見まごう邪馬台国

◇まとめ

 述べてきた様に、今から千五百年以上前の漢籍「魏志東夷伝」に記載される国々の位置 関係を示唆する方向感覚や距離感覚(里程)等、通底する法則や筆法を理解しようともせず、当時の交通手段としての常識に思いを馳せず、現代の思想や方法論 だけに頼り、判読すると壱岐(一大国)の位置は南でなく南東に近いや、壱岐から唐津付近(末盧国)迄の距離は狗邪韓国から対馬(對海国)迄の距離より短い 等と云う意味のない不毛の議論に陥ると思う。況んや記述を誤りとして書き換える等、以ての外だろう。
 「後漢書」邪馬国とされた理由は、例えば、女王の都する所と在り、約150 年後、当時の官吏や文官に都の在る所と云う認識が生まれたものと考える。それが大和朝廷との関わりから編者の判断か、倭国側の意向なのかは判然としない。 また、邪馬壹国は女王国連合の首長国と云う意味と、連合国を一つの領域とした全一(壹)とすれば、邪馬壹国の七万余戸は、奴国(外洋航海民の陸鰐と耕作 民=箕子朝鮮の遺民?)の二万余戸と投馬国(沿岸航海民と水耕稲作民=夏后少康の遺民?)の五万余戸を併せた共同体としての総数とも考えられる。ただ、對 海国の有千餘戸、末盧國の有四千餘戸、伊都国(衛氏朝鮮に遺民?)の有千餘戸、一大国の有三千許家と不彌国の有千餘家等、~余戸と~余家(許家)と云う記 述の違いも在り、未だ、これらとの関係性は判然としない。また、以下の如く記述される。

  
其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王名曰卑彌呼
  事鬼道能惑衆  年已長大無夫壻 有男弟佐治國 自爲王以來少有見者 以婢千人自侍
  唯有男子一人給飲食傳辭出入  居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞
  
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺
  
去女王国四千餘里又有裸國 黑齒國復在其東南船行一年可至
  
參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里  

 そこで一女子を王に共立す、名は卑彌呼。鬼道に事し、能く衆を惑わす。已に年は長大、夫壻は無い。男弟あり、佐けて国を治む。女王になりてより以来、姿を見たものは少ない~云々。女王国の東渡海千餘里復国有り、皆倭種、その南、又(渡海)国有り侏儒国、身長三・四尺、女王国去る四千余里、又(渡海)有り裸国、黒歯国、又在り、その東南、船行一年程で至る。倭地に参問すると、絶えて海在り、河川中州や島上、或いは絶えて、或 関係図 いは連なり、周旋可五千余里なり。
 
この「参問倭地~云々、周旋可五千余里」を周囲とすれば、直径約1600 里で、私説の短里「105m」で換算すると約170㎞、狗邪韓国の比定地付近の釜山からの距離とすれば、長崎県壱岐市勝本町付近が最南端となり、あり得な いので、女王国に属した倭人の海域を除いた地上の領域(倭地)の最北端末盧国以南になる。地図上で計ると、福岡県大牟田市や同県八女市付近を中心とし、熊 本県八代市や長崎県天草市付近が最南端となる。
 倭人とは沿岸部での荷役や旅客と漁労で糧を得ながら家船で暮らす蛋民(鰐)と外洋での交易や荷役と耕作で糧を得る海洋民(陸鰐)の集合体として認識された。
 おそらく、倭地とは地上の「倭」と云うニュアンスになるので、末盧国以降の国々と傍国を併せた陸上の女王国だけではなく対立する狗奴国の領域も「倭地」 の周旋五千余里に含まれるとせざるを得ない。これが「女王国」と「倭地」を書き分けた理由で、更には倭地の女王国連合と狗奴国に属さない倭種が千余里東に 渡海した所に居り、それが、倭人の領域を帯方郡の東南大海之中とした理由と考える。最後に編者陳寿の描いた道程の国々、その位置関係は左図になる。(了)

「紹興本」南宋の初期(平安末期)紹興年間(1131~62)に刊行された。倭人伝を 含む刊本では現存最古。「慶元本(紹熙)」南宋の紹熙年間(1190~94)に刊行されたと、屡々云われているテキストで、倭人伝条は中華民国の学者張元 済が百納本二十四史を編纂した時、宮内庁書陵部のものを写真印刷した。
皆倭種=陳寿の云う「倭地」には含まれない。  


