見まごう邪馬台国

◇自女王国以北

 通説的に「倭人伝」自女王國以北~は、女王国を含めた以北とされるが、「東京以北」と云う語句には、東京を含む、いや、含まないと、夫々の捉え方がある。例えば、広辞苑には、「以外」=距離や時間、数量等、それを除く・その他、或る範囲より外側。「以内」=同様に、それを含み、それより内側それより少ない範囲。 「以上」=程度・数量等、それより多い、優れている。「以下」=同様に、それより少ない、劣っている。また、「以北」=その地点から通常、その地点を含む。と在る。
 以(もち)は、本来、基準を持ち、保つ境界線と云う語義でしかなかったが、法律・数学の用語では曖昧さを避けるため、基準を含むとされた「A以上」「B以下」等に順い「自女王国以北」も女王国を含んだ北側として認識されたと考える。
 では、「倭人伝」の編者陳寿は、何故、「女王国以北~」とせず、「自」を付したのか。そこで「従(から)~」「自(より)~」として比較検討してみたい。

 「これから先(さき)~」は、物理的な距離感や時系列的な因果関係や過去の経緯に拘わらず、「これ」を境に、今、この時点に於ける関係性や、示唆された地点や時点からと云うニュアンスで、「これ」を含めた前方の事、今から先=今後の事として述べる。
 これを、「これより先(さき)~」にすると、物理的な距離感の「先」と「後」や、時系列的に過去の経緯により、これら因果関係を含めてと云うニュアンスで、「これ」を境にした前方は~、今後は、と述べる。

 「これから前(まへ)~」は、物理的な前後の情報や状態、時系列的な前後の経緯や因果関係に拘わらず、時刻表・氏名表や資料等、「これ」から物体の前方、前段の情報や状態等を述べる。
 これを、「これより前(まへ)~」にすると、物理的な前後の情報や状態、時系列的な前後の経緯を示唆する「これ」を境に、時刻表・氏名表や資料等、これより後に対して、「前」と云うニュアンスで前後の因果関係を含めて述べる。

 上記を考え併せると、「これから先」「これから前」に於ける話者の立ち位置や、その意識は「後(あと・うしろ)」ではなく、「これから先」「これから前」の部分や領域に在るが、「これより先」「これより前」の場合、その「後」の部分や領域に在ると云う違いになる。これを「これから後」「これより後」としても、同様の対応関係になる。序でに以下の如き語句を、述べてきた事に順い比較検討してみる。

 「これから上」「これから下」は「これ以上」と「これ以下」と同様、「これ」を含んだ上側や下側の部分や領域を示唆する。これを「これより上」「これより下」にすると、氏名表や資料等の領域を区画する境「これ」を含めない上側・下側と云うニュアンスになる。
 また、「ここから内」「ここから外」も、「これ以内」「これ以外」と同様、ここを含んだ内側や外側になる。一方、「ここより内」「ここより外」とした場合、家の壁や間仕切りの襖、河川や山脈等、緩衝帯や境界と認識される「ここ」の手前を起点とする内側、向かいの外側と云うニュアンスと考えられる。

 上記、「女王国以北(女王国から以北)」は、「これ以上」や「これ以下」に順うと、女王国を含む北側になる。これを「自女王国以北」にして、述べてきた事に順うと、女王国より以北=女王国を境にして北側の道程の記述で道里と戸数を略載した国々になり、女王国は含まれない。
 これを「自女王国以南(女王国より南側)」にすると、女王国の領域を含まない南側、狗奴国になり、「女王国以北(女王から以北)」は、女王国迄に到る道程を示唆する。余の傍国は、その東西に広がって在る。

自女王國以北=同語句で始まる「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」=女王国より以北、一大率を特置、諸国を検察する。諸国、これ恐れ憚る。(郡使が往来するので)伊都国を常治す。我が国中に於て有る刺史の如き。と云う文章でも、女王国を含むのか。この一大率は、誰が特置したのか。女王国以北に在る伊都国として、女王国を含み、その役人や武人が検察するのであれば、女王国以北とした意味はない。

以(もち)=漢和字典に拠ると、已(すでに)と同源の耜の形象で、右を向く「已」、左を向く「以」とある。耕作地を耜で剥き、残った筋が左右に分ける事になり、筋が一つの線とすれば、「境」、区画とすれば、「界」となる。また、「厶」も耜の形象とされ、「私」や「公」に使われるので、これは区別すると云う意味になる。

女王国=以前、(3)方向の感覚の「大きな領域」で、帶方東南の倭人の領域中、海民が持つ海上の領域を東側「東渡海千余里復国有皆倭種」と邪馬壹国連合に属す南側(瀚海)、それとは別に東南方面の内陸に住む倭の耕作民等が持つ領域も二つに分け、南側に含まれる倭地を併せた領域としたが、その都となる首長の国を女王国と称したと考える。邪馬壹国は、その筆頭の国であり、その領域全体を壹(集合体)として表す。ここで訂正します。

自(より)=従(から)は、本を借る。稲を刈る。猪を狩る。手綱を引いて馬を駆る等と同源で、対象を手前に引く→対象に意識を向ける。一方、自(より)は、本屋に寄る。資金の援助に頼る。基本に拠る・地震に因る。雨天に由る等と同源で、対象から手前に対する動き→対象に意識が向かう。
 枯(かる→くる)は、水気(生気)が抜けて軽くなり、土に還り、新たに芽吹く事=繰り返す事、輪廻転生に繋がるのか。「より分ける」は良いものと悪いものに拠り、選別し、一方に寄せる事だが、選(より→える=ィエル)=得るともされる。

緩衝帯=何れにも属さない山脈や河川を境界にした場合で、大韓民国と朝鮮人民共和国の38度線にある軍事境界の様に、別の区画を挟み区画される。

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  1. 2017/11/17(金) 08:45:00|
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◇三国志の用法 「自~以~」

 前回、検証した事に順うと、「倭人伝」「自女王国以北~」は女王国を境として以北となり、女王国を含まないとした方が良い。そこで「三国志」の用法を比較検討してみる。

(1)自許以南吏民不安太祖以為憂(魏志九 曹操伝)
(2)詔曰昔紹之難(建安五年官渡の合戦)自許蔡以南人懐異心(魏志十八 和洽伝)
(3)聞羽(関羽)遣別将已在郟下自許以南擾擾(魏志二十六 滿龍伝) *龍+宀

 (1)(2)(3)は、何れも、200年、華北の魏国に対し、北より袁紹軍、南より劉備軍が挟み撃ちに攻めたて、許を首都とする魏の人民が恐怖した事を語り、当時、「自許以南」は、魏の版図であり、許は、その中心で含まれるとされる。
 何れも北と南から攻められる挟撃の状態になる。(1)孤立した首都、許の北側は袁紹の領域で、どうでも良かったのか。何れにしても城壁内の守りは、太祖の将兵で何とかなるのだろう。城壁南側の吏民とした方が良い。(2)態々、許と、蔡にする理由は、その二地域を除いた南側の人々の気持ちに異心があった。(3)前の二者からすれば、別将を派遣したが、既に挟撃の状態で、許は孤立、以南は酷く混乱している、と関羽は聞いた。

(4)自高柳以東濊貊以西鮮卑数十部(魏志二六 田豫伝)
(5)自雲中五原以東抵遼水皆為鮮卑庭(魏志三十 鮮卑伝) 

 (4)(5)は、北方騎馬民族鮮卑族のテリトリーを示し、書かれた地名は、その地方の根拠地名で含まれるとする。例えば、(4)高柳の以東が濊貊、以西が鮮卑族の領域だとすれば、この根拠地名が以東と以西の何れにも含まれる事になる。私見では、次項(6)「領」の嶺線を境に東西の斜面が夫々に属すのではなく、高柳を境に以東は濊貊、高柳を含めて以西鮮卑族の領域と考える。
 (5)自雲中五原を含め、以東より遼水迄の鮮卑領とするが、現在、内蒙古自治区の五原は、漢代の郡名とあり、郡の領域になる。遊牧民には領土や境界と云う意識は殆どないので、「庭=放牧地」とする。家畜の水場として遼水の手前岸迄になる。

(6)自単単大山領以西屬楽浪自領以東七県都尉主之(魏志三一 濊伝)

 朝鮮半島北部の狼林山脈の嶺線に拠って行政区分し、西は楽浪郡、東は東部都尉(漢代の武官)の管掌する中国古制度で、単単大山領の「領」は嶺線で両者に含まれるとするが、領(稜線)を境界線とすれば、夫々、山の斜面も領域にしたか、西王母や仙人等が住む異界とも考えられる。

(7)自隴以西可断而有也(蜀志十四 姜維伝)。

 蜀は西方異民族と同盟して魏の攻撃を計画、自隴以西は異民族の領域を語り、主要都市とするが、資料に拠ると、隴(ろう)は甘粛省の別称、「秦」の地、明代迄、陝西省に含まれた。隴関を挟んで隴西(隴左)と隴東(隴右)が在り、黄土高原西縁で、地形的な断崖や民族的な断絶になる。

(8)自江以南(呉志一七 胡綜伝)

 「自江以南」とは揚子江より南、呉の領域を示す。当時、長江の制水権は呉にあり、北の河岸域も領土とするが、制水権を有していた河川航行を生業とする人々が服属したのだろうから、(6)と同様の緩衝帯として良い。

 纏めると、(1)~(3)南北からの挟撃状態で、孤立した「許」は含まれない。(4)高柳を含まない自~以東の濊貊と、含む以西の鮮卑、(5)自雲中五原を含まない以東から遼水岸迄の鮮卑庭。(7)隴関を含まない隴西側の断崖や断絶を境界に隴関を含む隴東。(8)揚子江自体は緩衝帯になる。
 詰まり、從郡至倭=郡衙に居る郡使や魏使から見た倭の領域というニュアンスになる。一方、自郡至女王国=魏使の居る女王の都する所より、郡衙に向けて、その距離感と時間経過を含めて述べる。

魏=三国時代の国名。後漢の末、198年曹操が献帝を奉じて天下の実権を握って魏王となり、その子丕(ひ)に至って帝位についた。都は洛陽、江北を領有。5世で晋に禅る。曹魏(220~265)。

袁紹=後漢末、河南汝陽(河南省汝南県の都市)の人。霊帝の死後、宦官を皆殺しにしたが、董卓に冀州へ追われ、後、反董卓派の盟主となる。やがて曹操と対立し、200年河南の官渡で大敗(?~202)。

許=春秋時代の国名。BC504年、鄭に滅ぼされた。河南省許昌付近とある。

蔡=周代の国名。都は「蔡」河南省上蔡県の南西。武王の同母弟叔度の封ぜられた国。BC531年、一度、楚に滅ぼされた。復興後を新蔡といい、それ以前を上蔡という。更に、BC493年、都を州来(安徽省鳳台県)に遷した後を下蔡という。楚の恵王に滅ぼされた。

