見まごう邪馬台国

◇狗邪韓国と海民

 古来、大陸の河川沿岸には河川航行を生業とする川民(鰐)が家船を係留したり、大陸南部から東南部、東沿岸河口部、遼東半島沿岸には荷役や運搬等の沿岸 航海を生業とする海民(陸鰐)が山島依りて国邑をなしており、その水先案内で朝鮮半島には大陸から追われた人々、例えば、殷紂王の叔父胥余(箕子)、周の 王族召公奭(せき)が封ぜられた「燕」の衛氏等大陸北部の遊牧騎馬民等が流入、心太式に押し出された人々が次から次に流入、先住の遊牧民や沿岸航海民と蛋 民を支配した箕子朝鮮や漢武帝に滅ぼされて行き場を失った衛氏朝鮮の王族や官吏等も日本列島北側沿岸部に渡来した。朝鮮族(遊牧民・騎馬民)・韓族(呉音系農耕民と海民)・漢族(漢音系畑作民と蛋民)の三系統に大別される。
 狗邪韓国の比定地の一つ朝鮮半島東南隅の釜山も山肌にへばり付く様に家が建つが、対海国=有千余戸、一大国=有三千許家、末廬国=有四千余戸と記載される国々と違い戸数や家数の記載はない。半島の南海上に浮かぶ島嶼の巨済島等、平地の少ない沿岸部に対岸との済(わた)しを生業とする家船が係留される位で、狗 邪韓国と末廬国にも対海国や一大国に置かれた卑狗や卑奴母離等の記載も見えない。その理由は倭人系外洋航海民の港湾(後代の任那日本府か)だけがあったた めか、対海国や一大国の官吏や武官が海民を伴い狗邪韓国へ向かい魏使や郡使等を出迎え、末廬国や伊都国迄、付き添ったからと考える。では、国名の意味は何だろうか。

 
 狗[kug][kəu][kəu]=子犬(子馬=駒)、後、犬の総称となる。*「句」=短い・小さい等のニュアンスが卑しきもの。
 
 邪ŋiăg(yiă)][ziă][sie(ie)]=邪な事(よこしま・悪い)、呪術等、漢方等では陰陽の均衡が悪い(傾く)事。
 
 韓[ɦan][ɦan][han]=中国の戦国七雄、山西省東南部から河南省中部にあった三晋の一つ、秦に滅ぼされる。

 使われる漢字の音や語義を考え併せると、訓みは、クッヌギァッファヌ→クヌガゥアヌ→クヌガワヌで、東南アジア沿岸部の多島海を生活域として漁猟で糧を 得ながら大半を船上で生活する海民や大陸の揚子江や黄河等を往来する船上生活者の蛋民、現在でも揚子江や黄河等の河川や運河で荷を満載して航行する船と揚 子江に棲息する鰐(わに)に擬えたと考える。一方の海民(航海民)は旅客を乗せ、物資を載せて外海を渡る人々で、外洋航海や荷役での仕事以外では陸(くが →をか)に上がり、田畑を耕すので、蛋民(鰐)と違い陸上で生活する陸鰐(クヌガワニ)とした。
 狗邪韓(くぬがわに)国は、「狗邪」と云う用字から陰陽の状態が奇妙な母系社会の韓国弁辰から別れた小さな島に依る海民(陸鰐)と云ったニュアンスの国名で、北陸(くぬが)とすれば、後代の継体朝と筑紫君磐井(石井)との関わりも無視できないと考える。  
 AD220~280年頃の晋王朝文官陳寿編纂の三国志「魏志」に使われる漢字は、藤堂明保編の漢和大辞典に拠ると、主に上古音(周・秦)が使用されたのだろうが、漢王朝や魏の王族にとって中古音(隋・唐) の近似音が旧来の音だったとすれば、それが使われた可能性も否定できない。但し、晋王朝を興したとされる司馬懿の出身母体を役職名とされる姓氏「馬を司 る」から、遊牧民か、騎馬民と推測されるので、魏帝位を簒奪したのではなく禅譲されたと正当化するために書かれた「三国志」に於て、前代の後漢や魏の音韻 が使われた可能性は高いと思う。

