見まごう邪馬台国

◇東(あづま)と山東(ヤマトゥ)

 ◇東(あづま)と山東(ヤマトゥ)
矢治一俊氏は、>元興寺塔の露盤銘と日本書紀から「山東」が「倭」の訓みになったとしますが、「山東」を山の東側と云う語義とし、その「山東」と云う言葉から「山」を省略した「東」、更には「倭」「日本」等も同訓の「ヤマト」だと云う。私見では、これら全てを同訓同義として良いのかと云う疑問があります。
山東(ヤマトゥ)として「記」夜麻登(倭)と「紀」耶麻騰(日本)の「乙ト」=タゥと東[tuŋ][tuŋ][toŋ]の漢字音は「トヌク→トゥ」とは近い音になる事は注目すべきです。先述した安本美典氏は、倭と邪馬台の結びつきが密接であり、「日の下のくさか」「飛ぶ鳥のあすか」「春日のかすが」等の枕詞と同様、倭の邪馬台となり、「倭」を「やまと」と読む様になったのだろうとします。先の矢治一俊氏は、>邪馬台は倭国中の一国であり、倭の邪馬台としても倭の中の邪馬台の意味となり、「倭」は枕詞にはならない。また、『古事記』初期天皇名には「倭」「大倭」がつくものが多い。これは天皇家が倭人の血を引くものである事を示したいからだとみる事ができる。また、>イワレヒコは日向から来たか、九州北部から来たといわれているが、その時、九州は倭人の国であり、イワレヒコは倭人だったとして良い~云々。例えば、天皇家が倭人の血を引く者とする神武天皇の和風諡号「記」神倭伊波禮毘古=神倭(かむぃわ)の礼儀や規律を守る男(「記」伊波禮(イプァレ→イファレ→イゥアレ→イワレ)=石禮?)。一方、生母も叔母も海人とする「紀」神日本磐余彦→日本(耶麻騰)磐彦=耶麻に騰がり、海民の磐から余った男子とすれば、始馭天下之天皇=始めて天下の倭人(磐=船→馬)を馭する(遊牧騎馬民?)天皇と云う称号もあり、この天皇を同一人物として良いのかと云う疑問を感じます。
>ニギハヤヒは「やまと」で土地の豪族長脛彦の妹を妻とし、ナガスネヒコと「やまと」を治めていた。『日本書紀』ではナガスネヒコが前面に出て戦っており、この時の「やまと」は、縦え、ニギハヤヒが倭人だったとしても、そこは倭人の国とはいえず、未だ「山東」だったのである。イワレヒコが「山東」を手中に収めると、イワレヒコが倭人である事からそこは倭人の国・山東と云われる様になり、更に、倭国・山東→倭の山東となり、山東は「やまと」と読むから「倭のやまと」となったのではないか~云々としますが、この「倭人」の定義、山西(かわち)や山東(やまと)とナガスネヒコはどんな関係でしょうか。
「漢和大辞典」に拠ると、倭[・uar][ua]=中国から見た日本人の古称。異音に倭・委[・iuar][ıuē]と在る。その「委」=穀物の霊(稲魂)を被り背を低くして舞う女→耕作民の巫女として、「倭」の人偏「イ」は、巫女を頂く耕作民と、彼等を伴い南西諸島を経て九州(筑紫)や四国(伊豫二名)へと渡海した海人が混在するのであれば、海賊の倭寇とされる事とも整合する。*倭(イゥア→ワ)→和(たす)
「紀」生母と叔母を共に海神とする神武天皇の東遷で、その領海を出て異界へ向かうために水先案内人として迎える亀に乗って来た直部椎根津彦の倭直(やまとあたひら)は、倭(磐=ィワ)から余った「紀」神武天皇にとり、倭と同等=直(適・能・与)の渡部(ワタブ)=海部、「紀」排別之子、吉野国樔始祖也とする。一方、「記」国造等祖槁根津比古とし、国造等(クゾゥラ→くずら)=国樔部、狗奴羅(クドゥラ→クダラ)かも知れません。また、押分子、吉野国樔(くず)始祖也とし、国樔としません。例えば、熊本、大分と宮崎から四国の吉野川を通り、紀伊半島中央迄、「吉野」と云う地名が在ります。こうした事も無視できません。
 
