見まごう邪馬台国

◇倭の訓は「やまと」で良いかと云う疑問

永遠の謎と思しき命題、大和(やまと)と呼ぶ理由を小学生でも分かる様に説明できるか?と云う友人の問いに対して、幾つかの疑問を取り上げながら私論を述べた後、掻い摘んで分かり易く説明しようと思います。
「大和」と云う表記は、大和朝廷と「続日本紀」等の従四位下大和女王や大和宿禰等の姓氏、大和国添下郡等に使われる地名以外では見えません。古事記(記)では、天皇の和風謚号を大倭(おおやまと)とし、歌謡は「夜麻」=倭と訓じますが、日本書紀(紀)は天皇の和風諡号を大日本(おおやまと)、国産神話で「耶麻(耶)」=日本、もう一つ「景行17年」の歌謡では「夜」と訓じます。「記紀」では、夫々、表記に違いあります。尚かつ、「紀」には「日本」と「倭」でしょうか、二種の「ヤマト」がありそうです。殆どの学者や研究者は取り上げませんが、こうした違いに何ら意味がないとは思えません。
信頼に足ると思しき藤堂明保編「漢和大辞典」に拠ると、葉仮名に使われる漢字音(順に上古音・中古音、以下同)は下記の如くあります。
夜・耶[diag][yia](ヂァッ・ヤ)
麻[mag][ma(mba)](マ/ムバ→ゥバ)*同音「馬」  [muar][mua(mbua)](ムァ/ムブァ→ゥバ)
[təŋ][təŋ](タヌク→タゥ)  [dəŋ][dəŋ](ダヌク→ダゥ)  [dəg][dəi](ダッ→ダィ)*近似音「臺」
 
上記、万葉仮名成立期の漢字音(中古音)に順うと、「ヤ」音は異なる漢字が二種が使われますが、何れも同音です。次の「マ」音は「マ(ムバ)」と「ムァ(ムブァ)」の近似音二種の漢字が使われます。更に、通常、万葉仮名特殊仮名遣い乙音「ト」とされる音には「タゥ」と「タィ」の二系統の音があります。上記、四つを日本語の連声や連濁等、発音上の性質を鑑みて仮名書きにしてみますと、下記の如くなります。*中国音の「四声」は除外
「記」夜麻登(ヤマタゥ/ヤムバタゥ→ヤヴァタ→ヤワタ)
「紀」耶麻騰(ヤマタゥ/ヤムバタゥ→ヤヴァタ→ヤワタ)
「紀」耶摩騰(ヤムァタゥ/ヤムブァタゥ→ヤヴァタ→ヤワタ)
「紀」夜摩苔(ヤムァタィ/ヤムブァタィ→ヤゥバタィ→ヤヴ゙ァタィ→ヤワタィ)
 
上記、前者の三つは「記」山田(やまた)之曾冨の近似音で、丸括弧内唐音では八幡(やわた)の近似音となります。後者の一つは、「ヤムァタィ→ヤマタィ」となり、邪馬臺国の近似音になります。これらを全て同国名として良いのかと云う疑問を持たざるを得ません。これを「ヤマ~」として、語幹「ヤマ」の語義を推測してみましょう。
現代の日本語の音感的には山(やま)を連想します。これは人の住む地域より高く木の生えた鳥獣の住む所等のニュアンスでしょうが、本来、耕作地を持つ農耕民等にとって、己が村に対して他人の村等の彼方側を区別する境界(緩衝帯)で、古来、豊壌をもたらす田の神(タノカンサ)以外は立ち入りできない禁足地だったと思われます。そうした緩衝帯とされた河川を拠点にする河民(河伯)等と同様、狩猟採集民(山民)の住む山地も異界の人々の領域と捉えられていました。詰まり、此方側と彼方側とを分ける境界となり、漢数字八」が持つ語義「分・半・別」と緩衝帯としての間(はざま)を併せた八間(やま)と考えられます。
但し、「記紀」海幸山幸神話等の「ヤマ」は、そうした異界から来た山幸(王族や官人)の影響を受けて海民海幸の領域が分裂する事で、八=分けると[mәg][hai][hai]の上古音「マッ」を併せた八海(ヤマ)=山となります。詰まり、領海や領域を別けたと云う意味を持つ「ヤマ」(緩衝帯)に区画としての「田」や「所」等を付加した「ヤマタ「ヤマトウ」自体が境界を持つ国域や邑域にされたと思われます。では、何を意味するのでしょうか。
 
十七年春三月戊戌朔己酉幸子湯県遊于丹裳小野時東望之謂左右曰是国也直向於日出方故号其国曰日向也是日陟野中大石憶京都而歌之曰、波辞枳予辞和芸幣能伽多由区毛位多知区暮夜摩苔波区珥能摩倍邏摩多多儺豆久阿烏伽枳夜摩許莽例屡夜摩苔之于屡破試異能知能摩曾祁務比苔破多多濔許莽幣遇利能夜摩能志邏伽之餓延塢于受珥左勢許能固
山田(やまた)之曾冨騰=「記」出雲神話で少名毘古那の名前を誰も知らないが、案山子の崩彦(久延毘古)なら知っていると在り、彼は、今に云う山田(やまた)之曾冨騰だと云う。この神は足は行かねども天の下の事を尽に知れる神とする。
唐音=中世12~16世紀頃の南方の杭州音が主な母胎とされる。
邪馬臺国=邪[ŋiăg(yiă)][ie(ziă)]・馬[măg][mă(mbă)]・臺[dəg][dəi]=海人の国を二つに別ける都。
八[puāt][puʌt][pa]=午後三時(八つ時)頃に食べたとされる「お八つ」だが、12~18時、夕餉迄の真ん中とすれば、二つに分ける境界になる。一日を「夜」と「昼」の二つに別ける。正と邪(じゃ→や)に通じる「耶」は漢文では疑問や反語に使われる(正誤)。

スポンサーサイト
  1. 2014/08/01(金) 20:25:52|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇ヤマタノヲロチ

「ヤマ・タ」を海民の領域を別けた事としましたが、丸括弧内の別音を「ヤワタ」とすれば、八(や)・海(わた)ともなります。一方の「ヤ・ワタィ」は、私(わたひ→わたい→わたし/わて)、儂(わし→わい)から「ヤワタィ→ヤ・ワタシ(八渡)」、或いは、「ヤマタィ→ヤ・マテ(八真手)」としても良いでしょう。また、中国語では漢字の音韻が「N→R」に変化する事が在り、そうした漢字が日本語では「N→R→J/Z」とされて、日(にち→じつ)、人(にん→じん)等に変化します。これらを考え併せると以下の如く、ヤ・ワタィ→ヤ・ワタシ→ヤ・ワタジ→ヤ・ワタニ→ヤ・ワタリに転音したすれば、外海の渡海や河川の渡し等との関連が考えられます。
例えば、宇佐八幡宮祭神の「記」神功皇后の新羅征伐では山神と住吉系海神や河川神が援助したとあり、その中、渡屯家(わたりのみやけ)とされた百済(ペクチェ→くだら)の「済=渡す」ですから、「クダラ」は、朝鮮半島から海峡を渡り、日本列島へ南下(くだ)る国(ら)、済州(チェジュ)島も罪人を渡す流罪の島となります。また、「神功記」今より以後、天皇の命随に御馬甘(みまかひ)として年毎に船を雙めて、船腹を乾さず、檝柂乾さず、天地の共與(むた)退む事なく仕へ奉らんと在り、この御馬甘=御馬飼にされた新羅(しるらぎ→しらぎ)にも何らかの意味があります。
例えば、旧く舳先が龍の頭や馬の頭にされた事、古英語では船(mere-hengest)=海の馬とされ、ギリシア神話に登場するトロイの木馬も大きな木船だったと思われます。また、中国南部の沿岸では航海の安全を司る女神を「祖」と呼ぶ事、海[mәg][hai][hai]と馬[mag][ma(mba)][ma]の上古音が近似音にされる事を考え併せますと、草原を走る馬と海原を走る船と云う共通項になります。詰まり、御馬=御船とすれば、朝鮮半島東南部の女王国に服属しない倭人系造船民や外洋航海民の南加羅?が新羅(しらぎ)とも考えられます。
もう一つ、「ヤ・マタ」とすれば、「記紀」出雲神話、神ヤラヒされたスサノヲ(異界からの来訪者)が肥河上の鳥髪地で退治したとされるヤマタノヲロチ(八岐大蛇・八俣大蛇)とも関連が在るのかも知れません。肥河の流れが血に変わる中、大蛇の尾を斬りし時、御刀の刃が毀れたので怪しと思い御刀の前で刺し割いてみると草薙大刀(都牟刈大刀)ありき。異しと思い天照大御神に白し上げ賜いきとあります。その後、スサノヲは大山祇(大山津見)の子脚乳と乳(足名椎・名椎)の娘奇稲田姫(櫛名田比賣)を娶り、「「紀」素戔鳴尊、自天而降到於出雲簸之川上。則見稻田宮主簀狹之八箇耳女子號稻田媛乃於奇御戸爲起而生兒、號淸之湯山主三名狹漏彦八嶋篠。一云、淸之繋名坂輕彦八嶋命。又云、淸之湯山主三名狹漏彦八嶋野を生むとして三つの名前を持たせるが、二番目を「名を繋ぐ」として二系に分裂した事を示唆します。更には「紀」因勅之曰吾兒宮首者、即脚摩乳手摩乳也=勅して曰わく、吾が児の宮の首(おびと)は即ち脚摩乳手摩乳也とあります。
一方、「記」隠所を起こして八島士奴美神を生みますが、同じ大山津見の女神大市比賣を娶り、大年神、宇迦之御魂神を生むとして、士奴美神と大年神(+宇迦御魂神)の二系を示唆します。また、足名椎だけを呼び、我が宮の首たれと名を負せて稲田宮主須賀耳神と號づけ賜ふとします。「記紀神話」ヤマタノヲロチ退治も天照大御神(海幸)と誓約したスサノヲ(山幸)が海の領域を別けた後、出雲に下り、大蛇を退治して大山祇(大山津見)の領域をも分裂させたと考えられます。
次回は、山(ヤマ)と近いニュアンスを持つ言葉、海に浮かぶ島 (しま)は、どんな意味を持つのか考えてみましょう。
 
