見まごう邪馬台国

◇陳寿の認識

 「魏志倭人伝」では記述法にも様々な違いが在る。里程や日程で云えば、冒頭の倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑~(中略)。從郡至倭循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里と在り、最後に郡衙から此迄の総距離数を記載するが、狗邪韓国で船を乗り換えた後、始度一海千餘里至對海國、又南渡一海 千餘里名曰瀚海至一大國、又渡一海千餘里至末盧國の三国は、何れも国名の前に同里数で千餘里とする。また、上陸後、東南陸行五百里到伊都國も国名の前に五百里。次の東南至奴國百里と東行至不彌國百里とあり、陸行の場合、~余里としない。また、最後の二国で、その前者は「東南至」、後者は「東至」とする。次に南至投馬国水行二十日、南至邪馬壹国女王之都水行十日陸行一月は、最後に距離数(里程)ではなく、その総日数(日程)を記載する。
 此処では、原文の記述に順い用いられる漢字の語義や解字を見ながら、「至と到」「度と渡」「従と自」等の違いを鑑み、編者陳寿の思惑や意図を考えてみたい。先ずは、「魏志東夷伝倭人条」冒頭の下記の記述から始める。

  (A)従郡至倭循海岸水行歴韓国 乍南乍東其北岸狗邪韓(くぬがわに)国 七千余里

 上記、「其北岸~」を外洋船を乗り換えたからとする研究者や論者がいる。確かに沿岸航行と外洋航行の船は同じではないので、それも 一つの理由だろうが、伊都国でも「到」とされる理由は何か。「陸行」は末盧国からで、次の奴国と不彌国にも「水行」と云う記述はない。例えば、伊都国が特 別有力国だったとしても「南邪馬壹国女王之所」と、女王国の都に着く事を「至」と記した理由は何か。一説に、魏使は伊都国迄は行ったが、邪馬壹国には行ってないからとする。しかし、これも対海国・一大国・末盧国に「至」が使われる事を説明しなければならず、下記の記述から魏帝の勅書と金印や下賜品を携えた魏使も女王に詣でたとせざる得ないと思う。

   王遣使詣京都帯方郡諸韓国 及郡使倭国 皆臨津捜露傳送文書賜遣之物 詣女王 不得差錯

 狗邪韓国の「到」が船を乗り換えたからとして、そこから伊都国迄の国々を通説の比定地とし、末盧国からの陸行後、伊都国から奴国や不彌国迄を水行したと しても、女王卑彌呼の頃、平均気温が一度近く高く、縄文海進に近い状態だった。福岡県の博多湾も現在より内陸部迄、浸水し、その西側の糸島半島は繋がって おらず、満潮時には水道があった。伊都国の比定地が糸島半島基部の南側だったとすれば、末盧国で河川水行用の平底船に乗り換えて従者に曳かせて河岸部を陸 行するよりも朝鮮半島西岸と同様、沿岸航海用船に乗り換えて潮流と潮汐を利用して東へ水行した方が合理的だろう。更に、狗邪韓国で沿岸航海用船から外洋船 に乗り換えたと云う事は、次項 (B)始度一海と云う記述で判断できるので、「到」とされた理由は別に在ると思う。尚、手持ちの漢和字典に拠ると、「至」「到」は下記の如く在る。

   「至」=(解字)矢+大地、放った矢が落ちた地点 → 或る所から至る迄の道程や経緯に重点
   「到」=(解字)至+刂(人)、到着地に人の居る事を表す → 目的地として到着した所に重点

 上記と、(A)倭~~云々から、東南方とした倭人系海民の領域へは、帶方郡衙から郡治下の韓国を歴て狗邪韓国迄の沿岸部に於ける里程や日程、移動方等、魏使にとって既知の情報に従い到った。その北岸狗邪韓国は中華思想から外れた東夷の国々へ向かうための基地で、南に方向を転換すると云う意図で使われる。また、魏使には、倭人海民が持つ渡海方法や距離感、正確な地理的情報が得られると云う認識があった。

南至=「到其領域北岸」とする最大の理由を、この始点とした。「至」=始点から終点の経過に重点があるとすれば、何れも領域内の水行や陸行の全行程、狗邪韓国~邪馬壹国(水行三千餘里+陸行二千里=五千餘里)、狗邪韓国~投馬国(水行六千餘里)を日程として示唆したと考えられる。また、自郡女 王國、萬二千餘里は、帯方郡衙~狗邪韓国(七千餘里)と狗邪韓国~邪馬壹国(五千餘里)=萬二千餘里と全里程を示唆した。尚、帯方郡衙から狗邪韓国迄の全 日程は水行一月弱(25日程)で、邪馬壹国から魏の京都「洛陽」迄、6月に出て、12月に帰路に就いたと推測される記述が在る。帶方郡から洛陽迄、約 1500~2000㎞(萬五千里~二萬里)を黄河沿岸部の水行、20日×3=60日(二ヶ月)、全体で、二ヶ月+25日+10日+一ヶ月=四ヶ月強で到 着、一ヶ月程で遣使としての役目を果たした。おそらく、季節風を利用した半年の日程として良い。
至=東南至奴国百里や東至不彌国百里の如く、里程が文末にされると仮定文となり、実際には向かっていないとする論者もいるが、それでは、奴国は方向と距離「東南至奴国百里」とし、不彌国でも同様に方向と距離だが、「東至不彌国百里」とされる理由が判らない。おそらく、これが、東南伊都国五百里とされた理由で、伊都国を分岐点にせざる得ない。其北岸狗邪韓国とt違い、東南方向から東への分岐点になる。
東夷=中国大陸東岸の蛋民(河川民)や沿岸航海民も東夷と認識され、広東省等大陸東南部の「粤」と同系会稽の人々はも含まれる。尚、魏と交戦状態だった遼東太守の公孫氏は呉の海民と繋がりがあったとも云われる。
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  1. 2015/08/14(金) 20:13:25|
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◇魏帝の思惑

 『「邪馬台国」はなかった』の著者古田武彦氏は、郡至倭海岸水行~韓国と、下記、「魏志」の記述から魏帝の威厳を示すために韓国領内を狗邪韓国迄を対角線上に陸行したとする。何れにしても半島南東部に向かった事に違いはないが。

  (1)八月、帝、遂に舟帥を以て、譙より(自)渦にいて淮に入り、陸道にい徐に幸す。
  (2)遂に歩従して卞水(べんすい)に到る。水深くして渡りえず、洪、水にいて船を得る。
  (3)太祖、白馬を祓いて還り、輜重(しちょう)を遣わし、河にいて西せしむ。

 上記の三つは順に以下の如く理解する。(1)陸行以外に方法が無かった等の理由で、淮から陸道で徐に幸す。(2)歩いて到った卞水の流れが深かったので 川縁で船を得た。(3)何らかの理由で太祖は陸道を安全祈願した白馬に乗って還り、代わりに輜重に水行か、河川沿道を陸行させた。
 何れの場合も水行(乗船)と陸行(徒歩・乗馬等)と判る示唆があり、況んや、「循」や「従」とするが、「歴」はない。これをして「倭人伝」の記述を韓国からは陸行したとできる理由が解らない。
 例えば、天皇皇后両陛下は慰霊の為に南太平洋の島々に至られ、激戦地を歴訪されたとした場合、今ならば、飛行機だろうが、一昔前は、船旅で島々を巡っ た。詰まり、歴韓国乍南乍東~陸行~とされない限り、「循」=順う・巡る、「歴」=転々と彼方此方にと云う漢字の語義に拠り、直線的な二点間の動きを表す 「経」に対し、暦と同源「歴」は転々とした動きで、文脈的には帯方郡からリアス式海岸に循じて水行、彼方此方に碇泊しながら韓国を歴て南下、西南隅から東へ向かう。これが南西方向にへ行ったならば、「歴韓国乍南乍西」にされたと考える。更に、「東南陸行五百里到伊都國」から末盧国で上陸した事が判り、その後も水行とされないので陸行となる。
 もう一つ、循海岸水行韓国乍南乍東其 北岸狗邪韓国~に使われる「従~至」と「歴~到」の関係に拠り、韓国からの水行とは別ルートの陸行で狗邪韓国に到ったとしたり、朝鮮半島西海岸は暗礁等が 多く危険だったから陸上を通ったとする研究者や論者も居るが、当時、韓国領の馬韓・弁韓・辰韓は帶方郡に服属を強いられていたが、反対勢力は居なかったと は考えられず、魏帝の命を受けた魏使は勅書と金印等の下賜品を間違いなく女王卑彌呼に届けるため、最も安全で迅速な方法を用いたと思う。詰まり、そうした 水道を安全に航行する知識や技術を持った沿岸航海民だからこそ、その存在意義があった。例えば、九州東北部の玄界灘沿岸部も暗礁が多いので、宗像海人族の 水先案内でなければ危険だったと云われる。帯方郡は、そうした彼等を服属させていたからこそ韓国も支配できたと考える。
 河川航行や沿岸航海、外洋航海に従事する蛋民や海民が持つ能力は為政者にとって重要で、彼等を支配服属させる事は国力を充実させる重要な手段となる。当 時、魏帝にとって外洋航海民倭人を取り込み、繋がりを持つ事は戦略的にも大きな収穫だった。それが故、その支配権を認め、法外な返礼品で以て魏使を派遣し たと考えられる。領海と云う言葉が在ったかどうかは別として国域や領域とは陸地だけではないと知るべし。
 述べてきた理由で、何れも可能性は低いと思う。(A)を意訳すると下記の如くなる。尚、赤字は意訳部分とする(以下同)。

 帶方郡衙から半島西沿岸を(郡に服属する沿岸航海民の水道に)循じて水行、韓国を歴て(南西隅から南沿岸を)東へ水行し、(外洋船に乗り換えるための寄港地)倭人の領域北岸の狗邪韓国に到る。(郡衙から此処迄)七千余里。

半島東南部=「東南陸行」を「道標」等と称し、伊都國を博多付近としたいためか、歩き始めの方向と云う。こうなると邪馬壹国への道程や行程を述べる陳寿の意図ではなく、著者古田氏の意図や思惑になる。
渦=渦水、河南省通許県を源とし、安徽省で淮水に注ぐ。目まぐるしい動きのある所の意で、急流だったか、渦を生じるのかも知れない。
暦=太陰暦(陰暦→旧暦)で、新月~満月~新月と月の形状が日毎(約29.5日)に変化する事を基本として作られたもの。日本では明治初期迄、農事暦との関りからか、太陽暦=太陽と地球のとの関係をも含み持たせた旧暦(太陽太陰暦)が使われた。
循=循環器に使われる様に、血管等、決まった経路に従い移動する事を意味するので、沿岸の水道を使って航海したと考える。



 
  1. 2015/08/20(木) 15:45:39|
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◇支配者の思惑

 或る友人は、海民に就いて以下の様な疑問を投げかけてくる。

  (1)朝鮮半島や大陸東沿岸部の海民は渡海できないのか。
  (2)直接、東シナ海を渡海できないのか。
  (3)海民の彼等は、違う海域の渡海や水道の航海ができないのか。
  (4)海民や川民は、互いの海域や水道を取り合わなかったのか。
  (5)南東部の狗邪韓国ではなく、南西部の済州島では駄目だったのか。

