見まごう邪馬台国

◇違表記や異表記

邪馬台国等、倭人の国が記述される漢籍には、先述の三国志と後漢書や翰苑等がある。中でも「魏志東夷伝倭人条(以下・倭人伝)」倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑と云う記述に対応させたのか、「後漢書東夷伝」其大倭王居邪馬國樂浪郡去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里=その大倭王は邪馬臺国に居り、徼(予断を持って大凡を求めると)樂浪郡から去ること邪馬臺国は萬二千里、樂浪郡から去る倭人の領域西北界の拘邪韓國は七千餘里なりとする。
こうした違表記の取り扱い方にも注意が必要で、「三国志」編者陳寿の生没年「233~297年」、「後漢書」編者范曄(はんよう)の生没年「397~445年」とある。詰まり、「三国志」の150年後、「後漢書」の編者范曄は、旧来の漢籍等を基本に2世紀後半の倭国大乱後の影響、卑彌呼死後の邪馬壹国の動向等、謎の4~5世紀の状況変化に則して書き換えたとも考えられる。但し、今となっては、これが范曄の命名か、当時の呼称や国名か、はたまた、これらが同国なのかも判然としない。確かな事は、范燁の把握した樂浪郡と邪馬臺国や拘邪韓國の位置関係と陳寿の把握した帯方郡と邪馬壹国や狗邪韓国の位置関係として、思い込みや、先入観を持たずに読み解く事が肝要だと思う。
藤堂明保編「大漢和字典」と白川静編「字統」に拠ると、字音、拘[kıug(kug)][kiu(kəu)][kiu(kəu)]・狗[kug][kəu][kəu]と略同音なので、この場合、誤写や誤植と云うより、意識的に変えられたのかも知れない。では、その理由はなんだろうか。
漢字の語義には、「拘」=何かに固執する(コダワル)。何らかの関係や関連を持つ(カカワル・トラエル)。一方、狗(いぬ)=子犬の事、句=小さな単位とある。前者の場合、陳寿は狗邪韓国とするにも拘わらず、の領域北岸とする事を示唆し、後者の場合、犭(獣偏)=馬ではない小型の四つ足の動物(速く走る)と小さな単位→小型の四本櫂船と云うニュアンスとすれば、「記」虚空津日高を本つ国へ返すのに最も小さい一尋鰐が一番速いと云う記述に対応するのかも知れない。
「魏使東夷伝倭人条」を含む刊本には紹興本と慶元本(紹熙本)が在り、例えば、邪馬壹国と邪馬臺国、對海国と對馬国等の記述異なるのを取り上げて、此方が正しい。いや、間違いだと云う論争がある。刊行本の場合、編者陳寿の意向や意識的な変更や書き換えはないが、刊行者の意識的な文字の取り替えや誤植の可能性は否定できない。また、記述された年代や編者が違うとすれば、同本に基づいて書かれたとしても、その時代が持つ状況や認識に拠る書きかえの可能性を否定できない。ただ、誤植等の間違いと軽々しく云ってはならないと思う。何故なら、理解できない。都合が悪い。自分の論理に合わないとなれば、全てが間違いとされかねない。何れもが正しいとして読み解く事、先ずは目前のテキストのままで以て読む事から始めなくてなるまい。※後者の場合、海(ま) [məg][hai][hai]と発音しなくなったため、近い音の「馬」に変更したとも考えられる。
 
三国志=二十四史の一つ。魏・呉・蜀三国の史書65巻。晋の陳寿撰。紹興本=南宋初期(平安時代末期)の紹興年間(1131~62)に刊行されたもので倭人伝を含む刊本としては、現存最古。慶元本(紹熙本)=南宋の紹熙年間(1190~94)に刊行されたと云われる。「倭人伝」の部分は中華民国の学者張元済が百納本二十四史を編纂した時に宮内庁書陵部に存在するものを写真印刷した。
後漢書(ごかんじょ)=二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝宋の范曄(はんよう/398~445)撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭(わ)に関する記事がある。
翰苑(かんゑん)=初唐の張楚金撰の類書。もと30巻。蕃夷部1巻のみが日本に現存し、倭国・朝鮮三国等の記事がある。

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  1. 2014/06/20(金) 22:44:32|
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◇「方可~里」と「方可~餘里」

