見まごう邪馬台国

◇うんざり

「北部九州だ。いや、畿内の大和だ」と云う思い込み的で論理性に欠けた位置論争には、うんざりだ。平成21年、奈良県桜井市箸中の箸墓古墳周辺部から発掘されていた遺物の研究や炭素14年代測定法に拠り、その築造年代が、AD240~260年頃とされた。市教委の発表に拠れば、その結果を受けて邪馬台国女王卑弥呼を被葬者とする可能性が高いとする。呆れた事に、古代史学界でも卑彌呼の墓で略間違いないと、当時、この列島には邪馬壹(邪馬臺)国以外に権力構造を有した国々や人々が存在していなかったのかと、見まごうばかりに、マニアのみならず、NHKや新聞等のマスコミ各社も大騒ぎした。その後、検証作業が続くのか、測定方法等、何らかの問題でもあったのか、鳴りをひそめ、最近は話題にならない。
また、邪馬臺国を近畿の大和と比定してだろうが、吉備地方に倭国王が居て、卑弥呼の故郷だったのでは?等とする説までもが在ると云う。確かに、こうした説の何れもが可能性ゼロとは云えないし、様々な知見を積み重ねて想像し、推測する事も必要だろう。だが、その論拠たるや、従前から巫女と思しき皇女の墓とされた古墳の築造年代が合致する事、吉備地方には王権があったと思しき遺跡が多く、被葬者を倭国王帥升と推定される特異な盾築墳丘墓等の大型古墳の発祥地とする等、比定地も確定しない中、あやふやで不確かな状況証拠と思うのは私だけか。
晋代の文官陳寿に拠る「魏志東夷伝倭人条」に記載される邪馬壹(邪馬臺)国への里程には矛盾?があり、様々な説が唱えられた。例えば、記述に順って進むのではなく或る地点から放射状に進む。この場合、末盧国・伊都国・不彌国等を基点にする諸説がある。更には邪馬壹国へは不彌国から南へ「水行十日」と「陸行一月」の日程で至るとすれば、九州管内を出るので、そのどちらかだとする説、更には、禁じ手とも思しき「南至」を東至の間違いとして女王の都を大和とする等、比定地が確定しない理由の一つは、当時の陸行や水行の方法、その里程の換算距離がハッキリしていない事だけではなく、冒頭で「郡至倭~国邑為す」とした後、女王国領域に至った後、「郡至女王国~」、傍国との位置関係を「女王国以北~」等、「倭の国邑」とはされない事、「従~至」「自~至」と書き分けられる等、当時の筆法もあったのだろうが、全てに編者陳寿の思惑や意図が在った。こうした様々な筆法に拠る書き分けを考慮せずに読み解けようはずもない。もう一つ、1~3世紀に架けて列島の状況を漢籍に頼る以外に方法を見いだせない中、「古事記」「日本書紀」等の国史が語る神話の本旨も読み解けず、欠史八代として見向きもされない天皇を創造した夫々の編者が持つ思惑や意図も理解しようともせず、国名と所在地を特定する事はおろか、官名と職制や、その国状を理解するには無理がある。
私見で、当時、列島内で使われた言葉、特に邪馬壹(邪馬臺)国の支配組織で用いられた言語形態や、その音韻体系がどんなものだったか分からないにも拘わらず、万葉仮名に於て同音の仮名に多様な音韻の漢字が使用されるのと同様、魏志東夷伝に使用される漢字が持つ当時の音韻を殆ど無視、現代日本語の漢字音を用いて国名や官名を訓み、漢字の語義や解字等を考慮しない事が、こうした状況を生んだ第一の理由だと思う。
此処では、場所を云々し、比定する前に使われる漢字の音韻や語義を鑑み、「三国志」の編者陳寿が晋王等の読者に対して伝えたかった事を読み解き、真意を探って見たい。その糸口として「魏志東夷伝」に見られる異表記や問題になる表記等、論点にもされない小さな疑問点を一つ一つ取り上げて、一考察として私論を述べてみたい。先ずは、避けて通れない最大関心事である邪馬台国の位置を決定するために重要な問題とされる距離の換算に対する論考から始める。尚、文中の丸数字は補注として文末に掲載する(以下同)。
 
箸墓古墳奈良県桜井市箸中にある最古の前方後円墳の一つ。墳長約280m。後円部の直径約160m。葺石や最古の埴輪があり、3世紀半から後半の築造とされる。「崇神紀」倭迹迹日百襲姫命の墓と伝承されるが、近年、卑弥呼の墓とする説もある。
国立歴史民俗博物館名誉教授の春成秀爾氏は吉備地方を卑彌呼の出身地とする。また、岡山大の松木武彦教授は様々な情況証拠を提示して倉敷市の盾築墳丘墓の被葬者を倭国王帥升という人物の可能性を提唱する。

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  1. 2014/06/03(火) 13:36:55|
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◇手と足

子午線の1/4千万(メートル原器)を基本とした仏国のメートル法は分かり易いが、足先から踵(かかと)迄の長さを基本にした英国のフィート法 (統一後、12吋=30.48㎝)は、一説にヘンリーⅠの足とも云われる。その起源は、BC6000年頃、古代メソポタミアのキュービット(肘から手の指先)から派生した単位に遡るとも云われる。一方、古代中国の度量衡の基本単位「一尺(親指から人差指/中指の先)」は下記の如く在る。
   周    =19.9cm 1歩=6尺(119.4cm)  1里=300歩(358.2m)
   秦・前漢=27.7cm 1歩=5尺(138.5cm)  1里=360歩(498.6m) *1里=300歩(415.5m)
   新・後漢=23.0cm 1歩=5尺(115.0cm)  1里=360歩(414.0m)
   魏・西晋=24.1cm 1歩=5尺(120.5cm)  1里=360歩(433.8m)
   北  魏=27.9cm 1歩=5尺(139.5cm)  1里=360歩(502.2m)   
   隋    =29.5cm 1歩=5尺(147.5cm)  1里=360歩(531.0m) *1尺=8寸(23.6㎝)
   唐・五代=31.1cm 1歩=5尺(155.5cm)  1里=360歩(559.8m) *1尺=8寸(24.8㎝)
 