八真手=真手(両方が揃う)、馬刀貝(まてがい)=遊牧騎馬民が使う直刀に似た形状の貝とも考えられる。
百済(ペクチェ)=多くの部族(百)を済すと云う語義か。また、済(すむ)之江=住之江とも関連が在るか.
「紀」素戔鳴尊所行無状。故諸神、科以千座置戸、而遂逐之。是時。素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國居曾尸茂梨之處。乃興言曰、此地吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時彼處有呑人大蛇。素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰、此地吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。時彼處有呑人大蛇。その子、五十猛神と新羅(しらぎ)に居たとあり、舟に乗って東に渡る。
「八嶋」=八(ヤッ)++山(やま)+鳥(とり)=天之鳥船、嶋[tog][tau][tau]とすれば、ヤ・ヤマタゥ→ヤ・ヤマトとなり、再度、「ヤマト」がヤマト(明日香)とヤマタゥ(飛鳥)に分裂し、山背→山城として平安遷都、一方は東国(蝦夷)へ追われたと考える。
稲田宮主須賀耳神=八耳は「魏志倭人伝」投馬国の官彌彌(メメ→ミミ)と副官彌彌那利(ミミナレ)に関連すると思う。「記」左目を洗うと顕れた天照大御神には高天原を治めよ。右目を洗うと顕れた月読(月夜見)命には夜食国を治めよ。鼻を洗うと顕れた建速須佐之男命は海原(船)を治めよと命じられたが、亡母の山陵のある妣国(黄泉国=夜見)=出雲に行きたいと嫌がり、イザナギ大神に神避いされ、海原(海人の鰐=わに)を失うと川を遡り、出雲へ向かい男系と女系に分裂した。天之忍穂耳命の子、天降りした天孫瓊瓊杵尊(邇邇芸命)の妻大山祇(大山津見)の娘で、倭人磐長姫(石長比賣)の妹木花咲耶姫(木花佐久夜毘賣)は阿利那礼川(水道)を司る。「神功紀」裂田溝(うなて)=福岡県筑紫郡那賀川町安徳・裂田神社とも関連し、治水池(水城)の維持管理をも掌ったと思う。


  1. 2014/08/07(木) 01:18:08|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇「山」と「島」

「島」と同訓、河川の中州(しま)を、漢字の語源から川底に土砂が堆積し、その流域中に存在するものとすれば、河川流域中の緩衝帯で、山と同様の境界になります。表題の「島」の場合、大海上に浮かぶものとすれば、「山」も雲海上に浮かぶと云う共通性を有していますが此方側と彼方側の異界を分ける緩衝帯とした「山」とは違い「島」は海水や湖水に囲まれ、それ自体が別の区画として存在します。どちらかと云えば、海水や湖水自体が緩衝帯と考えられます。そこで少し見方を変えましょう。「記」歌謡の万葉仮名では、何故か、「島」を「斯麻」「志麻」の二種で訓じます。
前者に使われる斯[sieg][siĕ][sï]=こう・この様、此処(ここ)、現世白川静編「字統」机に置いたものを斧で切り分ける。これを万葉仮名成立期の中古音で仮名書きすると、斯(シェ→セ)・麻(マ/ムバ)=シェマ→セマ(シェムバ→セムバ)となります。丸括弧内「シェムバ→セムバ→セバ」は、(セバ)いとする地方も在り、俗世間(シャバ)=現世ともなります。また、「センバ」とすれば、千把(せんば)扱ぎ=歯状のものを間隔を狭めて付けた脱穀用の道具や、船溜りだったとされる地名の船場(せんば)等も堀川に囲まれた狭い区画とすれば、同源かも知れません。
後者、志[tiəg][tʃıei][tsï]=心が向かう所、死者への追善供養、その送物(こころざし)とあります。「字統」指示代名詞の「之(これ)」と同義、その楷書は「士」で心中に在るもの、「詩」は、それを言葉に発したもの。前者と同様、万葉仮名成立期の中古音を併せ、志「チュィェィ→チェィ」・麻(マ/ムバ)=チェィマ→ティマ→チマ(チェィムバ→ティゥバ→チゥバ)、その丸括弧内「チェィムバ→チゥバ」からすれば、房総半島の地名「千葉」は、霞ヶ浦を水道とし、略切り離されていたのでしょうか。また、差別用語とされるチェィムバ→チムバ→チンバ(跛・蹇)とすれば、三歳迄、足が立たない蛭子(ひるこ→ゑびす)=事代主神、山田之曾冨騰(案山子=欠足)の崩彦(くゑびこ)にも関連が在るのかも知れません。
前者は切り取られて狭間(セマ)い事、後者は同様に小間(チマ)い事、何れの場合も大きな領域に周りを囲まれた状態になります。序でに、島の浮かぶ海と山を繋ぐ河川がカハ→カワとされた理由と、その意味を考えてみましょう。
例えば、魚河岸(うほかし→うをかし)を海洋や河川の漁師が獲った魚を海岸や河岸に水揚げし、その場で物々交換したり、売ったとすれば、手前の此方(こっち)を河岸(こし/かし/きし)とし、向いの彼方(はち→あっち)を端岸(はし)として区別したのでしょう。後代、両岸を橋(はし)で繋ぎ異界の地と往来が始まると「カシハシ→カッハッ→カハ」と呼ばれましたが、日本語では「H」音がK音化したり、無声音化し易いため、「カハ→カゥア→カワ」と発音されたと思います。
古今東西、緩衝帯としての「山(森林)」と同様、異界とを分ける境界「河川」は、此方側の河岸も水量によって曖昧な緩衝帯としての河原があり、その流れを介した彼方側の河岸(はし)は、異界の地でよく分からないと云うニュアンスになり、此岸(現世)ではない彼世(あのよ)への彼岸(ひがん)とされます。万葉仮名「か」には河[ɦar][hə][ho]と同音「何」も使われるので、おそらく、疑問詞「か」の語源([ɦar]ファゥ→ファッ=what?)と考えられます。
また、湖岸や海岸の「浜」は河川に拠って運ばれた土砂が波打ち際に寄せられた堆積地で、陸地と水域と云う別の領域に挟まれて流水や波浪に洗われる曖昧な緩衝帯で狭間(はざま)となります。おそらく、端間(はしま/はたま)→始(はじめ)/初(はぢめ)→発(はつ)→八間(やま/はちま)→浜(はっま→はま)と転音し、派生したと思われます。
 
之[tiəg][tʃıei][tsï](これ)=多数の中から一つを切り取って選ぶとすれば、範囲を狭めて小さくする事に繋がり、所有「の」も切り取って個として示す。
「チマ→コマ→クマ」と転音し、緩衝帯の山と山に挟まれた谷間の狭隘な土地や深く入り込んだ湾奥を意味する「隈」「隅」となる。また、「チマ→チバ→キバ→キハ(際)」ともなる。*牙(きば)も口唇の際から突き出た犬歯
河岸(こし)=越前(福井県東部)や越後(新潟県)と越中(富山県)等の北陸三県を越(こし)国とする理由は、大陸の粛慎や渤海の海民が移り住んだ此方側で、「越」の字を使う理由は大陸南部に居た粤(ヱツ)人と同様、近畿から見て、立山連峰等を越えた国となる。


  1. 2014/08/15(金) 11:09:03|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇「海原」と「天空」

序でに、同訓「あま」を持つ「海(かい)」と「天(てん)」との関係と語義を考えてみましょう。例えば、後者を古事記歌謡では、「阿麻(あま)」と「阿米(あめ)」の二種で訓じます。これと全く同訓の漢字に「雨」が在ります。
天空の雨雲(あまぐも)から地上に降る雨滴(あまつぶ)を傘(あまがさ)や合羽(あまがっぱ)で避けます。詰まり、雨水の状態として形容する場合、「アマ」となりますから、陸上とは異界の水上として海(アマ)と呼んだとすれば、河辺に係留した家船に住む河民と同様、海中に潜る人や海上を移動する海民も陸地で耕作する人々にとって異界の他者と云う認識だと思われます。その訓音の成り立ちは、青海(あふま→あうま→あま)に転音したと考えられます。
一方、春雨(春のあめ→春しあめ)、秋雨(秋のあめ→秋しあめ)、霧雨(霧状のあめ→霧しあめ)、雷雨(かみなりあめ)、篠突く雨(しのつくあめ)、横なぐりの雨等、降っている雨水の状況や状態を形容する場合、「アメ」とされます。
例えば、豆汁(あめ)=大豆を蒸し煮した時の出汁で味噌・醤油製造の副産物。豆腐の原料や染物・油絵の彩料に用いる大豆(ミァメ→マメ)を水に浸し、磨り潰した汁=汁(ごじる)とあり、天智天皇(天之命開別/あめのみことひらかすわけ)が白村江へ救援に向かった百済(ペクチェ)は呉音の漢字を使ったと云われます。また、海(うみ)が「アメ」とされない理由は人間の糧となる魚海類、若布や昆布等の海草類、必要不可欠なミネラル「塩分」を生む生産(うみ)の場と考えます。
尚、汽水域とは、淡海(あふみ→あはみ→あわみ)は河口や江湾の入口に砂州等ができて海水の流入が減少した状態になります。海水(あま)と淡水(あふみ→あうみ→おうみ)との境(緩衝帯)で、その上層に淡水、下層に塩水(潮)が合わさります。詰まり、琵琶湖は淡水湖ですから、近江(おうみ)の語源を淡海(アフミ)とするのには疑問が在ります。
例えば、琵琶湖西岸の滋賀県大津市大谷の逢坂(あふさか→おうさか)は南北から延びた街道が登った山手で合流する地点に位置します。淡海も逢水(あふみ→おうみ)となり、現在の遠州灘とされる遠江(とふつうみ→とをとうみ)は、木曽川や揖斐川の伊勢湾奥(南朝系)、大阪湾奥の淀川流域大阪市付近の低湿地帯(北朝系)が、淡海→近江とすれば、大和朝廷のからの距離感や畿内(西国)と蝦夷(東国)と云う関係性の違いに拠って分けられたと考えます。
最後に、雨(アメ)と天(あまつ)神との関連を簡単に述べますと、「記紀」高天原(彼世)の天照大御神に大国主神が国譲りした葦原中国の一部「出雲」はヤマト(豊葦原瑞穂国)の穀物(米・粟稗)を実らせる恵みの雨(あめ)を降らす雲を生む国、天下=地上(此方=現世)を統治する(潤す)天之(天孫)を産む皇后(=紫雲)となります。
尚、「紀」神功皇后の新羅討伐では風神は風を起こし、波神が波を起こし海中の魚が悉く浮かんで船を扶けました。即ち大きな風が追風となって船は波の流れに乗ったのです。楫(かい)を使わず新羅(しるらぎ→しらぎ)に到った~云々。おそらく、天磐船(あまのいわふね)=南風に吹かれて北上した南方系漢民族(水耕稲作民)を伴って船に乗ってで渡来した海民系(アマ)=磐と天之鳥船(アメノトリフネ)=山背に吹かれ、朝鮮半島を経て南下してきた百済(渡屯家)と云う関係になります。
天皇の皇后だった皇極(斉)天皇が産んだとされる二人の皇子、大海人皇子(おおあまのみこ)は、12~16世紀頃、南中国の杭州で使われた音が母胎の唐音と関わりが深い新羅系で、中大兄皇子(天之命開別・あめのみことひらかすわけ)は呉音との関わりが深い百済系で、後にも先にも漢風諡号「天」が使われる天皇は、この二人しかいません。
 