「魏志東夷伝倭人条」對海(對馬)國~、所居絶島、方可四百餘里。一大(一支)國~、方可三百里と云う記述がある。對海(對馬)国の所居絶島は、現在の地図を見ても分かる様に、略50㎞四方に離島や陸地のない完全な離島だと知れる。一方、南側、15~20㎞地点に他の離島のある一大(一支)国に、その記述はないので、編者陳寿は、こうした位置関係を正確に把握していたと分かる。また、この両島には何れも「方可~里」と同単位の記述があり、通説的には、この「~」を、その数値を一辺とした正方形や平行四辺形の面積とするが、「方~」とし、その数値を上回る事、下回る事、何れもとするにも関わらず、何故か、前者は「方可~里」とする。殆どの研究者や論者は単に、その数値を上まわる事とするのか、そんな小さな事には目を瞑れとでも云わんばかりに無視するが、何の意味もないとして良いのだろうか。手持ちの漢和字典に拠ると、「方」「可」「餘」は下記となる。尚、アルファベットは順に上古音(周・秦)、中古音(隋・唐)、中原音(元)とする(以下同)。
[pıaŋ][pıaŋ][faŋ]=四方・方角、行き先、並べる・比べる、筏、仕方・方法、直線的に張り出ている様、四角・四角い、当に・当たる。「解字」左右に柄の張り出たスキ(鉏)を描いた象形文字で左右に直線的に伸びる意を含み、方角の意。「字統」架屍=横に渡した木に人を架けている形、これを境界の呪禁とする。四方遠方の称に用い、辺()と共通義が多い。
[pān][pen][pian]=辺り、端・果て、縁、畔り、「解字」臱(めん・へん)は、自(鼻)+冖+八=両側に分かれる+方=両側に張り出る、行きどまる果て迄歩いて行く事を表す。「字統」鼻の竅(あな)を上に台に置いた形、首祭として知られる祭梟の俗を表す。それを道路の要所に置いたもので、異族霊の支配する所(辺鄙・周辺)。その辺境を断首祭梟で以て守り、邪悪を祓うものは「殷」の陵墓にも見られる。
[k`ar][k`a][k`o]=宜しい・差し支えない、「べし」=(事情から)~して良いと認める、勧める気持ち、気持ちを起こすに値する、「ばかり」=まあ、それぐらい。「字統」祝禱の器と木の柯枝に従う。神に祝詞を捧げて祈り、斧柯・柯枝で以て器に呵責を加えて祈願成就を迫る意、それを神が聞く事=可(べし)、神の我に許す=許可。神が行うに値するには、是非すべし、まあ宜しいとが在り、後者が「~ばかり」に派生する。
[hiag][hio][hiu]=(字統)声符「午」、神が聴許する意、神意を宣明する事。字統「午」=祝禱の際、殴打を加える呪器で、「御」の初文(午+卩)にも含まれるもの。呪器で災禍を禦ぐ事を原義とする。本来、神が聞き入れて聴許する事を云い。人の許す事。「可」と併せて許可。
(余)[diag][yio][iu]=あまる、必要以上、はみ出た端数、その他の物事、残る・残す。旧字「餘(食+余)」は食料の余剰分、食物に余裕のある事。「解字」余=スコップで土を押し広げる+八(分散させる)、舒(のばすの・ゆったり)の原字。一方、「字統」取っ手のある細い手術刀の形、この字を要素とする「兪」「瘉」「癒」等、金文「兪」字形では、右下に一曲線を添える事が多く刀で膿血を破る意を示す医療に関連し、「除」「徐」「途」等は道路の修祓に関する字。尚、一人称代名の用法は当て字だろうが、夫々、特定身分の王子の名として固有名詞的な用法も在り、「予」=予定された嫡嗣と「餘」=予以外、「我」=区分無しかも知れない。
漢字は、絵文字的な単一語義から発生し、別の文字を併せて語義を派生させた。詰まり、「余」=膿血と云う余計な物が取り除かれる事、食み出す事=余分、食偏が付いて食料の余剰分となる。この字は、均して広げ、斗升等で必要分を除外した後の残余とすれば、「特定の単位や枠に充て填らない」と云うニュアンスになる。

  1. 2014/06/24(火) 17:33:23|
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◇一里の換算値