上表からすれば、手の大きさが基本とされる度量衡の単位「尺」も時代に拠って変化し、夫々に違いが在る。特徴的な事は、秦と前漢の単位を除き、時代が下り、王朝が代わる度に長くなる事で、その理由は度量衡の単位が大きいと租税の徴収率が増える事も一因と云われる。また、日本でも基本単位の違う尺貫法が幾つかある。唐・五代十国に至っては「31.1㎝」、こんなに大きな手があったのかと思う程だが、誰の手が基本にされたのか。英国のフィート法と同様、この度量衡を制定した権力者の手だろうか。例えば、周代の一歩(六尺/12進法?)=119.4㎝は、「三国志」が成立した魏・晋朝の一歩(五尺/10進法?)=120.5㎝に略合致するが、その前代、度量衡も統一した史上初の統一王朝「秦」と、前漢では一尺(27.7㎝)・一歩=五尺(138.5㎝)と大きく変わる。しかし、その次代、新・後漢は一尺=23.0㎝とある。更に、一里が360歩や300歩、一尺=10寸や8寸、一歩が六尺や五尺とされた時代もあるらしく秦・前漢(27.7㎝)と北魏(27.9㎝)を「8/10」にすれば、22.2~22.3㎝となり、本来、基本的な単位は、親指と人差し指(中指)を広げた先端幅の20~24㎝程として良いのではあるまいか。
もう一つ、「秦」の単位(27.7㎝)を異民族とされる遊牧民の鮮卑族拓跋(たくばつ)氏が興した南北朝北魏の一尺(27.9㎝)と略合致するのは特筆すべき事で、同じ鮮卑族慕容氏が興した五胡十六国の鮮卑族慕容皝(ぼようこう)が燕王を称した前燕(337~370)と独立した後燕(384~409)等の資料もあれば良いのだが、後燕の慕容垂は同族の慕容泓(おう)が山西省南部に建てた西燕(384~394)との戦いで、初め、北魏と連携、友好関係を持ち、両国は頻繁に使節の交換した。391年7月慕容垂から「名馬を要求された」北魏は、それを拒絶し、西燕に接近したため、両国は国交は断絶し、抗争状態になる。慕容垂は西燕を滅ぼした後、395年5月皇太子慕容宝に10万の兵を預け、北魏を攻撃させたと在る。
例えば、中国の古代王朝「周」の王族「召公奭」が治めた薊(現北京)から満州一帯の「燕」の領民は漢民族化し、遊牧騎馬民との繋がりが途絶えたのだろうか、国名を継いだ「後燕」から名馬を要求された「北魏」は遊牧騎馬民との繋がりや関わり強かったのか。その北魏は鮮卑人と漢人の通婚を奨励して中国化政策を推進したとあり、特有の基本単位が使われたのかも知れず、異民族と漢民族が持つ単位の折衷が秦や北魏の単位と推測される。
「邪馬台国はなかった」の著者古田武彦氏は三国志の里程記事より自身で割り出した一里=75~90mと云う換算値で説明する。もう一つ『資治通鑑』唐代の天文学者南宮説に拠る「一寸千里の法」と云う記述が在り、詳細は定かではないが、その結果から導き出される数値は、魏・晋代の一里「434m」の略四分の一「一里=116m」とする説もあるらしい。
こうした短い異単位の基本は何だろうか? また、態々、魏・晋代の公里(434m)と違う単位を使用した理由や意図をどの様に捉えるのか、ただ、計算が合うからと云うのでは説得力はない。
 
五代十国=唐の滅亡から宋の統一に至る間に、華北に興亡した五代王朝と華北以外の諸地方に割拠し、興亡した十国の併称。
北魏=中国、南北朝時代の北朝の最初の国。鮮卑族の拓跋(たくばつ)珪(道武帝)が、386年魏王を称し、398年平城、今の山西省大同に都し、建国。494年洛陽に遷都。534年東魏・西魏に分裂、東魏は550年、西魏は556年滅亡。拓跋魏・後魏・元魏とも称。
唐代の「資治通鑑」壬子の命、太史監南宮説等、河南北の平地にて晷(日陰→日時計)と極星を測定する。夏至の日中に八尺の表を立てて同時に測定する。陽城では影の長さが一尺四寸八分弱だった。夜、北極星を見ると地面から34度と10分の4の高さだった。浚儀岳台では同1尺5寸より僅かに長かった。極高は34度8分。南方の朗州では、同7寸7分。極高は29度半。北方の蔚州では、同2尺2寸9分、極高は40度。南北で3688里90歩離れると、同1尺5寸2分、極高は10度半違った。 又、南の交州では、影は表(反対側)の南へ3寸3分出た。八月、海中から老人星の下を望めば、多くの星が燦然と輝いていたが、皆、昔から名が付いていない星である。南極から大凡20度以上離れた星は、皆、見えたと在る。日影(晷)二寸=526里270歩、一寸当たり、263里135歩(115885m)と在る。

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  1. 2014/06/05(木) 13:39:59|
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◇異民族の単位

