見まごう邪馬台国

◇とんでもない

 今回から副題を「ことのは」とした理由の一つ、言葉(言象)の事に就いてを述べてみます。
先ずは、「有り難う御座いました」「お世話になりました」等に対し て、「とんでもないです」等と使う慣用句「とんでもない」に対する幾つかの説明(参照・田井信之「日本語の語源」)を見ながら語源を考えましょう。

 A途轍(とてつ)…筋道・道理・途方   B途方(とほう)…筋道・条理・手段・途轍
 とてつもない               無途方(むとほう)
  ↓(「つ」が落ちる)           ↓(発音と意味の強化)
 とてもない → 迚もジャない      無鉄砲(むてっぽう)
  ↓(強調の濁音「で」になる)       ↓(頭音「無」の脱落)
 とでもない                鉄砲
  ↓(強調の撥音「ン」が入る)       ↓(頭濁音で俗語化)
 とンでもない               伝法(デンポウ)…無法・法外・危険

 C途方もない
  ↓(「方」が落ちる)
 途もない → トーモナイ・トームナイ・トーナイ→トヒョーもない(上方語)
  ↓(強調の濁音「で」が加わる)
 とでもない(「菅原伝授」)
  ↓(強調の撥音「ン」が入る)
 とンでもない(浄瑠璃「職人鑑」)
  ↓(~ないの省略)
 とんだ(トンダめにあいの山「膝栗毛」)

 D途轍+途方
 とてつとほうもない
  ↓(短縮化した方言へ)
 トテッポーモナイ(岐阜県揖斐郡地方)…途方もない・大層な

 上記は、「途轍もない」「途方(もない)」の転音とします。ただ、日本語で、こうした変化が在るのでしょうか。また、そんな必要性があるので しょうか。「B途方」無途方→無鉄砲→鉄砲→伝法等、その語義や機能的なもの迄も損なっています。他にも以下の如き頓珍漢な意見もあります。

  「敬語の指針(P.47)」は「とんでもございません(ありません)」を相手からの誉め言葉に対し、謙遜しながら軽く打ち消す表現として問題ないとしますが、非常に明解な書き方の『敬語再入門』は、これに関して言葉を濁している印象です。そもそも「とんでもない」は、何かを難じるか、相手の言動を強く打ち消す語なので概して敬語に馴染まない。ただ、相手から過分な贈答や評価、申し出等を受けた際の受け応えに、「とんでもございません」も使われる様ですが~(後略)。

 
先ず、この慣用句の持つニュアンスを理解するため、広辞苑に拠り、「とんでもない」項に見える語義(1~5)を拾い、私なりに補足説明します。

(1)意外である=発言者にとって思ってもみない事、順当でない。見当ちがい。まさか、そんな事とは等の当惑したニュアンスになる。
(2)手の施しようがない=発言者自身、第三者に拘わらず、その行いが過ぎたか、正当でない間違いや不当な手違い等が在り、既に手当のしようがない状態となり、途方にくれると云うニュアンスが在る。
(3)取り返しが付かない=前項の(2)と同様、その行いが過ぎたか、順当でない間違いや手違いに因り、見当が外れたため、手当が遅れ、目途・目論見等が不意になり、途方にくれると云うニュアンスが在る。
(4)道理を外れている=相手や第三者の話を聞いた話者が、その道理に合わない、穏当でない、妥当でない、当然ではない事柄に対して、当惑し、憤慨し、反論や指摘すると云うニュアンスが在る。
(5)滅相もない=あり得べきでない、勿体ない。妥当でない、相当でない、当然でない等のニュアンスで、やんわりと謙った感じで打ち消す。

 述べてきた事からすれば、「途轍もない」「途方もない」「途でもない」等の言葉が持つニュアンスでは、(1)意外である。(5)勿体ない等のニュアンス は持ち得ません。況んや、何かを難じたり、相手の言動を強く打ち消すと云う語でもありません。今回は、ここ迄にしましょう。

途轍もない=非常に度を外している。図抜けている、比すべきものもない、条理に外れている、手の施し様がなく当惑する→とんでもない
迚も=〔副〕「とてもかくても」の略、(否定を伴い)どんなにしても、なんとしても、到底、どうせ。ともかく、所詮。非常に、大変。
途方もない=条理に外れている。図抜けている、比すべきものもない。手の施し様がなくて呆れて惑う→とんでもない。途方=方向、目当て、当て所、方針、手段、手立て、方法、方途。筋道、条理等。語義から、「鉄砲」=手法・手方(じゅほう→じっぽう→てっぽう)か。
トンダ=飛んだ(飛び離れている意か)。〔連体〕普通と違った。風変りな。思いがけなく重大な。思いもよらない→とんでもない。大変な。逆説的に予想外に良い意にも用いる。〔副〕非常に、と在るが、とんだ災難(とばっちり)=まさに災難とは違い、ぶっ飛んだ奴→とんでもない奴とされて、「トンだ(飛んだ)」=常識的でない、度を超えている、道理を外すと云う語義に派生したのかも知れない。
とんでも御座いません=本来、「とんでもない」を一語とすれば、語義的に、とんでものう御座います。が正しい使い方とされる。ただ、注記との関連からすれば、とんでも有りませんは、「とんだも→とんでも」を「ありません」と否定したとすれば、容認されるのかも知れない。

滅相=〔仏〕一切の造作せられしものにある心身壊滅の相、真如の常住で寂滅である相、[副]無闇な状態、法外な状態→とんでもない。 
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  1. 2015/05/28(木) 17:02:14|
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◇相当ではない

 ここでは、少し見方を変えて、(1)~(5)で補足した「順当」「見当」「手当」「妥当」「正当」「穏当」「相当」「当惑」「当然」は、広辞苑に拠ると以下の如くあります。

 「順当」=道理上、当然な事、そうあるべき事。
 「見当」=目当、大体の方向、見込み、予想。大体の数量(位、前後)。版画や印刷等で、刷る紙の位置を決める印。銃砲の照星(しょうせい)。
 「手当(てあて)」=予め、その用に備える、用意、準備。そのために配置される人。手立、手段・手法、対応策。処置(特に病気や怪我等)。労働や勤務等の報酬や金銭、基本給の他に支給する金銭、心付。召し捕り、捕縛。
 「妥当」=よく当て嵌まる。適切である。〔哲〕真理や道徳的美的価値等の通用し、承認されるべき性質。
 「正当(しょうとう)」=正しく理に当たる。或る事や時(特に忌日)に当たる。実直。信実。 (せいとう)=正しく道理に適っている。⇔不当。
 「穏当」=おだやかで、温和しい。道理に当て嵌まる。
 「相当」=程度や地位等が、相応しい、釣り合う、当て嵌まる。(副詞的にも用い)普通を超えている様。
 「当惑」=事に当たり処置に迷い戸惑う。思案が尽きて途方にくれる。
 「当然」=道理上からそうあるべき事。当たり前。

