見まごう邪馬台国

◇何故、大和(やまと)なのか(1)

 大和(やまと)の上古・中古音は、大[dad/dar][dai/da]・和[ɦuar][hua]で、これは、ターファ→タゥア→タワ(タィワ)の近似音になります。また、「紀」日本(やまと)も漢字音や訓音の何れでも「ヤマト」とは訓めませんので和訓です。「ひのもと」は訓音になります。倭[・uar][ua]には異音も在り、倭・委[・iuar][・ıuē][uəi]、何れにも「ィワ」の近似音で「ヤマト」とはできませんので、これも和訓になります。

  例えば、中国初の統一王朝「秦」が滅亡した後、「漢」の時代に授けられたと云う金印「漢委奴国王」の文字は時代的に上古音ですので、夫々、漢[han][han]、委[・iuar][・ıuē]と奴[nag][no(ndo)]=ハヌ・ィワナグと訓め、「記紀」大山津見(大山祇)の娘石長比 賣(磐長姫)や竺紫君石井(筑紫君磐井)にも繋がります。また、「記紀」成立期の中古音「イゥェノ→ワノ=漢の鰐国王」とすれば、「記」因幡素兎に騙され た鮫(わに)と「紀」海民熊鰐(わに)、「紀」神武東遷の水先案内人倭直部椎根津彦と「記」倭国造等祖槁根津比古にも繋がります。
 この「
倭直部」の漢字音、倭[・uar(・iuar)][ua(・ıuē)]・直 [dıək][dıək]・部[buəg][bo(bəu)]、万葉仮名成立期の中古音と和訓で、ヤマト・ディァッ・バォ→ヤマト・タブ、漢字音だけで は、ィワタブ→ワタブ(渡部→海部)になります。また、海神宗像大社の三女神と同体とされる「比賣大神」と神功皇后と御子を祀る宇佐八幡宮の八幡(ヤワタ)は、「八」=分ける+「幡」=番(つがい)と巾とすれば、海民の夫婦(豊玉姫と山幸彦)の幟旗を別ける=離縁、八海(やわた)になります。「記紀」仲哀天皇と神功皇后は死別、神騰がった仲哀天皇御陵の山口県下関市の長門一の宮住吉神社は海神を祀ると云われます。
 
倭人(ワニェヌ→ワニン/ワゥリェン→ワジン)とは現日本人に近い人々でしょうが、彼等 を海民に定義としますと、古来、西海を荒らしたと云われる海賊「倭寇」とされる理由が判ります。但し、先の金印に使われる「委」=稲霊を被り舞う女から稲 作従事者との関わりを無視できませんので、その人偏「イ」=海民と、「委」=稲作従事者の巫女(鬼道=占星術と暦法?)にしますと、南方系海民と共に南西 諸島を伝い東上した水耕稲作民との混合と推定されます。*人[nien][niĕn(rıĕn)][rıən]
 
「記」国主神、出雲の御(みほ)の御前に坐す時、波の穂より天 之羅摩船に乗り、鵝(う)皮を内剥ぎに剥ぎて帰り来る神ありき。その名を知っている者は山田案山子崩彦(久延毘古)だけで、神産巣日神(かむぃむすひ)の 御子少名毘古那神と二人で国を造るとする。これは列島住人の輪廻転生を語り、古来、九州東南岸や西北岸、日本海沿岸部の先住民の地へ海民を率いて大陸東南 部の水耕稲作民、大陸東北部や朝鮮半島を経由して流れ着いた遊牧民や騎馬民等の人々が居たとします。一方、「紀」は別説として「記」とよく似た説話を載せ ますが、本文では、高皇産霊尊(たかみむすひ)の子、少彦名命と大己貴命は力を併せ、心を一つにして(中略)、青人草と家畜のための療病の方法~云々とし、少彦名命も先住民として国作りし、常世国へ去った後、神々しい光が海を照らし、忽然と浮かび上がってくる己貴命の幸魂奇魂とし、亦名だけを記載、大国の主大己貴命自身も渡来民の子孫とする。それが理由で「記」出雲神話では穴牟遅神→葦原色許男→大国主神と転生させます。
 半島等の状況変化からか、
二人が力を併せ造った国が出雲の大己貴命(+天照大神)と星神香々背男(狗奴国?)と云う二つの大国に分裂後、新たな渡来民(騎馬民族等)の影響で、再度、大国主神の二人の子建御名方神と天神天照大御神と繋がった事代主神との支配権を巡る戦いも「出雲の国譲」になります。以下、次項。