  (1)(2)(3)の三つは何れも否だ。何故ならば、海民とは、長い間の経験則や知識に基き、自らの海域や水道に於ける独自の航海術を研いた。詰まり、それを持ち得ない人々、幾ら海民が船に乗る事はできても、上手く操舵し、安全に航海する術はない。これは大陸の河川を航行する川民や砂漠を往来する隊商等 も同様で、既得の経験則や知識を持つ。隊商の宿、航海の寄港地、悪天候に於ける避難所や避難港の位置を把握する等、既得の技術や知見が彼等の糧となり、支配者にとっても有意義な存在だった。
 当時の航海術に関する資料が殆どないので、推測する以外にないが、略間違いなく、季節風、潮流や干満等の自然の力を利用した。例えば、朝早く出港する漁 師には様々な理由があるのだろうが、一つには、午前中の干潮を利用して出港する事だろう。それはエンジン付の船でも燃料の節約になる。エンジン等の動力を 持たない当時では、当然の事だった。また、暗礁を避ける技術、季節に拠る風向、満潮時の水深や潮流の有無や流水の方向、その流量等も知識があって、初めて安全に航行できた。詰まり、狗邪韓国へ向かった最大の目的は、半島と九州の間に横たわる一海の瀚海を安全に渡るためとなる。
 (4)は、古来、そうした海域や水道では争奪戦が繰り広げられたのは間違いない。ただ、それを奪われる事は自らの存亡に関わるので、身体を張って阻止し たと考える。そうした戦いを経て、自ずと、A地点~B地点は誰某、B地点~C地点は誰某、C地点~D地点は誰某の領域といった暗黙の了解が生まれる。そう した安定が治安の悪化に因り、崩れ、再び、爭乱になれば、何方側に付くのか、その舵取りが重大事だった。但し、為政者が武力で従わせ、刺史の如き武人を帯 同させたとしても、何せ、船上と云う敵の腑所に入り、砂漠等の敵陣内を移動し、運搬するので、多勢に無勢、彼等の思うつぼ、都合の悪い事が多かったであろう事は推測されるので、或る程度の権益を認める事で服属させたのだと思う。
 述べてきた事から、遼東太守公孫氏との戦いの最中か、直後に、狗奴国に対しての後ろ盾を期待し、遣使して来た卑彌呼に魏帝(の側近)が、その支配権を認める金印「親魏倭王」を授け、多くの下賜品を持たせて返礼した理由が分かる。また、呉に服属していたとも云われる大 陸東沿岸部の航海民と遼東太守公孫氏には繋がりがあったと云われる事からも、魏帝には、文字通り、渡りに船で、半島からの渡海術を持つ倭人海民を服属させる事が孫権の「呉」に対する後方支援や抑止力となり、引いては狗奴国や呉に服属する海民、大陸東沿岸部や南西諸島を往来する航海民を服属させる事も視野にあったのは間違いない。国の支配者は、そうした布石を一つ一つ打ちながら国力の充実を図り、支配力を強めたのだと思う。
 (5)は、朝鮮半島南西部の木浦等から沿岸の島々を経て済州海峡を渡海後、済州島(耽 羅)から五島列島迄の間、手持ちの地図を見る限り、浮島が見えず、この海路があったのかどうかは判然としない。当時、外洋を一日で航海する距離を千余里 (約100㎞)とすれば、少し厳しい航路になるの確かで、釜山付近から対馬、壱岐、松浦と云う航路が遥かに楽だったと思われる。

東沿岸部の航海民=彼等も呉との関係を脱解する目的があったのか、公孫氏は魏から独立し、王たらんとした。呉は魏に対する後ろ盾とする等、三者の思惑は合致した。
済州島=「魏志東夷伝韓条」又有州胡、在馬韓之西海中大島上。其人差短小、言語不與韓同。 皆髠頭、如鮮卑、但衣韋。好養牛及豬。其衣有上無下、略如裸勢。乘船往來、市買韓中。この州胡の比定地は済州島か、ソウル近郊の江華島説がある。私見で は、ソウルの南、泰安半島とした。後者、二つの何れかであれば、済州島の記載はない事になる。火山島の済州が、当時、どうだったのか知る由もないが、人が 住めない状況だったのかも知れない。中国の元朝時代は馬場にされた。李朝時代は政治犯の流刑地で良く難破した。当時でも飲料水の確保が難かったと云われ る。
 「天智紀」秋八月、遣達率答[火本]、春初築城於長門国。遣達率憶礼福留達率四比福夫於筑紫国築大野及椽二城。耽羅遣使来朝。これも朝鮮半島南岸部を経て九州へ渡来した。尚、遣唐使は平戸付近の生月島とは別に、鹿児島県坊津からも出港したと云われ、これは南西諸島を経て台湾から大陸東海岸を伝った。
耽羅=耽羅=済州島に疑問がある。「旧唐書」劉仁軌傳(665年)麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟・耽羅倭四國 酋長赴會。「隋書倭国伝」明年上遣文林郎裴清使於倭國。百濟行至竹島南望耽羅國經都斯麻國迥在大海中。又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國=度る百済、南に耽羅国を望む竹島とは、朝鮮半島南西部の珍島か、それとも彼の竹島か。また、遙か大海中にある都斯麻(つしま/としま)国を経て、東側の一支国も壱岐ではあるまい。 
  1. 2015/08/27(木) 16:39:01|
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◇論者の思惑

 以下、北京大学医学部名誉顧問岩元正昭氏の著述「漢字解釈の方法論とその解析技術による新たな歴史の発見(【】内)」の抜粋を見ながら魏志東夷伝に使われる漢字の用法に就いて考えてみる。

 【漢籍解釈を難解なものにしている最たる原因は、嘗て平易に使っていた語法を現代人が知らない事である。これを前出の『魏志』東夷伝倭人条に載る「従と 自」「至と到」「行と又」の三つのペアをモデルに実証してみよう。転注文字の用法の原理に則り使用される「從と自」「至と到」のツーペアの漢字について、 上のツーペアの4字は「東夷伝倭人条」中の区間叙述に以下の様に載る。

 (1)從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
    郡から倭に至るには、郡より海岸に沿って水行、韓国内陸を南行きと東行きを繰り返しながら倭の北岸狗邪韓国に到る。この間七千餘里。
 (2)自郡至女王國萬二千餘里
    郡より女王國に至る。この間万二千餘里。

 「從」と「自」の二字は共に二点間の空間距離の起点に伴う前置詞である。「~ヨリ」の意に用いられている。「至」と「到」の二字は共に終点地名の前に置かれる詞である。「~にイタル」の意に用いられている。漢字学的には各ペアの前の字と後のそれは本字と転注字の関係にある。
 夫々、英語の「from~」「to~」に相当する。この項の着眼点は、何故、「from」の意味に「従と自」の二字を、「to」の意味に「至と到」の二字が強いて使い分けられているかという事である。結論を先に述べると、それぞれの二字の関係に転注文字の用法を託し、(1)と(2)のルートが起点の郡を 共有するものの別の方向に旅立ち、「至」字を前置詞とする女王國へのルートが本源的道程であり、「到」字を前置詞とする狗邪韓国へのルートが郡より派生的に伸びた脇道である事を端的に表現しているのである。】

 上記、読み下しで、從(~から)と自(~より)と訓み別けているにも関わらず、その意味の違いは無視する。二つの文字は二点間の関係を示唆するのは間違いないが、前者の「~ から」は「馬を駆る」「本を借る」「稲を刈る」「鹿を狩る」等と同様、手前側(起点)から相手側(至点)に対する動き。後者の「~より」は、「左寄り」 「通説に拠り」「大雨に因り」「占いに依り」等の同訓があり、相手側(起点)より手前側(至点)に対する動きと云う違いで使い分けられる。詰まり、上記の 二つは魏使(編者)の立ち位置の違いと考える。
 例えば、江戸期の道標に「從是南(これから南は)~」とあれば、旅人は北から来たと 分かる。仮に、「自是南(これより南は)~」とすれば、逆に旅人は南から来たと判る。こうしたニュアンスの違いは日本語だけにあって、当時の漢語には無かったとでも云うのだろうか。(1)と(2)を、これに順い、文脈に則して読み下すと以下の如くなり、韓国内を陸行したとは考えられない。*丸括弧内の青 字は筆者に拠る意訳。

 (1)從郡至倭~=(魏使の居る)帯方郡から(の経路に従い)倭に至るには、半島沿岸部を航行と碇泊をしながらを韓国を歴て南西隅を東へ~
 (2)自郡至女王国~=帯方郡(と云う起点)より(今、魏使の居る)女王国に至る~

 上記は、「従」「自」と云う文字の使い分けに拠り、帶方郡から倭に至るには郡に服属する沿岸航海民の水先案内と云う既知の情報に従い到った倭人の領域北岸迄を七千餘里とする。そこで邪馬壹国側に服属する外洋航海民の船に乗り換え、その水先案内で北部九州の末盧国で上陸し、女王の都へ陸行して至った魏使 (編者陳寿)の立ち位置の違いや時間の経過をも含め、郡より女王国迄の総距離を述べます。以下、次回とします。

転注字=『説文解字』の「許叙」に六書の原理定義と挙例がある。
 一に曰く「指事」とは、視て識すべく察して意をみるべき。上、下是也(上と下を表し、上の短い二の字が上、下の短い二字が下字を表す)。
 二に曰く「象形」とは、画がきて其の物と成り、体に随いて詰す。日月是也。
 三に曰く「形聲」とは、事を以って名を為し、譬(たと)えを取り相成る。江河是也。
 四に曰く「會意」とは、類を比し誼を合し、見を以って指撝す。武信是也。
 五に曰く「転注」とは、類の一なる首を建て、同意相受く。考老是也
 六に曰く「仮借」とは、本其の字無く、聲に依り事を託す。令長是也。
 以下、岩元正昭氏の説明、「許叙」に「五曰転注」として転注文字用法の原理と挙例を以下とする。「転注者、建類一首、同意相受、考老是也」。「建類一 首、 同意相受」部分が用法の原理を言い「考老是也」は挙例である。「老」字が、その本字であり、「考」は転注字である。読み方は、類、一首を建て、同意相受 く。考老是なり、となる。「類」字は、六書の會意文字の原理に「比類合誼」と既に使われている。義符として用いられている二つの漢字の義を比較して、その 意味を組み合わせる事を言う。随って「類」とは字義そのものと見てよい事になる。随って「建類一首」とは義の一、同義なる首を建てる。
 広辞苑「転注」=或る漢字が持つ本来の語義を、近似した語義に転用する事、通常、字音を変える。例えば、「わるい」の意の「悪(アク)」を「憎む」の意(字音「ヲ」)とする類とある。
「~から」=「今から先」「今より前」、「明日から学校が始まる」「昨日よりが学校が始まった」等の使い分け。詰まり、前者の「~から」は、現在から後に何らかの関係や関連が在る=脈絡。「~より」の場合、現在より前(原点)に関係や関連が在る→因果。
從是南=四辻であれば、向かって左側「東~」、中央「従是南~」、右側「西~」、反対側は向かって右側「東~」、中央「従是北~」、左側「西~」と書き分けられる。
韓国=「魏書東夷伝」韓は帶方の南に在り、東西を海で限られる。南を倭の領海と接 す。と云う記述とも関連し、「歴」とする事で、南西隅迄、南下したと判り、乍南乍西ではなく、乍南乍東とする事で東南隅へ向かっていると示唆した。こうし た筆法は、簡略で内容豊富に述べると云う漢籍の特徴からすれば、陳寿独自のものではなく、漢籍を担う文官に通じて云える事と思う。
総距離=本ルートと別ルートが同距離でなければ、総距離の萬二千餘里から半島沿岸部の水行距離七千餘里と渡海三千餘里を差し引いた約二千里が陸行距離と計算させる意味がない。 




  1. 2015/09/06(日) 08:23:14|
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◇論者の意図

 論者は以下の如く続ける。【「從」と「自」の相違について詳しく述べよう。「東夷伝倭人条」は「從」「自」の二字が「from~」、詰まり、「~ヨリ」 の意味に使われている。何故、一つの「~ヨリ」と言う表現の為に「從」と「自」という二つの別字を強いて使い分けるのか。ここに作為性がある。
 この「從」「自」という二字は共に「~ヨリ」という同意を持つが、字形も本義も異なっている。その相違性が(1)文と(2)文の主意の相違性を培う淵源になっている。つまり、「從」字にない義を「自」字が持ち「自」字にない義を「從」字が持つと言う関係が二文の主意の相違性を創出しているのである。これが二字の引用される理由である。】

 上記、「從」と「自」の何れも「~ヨリ」とするが、この二つの違いは、前回で述べた通りで、先掲の読み下し文では「~から」と「~より」を使い分けるのが、その相違性と思う。尚、論者は、「三国志」の120年程前に成立したため、語義等の引伸が少ないと云う理由で、採用する『説文解字』と云う漢字辞書には「從=随行也。从从。从亦聲」とあり、その本義は「随行」とするにも拘わらず、論者には何らかの意図があるのか、「人の供となって従い行く」の義を持たないとし、以下の如く説明します。