当時の魏使や郡使等の持つ方向性や距離の感覚を疑ってはいけない。中国国内の移動でも、未だ正確な地図は無かったと思われるので、それこそ相対的な距離と八方位で描かれた簡単な地図で、太陽や星の位置と山河等の地形を目安にして移動したであろう事は想像に難くない。詰まり、命を賭して、特に道らしきものもない砂漠を横断し、山脈の峠道を行く商民、海洋を航海する海民にとり、距離感が狂ったり、方向性を欠けば、宿場のあるオアシスや城壁に囲まれた都市には容易に辿り着けなかった。そんな無謀な事はあり得ないと考える。
漢籍の史書等に記載される里数は9割以上の確率で実地に合致すると云われる。先掲の一覧表には長里と云う名称すら見えないので、歴代の王朝で用いられた度量衡の単位に短里はないとして良いのだが、「倭人伝」の里程に於て様々な矛盾が生じると云う事も否めないのは確か。
例えば、晋代の陳寿が編纂した「三国志」の里数記事150件中、三割の50が、AD220~250年迄の魏志と呉志だけに、長里ではなく80m弱の極短い里数が使われると云う論者が居り、それも249年の高平陵事件を契機に魏帝曹氏から丞相司馬懿に権力が移る迄の限定された期間と云う。この論者は、蜀志以外で使われる理由を、この時期、呉が魏の支配下だったからとするが、この期間にだけに集中して使われる理由は未だ判らないと云う。ただ、249年に起きた高平陵事件を契機に曹氏から権臣司馬懿(179~251)に権力が移った事と関連が在るのではないかとする。
晋帝の命で魏帝位を簒奪したのではなく禅譲されたと正当化するために書かれた「三国志」で、司馬懿に実権が移ったとされる事件が起こる迄の期間に集中して短里と思しき単位が現出するのであれば、何らかの理由が在ったとせざるを得ず、現状の距離数を鑑み、割り出される短い里単位、特殊な単位の存在は否定できないと思う。例えば、帯方郡衙(現ソウルか、平壌付近)から狗邪韓国を通説の釜山付近として、地図上、その直線距離をディバイダで計ると総距離七千余里は、約600~700㎞、同様に、釜山から対馬間は約70~90㎞、次の対馬~壱岐間は約60~70㎞、次の壱岐~唐津市付近迄は約40~50㎞、その停泊地に拠る違いや海流や潮汐の影響等を考慮し、孤を描きながらの航行だとしても、一里=約434mでは、前者の七千餘里=約3100㎞、後者の三区間千餘里=約440㎞となり、現状の直線距離に比して凡そ5~10倍と云う膨大な数値となる。これは相対的な単位等と云う次元の問題ではない。詰まり、100m前後とされる短里でなければ、現状の何れとも適合しない。これに対して短里は無いとする研究者や論者は、防衛上、長く見せたかった。中国人の白髪三千丈的な記述等として理由にもならない非論理的な説明で誤魔化す。
こうした事を考える理由は、漢民族が膨大な労力と時間を割き、長城を築いて、その進入を防いだと云う北方の異民族にも前漢高祖「劉邦」や後漢光武帝「劉秀」と同姓氏を持つ匈奴「劉顕」等が居り、遊牧民や騎馬民とされる彼等が用いた度量衡の基本(手足の長さ等)は何だったのかと云う思いを持つからだ。帯方郡の比定地を通説の現・平壌か、ソウル付近として、その書き出しの文意を帯方郡衙から朝鮮半島西岸を彼方此方に碇泊しながら南下、韓国を歴て西南隅から東へ水行して到った狗邪韓国の所在地を半島東南隅、総距離を七千餘里として話を進める。尚、歴韓国乍南乍東~と云う記述から韓国西沿岸の或る所から上陸し、韓国領内を東南方向へ陸行したとする論者もいるが、これに就いては後述する。
 
司馬懿=三国「魏」の権臣。字は仲達。魏の諸帝に仕え、蜀漢の諸葛亮(孔明)と戦い、大陸の東北部と朝鮮に領土を広げて、魏末丞相となって実権を握った。孫の司馬炎(武帝)が晋を建て、追尊して高祖宣帝と称される。晋(しん)=三国の魏に代わって、その権臣司馬炎(司馬懿孫)が建てた王朝(265~420)。都は洛陽。280年呉を滅ぼして天下を統一。後、五胡の乱に拠り、316年に4世で滅亡(西晋)。翌年、皇族司馬睿(元帝)が建康(南京)に再興したが、混乱がつづき、遂に将軍劉裕に滅ぼされた(東晋)。司馬遷=前漢の歴史家。字は子長。陝西省夏陽の人。武帝の時、父・談の職を継いで太史令となり、自ら太史公と称す。「李陵」が匈奴に降ったのを弁護、宮刑に処せらて発憤したと伝え、父の志を次いで「史記」130巻を完成した(前145頃~前86頃)。
帯方郡衙=通説的には現韓国の首都ソウル付近、現北朝鮮の首都平壌とされる。後述するが、「三国志東夷伝」韓国は方可四千里と狗邪韓国迄の七千余里から現忠清南道公州以南を韓国領域とした。また、その西北側を帯方郡領域、その東側は(東)濊領域とした。

  1. 2014/06/09(月) 14:15:16|
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◇中華思想