鮮卑=古代アジアのモンゴル系(トルコ系とも)に属する遊牧民族。中国戦国時代から興安嶺の東に拠った。2世紀中葉、遼東から内外モンゴルを含んで大統一したが、三国時代、慕容・宇文・拓跋(たくばつ)等の集団に分裂。晋代に、前燕・後燕・西秦・南涼・南燕の国を建て、拓跋氏は南北朝時代に北魏を建てた。

領=単単大山領より以西は樂浪郡に属し、領より以東七県は都尉、この主となる。その後、皆以濊為民。後省都尉、封其渠帥為侯、今不耐濊皆其種也。漢末更屬句麗。と在る。地図資料に拠ると、単単大山(大嶺)とは朝鮮半島基部東北の白(ベク)山付近を発し、南へ日本海沿岸を走り、金剛山・五台山・太白山等、釜山付近に至る。東側半島基部の江原道元山市が東部都尉の官府とされ、山脈東側に殆ど平地はないので、山脈自体は、都尉に属す濊貊の領域と考えられる。
 玄菟郡の管轄地域も楽浪郡に吸収した事で、以降は「大楽浪郡」と呼ばれる。また、領東に東部都尉を配し、濊貊の都城である不耐城(江原道元山市)に治所を置いて七県を統治させる事にしたとある。

隴=中国の地名。甘粛省(かんしゅくしょう)南東部をいう。甘粛省の別称。「隴を得て蜀(しょく)を望む」=後漢書(岑彭伝)、人足るを知らざるに苦しむ、既に隴を平げて復た蜀を望む。一つの望みが達せられると、更に、その上が望まれること。欲望にきりがないことのたとえ。望蜀
 甘粛=中国北西部の省。省都は蘭州。明代迄、陝西省に属したが、清初に分離。古来、天山南北路に連なる東西交通路に当たり、西域文化が栄えた。
 陝西=中国北西部の黄土高原にある省。東は黄河、北は「長城」を境とし、中央部には渭河平原が拡がる。別称、秦・関中。省都は西安とある。
 驪山=中国陝西省西安市臨潼区南東郊にある山。古来、西北麓の温泉で名高く、秦の始皇帝は瘡(そう)を治療し、彼の御陵とされる兵馬俑が発掘された。唐の玄宗は華清宮で楊貴妃に浴せしめた等とあり、当時、隴が西方異民族の域内だったとは云えない。

長江の制水権=赤壁の戦いは、三国時代、孫権・劉備の連合軍と曹操の軍との戦い(208年)。呉の部将黄蓋(荊州零陵郡泉陵県)の計により、曹操の兵船や陣営を焼き払い勝利を占め、江南の大部分は孫権に、劉備は巴蜀(四川省)を得て、天下三分の形勢が生ずる基となったとされる。
 荊州=今の中国湖北省・湖南省の大部分。湖北省中部の都市。沙市区と荊州区からなる。長江水運・南北交通の要地。江陵(Jiangling)=中国湖北省中部の地名。楚の文化の中心地。古来軍事上の要地。楚・梁・荊南等の都。荊都。今は荊州市に属する。 湖北(Hubei)=中国中部の省。長江の中流域に位置する。省都は武漢。別称・鄂(がく)・楚北。春秋戦国時代の楚の地。長江流域の内陸地域では最も早く近代工業が発展した。



  1. 2017/11/24(金) 11:09:26|
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◇乍南乍東

 「思惑と意図」でも取り上げた北京大学医学部名誉顧問岩元正昭氏の「漢字解釈の方法論と、その解析技術による新たな歴史の発見(【】内)」の抜粋を見ながら「魏志東夷伝」の用法に就いて考えてみる。

 【「從」字の本義「随行也」の「行」字も同様に看做せばいい。「乍止」の「止」とは単に進む者が止まるという意ではなく、停泊する事を意味しており、stop stand 等ではなく、stayの義である。旅先で暫く宿泊する事である。随って、從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里という文には、歴韓國乍南乍東とあり、諸韓国を①歴(ふ)ると記されているのである

 当時の航海法を推測するに、沿岸航海や外洋航海でも潮汐や潮流を利用したもので、午前中の引き潮に乗って出港、暗礁等を避けて安全に航海できる水深の水道へ出ると、潮流等を上手く利用し、半日行程の距離感に拠る次の停泊地付近迄、水行後、満ち潮に乗り、港に近づき碇泊する。詰まり、狗邪韓国~末盧国迄の三区間の千餘里は、その半日行程の距離感と考えられる。
 斉明天皇の九州下向に際して詠った「万葉集」熟田津に船乗りせむと月待てば、潮も適いぬ、今は漕ぎ出でなは、大潮の時期や引き潮を待った古代の航海法で、当時の船旅では、そうした技術と海域の知識を熟知した海民を随行させ、それに従ったので、潮汐を待つため碇泊したり、何日も潮待ちする事も、態々、特筆せずとも、至極、当然の事、常識だったと思う。
 
 次に、以下の如く続けます。【「自」字の『説文解字』の扱いは次の通りである。「自」鼻也。象鼻形、鼻也。鼻の形を象る。段注は(1)王部に曰くとして「自」は読みて「鼻」の若くす。(2)今俗に始めて生まれる子を作るに「鼻子」と為す。(3)「自」字は「鼻」の古字であると言う。この三点から玉裁は許慎が「自」「鼻」の二字を同義と判断した事が分かる。しかし、ここで重要なのは「鼻」字が「始」字と通じている理由である。
 どの様に通じているかと言うと、古代中国では胎生動物は胎内で鼻から形成されると信じられていたからである。始めての子を「鼻子」と作り、始祖を鼻祖と作る。鼻と始の二字が同義であり、「自」字は「鼻」字の古体である事から、「自」字が始まると云う意に使用される至当性が立証される


 端(はし→はじ)は、物事の縁(へり)・際(きわ)で、始(はじめ)=端目は、事の始まり、起こり、端緒として、唐の始祖(高祖)李淵等とする。また、初(はつ)=発端は、人や物事の最初、起こり始め、初めてある事として、唐王朝の初代(高祖)李淵等とするので、何れも後続との繋がりに拘わらず単独でも使われる。
 一方、鼻(はな)と同訓には山や丘陵が海に突き出た岬(はな/御先)、茎や枝先に咲く花(はな)、一番(ハナ)、端(はな→はだ→はた)等があり、何らかの距離感や繋がりが意識される。
 詰まり、鼻子(鼻祖)は長子(始祖)・次子(二世)・三子(三世)等、自分に繋がる二人以上の兄弟や先祖が居る事を前提にしなければ、これは使われない。詰まり、相手(鼻祖)より手前へ意識の流れや、時系列があり、それが故、鼻を指さして自分を示唆する。

 魏使は郡に服属する沿岸航海民に従い半島沿岸に循い水行、韓国を歴て南下した後、東行すると到る倭人の領域北岸狗邪韓國は郡衙からの距離「七千餘里」とする。更に、そこから邪馬壹国側に服属する外洋航海民の船に乗り換え、その水先案内で北部九州の末盧国へ三千余里、上陸した後、邪馬壹国への道程を陸行(河川航行)して女王の都迄の二千里を経て、至った魏使の立ち位置として、編者陳寿は「郡~萬二千餘里」とする。以下次回。

歴(ふ)る=同訓で同義とされる「経る」は経由・経過等に使われる様に、直線的な連繋や因果を示唆する。一方、「歴る」は履歴・歴史・歴訪等、点々と繋いで行く事を示唆する。*「降る」=上から下に、「触る」=手等を伸ばして付ける、「振る」=手等を左右に動かす、「古い」=時を経る。

半日行程=私見では、午前中の航海(私説「1里=105m」に拠る最長100㎞強)で到着しない場合、夏期、日没前に満ち潮の起こる頃迄、交代要員を乗せて午前と午後とも航海した。沿岸航海でも外洋航海でも、船があればできるわけではなかったので、為政者は、そういった海民や河民を服属させ、支配する。

月待てば=その日の月の出を待ったと云うよりは、船出に都合の良い潮汐(こよみ)を待ったと思われる。
 小潮=月と太陽の起潮力が消し合い潮差が最小となる潮汐。月と太陽とが地球に対して互いに直角の方向に位置する上弦・下弦の頃に生ずる。
 大潮=月と太陽の起潮力が合わさり、潮差が最大となる潮汐。月と太陽が地球に対して一直線上に位置する満月と新月の頃に生じる。朔望潮。

始=最初、発端、第1、主、先き、前方、(接尾語的に)最初の経験、物事を始めた時、手始め。起こり、始まり、その年、それをする最初の日。物事の起りや開始を表し、「初」=一般に時に関して用い、最初や初期の段階の意で使う。*「終」 「末」

相手(鼻祖)より手前=自郡女王国~の場合、帯方郡衙の城壁を出て、朝鮮半島沿岸に循い韓国の沿岸部を歴て水行した後、狗邪韓国~對海国~一大国~末廬国迄の渡海、そこから伊都国~不彌国~女王の都する所に至る経由地の道程が示唆される。一方、「従郡至倭」の場合、停泊地等の示唆はない。

河川航行=大陸の大河川を沿岸航海するのと違い、当時の列島では、縦横に小河川が流れていたと考えられるので、そうした河川を航行する平底の船に大使や副使、魏帝の下賜品を載せ、従者が陸上の河岸から曳いて遡行した。水分峠は荷物を背負い、大使や副使は輿に乗せて越えた。


  1. 2017/11/30(木) 21:53:23|
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◇「~から」と「~より」

 岩元正昭氏は、次に以下の如く述べる。【漢籍解釈を難解なものにしている最たる原因は、嘗て平易に使っていた語法を現代人が知らない事である。これを前出の『魏志』東夷伝倭人条に載る「従と自」「至と到」「行と又」の三つのペアをモデルに実証してみよう。転注文字の用法原理に則り、使用される「從と自」「至と到」のツーペアの漢字について、上のツーペアの4字は「東夷伝倭人条」中の区間叙述に以下の様に載る。

 (1)從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
    郡から倭に至るには、郡より海岸に沿って水行、韓国内陸を南行きと東行きを繰り返しながら倭の北岸狗邪韓国に到る。この間七千餘里。
 (2)自郡至女王國萬二千餘里
    郡より女王國に至る。この間万二千餘里。


 論者は、上記の読み下しで、從(~から)と自(~より)と訓み別けているにも関わらず、その意味の違いすら解らないのだろうか。二つの文字は二点間の関係を示唆するとして間違いではないが、前者の「~から」は、「手綱を引き馬を駆る」「知人から本を借る」「鎌で稲を刈る」「弓矢で鹿を狩る」等と同源語で、手前側の起点から相手側の至点に対する動きとなる。
 一方、後者の「~より」は、「通説に拠る」「大雨に因る」「占いに依る」「本屋に寄る」等と同源語で、相手側の起点より手前側の至点に対する動きと云う違いで使い分けられる。詰まり、二つは、魏使や編者の立ち位置に対する意識の違いになる。