「邪馬台国はなかった」の編者古田武彦氏は、その著書中、「三国志」に見える里程記事から自身で割り出したと云う一里の換算値を「75~90m」として、その最小値「75m」を用いて「魏使東夷伝韓条」にある記述、韓国方可四千里(75m×4000)=300×300㎞の平行四辺形、「同倭人条」一大(一支)国の方可三百里(75m×30)=22.5×22.5㎞の正方形、對海(對馬)国も方可四百餘里(75×400=30㎞)=30×30㎞の正方形(対馬下島)とし、上島は無視した挙げ句、後者の二つは現在の大きさと合致しないので、見まごうかな、古代の大きさは違っていたのかも知れない等とし、お茶を濁した挙げ句、「島巡り」と称して、七千餘里+千餘里+八百餘里+千餘里+六百里+千餘里+五百里+百里=一万二千里となり、二辺を合わせた里程の総計が帯方郡から女王国迄の総距離に一致するので、不彌国の直ぐ南に邪馬壹国が在ったとする。私見では、後代、両島に大規模な陥没や沈下があった等、裏付けされる記録があるのなら未だしも、島の大きさにも適合しない換算値の四百餘里×2+三百里×2を足して里程の総距離とされる数値「万二千餘里」に合致したとしても、換算値が不正確な事も在り、その必然性は見えないと思う。
例えば、韓国の方可四千里を一辺四千里の正方形か、平行四辺形だとしても、前方後円墳の「前方」は二等辺三角形とされるので、「方」は正方形や平行四辺形の四角形とは限らないのかも知れない。但し、「魏志東夷伝」東沃沮~、其地形東北狹、西南長可千里と云う記述から西南「可千里」の両端から伸びる二線が東北側に向かって狭まる台形か、三角形と推測されるが、この場合、「方可~」とされないので、台形や三角形は「方」に含まれないとした方が良い。先述の「方」=当に・当たる等の語義と「解字」の左右に直線的に伸びる→中点を境に両端が伸びる二線→中点を境に左右に伸びる線が角度を保った状態の二組が合わさったものとすれば、正方形や平行四辺形だけではなく、もしかしたら長方形も含まれるのかも知れない。
当時、乗馬に於ける一日の平均的な進行距離をモンゴル騎馬兵の進軍速度=70~100㎞/日(6~8h)とされる。また、河川航行等、櫓漕や帆掛和船の推進は実船の最大速度は、10knot=18.52㎞程、櫓を用いた推進法での同船速は4~6knot(7.5~11㎞/h)程とされる。1knot=一海里(約1852m/h)で、55~110㎞/日(6~8h)、それを生業とする海民、複数の手漕船であれば、もっと進んだのだろうが、水夫や人夫と馬の休息日や悪天候に拠る予備日等を勘案した走行距離の目安として一里「70~140m」と設定した。
その平均値に拠る一里の換算値「105m」から韓国の領域を105m×4000=約420㎞として帯方郡衙の比定地、平壌やソウル付近から木浦迄、南北の直線距離をディバイダで計ると略400~450㎞、木浦から釜山迄、東西の直線距離は略250餘㎞、ソウル北部から釜山迄の対角線は略350㎞となり、南北の長さは略合致するのだが、東西や対角線の長さには合致しない。次に、問題の對海(對馬)国の方可四百餘里=105m×400=約42餘㎞は、長崎県対馬下島の縦横=約25×16㎞と対角線=25㎞、更には、同上島の縦横=約40×15㎞にも合致しないが、その対角線=43㎞には略合致する。一大国の方可三百里=105m×300=約31.5㎞は同県壱岐島の縦横=約17×15(略16×16)㎞、その対角線=約22㎞にも合致しない。更には、帯方郡衙から狗邪韓国迄の七千餘里(7000×105=735餘㎞)として、その配分は郡衙を現在のソウル(京城)付近として南北四千余里(約420㎞)の木浦付近すれば、釜山市付近迄は東西三千里(約315㎞)となり、現朝鮮半島南岸部の東西約250㎞をはみ出てしまうので、少し見方を変える。

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  1. 2014/06/29(日) 10:55:12|
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◇陳寿の筆法

編者陳寿は、「烏丸鮮卑東夷伝」では領域に対して下記の如く記述する。
夫餘在長城之北、去玄菟千里。南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接 北有弱水(黒竜江)。方可二千里、戸八萬 
高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮濊貊、東與沃沮、北與夫餘接 都於丸都之下、方可二千里、戸三萬 
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。其地形東北狹、西南長、可千里 北與挹婁夫餘、南與濊貊接
在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里~云々
 