[niet] [niēt(rıĕt)]と本[puən][puən]は隋唐期の中古音で、ニェップェヌ(ゥリェップェヌ)→ニッポン(ジェプェヌ)→ニホン (ジャポン)か、ヌイェプァヌ→ヤパン。丸括弧内のR音→J音の変化は、日(ニチ→ジツ)と云う転音から推測される。現中国「日本(ゥリーベン)」 から舌の位置を下げると「ジーベン」となる。
「紀」神功皇后=熊襲討伐のおり、熊鰐(わに)の操る船で関門海峡から洞海(くきのうみ)、更には古遠賀湾へと移動した。
住吉神社=伊弉諾尊が筑紫の檍原(あはきはら)で禊(みそぎ)をした時に生った。航海の神、和歌の神ともされる。大阪の住吉大社(表筒男命・中筒男命・底筒男命)が本社。尚、山口豊田郡菊川町江良(えら)付近の華山(げざん)中腹には仲哀天皇の殯所跡がある。
「記」天之羅摩船(あめのかがみふね)=羅摩(ががいも)は羅(網をかける=区画)と摩(する→なでる)とすれば、鏡(カガミル)か、「屈む」、「記紀」足の立たない水蛭子(蛭子)は船で流す。次に淡島(胞衣)を生むと在り、蛭子神(事代主神)や一本足で立つと「記」山田之曾冨騰崩彦(案山子=欠く足)との関連を無視できない。「紀」大山祇後裔櫛名田姫の親「脚摩乳」「手摩乳」に繋がる。「紀」少彦名命は粟幹(あはがら)に弾かれて常世国へ行ったとする。尚、常世=常に世する→代を重ねる事か。

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  1. 2014/11/04(火) 20:58:27|
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◇何故、大和(やまと)なのか(2)

 早くから列島には大陸を東行し、凍った北海を歩いて北回りで渡来した狩猟採集民の旧石器~縄文早期を経て、縄文中・後期~弥生前期に朝鮮半島を経由して焼畑農業と牧畜(遊牧)を生業にする人々と、沿岸航海を生業とする人々や南西諸島を経由して外洋航海民と共に渡来した南中国や東南アジアの水耕稲作を生業とする人々等、次から次に渡来し、海岸や河岸段丘、山腹等、上手く棲み分けていました。そうした国々へ天神系(夫餘族等の騎馬民?)の人々が遅れて渡来するとせめぎ合いが始まり、支配権を奪われた奴国連合は海民(邪壹国)、更には騎馬民(伊都国)に服属を余儀なくされたのだと考えます。
 
「記紀」イザナミが火神(騎馬系製鉄民?)を産んで身罷(みまか)り、陵(やま)に葬られてイザナキとの死別(離別)を示唆し、宇佐八幡宮の神功皇后(+比賣大神)と伊邪那美、応神天皇と火神は同体と考えます。その後、イザナキはイザナミの頭に腹這い足に腹這い涙(那美)するとナキサハメ神が生り、山(黄泉国=山陵)を降りた「イザナキ+木本のナキサハメ神」と「火神+母神イザナミ」に分裂します。また、「紀」伊奘諾に頸を斬られた火之神軻遇突智の身体に化生した山祇~、三則化爲麓山祇。四則腰化爲正勝山祇~云々。但し書きには「山足曰麓」とあり、「記」伊邪那に斬り殺された火之迦具土神の身体にも八つの山津見神が生るとします。*「岐」=山+支(手足→支え・別れ道)
  「記紀神話」倭人海民と耕作民の邪馬壹国(卑彌呼と男弟)と狗奴国(狗古智卑狗+卑彌弓呼)に分裂 し、卑彌呼の死に伴い攻め上がった狗奴国王(山幸彦)は宗女臺與(豊玉姫)を娶り併合しますが、半島の情勢変化に影響されて分裂すると、臺與(倭迹迹百襲 姫?)は転々と足跡を残して東上し、耶麻騰(飛鳥)を称しました。一方、邪馬臺(夜摩苔)と袂を別った狗奴国(百済)も後を追って東上、再度、邪馬壹国を併合して、夜麻登(太陽の昇る明日処)と称しました。それを嫌い、その国域を、再度、「ヤマ(八山)」した先発組は、飛鳥(壹與=玉依姫=伊豫)として山を下り(西下)、落日の筑紫に舞い戻り、苔むした磐(夜摩苔)と併合します。
 
大和の音訓、大(タィ)と和(ヤワ)し、この重箱訓みを逆から、ヤワ・タィ→ヤゥバ・タィ→ヤゥマ・タィ→ヤマ・トとしても、態々、この字で「ヤマト」と訓じる理由を小学生にも理解できる様に説明しなくてなりません。
 