 【「從」と「自」の二字は共に二点間の空間距離の起点に伴う前置詞である。「~ヨリ」の意に用いられている。「至」と「到」の二字は共に終点地名の前に置かれる詞である。「~にイタル」の意に用いられている。漢字学的には各ペアの前の字と後のそれは本字と①転注字の関係にある。
 夫々、英語の「from~」「to~」に相当する。この項の着眼点は、何故、「from」の意味に「従と自」の二字を、「to」の意味に「至と到」の二字が強いて使い分けられているかという事である
。】
 
 例えば、江戸期の道標に「從是南(ここから南)~」とあれば、その旅人は北から来たと分かる。道標ではなく国境の場合、「自是南(これより南)~」とすれば、そこは南に居る人の領域になる。こうしたニュアンスの違いは、日本語にだけにあって、当時の漢語に使われる漢字には無かったとでも云うのか。

 【結論を先に述べると、それぞれの二字の関係に転注文字の用法を託し、(1)と(2)のルートが起点の郡を共有するものの別の方向に旅立ち、「至」字を前置詞とする女王國へのルートが本源的道程であり、「到」字を前置詞とする狗邪韓国へのルートが郡より派生的に伸びた脇道である事を端的に表現しているのである。

 上記、(1)と(2)を読み下すと以下の如くなる(丸括弧内の青字は筆者に拠る意訳)。

(1)(魏使の居る)帯方郡から倭に至る。(海民の水先案内に従い)半島西岸に循じ、韓國(の領域西沿岸)を歴て、南下後、東行し、倭の北岸狗邪韓國に到る。そこ迄、七千餘里
(2)帯方郡(と云う起点)より、(今、魏使の居る)女王国に至る萬二千餘里。

 (1)從郡~は、出発地の帯方郡衙から先に述べた倭の領域に至る迄の経路に従い、朝鮮半島西沿岸に循じ、韓國の西岸を歴て、最南部を廻り、東行し、外洋航海用船に乗り換えるための寄港地(目的地)、倭の領域北岸狗邪韓國に到る事、詰まり、郡から狗邪韓国への流れを述べる。
 一方、(2)自郡~は、郡より到着した魏使の居る女王国の所都へ至った道程と里程、その時間経過を含み、狗邪韓国からの五千餘里が南至邪馬壹国水行十日陸行一月に対応する。以下次回。

転注字=『説文解字』の「許叙」に六書の原理定義と挙例がある。
一に曰く「指事」は視て識すべく、察して意をみるべき。上、下是也(この字、上と下を表し、上の短い二の字が上、下の短い二字が下字を表す)。
二に曰く「象形」は描きて其の物と成り、体に随いて詰す。日月是也。
三に曰く「形聲」は事を以って名を為し、譬(たと)えを取り相成る。江河是也。
四に曰く「會意」は類を比し誼を合し、見を以って指撝す。武信是也。
五に曰く「転注」は類の一なる首を建て、同意相受く。考老是也
六に曰く「仮借」は本其の字無く、聲に依り事を託す。令長是也。

 以下、岩元正昭氏の説明。【許叙に「五曰転注」として転注文字用法の原理と挙例が以下の様にある。「転注者、建類一首、同意相受、考老是也」。「建類一首、 同意相受」部分が用法の原理を言い「考老是也」は挙例である。「老」字が、その本字であり、「考」は転注字である。読み方は、類、一首を建て、同意相受く。考老是なりとなる。「類」字は六書の會意文字の原理に「比類合誼」と既に使われている。義符として用いられている二つの漢字の義を比較して、その意味を組み合わせる事を言う。随って「類」とは字義そのものと見てよい事になる。随って「建類一首」とは義の一、同義なる首を建てる

 「考(こう)」「老(ろう)」は、部首の[土+ノ(おい)]に「丂」「匕」、「至(し)」「到(とう)」は、旁の[刂(立刀)]が付加される。「従」と「自」は何を共有し、何が付加されるのか。尚、広辞苑「転注」=或る漢字が持つ本来の語義を近似した語義に転用する事、通常、字音を変える。例えば、「わるい」意の悪(アク)を「憎む」の意として、字音「ヲ」にする類とある。

「~から」=現在から後に何らかの関係や関連が在る=今から先、「~より」=現在より前(原点)に関係や関連が在る今より前との違い。例えば、英語の[from]は、The train started from Nagoya..その列車は名古屋から(より)、出発した等、「~から」「~より」の何れにも使われるが、A few kilometers out of Paris. パリより離れること数キロ等に使われる「out of ~」=~の外に, ~より離れるが近いニュアンスを持ち、話者は、パリ近郊に居るか、当所に対して意識がある。

本屋に寄る=広辞苑「寄る」項、自然に寄せられる。引きつけられる。打ち寄せられる。とあり、自分の意志、本を見たい、買いたい等、本屋自体が持つ何かに因って引き寄せられるとして良く、意識が本屋に向かっている。

從是南=南下してきた四辻であれば、正面は、左「東至~」・中央「従是南~」・右「西至~」、石柱の右側面は、左「北至~」・中央「従是東~」・「南至~」、左側面は、左「北至~」・「従是西~」・「南至~」、後面には、左「西至~」・中央「従是北~」・「東至~」等と書き分けられる。

出発地=何れも郡衙だが、(2)自郡至~の場合、帶方(鼻祖)~狗邪韓国(二世)~末盧国(三世)~伊都国(四世)~不彌国(五世)~邪馬壹国(現世)等と郡衙から不彌国迄の行程が記述される。一方、從郡(の領域)至倭(の領域)~の場合、韓国を歴て狗邪韓国に到るとされ、その間の停泊地は省かれる。

時間経過=~次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。と云う記述を、作家の高木彬光氏だったか、「あぁ、遙々、来たものだ」等の感慨が感じられるとしていたが、達観だろう。


  1. 2017/12/08(金) 23:42:58|
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◇「従」と「自」

 岩元正昭氏は、続いて以下の如く述べます。【「從」と「自」の相違について詳しく述べよう。「東夷伝倭人条」は「從」「自」の二字が「from~」、詰まり、「~ヨリ」の意味に使われている。何故、一つの「~ヨリ」と言う表現の為に「從」と「自」という二つの別字を強いて使い分けるのか。ここに作為性がある。
 この「從」「自」という二字は共に「~ヨリ」という同意を持つが、字形も本義も異なっている。その相違性が(1)文と(2)文の主意の相違性を培う淵源になっている。つまり、「從」字にない義を「自」字が持ち「自」字にない義を「從」字が持つと言う関係が二文の主意の相違性を創出しているのである。これが二字の引用される理由である。


 上記、「從」と「自」の何れも「~ヨリ」とするが、前回、掲示した読み下し文では、「~から」と「~より」を使い分けると云う矛盾がある。この二字が持つ語義の相違は、前回と前々回とで述べた通りなので省く。
 論者は、「魏志」の120年程前、許慎に拠って成立した『説文解字』「從=随行也。从从。从亦聲」、「從」の本義は「随行」だが、何故か、人に随伴すると云う語義を持たないとし、以下の如く説明する。

 【「随」字の本義は「從也」とある。その義符は「从+辵」であり、「辵」字の義に因っている。「從」字の義符は「从从。从亦聲」とあり、「從」字が会意形声文字である事が判ると同時に、「辵+从」の二字の本義が重なって出来る新たな意味範囲に「從」字の本義がある事になる。詰まり、「随と從」の二字の義符に、辵字が共存する。そこで「辵」を先ず検証する。『説文』に拠ると、「辵」の本義は「乍行乍止也」である。乍~乍~」という形の句は二つの「乍」字の次の動作を順次繰り返す句である。随って「行と止」の二字は繰り返す。

 例えば、「春秋公羊傳」階を辵(こえ)て走るが若くすと在り、今本は「躇」=走って超える意とする。また、白川静編「字統」も、辵=彳(小径)+止(歩)、辵=走って越える=迷わず(躊躇なく)とある。おそらく、「歩」は、足先を交互に出して一歩ずつ進む事、「止」は歩むの省画とあるが、足先が揃い佇むと考えられる。
 私見では、「従」の訓「シタガフ(下合う)」からも、何らかの基準(彳=径)=海民の水先案内で以て迷わずに向かう。詰まり、何処をどう取っても「従」の本義とする随行=何らかの指示や方法に従い後から迷わずに行くにならざるを得ないと考える。

 【「乍行」の「行」字には進む者が止まるという意味がある(後述)。随って「乍行乍止」とは厳格に言えば、1進み、そして2止まるという動作と、3止まるという三つの順にある行為を繰り返す意なのである。止まったものを、更に「止」まると許慎が述べるのは、3「止」字が2の、それとは異なった「トマル」の意である事に他ならない。】

 例えば、人や動物が始めた行動を己が意志で留めたり、止める。強風や大雨等の気象も、神の意思か、その原因が収まり、自ずと止むからこそ、その動きを示唆する「行う」と、その動きが「止む」と云う二つの文字と「乍(~ながら、~しつつ)」で、行ったり、止まったりを表す。当時、当り前に使われていた用法がなくなったとでも、論者は云いたいのだろうが、これでは表意文字としての機能を逸脱している。

 述べてきた事に順い、「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東~」を意訳すると、郡衙の領域から倭に至る。(郡に服属する海民の水先案内に従い)朝鮮半島西岸の地形に循い水行し、(順次、既定の湊に碇泊をしながら)韓國沿岸部を歴て、南下した後、(南西部を廻り)東行する~。になる。 以下次回。

説文解字(せつもんかいじ)=AD100年頃、中国最古の部首別字書。後漢の許慎撰。中国文字学の基本的古典。15巻。漢字九千字余を540の部首により分類、六書(りくしょ)の説により字形の成り立ちと、夫々の漢字本来の意味を解釈した。

辵(ちゃく)=漢和大辞典(藤堂明保編)「進む(之繞)」の意。「字統」彳(てき=小径)と止(歩)とに従う。道を行く意で、白川静編「字統」歩(止+少)=一歩一歩と進むの省画(足先の象形)、単独では「止(一歩=佇む)」。金文には「遣・追・遹・遺」=辵に従う字形と、「後・復・御」=彳に従う字形が見える。とある。

乍~乍~=「誤読だらけの邪馬台国」の著者張明澄氏は、台湾中華書局印行「辞海」=暫(しばらく)・忽(たちまち)とあり、乍A乍Bを、殆どの中国人は、忽ちA忽ちBと云う意味では使われるより、暫くA忽ちBと理解していると云う。
 当時の言語法が、現代中国語と同様のものだったとする根拠はないが、文脈と、朝鮮半島の地形からすると、ほど遠いものではないと考えられる。

