見まごう邪馬台国

◇其北岸と西北界

 編者陳寿は、魏使の報告書や他文献等を頼りに位置関係を描き、それを基に「人在帶方東南大海之中依山島爲國邑~」とし、倭人の領域が九州北部から日本海沿岸部を含むと認識した。此処で問題なのは、倭人の領域「帯方東南大海之中」の一つ狗邪韓国を「其北岸」とし、其西北岸としない事だが、殆どの研究者や論者は、倭を日本列島として南の対馬や壱岐に向かうので方向性は狂っているとはしない。ただ、韓国領内に位置する狗邪韓国に違和感を持つのか、「その北の対岸」等と意訳して読み下す。また、「三国志」の約150年後、こうした記述に疑問を持ったのか、当時の状況を鑑みたのか。「後漢書」編者范燁は以下の如く記述する。

  倭在東南大海中 依山島為居~ 其大倭王居邪馬
  樂浪郡去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里

 倭はの東南大海中に在り、山島に依りて居る~云々。その大倭王は邪馬国に居り、予断を持って大凡を求めると楽浪郡を去る万二千里、その西北界拘邪韓国は去る七千餘里とした。二者の違いを読み解くために「魏志東夷伝」の下記の記述を比較検討したい。

  韓在帶方之南、東西以海爲限南與倭接。方可四千里~(中略)。散在山海間無城郭
  弁辰、亦十二國~云々。弁辰與辰韓雜居~云々、其瀆盧(とくろ)與倭接
  濊、南與辰韓北與高句麗沃沮接東窮大海、今朝鮮之東皆其地也

 (A)東西以海爲限 南與倭接」=西沿岸部は帯方郡に属して郡使や魏使の移動や荷役等を担う沿岸航海民州胡等の水道や寄港地がある。一方、東沿岸北側東濊や挹婁等、その南側は東南大海中の倭人が往来するので、韓は東西沿岸部を領有しない。一方、「南與倭接」は、上記、「散在山海間無城郭」から韓の部族国家が城郭を持たない事、国境ではなく山河や街道等を中立的な緩衝帯を介して散在したと判り、「~接す」とは、帶方郡に服属する半島の沿岸航海民が領有する南沿岸部水道や寄港地等を、韓国や倭にも属さない中立的な緩衝帯とし、韓国領南岸全域と、その外海、倭人系海民領域とされた一海(瀚海)が接する。
 (
B)「其瀆盧與倭接」は広い領域「韓」から狭い区画の辰韓に雑居すると云う弁辰の部族国家の瀆盧国を持ち出し、南を与う倭とを接すとする。漢和大辞典「界」=区切りを付けて両側に別けた境目、区画中の社会や領域、類字「境」と在り、この「界を接す」とは韓国と云う大きな領域から辰韓の領内に雑居する南沿岸部東側一区画弁辰瀆盧国分離、その領域や水道等の区画()を、倭の北岸狗邪韓国と接する。その南側は邪馬壹国連合に属す倭人海民の領海とした一海(瀚海)が拡がる。こうした特殊な状況や状態を示唆する。詰まり、瀚海と朝鮮半島南岸部も沿岸航海民の水道を緩衝帯として接するが、南岸部全域が倭の領域狗邪韓国とを接していない。これが狗邪韓国を島嶼か、南岸部に突き出た半島とする理由になる。
 (C)
東窮大海」=半島東岸北部の海際迄伸びた山裾の断崖や磯に東や挹婁等に属す蛋民や漁労民が家船を係留する。その南部は帯方郡東南大海中とした倭人の領海で、「倭人伝」女王国東千余里渡海皆倭種が往来する響灘や日本海を西北界とし、南側の一部、瀚海(玄界灘)を女王国に属す倭人海民の領海とした。一方、「後漢書」范燁は、この西北の状況を帯方東南大海中の東渡海千餘里皆倭種の領海、響灘や日本海を介し、拘邪韓國を釜山付近として、邪馬國の大倭王は大分県宇佐市か、四国の愛媛県伊豫)付近にいると認識していたではと考える。