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  1. 2015/01/01(木) 00:31:14|
  2. 3.方向の感覚
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◇箕子朝鮮と委奴国

  此処では「倭人伝」に記載される国名や官名等の名称を一つ一つを取り上げながら、漢字音や語義と解字等を考慮しながら、編者陳寿の認識と通説とを比較検討し、それらに込められた意味を考えてみる。「倭人伝」の書き出しには以下の如くある。

  倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑 旧百余国漢時有朝見者今使訳所通三十国
  従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東 到其北岸狗邪韓国七千余里


 冒頭、「倭人在帶方東南大海之中依山島為国邑」を読み下すと、倭人は帯方郡衙から見ると東南の大海中に在り、山島に依りて国邑を為す。通常、この倭人の依る山島を日本列島とするが、「後漢書」倭在韓 東南大海中、依山島為居、凡百余國とされる事からも判る様に、「韓」も同様、倭とは国域でなく民族や人種と認識された。また、何度も述べた様に倭人の領域 と女王国は同一ではない。それが証拠に女王卑彌呼を頂く国を倭国ではなく女王国、その都を邪馬壹国とする。当時、倭人系海民(+水耕稲作民)は大きく二つ の部族国家連合に分裂していた。もう一つ、「倭地」も同一の領域ではなく、倭人系海民を除く陸地の邪馬壹国連合と狗奴国と云うニュアンスで用いられる。
 倭人とは、大陸南岸部の海民や揚子江等の大河川流域に広く住んだ蛋民や沿岸航海民が南回りで渡来、平地の少ない海岸線に住み、交易や搬送等に従事する海民陸鰐(くぬがわに)、湾岸や河口部に係留した船上で漁労と荷役を生業とする蛋民の鰐(わに=韓)と共に渡来し、河口の泥濘での水耕稲作や焼畑の農耕民も含まれる。それは對海国の無良田食海物自活乗船南北市糴、一大国の差有田地耕田猶不足食亦南北市糴、末盧国の好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之と云う記述からも判る。 更には倭人海民を水先案内として半島を南下した畑作と牧畜の民も居り、現日本人に親しい人々と比定する。但し、「倭人伝」冒頭の記述は、箕子朝鮮や衛氏朝鮮との拘わりを示唆する。
 朝鮮の伝承では、殷王「紂」の暴虐を諫めたが用いられず、気違いを装い逃げ胥余殷王朝の滅亡後、周武王に朝鮮(箕)に封ぜられBC1600年頃朝鮮半島の王険(平壌)に入り、箕子朝鮮を興す。その後、秦始皇帝に滅ぼされた「燕」の人衛満が衛氏朝鮮(BC195頃~BC108)を興すが、漢の武帝に滅ぼされて、その出先機関(楽浪等四郡)に拠って支配される。そうした興亡の難を逃れた王族や高官の一部が、その度に北部九州へも渡来したと推測され、そんな彼等と上手く繋がり共存、共栄する人々と反抗する人々に別れて争乱が起こる。
 倭[・ıuar(・uar)][・ıuē(ua) ][uəi(uo)]=ィウァ→ィワ(磐)→ッワ(和)、人[nien][niən(riən)] [riən]=ニェヌ/リェヌ→ジェヌと在り、漢字音を併せると、倭人(ワニェヌ→ワニ/ワゥリェヌ→ワジヌ)となる。「倭」と同音「委」(字統)稲魂 (穀物神)を被り舞う女性(早乙女)の姿がしなやかな様と在り、山麓河口部で水耕稲作を営む農耕民の豊壌を祈願する女王卑弥呼(「記」天照大御神→天之宇 受賣命→猿女君)の系統で巫女の一族となる。その人偏「イ」は神事や農耕儀礼に携わる委(卑弥呼)を支える神官や補佐役か、政治的な王で、「倭人伝」卑弥 呼の男弟(「記紀」思兼神)になる。男性(覡)の場合、「年」と在り、狗奴国の卑彌弓呼(「記」スサノヲの子「大年神」)に準えられる。
 
「倭」に背が低くて醜いと云う語義は無い。俯いた状態で舞う姿の低い事から後の附会で、当時、母系社会の倭人系海民は主として狩猟や牧畜と畑作農耕(麦粟稗等)を営む父系社会の漢民族にとり、大陸西北部の父系制遊牧民羌(匈奴・烏丸・鮮卑・女真)等と同様か、それ以上に中華思想から外れた異民族と認識された。