春秋公羊傳=「春秋」の注釈書。春秋三伝の一つ。11巻。公羊高の伝述したものを、その玄孫の寿と弟子の胡母生らとが録して一書としたものとされる。戦国時代(AD403~AD221)に成立。魏・趙・韓の三国が晋を分割して諸侯に封ぜられてから秦の統一に至る時代。

随(まにま)に= 〔副〕そのままに任せる。物事の成り行きに任せる。詰まり、決められた方法や既知の情報等、その関係者に任せる。

歴=「字統」字形的には「暦」と同系、厤(軍門のある所)と、曰(祝詞を収める器)や止(往来のある所)の違い。何れも行軍に関わる漢字で、行軍して点々と移動するといったニュアンスを含む。「経」は、そうしたニュアンスや状況を含まず、直線的な移動になり、履歴・歴訪と、経由・経過等の違い。



  1. 2017/12/17(日) 10:53:21|
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◇「從」は接続詞

 或る論者は、「至」や「到」は「从別処来(他の場所から来る)」や「(向かう)」の意味があり、「倭人伝」到其北岸狗邪韓國、至對馬國、至一大國、至末盧國、到伊都國、至奴國、至不彌國、至投馬國、至邪馬壹國女王之所都等は、全て到着して居り、「從郡至倭」を郡から至るとすれば、到着した事になる。
 前後の文章しだいで、この主語「郡」は郡衙、郡治内、郡の人等を指す事があり、郡衙にすると、「至」は終端の意味を表し、郡から倭迄と訳す。その官吏にすると、郡の人は倭に向かうになると云う。

 私見では、何れの場合でも文脈に拠っては、「至」「到」としても意識は向かうが、始発地から当着地への物理的な動きとは限らず、未だ、その地に到着していないこともあると考える。
 この「從郡至倭」は、編者陳寿(郡使や魏使)の意識が郡衙の東南に広がる倭人の領域に、今から向かうとなるので、「郡から倭に至るには~」と未然形として意訳しても全く問題ないと思う。詰まり、郡衙に居る郡使や魏使等が倭に至るために、朝鮮半島沿岸の航海民に拠る水先案内に従う道程の七千餘里で到った倭の領域北岸狗邪韓国とした後、女王に服属する海民の領海「瀚海」を南に向けて渡海すると述べる。

 更に論者は、「從」を「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」と「郡至倭~」を繋ぐ接続詞とし、郡から倭迄~と訳すと、上の文章を記載した意味が無くなり、「倭人在・・・・」と始まる文章は、「郡使は倭に向かう」の枕詞で、倭とは、これこれの国だと前置きをして、その倭に向かう順路を記載すると云う。
 その用法とは、「後従而刑之(しかるのち従ってこれを刑す)」等の使い方で、倭人は帶方東南の大海中、山島に依りて住み国邑を為す。旧百余国、漢時、朝見者が有った。今は使訳を通じる三十国。従って、その倭に郡使は向かう~とするのだろうが、私見では、傍国記載後の文章「自郡至女王国萬二千餘里」=郡より女王国に至る萬二千餘里と云う文章との繋がりを重要視する。
 この「自郡~」は、国境等で、「自是南~(これより南~)」とあれば、その南側に居るのと同様、陳寿の意識上、郡使や魏使は女王国所都付近に至っており、二つは対を為して郡衙から狗邪韓国迄の里程、七千餘里と、そこより郡使や魏使の居る女王国付近迄の里程を合わせ、一万二千里とする。
 一方、「從郡至倭」は道標の刻印「従是南至~(是から南至る~)」等で、北から来た人が、この道に従い南で至る~と同様、未だ、郡使や魏使は郡衙に居り、そこから沿岸航海民の水先案内で、先に述べた倭人の領域中南側に属す30国の北岸狗邪韓国へ到る道程と里程を七千餘里とする。

 論者が「從郡至倭」の枕とする文章は、漢時、朝見した帶方郡の東南に広がる倭人の百余国だったが、今回、使訳を通じて朝見した南側に属すの三十国を束ねた邪馬壹国連合の位置関係を其北岸狗邪韓国として示唆した。更に、そこより女王国の都するへは、倭人領海(瀚海)を渡ること三千余里、末廬国より邪馬壹国迄、陸行する道程の内、末盧国より東南の伊都国迄の五百里、そこより東の不彌国迄の百里か、東南の奴国迄と東の不彌l国迄の二百里、そこより郡使や魏使の居る女王国の都する所迄の残りの千四百里か、千三百里、女王国領でない郡衙から狗邪韓国迄の七千餘里を併せて萬二千餘里とする。
 倭人領域北岸狗邪韓国からの五千餘里に要する最長の日程が南至邪馬壹国水行十日陸行一月で、南至投馬国への水行二十日は、これも最長で同地から九州北岸への水行十日と、そこより投馬国連合の中枢への水行十日になる。

至=「誤読だらけの邪馬台国」の著者張明澄氏の提示した台湾中華書局印行「辞海」に拠ると、「至(至部)=・到・大・善」と、「到(刀部)=至・・弔」とあり、至→極から「迄」とする事に問題ないが、「至」「到」の何れもが同義の「到着」とすれば、「到」を創り、使い分ける必要はない。

從郡至倭=「自郡~」の如く、其北岸狗邪韓国~(南)始度一海千餘里至對海国~又南渡一海千餘里名曰瀚海千餘里至一大国~又(南)渡一海千餘里至千餘里至末盧国~東南陸行到五百里到伊都国~(東南百里奴国)~東行至不彌国百里等と違い、「循海岸水行歴韓国」の停泊地等、その詳細を述べない。

南側に属す30国=おそらく、旧百余国が集約されて三十国になったのではなく、女王に属さない狗奴国にも服属する国々もあり、更には女王国東渡海千餘里に居る倭種を合わせて百余国と考える。「狗」=(語に冠して)似て非なるもの、劣るものの意を表す。(卑しめ軽んじて)くだらないもの、無駄なものの意を表す。

其北岸狗邪韓国=狗邪韓国の北岸とする論者もいるが、「狗邪韓国北岸」とすれば良い。尚、「其」=倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者と、今使譯所通三十國の「北岸」になり、後段、南至邪馬壹国水行十日陸行一月(残り五千餘里の日程)と、南至投馬国水行二十日の起点になる。

東南の奴国=「倭人伝」東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家~云々とあり、奴国には「~行」とされない事から、奴国へは行かず、不彌国へ東行、有明海を迂回したと考える。
  1. 2017/12/25(月) 10:33:00|
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◇三国志の用法 「従と自」

 述べてきた事に順い、「魏書」第一巻の「武帝紀」より、幾つかの文章に使われる「従」と「自」の使用法を考える。

 (1)袁術敗於陳、稍困。袁譚青州遣迎之。術欲下邳北過、公遣劉備朱靈要之。

 袁術は陳琳との戦に於て敗れてより、やや困苦する。袁譚、青州より、人を遣わして袁術を迎える。袁術、下邳から北に過ぎんと欲しており、公(曹操)は劉備・朱靈を遣はし、これを護らせる。
 袁術が、少し困っているとを知り、袁譚は自分の居る青州より、袁術に遣いを送り、迎えると、太祖曹操は、その位置関係から袁術が、現在の山東省県付近の下邳から北の河南や河北に向かおうとしていると察して、劉備と朱霊を遣わして、これを要と固めさせた。

 (2)公謂諸將曰「吾降張繍等失不便取其質。以至於此。吾知所以敗。諸卿觀之今已後不復敗矣」遂還許。

 公(曹操)、謂ひて諸將に曰く、「吾れ、張繍等を降し、失(あやま)って其の質を取るを便(よし)とせず。以て、この状態に至る。吾、敗るる所以(ゆえん)を知る。諸卿、之を觀よ、今より、已後、復たび、敗れず」と。遂に許に還る。この「自」も人質を取らずに敗れたと、過去の経緯を語り、今から後、こんな失敗は繰り返さないと諸卿に誓って、許に還る。

 (3)公曰「尚大道來當避之。若循西山來者此成禽耳」 尚果循西山來臨滏水爲營。夜遣兵犯圍公逆撃破走之遂圍其營。

 公曰く、「袁尚、大道から來たらば、當(まさ)に之を避くべし。若し西山道に循じて來たらば、此れ禽(擒=とりこ)になすのみ」と。果たして、尚は西山道に循じて来て滏水に臨み營す。思い通りに西山道に循じて来たならば、失(あやま)らず、これを虜とする。この「従」も袁尚の居所からでは、大道と西山道の二通りがあり、その何れかに従って来ると云うニュアンスで使われる。

 (4)興平元年春、太祖徐州還。初、太祖父嵩、去官後還譙。董卓之亂、避難瑯邪、爲陶謙所害。故太祖志在復讎東伐。

 興平元年春、太祖徐州より還った。初め太祖の父嵩、官を去りて後、譙に還り、董卓の亂に瑯邪(ろうや)に避難するも、陶謙の害する所と為る。故に太祖の志、復、讎(あだ)に在り、東伐す。詰まり、太祖が徐州より、許に還り到った理由は、瑯邪に避難した父を殺したと云う過去の経緯から陶謙に仇を反すため。

 (5)張濟、關中走南陽、從子繡、領其衆。二年春正月、公到宛。張繡降、既而悔之、復反。

 張濟、函谷関の西、武関の北、隴関(ろうかん)の東に位置する関中より南陽に走る。その濟が死して、從子の繍が後を継ぎ、民衆を治めた。その後、太祖、宛に到り、後を継いだ張繡は降伏するも、既に悔い、またも反する。詰まり、関中より南陽に走り、済が死んで以後、現在というニュアンスで述べる。
 
 (6)天子之東也、奉、梁欲要之不及。冬十月公、征奉。奉、南奔袁術。遂攻其梁屯、拔之。

 天子、これ東なり、楊奉、梁より、要所として欲すも及ばず。(自身の居所)梁より、天子の移った東側を要所として欲するが、上手くいかず思いは及ばなかったと云う経緯から、太祖の征した楊奉は、袁術を頼り、南に奔走したため、遂に、その梁に屯して、これを攻めて奪う。

 今迄、見てきたた様に、「倭人伝」に見える從郡至倭(郡衙から郡使や魏使が倭に至る)と、自郡至女王国萬二千餘里(郡より女王国へ郡使や魏使の至った萬二千餘里)と同様に、「三国志魏書」武帝紀に見える何れの例文でも、「今から先」「是から先」と「今より前」「是より後」等のニュアンスで、現在や過去等の時系列の違い、現在の居所と過去の居所等の位置関係の違いに順い、使い分けていると考えられる。