「記」神倭(かみぃわ/かみやま)=亀山とすれば、「列子(湯問)」亀が支えているという伝説から蓬莱の異称と在る。京都市右京区小倉山南東部の丘、大堰川(おおいがわ)に臨み、嵐山に対する。後嵯峨天皇が離宮亀山殿を建てた。三重県北部の市で、東海道五十三次の宿駅の一つ、旧くは石川氏6万石の城下町。
石禮=「記」竺紫君石井、「紀」筑紫君磐井とされ、これも同一人物として良いのかと云う疑問が在る。
費直(あたひ)=山東漢大費直名麻高垢鬼、名意等加斯費直也、書人百加博士、陽古博士、丙辰年十一月既、爾時使作金人等、意奴彌首名辰星也、阿沙都麻首名未沙乃也、鞍部首名加羅爾也、山西首名都鬼也

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  1. 2014/10/04(土) 10:44:04|
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◇「飛鳥」と「明日香」

 矢治一俊氏は【それがやがて、「日の下のくさか」の日下(ひのもと)が「くさか」、「飛ぶ鳥のあすか」の飛鳥が「あすか」、「春日のかすが」の春日が「かすが」となった様に、「倭のやまと」の「倭」が「倭」だけで「やまと」と読まれる様になったと考えられるのである。それでは、この「倭」が「やまと」と読まれる様になったのはいつの事なのだろうか。元興寺塔の露盤銘は651年に作られたものであるが、その内容は588596年迄の建通寺(元興寺)建設に就いてのものとされ、この「山東」を『日本書紀』は敏達紀迄、「東」と書き、推古紀からはαβ群とも「倭」と書いた。そうすると「山東」「東」は6世紀末迄は使われていたのであり、7世紀中頃の皇極紀には「倭」と書かれる様になったのは確実であるから、推古紀の記録と元興寺塔の露盤銘に拠れば、「やまと」と読む「倭」は7世紀初め頃に出現したという事ができるのである。ただ、この事は、その時迄、「倭」は使用されていなかったという事ではなく「倭」は「わ」として使用されていたのであり、「倭」一字で「やまと」と読まれる様になったのが7世紀初め頃だという意味である。
『古事記』『日本書紀』にいう倭の語源は「山東」であり、その発音は橋本進吉氏が挙げる「曾」「登」等の例に拠れば、ヤマトゥ→ヤマトー→ヤマトと変化したのである。中国正史がいう「倭」は九州を指しており、その生い立ち、成り立ちは畿内ヤマトとは全く異なっている。】
 
 通底する意味や関係もなく漢字に和訓を附ける事はないと思います。こうした枕詞の日下(くさか)、飛鳥(あすか)、春日(かすが)等の詳細は述べませんが、その由来を云々する事こそ重要でしょう。
先に、山東(ヤマト)とされる理由は「山の東」と云う意味ではないとしました。おそらく、分裂した大国(ヤマタィとヤマタゥ)の一方は、天照大御神の岩戸隠れ後、南風(速)に吹かれて北上、輪廻転生して岩戸に隠れていた太陽が再び出ると云う意味で、日下(ひのもと→くさか)と呼んだと思います。一方、残留した麻登(狗奴国?)も後発で東遷し、耶麻騰の人々を併合する(明日処)。それを嫌った人々は、飛鳥(天之鳥船)として此処での山=生駒山地を越え、東側に逃れて分裂(山)したのだと考えます。
>『古事記』『日本書紀』にいう「倭(やまと)」の語源は「山東」であり、その発音は橋本進吉氏が挙げる「曾」「登」等の例に拠れば、ヤマトゥ→ヤマトー→ヤマトと変化した~云々。「記紀」は大和(やまと)の成立を「ヤマタィ」「ヤマタゥ」と云う二種の訓音を用いて二系の併合や分裂等、その経緯を示唆します。
>中国正史がいう「倭」は九州を指しており、その生い立ち、成り立ちは畿内ヤマトとは全く異なっている~云々。例えば、「魏志」倭帯方東南山島依りて~云々。「後漢書」倭人楽浪東南山島依りて~云々等の記述から推測しますと、倭は九州を指すとは限らないと考えます。上記、漢籍では、少なくとも北部九州から日本海沿岸部の山陰、もしかしたら北陸付近迄も含まれるでしょう。また、「紀」長脛彦=背の高い男子とすれば、「倭」=背が低いとされる事に対照されたと思います。彼等は北回りで渡来した狩猟採集民後裔と考えます。また、「記」那賀須泥毘古も「紀」長脛(ナガスネ)に順いますが、「なかすねびこ」=河川の中州(なかす)泥彦とすれば、水耕稲作民とも考えられます。これを同一人物として良いのでしょうか。先ずは、人名や言葉自体が持つ意味を明らかにする事こそが肝要でしょう。
 