述べてきた様に海人の倭人(わに)が分裂、天神(山背→山城)と繋がった事が一番目の 「ヤマ」で、平安遷都の理由とします。一方、袂を別った建御名方神系は、蝦夷(新皇平将門等)として東国に追われた後、東国武士(北条氏等)と呼ばれまし た。平安末期、島流しとなった源頼朝と繋がり、東国に鎌倉幕府を開き、西国には平家の領域が残った状態が二番目の「ヤマ」、「ヤマト」とは国域を分断する 事を意味します。
  南北朝期、そうした人々は、夫々、両朝へ結集して戦った後、足利尊氏は九州の宗像氏を頼り、南朝の後醍醐天皇外戚菊池氏と楠木正成を敗って京都に幕府を開 く。その三代将軍義満の頃、南北両統が併合、大国が和した思われます。詰まり、「記紀神話」の云う葦原中国が豊葦原瑞穂国と出雲大国の二つに分裂した後、 再度、併合される事、大国(やま)を和(た)す事と考えます。
 
尚、南北朝併合後、全ての天皇に「~仁」と付く事から、700年代の成立とされる正史「古事記」「日本書紀」や「続日本紀」も二系統のせめぎ合いが、一応、終焉した後、現在の形で完成したと考えます。

漢和大字典に拠ると、[mәg][hai][hai]と麻・馬[măg][mă(mbă)][ma]は略同音で、草原の馬と海原の船と同思想の言葉と考える。もう一つ、日々、海も満潮干潮を繰り返し、生活の糧を育む。母性も月毎に変化し、子を妊娠して母乳で養育する等、[muәg][muәi(mbuәi)][muәi]と母[muəg][məu(mbəu)][məu]も略同音で、太陰に拠る影響で生じる事として、旧くは同じ思想だった。
「記」香山(かぐやま)畦尾木本に鎮座する泣澤女神。「紀」此即ち畝丘の樹下に所居之神啼澤女命と号す。イザナキの後妻か。
乙巳の変を大化改新とする理由は出雲大国に国譲りさせた「夜麻登」が、その大国に化けた(併合)事と考える。尚、神仏混淆思想は、仏教系蘇我氏と神道系物部氏の併合で、神道が現世(生)を司り、仏教が彼世(死)を司る事(本地垂迹説と逆本地垂迹説)になる。
伊豫=奈良県吉野(御所)~香川県と徳島県を隔てて流れる吉野川、大分県と熊本県にも吉野がある。更には、四国山脈から福岡県と大分県に架けて、御在所岳や御所ヶ岳等の山名が見える。
大和(オ オヤマト)とされない理由は、南北朝後、表向き大国は一つだけだからと考える。尚、『日本書紀』は「耶馬騰」「椰磨等」「揶莽等」「野麼等「野麻登」「野 麻等」「耶魔等」「野麻騰」と「夜摩苔」「夜莽苔」等、十種が在り、夫々、某かの違いは在るのだろうが、「ヤマトゥ」「ヤマタィ」に分類される。


  1. 2014/11/10(月) 23:51:34|
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◇まとめ

 最後に述べてきた事を纏めると、「耶麻騰(耶摩騰)」「夜麻登」「夜摩苔」に託された事は、「記」冒頭 の天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神、天照大御神(天照大神)・月読命(月夜見命/月弓命)・建速須佐之男命(素戔嗚尊)、「紀」国常立尊・国狭槌 尊・豊斟渟尊等の三神や、大和の三山等と同様、この国や日本人を形作る象徴的な系統で、三つの内、二系統が統治すると、残りの一系統は熊襲や蝦夷として東 西の隈曲(くま)に追われます。後代、先行の二系統が分裂、残りの一系統と繋がり、再度、表舞台に返り咲くと云う歴史が、南北朝の併合迄、何度も繰り返され ました。その主たる状態が、西国の平安遷都(公家社会)と東国の鎌倉開幕(武家社会)と考えます。
 
また、此処で、その詳細を述べるのは控えますが、その思想性も述べておきます。例えば、中国思想の陰陽五行では、陽気「水」=精神を司る「魂」、陰気「土」=肉体を司る「魄」とし、陰陽の合わさった「木気」を生命の象徴とします。人(木気)が死ぬと肉体は滅び土に還るが、身体から遊離した霊魂は、天之鳥船(天鴿船)で天宮に運ばれて、「魂(水気)と魄(金気)に振り分けられます。
 