濊= 中国の正史に「穢王」とあり、国家だったのは確実だが、詳細は伝わらない。風俗として山や川には、夫々、所属があり、妄りに他人の山や川に入り込む事は許 されない。病気や死者が出ると、その度毎に旧住居を棄てて作り直す。漢代以来、大君長はなく、侯邑君、三老等の官があり、下戸(平民)を統治す。言葉や風 俗は略夫余と同じ、衣服に違いがあり、男女の上衣は共に曲領(まるくび)、男子は幅数寸の銀製の花文様を結びつけて飾りとする。同姓婚は不可。10月は天 の祭りで昼夜に亘り飲酒・歌舞(舞天)。虎を神として祭る。邑落間での侵犯は罰として奴隷や牛馬を取り立てる(責過)。殺人は死で以て償わされる。略奪や 泥棒は少ない。麻布を産し、蚕を飼い緜(まわた)を作る。楽浪の檀弓と呼ばれる弓、海では班魚の皮を産し、陸地には文豹が多く果下馬を産出、漢桓帝に献上 した。夫余語が属す系統に諸説あり、日本では粛慎系靺鞨や勿吉と共に夫余もツングース系とされる。
沃沮=BC2 世紀~AD3世紀に架けて朝鮮半島北部の日本海沿岸地方(咸鏡道付近)に住んでいたとされる民族。 『三国志』『後漢書』は東沃沮と表記、北東は狭く西南に広い。高句麗の蓋馬大山(長白山脈)東から海岸迄に及び、北に挹婁・夫余・高句麗、西と南に濊貊、 東は日本海と接す。言語は高句麗と略同じ。国家ではなく、前漢の玄菟郡夫租県(咸鏡南道咸興市付近)の濊貊系種族を指すもので、同じく濊から分かれた夫 余・東や高句麗とは同系。1958年に平壌の楽浪区域出土の「夫租薉君」銀印、1961年出土の「夫租長印」銀印等から夫租地域での濊族の居留が裏付けられる。『三国志』沃沮は夫租の誤記とも云われるので、余(夫余)との関連も考えられる。
州胡(しゅうこ→チォファ)=通説では、南海上の済州島や現ソウル西海上の江 華(カンファ)島とされる。前者は馬韓や弁辰の南か、南西の海上、後者は帯方郡の西海上で、何れも「在馬韓西海上~」に適合しない。私見では、当時、現在 の平均気温より、0.5~1度程高かったとされ、九州北部糸島半島が満潮時に水道に隔てられる島だった云われるので、朝鮮半島も同様に江華島南側の忠清南 道泰安、徳山国立公園の蓮華山(ヨンファサン)が在る半島基部には貯水池や湖が見られるので、海抜の低い温陽~道高~禮山~鳳首山~広川付近は、当時、潮 の入る水道だったと推測される。
瀆盧(とくろ)国=比定地は判然としないので、同地名か否かは定かではないが、「仲哀紀熊襲討伐条」紀伊国徳勒津(とくろつ)宮と在*常世(とこよ)
拘邪韓国=
新・後漢の公里(一里=414㍍)として
楽浪(平壌付近)から計算すると、とんでもない所になる。これにも「三国志」と同様の水行と陸行の里程値があったと考えられる。

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  1. 2014/12/04(木) 07:49:13|
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◇海民の領域

 海民には、夫々、安全に航行や航海できる水道や海域があり、何処にでも船出できるわけはない。その特異性が彼等の生業になる。詰まり、狗邪韓国迄の半島西沿岸と南沿岸航海は帯方郡に服属した州胡や瀆盧国や弁辰狗邪(くぬが)国等の沿岸航海民が担ったと考える。陳寿は、狗邪韓国を倭の領域北岸として女王国連合の領海が東南方面ではなく南側の一海(瀚海)だと示唆した。それが故、次に下記の如くある。

  
始度一海千餘里至對海(對馬)國 其大官曰卑狗、副曰卑奴母離
  所居絶島方可四百餘里 
土地山險多深林道路如禽鹿徑
  有千餘戸 無良田食海物自活乖船南北市糴

 倭人の領域北岸狗邪韓国から外洋船で)始めて一海を度る千余里として方向を示唆しない。先に倭人の領域とした東南方向ではなく、その北岸とした倭人系海民領域から一度目外洋船に乗り換えて南側の一海(朝鮮海峡)を女王国方面へ渡る分岐点と考えられる。それが故、~無良田食海物自活乖船南北市糴とし、北は半島東南隅の釜山市付近、南は一大国や北部九州へ外洋船を操って穀物を買いに行った。更に、土地山險多深林道路如禽鹿徑~とあり、寄港地浅茅湾・長崎県対馬豊玉町か)で上陸後、徒歩で長い距離を移動せず、一大国へ向かうために沿岸航海用船で同島美津島町大船越や小船越付近にあったと思しき東側の外洋港へ向かった。次に下記の如く記述される。

 
 又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大(一支)國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離
 
 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家。差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