日下(くさか)=二種の「日(ひらび/ひ)」が在り、日光と月光を表す。太陽の昇る東(あがり)に対して太陽の沈む西(いり)で、夜の月光と関係する。海行かば、みづく屍(かばね)、山行かば、くさむす屍~と謡われる様に、滅びる肉体(日=太陰)と不滅の魂魄(日=太陽)と云う関係と考える。 
  1. 2014/10/13(月) 08:31:46|
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◇邪馬壹国と邪馬臺国

 矢治一俊氏は【ここで、卑弥呼が都した国は邪馬壹国だったのか、それとも邪馬臺国だったのかという問題に少し触れてみたい。私は、この事について余り拘りを持たないが、どちらが可能性が高いかという観点から話をしてみたい。中国正史では、卑弥呼が都した国について次の様に書かれている。
  ○南至邪馬壹国、女王之所都。(『魏志』倭人伝)
  ○其大倭王居邪馬臺国。【案今名邪摩惟音之訛也。】(『後漢書』倭伝)
  ○都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『隋書』俀国伝) *者=てへる→と云える
  ○居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(『北史』倭国伝)
 『魏志』邪馬壹国に対し、『後漢書』は邪馬臺国と書く。『隋書』『北史』邪靡堆とするが、それは『魏志』でいうところの邪馬臺だと云う。この部分をもって多くの人は『魏志』の邪馬壹国は邪馬臺国の間違いだとする。ところで現存する『三国志』は5世紀に裴松之が校訂注釈を施したもので、紹興本と紹煕本があり、何れも12世紀に刊行されたものだという。つまり、刊行本ができた時には『後漢書』も『隋書』も『北史』も存在していたのであり、そこには倭国の都が邪馬臺国と書かれていた事は、編纂者は知っていたはずなのである。ここで私が不思議に思うのは、編纂者はそれを知っていながら、何故、邪馬壹国としたのかという事である。私が思うに底本とした『魏志(写本)』には邪馬壹国と書いてあったのである。もし、邪馬臺国と書かれてあったのなら、それを態々、今まで見た事のない邪馬壹国という国名にして書くはずはないからである。他の史書が「邪馬臺」と書く中、『魏志』は独り、邪馬壹と書き続けてきたと考えなければならない。】
 