黄牛(あめうし)=澱粉や米・甘藷(かんしょ)等の澱粉含有原料を麦芽で糖化させた甘味(あまみ)のある淡黄色や褐色の粘質食品の飴(あまぃ→あめ)の色からだろうが、網・羅(あみ)、浴(あ)み、醤蝦(あみ)等、区画が増える事、広がっている、爆発的に増殖する状態だとすれば、伸び広がる事か、畳み捏ねる事や編む事に関係するか。
生産(うみ)=海が糧を生んでくれる事で、それ内包する状態として熟む・膿む等も同源、客観的な場合、生(あれ)るとする。
大海人皇子(天武天皇)=天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)は、唐の後盾で半島を統一した新羅(シルラ)の男系が唐の王族(男系李氏)に追われて北部九州に渡来、新羅(しるらぎ)と呼ばれた人々に近い縁か。

  1. 2014/08/22(金) 14:59:25|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇「台」と「臺」

「紀神代上」興台産靈には、「台=乙ト」に使われます。但し、橋本進吉氏の著作『古代国語の音韻に就いて』の万葉仮名類別表「乙ト」には「興台産靈」に使われる「台」は見えませんが、文献上、万葉仮名として使用例のない「臺」は同氏の著作集3『文字及仮名遣の研究』の分類表「乙ト」に追加されたとあります。また、有坂秀世氏の「古事記」「日本書紀」「万葉集」に使われる仮名に就いて『上代音韻攷』分類表「乙ト」に「台」はありますが、「臺」は見えません。
古田武彦氏は著書『「邪馬台国」はなかった』で既に「臺」と「台」は別字である事を指摘しています。また、安本美典氏も、それは認めているものの「臺」は「乙ト」とします。その理由は、先の「景行紀」歌謡の夜摩苔波区珥能摩倍邏摩から「苔」は、「乙ト」であり、「臺」と上古音、中古音も同じであるからとします。
安本美典氏が同音とする二つの漢字、苔・臺[dəg][dəi][təi]と、問題の台[təg][təg][tai]は、何れも上古音では、略同音の「テァッ→タ」ですが、前者の場合、万葉仮名成立期の中古音「デァィ→タィ」に変化します。こうした微妙な違いが上代特殊仮名遣い「甲ト」と「乙ト」に繋がるのかも知れません。ただ、同音異字の漢字は多くあります。「臺」「台」が別字だとしても意味もなく近似音にされたわけではなく、通底する基礎語義が在るからだと思います。
藤堂明保編「漢和大辞典」に拠ると、台(ダイ/タイ)=四方を観望できる様に作った高い土壇・建物・高殿(うてな)。人や物を載せる台。食物・飯、平たくて高い土地、物事の元となるもの(土台)、中央政府の官省・弾正台。大型の家具や楽器、車や機械等を数える語。印刷や製本で16頁・32頁を一纏まりとして数える語。年齢や物の値段等、それを単位に区切れる範囲を示す語。相手への敬称・皇族・貴人への敬語とあります。*「台」の異音[diəg][yiei][i]=一人称代名詞、怡ぶ。
一方、「臺」=高い土台や物を載せる台、見晴らしの利く高台とあり、白川静編「字統」に「台」は異字で、厶(耜の象形)+口(祝禱を治める器)→耜を清める儀式を表す在ります。但し、台」の旧字「臺」=土+高+至、版築で土を高く突き固めた段上に高殿を設けた見晴台とも在り、「苔」と「臺」の基礎的な共通項は、表面上に広がる事、基本から一段高い事とすれば、「台」が「臺」の略字とされた理由は、土を起こす耜を清める儀式をするための土段と意識されたとも考えられます。
本来、「倭=やまと」ではないが、そう読まれる様になったとする研究者や論者もいます。彼等の説で、邪馬臺(邪馬台)と記述された国が「やまと」と読む、読まないと云う以前の問題として、後の大和朝廷と密接な関係にあるとしたいのだと思います。尚、上掲、「興台産靈」の漢字音は、興[hıəŋ][hıəŋ][hiəŋ]・台[təg][təg][tai]とあり、日本書紀成立期の中古音を併せますと、ヒァング・テァ→ハヌグ・テァ→ハヌグ・タとなります。また、但し書きには万葉仮名に拠る訓音が「許語等武須毘」と在り、その漢字音は以下の如くなります。
許[hiag][hio][hiu](虚) 語[ŋıag][ŋıo][iu](御・馭) 等[təŋ][təŋ][təŋ](登)
武[mıuag(mıuo)][mıu(mbıu)][wu](无・無) 須[ŋiug][siu][siu] 毘[bier][bii][p`i]
 上記と同様に中古音を仮名書きすると、ヒォギォタゥミゥシゥビィ→ホゴタゥムスビィ→ホゴトムスビですが、使われる漢字の喉音「H」は閉口(ウ)したり、K音に変化し易いので「コゴトムスビ」、「台」の訓音を「ト」にしますと、ハヌグテァ→カヌグタ→カグト→コゴトとなります。何故か、「記」夜麻登の「登」と同音異字「等」が使われる。「等」=同類や同質のものの集まり、一方、同音「登」=他と比べると高くなる→飛び抜けると云う語義の違いが、その理由かも知れません
 
「臺」=丸括弧で括られており、その後尾の刊行委員附記に、橋本博士は後に増訂した一覧表を『古代国語の音韻に就いて』の巻末に附けられた。「今、それと対照し、増補せられた部分を括弧に括って追加する」と書かれてある。
「タ」=D音はT音を強く発音すると云われる。例えば、道(どう)は、現在の北京音[dao](タォ)となる。

  1. 2014/08/29(金) 13:30:01|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇倭(わ)と倭(やまと)

「やまと」を「倭」と書く事に就いて「邪馬台」と云う領域の成長から捉える見方もあるようです。倭国の畿内にあった小さなヤマト(邪馬台)が大きく成長、倭国自体をヤマト(邪馬台)と呼ぶ様になり、「倭」が「やまと」になったというのものです。これは邪馬台国畿内説や東遷説にとっては一般的な考え方とされます。ただ、中国正史では、都の名が国の名になった例はないとも云われています。
「魏志東夷伝倭人条」倭国女王卑弥呼の都を邪馬壹国、「隋書」俀国(倭国)の都を邪靡堆とし、「魏志」の云う「邪馬臺」と書き分けています。「記紀」はどうでしょうか。「記」の「倭」は全体を指すが如く見えるものもありますが、殆どが人名や大和地方、大和中の一地域を指す場合に使用されます。「紀」は全体を指す場合、「日本」を使用する事が殆どで、「大倭」は少ない様です。また、「倭」は、大和か、大和の中の一地域を指す場合に使用されます。詰まり、何れも小さなヤマトも既に「倭」であり、小さなヤマトの成長した姿が「倭」とはされませんので、邪馬台が成長して「倭」になったというのは邪馬台を畿内ヤマトとする思い込みの産物でしかないとする論者もいます。
先述した様に領域の拡張や都名が国名になった例はない等と云う前に、「ヤマト」と云う音に対して、「記」夜麻登、「紀」耶麻騰(耶摩騰)と夜摩苔の二種とし、「紀」で全体を指す場合でも「日本」と「大倭」の二種にされる事を鑑みると、「紀」の二者は同一国名ではないとせざるを得ない事の方が重要だと思います。今一度、上記、万葉仮名に使われる漢字の上古音・中古音を提示しておきます。
 夜・耶[diag][yia](ヂァッ・イァ→ヤ) *邪[ŋiăg(yia)][ie(zia)](イエ→ヤ/ジァ)
  麻[măg][ma(mba)](マ/ムバ→ゥバ)*同音「馬」 摩[muar][mua(mbua)](ムァ/ムブァ→ゥバ)
  登[təŋ][təŋ](タゥ) 騰[dəŋ][dəŋ](ダゥ) 苔[dəg][dəi](ダィ)*同音「臺」
 
また、「魏志」女王国の都「邪馬臺」と「隋書」俀国(倭国)の都「邪靡堆」の漢字音は下記になります。
 邪馬臺=邪[ŋiăg(yia)][ie(zia)]・馬[mag][ma(mba)]・臺[dəg][dəi]
  邪靡堆=邪[ŋiag(yia)][ie(zia)]・靡[mıər][mıe(mbıa)]・堆[tuər][tuəi]
 