許=春秋時代、に滅ぼされた国、今の河南省許昌付近とされる。ただ、日本語「許(もと)」=杵を上下する事(=ずれ)とある。これを振り下ろした所、詰まり、同じ所とすれば、二度と同じ事を繰り返さないと云う決意から人質を取らずに敗れた所に還るとも読み解ける。それが地名「許」とされたか。
 鄭=春秋時代の国。周の宣王の弟友(桓公)を祖とする。今の陝西省渭南市の地から今の河南省新鄭市に移る。韓の哀侯に滅ぼされた(前806~前375)。

父嵩=裴松之が注に引く書(裴注)に拠れば、養子「嵩」は夏侯氏の出身とあり、夏侯惇(かこうとん)の叔父とする。漢高祖の武将に夏侯嬰とあり、の県令となった夏滕公と呼ばれた。尚、瑯邪(ろうや)は山東省東南部、その地域にある山名とされる。

從子の繍=從子を甥(をひ⇔姪)とするが、その漢字を使わずに「従う子」とするには理由があり、曹操の祖父曹騰と同様。張濟にも子がなかったのか、養子とも考えられる。


  1. 2017/12/30(土) 10:53:53|
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◇転注文字

 先の岩元正昭氏は以下の如く述べる。【随って「自郡至女王國萬二千餘里」の様に「自郡」とあれば、「郡ヨリ」とされ、郡が女王國への始まりの意となる(中略)。「從と自」の二字は、転注文字の関係で、「從」字は「自」字の転注文字、「自」字は、その本字である。
 「從」字を用いた「從郡至倭」という句は、郡より倭に至る間、南下と東進を繰り返し、次々に韓国を経過する事を告げている。郡より、先ず、水行した後、韓地に上陸、半島を東南方向に下がり狗邪韓國に至る。
 「從」の字義を持たない「自」字は「自郡至女王國萬二千餘里」の様に使われるが、半島の陸路を経過せずに女王國に入る。つまり、郡より海路にて倭地入りする。以上の如く「從と自」の二字は、郡より倭へのルートが陸路と海路に分かれている事を表す目的で使用されている
。】

 「東夷伝」韓在帶方之南、東西以海爲限南與倭接からすると、当時、韓国は半島西岸と南岸部の水道を領有しておらず、韓国領内では、独立を目指す国人が居らず、その治安も好かったとは考えられない。そうした状況下、下賜品を受領させると云う魏帝の命を負った郡使や魏使が陸行する等の危険は犯さない。
 歴韓国とされる理由は、郡衙を発して韓国西岸部の寄港地に点々と碇泊(歴訪)しながら狗邪韓国へ向かうからで、縦しんば、別ルートがあるとして韓国領沿岸で下船して陸行したのであれば、「~東南陸行五百里到伊都国」と同様、「~歴韓国、東南陸行~到狗邪韓国」等とすべきで、況んや本ルートと別ルートが同距離でなければ、帯方郡衙から狗邪韓国迄を七千餘里、郡衙より魏使の居る女王国迄の総距離を萬二千餘里として里程を記述した意味すらなくなる。

 次に以下の如く述べる。【「至と到」の転注的な使用法、指事文字を転注文字の原理に則り使用すると想像以上の効果を生む。「至」字について、許慎の『説文解字』にみると、「至、鳥飛從高下至地也。从一、一猶地也。象形」。末尾に象形とあるが、「至」字は指事文字である。
 随って、「从一」語は義符ではない。次に続く、一猶地也語を「一の字は地の如くなり」と訳せる事から「从一」語を「地に順う」と訳す。随って「至、鳥飛從高下至地也。从一。一猶地也。象形」と言う句は、至とは、飛ぶ鳥が高き所より下り、最終的に地に止まる形を象るものであると訳出できる。

 「从一」部分は地に辿り着いた鳥の心が漸く安らぎを極めると言った訳の方が好いかも知れない(中略)~。鳥が高所から地面に着く迄の間、幾か所かの枝に停まり、羽を休めながら段々に地に降りてくるというイメージを生む~(中略)。更に、許慎は「不上去而至下來也」の句を添え、「至」字の定義を完成させる~(中略)。「上に去(ゆ)かず、而して下に至り来る也」と訳せる。この件の鳥は高きより地に下る際、途中、上に戻る事等せず、決して大地への方向を違える事なく、段々に幾か所かの枝に羽を休めつつ下りて来るのである。

 「字統(白川静編)」の「至」項、放った矢の落ちた所、飛び立った鳥が放物線を描き降りるとあり、放たれた矢や、飛び立った鳥が移動した軌跡を示唆する。上記、「至」の説明、不上而至下來也は上空へ去らず、至り、下りて来るなりで、発着地(A)から到着地(B)迄の経過を示唆すると考えられる。それが故、達する・極まる=夏至・冬至(始点→極点→大)や道標の表記(~迄)にも使われ、A点からB点迄の経過に重点が置かれる。
 一方、字統「到=至+刂」は刀等を差すか、人が立って示唆するB点に、意識が向かうか、移動して目的を遂げてA点に戻ると、「周(帰還)」「倒(転覆)」等の語義に派生する。

転注=「広辞苑」六書(りくしょ)の一つ。或る漢字が持つ本来の意義を近似した意義に転用する事、「わるい」の意「悪(アク)」を「憎む」の意(字音「ヲ」)とする類で、通常、字音が変わる。例えば、「考」と「老」は部首「おい」に「丂」「匕」が付加され、「至」と「到」は後者に(立刀)が付加される。「従」と「自」の場合、何が共通し、付加されるのか。何れにしても表意文字の範疇を逸脱している。

陸行=韓国は帶方郡に服属したとされるが、韓国領内に反対勢力が居たからか、郡衙の位置が年代によって変化するとも云われる。そんな状況下、王の勅書や下賜品を負う魏使は安全で速く運べる沿岸航海での移動が最良だろう。その寄港地は帶方郡に服属し、郡衙の出先機関が置かれ、検察した。それが、東西以海爲限南與倭接とされる理由で、「濱大海」は浜と大海を領有、「東窮大海」は海岸迄、山裾の断崖状態となり、大海は領有していないかも知れない。 歴韓国=韓国内を行くとする研究者は、循(随う・添う、周る・廻る)と云う文字が扱われる「循海岸水行~」と云う文脈を無視して、朝鮮半島沿岸の水行後、韓国内を南へ、東へ移動しながら、とするが、歴(へ)るとは、点々と移動すること以外の意味はないので、上陸する、陸行する等の示唆がなければおかしい。

歴韓国=韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接方可四千里、東沃沮在高句麗蓋馬大山之東濱大海而居其地形東北狹西南長可千里。婁在夫餘東北千餘里濱大海濊、南與辰韓、北與高句麗沃沮接東窮大海、今朝鮮之東皆其地也等、記述法が違い、全て、その状況を表す。それが表意文字の機能と思う。

台湾中華書局印行「辞海」=「誤読だらけの邪馬台国」の著者張明澄氏が提示する辞書では「至(至部)=・到・大・善」、「到(刀部)=至・・弔」。例えば、「至東京50㎞」は現在地から東京迄50㎞となるが、「到東京50㎞」とされることはない。「到東京五時」とすれば、東京へは五時に到着する。となる。


  1. 2018/01/08(月) 00:12:00|
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◇漢文的?

 先述した「誤読だらけの邪馬台国」の著者張明澄氏は、「到」と「至」を以下の如く説明する。

 【(「到」と「至」は)「三国志」の中でも違う意味で用いられており、端的に言えば、「到」というのは点的概念で、その一点に到着する事で、文章の中では、次の起点にならない。「至」というのは線的概念です。その一点迄という事で、文章の中では、次への起点になる可能性がある。詰まり、「到」は、A点から居なくなり、B点に存在する事。「至」は、A点からなくならず、B点に及ぶ事。】とする。論者は、それを端的に表す文章として以下を提示する。

 秋七月、楊奉、韓暹以天子還洛陽。奉、別屯梁。太祖遂洛陽。衞京都暹遁走(武帝)

 論者の読み下しは、天子が洛陽に還ったため、太祖(曹操)に抵抗する楊奉と韓遅のうちの一人、楊奉は梁に兵を移して駐屯した。天子が洛陽迄、還り、曹操の力は洛陽迄、伸びたため、それを恐れた韓遅は逃げてしまったとする。

 私見は、秋七月、楊奉、韓暹を以て天子を洛陽に還す。奉、(兵を)別けて梁に屯す。太祖、遂に洛陽に至る。京都を衛る暹は遁走す。詰まり、曹操(太祖)は、楊奉が兵を別け、韓遅と別行動をとり、その兵力が落ちた事を知り、遂に太祖(曹操)は自ら将兵を率いて洛陽に向かう。それを恐れた京都を衛る韓遅は遁走した。この「至」は楊奉が兵を別ち、韓遅に天子を洛陽に還らせたと云う経緯を示唆し、曹操は、それを知り、意を決して洛陽に向かったと考える。

 我長安、則自了矣。 軍長安、會果已死(鐘會)

  論者に拠ると、多くの人が文王に対して、鐘會に反意があると進言した時、「我が長安に着いたならば、すっきりする」と応えた。この場合、文王の勢力は長安に届いており、「我、長安に到らば」というのは、文王が本当に長安に着く事であり、勢力が及ぶだけではない。文王が着いてこそ、すっきりするのである。
 そして、「軍至長安、 會果已死」というのは、軍が長安に迄、来た事であり、全軍みな長安に雪崩れ込んだのではなく、彼方此方にいる軍のうち一部が長安に迄入った事である。とする。

 私見は、「我、長安に到る。則ち、自ずと了すや。軍が長安に至ると、果たして會は已に死す」。詰まり、我(文王)が長安に到る事、それは則ち、了する事を意味する。そうした経緯を示すのか、軍が長安に至ると、果たして鐘會は已に死んでいた。詰まり、前者の「到」には混乱を終わらせると云う目的、後者の「至」は混乱が自ずと終わるとした経緯と、その結果が示唆される。

  桓使追還羲溪兵 兵未 而仁奄(朱桓)

 論者は、曹仁が、いかにも羲溪を攻めるふりをすると、騙された朱桓は、兵を、どんどん羲溪に送り込んだのである。これをみた曹仁は、しめたとばかりに、手薄になった儒須に大軍を向けて出発させた。これを見た朱桓は初めて騙されたと知り、急いで使いを送り、羲溪に向けた兵を呼び戻そうとしたが、「兵未到而仁兵奄至」とある様に、朱桓の兵が、未だ着かない前に、曹仁の兵が雪崩れ込んできたのである。「兵未到」とあるのは、朱桓の兵が儒須に未だ着かないと云う意味であり、兵が羲溪から一気に儒須に着く期待が果たされない事である。とする。

 私見は、騙されたと知り、呼び戻そうと、羲溪に送った兵に使いを送ったが、未だ兵が還り、到らないと云う様子を見て取った曹仁の勢力は、手薄な儒須や、その兵に覆い被さる様に至る。になる。