 【「随」字の本義は「從也」とある。その義符は「从+辵」であり、「辵」字の義に 因っている。「從」字の義符は「从从。从亦聲」とあり、「從」字が会意形声文字である事が判ると同時に、「辵+从」の二字の本義が重なって出来る新たな意 味範囲に「從」字の本義がある事になる。詰まり、随と從の二字の義符に「辵」字が共存する。そこで「辵」を先ず検証する。『説文』に拠ると、「辵」の本義は 「乍行乍止也」である。「乍~乍~」という形の句は、二つの「乍」字の次の動作を順次繰り返す句である。随って「行と止」の二字は繰り返す。「乍行」の「行」 字には進む者が止まるという意味がある。随って「乍行乍止」とは厳格に言えば、1進み、そして2止まるという動作と、3止まるという三つの順にある行為を 繰り返す意なのである。止まったものを、更に「止」まると許慎が述べるのは、3「止」字が2の、それとは異なった「トマル」の意である事に他ならない。】

 例えば、白川静編「字統」辵=彳(小径)+止(歩)、辵=走って越える(躇)=迷わず(⇔躊躇)とし、「春秋公羊傳」階を辵(こえ)て走るが若くす。今本は「躇」は走って越える意とあり、その訓「シタガフ(下合う)」からも、何らかの基準(海民の水先案内)で以て迷わずにとなる。詰まり、「従」の本義「随行」は、何らかの指示や方法に従い後から付いて行くと考える。論者は、旧くは使われていた用法が、或る時代に変化し、現在は失われたと云うのだろうが、漢字が持つ基本語義から大きく外れると文字の機能にも影響すると思う。例えば、町の映画館へ行く途中で、A君の家に寄り、一緒に向かい交差点を歴て到着した。とすれば、映画館に行くという動きは止まないと判る。
 >止まったものを、更に「止」まると許慎が述べるのは、3「止」字が2の、それとは異なった「トマル」の意である事に他ならない。とするが、文脈から循海岸水行を始め、次の停泊地に着き、休息をとり、乗組員や船を代えて、再度、沿岸航行を始めた場合、一時停止だが、上陸した等の示唆がないので、目的地に 到着すると云う全体としての行動は続く。詰まり、一度に二つ以上の事の乍(ながら)と、「從郡循海岸水行」と云う記述に、「歴」を併せて倭の北岸に至る迄、半島沿岸部の水道を水行したり、碇泊しながら南へ東へ、点々と移動するとせざるを得ないと思う。以下次回に続く。

説文解字(せつもんかいじ)=AD100年頃に成立した中国最古の部首別字書。後漢の許慎撰。中国文字学の基本的古典。15巻。漢字九千字余を540の部首により分類、六書(りくしょ)の説により字形の成り立ちと、夫々の漢字本来の意味を解釈した書とされる。
辵(ちゃく)=>「進む(之繞)」の意、『説文』乍(たちま)ち行き、乍ち止まるとするが、甲骨文字や金文や基に漢字を読み解いた白川静氏の「字統」では、彳(小径)と止(足)とに従う。道を行く意。止は歩むの意とする。
「行」=『説文解字』に「行、人之歩趨也。从彳(進む)・亍(佇む)」とある。これに就いては、次回に論じる。
春秋公羊傳=魏・趙・韓の三国が晋を分割し諸侯に封ぜられてから秦の統一に至る戦国時代(BC403~BC221)の成立。
随(まにま)に= 〔副〕そのままに任せる。物事の成り行きに任せる→既知の情報や他人に任せる。
歴=「暦」と同系、「字統」本来、厤(軍門のある所)と、曰(祝詞を収める器)や 止(往来のある所)の違い。何れも行軍に関わる漢字と在り、行軍して点々と移動するといったニュアンスを含む。歴史・歴訪、太陰暦(日毎に満欠)等と使われるのは後の転義とする。「経」=直線的な移動。
  1. 2015/09/10(木) 16:24:32|
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◇「行」と「止」

 論者は、「行」字に就いて以下の如く述べる。【『説文』に「行、人之歩趨也。从彳亍」とある事について、『説文』の「趨」字の本義叙述には「走也 从走芻 の聲」とある。つまり、「趨」は走る事をいう。その「走」字を『説文』に見ると、「趨也。从夭止。夭止者屈也」とあり、「夭」と「止」の合字である事が分 かる。「夭」とは、人が頭を曲げて体の正しからざる貌を象ったもの、或いは、屈んだ人の姿を象ったものである。「止」字は地に在って止まっている足の意である。何れにせよ、二字は体調悪く蹲くまっている人を連想させる。「走」の字義が屈んで動かない人の姿である事が分かる。】

 先の「字統」は「行」を交差点とする。おそらく、行き交う人や佇む人、様々な人々が 居り、目的の終着点ではない。「彳+亍」=少し歩く。立って少し進むと云う二字熟語で、彳(てき)=躑(佇む)、亍(ちょく)=躇(走って越える)と云う 音からの付会で、前者の「彳」は左足の歩行、後者の「亍」は右足の歩行を表すと云う。おそらく、両方を合わせて歩いたり、佇み休んだりと、歩き進む事を表すと思う。

 【「彳(すすむ)」の義が関わる本義叙述部分=「人之歩」=「歩いている人」と、「亍(とどまる)」の義が関わる本義叙述部分の「趨」=歩みを止め、屈みこむ事となる。詰まり、『説文』の「行、人之歩趨也」語の訳は、「行」字とは1歩いている人が、2歩みを止め、屈み込む事となる。二字、夫々の持つ字義 範囲がオーバーラップして醸す全体の意義が「行」字の持つ本義なのである。この解釈であれば、「行」という會意文字の構造原理に違背しないのである。『説 文解字』の「行」字には進む者がやがて停止するという字義があるのである。】

 『説文』走=夭と止の合字とするので、この「止」を本義叙述部分の「趨也。从夭止。夭止者屈也」=歩みを止め、屈み込むとするのだが、漢和辞典には「夭=若い」とあり、「夭折」を走る如く早く亡くなる事とすれば、「夭」=首を傾げる貌→人が走る姿の象形で、身体を傾け、大地に付けた足を交互に前へ出して進む事になり、「趨」=走る、速やかに、 とあり、「止(足先の象形)」は、足を大地に付けて立ち、動かない事、「歩」は両足を交互に上下して進む事になる。更に、漢和大辞典「屈」項、曲がって窪 む。「解字」尸(尻)を後ろに突き出す=人が頭を垂れる姿。「字統」犬等、尾を曲げる=従順な姿とあり、何れも「夭」と近い語義を併せ持つとして良い。

 【許慎が、明らかに「行」字に「進みつつあるものが、止まる」という義を認めていた一つの証について、ススムと言う義の「月+止」字が、そのよき例であ る。「月+止」は『説文解字』の「止」部の属字である。「止+月(肉月)」との会意。許慎は、その本義叙述を次の様に記す。「月+止=不行而進謂之」、こ こに「行」字が引用されている。「行」字に止まる義が付与されているからこそ、「不行」と用い止まらずに進む事を「月+止」というと読める。】

 私見では、「行」は人が歩き、走り、偶には、休み、佇みながら、目的のための行為を続け、遂げるか、為すか、障害があって遂行できない等の事情で、 「至、成、止、諦」等とされない限り、その行為は止まらない。上記、「不行而進謂之」を読み下すと、行かざるが、而して進む、これを謂う。となり、気持ち とは裏腹の状態、気持ちに反して身体を動かす、或いは、気持ちはあるが、動かない等で、本来、否定の意味だった「肯」も、自ら望まない、仕様がない、無理矢理等のニュアンスになり、この補足資料や説明にはならないと思う。

趨=「走」と「芻(刈草の象形)」の聲(発音)を併せた字とあるが、殆どの漢字が偏と旁に拠り成立するとすれば、同音にされる理由があり、その発音にだけではなく、通底する語義にも関連すると思う。冬の到来の早い河北やモンゴルでは、凍りつく前、速やかに草を刈り取ると云う事に繋がる。
「行」=字統では、『説文』=人の歩数。『卜辞』=道路を意味する文字が二つ重なる十字路、「街」「衢」に使われる事からも判る。
走=人が素早く動くと云う語義の字に、人が屈み動きを止めると云う語義が内包されるとすれば、文字としての体をなさず、その機能も失われる。
若い=「若い数字」と使われるので、歳をとっていないと云う意味ではなく、芽吹いたば かりの成長していない草木(成人していない)で、支えや庇護を必要とする状態となる。尚、夭[・ıog][・ıɛu][ieu]、幼[・iog][・ iɛu][ieu]と略同音で、近い語義と考えられる。
肯(がえん)ず=本来持っていた否定の意味が失われて、後代、受け入れる意味に転じたと在り、渋々、肯く、仕様がなく肯く等のニュアンスか。打消には下に否定の助動詞を添え、ガエンゼズ(ガエンジエナイ)・ガエンジナイという形で、幾ら何でも肯く事はできない等の意味で用いられる。 
  1. 2015/09/19(土) 11:51:59|
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◇海民の領域

  (B)始度一海千余里 至對海(たま)国

 「始度一海」に方位が示されない理由は、前項(A)其北岸から南へと判断できるからで、それが故、次項(C)又南渡一海とする。更に、狗邪韓国から始める一度目の外洋航海するために船に乗り換えたと云う事を意図すると思う。
 当時(魏・西晋)、通常の移動手段は黄河や長江等の大河川や海岸部の沿岸航行に拠る「水行」か、小河川の岸から従者に平底船を曳かせたり、馬車や徒歩に拠る「陸行」で、外洋航海は一般的でなかったのか、編者の陳寿は、何らかの思惑や意図で郡衙から狗邪韓国迄の沿岸航行は「水行」、外洋航海を「渡海」と書 き分けた。それが船乗りや水上生活民には、沿岸や河川航行の蛋民系鰐(わに)と外洋航海民系陸鰐(くぬがわに)が居たとする理由の一つ。また、下記の記述もある。
 「倭人伝」女王國東渡海千餘里 有國皆倭種有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 有裸國黒齒國在其東南船行一年可至 參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里や、冒頭の倭人在帶方東南大海之中~云々からすると、陳寿にとり、狗邪韓国南側の国々は帯方郡治に服属しない独立した東夷の領域で、その東側千餘里を渡海した所にも別の倭種が居ると云う認識だった。尚、~在其東南船行一年可至は、東南方向へ九州東沿岸部から瀬戸内海を東行、紀伊半島を南下、太平洋沿岸航海となる。(B)を意訳すると下記の如くなる。

  (狗邪韓国で外洋船に乗り換えて)始めて一海を(南へ女王国に服属する海民の領域)度る千余里

 また、自女王国以北特置一大率検察諸国 諸国畏憚之常治伊都国 於国中有如刺使と云う記述の「於国中」を伊都国内とする説があるが、女王国以北の国々を検察するため伊都国が特置した一大率の官吏や武官を伊都国内に置いても意味をなさない。この文脈から、~伊都国が常に治める。(それは我が)国中に於て有す刺使の如くとなり、陳寿には一大率の官吏や武官の役目と彼等が背負う立場や境遇が中国国内の「刺使」と呼ばれる役人と略同じに感じられたのだろう。通常、一大率「イチダイソツ」と訓ずるが、「率」には下記の三種の音が在る。

  [lıuət][lıuĕt][liu]=全体のバランスから割り出した部分(律)
  [sïuət][şïuət][şui]=はみ出さない様に纏めて引き締める(引率)、従う(順・循)、任せる(率直)
  [sïuəd][şïui][şuai]=率いる人(帥・長)

 語義的に後者の二音で、「ィエタシゥァッ→ィエタスァ→ィエタ・サ」、「ィエタシュ イ→ィエタ・スィ」(一大帥)になる。女王国より以北には一大率を特置し、邪馬壹国連合側に服属させられたとした機動力のある倭人海民(陸鰐)對海国と一大国には一大率から派遣された「卑狗」「卑奴母離」と云う官吏や武官と思しき名称、上陸後の奴国と不彌国にも副官「卑奴母離」の名称が記載されるが、先端の北岸狗邪韓国と末端の末盧国には見えない。
 對海(たま)は一海(瀚海)に対面する国と云う語義だけではなく、その比定地の対馬には祭神豊玉姫とされる海神神社や和多都見神社が祀られる事から「記 紀」海神の娘豊玉毘賣や玉依毘賣の「玉」=渡海安全を掌る海神とも関連して、對海(たま)国は大官卑狗(後代の神祇官か)とされた理由となる。また、海神 「タマ」は、中国大陸東南沿岸部で広く信仰される祖神にも繋がると考える。
 尚、猫(タマ)と呼ばれる理由も船の積荷の穀物や食料等、鼠の食害等を防ぐ守護神と認識されていたからと思われる。また、「魏志倭人伝」航海安全の祈願を背負う持衰(じさい)と呼ばれる役目の人々も神祇官や神官の下属(奴?)等が担ったと思われる。