上古・中古音に拠ると「イエマダィ→ヤマタィ(ヤムバタィ)」「イエミェツェイ(イエムビェツェイ)→ヤメティ(ヤムベティ)」になります。本当に、これも同名称かと云う疑問を持ちます。また、「漢和大辞典」俀(タイ/よわい)は見えませんが、日本語の音「タイ」からすれば、堆(タイ)に近い音でしょう。*俀[tuĕi][tui]?
述べてきた様に、態々、同音の仮名に異漢字を使用したり、同音なのに仮名として使われない理由も在ると思います。詰まり、読む、読まない等と云う前に「やまと」と云う和訓に「倭」「日本」「大和」等の漢字を用いた理由や、略同音の漢字で訓じられる「やま」に対し、「乙ト」とされる漢字音に「タゥ」と「タィ」の二系が使われる理由を云々すべきだと思います。その理由も解らず、「倭」「日本」「大和」を同国名として疑わない事こそが問題なのではないでしょうか。
残り少ないので、詳細は次回になりますが、孝霊天皇皇女「紀」倭迹迹日百襲姫、「記」夜麻登登母母曾毘賣とあり、「紀」崇神天皇説話御諸山の大物主神(大蛇=ヲロチ)と交わりますが、その姿に驚いた姫に対して、神は恥辱を加えると云って去る。後悔した姫が急居した弾みに箸で御陰(みほと)を突いて身罷(みまか)る。「記」は、その説話を記載しませんが、裾に付けた麻糸が三勾(みわ)残ったので「美和」と呼び、その後裔「意富多多泥古」を神君・鴨君祖とします。上記、「紀」の死亡原因から御陰(みほと)を焼かれて神避(かむさり)した伊邪那美(伊奘冉)と同様、母性の機能を失う事=神避りして巫覡として転生します。それを示す様に姫に神憑りして、「紀」大田田根子に我(大物主神)を祀らせよと啓示します。
 
御諸山=宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の東南方面に在る御許山(みもとやま)かとも云われる。
多[tar][ta][tuo]=タと田[den][den][t`ien]=テヌ→タゥで、こうした違いが「乙ト」に繋がるかもしれない。
 

  1. 2014/09/06(土) 09:31:59|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇大和の音構成は「ヤマ・ト」「ヤ・マト」「ヤ・マ・ト」の何れか?

前回、提示した孝霊天皇皇女「紀」倭迹迹日百襲姫と「記」夜麻登登母母曾毘賣に使われる上古音と中古音は以下の如くなります。
倭[・uar][ua] (異音 倭・委[・iuar][・ıuē])
迹[tsiak][tsiɛk](チァッ→タ/ッセァッ→ッサ) 訓「あと」 *「タ」とすれば甲乙の違いは無い
登[təŋ][təŋ](タゥ→ト)
日[niet][niēt(rıĕt)](ニェッ) 訓「ひ」
百[pak][pʌk](パッ) 訓「もも」
母[muəg][məu(mbəu)](マゥ→モ)
襲[diep/yiep][ziep](デフ/ィイェッ・ゼフ) 訓「おそふ→ッそぅ」
曾[dzəŋ][dzəŋ]=ゼゥ(ソゥ)
 
「紀」夜摩苔(倭)として字音字訓を併せ訓じると、「紀」倭迹迹日百襲姫「ヤムァタィ・ァトァトヒ・モモゼゥ」となります。一方、「記」夜麻登登母母曾毘賣「ヤマタゥ・タゥマゥ・マゥゼフ→ヤマト・トモモゾ」=夜麻登・部・母祖を同一人物とすれば、前者の「倭」=夜摩とし、「ヤムァァト・ァトモモゾ」=夜摩迹・部・母祖とせざるを得ませ。これが正しいとすれば、何れの「ヤマ」にも略同音の漢字が使われる理由が解ります。
異漢字を用いた理由は「紀」漢音と「記」呉音に拠るからとするのでしょうが、態々、訓音の「百(もも)」を「母母」、同「襲(おそう→ッそぅ)」と曾(ソゥ)とする必要はないでしょう。また、その皇女の妹とされる「紀」倭迹迹稚屋姫と「記」倭飛羽矢若屋比賣と在り、その漢字音は下記の如くなります。
迹[tsiak][tsiɛk](チァッ→タ/ッセァク→ッサッ) 訓「ぁと」
飛[pıuər][pıuər](ピゥァ→プァ→ハ) 訓「とふ→とぅ」
羽[ɦıuag(ɦıuo)][ɦıu](ヒゥァッ→ファ/フィゥォ→ヒォ・フィゥ) 訓「は」
矢[thier][ʃıi](シュィ→シ) 訓「や」
稚[dier][dıe](ヂェ→デ) 訓「わき」
若[niak/niag][niak(riak)/nia](ニァッ→ナ) 訓「わき」
屋[・uk][・uk](・ウッ) 訓「ィア→や」=家
 
前述に順い両者とも、倭迹(ヤムァァト)、倭飛(ヤムァトフ→ヤマトゥ)として字音と字訓を併せて訓じると、前者は「紀」倭迹迹稚屋=ヤムァ・ァトァト・ワキア→ヤマ・タタ・ワケ(耶麻父別)、後者は「記」倭羽矢若屋=ヤマトゥ・ハヤ・ワキァ→ヤマトゥ・ハヤ・ワケ(夜麻登速別)となり、姉系統の分裂を示唆するとも考えられますので、「記紀」が夫々を異漢字で記した理由を精査すべきでしょう。
後者の「ハヤ」は「紀」速素戔嗚尊、「記」建速須佐之男命、水戸神速秋津日子と速秋津比賣等の「速」で、八万神に山から吹き下ろす山背風で神避いされたスサノヲは、出雲の肥河上ヤマタのヲロチを退治すると、倭人の領域が「夜麻登」天照大御神と、「耶摩騰」速須佐之男命+「夜麻苔」名田比賣の二系に分裂、「記紀」の時系列は前後しますが、南風(速)に乗り、高天原(やま)に舞騰ったスサノヲが天照大御神とのウケヒ後、その勢いに圧された天照大御神(+思金神)は天之岩戸に籠もった後、天磐船に乗って東上(飛鳥)、大阪府河内郡付近に天降り、日の昇る東、日下(ひのもと→くさか)と称します。
それがため「記紀」海民豊玉姫と山民山幸彦(山幸毘古)の離縁後、妹玉依姫を御子の乳母(後妻)として送り、女系豊玉姫(+父系豊玉彦)と、山幸彦(父)+御子葺不合+玉依姫(養母→妻)の二系に分け、倭人の国が海民の国(大海上の島)と海民+耕作民の国(雲海上の島)とされ、夫々が前出の「ヤマト」三種になります。また、スサノヲの娘須世理毘賣を背負い木の国から出て行った倭人海民大国主神と、スサノヲの婿の葦原色許男と海民櫛名田比賣の二系に分裂、更には「記紀」葦原中国が事代主神(出雲大国)+天神系建御雷神(豊葦原水穂国)=北朝系と山津見系建御名方神(科野)+八坂刀賣(山背大国)=南朝系の二系に分裂する事も「ヤマ」と呼びます。
鳥とは大海上を走る船に対し、雲海上を走る(天之鳥船)で、雲海上の山頂の如く瀬戸内海上の大三島宮浦(愛媛県今治市)に鎮座する大山祇神社本社が山神にされる事と、海人綿津見に安曇系と穂積系がある理由と思われます。
 
父(ちち)=旧くは「トトサマ→タタサマ」とされた在る。また、「耶麻・手・足・別」「耶摩・足・別」とすれば、手足=船の漕ぎ手か。「記紀」櫛名田比賣(奇稲田姫)の親、足名椎(足摩乳)手名椎(手摩乳)、「可美真手命」等と関連する。「記」吉備津日子命(他二名)を産んだ皇女二人の生母の「紀」別名絚某姉(はへいろね)、妹の絚某弟(蝿伊呂杼/はへいろど)も娶り、「記」建吉備津日子命(他一名)を産むと在り、大国と若国の二系に別れた。
誓約(ウケヒ)=スサノヲは三女神(宗像大社)、天照大御神は五男神(出雲の天五神と同体?)と、対立した性の神を得たとされるので、神道的に云えば、夫々が、巫覡として祖神として祀ると考える。
 
日下(くさか)=太陽の日とは別字、太陰の月と同音「曰(ひらび)」に関連し、「魂魄」=精神を司る魂と肉体を司る「魄」が在り、後者は、陰陽五行説では東南「四木星」で宿り、赤子(蛭子)の足が立つと云われる。
「記」神武東遷、亀の甲羅に乗り、釣りをしつつ羽擧(はぶ)き来る人と速吸門で出遭い、棹を差し渡して御船に引き入れ、槁根津日子(さをねつひこ)と名付けた。倭国造等祖とある。亀が手足(船の櫂?)を鳥の如く動かす様子を「ハブク」とする。「紀」出雲国譲条、之碕、以釣魚爲樂。或曰、遊鳥爲樂。故以熊野諸手船、亦名天鴿船と在る。
大山祇神社=元国幣大社。祭神は大山祇神。伊予国一の宮。大三島神社、三島大明神、重要文化財の甲冑約7割強を所蔵。
 

  1. 2014/09/12(金) 23:02:29|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇東漢氏

