)が、月夜見尊→月弓尊と表記が変化、卑彌呼自体を祀る覡の建=立(たち)→大刀(卑彌弓呼=ヤマトタケル)、剣(つるぎ)=水流岐(つるぎ)=敦賀(つるが)→駿河(するが)に分裂する。
 更に、「武(武器で止める)」と云う漢字には父系制(家長)での血縁、嫡嗣とは違い、母系制での家督を嗣ぐ娘に婿入した夫が血縁ではなく継ぐと云う意味が在り、武(たけ)=接(つぐ)=継ぐともなる。

 京築(けいちく)地区の福岡県京都郡犀川町上伊良原、標高220㍍の山間、榎遺跡から約九千年前の住居跡が発掘された北部九州東側、豊国の沿岸部も倭人系海民や水耕稲作民の住んだ筑紫だが、弥生後期、人口増加に因る食料不足等が契機か、政情不安に乗じた狗奴国王卑彌弓呼の北
上に拠り、卑彌呼が亡くなり、その宗女「壹與(イチヨ→イヨ)」が靡き、係累の「臺與(タィヨ→トヨ)」が分裂して逃げて豊(とよ)と呼ばれる。
 更に、そこからも追われた臺與は日本海沿岸を東遷する。狗奴国王卑彌弓呼は、壹與を残して後を追う様に周防灘を渡り、瀬戸内海沿岸を東遷、山口県と広島県境付近から北上し、国譲させたと考える。

 有明海沿岸部の肥国(ひのくに)は筑紫の「築地」とは違い、筑後川や矢部川、六角川や牛津川、白川や緑川等の河川に阿蘇山の火山灰が運ばれて土砂として堆積、瞬く間に這うように延びていく泥濘地が「肥える」と呼ばれた。その浅い海で獲れる貝等の水産資源が豊富だったのだろう。
 もしかしたら、今では南西諸島付近でしか獲れない貝輪の材料「芋貝・ゴホウラ」も縄文海進の温暖期には生息していたのかも知れない。その後、小氷期で凍える程に気温が下がって海退すると、泥濘地の水気が抜けて陸地化する。
 それが故か、「凍」も肥(こゆ)と同訓にされる。更に、泥水が濾されて土壌の密度が濃くなり、「越(こし→こゆ)」=上に到る、経過する、抜け出る等の語義があり、日一日と泥濘地は拡がるが、粘土質ではないので土壌改良が施されて水田化されたと考える。

「筑」=中国の古代楽器。箏に似て小さい。頸が細く肩は円い。左手で柱(ちゅう)を押さえ、右手に竹の細棒を持って弦を打って鳴らす。周末より漢初にかけて(えん)の地方を中心に行われた。筑紫国(つくしのくに)の略。

ませ(籬・笆・架)=「間塞」、「馬塞(うませ・うまふせぎ)」の意。竹や木で作った低く目の粗い垣。真瀬垣・籬(まがき)。間狭=劇場の枡の仕切。 馬塞=馬が出られないように作った垣、厩栓棒(ませんぼう)、馬出(まいだし)等の地名は関係が在るのかも知れない。また、動詞「益・増(マス)」の連用形から、ませている事。年齢の割に大人びて見える事。また、その様な子供。おませ。早熟。老成。
 「記」黄泉国から還り、伊邪那伎大神は「なんと恐ろしい恐ろしい穢れた国を訪れてしまったのだ。禊をすべきだろう」と竺紫日向(つくしのひむか)橘小門阿波岐原(吾吐き原)を訪れて禊祓をする時、投げ捨てた杖に生り出でた神名は衝立船戸神~云々。*竺[tıok(tok)][tıuk(tok)][tʃıu(tu)]=太い竹、厚く行き届いている様。阿波岐→淡(あは)き・喘(あは→あえ)く
 「紀」筑紫日向小戸橘之檍原、即投其杖岐戸(ふなと)神~云々。
*檍[・ıək][・ıək][iəi]=〈神代紀上訓注〉橿・黐(もち)の木の古名、梓の類等、未詳。古訓「あはき」とあるが、漢字音に拠ると、「ィアク→ヤク」となる。*厄(やく)原、阨(あく)原、葯(やく)原(葯=雄蘂先端の花粉を生じる嚢)。