以上の四ヶ国は何れも餘里とされない。先の韓国と一大(一支)国の二国を合わせて6ヶ国が、(方)~里と、可(ばかり)と、下まわる事、上まわる事の何れでも良い=大凡・大体の数値とする。對海(對馬)國だけ、態々、それを上回ると云う「餘」を付加し、特筆する理由は、先述した「餘」と云う字が持つニュアンスの「特定の単位や枠に充て填らない=この領域の概念に収まらない」からとせざるを得ないと思う。また、編者陳寿は、海を境界とする状況を下記の如く記述する。
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居
在帶方之南、東西以海爲限
挹婁、在夫餘東北千餘里、濱大海。南與北沃沮接、未知其北所極。
、南與辰韓、北與高句麗沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也 戸二萬
 
上記の漢字「濱」「限」「窮」は、広辞苑に拠ると以下の如く在る。「海や湖に沿った水際の平地。「」=自然と際に至る意、ぎりぎりの際に達する。極限の状態に至る。果て迄くる。終りとなる。尽きる。「谷まる」とも書く。動きのとれない状態に陥る。行き詰まって苦しむ。その結論に到達する。決まる。「」=事物に区切りをつける。範囲を定める。仕切る。特にそれだけと定めて他を退ける。定まる→窮まる。多く否定の場合に用いられて、その事に決まっている。最も良い。他に優るものがない。
そこで、現在の朝鮮半島の地図を見ながら、文字の意味を考慮して下記の違いを確認する。
(3)東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居~は、蓋馬高原東側の緩やかな裾野に広がる大海の浜にある。
(4)在帶方之南、東西以海爲限~は、先の帯方郡治南側の韓国領域が朝鮮半島東西の海に拠って範囲が定まっているとすれば、沿岸部海域は領域に含まれないと考える。おそらく、その海域には、そこを領有する家船等に住んだ蛋民や沿岸航海民が居り、彼等は帯方郡に服属し、郡衙北側の黄海沿岸部、朝鮮半島西沿岸部の水行を担ったと考える。
(5)挹婁、在夫餘東北千餘里、濱大海~は、(3)と同様の状況だろうが、記述法が違う理由は、~其(挹婁)國便乘船寇盜鄰國患之と在り、その住民と海の関係性で、海域も領有していたかどうかの違いと考えられる。
(6)、南與辰韓、北與高句麗沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也 戸二萬濊~云々、東窮大海は、朝鮮半島西沿岸北部、現・平壌やソウルを帯方郡領域とし、帯方郡治東側、半島北部東側の陸地には「濊」の領域がある。地図で確認する限りでは、その領内全域が略太白(テベク)山脈に占められるので、東は大海に窮まると云う地形は、その山麓が切り立った断崖や磯となり、そのまま海岸に到達する(=窮まる)。但し、韓国と違い沿岸部で限定されるわけではないので、その領域に沿岸部は含まれるのだろうが、東側の海域は「便乘船寇盜鄰國患之」していたと云う挹婁が領有していたと考えられる。
 
黒竜江=中国東北地区北境、シベリア南東部を東流し、間宮海峡に注ぐ大河。南は内モンゴルのアルグン河、北はモンゴルのオノン河を源流とし、松花江・ウスリー江を合わせ、長さ6237㎞。別称アムール川、略称「黒」。中国東北部最北の省名。省都は、哈爾浜(ハルビン)。肥沃な松嫩(しょうのん)平原・三江平原を持つ。

  1. 2014/07/03(木) 23:54:41|
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◇朝鮮半島の版図