 上記に共通する漢字「当(たう→とう)」=手立て、手法、方法。目指す所、目当。当に在るべき様、当り前。〔仏〕当来の略。未来。来世。名詞に冠して、「その」「この」「今の」「さしあたり」等の意を示す語(=頭)。「当(まさ)に」=当然、~するのが正当(=道理)→対象に代わる同等や同然の事柄、対処する手立・方法になります。また、藤堂明保編「漢和大辞典」に拠ると、上古音・中古音・近世音の何れも[taŋ]、 古来、日本語では、この鼻音[ŋ(ng)=ヌク]を「~イ」「~ウ」の二母音で発音しました。前者は「タヌク→タィ」=当麻寺(たいまじ)、後者が先の 「タヌク→タゥ→トゥ」ですが、当麻寺(タヌグマジ→タギマジ)ともされますので、発音し易い「タヌク→タヌッ→タヌ→トン」と発音されたと考えます。
 但し、若干の疑問が残ります。
「広辞苑」に拠ると、前回に提示した(1)~(5)に共通する「当(まさに→とん)」項=見積もっていた、通常の、常識的な、同等の等とありますので、それを否定する当(とぅ→とん)でもないは、応対者を援助したとか、世話をした等、有り難がられる状態ではない→「相当でない」のだとしますと、「当でない」になりそうですが、何故か、「当でない」にされます。この助詞「も」から考えてみます。この助詞「も」と「は」が持つ基本的な機能を下記の如く比定しました。

   「」=既存の空間の隣に別の空間を確保して人や物事等を序でに付け足して繋ぐ
   「は」=主部に纏わる或る一定の条件に係わらず、曖昧で不確定な状態を含み持つ

 助詞「も」の場合、新たに空間を確保して序でに示唆するため、順当でない、意外な、思いも拠らない等のニュアンスを生み、そんな事を云われると困ります 等、謙った感じになり、応対者は良い印象を持ちます。通常、使われることはありませんが、「当ではない」にしますと、助詞「は」の曖昧で不確定なニュアン スに拠り、否定する事柄に就いて、別の事実や思惑を含み持つと受けとられるのか、言葉とは裏腹に、当然だろ。恩にきろよ等、相当の見返りを求めると云った 感じが見え隠れして良い印象を持ちません。更に、「とんでない→とぅでない→とでない」にしますと、謙譲の意識は殆ど消え、威圧的で押しつけがましく、横 柄に強く否定した感じを受けます。次回は「迚も」の語源を考えましょう。
 
普通を超えている様=副詞的にも用いるとあり、その動詞や形容詞等に相当する事(当に・正に)で、普通を超えているわけではない。
当(まさに→とん)=この言葉が含み持つニュアンスを、「とんでもない」と、やん わりと謙って否定する。強く否定すると云われる理由は、その語義(4)道理を外れているから派生したと考える。(5)滅相もないは上位者に対して何らかを 謙って否定する場合に使われる事が多い。
」=鞄と靴買ったは、序でに靴もと、予定外の買い物を示唆する。助詞「と」の場合、当初から予定していた鞄と靴を買ったと同列に繋ぐ。
「は」=赤い薔薇が好きは、何があろうと赤い薔薇となるが、赤い薔薇好きは、他の色や花は余り好きではないが等の背景を感じる。 
  1. 2015/06/05(金) 17:57:56|
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◇とてもじゃない

 副詞「迚(とて)も」という言葉は、どのような方法を尽くしても実現不可能だ等といった時に用いられますが、語源的には否定を伴って使うのが正しい使い 方とされます。かの芥川龍之介も、その著作中、「迚も良くはない」「迚も安くはない」「迚も綺麗ではない」と否定的に使う可きだ。この頃では「迚も良い」 「迚も安い」「迚も綺麗だ」等と肯定的に使われるが、誤用も甚だしいと憤慨したと云います。こうした彼の言い分は迷信でなく、その憤慨は正当なのでしょう か。変化の兆しは、既に明治40年代、学生の間で「迚も」を肯定的に使う誤用が広まり、昭和に入って次第に定着し、現在、「大変」「非常に」に代わる言葉 として「とても美しい」「とても立派だ」等と肯定的に使われます。
 広辞苑「迚もじゃない」項、「とても」を強調していう語、どんなにしても。到底、等。同「迚も」=〔副〕(否定を伴い) どんなにしても、何としても。どうせ、ともかく、所詮。非常に、大変。また、よく似た語句に「迚もかくても」=何れにしても。どの様にしてでも。「迚もの 事に」=いっその事とありますが、漢和大字典「迚(国字)」項、とても、到底、~といって、然り乍ら、~とも、~といえども、~と思って、~として。「解 字」之繞(しんにょう)+中=途中迄で最後迄行けないとあります。詰まり、「迚も」=どんなにしても、どうせ、所詮等の語義になりますが、これが、何とし ても→どんなにしても→どうせ→所詮の如く派生したとしても、「非常に」「大変」の語義にはなり得ないと思います。
 例えば、「とてもできない→どうせできない」「とても飲めない→どんなにしても飲めない」と言い換える事ができますが、上記、漢字「迚」の語義では、 「とても迷惑です→どうせ(どんなにしても)迷惑です」「とても美味しい→どうせ(どんなにしても)美味しい」とはできませんので、当初、「迚も」は、非 常に、大変等の語義はなかったと考えられます。そこで少し見方を変えましょう。
 「迚もじゃない→迚も無理→所詮できない→到底できない→大変→非常に」と派生したとも考えられます。おそらく、慣用句の「迚もじゃない」が使われ始めた後、「突き抜ける→非常に→大変な」等の語義を持つ「突(とっ)ても」がよく似た訓音を持つ「迚も」の強調形とされて、「とっても」は同語に扱われたと思われます。  
 広辞苑「迚も」項には(否定を伴い)どんなにしても・如何様にしても・どうしても。非常に・(すこぶ)る等とあります。その語義の一つ「すこぶる」から、「迚も」の基礎的な語義の成り立ちを考えてみましょう。
 広辞苑「頗る」項、やや多く少し、 夥しく、甚だ、余程と在り、漢和字典「頗」項、偏る・傾く等、予想の状況や状態より程度が違って、一方に傾いている様子、非常に・大変な。その「字解」波 (水面が傾く)、跛(身体が傾く)等と同系字。漢字の語義からしますと、本来、傾きや食い違いがあると云うニュアンスで、見込み違い、思っている事と違 う。予想した事と僅かに違う。少し多い→余分→予定外、意外として良いでしょう。詰まり、これにも「非常に」「大変な」等の語義はなかったと考えられま す。
 述べてきた事と「迚(国字)」=途中迄、最後迄は行き着けないと云う語義からすれば、「非常に(大変な)~と迄はいえない」になりますので、芥川龍之介 の否定を伴わなければならない」と云う主張は強ち迷信とも云えないでしょう。次回は、この語源を考えてみたいと思います。