 又外洋船で二度目の)南へ渡る一海(対馬海峡東水道)千余里、名は瀚海という~云々。前項と同様、~(乖船)南北市糴とされる事で離島だと確認できる。これは倭人の領域全体図と女王国の領域の関係性を述べる相対的な方向性で、編者陳寿は倭人の領海を南側と東側の二つに区分して、「記紀」海人豊玉毘賣(豊玉姫)と玉依毘賣(玉依姫)にも繋がる二つを併せ、冒頭の倭人帯方東南大海之中~倭人海民の領域とした。詰まり、陳寿は日本列島の形状が東北方面へ細長い事を知っていたと考えられる。
 尚、差有田地耕田猶不足食~=(對海国と違い)少しばかりの田畑があり、耕作が行われていたと在り、長崎県壱岐市勝本町立石東触のカラカミ遺跡の周囲に堀を廻らした環濠集落から漁労具の他、鹿骨で占う卜骨、等の穀類や発掘された。
 例えば、「梁書倭国伝」從帶方至倭循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里。始度一海海闊千餘里名瀚海、至一支國。又度一海千餘里名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。狗邪韓国と對海国の記載はない。この一支国と一大国とを同国として良いのだろうか。また、「隋書倭国伝」明年上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望耽羅國、經都斯麻國迥在大海中、又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭
 裴世清倭国に使う。百済に度るとあり、ソウル付近の江華島か、南の州胡(チォファ)の住んだ大島「竹島」、半島南西部の珍島か、南海上の済州島を南望耽羅國として、遥か大海中にある都斯麻國(つしま/としま)を対馬、竹斯國を九州西北部の筑紫(白日別)として、その前、東至一支国は壱岐として良いのだろうか。文脈的に度百濟」は何処に係るのだろうか。これを「百済に度るには」とすれば、半島南西部の百済(ペクチェ)にはならない。また、未だ判然としないが、竹斯(チゥスィ→ツシ)、竹島(チゥシマ→ツシマ)に通用される「竹」に何ら意味はないのだろうか。

州 胡=「東夷伝韓条」又有州胡在馬韓之西海中大島上~(中略)、其人差短小言語不與韓同~(中略)、乘船往來市買韓中。馬韓の西海上と在り、韓人と言語の違 う彼等が西沿岸航海を担ったと考える。その大島を江華島の南側忠清南道泰安、徳山国立公園蓮華山(ヨンファサン)の在る半島とした。また、南沿岸部は倭と 界を接す弁辰の盧国や弁辰狗邪国等が担ったと考える。
カラカミ遺跡=鉄の精錬所跡らしきものが発掘された。前4~前3世紀頃の春秋戦国時代 のものとも云われる半島系土器は口縁部に貼り付けた粘土帶の特徴等が、中国遼東半島の牧羊城遺跡で出土した土器に似る。また、三国時代以前から「呉」は遼 東半島の公孫氏と繋がっていたと云う指摘も在る。
一支国=一[・iet][・i
ĕt][iəi]・支[kieg][tʃıe] [tsi]の上古音「ィエキェッ→ィエケ→ィエキ(エキ)」、中古音「イェチェ→ィエチェ→イチ」、宗像大社の市杵(イッキ)島姫とすれば、宗像の沖ノ島 か。尚、「支」の語義には、別れ、別つ、枝、ささへ、手足、つかへ、差し障り等が在り、水道の泊(駅=うまや)とも考えられる。
竹斯(チゥッスィ→ツッスィ→ツシ)とすれば、家の屋根裏に作った物置場、床を竹簀子 で張ってあった。それが床面や地面とされ、上代東国方言で土地(つち)の訛、厨子(ずし)とも在る。九州北部の筑紫(チゥッシ→ちくし)も土砂が堆積した 扇状地として良い。また、竹島(チゥシマ→つしま→津島)とも考えられる。尚、中国北部(中原)や朝鮮半島に「竹」は自生してなかった。おそらく、日本へ も南中国や東南アジアの蛋民や海民が持ち込んだと思われる。
通常、百済に渡る或いは百済を渡るとされる。例えば岡山県津山市には女帝(推古・持 統)に百済(くだら)姓を賜ったと伝承する百済氏が居り、桓武天皇母御の高野新笠は百済王後裔倭直高野真妹の娘、或いは、妹とされる。先述の如く、倭直高 野(わたりのかや)=済(わたり)の伽耶(賀陽氏)と訓める。
この百済(くだら)とすれば、「竹島」は、今話題の竹島、「南望耽羅國」は島根県隠岐島とも考えられる。尚、「記紀」百済を済屯倉(わたりのみやけ)、新羅(しらぎ)を馬甘(うまかい)とする。