先の文章と漢字の語義から読み解ける6ヶ国と帶方郡治の領域を略図(図1)にすると、北部東側から順に下記の如くなる。 

image001.gif
橙点線」挹婁=漢魏時代に満州東部に住んだ古代部族、靺鞨の前身、粛慎と同種かどうかは不詳。人が少ない険しい山に住み、衆は規律に服さず、船が巧みで、屡々、近隣諸国を寇掠した。また、邑落の大人を一つの血族が継承する習俗は、近隣の夫餘や沃沮が合議による選挙で大人を選んだのとは対照的である。
紫実線」夫餘(一辺約千里)=満州の古代民族ツングースの一種族。前漢~後漢時代に中国と関係を有するに至る。BC1世紀からAD5世紀迄、中国東北地方・朝鮮北部に活動した民族。また、その建てた国。1~3世紀中頃が全盛期で、494年、高句麗に滅ぼされる。*扶餘
黒実線」高句麗(一辺約千里)
桃点線」鮮卑=アジアの古代民族、蒙古種に属す遊牧民族で、中国の戦国時代から興安嶺の東に拠った。後漢の和帝の時、匈奴に代わって蒙古に覇を称し、二世紀中葉、遼東から内蒙古を含んだ大国となり、三国時代、慕容・宇文・拓跋の三氏が現れ、中でも拓跋氏は「魏」と称し、北魏となる。漢民族祖帝(公孫軒轅)や遼東半島を領した公孫氏等、鮮卑族の拠所「満州」の遊牧騎馬系女真族の奴児哈赤の子が興した清王朝の聖色が「」とされる事等、何らかの繋がりを無視する事はできないと思う。
緑実線東沃沮(南西約千里) 漢魏時代、北朝鮮に居た種族、貊族の一つ。沃沮という独自の国家があったのではなく、前漢の玄菟郡夫租県、現在の咸鏡南道咸興市付近にいた濊貊系種族を指すものと考えられており、同じく濊から分かれた餘(扶餘)・東穢や高句麗等とは同系とされている。1958年に平壌の楽浪区域で出土した「夫租薉君」銀印や1961年に出土した「夫租長印」銀印等から夫租地域での濊族の居留が裏付けられている。『三国志』以降は沃沮と表記されるが、これは租を誤記したとされる。但し、「沃」と「夫」の誤記は無いだろうが、「扶」ではあり得ると思う。
青実線(青点線=玄菟郡)濊=ウラジオストック南側や半島東北部沿岸部「東濊」と在る。資料を読む限りでは、漁労と河岸航航行の河川民(濊)、狩猟採集と牧畜系山民(穢)の二種が交じるか。半島東沿岸部北側には「東濊」とある(下掲図3参照)。
赤点線=帯方郡治、黒点線=韓国領域(一辺約二千里)となる。
尚、青破線は、その北側の赤破線と併せて邪馬壹国が遣使を送る少し前から魏に反旗を翻したとされる遼東太守公孫氏の領域だったが、反乱末期か、終戦後、魏帝に向けた邪馬壹国の遣使等が通った呉に服属したとされる沿岸航海民の領域とする。
 
沃沮=「沃」=水を注ぎ、柔らかくしたり、豊にする。土地が肥えている。「沮」=遮って止める。邪魔をする。語義からすると、水が溜まって引かない湿地だが、白頭山西側の蓋馬高原だから低湿地帯ではない。ただ、北は鴨緑江に向かって傾斜し、赴戦江、長津江、虚川江等、多くの鴨緑江支流が走り、発電用貯水ダムがある。亜寒帯に多いカラマツ等の針葉樹林が覆い、冬は零下20~30度で厳しい。高原西部では焼畑農業を営み麦、粟、大豆等を栽培する人々がいた。高原の西方には狼林山脈が南北に伸びる。蓋馬=騎馬民族の進入を遮る。



  1. 2014/07/07(月) 14:22:42|
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◇壱岐と対馬

述べてきた事から朝鮮半島西沿岸部全域が、陸地を領有する韓国の領域には含まれない。一方、同東沿岸部北側は陸地を領有する濊の領域に含まれるが、その海域は挹婁が領有する。半島西南隅から南沿岸部(東南隅の一部を除くか?)も帯方郡に服属する西沿岸航海民の領海(水道)とすれば、そうした緩衝帯(水道)を挟み「南を倭と接す」とされた倭人系外洋航海民の領海(瀚海)があった。それが帯方郡治や韓国の領域ではない倭の北岸狗邪韓国に到る。此処迄七千餘里とされた理由で、その領海に浮かぶ島や東西に突き出た半島等が倭の領域北岸狗邪韓国となる。述べてきた事を考え併せながら、倭人海民の領海とした一海(瀚海)に浮かぶ一大国「方可三百里」と對海(對馬)国「方可四百餘里」の領域を、設定した一里の換算値(平均値)で以て図示する(図2)。
 