船行一年可至=朝鮮半島南沿岸部の水行も彼方此方に碇泊しながら担う海民を代えた。船行も、駅の如く、夫々の海域や水道や海域を領有する海民の船に乗り換えると考える。何れにしても当時の沿岸航海や渡海は季節風や海流を利用したの云うまで もない。詰まり、遣魏使の日程同様、往復で一年と考える。
自女王国以北=自女三国以北とする刊本も在るらしいが、文意を読み解けないので、此処では前者を採用する。
「ィエタサ」=出雲の国譲り等に見える地名「イタサ・イナサ・イザサ」等に関連が在る か。私見では、伊都国の比定地を佐賀県多久市と同県東松浦郡(現唐津市)厳木(きゅうらぎ→いつき→いちき)町付近とした。その「タク」と云う地名が糸島 半島の福岡県前原市、同県宗像市、島根県平田市にある。他にも島根県飯石郡三刀屋町多久和、兵庫県城崎郡竹野町田久日。更に、田隈・田熊・宅間等は投馬 (タグマ)とも関連が在るのかもしれない。
卑奴母離=奴国や不彌国へ陸行したとしても物資の運搬を担う平底船の津に面していたと考えられるので、その監察の役目を負うと考える。
タマ=筥崎宮(福岡県福岡市東区箱崎)では五穀豊穣と豊漁を祈願する男衆が雄玉を奪い合い雌玉と娶せる神事「玉せせり」が行われる。その東北側の宮地嶽神社付近の同県宗像郡津屋崎町(現・福津市)須多田には「対馬見山」が在る。 
  1. 2015/09/24(木) 21:14:04|
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◇「自」と「從」

   ここで序でに、今迄、述べてきた「自=相対より主体への動き」、「從=主体から相対への動き」と云う違いを考え併せ、「三国志魏書第一巻」に於いて二つの漢字を使う文を読み下してみたい。尚、自(みずか)ら、從(したが)うとされる場合も、本来、同じニュアンスだが、ここでは除外する。

 (1)公曰「尚大道來、當避之。若西山來者、此成禽耳」。尚果循西山來、臨滏水爲營。夜遣兵犯圍、公逆撃破走之、遂圍其營。
 公(太祖曹操)曰わく、「袁尚が、自身の居所(鄴?)から大道(官道?)に従い来ても、(大軍なので)これをやり過ごせ。若し、西山の道に循い巡り来たならば、(少数なので)これを必ず虜(擒=とりこ)にせよ」。果たして、尚は、西山の道に循い廻りきて、滏水に臨み屯営する。夜陰に紛れて兵を遣わし、囲みを侵犯するので、逆に公(太祖曹操)は撃破して、これを走らせ、遂に、袁尚の営を囲む。

 (2)興平元年春、太祖徐州還。初、太祖父嵩、去官後還譙。董卓之亂避難瑯邪爲陶謙所害。故太祖志在復讎東伐。
 興平元(194)年春、太祖は、遠征先の徐州より還る。初め、太祖の父嵩、官を去りて後、生国の予州沛国譙に戻ったが、董卓の乱が起こり、山東省東南部の瑯邪(ろうや)に避難するが、陶謙の害する所と為る。故に太祖の志、讎(あだ)を復す事に在り、東伐す。この場合、曹操は徐州より還った譙に於て、父嵩が瑯邪に遷居した後の経緯を知り、讐(あだ)をなすと誓い、東伐する。*瑯邪(ろうや)は同省「諸城」東南にある山名。

 (3)張濟、關中走南陽、濟死。從子繡領其衆。
 張濟、関中より南陽郡に走る。濟は死に、その從子の繡(甥)が衆を領す。これも張濟が、その居所の関中より、逃げ還った荊州南陽郡に於て死んだとなり、その後、從子の張繡が南陽郡の衆を領す。これも前項と同様、居所より移動し、既に到着している。

 (4)公謂諸將曰「吾降張繍等。失、不便取其質。以至於此。吾知、所以敗。諸卿、觀之!今已後、不復敗矣」。遂還許。
 公(太祖曹操)、諸將に謂ひて曰く、「吾れ、張繍等を降し、失(あやま)って其の質を取るを便(よし)とせず。以てこれに至る。吾、敗るる所以を知る。諸卿、観じよ、今より已後、再び、敗れず」と。遂に許に還る。詰まり、誤って人質を取らずに敗れた時より、この方、もう、こんな失敗は繰り返さないとなる。尚、許(もと)とすれば、今から人質を取らずに敗れた地所(時点)に還るとも読み解ける。

 (5)袁術敗於陳、稍困。袁譚、青州遣迎之。術欲下邳北過、公遣劉備朱靈要之。
 陳琳との戦に敗れてよりこの方、袁術は次第に追い込まれており、長子の袁譚は(居所の⑥青州より、(袁術の居所に)人を遣わして迎えさせる。袁術は、徐州の下邳からの道に従い北に過ぎんと欲す。それを知った公(太祖曹操)は、劉備・朱靈を遣はして要所を固めさせる。となる。この例文では、「自=時間経過と移動距離」、「從=随従」の典型的な用法として使われる。

 上記の何れの「從」と「自」も述べてきた用法で以て使われると思う。もう一つ以下の文章の「自」は、どの様に読み下したらよいだろう。

 (6)天子之東也、奉、梁欲要之不及。冬十月公、征奉。奉、南奔袁術。遂攻其梁屯、拔之。
 この前段、建安元年秋七月、楊奉・韓暹(かんせん)、天子を以て洛陽に還り、奉、別れて梁に屯すと在り、天子、東(許)に遷居するや、楊奉、司隷河南尹(予州)の梁より之を要害にせんと欲し、及ばず。冬十月、公(太祖曹操)、奉を征し、奉、南して袁術に奔ると、遂に、曹操は梁の屯営を攻め、これを拔く。と読み下される事が多いが、楊奉自ら、梁、これを要害として欲するも、及ばずと読み下した方が良いと思う。

滏水=滏陽河(ふようが)は、中華人民共和国河北省南部から中部を流れる河川のひとつ で、海河水系西南の支流に属する。曾て、滏陽河は水量が多く邯鄲から天津市や北京市等へ向かう水上交通の重要な幹線であった。邯鄲市峰峰鉱区にある太行山 脈の滏山(ふざん)南麓に発する。源流域には元宝泉、黒龍洞泉、広盛泉等、72ヶ所の泉が湧出しており、これらが合流し、滏陽河となる。河北省南部の邯鄲 市、邢台市、衡水市を縦断し、滄州市の献県で山西省の五台山北部から流れる滹沱河(こだか)と合流し、子牙河(しがが)となる。
父嵩=裴松之が注に引く書(裴注)に拠れば、養子「嵩」は、夏侯氏の出とあり、夏侯惇 の叔父とする。漢高祖の武将に夏侯嬰とあり、滕の県令となった夏滕公と呼ばれた。尚、夏后(夏王朝の母系?)を出す諸侯=夏侯か。夏=商殷の前にあったと される中国最古の王朝。禹が舜の禅(ゆずり)を受けて建国したと伝わる。都は山西省安邑等。BC21~BC16世紀頃迄続く。桀(けつ)に至り、殷の湯王 に滅ぼされたという。殷に先行する時代の都市遺跡が夏王朝のものと主張される。
予州沛国=沛国は前漢高祖劉邦の生国。現在の江蘇省沛県とされるが、豫州は古代中国九州の一つ。河南省の風土がのんびりと広いところから命名された。「沛」=草の生えた沼地、ぱっと勢いよく出て拡がる様とある。
從子を甥(⇔姪)とするが、当時、漢字がなかったのか。何故か、その漢字を使わず、「従う子」とするには理由があるだろう。曹操の祖父曹騰と同様に張濟にも子がなかったのか、養子になったとも考えられる。「常侍」とは常に側近に侍い奉仕する。
許=鄭に滅ぼされた国。今の河南省許昌付近とされる。鄭=中国春秋時代の国。周宣王の弟友(桓公)を祖とする。今の陝西省渭南市の地から河南省新鄭市に移る。韓の哀侯に滅ぼされた(前806~前375)。
青州=古代中国、禹貢(うこう)の九州の一つ。今の山東省北部と遼寧省遼河以東とある。
徐州(Xuzhou)=古代中国、禹貢(うこう)の九州の一つ。今の山東省南部、及び江蘇・安徽省北部の地。江蘇省北西部の都市。京滬(けいこ)・隴海(ろうかい)両線の交わる交通の要衝。古く楚の項羽が都を置いた。
奉、梁欲要之不及=冬十一月公南征至宛(冬十一月、曹操自ら南を征し、宛てに至る)。公將東征備(曹操は自ら東へ向かい劉備を征伐)。紹軍破後、發病歐血、夏五月死(袁紹自ら、軍を突破した後、病を發し血を歐き、夏五月に死す)等と同様。




  1. 2015/10/02(金) 15:46:14|
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◇瀚海と一海

  (C)又南渡一海 千余里、名曰瀚海 至一大(いた/えた)国

 (B)對海国の「始渡一海」と違い「一海」は、又(再度、外洋船で) として方位を示す。尚、前項同様、その距離は千余里とする。また、伊都国が常治する一大率から送られた對海国の大官卑狗(神祇官?)と副卑奴母離(武官) と同名称だが、官卑狗(文官?)と副卑奴母離と在り、對海国と同様に副卑奴母離が荷物や文書を監察・検察が行われ、内容を記録させたと考える。また、狗邪韓国と對海(對馬)国間の一海(朝鮮海峡)には名称はないが、この一海の名称は瀚海(かんかい)と特筆する。(C)を意訳すると下記の如くなる。

  また、(對海国から外洋船で)南へ渡る一海、名は瀚海、千余里程で一大国に至る。

 一大国の比定地を通説の現長崎県の壱岐(いつき→いっき)島とすれば、南ではなく東南にすべきではと云う研究者や論者もいるが、先述した様に編者陳寿は、倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑~(中略)。詰まり、帯方郡東南方面の九州北部沿岸部や日本海沿岸部の山陰や北陸付近迄にも拡がる倭人の領域中、邪馬壹国と伊都国連合に服属する倭人系外洋航海民の對海国や一大国、更には末盧国迄の一海全体が「瀚海」と云う名称で、郡衙から見て東側ではなく南側に属すと云う認識と考える。その領海や海道の往来に従事する海民の動向を監察、検察する役目を持つ一大率の本役所が特置されていたために伊都国(ィアタ→ヤタ)と近似音の一大(ィエタ)国とされたとも考えられる。
 尚、先に邪馬壹国と伊都国連合側に服属していた狗邪韓国を「クヌガワニ」と訓じたが、「瀚」も「韓」と同音[ɦan][ɦan][han]、海[məg][hai][hai]とあり、瀚海(ファヌマ→ゥアヌマ→ワニマ)として良い。
 また、「女王國東渡海千餘里、有國皆倭種。有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。有裸國黑齒國在其東南、船行一年可至」と云う記述とも繋がり、倭人は、その東海域と邪馬壹国と伊都国連合に服属する南海域を併せた領海中の山島に依りて暮らすと認識した。それは邪馬壹国伊都国連合の傍国の記載後、男子無大小、皆黥面文身~。計其道里、当在会稽東治之東とする事でも判る。
 この東治(東冶?)の比定地は判然としないが、会稽を中国浙江省杭州市北の山として、この東側では南西諸島や種子島付近になる。これは女王国だけで はなく、倭の領域が概略で、その北や南側ではなく東側と云うニュアンスで述べるのであれば問題ない。更に、夏后少康之子封於会稽~ 云々=夏后少康の子が会稽に於て封ぜられ、蛟(みずち)からの害を断髪と文身(入墨)で避けさせたと云う記述に比して此処で述べられる人々の風俗も大陸東南沿岸部の会稽付近に広く住んだとされる蛋民や海民の風俗に似ると云う意識だろう。これも大陸南東の沿岸航行と河川航行を生業とする蛋民系鰐(わに)等と 外洋航海の海民系陸鰐との関連を示唆したと思われる。
 尚、一大国の比定地、長崎県壱岐郡(現壱岐市)郷ノ浦町北側原の辻遺跡北西、同市勝本町の香良加美(からかみ)遺跡は周囲に堀を廻らした環濠集落で、鉄の精錬遺跡の他、漁労具、鹿の骨で占う卜骨、楽浪郡の古墓等で出土する漢式土器の楽浪土器や朝鮮半島の三韓土器等も出土した。その郷ノ浦町射手吉触(いてよしふれ)付近に一大率の役所が在ったかと考える。
 「論(微子)」箕子がと為ると在り、卑彌呼の前代、奴国連合と思しき時代の支配者には箕子朝鮮の亡命王族等が関わり、その後、邪馬壹国伊都国連合の支配者層には、前漢に滅ぼされた衛氏朝鮮等、朝鮮半島からの渡来民(製鉄遊牧騎馬民)が関わったと考える。