韓[ɦan][ɦan][han]と云う音が、ファヌ→ワヌと発音できる理由は、和語ではハ行転呼と云う現象で、曾てのファ(F)行音はワ行へ遷移する事が多く、語頭以外の語中・語尾には、ハ行音が殆ど現れない事や、王[ɦıuaŋ]=フィゥアヌク→ィゥアヌク→ッゥアウ→ワウ、磐(イファ→イハ→イゥア→イワ)、阿波(アハ→アゥア→アワ)、国府(コッフ→コーウ)等と転音する。尚、万葉仮名に使われた漢字音の語頭「p」=ハ行、「h」=カ行にされたと考える。
唐音=漢字 音の一つ、禅僧や商人等の往来に伴い主に中国の江南地方(杭州付近か)の発音が伝えられた。行灯(アンドン)、普請(フシン)等の類。呉音=漢字音の一 つ。古く中国の南方系の音の伝来したもの。仏教用語等として後世迄用いられるが、平安時代、後に伝わった漢音を正音としたのに対して和音(やまといん)と もいった。漢音=漢字音の一つ。唐代、長安(今の西安)地方で用いた標準的な発音を写したもの。遣唐使・留学生・音博士等によって奈良時代・平安初期に伝 来した。「行」をカウ、「日」をジツとする類。官府・学者は漢音、仏家は呉音。
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  1. 2015/02/05(木) 08:01:46|
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◇百済禰軍

 最近、中国で墓誌(大唐故右威衛将軍上柱国禰公墓誌銘并序公諱軍 字温 熊津蝸夷人也~)が発見された百済の将軍とされる禰軍の先祖は大陸東岸に拠った蝸夷人(沿岸航海民か)で、他に西安でも百済出身の禰寔進・禰素士・禰仁秀と云う人物の墓が見つかったと云われる。平均気候の冷温化に伴う政情不安から戦乱が続いた西晋の永嘉(307~313)年間末に百済に移ったと在る。但し、百済建国は、346年とされるので、当時の馬韓(伯済)や弁辰伽耶(弁韓)に属した後、統一百済に服属したと考える。また、同一人物と思しき名が「日本書紀」665年条九月庚午朔壬辰条、唐国朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫上柱国郭務悰を謂う。凡て二百五十四人。七月二十八日に対馬に至る。九月二十日に筑紫に至る。二十二日に表函を進ると在る。
 古来、大陸から難民が北回りで朝鮮半島に流入し、沿岸部に住む狗邪韓国等の海民と共に押し出される様に対馬や壱岐、更には五島列島や九州西北岸や日本海 沿岸部に渡来した。また、それ以前から南回りで揚子江流域の耕作民が会稽東治(紹興)付近の蛋民や海民を伴い南西諸島を経て九州西南岸部に渡来した後、水 耕稲作に適した場所を探して北上したと考える。古くは樺太等、北海の島々を伝い北海道へ渡来し、早くから河川を遡り、主に狩猟と牧畜や漁労を営み、一部、 栗や椎櫪等の栽培も行った父系制狩猟採集民の系統も居り、現在、これらの人々も殆どが併合され、自らを日本人と称する。尚、永く異民族とされたアイヌモシ リは、近年、漸く列島の先住民として認められた。
 現在、朝鮮半島南部大韓民国にも使われる韓[ɦan][ɦan][han]と漢民族に使われる漢[han][han][han]の中原音は同じだが、上 古音と中古音は微妙に違う。広辞苑に拠ると、「韓」=中国、戦国時代の国名。戦国七雄の一つ。晋の六卿の一人韓氏は、魏・趙と共に「晋」を三つに分割し、 平陽・宜陽・鄭に都し、国勢が盛んな時もあったが、秦に滅ぼされた(BC403~BC230)。彼等の後裔や縁者は何処へ行ったのだろうか。