韓(BC403~BC230)=戦国七雄の一つ韓氏は、旧、晋の六卿の一人。魏・趙とともに晋を分割し、平陽・宜陽・鄭に都して国勢盛んな時期もあったが、秦に滅ぼされた。朝鮮南部の古称、その住民、馬韓・辰韓・弁韓(三韓)に分かれる。
箕子(きし)朝鮮=古朝鮮の一つ、殷(商)王朝の紂王の母系か、叔父の胥余(しょよ)は朝鮮王として人民教化に尽くした「漢和大辞典」胥余=召使い、椰子の別名。「論・微子」箕子、これが奴に為るとし、風神箕伯とも呼ばれる。箕子(きし→きじ)=雉子とすれば、「記紀」天孫降臨条、名なしの雉と関連するか。
衛氏朝鮮=古朝鮮の一つ。華北の燕から朝鮮北西部に逃れた衛満の建国
、都は王険城(平壌)。その孫右渠の時、漢の武帝に滅ぼされる。
楽浪=前108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして今の平壌付近に置いた郡。後漢 末の204年頃、楽浪郡を支配した公孫康は、その南半を割き帯方郡を設置するが、313年高句麗に滅ぼされる。遺跡は墳墓・土城・碑等を主とし、古墳群か らは漢代の文化を示す貴重な遺物を出土した。尚、楽浪の位置を中国の遼河付近とする説もある。
磐=「紀」大山祇の娘磐長姫と木花咲耶姫に関連があり、当初、二つ に分裂した白黒の二色(般=斑)が、再併合、倭→伊和(イハ→イワ)とされたか。「記」外洋航海の豊玉毘賣→石長比賣=巫女→石女(うまずめ)と河川を 遡った阿曇系玉依毘賣(木花佐久夜毘賣=河伯)、木花=椛(かば)→鎌(かま)。
[riən]=日本語ザ行とラ行やダ行の舌先は殆ど同位置に在る事に因る転音「ナ→ダ」と同様、ニ→ヂ→ジと考える。
[k`ıaŋ] [k`ıaŋ][k`ıaŋ]=中国北西部の山西省や陝西省に住んだ羊を遊牧する民族の名、五胡の一つ。漢代、黄河上流に移ったとされる。現在、四川省北 部に羌族自治区がある。また、匈奴(きょうど)=秦代から漢代に架けて中国西北方に依拠した強大な遊牧騎馬民族で、後代、南北二派に分裂したとある。尚、 匈[hıuŋ][hıoŋ ][hioŋ]、匈奴=ヒゥンッナ→フンッナ(フン族)とされるが、キォゥナ→コゥナ→クナ(コナ)と発音したとすれば、狗奴(くな→かな)国と関連する か。




  1. 2015/01/15(木) 08:12:17|
  2. 4.国名と官名
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◇衛氏朝鮮と邪馬壹国