いつき→いっき=伊都国の比定地を佐賀県多久市と同県東松浦郡(現唐津市)厳木(きゅ うらぎ→いつき→いっき)町付近とした。また、福岡県前原市の怡土城跡は、怡[diəg][yiei][i]、土[t`ag][t`o][t`u]、伊都 が「ヤァタ→イェィト→イト(イツ)」と訓じられた後の用字で、隋唐期以降となる。
こうした「又」「復」「亦」等、同訓で意味の違う漢字の使い方を、次項から取り上げて考えてみたい。
東治(東冶)=浙江省紹興市(会稽郡東治?)、福建省福州市(建安郡東冶?)。会稽郡の一部が建安郡になった等の異動があったとされる。
倭の領域=文脈から瀚海を領海とする倭人と東千余里の倭種、更には、そこから東南に船行一年とされる裸国黒歯国の位置関係も含まれる。尚、海岸線や島嶼以外の山地中腹には縄文系狩猟採集民が住んでいた。
鹿の骨で占う卜骨=邪馬壹国伊都国連合の前代、奴国連合(委奴国)は亀卜を行ったとされる殷王朝、最後の「紂王」の叔父胥余が朝鮮に建国した箕子朝鮮の王族に関わりがあるとした。
香良=加羅(伽耶)とすれば、古代、朝鮮半島南東部にあった国々。諸小国全体をいう場合もあり、特定の国、金官伽耶・高霊伽耶等を指す場合もある。任那(みまな)とも云われる。562年新羅により併合された。加美(かめぃ→かみ)=亀石(長崎県壱岐市勝本町百合畑触)。
楽浪土器=沖縄県読谷村で出土した外来の「楽浪系土器」、滑石片を混入するのが特徴 で、本島の四遺跡から出土。楽浪郡とは、BC108年漢王朝の武帝が朝鮮半島北部に置いた支配拠点で、そこで製作された土器との関連が説かれてきたが、最 近、BC4~3世紀頃の春秋戦国時代のものと云う指摘があり、東京大所蔵の中国東北部の遼東半島の牧羊城遺跡で出土した土器の口縁部に貼り付けた粘土帶の 特徴等が似る。
 牧羊城=中国遼寧省大連市旅順区南西の老鉄山西麓にある戦国時代~漢代の古城址。前漢代に置かれた遼東郡沓氏県治に比定される。
衛氏朝鮮=燕の官吏や武官か、燕人の衛満が興したと伝わる。秦は、国 の公子商鞅(商殷に関係するか?)を用いて改革(変法)を行い富国強兵に成功し、一躍強国にのし上がった。国の経済の基を農業におき、農地の開拓を押し進 め、人民を五家・十家の単位に分け、治安維持に共同責任をとらせた(什伍の制)。「衛」=周代、今の河北河南の両省に跨る地にあった。殷王朝中心地、殷の 滅亡後、周王武が弟の康叔を封じた。
 燕(えん)=古代中国の戦国七雄の一つ。周武王の弟奭(しょうこうせき)、その子、匽侯旨(えんこうじ)が封ぜられたとされる。今の河北と満州南部や朝鮮北部を領して現北京の「薊」を都とし、43世で秦の始皇帝に滅ぼされた(?~前222)。当初、山東省付近の「奄(えん)」に封ぜられたとも伝わる。また、武王の子旦の長子伯禽は、魯(孔子の出生地)に封ぜられたともある。4世紀初~5世紀初に架けて鮮卑族慕容氏が建設した前燕・後燕・西燕・南燕・北燕等。
 召公奭=周初の宰相。奭は名。文王の子。武王や周公旦の弟とされるが、殷代、河南西部で勢力を揮った召族の出身。周に協力し、成王即位後、太保となり、陝西を治めた。「」=お呼び寄せになる。お取り寄せになる。召し出して役に就かせる。お命じになる。結婚の相手となさる。寵愛なさる。上からの命で捕らえる。囚人とする。上からの命令で…と呼ぶ。食う、飲む、買う、取る、(腹を)切る、着る、(風邪を)引く等の尊敬語。







  1. 2015/10/11(日) 09:36:26|
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◇「又」字

 先の岩元正昭氏は「又」に就いて以下の如く論じます。【「又」字には二種類の使用法がある。第一使用法は文章作成中、既に一度使用済みの文言を、後に再使用したい場合、その使用したい箇所に「又」字を置く事により、件の文言は、その位置に甦る「又」字が、その再使用したい語の代替詞として記入されるので ある。第二使用法は同語が立て続けに三度使用される場合、二つ目以降のそれを「又」字で代替する法を言う。以上に述べた「又」字の二つの使用法は、古代中 国人の文章の読み書き上の決まりであり、語法である。では、どのような経緯で「又」字が、このような役割を担う事になったかである。これを説く漢籍に未だ 出会わないので、筆者の憶説を述べておく。
  『説文解字』によると、「又、手也。象形、三指者、手之列多、略不過三也」とあり、段注に「此即今之右字」とある。つまり、「又」とは「右」の事なのである。右側に在るものとも解せる。因みに二字の発音は同 「ゆう」である。一方、二つの使用法に述べた様に「又」字は、既に一度書き終えた語句の代替詞である。既に書き終えた語句とは、漢文に於いては、常に 「又」字の位置より、右手に在る事になる。随って「右」、つまり、「又」字を代替の辞に用いたと筆者は考える。「又」字が古代漢籍に登場した場合、反射的に心に用意する事は、その「又」字に代替を託した「字」や「語」は既に読み終えた文章の中に形と意味を持って実在していると言う事である。これを被代替語 と名付けて置こう。】

 漢和大辞典「又」項、庇う様に出した右手を描いた象形文字で「右」の原字。字統「又」=右手の指を出している形で、同音「有」の語義もあり、上古では「助ける」「庇う」とも在り、庇う様に覆い被す事で、「更に」「その上」の語義になる。また、同訓「復」=元に戻す→再度、繰り返す→往復。「亦」=人の両手と両足の間の象形、詰まり、左右や上下、此方と彼方等、二例を上げ、一方か、その反対か、その何れをも示唆する。

 更に以下の如く続ける。【文章中、「又」字に遭遇し、その被代替語を探す目安は、「又」字の次に記されている「辞」が何かを先ず確認する事である。被代替詞は概ね「又」字の次字と同じものの前に在る。第二使用法の「又」字と「行」字のコンビネーションが放射式行程を表現する典拠。
 『隋書』琉求國伝、次の叙述に、「至高華嶼、又東行二日至句辟嶼、又一日便至琉 求」。この一句に第二使用法の二つの「又」字が見える。何れも高華嶼の代替である。「方位」語の次に直接する「行」字が見える。これにより「句辟嶼」の先 に行程がない事を告げている。以上により、高華嶼より、句辟嶼、琉求の二方面の放射状に行程が描かれる事になる。】

 中国東南部福建省泉州付近とされる義安から高華嶼への方向と、その日程、最後の琉求にも方向が記されない。私見では、『隋書』の編者や朝請大夫張鎮州にとり、高華嶼への東向きの航路は既知の情報で、その意識は従わない東夷の流求にあった。それが故、之(=流求)を撃つとされる。
 海中に小山が集まりできた群島=「嶼」とすれば、高華嶼は台湾北部の島嶼か、先島諸島や尖閣諸島付近、そこから渡海2日の句辟嶼は沖縄本島、1日便の流求は奄美大島で、台湾から転々と飛び石の如く続く南西諸島(奄美琉球列島)が東シナ海に浮くと云う認識だろうか。
 自義安浮海撃之、至高華嶼、東行二日至句辟嶼、一日便至流求=義安より、(東側の)海に浮く、これ(東夷の流求)を撃たせた。(東の)高華嶼に至り、(そこより、更に東行二日程で句辟嶼に至り、(そこより、更に東行)一日程の便で流求に至る。と読み下す。

「ゆう」=「漢和大辞典」右=口+右手の象形(音符)の会意文字、庇う様にして持つ 手。又(右手)→有(庇って持つ)→佑(庇う・たすける)。又=組んで支える手。補佐=側から支える等と同系字、又・右・有[ɦıuəŋ][ɦıəu] [iəu]とある。尚、左[tsar][tsa][tso]=左手+工(しごと)の会意文字で、工作物を右手に添えて支える手と在る。
隋書=二十四史の一つ。隋代を扱った史書。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。特に「経籍志」は魏晋南北朝時代の図書目録として貴重。唐の太宗の勅撰により魏徴等により、636年成立。志30巻は656年成立後に編入。
 大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風靜、東望依希、似有煙霧之氣、亦不知幾千里。三年、煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻倶往、因到流求國。言不相通、掠一人而返。明年、帝令寬慰撫之、流求不從、寬取其布甲而還。時倭國使來朝、見之曰、此夷邪久國人所用也 帝遣武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州率兵 自義安浮海撃之至高華嶼。又東行二日至句辟嶼、又一日便至流求。初、稜將南方諸國人從軍、有崑崙人頗解其語、遣人慰諭之、流求不從、拒逆官軍。稜撃走之、進至其都、頻戰皆敗、焚其宮室、虜其男女數千人、載軍實而還。自爾遂絶。
高華嶼=棉嶼(めんかしょ)=台湾本島の北東の島。彭嶼(ほうかしょ)=台湾本島の北東、基隆市沖約56kmの東シナ海に浮かぶ島で北方三島の一つ。瓶 嶼(かびんしょ)=棉花嶼・彭佳嶼とともに北方三島と呼ばれる。蘭嶼(らんしょ)=台湾本島の南東沖にある周囲40kmの孤島で、台東県蘭嶼郷に属する。 曾て紅頭嶼(こうとうしょ)と呼ばれた。台湾原住民の一つで、フィリピン・バタン諸島より移り住んだとされるタオ族の四千人程が暮らしている。亀山島(きさんとう)=台湾宜蘭県頭城鎮が所管する島嶼。火山島であり、太平洋上に浮かぶ姿が亀に似ている事に拠る命名。
句辟嶼=本字は、句(+黽)辟(+黽)嶼で、元(+黽)辟(+黽)嶼ともある。尚、前者の場合、句(=節/括)+辟(=傾/君)+黽(=努)と云う語義から推測すると、「従わない飛び島の地」。一方、従った「高(相手を尊ぶ)華(礼文の盛 んな地)」と、従わない「流(礼文の普及/海路)求(もとむ)」。
便=沖縄へは一日一便等と使われる一航路と考える。往路は対馬海流に逆らう朝鮮半島~ 対馬~壱岐~松浦の航路と違い、この場合、黒潮の流れに循じ、全4、5日便で、潮待ちや風待ち、休息日等を合わせ、一週間から十日の日程と考える。裸国と 黒歯国の場合、黒潮の流れに乗る。黒潮には、南側に反対方向に向かう流速0.3ノット程度の弱い流れが観測されており、これは黒潮再循環流と呼ばれる。帰りはこれを利用したと考える。
南西諸島=鹿児島県坊津より出港した遣隋使や遣唐使も、この逆航路を辿った。連日(二日間)の沖縄本島への航路では交代要員が乗船したか。
義安=中国福建省南東部の港湾都市泉州付近か。マルコ=ポーロはザイトンの名で西洋に紹介。唐代から元代迄、南海貿易の中心として栄え、華僑の出身地としても知られる。または、中国福建省都福州、閩江(びんこう)下流に位置する。古来からの貿易港の南側。