「隋書俀国(倭国)伝の証明」の著者矢治一俊氏は、【『日本書紀』等で「やまと」と訓じられる漢字には、「東」「倭」「委」「日本」と、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」、651年の元興寺塔露盤銘「令作奉者山東漢大費直名麻高垢鬼、名意等加斯費直也、書人百加博士、陽古博士。丙辰年十一月既、爾時使作金人等、意奴彌首名辰星也、阿沙都麻首名未沙乃也、鞍部首名加羅爾也、山西首名都鬼也」と在り、「山東漢」を『日本書紀』の「東漢」「倭漢」と同姓氏としています。
また、「日本書紀の謎」の著者森博達氏は、日本書紀(紀)の記事をα群とβ群に分け、α群は中国人が書き、β群は日本人が書いたものとします。東漢氏は、6世紀末の雄略紀・欽明紀・敏達紀のα群、倭漢は、7世紀中期以降の皇極紀のα群と応神紀・推古紀・天武紀のβ群にあります。詰まり、「東漢」は6世紀末のα群、「倭漢」は7世紀中頃のα群と、応神紀・推古紀・天武紀のβ群にあります。この事から日本人の主張がはいるβ群は全て「倭漢」で統一され、中国人が書いたα群は6世紀末の敏達紀迄は「東漢」で、7世紀中頃の皇極紀からは「倭漢」である事が判り、「やまとのあや」は6世紀末~7世紀中頃迄の間に、東漢→倭漢に変化した事を意味するとします。また、「東漢」は「山東漢」の「山」が省略されたものだから、山東漢→東漢→倭漢と変化したと事になり、「やまと」と読む最初の漢字は「山東」だった事になると云います。
上記の如く皇統に拠って「紀」の記述にα群の二系とβ群と云う用字の変化があったと云う事が、私説の三種(或いは、四種)の「やまと」と繋がるのだと思います。ただ単に為政者が代わっただけではなく、その度に採用する文官が用字法を変える理由や、その意味を理解する必要があり、夫々に独自の主張を織り交ぜて編纂された史書が一つに纏められたと考えられます。
>「やまと」は『日本書紀』では「東」「倭」「委」「日本」~云々。述べてきた様に、これらの全てが同訓同義として良いのかと云う疑問があります。況してや、「山東」の山を省略した「東」も同義だとすれば、「ヤマ」≠山で、偶々、山の東側だったから「山」の字を充てたとも云います。】
例えば、東[tuŋ][tuŋ][toŋ](トゥ)は、「乙ト」登[təŋ][təŋ](タヌク→タゥ)、騰[dəŋ][dəŋ](ダヌク→タゥ)等と近い音「トゥ」なのは注目すべき事で、太陽の昇る東と饒速日命や神武の東遷との関連を無視できません。
>中国人が書いた6世紀末のα群は敏達紀迄は「東漢」で7世紀中頃の皇極紀からは「倭漢」である事が分かる~云々。例えば、「魏志倭人伝」倭人在帶方東南大海之中。依山島爲國邑。舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國と云う記述からすれば、旧百余国中、漢の時、朝見する者がありました。今、通訳を使い通う所三十国となり、旧くは漢語が使えましたが、今は通訳者を伴うと読めますから、これも為政者の入れ代わりを示唆します。おそらく、漢の属国とした金印「漢委奴国王」を授かった当時の倭人海民(磐→鰐)は漢語を理解した南中国(呉音)系の人々で、そうした彼等が邪馬壹国の通訳を担ったと思われます。
その漢字音、漢[han][han]、委[・iuar][・ıuē]と奴[nag][no(ndo)]を併せると、ハヌ・ィゥアナグ→ハヌ・ィワナグ→ハニワナッ(埴鰐)となり、「記紀」大山津見(大山祇)の娘石長比賣(磐長姫)、竺紫君石井(筑紫君磐井)や「紀」海民熊鰐と「紀」神武東遷の水先案内倭直部椎根津彦、「記」倭国造等祖槁根津比古にも関連がありそうです。前者、倭[・uar(・iuar)][ua(・ıuē)]、直[dıək][dıək]、部[buəg][bo(bəu)]を万葉仮名成立期の中古音と和訓を併せて仮名書きすると「ヤマ・ティェッ・ブ→ヤマ・タ・ブ」ですが、漢字音だけで訓じるとは、ィワタブ(磐田部)→ワタブ(渡部→海部)と訓めます。
 
山東=「紀」倭迹迹百襲姫、「やまと」=山跡、山常([dhiaŋ][ʒıaŋ])等と漢字表記され、山がある処、山に囲まれた処を意味したされるが、海民とも云われる倭(ワ→やまと)、東(あづま・やまと)を説明できない。
鰐(わに)=倭人→人[nien][niĕn(rıĕn)][rıən]とすれば、「ィワニヌ→ワニン(ィワゥリェヌ→わじん)かも知れない。
国造(こくぞう)=「記紀」神武東遷説話「是排別之子排別此云飫時和句(石押分子)、此則吉野国樔(吉野国樔)始祖也。国樔部(くずべ→くずら)=国造(クゾゥ→くず)→狗奴(クドゥ→クダ)羅かも知れない。
磐田部=磐(イパ→イハ)=「ipa → ihua → iua」と転音した。現日本語の漢字音は主に上古音と中古音に近い音が使われる。上記が正しいとすれば、既に、「記紀」の完成時期、磐(イハ→イワ)とされており、これも室町期の成立とした理由の一つ。

  1. 2014/09/21(日) 22:17:52|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇山東と山西

 ◇山東と山西

前項の「元興寺塔の露盤銘」山東漢大費直名麻高垢鬼 名意等加斯費直也 書人百加博士 陽古博士~云々、山西首名都鬼也と云う記述から矢治一俊氏は、以下の如く説明しています。

【「山東」の他に「山西」とも在り、これは「かふち(かわち)」と訓じる。「やまと」と「かわち」の両方に関係しているのが、饒速日命~(中略)。この話が何処迄信じられるかという問題もあるが、これに続くイワレヒコの「やまと」東征に拠り、「やまと」の歴史が始まっているので、全く無視するわけにもいかない~云々。このニギハヤヒの事件を倭人の「かわち」「やまと」への移動の記録と見ている。

ニギハヤヒは「かわち」に到着、その後、「やまと」に移った。「かわち」が先だったから山の東にある地は「山東」と書かれて「やまと」~云々。「山西」として「やまにし」と読まずに「かわち」と読むのは「かわち」という名が「やまと」より先に存在していた事を示すものであり、「やまと」は「かわち」側から見て生駒山地の東にあったためつけられた名であるという事ができる。】

 

>「山東」の他に「山西」とも在り、これは「かふち(かわち)」と訓じる。>「やまと」は「かわち」側から見て生駒山地の東だったため付けられた。「やまと」と「かわち」の両方に関係しているのが~云々。先に、偶々、山の東だったかも知れないとしました。『先代旧事本紀』正哉吾勝々速日天押穂耳尊の子饒速日命は天磐船で河内の哮峰(たけるがみね)に天降った後、大倭(やまと)の鳥見の白山に遷ったと在り、最初の山に天降った後、再度、違う山に遷った事になります。生駒山地は、何れの山なのでしょうか。

>この話がどこまで信じられるかという問題もあるが~云々。「日本書紀」の担い手が代わっているとすれば、夫々には彼等の主張があり、何れも無視できないでしょうし、その違いこそが重要でしょう。

「ヤマ」を己が世界と異界を別ける緩衝帯としましたが、カファチ(kahuati)→カワチ(kauati)の語義は何でしょうか。例えば、「山東」に倣い重箱読みすると、「漢和大辞典」西[ser][sei][siəi]と在り、ヤマセ(ヤマセィ→ヤマシ)となります。更に漢字や訓音から「山西」=河内(カワチ)→河地とすれば、当初、西側は大道(瀬戸内水道?)、東側は河地(石川?)だったのかも知れません。また、山背(やませ)を春夏に山側から吹き降ろす風とすれば、「記紀」スサノヲが高天原()にる南風(はや)とは逆風で、いて神ヤラヒされた京都の八坂神社に祀られる牛頭天王(スサノヲ)や大国主神と、その娘須世理毘賣(八坂姫?)にも繋がると思います。*山背羅(やましろ)=山代→山城

上記の如く、饒速日命は天船に乗り、河内の哮峰(西山)に降臨後、大倭の鳥見の白山(東山)に代えたとすれば、山西(カフチ)は後の付会でしょう。また、「倭」「委」を磐(石)=「ィワ」とした事、天磐船に乗った饒速日(にぎはやひ)と、天之鳥船に乗った神倭磐余彦(伊波禮毘古)の東遷を太陽の昇るへ向かう事とすれば、ナガスネヒコの日下(くさか)→日本(ひのもと)との関連を無視できません。

西の山哮峰に天降った後、東風(こち)が吹いて山西(河内=こち→かち)に雨(あめ/あま)が降り、饒速日尊後裔大物主神(足の立たない八重事代主神)は、東の山鳥見の白山頂から葦船(あしふね)で川を流れ下り、河外(こと→かた)=事(許登)=筑琴へ遷ったとも考えられます。

「紀」国譲りした都美波八重事代主神(蘇我氏?)と三島溝橛耳神の娘玉櫛姫に産ませた五十鈴媛命、「記」美和山大物主神(物部氏可美真手命?)と三島溝咋の娘野神勢夜蛇多良比賣に産ませた伊須須岐比賣→伊須気余理比賣を東遷した神武天皇正后として繋がったと考えます。

 

「紀」長髄彦乃遣行人言於天皇曰嘗有天神之子乗天船自天降止号曰櫛玉饒速日命(饒速日此云爾芸波揶卑)是娶吾妹三炊屋媛、亦名長髄媛/鳥見媛、遂有児息名曰可美真手命(可美真手此云于魔詩莽耐)~。真手=足が立たない事代主神と同体か。
中国思想の風水に拠る四神相応の地=東に流水(石川?)、西に大道(瀬戸内水道)、南に汙地(くぼち)、北に丘陵(大山古墳?)。また、蘇我氏は河内から奈良県桜井市付近を根拠地とした云われ、蘇我氏祖石川宿禰や倉山田石川麿等とも繋がる。
出雲大社から中国山地を東側に出雲神社(清水寺・蓮花寺)が横断し、京都府亀岡市で「出雲大神宮」とされる。その北西側、酒呑童子の伝承で有名な京都府加佐郡大江町内宮と天田内には元伊勢宮とされる皇大神社と豊受神社がある。*豊=臺與
磐(いわ)=磐(般+石)とすれば、般(まだら)と在り、白黒(雌雄)の石となる。
都美波(摘み端)」=トゥムィバ→チンバとすれば、三歳迄、足が立たない(跛・蹇)蛭子神と同体だとされる理由も分かります。

 


続きを読む
  1. 2014/09/27(土) 10:07:29|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇東(あづま)と山東(ヤマトゥ)