「突 (とつ)ても」=突(とつ)=棒状のもの等で押す→手の届かない所へ届く→予想できない事、予想しない突発的な状況、思いもよらない突然の出来事、突き抜 ける事を表す。「凸(とつ)」=物の表面が部分的に出ばっている事→余分・余計部分。⇔凹(おう)等に使われる音、突(とっ)=突出した状態や状況に、 「迚も」と同様の「~ても」を併せた「とつても→とっても」=突発的、突き抜ける、敵わない等の語義の言葉として成立し、「迚も~ない」が持つ語義の広が りに伴って併合されると促音便が失われて、「迚も」と同化、語義も付加された。 
  1. 2015/06/14(日) 11:46:57|
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◇とでもない

 今回は「迚も」=どんなにしても、どうせ、所詮等の語源を考えてみます。例えば、漢字の語義の「途中迄」を言い換えると、当事者が持つ意識の上や先、多い・足す事になります。それを日本語で表すと、以下の如くなります。

  跳(ぶ)=立ち位置より高い→飛(ぶ)→鳥(り)→鳶(び→とんび)→蜻蛉(んぼ)
  綴(ぢる・つづる)=重ねて繋ぐ、年(し)・時(き)・常(き→とこ)の年々、日々、刻々と重ねる
  富(む)=増化(上向)→よ)、床(こ)=一段高い→殿(の)
  取(る)=手に持つ→共(も→つれ)=友

 一つずつ付加する事を意味する助詞「と」と同音「と」に、靴を買って・も~。花を送って・も~。雨が降って・も~。彼に会って・も~。住所を尋ねて・も~等、予定外、意外、結果を伴わない、意味がない等のニュアンスで使われる「~ て・も」を併せた「とて・も」で、「途中迄」と云う語義の漢字「迚」そのもの、言い換えれば、「究極ではない」になります。詰まり、本来、「非常に」「大 変」「すごく」等の語義は無かったと思われます。また、述べてきた事から、誤用とされる肯定表現の例文を順に以下の如く書き換えて、思いの外、予想外等の ニュアンスの肯定の文型にしても良いでしょう。

   「迚も良いです → 大変、良いとは云えないです → 思ってたよりも良いです
   「迚も安いです → 非常に安いとは云えないです → 安いと云っても良いです
   「迚も綺麗です → すごく綺麗とは云えないです → 綺麗と云っても良いです

 ただ、広辞苑「迚もかくても」=あの様でもこの様でも、詰まるところ。「迚ものこと」=いっその事、寧ろ等、何れも、行き着く所迄→ 非常に等の語義を思い浮かべるので、「迚もだめだ」と云う様な否定的な語義を持つ表現のイメージが強すぎて、肯定表現に用いられると違和感があるのも確か だと思います。おそらく、「迚も」は否定を伴い、どんなにしても、如何様にしても目標や目的を遂げるのは無理(~できない)と云う意味で使われていました が、目一杯やっても~ない。余程の事でも~ない等、思いの外や予想外と云うニュアンスにも派生して、迚も~でない→迚もじゃ(や)ないとも使われます。こ れを言い換えると、何としても、如何様にしても等と云う状態や状況ではない→それどころではない→とんでもないと云うニュアンスにもなります。それが、意 外、予想外と云うニュアンスを持たせる助詞「も」に拠って、これ以上は無理と云うニュアンスを感じさせるのか、「非常に」「大変」等の語義にも派生し、肯 定表現でも使われたのかも知れませんが、私見では、解決しない、十分ではない、準ずる等の語義「とて・も」と、「とっても」は、前回、本来の成り立ちの違う「突き抜ける」と云う語義としました。
 広辞苑「とでもない」=途(道筋・道理)でもない。「とんでもない」と同義とありますので、「当(とぅ) でもない→とでもない」も、当然ではない→当たり前ではない→不当だと云うニュアンスになりますが、「迚も」とも近い発生語源と考えます。例えば、「とん でもない」は、話者が、平均か、それ以下と云う意識で、「当然ではない」「相当ではない」と否定しますが、同様に、「迚も~ない」は平均以上→目一杯と云 うニュアンスが、全く思いもよらないとされて、とっても→とても=非常に、すごく等の語義にも派生し、「迚も~です」として肯定表現に使っても間違いでは なくなったと考えられます。
 次回は、慣用句の「満更でもない」を予定してます。もう少し、お付き合いください。

「とんぼ」=とんぼ返りとされる様に、くるりと方向転換する事から、船尾=艫(とも)→蜻蛉(群れて飛ぶ→とも)→共(とも)→友(とも)。
同音=万葉仮名甲「と」、乙「と」の二種があり、本来の音が違っていたのか、樋(とひ)=水平に伸びる。十(とを)=終始→境目、苫(とま)=縦横に拡がる。解(と)く=開いて見せる、虎(とら)等との直接的な関係性は見えない。
「~ても」= 〔助詞〕接続助詞「て」に係助詞「も」を付加する(イ音便の一部や撥音便では「でも」)。仮定の条件をあげて、後に述べる事がそれに拘束されない意を表す (たとい~ようとも。~とも)。事実をあげて、それから当然予想される事と逆の事柄を述べるのに用いる(~たけれども)。
「とて」=〔助詞〕(格助詞トに接続助詞テの加わったもの)体言、それに準ずる語句や文に付き、引用する意を表す。~と言って、~と思って、~として、~ということで、~しようとして、~という名で。(下に打消または反語を伴い)~として。~といって。(体言に付いて)~だけあって、~なので、~であるから。~もやはり、~だって。
「とんでもない」=〔形〕「途(と)でもない」の転。とても考えられない。思いもかけない。途方もない。非難する気持をこめて言う。相手の言葉を強く否定して、そんなことはない。冗談ではない。とあるが、先述した様に、本来、謙り、やんわりと否定するとした。
「とぅでもない」=万葉仮名「と」には甲乙二種があり、「古事記」歌謡、豊=登与(とぅ・よ)、常・床=登許、年=登斯、鳥・取=登理など、二重母音だったとも云われる乙音「と」で訓じる。尚、甲音の場合、「長母音」や「短母音」と考える。 
  1. 2015/06/18(木) 15:08:33|
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◇まんざらじゃない