 
「倭人伝」従郡至倭循海岸水行暦韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里の文意を、帯方郡衙から倭に至るには半島西沿岸沿いに水行し、西沿岸部(韓国)の彼方此方に立ち寄りながら、南下後、南岸沿いに東へと進み、倭の領域北岸狗邪韓国に到る。此処迄の距離七千余里とすれば、朝鮮半島南岸巨済島付近の海上で、依りて国邑なす事のできる島嶼(の北岸)を狗邪韓国に比定する。
 現在の国境線に対する認識とは随分と違うが、この様に考えると、狗邪韓国と伊都国だけが、「到」とされた理由が分かる。詰まり、狗邪韓国から末盧国迄は海民の領域で、伊都国以降が邪馬壹国と狗奴国を含む「倭地」で、陸上の領域になる。おそらく、韓国南岸部や末盧国沿岸部には蛋民の家船が係留されていたと考える。
 倭(人)とは、朝鮮半島東沿岸部や南沿岸部の島嶼や玄界灘の対馬・壱岐等を含む九州北岸部の末盧国や日本海の隠岐島や山陰沿岸部を含む海域を往来する外 洋航海民(耕作民を含む)と沿岸航海民や蛋民等の総称で、普段、海岸沿い小さな島々や陸地の河口部に住む彼等は、為政者にとって必要な機動力を持ち、本 来、帶方郡や韓国、北部九州の邪馬壹国等、その何れにも属さない独立した人々だったが、對海国と一大国には、大官(官)と副官に同名称が記載されるので、 当時、邪馬壹国側の伊都国が常治する一大率に服属していた。尚、「記紀」の海人綿津見や阿曇等が往来した海域を領有し、後の倭寇とも関連があると考える。

蝸夷(クゥディゥ/クァィイ)人=手許に資料がないので不詳だが、蝸[kur] [ku][kua]=かたつむり(蝸牛)・渦巻型(指紋)と在り、「記紀」応神条、束ねた髪に隠した弓弦を出して云々~。束ねた頭髪を蝸牛状の巻髪にして いたか、渦巻模様の文身を施していたか、その模様の衣服を纏っていたと推測される。おそらく、中国大陸の東南沿岸に住んだ東夷(夷[dier][yii] [i])の沿岸航海や河川航行に長けた蛋民で、それが百済や唐等、為政者に重用された理由となる。倭人系海民とも近い縁を持つ人々で、古伝承に日本に渡来 したと云う徐福等に代表される人々と同様、百済が用いたとされる呉音の漢字を持ち込んだと考える。詰まり、百済人とは云えど、自身の拠り所を失った流民 で、通説では百済の支配階級を扶余人とするので、某かの差別や区別があったのだとすれば、唐に靡いた理由は、故地の中国東南部に戻って自身の拠り所を再興 するためか、生きるための方便だろうが、倭国(日本)迄の航海士か、通訳者として来朝したと考える。おそらく、出自を加羅王とする新羅(シルラ)の将軍金 庾信等と同様、服属を強いられたと考えられる。
巨済島や済州島等、何れも「済(渡)り島」と云う語義となる。「百済」の場合、百=多部族の全一+済(渡→亘→渉)とも繋がり、束ねると云う語義。「伯済」とされた場合、高句麗を弟の国と意識した名付けと考えられる。



  1. 2015/02/13(金) 13:03:49|
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◇對海国

  始度一海千余里至対海国 其大官曰卑狗副卑奴母離 所居絶島方可四百余里
  土地山険多深林道路如禽鹿径 有千余戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴


 
使われる漢字の音と語義を考え併せると、対[tuəd][tuəi][tuəi]=(字統)木槌等の道具を使って行う版築の作業と在り、対面・対峙・対局・対戦・対角等、向き合うが言葉を交わさない。海[məg][hai][hai]=(字統)毎(まい)・悔(くい)・晦(つごもり・くらい)等の声が在り、漢族の中華思想から外れた九夷・八狄・七戎・六蠻を四海とし、四極を晦冥地とする。訓みは「ツァッマッ→タマ(玉)・トマ(泊)」で、語義を併せると、中華思想の広まった楽浪郡や帯方郡を経て、言葉の違う蒙昧な領域に服属する一海に対面すると云うニュアンスの国名と考える。
 
次項(C)又南渡一海とするが、其の北岸狗邪韓国としたため、方向を示さず、「渡」でなく「度」とした理由は外洋船で航行する水行と帯方郡からの沿岸航海船で水行したのと同様、水上航行として氵(さんずい)を省略して、「始」=一度目と云う事に掛けて、度(たび)とした。

 ○
大官卑狗
 卑[pieg][pi][pi]=酒を注ぐ柄杓を手に持つ形。使役や高低のニュアンスから卓(大匙→勝る)に対応して尊卑の語義に派生する。
 [kug][kəu][kəu]=子犬(子馬=駒)、後、犬の総称。