 >つまり、刊行本ができた時には『後漢書』も『隋書』も『北史』も存在していたのであり~云々。上記、漢籍の編者は、その『魏志(写本)』を見る事はできなかったのでしょうか。いや、時の権力者の下での編纂だとすれば、そうした古い漢籍を見ていながら邪馬臺国と書き換えた。何故なら、それが当時の認識だったからとも考えられます。一方、刊行本『魏志』の編纂者は狗奴国に敗れた邪馬壹国女王卑彌呼の死後、金印を奪った狗奴国王が邪馬臺国の大倭王を名告った。宗女臺與(タィヨ→豊)は、遠賀川西岸の福岡県宗像市付近に逃れて、豊卑彌=豊玉姫?と称した。または、壹與(伊豫=愛比賣)と称した。それが真相だと「魏志」を残してきた人々は伝承していたのだと思います。
三国「魏」に反旗を翻した遼東太守公孫氏と繋がっていたとも云われる「呉」等の関係から、魏帝が邪馬壹国女王卑彌呼に破格とも云える倭国(海民と耕作民)の支配権を与える金印「親魏倭王」と返礼品を授けた理由が推測されます。その象徴の金印を奪われて支配権を失った女王卑彌呼の系を継ぐ臺與と伊都国は追われて瀬戸内海か、日本海沿岸部を東行後、吉備(岡山県)付近か、河内(大阪府)付近を耶麻騰(ヤマタゥ)とします。その後、残留した邪馬臺国(夜摩苔)+狗奴国の関係が大陸や朝鮮半島の情勢変化の影響からか、決裂し、男系狗奴国(くだら?)も後発で東行、先発の女系邪馬壹(耶摩騰)を併合して夜麻登(ヤマタゥ)とします。それを嫌った「耶麻騰」の男系(伊都国?)は、更に東行した後、建御名方命(+八坂刀賣命)=壹與(伊豫)?として西下、苔むした磐、筑紫(白日別?)の夜摩苔を併合します。
弥終に北部九州と中国や北陸地方に広がる北朝=西国系(日本書紀)と南九州と四国や東海地方に広がる南朝=東国系(古事記)の二本(にほん)に別れて抗争した後、交互に天皇として即位すると云う条件下、二つの皇統が和しました。
 
福岡県遠賀郡岡垣町高倉の高倉神社(たかくら→かくら)。同県福岡市東区香椎の香椎宮(仲哀天皇と神功皇后)、同県宗像郡津屋崎町(福津市)宮司の宮地嶽神社(息長足比売命/神功皇后・勝村大神・勝頼大神)と同県宗像市境に対馬見山がある。
大分県宇佐市の宇佐八幡宮や愛媛県八幡浜市等、火之神と鍛冶の「ヤマタのヲロチ」と関連がある。
呉(222~280)中国の三国時代、三国の一つ。孫権が江南に建てた国。222年独立、229年国号を定めた。都は建業。4世で西晋に滅ぼされた。
「記」建御雷神(+天鳥船神)に追われた建御名方命(+八坂刀賣命)を「紀」倭文神と武葉槌命に追われた星之神香々背男(かかしを)=占星術師?とする。
事実上、「~仁」と称される北朝系天皇だろうが、南朝系の女性を皇后として娶せたとも考えられる。

  1. 2014/10/22(水) 11:10:03|
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◇漢籍と「記紀」

 矢治一俊氏は【『後漢書』は卑弥呼が都した国は「邪馬臺」だという。また、『隋書』は俀国(倭国)の都は邪靡堆と呼ばれ、『魏志』に書かれている「邪馬臺」だという。『魏志』には「邪馬壹」と書かれてあったはずなのに『隋書』は、何故、その国は「邪馬臺」だと書いたのだろうか。その理由として、一つには卑弥呼が都した国は、本来、「邪馬臺」だったという事、二つには『後漢書』が、その国を「邪馬臺」だと書いている事が挙げられる。『魏志』には「邪馬臺」とは書かれていなかったが、卑弥呼が都した国の実際の名が「邪馬臺」であり、回りの史書の全てがそうなっており、『隋書』の編纂者魏徴も『魏志』にも「邪馬臺」と書かれてあったと錯覚してしまったのではないか。『後漢書』「案今名邪摩惟音之訛也」は唐の李賢によるものとされる。この「邪摩惟」は『隋書』にいう「邪靡堆」の間違いだろう。
隋・唐時代、倭国の都は「邪馬臺」に近い発音がされていた様にみえる。そうであれば、倭国の都は、既に卑弥呼の時代から「邪馬臺」だったとしなければならない。「邪馬壹」は、この時代、或いは『魏志』編纂時に中国側がつけた国名だったとみるしかない。『魏志』に「邪馬壹」とあるのは「邪馬臺」の間違いではなく、この時代の中国の倭国に対する歴史書としての忠実な記録の結果だったのである。しかし、「邪馬壹」は本来の国名ではないから、順って卑弥呼が都した国は何と呼ばれていたのかと聞かれたら、「邪馬臺」でよいのではないかと思っている。但し、『魏志』を語る時は「邪馬壹」とするのが史書の正しい読み方だろう。】
 