   倭人帯方東南大海之中依山島為国邑 旧百余国漢時有朝見者 今使訳所通三十国

  これを読み下しすると、倭人は帯方郡東南方大海中の山島に依りて国邑を為す。旧く倭人の国邑は百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳を通じて朝見する 三十国。この文脈から意訳すると、倭人は帯方郡東南方の大海中、平地の少ない島嶼や列島の沿岸部に住み国邑とする。旧くは百余国、漢の時、朝見する者がい た。今、通訳を用いて朝見する三十国。となり、旧く百余国の頃は通訳を伴わなかったが、今は通訳を伴って朝見すると読める。詰まり、邪馬壹国と伊都国連合 の支配者や遣使は魏の公用語の漢語が話せなかった事になり、北方の遊牧騎馬民等に近い人々と考える。また、通訳を必要としなかった前代の倭人は日本海の島 嶼や列島沿岸部に住み交易や荷役を生業とし、列島と大陸や半島を往来する海民で、本来、南方系漢語圏の人々だったか、交易の手段として漢語を話したのか は、判然としないが、当初、彼等は列島内の河川下流域の泥濘で水耕稲作に従事する耕作民と棲み分けたが、互いに交易しており、当時、両者を併せて倭人と認 識されたと考える。
 古伝承では、殷(商)王朝の滅亡後、その王「紂」の母系か、叔父胥余が朝鮮半島へ入り、箕子朝鮮を建国するとある。例えば、藤堂明保編の漢和大字典には、奴[nag][no(ndo)][nu]=女を捕らえて奴隷化し、祭祀官下属の女囚にする。「論・微子」箕子、これがに為ると在り、福岡県の志賀島で発見された金印「漢委奴国王=漢に属す委奴(ワナ)国王」は、そうした難から逃れた箕子氏後裔が興した国と考える。その後、中国東北部薊(北京)や満州付近にあった周武王の兄弟召公奭(せき)が封ぜられた国燕が秦始皇帝に滅ぼされると、その官吏や武 官だろうか、燕人の衛満が箕子朝鮮を征服、衛氏朝鮮(父系制)を建国した。その難を逃れた箕子朝鮮の王族達は北部九州に倭人系海民の船で渡来、倭人系の稲 作民を束ねて奴国連合を組織する。その衛氏朝鮮も前漢武帝に滅ぼされると、支配を嫌い難を逃れた王族達が加羅や伽耶、更には北部九州にも流入して、女王卑 彌呼の前代、互いに婚姻関係を結び、共存を図るが、「倭人伝」其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼と在 り、男王が治めた旧来の奴国連合との歴年の争乱が起こる。女王卑弥呼を共立して収拾するが、最後迄、抵抗した狗奴国は南へ下り、対立する。箕子朝鮮後裔は、朝鮮半島南部にあった国々(562年、新羅が併合)の諸小国全体を指す場合と特定の金官伽耶・高霊伽耶等を云う場合もあるが、加羅・伽耶(から・かや)等とも関連があり、もしかしたら、後代、任那日本府と呼ばれるものも含まれるかもしれない。詰まり、朝鮮半島や日本列島でも大陸北方の遊牧騎馬民、中原の漢民族、南方の海民や蛋民等、日本人を構成するとした三系統の興亡が繰り返されたと考えられる。
 
殷の王族と伝承される箕子後裔「奴」を通訳を必要としない「漢時有朝見者」とすれば、彼等が女王卑弥呼の使者に随行した通訳者と なる。おそらく、狗邪韓国~末盧国迄は漢語の話せる海民や蛋民等、委奴国(箕子朝鮮)に親しい倭人海民の領域、伊都国は漢語の話せない遊牧騎馬民族の烏丸 鮮卑・扶余・満州族女真や燕人(衛氏朝鮮)に近い人々と考えられる。詰まり、卑弥呼の男弟(燕=年下の男)を政治的な王とする伊都国と女王卑弥呼を宗教的 な巫女王とする倭人系鰐(耕作民と海民)の奴国連合との共和が女王国の領域で邪馬壹国の全一だと云うのが編者陳寿の認識だったと考える。  

「燕」=春秋戦国七雄の一つ周姓召公せき)、河北、南満州、北鮮を領し、薊(現北京)を都とするが、秦に滅ぼされる。高句麗の武人とも関係があるのかもしれない。4~5世紀、騎馬系鮮卑族の慕容氏建国の前燕・後燕・西燕・南燕。衛満(前195)=燕人の衛氏朝鮮が前漢武帝に滅ぼされた後、楽浪郡や帯方郡等の出先機関が置かれた。衛子夫=前漢武帝の后、将軍衛青と在る。北部九州に渡来した燕人は箕子朝鮮系奴国連合と対立したと考える。
  1. 2015/01/21(水) 15:21:31|
  2. 4.国名と官名
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◇狗邪韓国と韓国

  「魏志東夷伝韓条(以下・韓伝)」韓在帶方之南、東西以海爲限南與倭接方可四千里~(中 略)~散在山海間無城郭=韓国領の東西は海で以て限りを為し、南を与う倭と接す。方四千里ばかりは、三方が海に囲まれた朝鮮半島南半分を占有したとされる 馬韓・弁韓・辰韓を併せた韓国領の東西沿岸部は海を限りとする。おそらく、韓国領東西沿岸部は帶方郡に服属する沿岸航海民の水道と湊や津、その宿場が在 り、馬韓・弁韓・辰韓の三国(韓国)は沿岸部を領有しない。同状況の南側は海が限りではなく、「南與ふ倭と接す」とされる。通説的には狗邪韓国領との境界 が半島内の陸上で韓国領と接すると解釈し、朝鮮半島東南岸の金海(キメ)付近にあったとされる弁辰狗邪国を狗邪韓国とする。ただ、それでは編者陳寿が狗邪 韓国を倭の北岸とした理由が解らない。それが故だろうが、「其北岸」=北の対岸(狗邪韓国南岸)と意訳し、そうした違和感や疑問を解消させる研究者や論者 もいるが、当に本末転倒、こ れでは自説に適う様に読み換えたと云わざるを得ない。また、現朝鮮半島基部西北の平壌やソウルを帯方郡衙とし、その東南の倭人が依る山島を日本列島とすれ ば、その間に玄界灘や日本海を挟み、北部九州と日本海沿岸部の山陰、更には北陸付近迄を含み、一層、不思議な位置関係となる。「魏志高句麗伝」に、これを 読み解くヒントとして以下の記述がある。