  1. 2014/12/09(火) 10:02:14|
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◇倭地への入口と分岐点

  こうした簡潔で内容豊富な記述が、当時の文官に通じるのか、陳寿の筆法なのかは判らないが、帯方郡から見て倭人の領海は四方を八分割した東南に属すとするが、一大国で女王国に属する海民の一海の名称を瀚海(わぬま)と特筆、到着した狗邪韓国は、その領域北岸として女王国に属す倭人系外洋航海民の領海は南側に拡がる瀚海とし、晋帝等に、そうした状況や位置関係を分かり易く説明した。次に下記の如く在る。

  
又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸
  濱山海居草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之

 又再度、南へ外洋船で)渡る一海千余里~。好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之と在り、此処では「亦(乖船)南北市糴」とされないので、前の二国と違い末盧国は離 島ではないと判る。その住民は河川航行の蛋民か漁労民と思われる。こうした筆法が持つ脈絡や論理性を理解しようとしないのか、できないのか、分からない人 が多い。前項で目前の地図を見て、壱岐は対馬の東南に在るとしたり、本項でも方向の記載がないから糸島や平戸方面に行った等とする研究者や論者もいるが、 文章で道程を説明するのに、「東南(西南)渡る一海」等、前出と違う記述がない限り、「又」=再度、南へ外洋船で渡海とする以外の合理性や論理性は見いだせない。
 例えば、大凡の位置関係で方向性を述べる時、福岡県から見て鹿児島県を南とすれば、大分県や宮崎県は東南になる。逆に福岡県北九州市から見て大分県や宮崎県を南にすれば、鹿児島県は南西になる。何れも、倭人の領域「東南大海中~」との対比
、相対的な方向感覚だ。
 對海国の海民は女王国側(一大率)の官吏や武官を乗せ、狗邪韓国へ向かい魏使や郡使と下賜品等を乗せて一海を渡り、對海国の浅茅湾で碇泊した後、東南側の外港へ沿岸航海用船で水行する。そこで一大国から官吏や武官を乗せて迎えに来た同海民の外洋船に乗り換え、一大国や末盧国迄南へ渡海したと考える。次に下記の如く在る。

  東南陸行五百里、到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚
  有千餘戸 世有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

 通説的な松浦半島基部佐賀県唐津市や同県松浦市付近を末盧国糸島半島基部福岡県前原市付近を女王国中枢部伊都国、同県糟屋郡宇美町付近を不彌国として、当時の気候条件を踏まえると末盧国で沿岸航海用船に乗り換え、九州北沿岸を東への水行の方が合理的だと思う。私見では、東南陸行とされる伊都国は、伊万里(有田)川か、松浦川河口奥で一大率官吏の差配で蛋民の小河川航行用平底船に郡使や魏使を乗せ、下賜品等を載せて河岸の従者に曳かせて遡上、内陸部を陸行したと考える。これは東南方向とした大きな範囲の倭人領海中、南側の一部、女王国に属した海上の領域(瀚海)から出て、陸上の女王国倭地領域内へと移動して新たな方向性を設定したと考える。詰まり、東南方面とした倭人領域南側の小さな範囲中、上陸地の末盧国から東南方向の九州内陸部に在る伊都国へ向かう。
 尚、狗邪韓国と同様、末盧国にも一大率の役所から官吏や武官港湾を管理する詰め所等に交替で派遣されたのか、常置の記載は見えない末盧国で上陸し、倭人海民の領域から女王国の領域(≠倭地)内へ入った郡使や魏使は、伊都国から迎えに来たか、或いは、一大国から来た官吏や武官に付き添われて東南方向へ次の伊都国迄、陸行した。
 また、郡使往來常所駐から郡使や魏使等は迎賓館等の施設に滞在したが、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露。傳送文書賜遺之物、詣女王不得差錯と云う記述から勅書等を奏上するため女王に詣でたと考えられる。

瀚海(わぬま)ついては後述するが、「瀚」も狗邪韓(くぬがわに)国の「韓」[ɦan][ɦan][han]と同音で、海[məg][hai][hai]とされることからも漢字の上古音的にも「ファヌマ→ゥアヌマ→ワヌマ」と転音したと考える。
また、對海国→對馬国とされる理由も「海」の中古音が変化したため、近似音「馬」が持つ草原の馬と海原の船が乗り物と云う同一の範疇として捉えられていたことによる。
女王国=編者陳寿の云う「倭地」とは女王国領域だけではなく、陸地の邪馬壹国連合に属さない狗奴国の領域も含まれる。