立(たち)=「歌舞伎」舞台上で座り、演奏する囃子方に対して、演じる役者を立ち役とする事、同性愛者の男役を立(たち)、女役を猫とする理由も同様(男=立ち、女=寢こ)。例えば、犢鼻褌(たちふさぎ→たっふさぎ)、三毛猫=猫の毛色で、白・黒・茶の3色の毛が混じっているもの。また、その雌猫(雄猫=たま)とされる。詰まり、天皇の和風謚「倭根子」=倭人の母系と云う意味があり、天照大御神が速須佐之男命の帯びた十握剣を物実として生した三女神と、速須佐之男命が天照大御神の珠(たま)を物実として生した五男神(大刀)と考えられる。また、ヤマタノヲロチの尾を斬り裂くと出てきた「記」草那芸大刀(クサナギヌタチ)、「紀」草薙劒(くさなぎのつるぎ)とある。

榎遺跡=県内では二番目の古さとされる
住居は、二本の柱で支える構造で、床にあたる部分の直径2.5㍍前後、定住家屋としては小さく、狩猟キャンプ用の簡易家屋とされる。季節に拠って住居を変えたのかもしれない。同時期の縁に凹凸の飾りが一列ずつ施される柏原式土器の破片、約百点も出土、同様のものが福岡と大分で出土、今回の発見で復元の可能性あると云う。他にも旧石器時代(約1万2~3千年前)のナイフ型石器、鎌倉~室町時代の土壙墓七基から青銅製和鏡等の副葬品も多数出土した

豊国=石塚山古墳 4~5世紀(福岡県京都郡苅田町富久町)琥珀製勾玉、碧玉製管玉、三角縁神獣鏡,、三角縁吾作四神四獣鏡、三角縁獣文帯日月四神四獣鏡、三角縁獣文帯天王日月三神三獣鏡、細線式獣帯鏡、素環頭大刀の銅、鉄製武器、武具。竪穴式石棺前方後円墳全長110m
 御所山古墳 5世紀後半(福岡県京都郡苅田町与原)翡翠製勾玉、翡翠製棗玉、碧玉製管玉、硝子製小玉、倭製四禽四乳鏡,金銅製雲珠等の馬具、鉄製武器他。横穴式石室前方後円墳全長119m「宮内庁書陵部蔵」
 番塚古墳 5世紀末-6世紀初(福岡県京都郡苅田町尾倉)金環、翡翠製勾玉、勾玉、管玉、丸玉、硝子製玉類等、神人歌舞画像鏡 銀箔片、銀捩条片、金銅製飾金具、轡、剣菱形杏葉、鞍金具、革金具他等の馬具、銀象嵌大刀(同心円文、蓮華文、魚文の銀象嵌)
大量の鉄製武器、武具他。横穴式石室前方後円墳全長50m
 下稗田(しもひえだ)遺跡 弥生前~中期(福岡県行橋市下稗田)翡翠製勾玉
 琵琶隈古墳 古墳時代中期(福岡県行橋市延永)翡翠製勾玉, 青色硝子小玉、舶載内行花文鏡、素環頭大刀、短剣1、鉄鏃、靫、 札甲。竪穴式石室円墳径25m
 竹並遺跡竹並横穴墓群 5世紀後半~7世紀(福岡県行橋市南泉)耳環、勾玉、イモガイ製腕輪(釧)、ゴホウラ貝製腕輪(釧)、管玉、丸玉滑石製装飾品、乳文鏡、馬具、銀象嵌鍔と鞘尻金具、双龍環頭大刀、蛇行剣、圭頭太刀他の鉄製武器。
 山田1号墳(福岡県築上郡上毛町安雲)耳飾り、金銅装・装飾品他。 円墳
 黒部古墳群 6世紀末~7世紀中(福岡県豊前市大字松江)瑪瑙製玉類、水晶製切子玉、硝子製玉類等、銀製杏葉、金銅製雲珠、金銅装金具、金銅装鋲他等の馬具、銅製圭頭式柄頭、銅製鉄縁・喰出鐔等の武器。円墳7基