  1. 2015/10/17(土) 12:52:16|
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◇「又」と「復」

 「三国志魏書第一巻」に於て、「又」、「復」の字が使われる文章を読み下してみる。

 (1)袁紹與韓馥謀、立幽州牧劉虞爲帝。太祖拒之。紹、又嘗得一玉印。於太祖坐中、舉向其肘。太祖由是笑而惡焉。
 袁紹、韓馥と共に幽州牧・劉虞(りゅうぐ)を立て帝にしようと謀るが、太祖、これを拒む。袁紹、その上、以前にも、一玉印を得て、太祖が座る中、その肘に向けて挙げる。太祖、笑顔で応えたが、これにより袁紹を悪(にく)む(~に良い印象はない)。
 (2)太祖要撃晆固、撃匈奴於夫羅於内黄。
 太祖は、晆固を要害で待ち伏せして撃ち、更に、匈奴の於夫羅も内黄に於て撃つ。
 (3)今、不若畜士衆力。先爲固守、彼欲戰不得、攻不能、其勢必離散。
 今は兵士達の力を畜えておかなければならない。先ず、固く守る策を為せ。それに戦おうとしても良い結果は得られず、その上、攻めることもできず、その士気は必ず失せてしまうだろう。
 (4)術走襄邑、追到太壽。決渠水、灌城。走寧陵、追之。走九江。
 袁術が、襄邑に逃走すると、太祖は追い太壽に到り、渠水を決して城に灌ぐと、袁術、寧陵に逃走する。更に、これを追い払うと、袁術は揚州九江に逃走する。
 (5)汝南潁川黄巾何儀劉辟黄邵何曼等衆各數萬、初應袁術。附孫堅。
 汝南潁川の黄巾は何儀・劉辟・黄邵・何曼等、各々数万を集め、初め、袁術に応じる。その次ぎに孫堅に附く。
 (6)陳宮等沮其計、求救于術勸布出戰。戰敗、乃還固守、攻之不下。
 陳宮等、その計を沮(はば)み、袁術に救いを求めた呂布に出戦を勧める。(呂布は)その上、この戦いにも敗れて還り、固く守り、(陳宮等は)これを攻めるも下せず。
 (7)備將關羽屯下邳、進攻之、羽降。昌豨叛爲備、攻破之。
 (袁紹に敗れた)劉備の將關羽が徐州下邳に屯営しているので、(曹操等は)再度、進攻して関羽を降す。昌豨が叛き、劉備に為(くみ)したので、更に、これを攻めて破る。

 (1)還到龍亢士卒多叛。至銍建平收兵得千餘人。
 還りて龍亢に到り、士卒の多くが叛したので、銍・建平に至り、離反した兵を收めて、再び千餘人を得る。
 (2)董卓之亂、避難瑯邪、爲陶謙所害。故太祖志在讎東伐。
 董卓の乱に難を徐州瑯邪に避け、陶謙の害する所と為る。故に太祖の志、陶謙に讐を復(かえ)す事、東伐する。
 (3)夏、使荀彧程昱守鄄城、征陶謙。拔五城、遂略地至東海。
 夏、荀彧・程昱を使い鄄城を守らしめ、再度、陶謙を征し、五城を下し、遂に、地を略(なら)して東海に至る。
 (4)二年春正月、公到宛。張繡降、既而悔之、反。
 二年春正月、公(曹操)、宛に到る。張繡降るも、既に、これを悔い再び、反く。
 (5)「~諸卿、觀之!自今已後、不敗矣」遂還許。
 「~諸卿、これを觀よ、今より已後、二度と再び、敗れず」と。遂に許に還る。
 (6)公之自舞陰還也、南陽章陵諸縣叛爲繡。
 公(曹操)、舞陰より還ると、荊州南陽と章陵の二縣が、再び叛して張繡に為(くみ)す。
 (7)呂布爲袁術使高順攻劉備。
 呂布、再び、袁術に為(くみ)し、高順を使(つか)い劉備を攻めさせる。
 (8)使登壘望之曰、「可五六百騎」。有頃白、「騎稍多、歩兵不可勝數」
 使い土塁に登り、これを望みて曰く「五・六百騎なるべし」と。暫くして、再び、白(まを)す「騎、(先より)やや多し、歩兵は勝り数えられず」
 (9)公謂運者曰「卻十五日爲汝破紹、不勞汝矣」。
 公(曹操)、謂ひて兵站を運んだ者に曰く「十五日を卻(却)りて汝が為に袁紹を破り、二度と再び、汝を労す事はないだろう。」
 (10)紹歸、收散卒攻定諸叛郡縣。
 袁紹、帰り、再度、離散した兵卒を收めて攻め、叛いた諸郡縣を定む。

「瀚海と一海」項、(C)南渡一海~は、述べてきた事からすると、「更に南へ渡る一海~」とした方が良いようです。此処で訂正します。
内黄=冀州魏郡、襄邑=兗州陳留郡、 予州沛国龍亢、予州沛国銍・建平、鄄城=兗州済陰郡鄄城、五城=益州広漢郡、宛=荊州南陽郡、舞陰=荊州南陽郡 


  1. 2015/10/22(木) 21:10:35|
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◇「復」と「亦」

 今回は、「三国志魏書第一巻」より、「復」と「亦」の字が使われる文を拾い読み下してみる。

 (1)蝗蟲起、百姓大餓、布糧食盡、各引去。
 蝗蟲(いなご)の起こり、百姓は大いに餓える。それでまた、呂布も糧食尽き、両軍、引き去る。詰まり、百姓(曹操)も、また、呂布もと云うニュアンスとして使われる。
 (2)公分營與相當、合戰不利。時公兵不滿萬、傷者十二三。紹進臨官渡、起土山地道。公於内作之、以相應。
  公(太祖曹操)もまた、袁紹と同様に軍營を分けて袁紹に対して相当る。この時、公の兵、一萬に滿たず、負傷者十人に二・三人なり。袁紹、再び、進み官渡に臨み、土塁を築き、塹壕を掘る。公もまた、袁紹と同様に分営の内に於て、これ(土塁と塹壕)を作り、以て相応ず。
 (3)榮見太祖所將兵少力戰盡日、謂酸棗未易攻也。、引兵還。
 徐榮は、太祖の將(ひき)いる所の兵は少ないが、力戦して日を尽しているを見て、未だ、兗州陳留郡酸棗を攻めるのは容易くないと謂い。撤退か、抗戦か二つに一つとして、兵を引き、還る。
 (4)袁紹雖有大志、而見事遲。必不動也。郭嘉勸公、遂東撃備破之。生禽其將夏侯博。
 袁紹が大志を有すと雖も、事を見るに遲いので、必ず動かないだろう。郭嘉もまた(曹操と同じ意見で)、公(曹操)に勧め、遂に東して劉備を撃ち、これを破り、その將夏侯博を生禽(捕虜)にしましょう。
 (5)公曰「夫、人孝於其親者、豈不忠於君乎!吾所求也」。以爲魯相。
 公(太祖曹操)曰く、「それ、人、その親に孝たる者、これもまた、君に忠ならざらんことがあろうか。吾れ求むる所なり」と。以て魯相と為す。

 最後に見てきた事を考え併せて、「倭人伝」以下の文章を読み下してみたい。
 (1)女王國東渡海千餘里 有國皆倭種。有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里有裸國黒齒國在其東南船行一年可至
 女王國の東を渡海する事、千餘里。再び、(同種の)国が有る皆倭種。更に、(倭種とは違う)侏儒國が有る。それは倭種の住む地域の南に在り、背丈が三四尺(1㍍前後?)、邪馬壹国女王が統治する地域から隔たる事、四千餘里(九州西沿岸部の水行12日程)。更に(侏儒國とは違う)倭種の裸国と黑歯国が有る。これもまた(先の倭種が住む地域から見て)東南方向に在り、を乗り継ぎくと、(往復)一年ばかりにて至る。

 尚、この裸国と黒歯国を小笠原列島付近かとしたが、上質の黒曜石が採れる伊豆諸島の神津島や恩馳島とも考えられる。「裸」=木も生えない岩ばかりの火山島、「黒歯」=黒曜石の刃物が採れる島と云う意味か。

 (2)其國本以男子爲王、住七八十年。
 本来、その国もまた、(狗奴国同様女子でなく)男子を王と為し。過去七・八十年を住まう。

 中国の古代王朝「商殷」、最後の紂王の叔父とされる箕子(奴)が朝鮮半島に逃れて建 国した箕子朝鮮が、周武王の弟とされる召公奭(せき)か、その子匽侯旨(えんこうじ)が封ぜられた燕の人「衛満」が建国した衛氏朝鮮に滅ぼされると、その 難を逃れて渡来した人々に拠り、男子の王を戴く奴国連合が成立する。その後、その衛氏朝鮮が前漢の武帝に滅ぼされると、逃れてきた人々に、(朝鮮半島と同様の状況)も乗っ取られ、巫女王を頂く邪馬壹国と男弟の摂政を輩出する伊都国連合に移行する。

 前回から述べてきた様に、「又」=庇う様に覆い被す事から「更に」「その上」。「復」=元に戻す→再度、繰り返す→往復。「亦」=左右や上下、此方と彼方等、二例を上げ、一方か、その反対か、その何れも示唆すると云う違いがあり、夫々が持つ語義に則して使われると思う。

官渡=官渡の戦は、中国後漢末期の200年に官渡、現在の河南省中牟付近に於いて、曹操と袁紹との間で行われた戦い。地名とされるが、本来、官(つかさ=役所)の渡と云う意味だったと考えられる。
倭種=一大国から千余里とすれば、相島、宗像大島や地島付近となり、後代、響灘を領海とした宗像海人と呼ばれた人々、更には、日本海の隠岐諸島や沿岸部迄、拡がっていたと考えられる。
侏儒國=インドネシア東部フローレス島で発見された身長1㍍前後の原人の系統とも云われる人々の後裔に比定する。島に住んだと在り、氷河期の食糧不足に因る人々の移動で、彼等も筏船等を使い黒潮海流に乗って漂着したと考えられる。例えば、 江戸期、日本人の平均身長は、140~150㌢前後だったと云われる。一方で、源(鎮西八郎)為朝は、180㌢以上あったとも云われるので、低身長の侏儒 系と始皇帝の兵馬俑に見られる高身長の人々の混血があった思われる。宮崎県都城市山之口町花木の王子山遺跡から縄文時代草創期の約1万3千年前の葱の根本部分(鱗茎)と、同時期の土器に蔓豆の跡とみられる窪み(圧痕)が見つかった。もしかしたら、彼等と関連が在るのかも知れない。
奴=「論・微子」箕子、これが奴に為ると記される。尚、狗奴国と対峙する様に奴国が最南端に位置する理由は、二国が奴国連合の盟主を輩出する一族だったが、奴国が邪馬壹国伊都国連合に靡き寝返っため、防人(さきもり)としての役目を負わされたと考える。




  1. 2015/10/31(土) 10:13:16|
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◇瀚海の末端