 【「まんざら」は語源が明確ではないので、何が否定されるのかが不明確で、否定文型は とっているが、否定しているのではなく、寧ろ肯定している様でもある】等と頓珍漢な事を述べる人も居ます。広辞苑「まんざら」項、正に、全く、一向(ひた すら)から推測すると、以下の如くなります。
 その用字、「満」=満ちる→全く。「更」=物事の順序や在り方を変える、入れ替える等の語義を併せますと、少しずつ満ちて更代する→まるで変わる→全く→正にと派生したと考えられます。また、以下の如く、述べる人も居ます。
 【A「田舎暮らしも、まんざらじゃない」、B「そういわれるのも、まんざらじゃない」、C「アメリカ娘も、まんざらじゃないわよ」等には、何れにも「~ も」と文中に助詞「も」が使われます。助詞「は」=全部否定で、助詞「も」=部分否定の違いでしょうか。】等、日本語が理解できてないのではと思ってしま います。 そこで提示された例文(ABC)の文意と、「→」の後に「~は、まんざらじゃない」にした文意を述べると以下の如くなります。

  A(話を聞いたり、経験してみると)意外に田舎暮らしも悪くない。→ (以前から何となく)田舎暮らしは悪くないと思っている。
  Bそう云われたのであれば、意外と悪い気はしない。→ もし、そういう風に云われるのであれば、悪くはないな。
  C(思ってたより)アメリカ娘も捨てたものじゃないでしょ。→ (他は知らないけど)アメリカ娘だって、捨てたものじゃないわよ。

 (C)の場合、前後の脈絡に拠っては「他は知らないけど、アメリカ娘だけは、その気なってる」と云うニュアンスにもとれます。詰まり、助詞「も」が持つ 思いの他、意外な等のニュアンスに拠り、話者や当事者は、何れも意外にも気持ちが傾いていると云うニュアンスとして述べます。一方、助詞「は」の場合、そ の文章の背景に含み持つ不確定なニュアンスに拠って、他にも様々な状況や状態があるのでしょうが、或る事柄に就いては、既に話者や当事者の気持ちに決まっ ていると云うニュアンスの文意になります。そうした違いを考え併せて、表題の「まんざらじゃない」と云う語句の助詞を変えて言い換えると、夫々、助詞の機 能に拠って以下の如き文意になります。

  「まんざらじゃない」=一つや二つの不満や不安を除けば、略、気持ちは決まっている。
  「まんざらでもない」=意外にも、気持ちは向いている。
  「まんざらではない」=不確実な要因はあるけれども、多分、気持ちは傾いている。
  「まんざらでない」=未だ、殆ど気持ちは変わってない。

 また、何かを選んだりする時、「これは、どうですか?」「これは、いいですか?」等と問われて、話者の選んだものに対する評価として使われる言葉として「いいじゃ(や)ないの」は、(他のより・中では)良く似合ってるよ、センスいいね等のニュアンスになりますが、これを「それ、いいじゃないの」にしますと、前のも良かったけれど、同じくらい良い。また、「それ、いいじゃないの」にしますと、前のより、(ずっと・もっと)良いになります。
 これを「いいじゃ - ないの」に言い換えると、選んだ当事者に不満があってか、「悪くはないけれど」や「どこが気に入らないの」等、何故なの?と云ったニュアンスになります。 更に、「いいんじゃ - ないの(「いいのでは - ないの)」にしますと、当事者の「これも良いでしょう?」に対して、本当かよ、センス悪いけど。好きにすれば。或いは、「これも良いと思うのだけど」に対 して、もう、いい加減にしろよ。早くどれかに決めろよ等のニュアンスで突き放して応えたと考えられます。

「まんざら(満更)」=広辞苑に拠ると、正に、全く、一向(ひたすら)、(常に打ち消しの語を伴って)全く、それと定まっていない状態で、必ずしも悪いわけでない。かなり気に入っている事を婉曲に表すとし、或る国語辞典は「真っ新」の変化とする。
助詞「や」=異空間や異集団から取り出して既存のものと同列に繋ぐ。「古池や蛙飛び込む水の音」=目の前ではなく別の場所なのか、想像上なのか、その池に蛙が飛び込んで水音を立てた。→ 古い俳句界に芭蕉が新風を吹き込み、波紋を起こした。




  1. 2015/06/28(日) 12:11:12|
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◇「~ではない」

 「まんざらじゃない」でも提示した「~でない」と云う文型の「捨てたものではない」「これではない」「出る幕ではない」等を「~でない」と云う文型に置き換えると、どの様に変わるのか見ましょう。
(1)「捨てたものではない」は、外しても良いと云う噂や評判等と違い、これはこれで良い所が一つや二つあって外せないと云うニュアンスになります。これを「捨てたものでもない」にしますと、当初から、その評価に対して疑問があったが、やはり、一つや二つの良い所があるよと云うニュアンスになります。これ を「捨てたものでない」にしますと、何故か、これも先述した慣用句の「とんでもない」の助詞「も」が担うとした意外や予想外と云うニュアンスを持ち、駄目だと思っていたが、意外に良いになります。おそらく、「捨てる」と云う行為自体に負の感覚があり、それを否定するために起こると考えられます。それを示唆する様に「~でもない」とした場合、助詞「も」の既存空間の隣に別の空間を確保し、人や事物等を序でに付け足して繋ぐと云う機能が、負の感覚とは違う感覚 (区画や空間)、この場合、当然、思っていた通り等を思い起こさせるため、こうしたニュアンスを持つと考えられます。更に、これを「捨てたものじゃない」 にしますと、「じゃ(助詞「や」)」=或る区画のものを取り出して提示し、同列に繋ぐと云う機能に拠り、「捨てたものではない」に比べると口調が少し強くはなりますが、略同じニュアンスの語義になります。
(2)「これではない」は、幾つかの候補の中では違うと云うニュアンスになります。これを「これでもない」にしますと、負の感覚を持たない指示代名詞だから、幾つかの候補はあったのだが、何故か(意外に)、これとも違うと云うニュアンスを持ちます。
 この場合、「これでない」では、少し違和感がありますが、これを「これじゃない」にしますと、前者と同様、「これではない」に比べると、口調は少し強くなりますが、略同じニュアンスの語義になります。
(3)「出る幕ではない」に使われる「幕」は、広辞苑に拠ると、広く長く縫い合わせて、物の隔てる布、装飾として用いる布。垂れ布。帳。芝居や舞踊等の舞 台上で演技のない時に垂らす布。芝居で演技が一段落する。芝居の段落を数える語、場面、場合。仕舞、終結。相撲の幕内等、その太字にした語義から「出る幕 ではない」=お節介になる。出しゃばるべき所ではない。口を差し挟む場合でないと云う語義になります。これを「出る幕でもない」にしますと、自ずと収まっ たのか、出しゃばる必要は無い。その時期を逸した等と、これも助詞「も」に拠ってか、「意外にも」と云ったニュアンスを持ちます。また、これを「出る幕で ない」にしますと、役柄が違うか、終わったのか、出しゃばったり、口を挟む場面でないになります。更に、「出る幕じゃない」にしますと、「出る幕ではな い」に比べると口調は少し強くなりますが、略同じニュアンスの語義になります。
 以上、助詞を変える理由は伝えたい事、含み持たせるニュアンスを変えるためとして良いでしょう。述べてきた事を纏めると提示した語句の助詞「も」と「は」に拠るニュアンスの違いは以下の如くなります。次回は「ろくでもない」を考えます。