筑紫(ちくし)=福岡県北九州市小倉南区曽根付近を流れる竹馬(ちくま)川と在り、遠賀川中流域を筑豊(ちくほう)と呼ぶ事からも筑紫(ちくし)となる。尚、茨城県南西部の筑波(つくば)山と、琵琶湖東端の滋賀県米原市朝妻筑摩(ちくま/つくま)との関係は如何なものだろうか。
 近江国坂田郡米原町朝妻筑摩の筑摩(朝妻)神社(孝安天皇)では、古く、4月1日等に行われた鍋被り、神輿に従う女性が関係を結んだ男の数だけの鍋を被ったらしいが、今は5月3日に少女が緑の狩衣、緋の袴をつけ、張子(はりこ)の鍋を被って供奉(ぐぶ)する。鍋祭。鍋冠祭
 茨城県つくば市筑波の筑波山神社「伊弉諾尊、伊弉册尊、加具土命」、筑波山の西峯=筑波男神(伊弉諾尊)、東峰=筑波女神(伊弉册尊)の二座を拝し、御神体山と仰いだ。同県新治郡霞ヶ浦町大堤とあり、これも治水工事等を施した新しい端(接く地=生した子加具土命)になる。

国譲=邪馬壹国と伊都国連合は新たに統治権を象徴する金印「親魏倭王」を魏王から授かったため、漢の属国として統治権を委ねられた事を象徴する金印「漢委奴国王」を隠匿する。その後、狗奴国に追われて邪馬は金印を携えて逃げるが、譲り受けて邪馬
称したと考える。尚、隠匿された金印が志賀島で発見されたと伝承される。


  1. 2017/04/12(水) 00:23:48|
  2. 7.某国考
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(5)彌奴国

 彌[miĕr][miĕ(mbiĕ)][mi]=「爾」豊かな毛髪と女性の美しい文身、「弓」男性のトーテムで、矢(婿胤)を射る弓
 奴[nag][no(ndo)][nu]=祭祀官下属の女囚

 漢字を併せると、巫女の教えに従う水耕稲作民(奴=下属の民)の奴国連合の国になる。その訓を「ミェルナッ→メルナ→ミナ→ミヌ→ミヅ」とすれば、有明海沿岸の福岡県三潴(みずま)郡三潴町や同県久留米市山本町耳納、水縄(みのう)山(高良神社・玉垂命)、遠賀川沿岸の同県遠賀郡水巻、同県行橋市蓑島(みのしま)他、三野・美濃等も同源と考えられる。
 前項迄の流れに順うと、福岡県福岡市博多区美野島付近だが、那珂川や御笠川を遡った同県春日市白水(しろうず)・春日野・大和町、同県大野城市瑞穂町付近一帯の小高い所に住み、低湿地や泥濘地に溜め池や水路を造り、治水工事を施して開発した。

 弥永原(やながばる)遺跡、弥生中期(福岡県福岡市南区日佐)勾玉、水晶製玉類 、倭製内行花文鏡、硝子製勾玉鋳型
 須玖岡本遺跡、弥生期(福岡県春日市)硝子製勾玉、硝子製璧、硝子製管玉、草葉文鏡, 星雲文鏡, 重圏銘帯鏡, 連弧文銘 帯鏡、銅剣, 銅矛

 道程で記述された国々とは違い、国名が羅列されるだけの傍国の役目や官名、その比定地は使われる漢字音と語義から推測するしかない。伊都国の台頭に拠り、統治権を奪われた奴国連合の委奴国王係累、狗奴国王卑彌弓呼は官狗古智卑狗と共に再起を期して南下(くだ)ったため、彌奴国は、その後ろ盾を失い服属させられただろうから、一大率から官卑狗(文官)か、副卑奴母離(武官)が派遣されたのは間違いない。
 その伊都国の命に従い(9)對蘇国と共に彌奴の人々は
那珂川や多々良川下流域の福岡県福岡市南区清水(しみず)、同市博多区美野島や同市東区水谷(香椎宮)、有明海沿岸の同県三潴(みずま)郡三潴町付近迄、技術と、その役目を担い派遣されて拡がっていたのかも知れない。
 例えば、福岡県太宰府市の「水城」は、宇美川や御笠川河口から遡り、南側の大川(筑後川)河口、福岡県朝倉市杷木町付近へ抜ける運河の水量を調節したと考えられる。ただ、弥生前期の冷温化に因る海退で、その役目を失うが、内陸部深く入り込んだ博多湾岸にできた泥濘地の治水工事のための貯水池とされた。後代、中大兄皇子が新羅の侵攻に備えた防御的な役割の水城の築造や管理にも彌奴の人々が従事した。