広辞苑等に拠ると、春秋時代の十二諸侯の一つ「」、都は絳(陝西省侯馬市)、姫(き)姓の周成王弟の叔虞後裔、文公に至り、楚を破り、周を助け、国力充実、領土は河北南部、河南北部に及ぶも、BC403年、韓・魏・趙、三晋の独立により名目的な存在となる。
上記、春秋時代の晋から韓・魏・趙の三国が独立後、名目的な存在とする事、後漢の権臣曹操は帝位の簒奪ではなく、献帝から禅譲されて「魏」を建国したとする事、これと同様、曹魏の権臣司馬懿が魏帝位を簒奪し、その孫司馬炎が建国した「西晋」を禅譲とするために書かれた「三国志」だとすれば、極限られた期間にだけ、短里と思しき異単位が使われた理由や、その事情を推測し、理解する必要があろう。
当時、中国国内で、物資や将兵の移動は河川や運河等の水行に拠った。詰まり、魏使にとって沿岸航海だけでなく外洋を渡る事等、日常的ではなかったと思う。卑彌呼の遣使は「魏」と遼東半島太守公孫氏が覇権争いの最中、或いは、終戦直後に行われたとされる。当時、呉は夏后少康が封ぜられた大陸東南岸の会稽付近に広く住んだ蛋民や海民を支配し、半独立的な公孫氏とも繋がりがあったらしい。魏帝は呉に服属した沿岸航海民の機動力を欲し、彼等をも支配したと考えられる。そして、それが反旗を翻した公孫氏側の理由とも云われる。
編者陳寿が、狗邪韓国から對海(對馬)国へを始度一海とする理由は、既知の情報にった沿岸航海「郡至倭循海岸水行」と違う外洋航海と云う意味だけではなく、郡使は何度か渡ったが魏使の渡海は「一目」と云うニュアンスもあるのかも知れない。詰まり、沿岸航海や外洋航海に対する里単位ともとれるが、呉志だけではなく、魏志にも使われるので、それだけとも言い切れず、少し、見方を変える。
例えば、司馬懿の司馬を役職名(馬を司る=馭者?)とすれば、騎馬民族に関わりのある人々の長とも考えられる、司馬懿の子司馬昭が、春秋時代の十二諸侯の一、姫姓の周、成王弟叔虞が封ぜられた「後裔の血統、曹魏の王統に近い魏氏等の女性を娶って生んだのか、それとも養子なのかは判然としないが、孫の司馬炎(武帝)が統一国家として「西晋」を建てた(AD281~316)事に対する自負心や自尊心で以て、度量衡を統一、中華思想として魏・晋の里単位(長里)とした。史上最後の清王朝はツングース系女真族「奴児哈赤」の孫世祖が北京へ遷都後、漢民族の文化遺産の多くを収集、漢字の辞書を作った等の事実も、中原の覇者として自らを中華思想に於ける王統とする自負心や自尊心の顕示と思う。これらから、對馬国と對海国との関連も見える。詰まり、遊牧騎馬民族の草原を走る馬と海民の海原を走る船が同等とする認識だった。

 
「韓」=中国、戦国七雄の一。「韓」=戦国時代の国名。戦国七雄の一つ。晋の六卿。魏・趙と共に晋を分割、平陽・宜陽・鄭に都して強勢な時期もあったが、秦に滅ぼさる(BC403~BC230)。韓氏は、晋分家桓叔(成諸・曲沃県当主)の庶子韓万(諱武・荘伯の弟)が武公の馭者としての功に拠り、韓に封じられて氏とした。献公が粛清対象とした桓荘の族。趙氏の再興に絡み有名な韓厥の代に卿に列し、次代には趙武の後任として執政になる。一族の傾向として慎重かつ細心で、自立後も影が薄い。『左氏春秋』では妙に人格者を輩出する家系、『左伝』が韓に於て成立したとされる所以(BC403~BC230)。
「魏」=中国、戦国七雄の一。晋の六卿、魏斯(文侯)が、韓・趙と共に晋を分割、安邑に都。後、大梁(河南省開封)に遷る。山西の南部から陝西の東部、及び河南の北部を占め、後、秦に滅ぼさる(前403~前225)。後漢の末、198年、劉邦と同郷江蘇省沛の曹操が献帝を奉じ、天下の実権を握って魏王となり、その子丕に至って帝位(曹魏)に即く。都は洛陽。江北を領有。5世で晋に禅る(220~265)。洛陽=洛河の北(洛北)。中国河南省の都市。北に邙山(ぼうざん)、南に洛河の形勝地。周代の洛邑、後漢・晋・北魏・隋・後唐の都となり、今日も白馬寺・竜門石窟等旧跡が多い。
「趙」=中国、戦国七雄の一。趙氏は晋の六卿、顓頊(せんぎょく)帝後裔とされる「造父」が、穆王馭者を務めて「趙」に封じられて氏としたもの。幽王時代に造父の孫叔帯が晋に移り、文侯に仕えた。立場は魏氏と同様だが、重耳(晋文公)の外戚になった事と資質の差で、文公時代から重用され、屡々、正卿を輩出。秦や鮮虞や胡に接し、嫡長だけで継承をできない事情もあったか。外様の常か、趙朔の死後、趙鞅の代、趙無卹の代にも瀬戸際を経験、自立後の内訌も多い。韓・魏と共に晋より独立、諸侯となった。邯鄲(かんたん)に都、武霊王の時、王号を僭称、一時、強盛を誇ったが、秦に滅ぼさる(BC403~BC222)。
穆公=春秋時代の秦の君主。五覇の一人。名は任好。西戎に覇を称えたと云う(在位BC660~BC621)。大夫百里奚(ひゃくりけい)を用い領土を拡大。
百里奚=字「井伯」、晋に敗れて虞君と共に秦に送られたが、恥じて逃げるも楚人に捕らえられた。穆公は五羖羊を与えて譲り受けたと在る。
幽王=周の宣王の子(?~BC771)。申侯の娘を妃としたが、褒姒(ほうじ)の愛に溺れ、犬戎の軍に攻められて驪山(りざん)麓で、殺された(在位BC782~BC771)
司馬=中国古代の官名。周の六卿の一つ。夏官の長。国家の軍政をつかさどる。漢代には大司馬とし、三公の一つ。魏晋南北朝では将軍・都督の属官。隋唐では州の属官。後世、兵部尚書の雅称。地方官、掾(じょう)の唐名。
ツングース(通古斯)=シベリアのエニセイ川からレナ川・アムール川流域やサハリン島、中国東北部にかけて広く分布するツングース諸語を話す民族の総称。漢代以降の鮮卑、唐代の靺鞨・契丹、宋代の女真、満州族等を含む。生業は狩猟・漁労・採集、トナカイ・馬・牛の飼育等を主とする。
 