 論者の説明を読んでいると、文章が持つ文脈や、已然形や未然形等の文型に拠って変わる夫々のニュアンスから派生する語義や機能を無視する。その説は、恰も、それが用法だと決めてかかり、恣意的にすぎると思う。

文型=「自」と「従」の違いに思い至る。「自」と「従」の違いに思い至った。と云う文型の違いは、単に現在形と過去形ではなく、その文脈に拠っては、前者の場合、「おそらく、そうだろう」や「とうとう、やったか」と云うニュアンスがあり、後者の場合、「間違いなく、そうだ」、「やっとの思いだ」等の違いがあると思う。
 例えば、「今日中には京都に到る」とすれば、未だ着いていないが、今日中に到着するはず、予定等のニュアンスがある。これを「先程、京都に到る」とすれば、現在、京都に居り、何れも、何らかの目的、観光や乗換駅に拠る京都行きとなるが、今後、何処へも行かず、ここが終着点というニュアンス等はない。
 また、何泊かの旅行で、初日の宿泊地(観光の目的地)に着いたしても、翌日、次の目的地に向かう事もあり、これも「至る」とするのだろうか。また、最終の目的地に到着して、翌日、帰る終着地の場合だけ、「到る」とするのだろうか。


  1. 2018/01/15(月) 10:24:28|
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◇到着

 先の岩元正昭氏は以下の如く続ける。【「倭人伝」に載る「到」字を検証する。「~にイタル」の意に使われている「到」字は、下記の4か所のみである。他は全て「至」字が使われている。

  (1)從郡至倭、循海岸水行、歴韓國乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里
  (2)東南陸行五百里到伊都國
  (3)其八年太守王頎到官。
  (4)難升米牛利還到録受忝可以示

(1)「到狗邪韓國」の「到」字は郡より倭に至る間の狗邪韓國が行程の端緒国である故に用いられた可能性がある。又、「狗邪韓國」への到着が最終目的地への方向と違えたために使用された可能性もある。つまり、脇道を示すためかもしれない。どちらか?この答えは簡単である。
 もし、狗邪韓国への方向が最終目的地への経過コースに違えていなければ、狗邪韓国が端緒国であっても「至」字を使用しなくてはならない。随って狗邪韓国への方向が脇道である事は定かである。
(2)「到伊都國」の「到」字は「倭人伝」に載る末廬國を起点とするバイパスである事を明らかにしている。この事は同時に本源的ルートも末廬國を経由している事を端的に示している。
(3)「其八年太守王頎到官」に使用された「到」字は、太守の王頎が帯方郡を最終的赴任地にしていない事を告げている。つまり、王頎が直ぐ官を辞する事が分かる。
(4)「難升米牛利還到録受忝可以示」の「到」字は「還り到らば」という意味で、未だ至っていないので、「到」字が起用されている。


 台湾中華書局印行「辞海」に拠ると、到=至・・弔とあり、或る目的で以て着く→目的を遂げて元に戻り、終点→始点→周→倒となる。一方、至=・到・大・善とあり、それ迄の経過→その結果として、極→次への始点等、何れも文脈に因る派生語義になる。こうした違いを考慮しながら、例文を読み下し、私見を含め、意訳すると下記の如くなる。

(1)帯方郡から倭の領域に至る。(沿岸航海民の水道に従い)半島西沿岸に循じて水行、(郡治との境界)韓国の沿岸部を歴て、南下後、東行すると、倭の領域北岸(外洋船を乗り換えるための出先機関)狗邪韓国に到る。そこ迄、七千余里。

 >狗邪韓国への方向が最終目的地への経過コースに違えていなければ、狗邪韓国が端緒国であっても「至」字を使用しなくてはならない~。も帯方郡から見て東南方面に拡がる倭の領域と女王国が同領域とすれば、二つを書き分ける必要はない。
 南側に位置する女王国に服属する倭人海民の狗邪韓国へのコースを違えるのではなく、当地から南へコースを変えるための目的地であり、倭の北岸狗邪韓国が南至投馬国水行二十日と南至邪馬壹国水行十日陸行一月の始発地でもある。

(2)東南陸行五百里で到る伊都国は女王国に至るため、東南の奴国ではなく不彌国へ向けて東行する分岐点に到着した事を示唆する。詰まり、本源ルートやバイパス等の示唆はない。論者の云う別ルート等があれば、地理志として正確に記述すると思われる。

(3)文脈からすれば、その八年、帯方太守として、任地の郡衙に到着した(任官した)。となり、官を辞する等の文意はない。「到」「至」の二字、何れにも起点からの道程がある。但し、物理的に移動するかしないかに拘わらず、任官と云う目的があり、前太守の後任王頎が、最終の赴任地にしていない等の文意は無い。

(4)洛陽に居る遣使の難升米と牛利に対して、女王卑彌呼の下に還り、到着したならば、受けた記録で以て、(魏王の命を)悉(ことごと)く示すべし。になる。

 論者の説は、記述法を変えて文意を違る事で、編者や文官の意を含ませる「春秋の筆法」等とは全く異なり、殆ど表意文字の機能を逸脱している。


  1. 2018/01/22(月) 10:24:37|
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◇未到着

 「従郡至倭」の「従」を接続詞とした論者の文章を抜粋すると、【「至」は象形文字で地面に矢が突き刺さった形になっています。「到」は「至」を形声文字化するために創られました。「至」の羲符(文字の意味の部分)の右に「刂(立刀)」を加えて「トウ」と読ませています。従って「至」も「到」も意味は同じになります。倭人伝に限らず、古代の文献には「至」と「到」が併用されています。その理由として考えられるのは、「到」は著名な地域に到着した場合に用いられ、「至」は、それ以外に用いられています。】

 同羲の漢字に「トウ」と異音を付けるために新たな形声文字を創ったのではなく、付した文字の声を形作り、通底する語義を持たせるが、新たな使用法として創られた漢字が形声文字であり、表意文字に於て語義の相違がなければ、創られる意味や理由はない。
 その違いは「至」=矢を放った地から矢が落ちた所迄の距離感があり、その終始の経緯を含めて述べる。一方、「到」=矢を放った地に関わりなく、矢が落ちた所を示唆して、そこに何らかの重点的な意味を持たせる。詰まり、何らかの目的で以て到着地に意識が向かう。
 例えば、道路標示等で、「至東京50㎞(東京に至る50㎞)」とされる理由は、そこが目的地なのでもなく、それから先に行き先がないのでもない。況んや到着しているのでもなく、単に現在地から東京迄の距離数を提示する。
 「自東京至~50㎞」は、東京より~至迄の距離が50㎞となり、意識は東京ではなく、至る地にあり、要する時間に意識が向くと云うニュアンスを持つ。一方、これを「従東京至~50㎞=東京から50㎞で~に至る」とすれば、東京からみて~迄の距離が50㎞とする。こうした使い方が、当時は無かったとでも云うのか。

 次いで、【例えば、「狗邪韓国」「伊都国」、そして「太守王頎到官等には「到」となっています。 ご覧のように、「至邪馬壹国女王之所都」と、邪馬壹国の「都」へは「至」と記載しています。もし、「都」が邪馬壹国の「みやこ」であれば、当然、「到」と記載されます。詰まり、邪馬壹国の「都」は「みやこ」ではなく「ツ」と読みます。「隋書」倭国伝には、対馬を「經都斯麻」と記載しています。これを見ても「都」の読みが「ツ」だった事を証明しています。

 何れにしても漢籍に使われる漢字には、漢文の表意文字と、外国語の表音文字として使われる。「隋書」都斯麻は後者だが、論者の云う「到」が著名な地域に到着した時に使われると云う説が正しいと仮定して、「女王之所都(女王の「ツ」する所)」とは何だろうか。
 私見では、邪馬壹国の成立過程等を考え併せると、「壹」の持つ意味を連合された30国を集め合わせた一塊(集合体)の筆頭を表すとした。詰まり、連合諸国中枢の首長として女王卑彌呼が都する所と云う意味以外では考えられない。
 手持ちの藤堂明保編「漢和大辞典」に拠ると、都[tag][to][tu]、この音変化が正しいとすれば、陳寿編「三国志」成立期の音は上古音の「タッ」の近似音で、上記の「隋書」成立期は、中古音「ト」の近似音だから、論者の云う「ツ」と云う音は近世音以降になる。また、現代北京音には「ツ(集める)」の近似音と「ト(全て)」の近似音があり、現代日本語でも、前者は都合(つごう)、後者は東京都(とうきょうと)等と振り分けて使われる。
 当時の音からすると、「トシマ」で、日本語的には「渡島」だろうか、対馬も朝鮮半島から九州への渡島(わたりのしま)として良く、一大国の比定地とされる壱岐(いき)は、九州北部から朝鮮半島への往・行(いき)の島だろうか。もしかしたら、生月(いきつき)島は「往き着き」かも知れない。

形声文字=六書(りくしょ)の一つ。幾つかの漢字を結合し、一方を発音の記号(声符・諧声譜)、他方を意味範疇の記号(義符・意符)として、全体の字義を導き出す方法。「銅」という文字が金属を意味する「金」と音を表す「同」との組み合わせ、「金と同様に錆びないもの」と云う意味。諧声(かいせい)。象声。

都=単独で「都」や「京都」とされれば、漢籍の主体、魏書ならば、魏の都「洛陽」を意味するが、邪馬壹国の所都の場合、邪馬壹国の都する所となる。漢籍に使われる漢字には訓音はないので、「京都(キァヌクタ→ケゥタ→ケイト/キョウト)」になる。

一大国=一[・iet][・iět][iəi]/大[dad/dar][dai/da][tai/ta]とあり、三国志が書かれた当時の音で仮名書きすると、「・イエタッ→エタ・イタ」になる。

生月(いきつき)島=長崎県北松浦郡(現平戸市)生月町、平戸の西北に位置する生月島は遣隋使や遣唐使が発着した伝承される。



  1. 2018/01/29(月) 09:34:00|
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◇三国志の用法「至と到」

 「誤読だらけの邪馬台国」の著者張明澄氏は、台湾中華書局印行「辞海」に「至(至部)」=「極」「到」「大」「善」等、「到(刀部)」=「至」「周」「倒」「弔」とあり、中国人や台湾人は、「至」を英語の「till」「until」、「到」を「reach」「arrive at」と認識すると云う。