 これを 「ムナ(ムダ)」とすれば、大牟田市等の牟田(低湿地や泥濘地)、福岡県宗像郡玄海町牟田尻等も考えられる。ただ、宗像大社の三女神は海民が斎き祀るので、役目や特徴に違いがあり、宗像付近は邪馬壹国東側千里に居た同種の倭人とした。
 先述した様に、倭[・ıuar][ıuĕ][uəi](別音[・uar][ua][uo])と同音「委」=(字統)稲魂(穀物神)を被り舞う女性(早乙女)で、舞う姿が低く、しなやかな様とあるので、「倭」の人偏「イ」は委=卑弥呼(天照大御神)を支える伊都国から派遣された補佐役(摂政)の男弟(「記紀」思兼神)となる。
 おそらく、「記」天宇受賣命(猿女君)が天之石戸(天磐戸)の前で舞踊り、太陽(日光)神を呼び出した如く、山麓の河口部で水耕稲作を営む農耕民は、投馬国連合の海民等が持つ天文の知識を用いて農事暦を作り、巫女卑弥呼(≒天照大御神)一族が「能くする」と云う鬼道に、その農耕儀礼や神事を委ね、豊穣を祈願したと考える。
 「記」スサノヲが大山津見神の娘神大市比賣を娶り生んだ大年神を、狗奴国の覡王卑彌弓呼(+官狗古智卑狗)、宇迦之御魂神を女王卑彌呼か、宗女壹與(臺與)が斎き祀った稲魂の化身として記述した。詰まり、「記紀」の編者達も「魏志東夷伝」を読んでいたとして良い。

美濃=三重県松阪市美濃田町、同県名張市箕曲中村(ミノワナカムラ)、同県多気郡明和町蓑村、滋賀県神崎郡永源寺町箕川、同県坂田郡近江町箕浦、同県東浅井郡湖北町美濃山、大阪府堺市大美野・見野山、同府豊中市箕輪、同府箕面市箕面、同府東大阪市箕輪、兵庫県神戸市灘区箕岡、同県姫路市四郷町見野、兵庫県川西市見野、同県津名郡五色町鮎原三野畑、奈良県大和郡山市箕山町、同県山辺郡山添村箕輪、和歌山県有田市箕島、同県海草郡美里町蓑垣内(ミノガイト)、同県東牟婁郡本宮町簑尾谷、島根県益田市美濃地町、岡山県岡山市三野、同県津山市美濃町、同県御津郡加茂川町三納谷、同県邑久郡邑久町箕輪、広島県三原市八幡町美生(ミノウ)、同県福山市箕島町、同県佐伯郡沖美町美能、同県山県郡戸河内町箕角(ミノスミ)、徳島県三好郡三野町清水、香川県三豊郡三野町大見・同郡豊浜町箕浦等、何れも低湿地や河岸や湖岸に多い。

白水(しらみず→しらむず→しらうず)=泥濘地に施す治水工事や水城等の調整池を管理する人々と考える。尚、白水郎(はくすいろう)=白水は中国の地名、海人(あま)の異称とあるが、沿岸航海民や河民で、長江河口部、浙江省等の治水工事に携わり、水路を完備し、河川荷役を発展させたと考える。現在でも、春日神社(比売神=水神光明子?)が地座する白水付近には白水(しろうず)氏がおり、全て、此処が発祥と自称する。

奴国連合=周の召公奭の封ぜられた「」が秦の始皇帝に滅ぼされたため、その国人、衛滿が朝鮮半島へ逃れて、殷王「紂」の叔父胥余が周武王から「箕」に封ぜられて朝鮮に入り、興した箕子朝鮮の王「準」を滅ぼし、衛氏朝鮮を興す。その難を逃れた王族や官吏が奴(「論」箕子、これ下属の女囚とある)として列島に渡来、そうした巫女等の組織や役職を管理して水耕稲作民と海民を支配した委奴(鰐→猪)国連合となる。
 後代、衛氏朝鮮(伊都国系)も前漢武帝に滅ぼされ、その王族や官吏・武官が列島に渡来すると、再度、箕子氏の委奴国連合は支配され、再度、下属の民(女性とは限らない)を差し出す国に貶められる事を嫌った狗奴国(邪馬壹国側に拠る呼称)は再起を図り、南下(くだ)り、対立した。
 焼き畑農耕民と治水工事等の技術者集団(箕子朝鮮の関係者)と、伊都国王(男弟=思兼神?)が遅れて渡来した衛氏朝鮮の関係者で遊牧騎馬民(武人の都支国等)。もう一つ、南西諸島を経て渡来した南中国や東南アジアの海民と耕作民(倭人)が混在した。