   「捨てたものでない」=意外 「捨てたものでない」=当然 「捨てたものでない」=意外 「捨てたものじゃない」=意外
   「これでない」=当然 「これでない」=意外 「これじゃない」=当然
   「出る幕でない」=当然 「出る幕でない」=意外 「出る幕でない」=当然 「出る幕じゃない」=当然

助詞「や」=教室で(彼や彼女に)鉛筆やノートを貰った。→教室で鉛筆とノートを貰った。(会社の机や電車の網棚に)鞄や傘を忘れた。→(会社に)鞄と傘を忘れた。(他も入っているが)メロンやマンゴーの詰め合わせ。→メロンとマンゴー(二種)の詰め合わせ。 




 
  1. 2015/07/04(土) 10:28:39|
  2. 2.慣用句考
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◇ろくでもない

 序でに、「ろくでもない」と云う慣用句の語義も考えてみましょう。広辞苑に拠ると、「ろくでもない」=陸でもない・碌でもない(「碌」は当て字?)、何の値打ちもない。くだらない。同「ろくでなし」には、役に立たない、普通以下、のらくら等とありますので、最悪ではないと考えます。
 これを「ロクで無し」にすれば、「ロク」=役に立つ、普通以上の、働き者(禄があ る)等の語義と推測されます。それが故か、その「ロク」と同音の漢字「六」を使う宿六(やどろく)=宿の主人とあり、女主人の女将(おかみ)が役に立つか らか、この場合、「ろくで為し」かも知れません。詰まり、宿=寝泊まりする所、六=役に立つになります。ただ、女将の亭主(夫)は役に立たないとされたの か、転じて自身の夫の事を「宿六」と、何の役にも立たないぐうたら亭主と謙遜したり、卑下して呼びます。但し、こうした呼称には、何らかの愛情や諦観が見 え隠れします。
 尚、漢和大辞典に拠ると、六[lıok][lıuk][liəu]=数詞や序数(五行説に関わる語義)とありますが、「呉音(ろく)」陸[lıok][lıuk][liu]項、「六」の代用字の他に下記の如き二系統の語義があります。

  (1)高く平らな土地、一段高い所に上がる、くぬが、岡、陸路(⇔海路)
  (2)踊る、飛び跳ねる、暴れる、欲しいまま(~に振る舞う)

 (1)「陸」の本義で、他にも、歪みなく正しい事。真っ直ぐな事。真面目な事。十分な事等、先の「ロク」 と、(2)六(ろく)との関わりから「ロク」と云う音が持つ語義は、役に立つもの、良いもの(陸陸)となります。それが故、広辞苑には、「ロク」を二つ重 ねた「陸々(ろくろく)」=十分に、良く、真面目にとあり、陸々、勉強もせず=真面目に勉強もしない→ろくに勉強しないが在ります。但し、同音ですが、当 て字とされる「碌」には、平凡な様、役に立たぬ様、何事もなし得ぬ様、人の後に付き従う様、車輪の音の形容(轆轆)、馬の嘶く声、石の青色(緑青)等、 「碌々」=小石の多い様、何処にでもある小石=平凡で役に立たない様、役に立たないもの等とあるので、逆説的に、役に立たないもの、悪いものに派生し、余 り良い意味として使われなくなったのかも知れません。尚、他にも陸(ろく)と近似音の漢字があり、夫々の語義は下記の如くなります。今回は、ここ迄、以 下、次回とします。

○鹿[luk][luk][lu]=動物の名、猪や鹿等、四足の動物の総称、四角の米倉(四本足?)、帝王位の喩え(一段高い)。*宍(四支)。
○麓[luk][luk][lu]=ふもと、山裾、大きな林、山林を司る山守。「日本書紀」麓を山の足とする(麓山祇)。
○禄[bluk][luk][lu]=幸い、扶持(ふち)、俸禄を与える力、字形から、神からの贈り物、御零れ。「禄々」=幾らでも転がっていて平凡な様。
○録[bluk][lıok][lıu]=記す、文書、書き抜き、良く品定めする、統べる、取り上げる、括る、検束する等。「緑々」=幾らでも転がっていて平凡で取得のない様。本義は、神の信託(正否)を受けるために青銅器等の表面に刻んだ金文か。
○緑[bluk][lıok][lıu]=黄色と青色の中間色、その絹、艶のある黒(緑髪)、かりやす(萌葱色の染料)。*身分の低い者が着る衣の色とあるが、この場合、神(王)から授かった色と、その衣は染め色ではなく、生成りの色。
○肋[lək][lək][ləi(lə)]=あばら、あばら骨。貝殻の表面に形成される畝(うね)。鶏肋とは役に立たないものだが捨て難いものの喩え。
○勒[lək][lək][ləi]=馬を馭する革紐、馬銜(はみ)に着ける面懸(おもがい)、制御する、程よく調整する。古訓「あらたむ」「いたう」等。

のらくら=怠け遊んで日を送る様。また、その人。ぬらりくらりと捉え所のない様。のらりくらり。*ぬ-ろく-ら → の-らく-ら?
岡=漁師や船乗りが、仕事を辞めたり、止めたりする時、陸(をか)に上がると云う理由は、役に立たない=陸(ろく)でないとは云わず、「ヲカ」=一段高い所と云うニュアンスだからか。
刈安・青茅(かりやす)=稲科多年草。山地草原に自生。細い茎が直立、葉は線形、 茅(かや)に似、高さ約1㍍。秋、3~5分岐の花穂を出す。茎・葉は乾して黄色染料、藍と併用し緑色染料を製す。刈安染の略。ヤマカリヤス。オウミカリヤ ス。[季]秋。小鮒草=稲科一年草。高さ約30㌢。葉は笹に似て基部は茎を巻く。初夏、紫褐色の花を穂状に配列。煎じて染液を採り、黄八丈染に用いる。カ イナグサ。古名、かいな・あしい。
  1. 2015/07/11(土) 13:35:12|
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◇「リク」と「ロク」