 上記に異存はないが、「至」=何らかの原因や経緯で至る。「到」=何らかの目的で以て到着すると云うニュアンスがあり、三国志の用法を検証してみたい。

 (1)太祖武皇帝沛國譙人也姓曹諱操字孟德漢相國參之後桓帝世曹騰爲中常侍大長秋封費亭侯養子嵩嗣官太尉莫能審其生出本末嵩生太祖

 太祖武皇帝は沛國譙の人なり。姓は曹、諱は操、字は孟徳 漢相國参の後、後漢桓帝世(147~168)、曹騰、中常侍大長秋となり、費亭侯に封ぜらる。その養子嵩嗣、官太尉に至るも、その生出本末を審らかにすること能わず。嵩は太祖を生む。太祖の曾祖父から父である養子「嵩」が太尉に昇進する迄の経緯を述べるので、「至=極まる」として良い。
 
 (2)大將軍何進與袁紹謀誅宦官 太后不聽 進乃召董卓欲以脅太后 卓未而進見殺。卓 廢帝爲弘農王而立獻帝 京都大亂~云々。卓遂殺太后及弘農王 太祖陳留 散家財合義兵將以誅卓。

 大將軍何進、袁紹と共に宦官を誅せんと謀る。太后聴かず。進、乃ち董卓を召し、以て太后を脅さんと欲す。卓、未だ至らずして、何進、見殺さる。董卓、到り、帝を廢して弘農王と為し、而して獻帝を立てる。京都大いに亂る~云々。卓、遂に太后と弘農王を殺す。太祖陳留に至り、義兵を募り、将いて卓を誅せんとす。

 初めの「至」にも、何進は聴き容れない何太后(何進の親族)に対し、董卓を召した等の経緯があり、その董卓に何らかの思惑があったのか、来ず、太后派に何進が見す見す殺害された後に到る。おそらく、董卓は太后派を排除する目的で到り、その思惑通り、献帝を擁立するも京都乱れる~云々。その結果、董卓は進退が窮まったのか、太后と弘農王を殺す。そうした経緯を見て取った太祖は陳留に至り、家財を散じ、義兵を率い董卓を誅す。

 (3)邈、遣將衞茲、分兵隨太祖。滎陽汴水遇卓將徐榮。與戰不利、士卒死傷甚多。

 張邈、將の衛茲(え)を遣はし、兵を分けて隨わせ、太祖に滎陽(けいよう)・汴水(べんすい)に到り、卓の將、徐榮と遭遇し、戦うも利ならず、士卒の死傷すること甚だ多し。
 張邈の遣わした将衞茲の兵を譲られた太祖は、董卓を追って滎陽汴水に到る。そこで将の徐榮に遭遇し、戦うも、利無く、死傷兵が甚だ多い。詰まり、董卓を倒そうと思って滎陽汴水に到ったが、偶々、董卓の将徐榮が居り、目的を果たせずと述べる。

 (4)太祖酸棗。諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取、太祖責讓之。

 (酸棗の援軍に)太祖曹操、酸棗に到り、諸軍の兵十餘萬、(徐榮が兵を引くと)日々酒を置き高らかに會し、進取を図らず。(そうした様子を見た太祖曹操は)これを責譲する。詰まり、日毎、酒盛りの興じ、次の自ら進んで策も講じない諸兵に対して、その気概のないことを咎めるために到る。

 (5)太祖兵少乃與夏侯惇等詣揚州募兵。刺史陳温丹楊太守周昕、與兵四千餘人。還龍亢士卒多叛。銍建平(予州沛国)、復收兵得千餘人。

 太祖の兵少なし。乃はち、夏侯惇(かこう・とん)等、揚州に詣で兵を募る。刺史陳温、丹楊太守の周昕(しゅう・きん)の兵四千餘人を與ふ。その後、龍亢(りゅうこう)に還り到るも士卒が多く叛したので、銍、建平に至り、復た兵を收め、千餘人を得て、進み河内に屯す。詰まり、兵を募集すると云う目的で到った揚州から龍亢に還ると、多くが離反したので、建平に至り、再度、兵を収めたと云う経緯を述べる。

譙の人=太祖曹操を沛国(現江蘇省)の「譙」と云う地の人とするが、漢和大辞典「譙」項、高殿、物見櫓、木を守り、育てる樵(きこり)と同系字で、宮城の門番と守衛を担う武人(校尉)と云う意味を持つのかもしれない。

相国参=漢の高祖劉邦の幼馴染みで、蕭何の亡き後、相国(宰相)となった人物とされる。次の祖父には「騰」と姓を記載するが、相国参と実父で養子とされる「嵩」には諱だけ記載、姓を省くのは、操の曾祖父「参」、参の子「曹騰」、曹騰の養子「嵩」というニュアンスだろうが、養祖父曹騰が大長秋迄、昇った大宦官であり、養子「嵩」は曹操の実父だが、継子で血縁の嫡嗣(子孫)ではない。
 また、三国志「武帝紀以下の記述、「太祖乃變易姓名間行東歸」=太祖、姓名を変易、紛れて東へ帰ると云う記述からすれば、現在、姓氏「鄒(すう)」はあるが、「嵩」は見えない。裴注に拠ると、父曹嵩は、夏侯氏の出とあり、夏侯惇の叔父であるという。夏侯嵩(すう)と、その実子の「操(孟徳)」を養子を迎えたのかも知れない。
 
費亭侯=秦漢期、盗賊の追捕を担った亭長の上司か、その意味は良く分からない。ただ、「字統」亭=宿舎と候望、物見の楼を兼ねるから、その官舎や櫓等の建設と、譙人の費用の調達を担う役職かもしれない。

献帝=中国の王朝の一つ後漢。前漢の景帝の6世孫劉秀が王莽(おうもう)の新朝を滅ぼして漢室を再興、洛陽に都して光武帝と称してから、献帝に至るまで14世。前漢を西漢というのに対して東漢ともいう(25~220)。最後の皇帝、曹操の子、曹丕に帝位を禅譲したからか。


  1. 2018/02/04(日) 21:21:00|
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◇歴韓国

 帶方郡から倭に至る。朝鮮半島西岸部に循い水行、韓国西岸部を歴て、南下した後、東行すると到る倭の北岸狗邪韓国、ここ迄、七千餘里とあり、編者陳寿が、倭の北岸とした理由は、郡衙に居る郡使や魏使から見た狗邪韓国が朝鮮半島南岸部ではなく、東南部の離島、巨済島等を含む小さな群島に在ったからと考える。詰まり、帯方郡衙の東南、大海中に住むとされた倭人中、東側を除いた南側に属す邪馬壹国連合の構成国、對海(對馬)国への外洋航海を始める経由地(起点)として示唆する意味をも担う倭の北岸狗邪韓国は、朝鮮半島沿岸の航海を担った蛋民の基地と思しき弁辰狗邪や弁辰瀆盧国等の諸国と対峙して海道を挟んだ島嶼に在る倭人系渡海民の国域(領海)だったと考える。
 但し、官や副官、家・戸数等の記載が無いので、女王国に服属した對海(對馬)国から大官卑狗や副官卑奴母離が外洋航海を担う倭人系海民を伴い狗邪韓国へ出向き、郡使や魏使等を迎えるための前進基地的なものだったと考える。
述べてきた事と考え併せて、補足的な文言を「桃色」として付会、「至」に関連する経過や経緯を鑑み、これを意訳すると下記の如くなる。

 帯方郡から東南方面の大海中に住む倭に至る。朝鮮半島の沿岸部に循じて水行し、彼方此方に碇泊しながら帶方郡治下の韓国沿岸部を歴て南下した後、半島の西南隅から東して、その韓国に属さない倭人の北岸、外洋船に乗り換えるための目的地郡衙の東南大海中に住む倭人中、南側の邪馬壹国連合に属す海民の前身基地、狗邪韓国に到る。此処迄の総距離七千余里。

 例えば、古田武彦氏なりの思惑や意図に拠り、郡衙から狗邪韓国迄の七千餘里と云う里程と、韓国の方可四千里との帳尻を合わせるため、循海岸水行、歴韓国南乍東乍~云々。の「歴」と云う漢字を、魏皇帝の威厳を示すため、山勝ちな韓国領内を西北から東南方面へ陸上を転々と進んでいったとするが、当時の韓国領内が郡治下だったとしても、独立を目指す国人等の襲撃を受ける可能性が無かったとは言い切れないと思う。
 何れにしても半島南岸の東南隅に到る事に違いはないのだが、縦しんば、そうした進行経路だったとすれば、韓国を歴て「上陸」、或いは「陸行」と云う文言があってしかるべきで、日毎に移って行く「暦」と同源の「歴」=転々と移動するとすれば、この「歴」は循海岸水行に対応するとせざるを得ない。
 
 「狗邪韓国」は、帯方郡治下の韓国沿岸航海民の水先案内で、最初の目的地、邪馬壹国連合への南に向かう船に乗り換えて外洋を渡海する倭人の領域=帯方郡治の韓国領域外、倭人の領海に着いた事を示唆するために「到」にされた。また、この七千余里の里程や日程は帯方郡使には既知の情報で、編者陳寿も予め知り得たが、倭人の領域北岸狗邪韓国以降の状況は、倭人の説明に拠る郡使や魏使の報告に頼らざるを得なかったと考える。

 
狗邪韓国=陸鰐(くぬがわに)は、弁辰狗邪(べんしんくぬが)も朝鮮半島東南岸隅部に船を係留して山手の陸(クヌガ)に住む海民や東千餘里倭種との関連が考えられる。
 また韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者古之辰國也。馬韓在西、其民土著、種植、知蠶桑、作綿布。各有長帥、大者自名爲臣智。其次爲邑借散在山海間無城郭と云う記述からすれば、馬韓人以外の辰韓や弁辰には一定の土地に定着し農耕や養蚕に従事する人々だけではなく、リアス式海岸の入り江等に家船を係留した蛋民(漁労民)、山間の谷にゲル(天幕)を張り、移動生活する遊牧民や帶方郡に服属する沿岸航海に従事する海民も混在したと考えられる。

前進基地=狗邪韓国には、領域や戸数等の記載が見えないので、出城的な船津があった。一大国にあったとした一大率の役所との役人や武人が、倭人系海民の船に乗り、交替で出向いたと考える。

歴=同訓で同義とされる「経る」は経由・経過等に使われる様に、直線的な連繋や因果を示唆する。一方、「歴る」は履歴・歴史・歴訪等、点々と繋いで行く事を示唆する。*「降る」=上から下に、「触る」=手等を伸ばして付ける、「振る」=手等を左右に動かす、「古い」=時を経る。


  1. 2018/02/12(月) 09:45:07|
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◇其戸数道里不可得略載

 南至投馬国水行二十日五萬餘戸~ 南至邪馬壹国水行十日陸行一月七萬餘戸~ 自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳

 上記は、其北岸狗邪韓国から南で至る投馬国水行二十日可五万余戸~、同様に、南で至る邪馬壹国水行十日陸行一月可七万余戸~。女王国を含めない北側の国々は、その戸数道里を略載できるが、道程の東西に拡がる余の傍国は遠く(道も)絶えた所もあり、戸数や道里を詳らかにでき得ず。