  1. 2014/06/11(水) 15:54:45|
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◇海民の単位

現在、地図に拠り、その位置関係を正確に把握できるが、晋王朝の公文書「三国志東夷伝」の里程や日程と方向性が曖昧だったならば、当時、倭人と、その拠所に関する知識等、殆ど無かったと思しき晋帝には、その国々が持つ大凡の位置関係すら判らなかった。況んや、戦略的、いや、地理志的な意味すらなくなる。縦しんば、それで良かったのだとすれば、「三国志」を書かせた理由は何だろうか。更に云えば、短里等ないとする研究者や論者は、末盧国以降、陸行した国々を、どの様な根拠で以て設定し、比定するのだろうか。殆どの場合、里程や方向性迄も無視し、その音通から伊都(いと)国を佐賀と福岡県境糸島半島基部の福岡県前原市南部付近とするが、これも末盧国の比定地を松浦半島基部とすれば、「東南陸行到」と云う伊都国の記述に違和感を持つからか、先の九州説、古田武彦氏でさえ、意図的に行きたい所(博多湾岸?)があるのか、道標(みちしるべ)等と称し、見まごうかな、歩き始めを東南方向として、素人でも呆れる様な説を繰り出す。
当時は、現在の計画道路等と違い河川の沿道、山腹の杣道や獣道と大差ない、うねうねと続く踏みしめ道を進んだと推測されるので、歩き始めの方向では次国や次の宿泊地等の所在地への方向はおろか、何処に向かっているのかさえ全く判らなかったと思う。こんな事では次の比定地、奴国の福岡県福岡市博多付近や不彌国の同県糟屋郡宇美町付近も怪しくなる。
この章で述べてきた事を鑑みると、「魏志東夷伝」が持つ距離感や方向性等の問題ではなく、編者陳寿の思惑や意図が何かだと思う。地図を見ても顕かな様に倭の領域北岸狗邪韓国(釜山付近?)から次の對海(對馬)国を現在の長崎県対馬、一大(一支)国を同県壱岐、更に末盧国を佐賀県松浦半島基部付近として、同距離でもない三区間の何れをも「千余里」と設定するために何らかの基本的な単位が必要だったと考える。
陸上の距離は、歩測、或いは、車輪の回転数等で計った。河川航行に於ても沿岸部を歩測すれば良い。しかし、沿岸航海の場合、沿岸部を歩測しても実測値となり、水行に拠る行程距離にはならないが、朝鮮半島西側のリアス式海岸沿いを水行した実距離とすれば、七千餘里は長里で問題ないのかも知れない。また、そうした水行でも重い荷物も大量に運べるが、もう一つの利点と思しき距離や時間の短縮は捗捗しくない。ただ、そうした方法すら採れない外洋航海の距離を彼等は如何にして知ったのだろうか。
今も昔も沿岸航海は岩礁や暗礁、潮流の変化等の危険を避けるため、或る程度、海岸から離れた海域の最短距離を航行した。沿岸航海民は、領有する海域の状況を知り尽くした技能者として、河川航行の平均値等、その区間で日中(6~12時間)に航行できる目安の距離に則した停泊地を設定し、その停泊回数、要した日数の総計が大凡の行程距離で、その里程となる。
時代的には下るが、関連すると思しきもので、万葉集巻第一の八(額田姫王御歌)熟田津に船乗りせむと月待てば、潮も適いぬ今漕ぎ出でな。この「月」は、現実の月を待ち、日没後に出港するのではない。この歌を作った伊豫の熟田津を愛媛県付近の瀬戸内沿岸とすれば、小さな離島、岩礁や暗礁等を避けて沿岸航海するのに適した潮(=暦)を待ち、夫々の海域に適った季節風等の風向や潮流を月の出る頃合いと、その形状で知った。当然の事ながら悪天候に因る予備日や休息日を併せて余裕の有る日程にされた。詰まり、そうした知識や技術を持つ人々が沿岸航海民と呼ばれた。同様に、当時の外洋航海も碇泊する飛島でもない限り、潮流や干満を上手く利用して一日(半日)で航行できる目安の距離感があったと考えられる。
 
伊都国=伊[・ıər][・ıi][i]=(字統)君(巫女)を補佐する役職名。「伊尹」=伝説上の殷初の名相、名は摯と云い湯王を補佐、夏の桀王を滅ぼして天下を平定。尊んで阿衡(あこう)と称えた。書経(太甲)「阿」=頼る、「衡」=秤の意。天下の民がそれによって公平を得る意。転じて、宰相の意。日本で摂政・関白の称。都[tag][to][tu]=(字統)祝禱を入れた器を埋納し、城壁で囲んだ所とある。三国志成立期の上古音を併せると、「ッイェァータッ→ヤァタ→ヤワタ→ヤバタ→ヤマタ」となる。尚、「委」と「倭」の関係も巫女卑彌呼=「委」と、それを補佐する男弟=「イ」とした。湯王=「イ」、阿衡=「尹」と云う関係とすれば、伊都国も巫女を補佐する国の都と云う意味を持ち、「記紀」蘇我氏等と親しい人々か。
 