  高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮濊 東與沃沮 北與夫餘接 於丸都之下方可二千里~

 高句麗は遼東の東千里に在り遼 東郡境の出城東側千里(100㎞強)に在る。また、文脈的には南を与ふ朝鮮と濊に接す、東を与ふ沃沮に接す、北を与ふ扶余に接すと、(高句麗に)~接すに 掛かるので、半島南岸陸内に狗邪韓国があったならば、韓国の南を与う狗邪韓国と接すとせずに断崖等の切れ目を表す「岸」で、「其北岸」と理由は何だろうか。そうした疑問からか、その比定地を半島南海上に浮かぶ巨済島とする論者もいる。
 
『「邪馬台国」はなかった』の著者古田武彦氏は、『漢書』西域伝から中国大陸で他の国や地名を説明する場合の「~に接す」と云う 使用法を精査し、各国を夫々の首都から「四至」を用いて、点在する形で表記、他の隣接する国々が記されているとする。これを城郭や都城内を国とする認識か ら境界とせず、「接す」としたのだとしても、朝鮮半島南部の国々は無城郭とされるので、その有無に関わりなく何らかの緩衝帯を介して存在する両国の地理的 な関係を「接」で表したと考える。また、「韓伝」弁辰、亦十二國~云々。弁辰與辰韓雜居~云々、其瀆盧(とくろ)與倭接界と記述される事からも、倭人の領域の一部狗邪韓国は韓国領の半島南岸部一部と互いに関わりのない沿岸航海民が往来する水道等を緩衝帯として介していたと考える。*(3)方向の感覚「其北岸と西北界」を参照
 狗邪韓国と伊都国以外の国では「到」でなく「至」とされる事と「倭人在帯方東南大海之中~」と云う文章を考え併せて意訳すると、最初の目的地である朝鮮半島東南岸部(現慶尚南道南岸部)や日本列島北沿岸部の島嶼に依り、国邑を為し、帯方郡や韓国にも属さない独立した倭人海民の領海中、邪馬壹国に服属する倭人の領域北岸に位置する狗邪韓国に到る。此処迄の総距離は七千余里で、倭人の領域を南側の東側の二つに別けて、邪馬壹国伊都国連合に服属する南側の領域の東側には独立した倭人の領域の在る事を示唆したと考える。少し、話が横道に逸れたので、次回から狗邪韓国の国名と官名の考察に入ろうと思う。

帯方郡=現黄海道南半から京畿道北半一帯に在ったとされる中国の出先機関。郡衙(役所)は黄海道鳳山郡文井唐面土城とされる。尚、帯[tad][tai][tai]=人を結ぶ。方[pıaŋ][pıaŋ][ɦaŋ]=架死の形、それを四方に置いたとあり、中華思想を広めて啓蒙し、異民族の朝鮮族を繋ぐと云った意味か。北側の平壌付近にあったと云う楽浪郡の楽[ŋlək][ŋɔk(lak)][io(lo)]=木柄のある鈴を巫女が振り、神を慰めた。浪[laŋ][laŋ][laŋ]=陝西省寧羌県を発し、湖北省漢口で揚子江に注ぐ漢水下流(上流罵水)で、羌族や烏桓・鮮卑等、遊牧民族に漢民族の思想を広めると云う意味か。尚、現在、四川省北部に羌族自治区がある。
遼東郡=遼河の東と云う意味で、
遼寧省大連市旅順区南西の老鉄山西麓の戦国時代から漢代の牧羊城(遺跡)等が在る。




  1. 2015/01/29(木) 08:08:10|
  2. 4.国名と官名
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