委=訓「ゆだねる」「任せる」「詳しい」等、しなやかに踊る巫女に豊穣を委ねる。その姿「委」に対し、覡は「年」(字解)禾+人=大年神。尚、後漢時代の煉瓦(塼)に「倭」という文字が見えるとあるので、遅くとも、その頃には、「イ(人偏)+委」とし、巫女(祭祀)と男弟(摂政王)と云う彼等の習俗や政治形態に則して創られたと考える。

天文=外洋航海民は、昼間、沿岸部の風景や太陽の位置で進行方向を知るが、夜は北極星(妙見)の位置や、中国で28宿(箕や鬼等)と呼ばれた季節に拠って違う星座の位置で方向を定めた。その天文の知識を用いて伊都国王直轄の官僚の下で作られた。後代、暦術は天皇家の所轄する所となる。また、鬼道とは、後代の陰陽道に近いのかも知れない。


  1. 2017/04/20(木) 21:39:29|
  2. 7.某国考
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(6)好古都国

 好[hag][hau][hau]=母が子を抱く形で、全てを賞賛する時に用いる
 古[kag][ko][ku]=祝禱を入れた器とそれを護る干(武舞に用いる装飾のある盾)との合字
 都[tag][to][tu]=祝禱を入れた器を埋納し、城壁で囲んだ所

 語義を併せると、安寧を祈る祝禱を入れた器と盾を設け、邑とは違い祖先の宗廟を城壁で囲って護る所と云う名称になる。詰まり、漢王朝から授かった金印「漢委奴国王」の奴国連合委奴国の祭祀を掌る王都だろう。
 漢字音を併せると、ハッカッタッ→ハカタ(博多)→ゥアカタ→ワカタ(若田)・アカタ(赤田)で、(3)「伊邪l国」項の地図に拠ると、当時、現在の福岡市博多区や東区付近の海岸線は深く入り込み、殆どが海中なので、「ハカタ」の語源は、干潮時、河口に吐き出される濁流の土砂が堆積した泥濘地の吐田(はきた)で、福岡県福岡市東区箱崎や同区馬出(まいだし)は治水工事を施した陸地の這出(はいだし)や場出(ばいづる)で、同県福岡市中央区舞鶴(まいづる)、同県三池郡高田町舞鶴、大分県大分市舞鶴町、京都府舞鶴市等も同源と考える。
 地名「ハカタ」は、三重県津市博多町、京都府京都市東山区博多町、佐賀県唐津市七山村博多・木浦、長崎県長崎市今博多町、大分県中津市古博多町、愛媛県今治市伯方(はかた)町古江・木浦等、以上の何れもが幾筋か河川の流れる合流地点や、その河口入江の沿岸部に在る。

 述べてきた事と、この国を守護する武人の都支国や、この国の治水工事にも関わった彌奴国の比定地等、その流れに順うと、福岡県福岡市博多区美野島と多々良川や宇美川を挟んだ東側、筑紫平野東部、3世紀中~後半の光正寺古墳(翡翠製勾玉・碧玉製管玉・変形獣首鏡、鉄器他)のある福岡県糟屋郡志免町や同郡宇美町付近一帯に比定する。
 付近の金隈(かねのくま)遺跡の墳墓には銅鏡や銅矛・鉄剣等、被葬者が持つ権威の象徴を表す副葬品に殆ど見えず、伊国に奴国連合の統治権と祭祀権を剥奪され、殺された王の輪廻転生を阻止する呪詛等もなかったため、当時の一般人(下属の民)を葬った共同墓地とされる。
 もしかしたら、(4)都支(たけ)国の比定地とした福岡県福岡市博多区下月隈(つきくま→たけくま)、弥生後期の宝満尾(ほうまんを)遺跡の土壙墓4基には翡翠製勾玉、 硝子製小玉、中国製明光鏡、素環頭刀子鉄斧等とあり、70~80年続いた委奴国王墓かも知れない。