 広辞苑に拠ると、陸(りく・くが・をか)=地球上の水に覆われてない約30%、岩石、及び、土壌で構成 される。陸奥国の略。一方、「呉音」の陸(ろく)には、水平である事、平坦な、歪みなく正しい、真っ直ぐな。(「碌」とも書く)物の正しい事、真面目な 事、きちんとしている。十分な、満足な。「六」の大字とあり、字音に拠って語義に違いが在り、呉音「ロク」は概ね良い語義として使われます。例えば、百済(くだら)系(遊牧民+耕作民?)は呉音を使っていたとも云われ、同音の麓(ろく)とも関連して、「クダラナイ→降らない(狩猟採集民?)」の語源にも繋がるのかもしれません。
 尚、前回、掲げた「ロク」と云う漢字音を持つ「禄」「録」「緑」の語義から推測すると、概ね神から授けられたもの、与えられたもの。有益で良いものと云うニュアンスがあったと考えられます。また、近い漢字音の「鹿 (しか)」は、神が与えてくれる獲物で四つ足の総称、そうした様々な恵みとして、稲等の穀類を保管する四角い倉(四本足?)、そして、それを所有する帝王 位の喩えとして派生、これと同じ中国音を持つ麓(ふもと)は、「日本書紀」麓山祇の但し書きに、山を支える足(山守?)とあります。
 日本語は同音ですが、中国音では少し系統の違う勒[lək][lək][ləi]=手綱を引き締めたり、緩めたりする事と、「肋」(近世音は異音 [lə])の隙間のある骨の状態、高所(有)と低所(無)が交互にある事が、高低、有無、善悪、正否、昼夜、干満等、陰陽の二元論に派生し、良悪、善悪・ 正否等、両面の語義を包含したのかも知れません。それが故、船乗りや漁民が禄(ろく)を得る海や河川の船から下 りる事を陸(をか)に上がると呼びました。下記の如く数詞の概念は、略24時間は「4×2」と云うサイクルで繰り返す潮汐に拠るもので、1~4と5~8の 二回で、略一日を表し、9~12で、再度、一日が始まる。3×8=24で廻る太陽に拠るものと関連し、3×4=12と云う時間の流れを表したと考えられます。


 1(干潮)→2(低潮)→3(満潮)→4(高潮)、5(干潮)→6(低潮)→7(満潮)→8(高潮)、9(干潮=始まり)~12
 1(曙)→2(昼)→3(晩)→4(曙)→5(昼)→6(晩)→7(曙)→8(昼)→9(晩)
 1(ひ/いち)~2(ふ/にぃ)→3(み/さん)、4(よ/しぃ)~5(い/ごぉ)~6(む/ろく)、7(な/ひち)~8(や/はち)~9(この/きぅ)

 言葉は、様々な思想や概念、為政者や使用者の意識に左右されながら、永い時間を経て成立しました。万物の輪廻転生を説く陰陽五行に拠ると、東「三碧木 星」で産まれた嬰児は三歳迄、足が立たないが、東南「四緑木星」で母乳から魄を授かって満ると足が立ち、すくすくと育つ(満潮=太る)。南「九紫火星」で 成人(高潮)すると、老いが始まり(引潮)、肉体が滅び(低潮)、亡くなると、その霊魂は身体から抜け出て南西「二黒土星」=地獄の竃(かまど)から中央 「五黄土星」へ還り、黄泉(よみ)の水で浄霊されて「魂」「魄」に別けられます。その「魂(陽気)」は、北「一白水星」の天宮へ還った後、陰極の西北「六 白金星」で妊み、再度、中央「五(十)黄土星(子宮)」で育まれます。例えば、東南「四木星」で嬰児が授かる「魄(はく)」も緑(ろく=みどり)→瑞(ミドゥ→ミズ)で、神から授かった禄(ろく)と考えられます。
 この「ろくでもない」は善悪を含み持つ「ロク」と助詞「も」の思ってもみない、意外なと云うニュアンスに拠り、家の宿六、本当に怠け者で、ぐうたら、良い所はないけど、と嘆きながら、「でも、憎めないのよね」と云うニュアンスを含み持ちます。

呉音=古事記は呉音、日本書紀は漢音で記述される。後者の神武天皇は生母と姨(おば→うば)の何れもを「海人+(父系遊牧民+耕作民)」と特筆し、降らない者には属さないとするのか。また、古事記は仏教系、日本書紀を神道系と比定した。
禄=幸い、扶持(ふち)、俸禄を与える力、原義は、神(示)からの 贈り物の御零れ。禄々=幾らでも転がっていて平凡な様。「録」=記す、文書、書き抜き、良く品定めする、統べる、取り上げる、括る、検束する。本来の語義 は、神の信託(正否)を受けるために青銅器等の表面に刻んだ金文か。「緑」=黄色と青色の中間色、同色の絹、艶のある黒(緑髪)、かりやす(萌葱色の染 料)、身分の低い者が着る衣の色とあるが、本来、神(王)から授かった色と、その衣かも知れない。漢字音[bluk][lıok][lıu(lu)]
鹿=古代の神器と云われる銅鐸等に描かれる事からすれば、狩猟採集を糧とする人々にとって神の恵みと云える。また、アイヌの人々は熊を神様として祀り、イヨマンテと云う火祭りを行った。
魄(はく)=南西の地獄への入口から黄泉へと返る力を失い滅びる身体=穢れた黒土に対して、浄化された「魄=白」は肉体を司る。おそらく、死者の霊と肉体は太陰の月(肉月)へ還り、太陽光に照らされて満月(月偏)になり、浄化されて「魂魄」に別けられると考える。



  1. 2015/07/18(土) 11:13:32|
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◇全然、良い

 最近、よく使われる「全然、良い」「全然、大丈夫」等の使い方に違和感を持つ人は少なくないでしょう。国語辞典では「迚も~ない」と同様、打ち消しや否定を伴って使われるとされるので、「全然」は否定を伴うべき副詞と云うのが言葉の規範と云う意識があります。但し、広辞苑「全然」項 〔名〕全くその通りである様。全てに亘る様。〔副〕全ての点で、すっかり。打消の言い方や否定的意味の語を伴い、全く、まるで。俗な用法で「全然、同感で す」等と肯定的にも使われる。尚、研究者の間では、この規範意識は国語史上の迷信とされます。その理由として、明治から昭和初期迄、「全然」は否定にも肯 定にも用いられ、日本語の誤用を扱った書籍等では、「全然+肯定」を定番の間違いとして揚げられます。それに就いて、以下の如き国語学界の発表もありま す。