  1. 2014/06/15(日) 22:00:13|
  2. 1.距離の感覚
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◇倭人伝の単位

帯方郡衙~女王国迄の総距離「万二千餘里」から帶方郡衙~狗邪韓国迄の七千餘里と狗邪韓国~末盧国迄の三千餘里を差し引いた二千里弱を長里とし、南へ向かうと九州管内を出る。況んや、北部九州だとすれば、南至水行十日、陸行一月もの日程を要するはずはないのだから「南至」は、東至の間違いだと云うのが、短里は存在しないと云う研究者や論者が持つ大方の意見だろう。
当に本末転倒と云わざるを得ない。こうした研究者や論者の多くは、朝鮮半島から北部九州の間、三千餘里=約440㎞×3と云う膨大な距離になるにも関わらず、對海(對馬)国を長崎県の対馬、一大(一支)国を同県壱岐とする根本的な疑問を差し置いたまま、通説以外の比定地を試みる等の論なら未だしもだが、これとて南を東南にせざるを得ないし、倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑~。に対して、到其(倭の)西北岸狗邪韓国とせず、「其北岸~」とした編者陳寿の意図も分からなくなる。そこには何が何でも大和にしたい。大和朝廷以外に王の居る国が在ってはならないと云う意識が垣間見える。
「まぼろしの邪馬臺国」の著者宮崎康平氏は、この海峡(現朝鮮東海峡)では一週間で風向きが変わるので、この千余里を一週間の日程とする。ただ、風待ちや潮待ちを併せたとして海上の日程は何日になるのか。もし、何処かで碇泊したとすれば、帯方郡衙から狗邪韓国迄と同様、「歴」か、「経」とされると思うが、編者陳寿は、狗邪韓国以降の国には「(度)一海」、特に對海(對馬)国には「所居絶島」とする。実際、地図で見る限りでは、この海峡の四方50㎞以内には碇泊できる様な島嶼は見えない。先ずないだろうが、二日以上の日程とすれば、潮の目を読みながら漕ぎ続けたとしても干潮満潮や潮流の影響を受けて流されてしまう。
その宮崎康平氏も順風であれば一日で渡れる距離とする様に、三つの海峡の何れもが同距離にされた理由は「1日で渡りきる」と云う外洋航海民の言葉で、風待ちと潮待ちや休息日等を併せた6日間と海上航行の1日(半日)を併せた7日間の日程となる。これが適切なのかどうかは別として、沿岸航海と同様に、夜明後、午前中の引き潮を利用して出港、満ち潮に乗って沿岸部に近づき入港した。狗邪韓国迄の沿岸航海と末盧国への三度の外洋航海も同様に、その千餘里/日と云う里程を基本として、悪天候に拠る予備日や休息日を含めた日程として余裕を持たせた。尚、三つの海峡は、潮流の関係から往き還りで違う航路を辿ったと思う。
纏めると、後漢の滅亡後、AD220~250年迄、249年の高平陵事件を契機に魏王の曹氏から司馬懿に権力が移る迄の極限られた期間、三国志の魏書と呉書で使われる短い里単位は、日常、騎馬民族に親しい彼等が用い、使い慣れた単位、馬の並足(毎時約5.2㎞)や速歩(毎時約12.6㎞)等の歩測と関係し、速歩で一日(昼間)、約6~8時間で移動する距離とすれば、モンゴル軍騎馬隊1日中りの移動距離70~100(平均85)㎞とある。また、主として櫓を用いた船の最大速度は10knot程度、実船相当で4~6knot位とされる。1knot=一海里(約1852m)から毎時7.5~11㎞の平均値で、6~12時間として、約55~110㎞/日が目安になろうが、当時、それを生業とする海民に拠る午前中の干潮と満潮を利用した復数の櫂船では、もっと早く進んだかもしれない。ただ、風待ち潮待ち、風雨や波浪等、天候の影響を考慮すると、平均100㎞/日前後として良いだろう。尚、平均値を超える距離を移動する場合、馬と騎手、船の漕ぎ手の疲れを考慮すれば、その平均速度は遅くなると思う。
詳細は後述するが、これらを基本に隔日か、二日おきの休日、悪天候に拠る足止め等を考慮した陸行に於ける里単位「70~140m」の平均値として一里「105m」とした。(了)
 

  1. 2014/06/18(水) 16:01:37|
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◇違表記や異表記