 投馬国への最長の日程水行20日の道里はないが、「南至~」の起点とした其北岸の狗邪韓国から南側へ末廬国と半島を隔てた西側迄の水行10日、そこからの水行10日は、九州北岸を西へ水行後、西北岸の縁を廻り、東南方面に下った所にあり、可五万余戸。
 一方、邪馬壹国へも狗邪韓国から末廬国迄の水行十日、そこから陸行一月と、可七万余戸として、日程と戸数を記載するが、狗邪韓国から投馬国中枢への道里、不彌國から女王の都する所への道里と、邪馬壹国連合に服属する、その余の傍国(奴国を除く)20国への道里と戸数も略載されない。

 邪馬壹国の七万余戸(総じて~になるべし)は女王に属す国々の総戸数で、投馬国連合の五万余戸(総じて~になるべし)と旧奴国連合「有二万余戸」を併せた数値と考える。また、道程の對海国(千餘戸)、末廬国(四千餘戸)、伊都国(千餘戸)と、一大国(三千家)と不彌國(千余家)も、何れかの連合国に含まれるため、「其餘旁國」になる。ただ、一大国と不彌國の「家」は家門を持つ大夫(官僚)と、下戸(戸=門のない)の違いであれば、含まないかも知れない。

 一女子爲王名曰卑彌呼~以婢千人 自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入 居處宮室樓觀城柵嚴設、常有人持兵守衞。

 以て婢千人は城柵内に住み、その雑事や田畑の祭事等に従事したとすれば、女王国中枢の戸数に含まれるが、常有人持兵守衞は派遣されたと考える。

 
次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國  次有奴國 此女王境界所盡。其南有狗奴國男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里~。

  (末廬国から東へ)次有り斯馬国、次有り已百支国、次有り伊邪国、次有り都支国、次有り好古都国、次有り不呼国、(折り返し)次有り姐奴国、次有り對蘇国、次有り姐奴国、次有り呼邑国、次有り華奴姐奴国、(奴国中枢を挟み西南へ)次有り鬼国、次有り為吾国、次有り鬼奴l国、次有り邪馬国、(沿岸部を北上して)次有り躬臣国、次有り巴利国、(沿岸部から東へ)次有り支惟国、(ここから東南部へ)次有り烏奴国、次有り奴国、これ女王の境界の尽きる所。その南に有る狗奴国は男子を王に為す。その官狗古智卑狗。これ女王に属さない。郡より至る女王国迄、萬二千餘里。

 「其餘旁国」は邪馬壹国への道程で道里と戸数を略載された自女王国以北に在る国々の東西に拡がる。旁国の奴国と道程の奴国は同国で、帶方郡東南に住んだ倭人の領域南側に属す邪馬壹国連合最南端で、女王に属す国境界の尽きる所に道里と戸数を略載された奴国の中枢がある。その東側に女王の都する所=邪馬壹国連合中枢の女王国、西側に投馬国連合の中枢がある。
 また、連合国の領域の最南端、奴国の南側に倭人の一国、女王に属さない狗奴国(連合?)があり、郡衙より、女王国に至る迄の里程、一万二千餘里の内訳は狗邪韓国迄の七千餘里(水行25~30日)、末廬国迄の三千餘里=最長水行十日、末盧国から二千里=最長陸行一月になる。

戸数と道里=例えば、道里に記載される戸数の場合、有~余戸、或いは、有~余家とあるが。日程として記載された投馬国は「可五万余戸」、邪馬壹国も可七万余戸とされる。こうした記述方の違いを無視する研究者は多い。「可(べし)」=良い事。良しとして許し、認める事。できる。*可能・許可
 漢和大辞典「可」の解字には、「屈曲した鈎形+口」とあり、様々な曲折を経て、どうにかそれと認められるとする。「字統」に拠ると、口と木の柯の象。祝詞を入れた器「口」、神に祝詞を捧げて、斧柯や柯枝を以て呵責を加え、祈りの成就を迫る。「呵」の初文とあり、神意がこれを聞く事とある。

伊都国=世有王皆統屬女王國。郡使往來常所駐。郡使が往来、常に駐まる所とされる理由は、ここが奴国中枢と邪馬壹国中枢の女王国へ向かう為の分岐点だからと考えられる。また、(女王卑弥呼の)世、有王は、女王卑弥呼係累の姻戚(統属)で、その王は、「有男弟佐治國(佐けて国を治める男弟)」と考える。
 大夫の国と思しき伊都国「有千餘戸」が「~家」とされない理由は、河川航行の荷役や宿場に従事する下戸が住み、不彌國の有千余家に官僚や神祇官が居たからだろうか。当然の事ながら、一大率の役所が在り、その官卑狗や副官卑奴母離直属と同等の官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚官等が常駐していた。

一大国(三千家)=自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國。於國中有如刺史とある=女王国より以北、一大率を特置、諸国を検察、諸国は恐れ憚る。(郡使が往来するので)これ伊都国を常治す。我が国中に於て有る刺史の如き。とある。おそらく、その武官(大夫)と家族等が住むと考える。
 「三千家」=「~餘戸」は、その数値を上回るが、大体、その数値。三千許家の「~許」は、満たないが、略、その数値。また、「可~」は、総じて~になるべしと考えられる。
 許[hıag][hıo][hiu]=上下に幅を空けて通す。まあ、これなら良かろうと聞き入れる。可能である。その資格があると認める。下(もと)、所、許り=数詞や指示詞に付けて上下に幅のある事を認める。

大夫=男子、無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫=男子、大小はなく、黥面文身。古来より、その使い中国に詣で、皆自ら大夫と称す。

邪馬壹国連合の最南端=「後漢書」倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也。倭国の極南界とされる倭奴国と狗奴国の関係はないのだろうか。尚、倭人の領域東側は、女王國東渡海千餘里復国有皆倭種とされた領域になる。


  1. 2018/02/19(月) 10:03:52|
  2. 5.漢字の用法
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◇放射式読解記述法

 先の岩元正昭氏は以下の如く続けます。【「行」字と「又」字のコンビネーションに拠る『放射式読解記述法』とは、二つ以上の行程区間が起点を共有して異方面に伸びる事を記す方法。
 「倭人伝」に載る「東行至不彌國百里」の「行」字について、全行程叙述中、この一箇所だけ、「方位」の語の直後に「行」字が付いている。結論を言うと、「行」字が単独に「方位」語に接続し引用される場合、「行」字が用いられている行程区間を以て、そこ迄述べてきた一連の行程叙述が終焉する事となる。
 つまり、「方位」が終焉し、進む方向がなくなる意になり、そこに至る一連の行程叙述が終焉する事を告げているのである。随って、この区間の直後に記されている区間の起点は「行」字を用いた区間の「終点」ではない。


 (1)東南陸行五百里到伊都国、(2)東南至奴国百里、(3)東行至不彌国百里と云う三つの里程記事に対して、編者の陳寿には何らかの思惑や意図が在ったの否めない。また、其北岸狗邪韓国から末盧国を「始度一海」「又南渡一海」「又渡一海」と書き分ける。
 仮に一大国から末盧国迄も南へ陸行したら、単独でない(1)東南陸行~も「東南行」にされたと考える。(1)東南陸行~として末盧国迄の渡海が終わり、海民の領海、郡衙から見た瀚海の南側の岸(廬國)で上陸した魏使一行は、平底船に乗り換え、一大率の官吏と共に従者が小河川沿岸から曳いて東南へ陸行した。
 また、(2)東南至~に「行」を付さないのは何故か。これが陸行だとしても、次の(2)東南至~を東南陸行至~としないのは、何故か。この理由を、女王の領域最南端だから奴国を記載したとして、邪馬壹国への行程に関わりのない不彌国を記述する理由は何かと、何れをとっても疑問だらけ。  
 (2)奴国へ行かず、伊都国迄と同様、(3)の不彌国へ伊都国から東行したと考える。これが「伊都国」とした理由で、女王の領域北辺、其北岸狗邪韓国から東南ではなく南へ渡海したのと同様、再度、伊都国から東南へ陸行する分岐点にせざるを得ない。

 【概ね行程叙述の最初の起点となる。「倭人伝」では投馬國への起点は不彌國ではなく帯方郡になる。これは古代漢籍の行程叙述上の『決めごと』であり、現代人にとっては『失われた語法』なのである。この語法は「行」字に止まると言う意がある事から派生する。

 当初、帯方郡衙を起点として倭人の領域を東南とした陳寿が、南至投馬国水行二十日~、南至邪馬壹国水行十日と陸行一月~を、「東南至」としなかったのは何故か。更に、態々、(倭人の領域)北岸狗邪韓国とした理由は、単に南側の一海を船を乗り換えて渡海するだけではなく、東南方面ではなく、南側へ分岐する倭人の領域内の目的地として「~狗邪韓国」とした。詰まり、東南方面の倭人の領域と女王国に服属する倭人の領域が同じではなく、大きな倭人の領域から東寄りの東渡海千餘里に住む倭種の領域を除外し、女王に服属する南側の領域とを区別したと考える。

 >「倭人伝」では「投馬國」への起点は不彌國ではなく帯方郡になる(中略)。『決めごと』であり。この語法は「行」字に止まると言う意がある事から派生~。とするが、論者の云う語義「行=止まる」を用いた語法等、今はおろか、昔にも無い。
 私見では、東南方面に設定した東渡海千餘里の倭種を含む大きな倭人の領域から女王国に服属する領域へ移動する分岐点を示唆するため、其北岸として倭の領域中、南側の邪馬壹国へ再設定し、二つの「南至~水行~」に繋いだ。詰まり、「其北岸~」が、南至投馬国~、南至邪馬壹国~の起点になる。これこそが陳寿の筆法だろう。
 
奴国=傍国の記述最後に、~次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里。再度、奴国が名が見える。この国が狗奴国に対する防人の如く対峙していると考える。

行=『説文解字』彳=人の脛の三屬相連なるに象る。一歩一歩、進み、佇み(暫く始めた行為を留め、その場に居る)、一時、休むとするが、字統(白川静編)彳(てき)と亍(ちょく)は単独で文字として用例はない。「行」字の左右で、素より足を象る物ではない。「説文」歩して止まるとは、躑躅(てきちょく)=足踏みする事を躊躇うと解しての訓とある。また、漢和大辞典(藤堂明保編)「行」項「解字」十字路を描いた象形文字、途(みち)を進む。動いておこなう等の意とする。
 「行」は交差点で方向性を定めて進む事。「歩む」は「止」「少」の何れもが足の象形で、一足ずつ、時折、佇みながら、ゆっくりと、一歩一歩進む事。「走」は、「十(分岐点)+疋(足の象形)=端る」で、何らかの目的地に向かってまっしぐらに進む事を表す。


  1. 2018/02/26(月) 09:45:05|
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