 【日本語に関して知識の深い当時の研究者等の論文や記事中、「全然」がどの様に使用されているか実態を調査、採集した「全然」の用例を分類すると、全 590例中、6割の354例が肯定表現を伴い、その約4分の1の85例が否定的意味やマイナス評価を含まない使い方となっていました。尚、昭和10年代の 専門3誌における「全然」の使用例は下記の通り。

  ○否定を伴う例 計 232
   (1)形容詞「ない」 (2)助動詞「ない」「ず(ん)」 (3)動詞「なくなる」「なくす」
  ○肯定を伴う例 計354
   (4)否定の意の接頭語として使われる漢字を含む語  (5)2つ以上の事物の差異を表す語
   (6)否定的な意味の語  (7)マイナスの価値評価を表す語
   (8)否定的意味・マイナス評価でない語 85例
  ○判断が難しい例 4例

 当時から、否定を伴うという言語規範があったとすれば、多くの研究者が学術誌で規範に反するような表現を使うとは考えられません。また、昭和10年代後 半になると、植民地への日本語普及という当時の国家的重要課題を念頭に置いた「標準語」「正しい日本語」をめぐる議論が盛んに行われるようになりました が、3誌には「全然」の規範意識に関して言及したものは無かったばかりか、「全然+肯定」の使用が散見されました。尚、著名な国語学・言語学者金田一京助の「前者は無限の個別性から成り、後者は全然、普遍性からなる」と云う文章も含まれています。】
 
 私見で、この言葉につかわれる漢字の意味を「全く然り」とすれば、本来、その状態や状況が十分で在る事を示唆し、強調する言葉で語義的に否定を伴わなけ ればならないとする理由はないと考えます。未だに信じられている理由は、或る時期、国語学界の指導の下、言語の規範や語法として教育したからでしょう。特に、そうした時代に教育を受けた年輩の方々は、その感覚が強いと思われます。尚、上記、「肯定を伴う例」として、以下の如き例文が考えられますが、それに対する書き換え文を提示します。

  (4)全然、不足です。→ 全然、足りないです。
  (5)全然、狭いです。→ 全然、広くないです。
  (6)全然、嫌いです。→ 全然、好みではないです。
  (7)全然、古いです。→ 全然、新しくないです。
  (8)全然、大丈夫です。→ 全然、問題ないです。

 (4)(5)(6)(7)(8)の何らかの基準に照らすと同等でないと云う否定的なニュアンスとして書き換えられます。590例の内、二者の差異、マイ ナス評価や否定的な語も金田一京助氏の文章と同様に、文脈として前者と後者を比較すると云う文体で使われると思われます。以下、次回とします。

高知大学で開催された日本語学会。国立国語研究所の新野直哉准教授をリーダーとす る研究班、橋本行洋花園大教授、梅林博人相模女子大教授、島田泰子二松学舎大教授等が、言語の規範意識と使用実態―副詞「全然」の迷信をめぐってと云う テーマの発表を行いました。最近、「全然」が正しく使われていないといった趣旨の記事が、昭和28~29(1953~54)年にかけて、学術誌「言語生 活」(筑摩書房)に集中的に見られるので、否定を伴うという規範意識が昭和20年代後半に急速に広まったとします。しかし、発生・浸透の経緯については先 行文献では解明されておらず、先行研究が注目しなかった戦前の昭和10年代(1935~44)の資料に当たり、「全然」の使用実態を調べる事で、当時から 規範意識があったのかを考察した。
 
  1. 2015/07/24(金) 07:43:37|
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◇英語の文型

 国語学界の研究発表は、以下の如く続きます。【他に「古川ロッパ昭和日記/戦前篇・戦中篇(晶文社)」の昭和10年代分を対象に個人における「全然」の 使用実態を調査した結果を併せ、昭和10年代の段階では、本来、否定を伴うと云う規範意識は、未だ、発生しておらず、使用実態も昭和20年代後半以降に広がる迷信を生み出す様なものではなかったと研究班は結論づけました。】

 昭和20年代後半以降に広まる迷信を生み出す様な使用実態が昭和10年代にはな かったとすれば、尚のこと、迷信が起こり、影響された大きな理由や原因があって然る可きだと思います。先述した様に語義からしますと、否定を伴うとする理由はありませんが、戦前戦中の国家的重要課題を念頭に置いた「標準語」「正しい日本語」をめぐる議論が盛んに行われた事の反発からか、明治期に流入した英語や、敗戦後の英語教育に使われる教科書の作成仮定に於いて、英語文法等にも影響を受けたとも考えられます。例えば、英語でも、at all / in the least 等、通常、否定(not)を伴って使われる副詞が在り、これらの使い方に影響されたとすれば、「全然、~ない」も、こうした英単語や熟語と同様のニュアン スを持つと考えられます。
 そこで下記の如き例文を使って比較してみましょう。

  A I can not understand it at all → 私には迚も理解できない。
  B I do not want it in the least → 私はちっとも欲しくない。

  何れの文章も背景には貴方や第三者と違う=他者との比較→(5)2つ以上の事物の差異を表す。難易・良悪・過不足→(7)マイナスの価値評価を表すのと同 様のニュアンスがあり、Aの場合、全然、解らない。Bの場合、全然、欲しくないとできます。尚、或る新聞記事には、辞書の世界では新しい変化も出てきてい ます。三省堂の大辞林第3版(2006)は諸研究を反映したのでしょうか。旧版にはなかった明治・大正期には「全て」「すっかり」の意で肯定表現にも用いられていたが、次第に打ち消しを伴う用法が強く意識される様になったという記述が追加されていますとあります。

 言語自体、時代を反映し、規範や語法、発音は変化変容します。例えば、戦前戦中、野球用語「ストライク」は敵性語として「良し」とされた。例えば、全然、良し(ストライク)=明白な良し(ストライク)→紛れもない良し(ストライク)と、比較して差違を表すので否定を伴う文章にできます。
 本来、「全然」には何かと比較する(完⇔欠)と云うニュアンスが在り、「全然、良い」の発言者や応答者は、その意識下で対照的な良くない状態や状況と比 較する。全然、良い=疑いなく良い=全然、問題ないは、それが差違や欠落等のマイナスの状態や状況、同等でないと云う感覚を生み、全然、~ないと否定を伴うと云う規範に派生したのでしょう。先の英語法との関連から推測すると、昭和20年後半、著名な学者や作家等が対談や文章中で、全然、~ないと否定を伴う 事が望ましい等と語ったり、その記事が契機となり、規範として認識され、国語教育に組み込まれたため、それに法ってきた人々には違和感を持つのは当然の事ですが、現在、そうした規範が持つ縛りが薄れたと考えます。
 但し、全然、大丈夫です→全然、問題ないですは、前後の脈絡に拠っては、少し、ニュアンスに違いが生じます。前者は「全然」が持つ比較すると云うニュア ンスから応対者は「本当に大丈夫か?」等、何となく、その疑いや不安感を拭えない。後者の場合、応対者は同様に一寸した疑いを持つが、心配ないと断言され た様に感じ、安心感を持つ。ただ、そうした不安感等、意外な感じを持たせるとすれば、良いのかも知れない。