邪馬台国等、倭人の国が記述される漢籍には、先述の三国志と後漢書や翰苑等がある。中でも「魏志東夷伝倭人条(以下・倭人伝)」倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑と云う記述に対応させたのか、「後漢書東夷伝」其大倭王居邪馬國樂浪郡去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里=その大倭王は邪馬臺国に居り、徼(予断を持って大凡を求めると)樂浪郡から去ること邪馬臺国は萬二千里、樂浪郡から去る倭人の領域西北界の拘邪韓國は七千餘里なりとする。
こうした違表記の取り扱い方にも注意が必要で、「三国志」編者陳寿の生没年「233~297年」、「後漢書」編者范曄(はんよう)の生没年「397~445年」とある。詰まり、「三国志」の150年後、「後漢書」の編者范曄は、旧来の漢籍等を基本に2世紀後半の倭国大乱後の影響、卑彌呼死後の邪馬壹国の動向等、謎の4~5世紀の状況変化に則して書き換えたとも考えられる。但し、今となっては、これが范曄の命名か、当時の呼称や国名か、はたまた、これらが同国なのかも判然としない。確かな事は、范燁の把握した樂浪郡と邪馬臺国や拘邪韓國の位置関係と陳寿の把握した帯方郡と邪馬壹国や狗邪韓国の位置関係として、思い込みや、先入観を持たずに読み解く事が肝要だと思う。
藤堂明保編「大漢和字典」と白川静編「字統」に拠ると、字音、拘[kıug(kug)][kiu(kəu)][kiu(kəu)]・狗[kug][kəu][kəu]と略同音なので、この場合、誤写や誤植と云うより、意識的に変えられたのかも知れない。では、その理由はなんだろうか。
漢字の語義には、「拘」=何かに固執する(コダワル)。何らかの関係や関連を持つ(カカワル・トラエル)。一方、狗(いぬ)=子犬の事、句=小さな単位とある。前者の場合、陳寿は狗邪韓国とするにも拘わらず、の領域北岸とする事を示唆し、後者の場合、犭(獣偏)=馬ではない小型の四つ足の動物(速く走る)と小さな単位→小型の四本櫂船と云うニュアンスとすれば、「記」虚空津日高を本つ国へ返すのに最も小さい一尋鰐が一番速いと云う記述に対応するのかも知れない。
「魏使東夷伝倭人条」を含む刊本には紹興本と慶元本(紹熙本)が在り、例えば、邪馬壹国と邪馬臺国、對海国と對馬国等の記述異なるのを取り上げて、此方が正しい。いや、間違いだと云う論争がある。刊行本の場合、編者陳寿の意向や意識的な変更や書き換えはないが、刊行者の意識的な文字の取り替えや誤植の可能性は否定できない。また、記述された年代や編者が違うとすれば、同本に基づいて書かれたとしても、その時代が持つ状況や認識に拠る書きかえの可能性を否定できない。ただ、誤植等の間違いと軽々しく云ってはならないと思う。何故なら、理解できない。都合が悪い。自分の論理に合わないとなれば、全てが間違いとされかねない。何れもが正しいとして読み解く事、先ずは目前のテキストのままで以て読む事から始めなくてなるまい。※後者の場合、海(ま) [məg][hai][hai]と発音しなくなったため、近い音の「馬」に変更したとも考えられる。
 
三国志=二十四史の一つ。魏・呉・蜀三国の史書65巻。晋の陳寿撰。紹興本=南宋初期(平安時代末期)の紹興年間(1131~62)に刊行されたもので倭人伝を含む刊本としては、現存最古。慶元本(紹熙本)=南宋の紹熙年間(1190~94)に刊行されたと云われる。「倭人伝」の部分は中華民国の学者張元済が百納本二十四史を編纂した時に宮内庁書陵部に存在するものを写真印刷した。
後漢書(ごかんじょ)=二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝宋の范曄(はんよう/398~445)撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭(わ)に関する記事がある。
翰苑(かんゑん)=初唐の張楚金撰の類書。もと30巻。蕃夷部1巻のみが日本に現存し、倭国・朝鮮三国等の記事がある。

  1. 2014/06/20(金) 22:44:32|
  2. 2.領域の表記
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◇「方可~里」と「方可~餘里」

「魏志東夷伝倭人条」對海(對馬)國~、所居絶島、方可四百餘里。一大(一支)國~、方可三百里と云う記述がある。對海(對馬)国の所居絶島は、現在の地図を見ても分かる様に、略50㎞四方に離島や陸地のない完全な離島だと知れる。一方、南側、15~20㎞地点に他の離島のある一大(一支)国に、その記述はないので、編者陳寿は、こうした位置関係を正確に把握していたと分かる。また、この両島には何れも「方可~里」と同単位の記述があり、通説的には、この「~」を、その数値を一辺とした正方形や平行四辺形の面積とするが、「方~」とし、その数値を上回る事、下回る事、何れもとするにも関わらず、何故か、前者は「方可~里」とする。殆どの研究者や論者は単に、その数値を上まわる事とするのか、そんな小さな事には目を瞑れとでも云わんばかりに無視するが、何の意味もないとして良いのだろうか。手持ちの漢和字典に拠ると、「方」「可」「餘」は下記となる。尚、アルファベットは順に上古音(周・秦)、中古音(隋・唐)、中原音(元)とする(以下同)。
[pıaŋ][pıaŋ][faŋ]=四方・方角、行き先、並べる・比べる、筏、仕方・方法、直線的に張り出ている様、四角・四角い、当に・当たる。「解字」左右に柄の張り出たスキ(鉏)を描いた象形文字で左右に直線的に伸びる意を含み、方角の意。「字統」架屍=横に渡した木に人を架けている形、これを境界の呪禁とする。四方遠方の称に用い、辺()と共通義が多い。
[pān][pen][pian]=辺り、端・果て、縁、畔り、「解字」臱(めん・へん)は、自(鼻)+冖+八=両側に分かれる+方=両側に張り出る、行きどまる果て迄歩いて行く事を表す。「字統」鼻の竅(あな)を上に台に置いた形、首祭として知られる祭梟の俗を表す。それを道路の要所に置いたもので、異族霊の支配する所(辺鄙・周辺)。その辺境を断首祭梟で以て守り、邪悪を祓うものは「殷」の陵墓にも見られる。
[k`ar][k`a][k`o]=宜しい・差し支えない、「べし」=(事情から)~して良いと認める、勧める気持ち、気持ちを起こすに値する、「ばかり」=まあ、それぐらい。「字統」祝禱の器と木の柯枝に従う。神に祝詞を捧げて祈り、斧柯・柯枝で以て器に呵責を加えて祈願成就を迫る意、それを神が聞く事=可(べし)、神の我に許す=許可。神が行うに値するには、是非すべし、まあ宜しいとが在り、後者が「~ばかり」に派生する。
[hiag][hio][hiu]=(字統)声符「午」、神が聴許する意、神意を宣明する事。字統「午」=祝禱の際、殴打を加える呪器で、「御」の初文(午+卩)にも含まれるもの。呪器で災禍を禦ぐ事を原義とする。本来、神が聞き入れて聴許する事を云い。人の許す事。「可」と併せて許可。
(余)[diag][yio][iu]=あまる、必要以上、はみ出た端数、その他の物事、残る・残す。旧字「餘(食+余)」は食料の余剰分、食物に余裕のある事。「解字」余=スコップで土を押し広げる+八(分散させる)、舒(のばすの・ゆったり)の原字。一方、「字統」取っ手のある細い手術刀の形、この字を要素とする「兪」「瘉」「癒」等、金文「兪」字形では、右下に一曲線を添える事が多く刀で膿血を破る意を示す医療に関連し、「除」「徐」「途」等は道路の修祓に関する字。尚、一人称代名の用法は当て字だろうが、夫々、特定身分の王子の名として固有名詞的な用法も在り、「予」=予定された嫡嗣と「餘」=予以外、「我」=区分無しかも知れない。
漢字は、絵文字的な単一語義から発生し、別の文字を併せて語義を派生させた。詰まり、「余」=膿血と云う余計な物が取り除かれる事、食み出す事=余分、食偏が付いて食料の余剰分となる。この字は、均して広げ、斗升等で必要分を除外した後の残余とすれば、「特定の単位や枠に充て填らない」と云うニュアンスになる。