「魄」は土壌が植物を育む様に肉体を司り、成長を促す力を持ち現世の赤子に宿ります。一方、精神的な動きを司る「魂」は陰極(母胎)で来世の命として宿り子宮で胎児(木気)を育む。火気は嬰児(みどりご)が母乳(魄=金気)から免疫機能を授かり、「人」+魂と魄が備わった赤子としてスクスクと育ち成人する事の象徴です。更に、こうした動きを太陽の輪廻としても擬えました。

   
日出=肉体の誕生(魂)、南中=成人(魂と魄)、日没=肉体の死滅(霊)

 
「記紀」が持つ時系列は、過去から未来へと横一列で経過するのではありません。「記」肥河上の出雲でスサノヲがヤマタノヲロチを退治して得た草薙剣(都牟刈大刀・天叢雲剣)を天照大御神に献上する説話と、その全段「誓約」で語れれる説話、高天原に参上った速須佐之男命が持っていた十握剣は同体で、ヲロチを退治した後、高天原での誓約(うけひ)の場面へ戻り、天之岩戸開きで輪廻転生します。
 上記の「耶麻騰(耶摩騰)」「夜麻登」「夜摩苔」を思想性に順い設定します。「耶麻(耶摩)」は春(東)の日差しに暖められて霞の如く舞い騰がる水気が天宮へ還り、天岩戸から蘇るの天照大御神(豊葦原水穂国)系統。「夜麻」は南風に乗り、高天原へ参上り、新しい生命を授かるスサノヲ(黄泉国)系統になります。最後の「夜摩」 はスサノヲが神ヤラヒされた肥河上出雲の櫛名田(奇稲田)姫(+月夜見命)の系統で、営々と受け継がれる人の世で、スサノヲ(+須世理毘賣)系統を併せて 統治者が何度か入れ代わった葦原中国となります。それが葦原中国に天降り(平定)する説話が出雲(大国主神→事代主神))の国譲にすり替わる理由でしょ う。
 
「紀」スサノヲの物実(十握剣)で生した三女神は葦原中国宇佐嶋(現世)へ降臨後、道主貴(みちぬしのむち)として鎮座した朝鮮半島への中継地点「海北道中」は、霊魂が天宮(北極星)に向かう天道と考えます。一方、天照大御神の物実で生した五男神は三女神に遅れて輪廻転生するのか、詳細は控えますが、筑紫の白日別から見ると太陽が昇る東北に鎮座する出雲大社の配祀天五神は同体でしょう。
 日毎、形を変える太陰を人の肉体を司る「魄(月夜見・月読・月弓)」、不変不滅の太陽を精神を司る「魂(天照大御神)」とし、併合した南北二系統=天皇と皇后の繁栄と、その存続を願ったと思われます。(了)

陰陽五行=中国古来の哲理、天地間に循環流行して停息しない木・火・土・金・水の五つの元気を万物組成の元素とする。木から火を、火から土を、土から金を、金から水を、水から木を生じるを相生(そうしょう)、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に、に剋つ事を相剋(そうこく)という。
「火」と云う漢字は、「人」と云う文字に、
「丶(ちゅ)」=神が左右から宿った状態を表し、赤子が成長して足が立った姿を表したと考えられる。

出雲大社=島根県出雲市大社町杵築(きづき)東にある元官幣大社。社殿は大社造と称し、日本最古の神社建築の様式。出雲国一の宮の祭神、大国主命と配祀の天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・宇麻志阿志軻備比古遅命・天之常立神 
  1. 2014/11/20(木) 08:31:11|
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◇大きな領域