  1. 2014/12/17(水) 00:25:15|
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◇南至の起点

 続いて下記の如く在る。これも陳寿の筆法だろうか、奴国へは伊都国と同じ東南の道を百里で至るとし、「東南至」と「」を付さないが、不彌国へは東の道を行くと百里で至ると「東至」にされる。これは末盧国から東南陸行して到着した伊都国から奴国への道ではなく、東への道で不彌国に向かう事、奴国へと続く東南への道は、次の女王国の都、邪馬壹国へ向かう道から外れる事を示唆すると考える。
 
  東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸。
  東不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家。

 詰まり、伊都国を分岐点として進行方向を変える事が、「伊都国」とされた第一の理由になる。次に下記の如く在る。

  南至投馬國水行二十日。官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
  南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

  さて、最大の難関とされる二国、投馬国と邪馬壹国の南至の起点は何処だろうか。通説的には、不彌国から南下して投馬国と邪馬壹国に至ると理解された。私見では、南至に「行」とされない事、今迄と違って里程ではなく日程として記載される事から、何れの起点も前項の不彌国ではあり得ないと考える。これこそ編者陳寿の筆法で、当初、倭人在東南大海之中~云々とした後、倭人の領域北岸狗邪韓国を「到」とした第一の理由が、この南至の起点と考える。当初、大きな領域として倭人海民の在所を東南方面とし、その領域中、南側の一海(瀚海)、現朝鮮海峡・対馬海峡・玄界灘を女王国に属する倭人系海民の領海と設定した。その領海南岸の末盧国で上陸後、小さな範囲(倭地)内の伊都国へは、再度、東南へ陸行後、邪馬壹国へは東行した不彌国から南側へ向かう。詰まり、有明海や筑後川河口部を迂回、浅瀬を平底船で渡り、九州中央部に向かったとせざるを得ない。こうした方向性には起点の設定に拠る遊びがあり、女王国の都「邪馬壹国」も帯方郡から見ると、大凡、東よりの南として良いが、大きな範囲として設定した東南方向の東側に女王国東渡海千余里復国有皆倭種~と云う別の海民らしき人々が居た事に変わりはない。
 この文脈から南至を女王国に属す倭人の領域北岸狗邪韓国を起点にした大きな範囲とすれば、狗邪韓国から末盧国迄の水行が十日、邪馬壹国に至る陸行の総日数を陸行一月とせざるを得ない。詰まり、邪馬壹国に属する海民の領域(海上)と倭地の領域(陸上)を併せての日程となる。一方、
投馬国は末盧国から別ルートの水行となり、この南至は外洋航海と沿岸航海を併せた総日数(水行二十日)となり、前半の水行十日と邪馬壹国の水行十日は、狗邪韓国~末盧国間(三千余里)の日程で、残りの水行十日は末盧国から九州西北沿岸部を南下したと考える。
 詳細は、「国々の比定」で後述するが、邪馬壹国への陸行一月は帯方郡より女王国に至る万二千余里から郡衙~狗邪韓国の七千余里と渡海の距離三千餘里を差し引いた二千里末盧国~伊都国(五百里)~不彌国(百里)~邪馬壹国(千四百里)を陸行した総日程にせざるを得ない。但し、こ の日程が多いのか、妥当なのかの判断は、当時の道路状況が判然としないので、難しく推測の域を出ない。一つ云える事は、魏使一行は沢山の荷物を負っていた と思われるので、少なくとも何日かおきに休みを取り、悪天候に対する予備日を設けた。更に云えば、でき得る限り、安楽な方法を用いたと思うので、河川航行 用平底船に大使や副使を乗せ、下賜品等の荷物を載せて河岸の従者に曳かせて遡行する等、河川に循じて陸行したのは、略間違いないと考える。

南至=述べてきた陳寿の筆法に拠ると、不彌国を起点とすれば、此処から南向きの水行に変わるので、「不彌国~南至」 等、何らかの示唆があって然る可きで、投馬国と邪馬壹国へ向かう「南至」の水行二十日と十日の起点は不彌国ではないと知れる。また、末盧国も伊都国へ東南 陸行の分岐点だろうが、「到」とされない理由は、狗邪韓国から末盧国迄が海上の領域(瀚海)、伊都国以降が陸上の領域(倭地)と云う認識と考える。
南側の一海(瀚海)=「東渡海千余里復国有皆倭種~」と云う記述から、東側は響灘や日本海となる。
  1. 2014/12/25(木) 08:05:56|
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