image002.gif  一大国「方可三百里」=105m×300=約31.5㎞の壱岐島(図2緑実線)の縦横約17+15(16+16)㎞として均した二辺を合わせた長さに略合致する。
對海国「方可四百餘里」=105m×400=約42餘㎞とし、対馬下島(図2青実線)の縦横約25+16㎞=約41㎞の長方形に略合致する。また、同上島(図2赤実線)の縦横=約40+15㎞には合致しないが、先述の対角線(図2赤点線)=43㎞には略合致する。詰まり、「方可~里」の数値を二辺の合計とし、韓国と一大(一支)国は、方可~里を四辺を均して同長とした正方形や平行四辺形の縦横の二辺を合計した長さに対応する。一方、對海(對馬)国が「方可四百里」とされた理由は、先述した「餘」=特定の単位や枠に充て填らない事から、対馬下島の二辺の合計(約42㎞)は均せない長方形である事、その範疇にも収まらないと編者陳寿が設定した同上島の細長い形状の対角線(約43㎞)として上下二島を表すためと考える。
述べてきた事からすると、帯方郡衙を現在の平壌(開城)付近として南北五千餘里(約500~525㎞)南下した木浦付近から東西二千餘里(約210余㎞)を東行した慶尚南道中央南部の馬山付近とせざるを得なくなる。詰まり、韓国の方可四千里は平壌付近から三千餘里(315余㎞)南下した扶餘北側の武寧王陵の在る公州付近から南北二千里×東西二千里=方可四千里として韓国の領域(図1黒点線)を大凡210×210㎞の平行四辺形とする以外に、これを説明する方法はない。
但し、一つだけ疑問が在る。現朝鮮半島の地図で、その直線距離を計測すると東西長は北部と南部の何れも約250余㎞となり、私説の約210㎞では東西長が40~50㎞足りない。これを読み解くための糸口として西沿岸部の状態を示唆する記述が「東夷伝韓条」にある。
 
又有州胡在馬韓之西海中大島上 其人差短小言語不與韓同 皆髠頭如鮮卑但衣韋 好養牛及豬其衣有上無下略如裸勢 乘船往來市買韓中。これを読み下す。また、州胡、馬韓西海中の大島上に有る。やや背が低く韓人の言葉と違う。皆鮮卑族髠頭の如し。鞣革の衣を着て牛や豬(ぶた)を上手く養い。衣は上着だけで下履きはなく略裸に近い。船で往来、韓中で市買する。
通説では馬韓西海中の大島上の州胡(しゅうこ→チォファ)を南海上の済州島や現ソウル西海上の江華(カンファ)島等とするが、「私説」韓国の領域設定からすれば、前者は馬韓か、弁辰の南(南西)海上、後者は帯方郡の西海上となり、何れの場合でも州胡の所在、「在馬韓西海上~」と云う記述と適合しないので、少し見方を変える。

  1. 2014/07/13(日) 19:13:02|
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◇州胡

先ず、「州胡」の漢字は、先述の漢和字典に拠ると下記の如く在る。
=[tiog][tʃıəu][tʃıəu]=中州・島、中州の様に纏まっている。上古の中国では国内を大山大川に因み、陰陽五行の八方位に中央を加えた九つの州に別けた。地方の行政区画。
=[ɦag][ɦo][hu]=顎髭・垂れ下がった顎肉、全体に大きく被さる・ぼやけていて曖昧な様。中国の北西方に住む遊牧民。