  (D)又渡一海 千余里 至末盧(まつら)国

 前項(C)南渡一海と方位を示したので、此処では、又(=更に南へ) 渡一海とする。前項と同様の千余里とあり、通説の比定地、松浦半島一帯では距離が合わないと云う研究者や論者も居るが、これは先述した一日(半日)で漕ぎ 渡れる相対的な距離で、松浦半島西側の伊万里川(有田川)や東側の松浦川河口奥に湊津が在ったとすれば、問題は無いと思う。また、この一海も狗邪韓国以南 の海域と同じ倭人陸鰐の瀚海(わぬま)で、外洋航海民の領海で、伊都国の派遣した一大(ィエタ→イタ→エタ)率の管轄となる。
 對海国に置かれた一大率の官吏や武官が外洋航海民と共に出向き差配した倭の領域北岸狗邪韓国と同様、官も副官も記載されない末盧国にも一大国から官吏や 武官が出向くか、伊都国から出迎えた官吏や武官が、末盧国で上陸した郡使や魏使に付き添い伊都国へ向かったと思われる。この国を通説の松浦半島付近とし、 この後の記述、浜山海居草木茂盛行不見前人~=海に浜や山が近く草木が繁茂し、前を行く人は見えず~からすると、おそらく、湾岸部には蛋民や漁民の船が係留され、半島海岸部は断崖絶壁で歩くのは無理だったと思う。また、「好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之」と云う記述から推測するに、外洋航海を担う對海国と一大国等の海洋民の出先機関と思しき狗邪韓国には沿岸航海民が住むが、末盧国は漁労を糧とする蛋民(あま)の国で、河川航行も担ったと考える。
 次項(E)「東南陸行五百里到伊都国」と云う記述から倭人の領海「瀚海」末端の国(一大国管轄)で、倭地とされる陸 (くぬが→くが)に上がり、東南方向の伊都国中枢へと向かう。常識的には末盧国から見て東南方向の伊都国へは東側の松浦川河口奥で上陸したと思うが、松浦 半島西側の伊万里湾奥から有田川、その東側の唐津湾奥から松浦川か、玉嶋川等を河川航行用平底船に大使や副使を乗せ、魏帝の下賜品等も載せて、河川沿岸の 従者に曳かせて遡上した。何れにしても末盧国から東南方向の伊都国は糸島半島基部の福岡県前原付近ではあり得ない。
 前出の古田武彦氏は邪馬壹国の中枢を博多付近とせんがため、「道標」等と称し、歩き始めが東南方向だったと呆れた説を繰り出す。また、東南へ向かうため、態々、松浦半島北端にする説もある。おそらく、伊都国は防衛と戦略上の理由で内陸部に在り、鬱蒼と茂った草木に囲まれた道程の高台に、使者や不審者の動向を監視するため武官が常駐する検問所や見張台(神籠石?)が在ったと考える。(D)を意訳すると下記の如くなる。

  また(一大国から外洋船で南へ)渡る一海(=瀚海)、千余里程で末盧国に至る。

 後段の南至投馬国水行二十日と南至邪馬壹国水行十日の起点を末盧国とする研究者もいるが、此処で沿岸航行用船に乗り換えたのであれば、管理する役所が在 りそうだが、官や副官の記載は無い。投馬国への沿岸航海用船の乗り換えが、一大国の武官等が常駐する役所が在った場所とすれば、松浦半島西側の佐賀県伊万 里市波多津町板木(いたぎ)・田島神社(宗像系)、津留主屋付近か、玄界灘を眺望できる長崎県松浦市御厨町板橋免(金比羅神社)・小船免付近だろう。投馬国の管轄とすれば、佐賀県東松浦郡北波多村(現・唐津市)恵木・徳須恵付近か、地図では伊万里湾側へ流れる河川は見えないが、唐津湾側には松浦川支流徳須恵(行合野)川がある。また、佐賀県伊万里市山代町の城山(西分黒髪神社)、長崎県松浦市今福町の城山(宮地嶽神社)、最北端の同市星鹿(ほしか)町(綿津見神社)の城山に見張り台や烽火台が在ったかも知れない。

一大(ィエタ→イタ→エタ)率=その後ろ盾の権威が瓦解し、彼等が領地から追われ、落 ち延び、俘囚となれば、矢作や鍛冶等の能力を生かした手仕事や、手にした刃物を使い屠殺等に従事せざるを得ず、差別される。穢多(ワイタ→ゥアィタ→ゥエ タ→ヱタ/アイタ→エィタ→エタ)との関連も考えられる。
陸(くぬが→くが)=陸(くが)=久賀・久我・古賀・古閑・古河(こが→ふるかわ)等の地名や姓氏は同源と考える。その漢字音は、古[kag][ko][ku] と賀[ɦag][hə][ho]に対して、閑[ɦan][ɦʌn][hian]と在り、「閑」の上古音は狗邪韓国や一大国で鰐(わぬ)と訓じた韓(かん)や瀚[ɦan][ɦan][han]と同音になる等、何らかの関連が考えられる。
 陸(をか)=雄処(⇔雌処)は、一方に対して高い事や突出する状態、「岡」「男鹿(をが)」「牡鹿(をぢか)半島」等は同源で、日本語では漢字音の「h」が閉口の「ウ」やK音に転音する事が多く、陸(をか)は、「hoka → uoka → oka(uka)」と転音。また、水辺の小高い所→河川の古い流れと云うニュアンスの陸(くが)は、「hoka → koka → koga → kuga」に転音した。銅鐸等に描かれる「鹿(宍=四支)」の漢字には「四角の米倉」と云う語義も在り、浮処(ホカノ→ゥオカノ→ヲカノ・ウカノ)→高床式米倉が、「紀」食神倉稲魂・「記」宇迦之御魂(うかのみたま)神に転音したか。*浮家=船の異称
 漁師や船乗りが、仕事を辞めたり、止める時には、陸(ヲカ)に上がる」と云うので、生活様式の違いからか、農耕民と水上生活者の海民や陸に上がった蛋民(河伯→河童)には抑揚や発音に違いがあったか。本来の言語に違いがあったのかも知れない。
古田武彦=先日、お亡くなりになりました。良きにつけ悪しきにつけ、多大なる影響を受けました。ご冥福をお祈りします。
松浦半島北端=こうした地点で下船して、態々、遠距離を陸行せずとも、沿岸航海用の船に乗り換えて「」に向かった方が合理的だ。尚、正倉院文書の大宝2(702)年、文武天皇期の戸籍に筑前国郡川辺里と見え、糸島半島基部は、川(水道)に拠って怡土(出)と嶋に別れていたか。
神籠石=オツボ山神籠石(佐賀県武雄市)武雄市街地の南、杵島山西麓小丘陵に在り、有明海側から見ると杵島連峰の蔭に隠れるので、有明海を意識したとは考えにくい。隣町の同県多久市と東松浦郡相知町と厳木町境に女山(おんなやま)と八幡岳(おとこやま=石清水八幡宮)。
 帯隈山神籠石
(佐賀県佐賀市)佐賀市北東部、標高178mの帯隈山頂付近を頂点として東西の尾根筋に築かれる。佐賀市街地とその先に有明海を望める。高良山神籠石(福岡県久留米市)有明海を睨んだ要所に位置、北側の城壁は崩壊しているが、南側中腹に神籠石状列石と土塁が残る。把木神籠石(福岡県朝倉郡杷木町)杷木町東部の標高200mの丘陵に神籠石が築かれる。女山(ぞやま)神籠石(福岡県山門郡瀬高町)東から延びてきた丘陵末端にある。神籠石の頂点から豊かな水田地帯の先に有明海を望み、その先には対岸の多良岳も良く見える。以上の四つは有明海を望む。
 阿志岐神籠石(福岡県筑紫野市)標高339mの宮地嶽を頂点として西側に展開しており、大野城や基肄城と共に太宰府を望む。雷山神籠石(福岡県前原市)玄海灘を望む雷山中腹に築かれる。鹿毛馬神籠石(福岡県嘉穂郡頴田町)遠賀川中流域の小丘陵(海抜80m)にある。御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)行橋市と同県京都郡(現みやこ町)勝山町の境、標高247mのホトギ(竃)山頂付近から北と東に延びる尾根、北九州の瀬戸内海側に築かれる。唐原神籠石(福岡県築上郡)御所ヶ谷の南東に位置し、周防灘を望む。残りの5つは築いた理由や状況が違うと思う。
いたぎ=一大城とすれば、同県唐津市枝去木(えざるぎ→えだのぎ)=一大城→江田城とも考えられるが、地図ソフトに拠ると、何れの方角も周囲の山に遮られて望めないので、位置的に無理がある。もしかしたら支配組織の異変があり、逃げ延び、落ちた所かも知れない。*穢多(えた)
黒髪神社=源(鎮西八郎)為朝は13歳の時、九州へ追放となり、15歳で九州を平ら げ、鎮西総追捕使を称す。佐賀県武雄市の黒髪神社には為朝の大蛇退治の伝説が残される。同県有田市の黒髪山には万寿姫とのロマンスの伝承が在る。肥前国彼 杵郡「伊邪奈美命・事解命・御年神・大年神」長崎県佐世保市黒髪町2817番地。  




  1. 2015/11/07(土) 12:57:07|
  2. 5.思惑と意図
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◇距離の換算

 当時、陸行や水行には一日当りに進める平均距離があり、要した日数から換算したため、上記の(B)(C)(D)項の何れもが、同距離(同日数)にされる と云う宮崎康平氏等の説には概ね同意できる。ただ、換算した日数と同数の休息日と悪天候に対する波浪、風待ちや潮待ち等の予備日を設けたので、最長で実質 移動日数の三倍程になる。また、長距離程、予備日は多く設けたと思われる。但し、陸行は歩測や基本とする縄等を使い測ったので、日程と違い、その里程は略 正確だろう。大陸内での代表的な移動手段が河川航行や馬や駱駝に拠るとすれば、風向や水流、陸行でも悪天候等にも左右されるので、短里とされる距離の曖昧 さは、そうした陸行や水行の目安に因る。*「距離の感覚」参照
 モンゴル軍騎馬隊の場合、食事や休憩等を含めた速歩で6~10時間の移動距離、70~100km/日、独仏騎兵の速歩=240m/分(115㎞/日)、 明治期、日本の騎兵も約210m/分(100㎞/日)とある。馬の速歩=約210m/分(12.6㎞/h)に関係し、6~10hで、約75~125㎞(平 均値100㎞)/日となる。おそらく、船脚も櫓漕ぎと帆掛けの和船で、最大速度10ノット、櫓を用いた実船相当の船速は4~6ノット、1ノット=一海里 (約1852m)で、7.5~11㎞/h程度で、当時、午前中の干潮と満潮を利用した6~12時間、それを生業とする海民の複数の櫂船であれば、もっと速いかもしれないが、潮待ちと風待ちや悪天候等の影響を考慮すれば、65~135㎞/日(平均値100㎞/日)程度として良く、干潮と満潮や潮流を利用した沿岸部や河川の水行でも、大凡、千余里の100㎞/日が目安にされたと考える。 詰まり、帯方郡衙から狗邪韓国迄の沿岸航海七千餘里(500~800)も、これに則して計算すると、航行日数「5~8日」、同様に、15~24日、最長で一ヶ月弱の日程になる。狗邪韓国からの渡海三千餘里は、地図上、大凡、210(90+70+50)㎞、航行3日、休息日と、潮待ち、強風波浪等、悪天候に対する予備日等の2日を併せた三日サイクルとし、最長で9~10日の日程とした。
 最後に陸行で1日に進む平均距離(㎞/日)を、資料では、唐代=50里(約28 ㎞)/日、重装備での行軍=20㎞/日、江戸期、東海道五十三次の約500㎞を15日前後、戦国期の軍団は急ぎ20日で歩いたとする。これを実際に歩いた 日数とすれば、一日、500㎞÷15=約33.33㎞、500㎞÷20=25㎞になるが、通常、4㎞/h、休憩や食事の時間を除く、5~7hで、 20~28㎞/日が妥当だろう。当時の道路事情、下賜品等を負った悪条件等を考え併せると、末盧国~邪馬壹国の陸行二千里も、移動日と同数の休息日と悪 天候や河川増水等、足止めの予備日を併せた3日サイクルの陸行一月で、実質の移動10日(予備0日)、同15日(予備5日)、同20日(予備10日)と し、原則、隔日休息で、最速で移動すれば、28×10(280)÷30=9.33㎞、28×15(420)÷30=14㎞、 28×20(560)÷30=18.66㎞、平均移動距離は、約14㎞/日となり、陸行の二千里の実質移動日を10~20日と休息10日として換算すると、以下の目安になり、水行一里の換算値と同長の70~140m(平均値105m)になる。

   末盧国~伊都国(五百里)=2.5日(35㎞)~5日(70㎞)
   伊都国~不彌国(一百里)=0.5日(7㎞)~1日(14㎞)
   不彌国~邪馬壹国(千四百)=7日(98㎞)~14日(196㎞)

 「倭人伝」景初2年6月に魏の京都洛陽に遣使を遣わした。同年12月、魏帝は女王卑彌呼の忠孝に対して詔書で報い「親魏倭王」に為したとあり、半年かからずに到着した。邪馬壹国~末盧国迄の陸行二千里(210㎞)=一月、末盧国~狗邪韓国迄の渡海三千余里(315㎞)=10日、帯方郡衙(平壌付近)迄の水行七千餘里(735㎞)=一月弱、渤海沿岸の水行と黄河河口~洛陽迄の河川航行を、地図上、1500~2000㎞(14300~19000里)とすれば、水行45~60(実質15~20)日の日程になり、併せると、110日~125日(略四ヶ月)で到着した。上記の記述に合致する。