「後漢書」倭在韓東南大海中、依山島為居、凡百余國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里=倭は韓の東南大海中~(中略)。30ばかりの国、皆、王を称し、世世、伝え統べる~云々。
一方、「魏志東夷伝倭人条」倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國=倭は帶方東南大海の中~(中略)。漢時、朝見者有り。今、使訳を伴い通じる三十国となっていますが、その傍国とされる国々を併せても29ヶ国、邪馬壹国連合国家だけではなく、敵対する狗奴国も含めざるを得ず、卑彌呼の没後、狗奴国王が邪馬壹国(臺與/壹與)を娶り、金印を奪い「邪馬臺」の大倭王を称したのではと考えます。
>『後漢書』「案今名邪摩惟音之訛也」は~云々。この「邪摩惟」は『隋書』にいう「邪靡堆」の間違いだろうとしますが、使われる漢字音、惟[diuər][yiui][uəi]=ディゥェ/イゥィ、壹[・iet][・iĕt][iəi]=・イェッになります。これと堆[tuər][tuəi]=ツェー/ツェィ→タィ」との何れが近似音なのでしょうか。
上記、「今名邪摩惟音之訛也」の案ず=推量、調べ考えるから、編者李賢が「惟」「堆」字形と「壹」「臺」の音韻等から、何れかと思い巡らした末に出した答えだと窺えます。後代の編者や編纂者が迷うのには理由が在ります。それは、この列島の有史が倭国や邪馬壹国に始まり、スンナリと大和朝廷へ移行して形成されたのではないからで、授かった金印「漢委奴国王」と「親魏倭王」に於いて、前者の場合、漢王朝の属国、後者を支配権の象徴とすれば、それを対立する狗奴国に奪われた卑弥呼の系統は中国の史書から消えるのは致し方ない事でしょう。
「枕詞」飛鳥のあすか、春日のかすが、日下のくさか等と訓じる理由を理解せずに、大和(やまと)の意味は分からないでしょう。古事記や日本書紀のみならず、漢籍も丹念に読み解いていくと春日の彼方に微かに見え隠れする飛ぶ鳥が日の下に晒されるのではないでしょうか。
 
上古音と中古音の狭間の漢音は、長安(今の西安)地方で用いられた標準的な発音を写したものとされるが、前漢の高祖漢王「劉邦」は南中国の江蘇省沛(はい)県の人と云われる。また、中古音の一つ唐音も、本来、禅僧や商人等の往来に伴い主に南中国江南地方(杭州音)の発音が伝えられたとある。唐の高祖李淵(字=叔徳)の先祖は隴西(甘粛省)李氏とされる。母は鮮卑族独孤氏の出。祖父・父は共に唐国公に封ぜられる。
国号「唐」は、李淵の祖父李虎が漢の太原郡にあたる唐国公の封爵を北周より受け、李淵が隋より唐王に進封された事に由来。初め、隋に仕えて太原留守、617年次子世民(太宗)の勧めによって挙兵。突厥の助けを借り、群雄を破って長安をとって煬帝の孫恭帝(楊侑)を擁立、唐王となる。翌年、煬帝が、その臣に殺されるに及んで帝位につき、長安に都して「唐」とした。但し、唐王室の李氏は、北周王室鮮卑族宇文氏、隋王室楊氏と共に北魏が北辺に配置した6軍団の一つ武川鎮軍閥の出身であるという共通点をもっていた事もあり、唐の政治と制度は、北周と隋のものの多くを継承する。 続きを読む
  1. 2014/10/29(水) 10:52:51|
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