 狗邪韓国の比定地から始度一海千余里至對海(對馬)は南で良いが、現状の対馬と壱岐の位置関係から対馬か ら南は、長崎県平戸方面になると云う研究者や論者がいる。だが、通説の釜山市付近から対馬も寄港地に拠れば、真南ではない事も在る。見まごうかな、倭人伝 の方向感覚が現代人のそれと幾らか外れているからと云う研究者や論者もいる。しかし、距離感覚と同様、当時の人々が持つ方向に対する感覚が、現在のそれと 全く同じであったかどうかは別としても、南北は太陽の南中と北極星に拠り、東西は日出と日入の範囲に収まらなければ、道に迷い、海上を迷走すると思う。編者陳寿は、魏使の報告書や他漢籍文書等を検討、その場所が東西南北と中間を併せた八分割の範囲、何れに属すかを示唆した。詰まり、狗邪韓国~對海国、對海国~一大国、一大国~末盧国は、その実情に則しただけではなく、何らかの意図で東や東南ではなく南に属すと設定し、晋帝等に大凡の位置関係を認識させた。
 但し、こうした設定には某かの遊びがあり、距離が長くなれば範囲に広がりがあって当然だろう。それは中国大陸と倭や女王国の位置関係を示唆するのに大陸東沿岸部北緯30度付近の会稽東冶(東治)を持ち出し、その東に当たるとする事で分かる。尚、「東」と「東」に就いて、ここで詳細を述べないが、その
会稽を杭州市北部の会稽山から見た東側とすれば、鹿児島県南部や種子島・屋久島付近となり、倭の領域や邪馬壹国と狗奴国、その傍国が在ったと思しき九州や近畿では何度かの幅を持たさざるを得まい。更に云えば、陳寿に会稽付近の夏王朝の夏后少康後裔を自称する蛋民や海民と倭人の生活習慣が似通っていると云う認識があったと思う。
 そうした方向的な事、里程や日程の不都合を解消できるからか、意味は全く解らないが、歳差半周期一万三千年から東西南北を180 度反転させたと云う中国の先天図(伏義八卦図)を用いる研究者や論者も居る。私見では、「魏志」が、ただの夢物語だったならば、それでも良かろうが、当時 の魏帝や晋帝にとり、金印「親魏倭王」を授与した邪馬壹国との関係に政治や軍事的な目的がない等、あり得まい。当時の状況で女王国側が、戦略上、嘘の情報 を与えると云う事も考え難い。とすれば、魏使は倭人の持つ航海術や地理的な情報を得る絶好の機会を逃す事はない。詰まり、当時としては一級の地理志だと思 う。尚、「魏志東夷伝倭人条」は下記の記述から始まる。

  
倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑 舊百餘國漢時有朝見者 今使譯所通三十國
  從郡至倭循海岸水行歴韓國 乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里 始度一海千餘里至對海國~
 倭人在帯方東南大海之中~云々は、魏使の居る帯方郡から見て、倭人の領域が東南方向に広がると大凡の方向性を示唆し、大海中の山島に依りて国邑を為すと、その領域の状態や状況を述べる。これを現状の壱岐が南ではなく東南方向だからと云う論理で方向感覚が外れているとすれば、東南は東となり、帯方郡衙の東側、濊貊や東濊領域を挟み日本海(東海)真中を通り、北陸や東北付近になる。
 また、 「倭人伝」女王国東渡海千余里復国有皆倭種~と云う記述、「東渡海」の起点を邪馬壹国連合に属す外洋海民の對海国か、一大国とすれば、福岡県宗像市や同県北九州市、山口県西部付近だが、東北の間違いとすれば、九州北側の響灘や日本海等、倭種の領海上に住んだ事になる。次ぎに、到其北岸狗邪韓國七千餘里
とし、面する一めてり、の對海国へ向かう中継基地(分岐点)、半島東南隅の女王国に属す倭人系外洋航海民の領域北岸狗邪韓国に着する。

会稽=中国浙江省紹興市南東の山。呉王夫差が越王勾践(こうせん)を降した地。夏の禹 (う)が諸侯と会した所と伝わる。尚、中古音(唐音)は、同省杭州市付近の音韻が母胎とされる。呉音と漢音の違いは、北方の人々が南方へ移動した後、再 度、北上した事に関係があると考える。
夏王朝=殷の前にあったとされる中国最古の王朝。伝説では禹が舜の禅譲を受けて建国。 都は山西省安邑等。BC21~16世紀頃、桀(けつ)王に至り、殷の湯王に滅ぼされる。殷に先行する時代の都市遺跡の二里頭遺跡等が夏王朝のものとされ、 二里頭遺跡=中国河南省偃師(えんし)市にある竜山文化晩期から殷代早期の遺跡として重要。夏后少康を夏王朝の后系を嗣ぐ少康とすれば、本来、広東省沿岸 部に住んだ母系海民(東夷)との繋がりを無視できないと思う。
山島=「山」は山岳と云うよりは平地の少ない陸地で、海岸の断崖や丘陵地。「島」は文字通り、海上の山。
女王国=帶方東南の倭の領域中、海民が持つ海上の領域を東側「東渡海千余里復国有皆倭種」と邪馬壹国連合に属す南側(瀚海)とは別に陸上に住む耕作民等が持つ領域も二つに分け、南側の倭地を併せた領域となる。邪馬壹国とは、その都となる首長(壹=全一)の国。
分岐点=帯方郡衙から郡治の沿岸部をを経て、倭人の領域(領海=瀚海)に到り、東南とした方向性を南に変更し、外洋船に乗り換える。

  1. 2014/11/25(火) 13:08:34|
  2. 3.方向の感覚
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