6~12時間=草原を走る馬と違い海上での碇泊は難しいので、一航海の限度を超えた12時間以上の場合、潮流の変化や潮目に注意しながら休みなく漕ぎ続けたか、交代要員が居たと思う。また、河川航行の場合、往復の平均値と考える。
100㎞前後=「三国志」の300年後、「隋書流求伝」帝遣武賁郎將陳稜 朝請大夫張鎮州率兵 自義安浮海撃之至高華嶼 又東行二日至句辟嶼 又一日便至流求。大陸東南部の義安より高華嶼迄の日程は記述されないが、これを宮古島付近、句辟嶼を沖縄本島とすれば、地図上の約280㎞を二日、流求を奄美大島とすれば、同約120㎞の航海を一日で至ることになる。おそらく、北側を流れる黒潮に乗って航海すると思われる。
地図上=沿岸航海の場合、海岸から少し離れた海上を略直線で航行できるが、朝鮮半島か ら九州北部の場合、郡使や魏使は対馬海流(2㎞/h)に逆らう様に円弧を描き南下し、直線距離の倍近く航行するかも知れないので、一里「70~140m」 とした。何れにしても1日(6~12h)の航海。
3日サイクル=先述の宮崎康平氏は、朝鮮半島北部九州間の海峡は一週間で風向が変わる ので、7日(2日×3+予備1日)の日程とする。私説の水行10日は、航海日と休息日のセットで三航海=6日と、強風や波浪に拠る予備日(3~4日)も設 けて、最長で、9日~10日とした。陸行の場合も、これに則り、距離に則した日程に同日数の休息日と予備日を設けたと思われる。
500(800)㎞=帯方郡衙の通説的な比定地、ソウル(平壌)付近を目安にした。尚、自説の距離単位の一里「105m」とすれば、七千餘里=735余㎞となり、現在の平壌の南、南浦(ナムポ)付近になる。
唐代=(唐・五代)31.1㌢・1歩=5尺(155.5)・1里(360 歩=559.8㍍)、(周)19.9㌢・1歩=6尺(119.4)・1里(429.8㍍)、(秦・前漢)17.7㌢・1歩=5尺(138.5)・1里 (498.6㍍)、(新・後漢)23㌢・1歩=5尺(115)・1里(414㍍)、(魏・晋)24.1㌢・1歩=5尺(120.5)・1里(433.8 ㍍)、(北魏)27.9㌢・1歩=5尺(139.5)・1里(502.2㍍)、(隋)29.5㌢・1歩=5尺(147.5)・1里(531㍍)。何故か、 基準「尺」が長くなる。
休息日=朝鮮半島海峡や玄界灘を渡るのは、風や波の穏やかな夏期が良いと云われる。当時、平均気温が1度近く高かったと云われるので、現代日本の夏に近く、荷物を載せた河川航行用の平底船を曳いて上流へ遡るのは、従者にとって休息日なしでは厳しかったと思う。
河川の増水や悪天候=私説では、筑後川を渡る場合や台風等が考えられ、梅雨の時期は 丸々一ヶ月以上の足止めと云う事も在ったと思う。こうした日程では、休息日や予備日は、夫々、距離で換算した日数と同数の10日、黄河河口から洛陽迄の水 行は、15~20日と設定されていたかも知れない。
14㎞/日=本来、悪天候には移動できないので、予備日を使うと休息日が増え、平均の 移動距離は減る。また、最遅値に設定とした「20㎞/日」の場合、最速値の移動に比べると、移動10日では実質の距離が80㎞減るので、移動日が4日増 え、最短の日程が14日になる。例えば、①②×③△④×△⑤△⑥×△⑦△⑧×△⑨△⑩×△⑪△⑫×△⑬⑭(×休息・△予備)の様な日程で、20㎞ ×14(280㎞)÷26=10.76㎞、20㎞×19(380㎞)÷26=14.61㎞、20㎞×24(480㎞)÷26=18.46㎞。一日の移動時 間が増えて平均距離は、14.6㎞/日となる。
邪馬壹国=伊都国から卑彌呼の宮殿に向かった使者が勅書を受けてから出発したと考えられる。
渤海沿岸の水行=呉に服属したされる沿岸航海民と繋がった遼東太守公孫氏が、魏と対立していた頃の遣使とも云われるので、中国の大連から山東半島迄の渡海もあり得るが、この場合、帶方郡に属す沿岸航海民ではなく、この外洋海路を航行する海民への差配が必要になる。
略四ヶ月=往きの場合、黄河遡上に多くの日程を割き、還りは、魏使同様、海流に逆らう瀚海の渡海に多くの日程(10日)を割いたと思う。 






  1. 2015/11/16(月) 22:26:16|
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◇「渡」と「濟」

  当時、大陸の為政者には外海を渡ると云う認識はなかったのか、編者陳寿は、朝鮮半島沿岸部を循海岸水行とし、狗邪韓国~對海国~一大国~末盧国への外洋航海を「渡一海」として書き分けた。序でに、「三国志魏書第一」で使われる漢字の「渡」を拾ってみる。

 (1)是歳、孫策受袁術使、渡江。數年閒遂有江東。
 この歳、孫策、袁術の使を受け、長江(揚子江)を渡り孫策は、遂に数年間、江東を有す。
 (2)是歳長安亂。天子東遷、敗于曹陽。渡河、幸安邑。
 この歳、長安で乱が起き、天子は東に逃れ、曹陽の地で破れ、黄河を渡り、司隷河東郡安邑に行幸した。中国山西省南西部河東郡付近を流れる黄河東側の地域の称。
 (3)公到、撃破蕤等、皆斬之。術走渡淮。公還許。
 公到り、張蕤等を撃破し、皆、これを斬る。術走り、淮河を渡る。公(曹操)は、許に還る。袁術が淮河を渡り、河南省に逃げたため、追うのを止め、予州潁川郡許に還る。尚、許(もと)とすれば、前線基地か、生国の予州(江蘇省)沛国「譙」に還ったとも考えられる。
 (4)夏四月進軍臨河、使史渙曹仁、渡河撃之。
 夏四月、軍を進めて黄河に臨み、史渙・曹仁に、黄河を渡らせて、これを撃たす。
 (5)二月紹遣郭圖淳于瓊顏良、攻東郡太守劉延于白馬。紹引兵至黎陽、將渡河
 二月、袁紹、郭圖・淳于瓊・顏良を遣はし、兗東郡太守・劉延を兗州東郡白馬に攻めさせる。袁紹、兵を引いて黎陽に至り、將に黄河を渡らんとする
 (6)公到延津、若將、向其後者。紹必西應之。
 公(曹操)、兗州陳留郡延津に到り、若し、将に兵を渡たし、その後、向かはんとすれば、袁紹、必ず西し、これに応じるだろう。前段に、荀攸公に説きて曰く「今、兵少なく敵せず、其の勢を分くるが乃ち可なり」とあり、延紹の兵を別ける策として、将いた兵を渡らせる。
 (7)遂解白馬圍、徙其民、循河而西。紹於是渡河追公軍、至延津南。
 遂に兗州東郡白馬の圍(かこ)みを解き、其の民を徙(うつ)し、河を循じ、西す。袁紹、黄河を渡り、曹操の軍を追い延津の南に至る。
 (8)郃等聞瓊破、遂來降。紹衆大潰、紹及譚棄軍走、渡河
 張郃等、淳于瓊が破れたと聞き、遂に来降す。それを知った袁紹の兵衆は意気消沈し、袁紹と袁譚、軍兵を放棄して逃げ、黄河を渡り、生国の河南汝陽に還る。

 何れも単に黄河や長江等の大河川や、その支流を渡る事を云う。また、同訓「濟(わたす)」が在り、序でに、この使い方も見ておく。

 (1)玄謂太祖曰「天下將亂、非命世之才不能也~」
 橋玄謂ひて太祖に曰く、「天下將(まさ)に亂れんとし、世の才に命ずるに非ざれば、濟す能はざらんや」。→ 天下、将に乱れようとするが、天命でもない限り、この乱れを収めることはできないでしょう。
 (2)光和末、黄巾起。拜騎都尉、討潁川賊。遷爲南相。
 光和末、黄巾乱が起こる。(太祖)騎都尉を拜し、潁川の賊を討つ。遷りて黄河南岸の南相(黄河南岸の水運を司る役人?)になる。
 (3)且紹、布衣之雄耳、能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順、何向而不
 且つ袁紹、布衣(ほい=無官)の雄なるのみ。能く人を聚(あつ)めるが、用ふる能力はない。夫れ、公(曹操)の神武明哲(天命)を以て、而して輔くるは大いなる順を以てす。何ぞ向ひて濟さざらん。→ 袁紹に、そんな能力はないが、曹操、貴方にはある。何故、身を投じて収めようとしないのですか。
 (4)九年春正月、濟河遏淇水入白溝以通糧道。
 九年春正月、河を濟(わた)り淇水を遏(とど)め、白溝に水を入れ、以て兵糧の水道を通す。→ 黄河の水運を治め、淇水の流れを止めて白溝に水を入れて兵糧を運ぶ水道を通す。

水行=河川航行に拠る水運が軍団や兵站の重要な移送・輸送手段だろうが、常識だったの か、「三国志魏書第一巻」に「水行」と云う記述はない。上記、(10)黄河南岸の濟南相になる事や、(12)河を濟り=黄河の水運を収める等、為政者にと り、戦略上、有効な手立てと考える。
渡一海=狗邪韓国から對海国へ「始一海」とした編者陳寿の意図を、「初めて=一度目」と云うニュアンスとした。「三国志魏書一巻」でも、度数や回数や「制度」等、尺度と云う語義として使われる。詰まり、「始度一海=一海を渡り始める」となる。
孫策=呉郡富春県出身、呉を建国する孫権の兄で、孫堅の子とある。
江東=大きく北向きに湾曲する長江下流南岸の地。江蘇省南部、及び浙江省北部に相当する。江左ともいう。春秋戦国時代の呉越地方の古称。孫策は呉を建国する孫権の兄で、孫堅の子とある。詰まり、江東=呉となり、この場合、国境と考えられる。
山西省(Shan xi)=太行山脈西方、華北地区西部の省。東西を山地に挟まれた高原地帯で省都は太原。別称「晋」「山右」。春秋時代の「晋」の地。石炭・鉄等の地下資源が豊富。
淮河(Huai He)=中国の大河。河南省南部の桐柏山に発源し、安徽省を経て洪沢湖を貫流、江蘇省に出て大運河に連なる。旧、下流は黄河の河道を通って黄海に注いだ。中華人民共和国成立以来、大規模な治水工事が進んだ。全長約1千㎞。淮水。
袁紹=後漢末の群雄の一人。河南の予州汝南郡汝陽の人。霊帝の死後、宦官を皆殺しにしたが、董卓のために冀州に追われ、後、反董卓派の盟主となる。やがて曹操と対立し、200年河南の官渡で大敗。(?~202)
黄巾乱=184年、後漢の霊帝の時、張角を首領として河北で起こった農民反乱。張角等 は、悉く黄巾を着け、黄老の道を奉じて太平道と称し、貧民を救済したので、忽ち強大となり、蜂起した。同年末、張角の病死によって衰えたが、その後も残党 の反乱は続き、後漢滅亡の契機となった。
潁川(えいせん)=河南省臨潁県付近。隠士の許由が帝尭から位を譲ろうという話を聞き、耳が汚れたと、この川で耳を洗い清めたという。潁水。
済南(Jinan)=山東の省都。黄河南岸に位置、京滬(けいこ)・膠済(こうさい)両鉄道の交点。物産集散地で、重工業も発達。河南(He nan)=中国華北地区南部の省。黄河中流以南と、若干、黄河北方も含まれ、省都は鄭州。殷代以後、屡々、洛陽・開封が首都となった。周代、洛陽の別称。別称「中州」「豫(よ)州」。
淇水=河南省にあり、衛河に濯ぐ。衛河=兗州(山東・河北両省の一部)東郡衛付近を流れるか。



 
  1. 2015/11/24(火) 18:53:28|
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