図1
 
image001-2.gif 当時、現在の平均気温より0.5~1度程高かったと云われ、九州北部糸島半島は満潮時に水道に隔てられる島だったとされるので、江華島南側の忠清南道泰安、徳山国立公園の蓮華山(ヨンファサン)が在る半島(図1茶実線)の基部付近には貯水池や湖が見られ、鉄道の走る海抜の低い土地の温陽~道高~禮山~鳳首山~広川付近は、当時、満潮時、潮の入る中州地帯では?と推測される。
また、「東夷伝濊貊条」濊、南與辰韓北與高句麗沃沮接~云々。燕人衞滿魋結夷服復來王之 漢武帝伐滅朝鮮分其地爲四郡 自是之後漢稍別=魋結夷服(たいけつ・いふく)の燕人衞滿、また来て(箕子を滅ぼし)王になる。漢武帝、その朝鮮を伐滅、濊地を四郡(玄菟・臨屯・楽浪・真番)に分け、この後、胡と漢を区別して称す。
詰まり、その水道を挟んだ離島だとすれば、乘船往來市買韓中と在り、やや背が低く韓人の言葉と違う。皆鮮卑族髠頭の如し。とされるので、彼等が韓国の領域に属さない人々と判る。帯方郡治下の韓国と言葉の違う異民族「州胡」は、前漢の侵攻で取り残された東胡で、燕人とされる衛氏朝鮮の支配下民だった人々に関係があると思われる。おそらく、春秋時代、満州や内モンゴル東部に巣くった遊牧民族に近い人々で、烏桓・鮮卑・契丹等は、その後裔と云われる。「州」とされた理由は、風貌と髪型、生業の養豚に拠る。但し、州(しま)に住み、船で往来して韓中で市買するとあるので、本来、大陸東沿岸部河口や入江に家船を係留して住んだ蛋民や沿岸航海民との混血だったと考える。これが正しければ、北部東西を約210余㎞として問題は無いのかも知れない。
当時、国の概念は陸地だけではないと知るべし。河川航行の蛋民や沿岸航海民は耕作や放牧する土地を殆ど持たないが、その領海や水道に於て交易や荷役等に従事、それを生業とした。西沿岸の水道を領有する沿岸航海民領域が在るが故、編者陳寿は、韓在帶方之南、東西以海爲限~。と記述した。詰まり、帯方郡領域東側「濊」が領有した沿岸海域の南側、韓国東沿岸部にも別の領域があったとせざるを得ない。また、海との関わり方で(緑実線)東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居~。(橙実線)挹婁、在夫餘東北千餘里、濱大海。南與北沃沮接、未知其北所極。(青実線)、南與辰韓、北與高句麗沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也~等、東沿岸部の東北~北部で記述が違う理由となるが、韓国領に面した東沿岸部南側の海域は誰が領有したのだろうか。
朝鮮半島南岸の東西約250㎞の東南隅(釜山市付近)に残った東西約50㎞を底辺とする三角形(図1緑点線)は、「倭人伝」倭(人)在帶方東南大海之中依山島爲國邑~云々や、女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種、其南有侏儒国~云々とされる事とも関連し、半島西沿岸部は帶方郡治下、黄海沿岸部から中国大陸東岸を往来する沿岸航海民の領域、東沿岸部北側は濊人に属すが、挹婁人に属した倭人の領海か、南側だけは倭人海民の領海で、その後裔は旧くから北陸方面へ来港した渤海人(粛慎)等に近い人々だと思う。
 
魋(赤熊・しゃぐま)=赤く染めたヤクの尾の毛、それに似た毛髪。縮れ毛で作った入れ毛。白熊(はぐま)=ヤクの尾の毛。中国から渡来し、黒を黒熊(こぐま)、赤を赤熊(しゃぐま)とする。払子(ほっす)に作り、旗・槍・兜(かぶと)等の装飾用。
日本の中世でさえ、瀬戸内沿岸部は村上水軍の領海とされ、その水先案内なしでは航行できなかった。
渤海人=8~10世紀、中国東北地方の東部に起こった国。高句麗の遺民とも云われる大祚栄(だいそえい)が靺鞨(まっかつ)族を支配して建国、唐から渤海郡王に封ぜられ、その文化を模倣し、高句麗の旧領地を併せて栄えた。727年以来、屡々、日本と通交。15代で契丹に滅ぼされた。都は上京竜泉府(黒竜江省寧安市)以下の5京があった(698926)粛慎(しゅくしん)=息慎・稷慎ともある。中国の古書に中国東北地方の民族とあり、後漢の挹婁(ゆうろう)、隋・唐の勿吉(もっきつ)・靺鞨(まっかつ)は、その後身と云うが確かでない。「欽明紀」佐渡島の北の御名部の碕岸(さき)に粛慎(みしはせ)人有りて~云々とあり、欽明天皇の時に佐渡に来り、斉明天皇の時に阿倍比羅夫が征したと記す。

  1. 2014/07/18(金) 20:36:36|
  2. 2.領域の表記
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◇南加羅