迷 信=研究発表は、今後の課題は迷信が戦後のいつの頃、どのように発生し、浸透していったのかを解明する事とします。或る新聞の読者投稿欄に子供向けテレビ 番組で使っていた「全然、大丈夫」というフレーズは誤用であり、日本語の乱れだと断言する内容でした。専門家の研究が着実に進みつつあるものの、こうした 投稿が新聞に大きく掲載される現実は“迷信”が、まだまだ、一般に根強く浸透している事が窺える。
「全て」「すっかり」=本来、「全く以て然り」と状態や状況のままと云う語義で、 強調として使われていたが、それが「全く」「全て」「すっかり」と云う語義にも派生したと考える。尚、学界で認められた規範や語法の変容、発音の変化を辞 書は後追いで記載する。英語でも同様の変化や変容がある。そうした使い方を誤用とする前に、これらが持つニュアンスの違いを云々すべきだ。
規範=音楽の和声学とは使ってはいけないのではなく、なるべく使わない方が良いと云う程度で、逸脱する事で意外な効果(緊張等)を表現できる。同様に言語の規範や語法も規範として確立しているのであれば、則した方が真意は伝わり易いが、逸脱する事で意外な効果を生む。
  1. 2015/08/01(土) 12:45:08|
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◇一段落

 慣用句も一段落しました。最後に、一段落(ひとだんらく)は誤読で、「イチダンラク」が正しいとされる事を考えます。広辞苑「一段落(いちだんらく)」 項に、一つの段落、一区切り。物事が一旦、片付く事。「ヒトダンラク」は慣用的な読みとされます。しかし、これには疑問があります。例えば、上記、一区切 (イックセツ)とは読みませんし、広辞苑には「一(ひと)~」とされる言葉が他に幾つもあります。一つ一つ拾い順に見ていきましょう。

○一雨(ひとあめ)=一度の降雨。一頻り降る雨。*一雨一雨(ひとあめひとあめ)暖かくなる
○一息(ひといき)=一度の息つぎ、一呼吸(ひとこきゅう)。一休(ひとやすみ)。少しの時間。一気(いっき)。「いっそく」=僅かの息、一寸とした息。
○一切(ひときれ)=一つの切れ端。一片(いっぺん→ひとひら)。「イッサイ」とすれば、全ての事、全体、残らず等の意味。
○一言(ひとこと)=簡単に述べる、僅かの言葉、少し言う事。一つの言葉、一語(いちげん)。
○一入(ひとしお)=初めて染色液に浸ける事を初入(はつしお)、一入、一入と浸けて染め色を濃くしていく。幾度も染める事を千入(ちしお)。一層、一段等と共に「喜びも一入」。一入(いちしお)、二入(にしお)等とは呼ばない。
○一頻(ひとしきり)=(副詞的に用いる)暫くの間、盛んである様。
○一度(ひとたび)=一遍(いっぺん)、一旦(いったん)、同時。「度」は序数的なニュアンスを持ち、一度(ひとたび=いちど)、二度(ふたたび=にど)、三度(みたび=さんど)と、何れでも使われる。
○一時(ひととき)=暫(しばら)く。或る時、約2時間。「いちじ」=曾て、一頃、過去の或る時、その時限り。臨時、当座、同時、1回、1度、一時解雇、一時的、少しの辛抱。等、「度」と同様、何れにも使われる。
○一握(ひとにぎり)=片手で握る程の量。僅かの量。一掴(ひとつかみ)。敵等を容易に遣っつける事、この場合、二握(ふたにぎり)目はない。
○一晩(ひとばん)=日暮れから夜明け迄の間、或る日の晩。翌日、もう一晩の場合、二晩(ふたばん)
○一枚(ひとひら)=薄く平らなもの→一片(いっぺん)、花弁のひとひらひとひらは、数を数えるわけではない。
○一巻(ひとまき)=一度巻く。一族・同族。一巻物、一本。巻数一つ。一つの事。一式。「いちまき」=一巻子本(いちかんすぼん)・絵巻物。一書物の全内 容。(事物の)一部始終・一切・全部。「いっかん」=巻物・フィルム等の一つ。第一の巻。等、動詞と名詞で、「度」と同様、何れにも使われる。
○一目(ひとめ)=一度見る。一寸見る。目の中一杯。物や景色が一瞬の間に見渡せる(一望)。一目惚れ。「 いちもく」=囲碁で、一つの地や石。一目散、一目瞭然、一目置く。
○一休(ひとやすみ)=少し休む。小休止。*一入(ひとしお)と同様、何度、休もうとも。
○一夜(ひとよ)=一晩(ひとばん)、或る晩、或る夜。夜中、終夜(よもすがら)。一夜妻(いちやづま/ひとよづま)。「いちや」=日暮れから夜明け迄。一夜城(いちやじょう)、一夜漬(いちやづけ)、一夜干(いちやぼし)。

 上記からすると、「ひとだんらく」は序数ではなく、一固まり(区画)を示唆し、後はありません。もし次ぎにも在るとすれば、一段落(ひとだんらくめ)とされます。一方、「いちだんらく」は、序数詞として順番や回数を示唆するので、後に、二(に)段落や三(さん)段落が予想されます。詰まり、「ひとだんらく」=一つの段落、「いちだんらく」=一つ目の段落と云う使い分けがあったと思われます。(了)

「いちげん」=一言居士は、兎に角、何事にも、自分の意見を云わなければ、気のすまぬ性質の人。一家言(いっか・げん)=その人独特の主張・論説。また、見識のある意見。
序数詞=数量を量り、順序を数えるのに用いる語。前者は1・2・3、1個・2個・ 3個の類(基数詞)、後者は1番・2番・3番、第1・第2・第3の類(序数詞)。順序数=〔数〕自然数には、物の順序を示す機能と物の個数を示す機能とがある。前者の場合の自然数を順序数、後者の場合を濃度・基数・カーディナル数という。序数。オーディナル数。
 
  1. 2015/08/07(金) 19:33:30|
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