 ◇東(あづま)と山東(ヤマトゥ)
矢治一俊氏は、>元興寺塔の露盤銘と日本書紀から「山東」が「倭」の訓みになったとしますが、「山東」を山の東側と云う語義とし、その「山東」と云う言葉から「山」を省略した「東」、更には「倭」「日本」等も同訓の「ヤマト」だと云う。私見では、これら全てを同訓同義として良いのかと云う疑問があります。
山東(ヤマトゥ)として「記」夜麻登(倭)と「紀」耶麻騰(日本)の「乙ト」=タゥと東[tuŋ][tuŋ][toŋ]の漢字音は「トヌク→トゥ」とは近い音になる事は注目すべきです。先述した安本美典氏は、倭と邪馬台の結びつきが密接であり、「日の下のくさか」「飛ぶ鳥のあすか」「春日のかすが」等の枕詞と同様、倭の邪馬台となり、「倭」を「やまと」と読む様になったのだろうとします。先の矢治一俊氏は、>邪馬台は倭国中の一国であり、倭の邪馬台としても倭の中の邪馬台の意味となり、「倭」は枕詞にはならない。また、『古事記』初期天皇名には「倭」「大倭」がつくものが多い。これは天皇家が倭人の血を引くものである事を示したいからだとみる事ができる。また、>イワレヒコは日向から来たか、九州北部から来たといわれているが、その時、九州は倭人の国であり、イワレヒコは倭人だったとして良い~云々。例えば、天皇家が倭人の血を引く者とする神武天皇の和風諡号「記」神倭伊波禮毘古=神倭(かむぃわ)の礼儀や規律を守る男(「記」伊波禮(イプァレ→イファレ→イゥアレ→イワレ)=石禮?)。一方、生母も叔母も海人とする「紀」神日本磐余彦→日本(耶麻騰)磐彦=耶麻に騰がり、海民の磐から余った男子とすれば、始馭天下之天皇=始めて天下の倭人(磐=船→馬)を馭する(遊牧騎馬民?)天皇と云う称号もあり、この天皇を同一人物として良いのかと云う疑問を感じます。
>ニギハヤヒは「やまと」で土地の豪族長脛彦の妹を妻とし、ナガスネヒコと「やまと」を治めていた。『日本書紀』ではナガスネヒコが前面に出て戦っており、この時の「やまと」は、縦え、ニギハヤヒが倭人だったとしても、そこは倭人の国とはいえず、未だ「山東」だったのである。イワレヒコが「山東」を手中に収めると、イワレヒコが倭人である事からそこは倭人の国・山東と云われる様になり、更に、倭国・山東→倭の山東となり、山東は「やまと」と読むから「倭のやまと」となったのではないか~云々としますが、この「倭人」の定義、山西(かわち)や山東(やまと)とナガスネヒコはどんな関係でしょうか。
「漢和大辞典」に拠ると、倭[・uar][ua]=中国から見た日本人の古称。異音に倭・委[・iuar][ıuē]と在る。その「委」=穀物の霊(稲魂)を被り背を低くして舞う女→耕作民の巫女として、「倭」の人偏「イ」は、巫女を頂く耕作民と、彼等を伴い南西諸島を経て九州(筑紫)や四国(伊豫二名)へと渡海した海人が混在するのであれば、海賊の倭寇とされる事とも整合する。*倭(イゥア→ワ)→和(たす)
「紀」生母と叔母を共に海神とする神武天皇の東遷で、その領海を出て異界へ向かうために水先案内人として迎える亀に乗って来た直部椎根津彦の倭直(やまとあたひら)は、倭(磐=ィワ)から余った「紀」神武天皇にとり、倭と同等=直(適・能・与)の渡部(ワタブ)=海部、「紀」排別之子、吉野国樔始祖也とする。一方、「記」国造等祖槁根津比古とし、国造等(クゾゥラ→くずら)=国樔部、狗奴羅(クドゥラ→クダラ)かも知れません。また、押分子、吉野国樔(くず)始祖也とし、国樔としません。例えば、熊本、大分と宮崎から四国の吉野川を通り、紀伊半島中央迄、「吉野」と云う地名が在ります。こうした事も無視できません。
 
「記」神倭(かみぃわ/かみやま)=亀山とすれば、「列子(湯問)」亀が支えているという伝説から蓬莱の異称と在る。京都市右京区小倉山南東部の丘、大堰川(おおいがわ)に臨み、嵐山に対する。後嵯峨天皇が離宮亀山殿を建てた。三重県北部の市で、東海道五十三次の宿駅の一つ、旧くは石川氏6万石の城下町。
石禮=「記」竺紫君石井、「紀」筑紫君磐井とされ、これも同一人物として良いのかと云う疑問が在る。
費直(あたひ)=山東漢大費直名麻高垢鬼、名意等加斯費直也、書人百加博士、陽古博士、丙辰年十一月既、爾時使作金人等、意奴彌首名辰星也、阿沙都麻首名未沙乃也、鞍部首名加羅爾也、山西首名都鬼也

  1. 2014/10/04(土) 10:44:04|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇「飛鳥」と「明日香」

 矢治一俊氏は【それがやがて、「日の下のくさか」の日下(ひのもと)が「くさか」、「飛ぶ鳥のあすか」の飛鳥が「あすか」、「春日のかすが」の春日が「かすが」となった様に、「倭のやまと」の「倭」が「倭」だけで「やまと」と読まれる様になったと考えられるのである。それでは、この「倭」が「やまと」と読まれる様になったのはいつの事なのだろうか。元興寺塔の露盤銘は651年に作られたものであるが、その内容は588596年迄の建通寺(元興寺)建設に就いてのものとされ、この「山東」を『日本書紀』は敏達紀迄、「東」と書き、推古紀からはαβ群とも「倭」と書いた。そうすると「山東」「東」は6世紀末迄は使われていたのであり、7世紀中頃の皇極紀には「倭」と書かれる様になったのは確実であるから、推古紀の記録と元興寺塔の露盤銘に拠れば、「やまと」と読む「倭」は7世紀初め頃に出現したという事ができるのである。ただ、この事は、その時迄、「倭」は使用されていなかったという事ではなく「倭」は「わ」として使用されていたのであり、「倭」一字で「やまと」と読まれる様になったのが7世紀初め頃だという意味である。
『古事記』『日本書紀』にいう倭の語源は「山東」であり、その発音は橋本進吉氏が挙げる「曾」「登」等の例に拠れば、ヤマトゥ→ヤマトー→ヤマトと変化したのである。中国正史がいう「倭」は九州を指しており、その生い立ち、成り立ちは畿内ヤマトとは全く異なっている。】
 
 通底する意味や関係もなく漢字に和訓を附ける事はないと思います。こうした枕詞の日下(くさか)、飛鳥(あすか)、春日(かすが)等の詳細は述べませんが、その由来を云々する事こそ重要でしょう。
先に、山東(ヤマト)とされる理由は「山の東」と云う意味ではないとしました。おそらく、分裂した大国(ヤマタィとヤマタゥ)の一方は、天照大御神の岩戸隠れ後、南風(速)に吹かれて北上、輪廻転生して岩戸に隠れていた太陽が再び出ると云う意味で、日下(ひのもと→くさか)と呼んだと思います。一方、残留した麻登(狗奴国?)も後発で東遷し、耶麻騰の人々を併合する(明日処)。それを嫌った人々は、飛鳥(天之鳥船)として此処での山=生駒山地を越え、東側に逃れて分裂(山)したのだと考えます。
>『古事記』『日本書紀』にいう「倭(やまと)」の語源は「山東」であり、その発音は橋本進吉氏が挙げる「曾」「登」等の例に拠れば、ヤマトゥ→ヤマトー→ヤマトと変化した~云々。「記紀」は大和(やまと)の成立を「ヤマタィ」「ヤマタゥ」と云う二種の訓音を用いて二系の併合や分裂等、その経緯を示唆します。
>中国正史がいう「倭」は九州を指しており、その生い立ち、成り立ちは畿内ヤマトとは全く異なっている~云々。例えば、「魏志」倭帯方東南山島依りて~云々。「後漢書」倭人楽浪東南山島依りて~云々等の記述から推測しますと、倭は九州を指すとは限らないと考えます。上記、漢籍では、少なくとも北部九州から日本海沿岸部の山陰、もしかしたら北陸付近迄も含まれるでしょう。また、「紀」長脛彦=背の高い男子とすれば、「倭」=背が低いとされる事に対照されたと思います。彼等は北回りで渡来した狩猟採集民後裔と考えます。また、「記」那賀須泥毘古も「紀」長脛(ナガスネ)に順いますが、「なかすねびこ」=河川の中州(なかす)泥彦とすれば、水耕稲作民とも考えられます。これを同一人物として良いのでしょうか。先ずは、人名や言葉自体が持つ意味を明らかにする事こそが肝要でしょう。
 
日下(くさか)=二種の「日(ひらび/ひ)」が在り、日光と月光を表す。太陽の昇る東(あがり)に対して太陽の沈む西(いり)で、夜の月光と関係する。海行かば、みづく屍(かばね)、山行かば、くさむす屍~と謡われる様に、滅びる肉体(日=太陰)と不滅の魂魄(日=太陽)と云う関係と考える。 
  1. 2014/10/13(月) 08:31:46|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇邪馬壹国と邪馬臺国

 矢治一俊氏は【ここで、卑弥呼が都した国は邪馬壹国だったのか、それとも邪馬臺国だったのかという問題に少し触れてみたい。私は、この事について余り拘りを持たないが、どちらが可能性が高いかという観点から話をしてみたい。中国正史では、卑弥呼が都した国について次の様に書かれている。
  ○南至邪馬壹国、女王之所都。(『魏志』倭人伝)
  ○其大倭王居邪馬臺国。【案今名邪摩惟音之訛也。】(『後漢書』倭伝)
  ○都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『隋書』俀国伝) *者=てへる→と云える
  ○居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『北史』倭国伝)
 『魏志』邪馬壹国に対し、『後漢書』は邪馬臺国と書く。『隋書』『北史』邪靡堆とするが、それは『魏志』でいうところの邪馬臺だと云う。この部分をもって多くの人は『魏志』の邪馬壹国は邪馬臺国の間違いだとする。ところで現存する『三国志』は5世紀に裴松之が校訂注釈を施したもので、紹興本と紹煕本があり、何れも12世紀に刊行されたものだという。つまり、刊行本ができた時には『後漢書』も『隋書』も『北史』も存在していたのであり、そこには倭国の都が邪馬臺国と書かれていた事は、編纂者は知っていたはずなのである。ここで私が不思議に思うのは、編纂者はそれを知っていながら、何故、邪馬壹国としたのかという事である。私が思うに底本とした『魏志(写本)』には邪馬壹国と書いてあったのである。もし、邪馬臺国と書かれてあったのなら、それを態々、今まで見た事のない邪馬壹国という国名にして書くはずはないからである。他の史書が「邪馬臺」と書く中、『魏志』は独り、邪馬壹と書き続けてきたと考えなければならない。】
 