  1. 2014/06/24(火) 17:33:23|
  2. 2.領域の表記
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◇一里の換算値

「邪馬台国はなかった」の編者古田武彦氏は、その著書中、「三国志」に見える里程記事から自身で割り出したと云う一里の換算値を「75~90m」として、その最小値「75m」を用いて「魏使東夷伝韓条」にある記述、韓国方可四千里(75m×4000)=300×300㎞の平行四辺形、「同倭人条」一大(一支)国の方可三百里(75m×30)=22.5×22.5㎞の正方形、對海(對馬)国も方可四百餘里(75×400=30㎞)=30×30㎞の正方形(対馬下島)とし、上島は無視した挙げ句、後者の二つは現在の大きさと合致しないので、見まごうかな、古代の大きさは違っていたのかも知れない等とし、お茶を濁した挙げ句、「島巡り」と称して、七千餘里+千餘里+八百餘里+千餘里+六百里+千餘里+五百里+百里=一万二千里となり、二辺を合わせた里程の総計が帯方郡から女王国迄の総距離に一致するので、不彌国の直ぐ南に邪馬壹国が在ったとする。私見では、後代、両島に大規模な陥没や沈下があった等、裏付けされる記録があるのなら未だしも、島の大きさにも適合しない換算値の四百餘里×2+三百里×2を足して里程の総距離とされる数値「万二千餘里」に合致したとしても、換算値が不正確な事も在り、その必然性は見えないと思う。
例えば、韓国の方可四千里を一辺四千里の正方形か、平行四辺形だとしても、前方後円墳の「前方」は二等辺三角形とされるので、「方」は正方形や平行四辺形の四角形とは限らないのかも知れない。但し、「魏志東夷伝」東沃沮~、其地形東北狹、西南長可千里と云う記述から西南「可千里」の両端から伸びる二線が東北側に向かって狭まる台形か、三角形と推測されるが、この場合、「方可~」とされないので、台形や三角形は「方」に含まれないとした方が良い。先述の「方」=当に・当たる等の語義と「解字」の左右に直線的に伸びる→中点を境に両端が伸びる二線→中点を境に左右に伸びる線が角度を保った状態の二組が合わさったものとすれば、正方形や平行四辺形だけではなく、もしかしたら長方形も含まれるのかも知れない。
当時、乗馬に於ける一日の平均的な進行距離をモンゴル騎馬兵の進軍速度=70~100㎞/日(6~8h)とされる。また、河川航行等、櫓漕や帆掛和船の推進は実船の最大速度は、10knot=18.52㎞程、櫓を用いた推進法での同船速は4~6knot(7.5~11㎞/h)程とされる。1knot=一海里(約1852m/h)で、55~110㎞/日(6~8h)、それを生業とする海民、複数の手漕船であれば、もっと進んだのだろうが、水夫や人夫と馬の休息日や悪天候に拠る予備日等を勘案した走行距離の目安として一里「70~140m」と設定した。
その平均値に拠る一里の換算値「105m」から韓国の領域を105m×4000=約420㎞として帯方郡衙の比定地、平壌やソウル付近から木浦迄、南北の直線距離をディバイダで計ると略400~450㎞、木浦から釜山迄、東西の直線距離は略250餘㎞、ソウル北部から釜山迄の対角線は略350㎞となり、南北の長さは略合致するのだが、東西や対角線の長さには合致しない。次に、問題の對海(對馬)国の方可四百餘里=105m×400=約42餘㎞は、長崎県対馬下島の縦横=約25×16㎞と対角線=25㎞、更には、同上島の縦横=約40×15㎞にも合致しないが、その対角線=43㎞には略合致する。一大国の方可三百里=105m×300=約31.5㎞は同県壱岐島の縦横=約17×15(略16×16)㎞、その対角線=約22㎞にも合致しない。更には、帯方郡衙から狗邪韓国迄の七千餘里(7000×105=735餘㎞)として、その配分は郡衙を現在のソウル(京城)付近として南北四千余里(約420㎞)の木浦付近すれば、釜山市付近迄は東西三千里(約315㎞)となり、現朝鮮半島南岸部の東西約250㎞をはみ出てしまうので、少し見方を変える。

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  1. 2014/06/29(日) 10:55:12|
  2. 2.領域の表記
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