前項で述べた(図1緑点線)付近一帯が、狗邪韓国の比定地ではないのかと云う人も居られるだろうが、倭人東南之大海中~云々とし、帯方郡治下の西沿岸航海に従事した沿岸航海民韓(わぬ)と邪馬壹国伊都国連合に服属した外洋航海民狗邪韓(くぬがわぬ)国以外に倭種として区別した韓国弁韓に服属した海民の弁辰狗邪(くぬが)国、更には九州東北沿岸や日本海沿岸(臺與系?)や四国西北沿岸(壹與系?)にも倭人系海民や蛋民が居り、九州東南岸(宮崎県)には侏儒国があると云う認識が「陳寿」には在ったと考える。
 
image003.jpg私見では、朝鮮半島東南隅と日本海沿岸部、山陰の石見・出雲や北陸(くぬが)の越国方面を往来する倭人海民の拠点で、後代、北陸を拠点とした継体天皇とも繋がる南加羅(下図4参照)で「記紀」任那日本府の領域とも考えられる。
尚、半島東北部の大陸日本海沿岸部に住んだ挹婁人(図2橙点線)は、養豚が盛んで豚を主食とし、豚の皮を着物にした。夏には略全裸で僅かな布だけで前後を隠したが、冬には豚の膏(あぶら)を身体に数センチの厚さに塗って風や寒さを防いだとある。人の少ない東北部の長白山脈や咸鏡山脈等の山に住み、衆は規律に服さず、船が巧みで、屡々、近隣諸国を寇掠したとも記される。おそらく、沿海州南部を拠点として半島沿岸部断崖の陸(くぬが)に上がるか、湾入する海上の家船で住む等、農耕地を持たない彼等も遊牧民と沿岸航海民や漁労民等の交雑種で、前漢の台頭に拠って周辺部に追われた。帯方郡西海岸や韓国南岸部に服属する沿岸航海民や蛋民の州胡等とも同系だが、環境の違いに因り、その生活習慣が変化したと考える。
最後に纏めると、「倭人伝」帯方郡から倭人領域北岸狗邪韓国迄の総距離七千余里と「韓伝」方可四千里との因果関係は無視できないので、帯方郡衙をソウル北側、平壌の開城(ケソン)付近の帶方郡衙から韓国を歴て五千餘里(約315+210餘㎞)程南下後、西南隅の木浦から東へ二千餘里(約210餘㎞)程水行した慶尚南道馬山(瀆盧国?)の対岸付近に到る里程が水行七千餘里(約735㎞)となる。
私見では、狗邪韓国の比定地は半島東南部の現釜山市から40~50㎞程手前の南海に浮かぶ弥勒島や巨済島か、東向きか西向きに突出した殆ど平地のない半島(山島)とする。狗邪韓国~末盧国、伊都国に常治される一大率が検察する瀚海を往来した。
*図3(出所不詳)
 
 
image004.gif2013年8月、滋賀県高島市の上御殿遺跡(BC350~AD300)で、内モンゴル地区の黄河に囲まれた地域(河套)オルドス(鄂爾多斯)辺りの北方騎馬民族が使うものに類似する短剣の鋳型が発見された云う。これなど朝鮮半島東北部から女王国東千余里の倭種の海民に拠ってもたらされたと推測される。詰まり、南沿岸東南隅には、後代、南加羅=金官加羅(慶尚南道金海)と呼ばれた邪馬壹国に服属しない倭人海民の領域があったと考える。
「継体紀」21年夏6月壬辰朔甲午近江毛野臣率衆六万欲往任那為復興建新羅所破南加羅(ありしひから)喙己呑而合任那於是筑紫国造磐井陰謨叛逆猶予経年。「同」23年是月(春3月)遣近江毛野臣使于安羅勅勧新羅更建南加羅喙己呑。喙己呑(トッコトン)は慶尚北道達城郡慶山とされる。詰まり、半島東南隅にも帯方郡や邪馬壹国に服属しない彼等が交易の拠点とした領域があったとして良く、後代、北陸(くぬが)を拠点とした継体王朝と対立した筑紫君磐井等とも関連が在ると思う。(了) *図4(日本の名著「日本書紀」中央公論社)
オルドス(鄂爾多斯)と云う地名は、明代以降、この地に住み着いたモンゴル人部族の「オルドス」に由来する。それより遙か前の旧石器時代から人が住み、特にBC6c~AD2cにかけて遊牧騎馬民族に拠るオルドス青銅器文化(殷の影響?)が栄えた。匈奴、趙、秦、漢によって次々に征服され、南部には万里の長城が築かれた。その後も匈奴系や突厥系等の遊牧民が住み、遊牧民族王朝の遼・西夏・元等、或いは、中華王朝の唐・明等に拠る支配を受けた。
 
 
 
  1. 2014/07/27(日) 11:49:55|
  2. 2.領域の表記
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