 >つまり、刊行本ができた時には『後漢書』も『隋書』も『北史』も存在していたのであり~云々。上記、漢籍の編者は、その『魏志(写本)』を見る事はできなかったのでしょうか。いや、時の権力者の下での編纂だとすれば、そうした古い漢籍を見ていながら邪馬臺国と書き換えた。何故なら、それが当時の認識だったからとも考えられます。一方、刊行本『魏志』の編纂者は狗奴国に敗れた邪馬壹国女王卑彌呼の死後、金印を奪った狗奴国王が邪馬臺国の大倭王を名告った。宗女臺與(タィヨ→豊)は、遠賀川西岸の福岡県宗像市付近に逃れて、豊卑彌=豊玉姫?と称した。または、壹與(伊豫=愛比賣)と称した。それが真相だと「魏志」を残してきた人々は伝承していたのだと思います。
三国「魏」に反旗を翻した遼東太守公孫氏と繋がっていたとも云われる「呉」等の関係から、魏帝が邪馬壹国女王卑彌呼に破格とも云える倭国(海民と耕作民)の支配権を与える金印「親魏倭王」と返礼品を授けた理由が推測されます。その象徴の金印を奪われて支配権を失った女王卑彌呼の系を継ぐ臺與と伊都国は追われて瀬戸内海か、日本海沿岸部を東行後、吉備(岡山県)付近か、河内(大阪府)付近を耶麻騰(ヤマタゥ)とします。その後、残留した邪馬臺国(夜摩苔)+狗奴国の関係が大陸や朝鮮半島の情勢変化の影響からか、決裂し、男系狗奴国(くだら?)も後発で東行、先発の女系邪馬壹(耶摩騰)を併合して夜麻登(ヤマタゥ)とします。それを嫌った「耶麻騰」の男系(伊都国?)は、更に東行した後、建御名方命(+八坂刀賣命)=壹與(伊豫)?として西下、苔むした磐、筑紫(白日別?)の夜摩苔を併合します。
弥終に北部九州と中国や北陸地方に広がる北朝=西国系(日本書紀)と南九州と四国や東海地方に広がる南朝=東国系(古事記)の二本(にほん)に別れて抗争した後、交互に天皇として即位すると云う条件下、二つの皇統が和しました。
 
福岡県遠賀郡岡垣町高倉の高倉神社(たかくら→かくら)。同県福岡市東区香椎の香椎宮(仲哀天皇と神功皇后)、同県宗像郡津屋崎町(福津市)宮司の宮地嶽神社(息長足比売命/神功皇后・勝村大神・勝頼大神)と同県宗像市境に対馬見山がある。
大分県宇佐市の宇佐八幡宮や愛媛県八幡浜市等、火之神と鍛冶の「ヤマタのヲロチ」と関連がある。
呉(222~280)中国の三国時代、三国の一つ。孫権が江南に建てた国。222年独立、229年国号を定めた。都は建業。4世で西晋に滅ぼされた。
「記」建御雷神(+天鳥船神)に追われた建御名方命(+八坂刀賣命)を「紀」倭文神と武葉槌命に追われた星之神香々背男(かかしを)=占星術師?とする。
事実上、「~仁」と称される北朝系天皇だろうが、南朝系の女性を皇后として娶せたとも考えられる。

  1. 2014/10/22(水) 11:10:03|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇漢籍と「記紀」

 矢治一俊氏は【『後漢書』は卑弥呼が都した国は「邪馬臺」だという。また、『隋書』は俀国(倭国)の都は邪靡堆と呼ばれ、『魏志』に書かれている「邪馬臺」だという。『魏志』には「邪馬壹」と書かれてあったはずなのに『隋書』は、何故、その国は「邪馬臺」だと書いたのだろうか。その理由として、一つには卑弥呼が都した国は、本来、「邪馬臺」だったという事、二つには『後漢書』が、その国を「邪馬臺」だと書いている事が挙げられる。『魏志』には「邪馬臺」とは書かれていなかったが、卑弥呼が都した国の実際の名が「邪馬臺」であり、回りの史書の全てがそうなっており、『隋書』の編纂者魏徴も『魏志』にも「邪馬臺」と書かれてあったと錯覚してしまったのではないか。『後漢書』「案今名邪摩惟音之訛也」は唐の李賢によるものとされる。この「邪摩惟」は『隋書』にいう「邪靡堆」の間違いだろう。
隋・唐時代、倭国の都は「邪馬臺」に近い発音がされていた様にみえる。そうであれば、倭国の都は、既に卑弥呼の時代から「邪馬臺」だったとしなければならない。「邪馬壹」は、この時代、或いは『魏志』編纂時に中国側がつけた国名だったとみるしかない。『魏志』に「邪馬壹」とあるのは「邪馬臺」の間違いではなく、この時代の中国の倭国に対する歴史書としての忠実な記録の結果だったのである。しかし、「邪馬壹」は本来の国名ではないから、順って卑弥呼が都した国は何と呼ばれていたのかと聞かれたら、「邪馬臺」でよいのではないかと思っている。但し、『魏志』を語る時は「邪馬壹」とするのが史書の正しい読み方だろう。】
 
「後漢書」倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百余國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里=倭は韓の東南大海中~(中略)。30ばかりの国、皆、王を称し、世世、伝え統べる~云々。
一方、「魏志東夷伝倭人条」倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國=倭は帶方東南大海の中~(中略)。漢時、朝見者有り。今、使訳を伴い通じる三十国となっていますが、その傍国とされる国々を併せても29ヶ国、邪馬壹国連合国家だけではなく、敵対する狗奴国も含めざるを得ず、卑彌呼の没後、狗奴国王が邪馬壹国(臺與/壹與)を娶り、金印を奪い「邪馬臺」の大倭王を称したのではと考えます。
>『後漢書』「案今名邪摩惟音之訛也」は~云々。この「邪摩惟」は『隋書』にいう「邪靡堆」の間違いだろうとしますが、使われる漢字音、惟[diuər][yiui][uəi]=ディゥェ/イゥィ、壹[・iet][・iĕt][iəi]=・イェッになります。これと堆[tuər][tuəi]=ツェー/ツェィ→タィ」との何れが近似音なのでしょうか。
上記、「今名邪摩惟音之訛也」の案ず=推量、調べ考えるから、編者李賢が「惟」「堆」字形と「壹」「臺」の音韻等から、何れかと思い巡らした末に出した答えだと窺えます。後代の編者や編纂者が迷うのには理由が在ります。それは、この列島の有史が倭国や邪馬壹国に始まり、スンナリと大和朝廷へ移行して形成されたのではないからで、授かった金印「漢委奴国王」と「親魏倭王」に於いて、前者の場合、漢王朝の属国、後者を支配権の象徴とすれば、それを対立する狗奴国に奪われた卑弥呼の系統は中国の史書から消えるのは致し方ない事でしょう。
「枕詞」飛鳥のあすか、春日のかすが、日下のくさか等と訓じる理由を理解せずに、大和(やまと)の意味は分からないでしょう。古事記や日本書紀のみならず、漢籍も丹念に読み解いていくと春日の彼方に微かに見え隠れする飛ぶ鳥が日の下に晒されるのではないでしょうか。
 
上古音と中古音の狭間の漢音は、長安(今の西安)地方で用いられた標準的な発音を写したものとされるが、前漢の高祖漢王「劉邦」は南中国の江蘇省沛(はい)県の人と云われる。また、中古音の一つ唐音も、本来、禅僧や商人等の往来に伴い主に南中国江南地方(杭州音)の発音が伝えられたとある。唐の高祖李淵(字=叔徳)の先祖は隴西(甘粛省)李氏とされる。母は鮮卑族独孤氏の出。祖父・父は共に唐国公に封ぜられる。
国号「唐」は、李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け、李淵が隋より唐王に進封された事に由来。初め、隋に仕えて太原留守、617年次子世民(太宗)の勧めによって挙兵。突厥の助けを借り、群雄を破って長安をとって煬帝の孫恭帝(楊侑)を擁立、唐王となる。翌年、煬帝が、その臣に殺されるに及んで帝位につき、長安に都して「唐」とした。但し、唐王室の李氏は、北周王室鮮卑族宇文氏、隋王室楊氏と共に北魏が北辺に配置した6軍団の一つ武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていた事もあり、唐の政治と制度は、北周と隋のものの多くを継承する。 続きを読む
  1. 2014/10/29(水) 10:52:51|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇何故、大和(やまと)なのか(1)

 大和(やまと)の上古・中古音は、大[dad/dar][dai/da]・和[ɦuar][hua]で、これは、ターファ→タゥア→タワ(タィワ)の近似音になります。また、「紀」日本(やまと)も漢字音や訓音の何れでも「ヤマト」とは訓めませんので和訓です。「ひのもと」は訓音になります。倭[・uar][ua]には異音も在り、倭・委[・iuar][・ıuē][uəi]、何れにも「ィワ」の近似音で「ヤマト」とはできませんので、これも和訓になります。

  例えば、中国初の統一王朝「秦」が滅亡した後、「漢」の時代に授けられたと云う金印「漢委奴国王」の文字は時代的に上古音ですので、夫々、漢[han][han]、委[・iuar][・ıuē]と奴[nag][no(ndo)]=ハヌ・ィワナグと訓め、「記紀」大山津見(大山祇)の娘石長比 賣(磐長姫)や竺紫君石井(筑紫君磐井)にも繋がります。また、「記紀」成立期の中古音「イゥェノ→ワノ=漢の鰐国王」とすれば、「記」因幡素兎に騙され た鮫(わに)と「紀」海民熊鰐(わに)、「紀」神武東遷の水先案内人倭直部椎根津彦と「記」倭国造等祖槁根津比古にも繋がります。
 この「
倭直部」の漢字音、倭[・uar(・iuar)][ua(・ıuē)]・直 [dıək][dıək]・部[buəg][bo(bəu)]、万葉仮名成立期の中古音と和訓で、ヤマト・ディァッ・バォ→ヤマト・タブ、漢字音だけで は、ィワタブ→ワタブ(渡部→海部)になります。また、海神宗像大社の三女神と同体とされる「比賣大神」と神功皇后と御子を祀る宇佐八幡宮の八幡(ヤワタ)は、「八」=分ける+「幡」=番(つがい)と巾とすれば、海民の夫婦(豊玉姫と山幸彦)の幟旗を別ける=離縁、八海(やわた)になります。「記紀」仲哀天皇と神功皇后は死別、神騰がった仲哀天皇御陵の山口県下関市の長門一の宮住吉神社は海神を祀ると云われます。
 