 邪馬壹国伊都国連合への服属を嫌った奴国連合の委奴国王係累で覡の卑彌弓呼(秘狗奴)が授かった統治権の象徴である金印「漢委奴国王」は跡目争いの最中、奪われたため、従者や関係者を率い狗奴国(カナラ→カナダ/クヌダラ→クダラ)として南下した後、代々の国王を祀る宗廟に安置された金印を警護する武官卑奴母離や神祇官の卑狗が一大率から派遣された。*敵・叶(かなう)

 
その後、狗奴国は邪馬壹国の内部分裂を謀り、成就したのか、その一部(壹與)と繋がり、邪馬国と称した。その攻勢に敗れた邪馬壹国の女王卑弥呼(秘巫女)は亡くなり、通説の伊都国比定地、福岡県前原市の平原遺跡の古墳に葬られたと考える。
 邪馬壹国伊都国の王族は東北方面の遠賀川沿岸部から中国地方の出雲付近へ逃げ延びる時、奴国連合の象徴、金印「漢委奴国王」を狗奴国に奪われるの恐れたのか、埋納し、その宗廟を焼いたのかも知れない。
 後代、中大兄皇子と斉明天皇は百済(くだら)を救援に筑紫に下向し、唐王朝を後ろ盾とした新羅に敗れ、熊本県阿蘇郡大津(おおづ)町瀬田・真木・古城付近から大分県大分市大津、高知県土佐清水市大津、同県高知市大津、徳島県鳴門市大津、大阪府泉大津、滋賀県大津市と移動した。

赤田(あかた)=ハカタ→ゥアカタ→ッアケタとすれば、山口県下関市垢田(綾羅木川)、秋田(あきた)と云う地名も雄物川等が吐き出す土砂が堆積した泥濘地を秋田運河等で治水した同源の地名、若田(ワカタ)→脇田(ワキタ)→和井田とすれば、湧水地にもなる。
 
尚、博多(はかた)と云う漢字の語義は、博=広く薄く、多=夕方から夕方→拡がるとなり、土砂の堆積を示唆する。「記紀」成立期の中古音では、「ハゥコツォ→ホコト→ココト」となり、「紀」興臺産霊(こごとむすび)に比定される。

馬出(まいだし)=福岡県福岡市東区馬出は付近の箱崎八幡宮の神馬(じんめ)を出したと云う地名説話がある。但し、他にも徳島県美馬郡貞光町馬出(うまだし)、富山県高岡市御馬出(おんまだし)町・小馬出(こんまだし)町、石川県小松市小馬出(こんまで)町等は同源の地名だろうが、地図ソフトに拠ると、何れも河川沿岸に位置するが、付近に大きな神社は見あたらない。

壹與=景行天皇が八尺入日子命の娘、八坂入比賣命(生母)を娶り、生んだ五百木之入日子命、五百木入日賣命として良いのかも知れない。また、景行天皇が吉備臣等祖若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶り、櫛角別王、大碓命、小碓(倭男具那)命、倭根子命、神櫛王を生むとあり、「臺與」は景行天皇の妹倭比賣命で、養われた倭建命(日本武尊)は卑彌弓呼に化体されたと考える。
 二十四史の一つ「後漢書(後漢の事跡を記した史書)」本紀10巻、列伝80巻は南朝宋の范曄(はんよう)(398~445)の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭(わ)に関する記事があり、邪馬国とされる。
 
大津(おおつ/おおづ)=当初、伊都国の攻勢に追われて南下(くだ)るが、人口増加に因る食料不足での政情不安からか、北上を始める。その攻勢に押された邪馬壹国伊都国連合の一部が山口県大津郡大津郡(長門市)油谷町大和、島根県出雲市大津、石川県羽咋郡志賀町大津(おおづ)、同県鹿島郡田鶴浜町大津、新潟県刈羽郡西山町大津(おおづ)、同県岩船郡荒川町大津、 青森県三沢市大津へと日本海沿岸部を移動した。
 もう一つ、三重県松阪市大津町、山梨県甲府市大津町、群馬県吾妻郡長野原町大津、神奈川県横須賀市大津町、千葉県東葛飾郡沼南町大津、同県長生郡長柄町大津倉、同県安房郡富浦町大津、茨城県北茨城市大津町(鹿島神社系)がある。*オホ(意富)津→イホ(已百→五百)津

  1. 2017/05/01(月) 08:31:41|
  2. 7.某国考
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