倭人(ワニェヌ→ワニン/ワゥリェン→ワジン)とは現日本人に近い人々でしょうが、彼等 を海民に定義としますと、古来、西海を荒らしたと云われる海賊「倭寇」とされる理由が判ります。但し、先の金印に使われる「委」=稲霊を被り舞う女から稲 作従事者との関わりを無視できませんので、その人偏「イ」=海民と、「委」=稲作従事者の巫女(鬼道=占星術と暦法?)にしますと、南方系海民と共に南西 諸島を伝い東上した水耕稲作民との混合と推定されます。*人[nien][niĕn(rıĕn)][rıən]
 
「記」国主神、出雲の御(みほ)の御前に坐す時、波の穂より天 之羅摩船に乗り、鵝(う)皮を内剥ぎに剥ぎて帰り来る神ありき。その名を知っている者は山田案山子崩彦(久延毘古)だけで、神産巣日神(かむぃむすひ)の 御子少名毘古那神と二人で国を造るとする。これは列島住人の輪廻転生を語り、古来、九州東南岸や西北岸、日本海沿岸部の先住民の地へ海民を率いて大陸東南 部の水耕稲作民、大陸東北部や朝鮮半島を経由して流れ着いた遊牧民や騎馬民等の人々が居たとします。一方、「紀」は別説として「記」とよく似た説話を載せ ますが、本文では、高皇産霊尊(たかみむすひ)の子、少彦名命と大己貴命は力を併せ、心を一つにして(中略)、青人草と家畜のための療病の方法~云々とし、少彦名命も先住民として国作りし、常世国へ去った後、神々しい光が海を照らし、忽然と浮かび上がってくる己貴命の幸魂奇魂とし、亦名だけを記載、大国の主大己貴命自身も渡来民の子孫とする。それが理由で「記」出雲神話では穴牟遅神→葦原色許男→大国主神と転生させます。
 半島等の状況変化からか、
二人が力を併せ造った国が出雲の大己貴命(+天照大神)と星神香々背男(狗奴国?)と云う二つの大国に分裂後、新たな渡来民(騎馬民族等)の影響で、再度、大国主神の二人の子建御名方神と天神天照大御神と繋がった事代主神との支配権を巡る戦いも「出雲の国譲」になります。以下、次項。

[niet] [niēt(rıĕt)]と本[puən][puən]は隋唐期の中古音で、ニェップェヌ(ゥリェップェヌ)→ニッポン(ジェプェヌ)→ニホン (ジャポン)か、ヌイェプァヌ→ヤパン。丸括弧内のR音→J音の変化は、日(ニチ→ジツ)と云う転音から推測される。現中国「日本(ゥリーベン)」 から舌の位置を下げると「ジーベン」となる。
「紀」神功皇后=熊襲討伐のおり、熊鰐(わに)の操る船で関門海峡から洞海(くきのうみ)、更には古遠賀湾へと移動した。
住吉神社=伊弉諾尊が筑紫の檍原(あはきはら)で禊(みそぎ)をした時に生った。航海の神、和歌の神ともされる。大阪の住吉大社(表筒男命・中筒男命・底筒男命)が本社。尚、山口豊田郡菊川町江良(えら)付近の華山(げざん)中腹には仲哀天皇の殯所跡がある。
「記」天之羅摩船(あめのかがみふね)=羅摩(ががいも)は羅(網をかける=区画)と摩(する→なでる)とすれば、鏡(カガミル)か、「屈む」、「記紀」足の立たない水蛭子(蛭子)は船で流す。次に淡島(胞衣)を生むと在り、蛭子神(事代主神)や一本足で立つと「記」山田之曾冨騰崩彦(案山子=欠く足)との関連を無視できない。「紀」大山祇後裔櫛名田姫の親「脚摩乳」「手摩乳」に繋がる。「紀」少彦名命は粟幹(あはがら)に弾かれて常世国へ行ったとする。尚、常世=常に世する→代を重ねる事か。

  1. 2014/11/04(火) 20:58:27|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇何故、大和(やまと)なのか(2)

 早くから列島には大陸を東行し、凍った北海を歩いて北回りで渡来した狩猟採集民の旧石器~縄文早期を経て、縄文中・後期~弥生前期に朝鮮半島を経由して焼畑農業と牧畜(遊牧)を生業にする人々と、沿岸航海を生業とする人々や南西諸島を経由して外洋航海民と共に渡来した南中国や東南アジアの水耕稲作を生業とする人々等、次から次に渡来し、海岸や河岸段丘、山腹等、上手く棲み分けていました。そうした国々へ天神系(夫餘族等の騎馬民?)の人々が遅れて渡来するとせめぎ合いが始まり、支配権を奪われた奴国連合は海民(邪壹国)、更には騎馬民(伊都国)に服属を余儀なくされたのだと考えます。
 
「記紀」イザナミが火神(騎馬系製鉄民?)を産んで身罷(みまか)り、陵(やま)に葬られてイザナキとの死別(離別)を示唆し、宇佐八幡宮の神功皇后(+比賣大神)と伊邪那美、応神天皇と火神は同体と考えます。その後、イザナキはイザナミの頭に腹這い足に腹這い涙(那美)するとナキサハメ神が生り、山(黄泉国=山陵)を降りた「イザナキ+木本のナキサハメ神」と「火神+母神イザナミ」に分裂します。また、「紀」伊奘諾に頸を斬られた火之神軻遇突智の身体に化生した山祇~、三則化爲麓山祇。四則腰化爲正勝山祇~云々。但し書きには「山足曰麓」とあり、「記」伊邪那に斬り殺された火之迦具土神の身体にも八つの山津見神が生るとします。*「岐」=山+支(手足→支え・別れ道)
  「記紀神話」倭人海民と耕作民の邪馬壹国(卑彌呼と男弟)と狗奴国(狗古智卑狗+卑彌弓呼)に分裂 し、卑彌呼の死に伴い攻め上がった狗奴国王(山幸彦)は宗女臺與(豊玉姫)を娶り併合しますが、半島の情勢変化に影響されて分裂すると、臺與(倭迹迹百襲 姫?)は転々と足跡を残して東上し、耶麻騰(飛鳥)を称しました。一方、邪馬臺(夜摩苔)と袂を別った狗奴国(百済)も後を追って東上、再度、邪馬壹国を併合して、夜麻登(太陽の昇る明日処)と称しました。それを嫌い、その国域を、再度、「ヤマ(八山)」した先発組は、飛鳥(壹與=玉依姫=伊豫)として山を下り(西下)、落日の筑紫に舞い戻り、苔むした磐(夜摩苔)と併合します。
 
大和の音訓、大(タィ)と和(ヤワ)し、この重箱訓みを逆から、ヤワ・タィ→ヤゥバ・タィ→ヤゥマ・タィ→ヤマ・トとしても、態々、この字で「ヤマト」と訓じる理由を小学生にも理解できる様に説明しなくてなりません。
 
述べてきた様に海人の倭人(わに)が分裂、天神(山背→山城)と繋がった事が一番目の 「ヤマ」で、平安遷都の理由とします。一方、袂を別った建御名方神系は、蝦夷(新皇平将門等)として東国に追われた後、東国武士(北条氏等)と呼ばれまし た。平安末期、島流しとなった源頼朝と繋がり、東国に鎌倉幕府を開き、西国には平家の領域が残った状態が二番目の「ヤマ」、「ヤマト」とは国域を分断する 事を意味します。
  南北朝期、そうした人々は、夫々、両朝へ結集して戦った後、足利尊氏は九州の宗像氏を頼り、南朝の後醍醐天皇外戚菊池氏と楠木正成を敗って京都に幕府を開 く。その三代将軍義満の頃、南北両統が併合、大国が和した思われます。詰まり、「記紀神話」の云う葦原中国が豊葦原瑞穂国と出雲大国の二つに分裂した後、 再度、併合される事、大国(やま)を和(た)す事と考えます。
 
尚、南北朝併合後、全ての天皇に「~仁」と付く事から、700年代の成立とされる正史「古事記」「日本書紀」や「続日本紀」も二系統のせめぎ合いが、一応、終焉した後、現在の形で完成したと考えます。

漢和大字典に拠ると、[mәg][hai][hai]と麻・馬[măg][mă(mbă)][ma]は略同音で、草原の馬と海原の船と同思想の言葉と考える。もう一つ、日々、海も満潮干潮を繰り返し、生活の糧を育む。母性も月毎に変化し、子を妊娠して母乳で養育する等、[muәg][muәi(mbuәi)][muәi]と母[muəg][məu(mbəu)][məu]も略同音で、太陰に拠る影響で生じる事として、旧くは同じ思想だった。
「記」香山(かぐやま)畦尾木本に鎮座する泣澤女神。「紀」此即ち畝丘の樹下に所居之神啼澤女命と号す。イザナキの後妻か。
乙巳の変を大化改新とする理由は出雲大国に国譲りさせた「夜麻登」が、その大国に化けた(併合)事と考える。尚、神仏混淆思想は、仏教系蘇我氏と神道系物部氏の併合で、神道が現世(生)を司り、仏教が彼世(死)を司る事(本地垂迹説と逆本地垂迹説)になる。
伊豫=奈良県吉野(御所)~香川県と徳島県を隔てて流れる吉野川、大分県と熊本県にも吉野がある。更には、四国山脈から福岡県と大分県に架けて、御在所岳や御所ヶ岳等の山名が見える。
大和(オ オヤマト)とされない理由は、南北朝後、表向き大国は一つだけだからと考える。尚、『日本書紀』は「耶馬騰」「椰磨等」「揶莽等」「野麼等「野麻登」「野 麻等」「耶魔等」「野麻騰」と「夜摩苔」「夜莽苔」等、十種が在り、夫々、某かの違いは在るのだろうが、「ヤマトゥ」「ヤマタィ」に分類される。


  1. 2014/11/10(月) 23:51:34|
  2. 1.私論「大和」
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