 使われる漢字を音と語義を考え併せると、訓みは「ピェクッ→ペク(ピク)」、柄杓から酒を受けて服従した手飼の官吏任官者(神祇官や文官)=犬で、鹿 児島県で15歳以上25歳以下の青年や若者を云う兵児、褌(へこ)と在り、これを男子という意味とすれば、日子=彦(毘古)とできるが、若輩者=服従する 人とすれば、凹々(ぺこぺこ)する等の言葉に関係すると考える。例えば、殷墟から発掘された遺物には大陸西北部の陝西省に住んだ服従しない遊牧民族の羌(後の匈奴か)と読める甲骨文字が見え、王墓と思しき遺構から犬の骨も多数発掘されたと云われる。先の狗邪韓国や邪馬壹国と対立する奴国とも関連し、郡治に属さない蒙昧なと云うニュアンスで用いたのかもしれない。  

 ○
副卑奴母離
 卑[pieg][pi][pi]=酒を注ぐ柄杓を手に持つ形。使役や高低のニュアンスから卓(大匙→勝る)に対応して尊卑の語義に派生する。
 奴[nag][no(ndo)][nu]=女を捕らえて奴隷化し、祭祀官下属の女囚にす ると在る。漢和大字典「奴」項、「論・微子」箕子、これが奴に為る。その箕子朝鮮は燕人の衛満(衛氏朝鮮)に滅ぼされたとされるので、難を逃れた一部の王 族や高官が北部九州へ渡来したと考える。
 
[muəg][məu(mbəu)][məu]=乳房の垂れた女を象る、牧する(養育)。生母の語義ではなく一族内で産後の女性が赤子に乳を与え、全員で幼い雛(ひな)を育て守る乳母・養母(豊玉毘賣→玉依毘賣)になる。
 
離[lıar][lıe][li]=桑摘みの頃に鳴く朝鮮鶯(黄離)。「隹」=鳥黐(とりもち)に掛かった鳥、それを獲る事が離(はな)すとある。私見では「隹」=陰陽・有無・良悪等の二元や二面性を示唆し、この場合、着脱する事、傍らに置く、手に取ったりする事に関連すると考える。

 使われる
漢字の音や語義を考え併せると、訓みは「ピェナッムァッリァ→ピナマラ」、語義に拠ると、柄杓から酒を受け、任命された奴国人(箕子)が武官や文官として傍らで大官卑狗を見守り、補佐する。雛守・夷守として良い。もしかしたら二重の監察が行われていたとも考えられる。
 尚、この時代、列島では水耕稲作が行われているので、大陸中部以南の揚子江流域から稲作民も、大陸南岸部の蛋民や海民、南蛮の粤人(えつじん)等を伴い南西諸島伝いで渡来しており、殷(箕子)や周(衛氏)の主要作物は麦・粟・稗と在り、彼等は焼畑農耕が主となる中華思想から除外された彼等に対する蔑称を含むかもしれない。

[muəg][muəi(mbuəi)][muəi]は、母[muəg][məu(mbəu)][məu]と同系字で、漢和大字典に拠ると、日毎に生じる事、日々海も満干を繰り返し、生活の糧を育む。母性も月毎に変化、子を妊娠、母乳で養育する等、旧くは両者は同系とされた。変化しない太陽と変化する月=太陰と云う関係になる。
玉(たま)=海神豊玉姫や玉依姫に関連が在り、長崎県対馬市峰町木坂タガイノロ247 番地の海神神社、同市豊玉町仁位の和多都見神社、何れも豊玉姫を祭神とする。広東省等、大陸東南沿岸部や台湾一帯では航海安全を願う女神「媽祖神」を祀 る。尚、タマ(タモ)→トマ(トモ)と転音、泊(とまり)→苫、艫(とも)→伴=神武東遷に従った大伴氏等にも繋がるのかもしれない。また、使われる漢字 の海[məg][hai][hai]と馬[măg][mă(mbă)][ma]の上古音は殆ど同音で、對海(たま)と對馬は近似音だが、中古音海[hai])は異なるので「馬」とされた。また、何れにしても、ツシマ(津島=渡島=泊島→繋ぎ島)とは訓めない。
殷墟=中国中南部の河南省彰徳府安陽県で発掘された殷(商)中期以降の帝都。地下から宮殿や王墓、青銅器、甲骨文字等、多数の遺物が見つかった。河南省偃師市二里頭遺跡(玄奘法師の生地)は、その前代、夏王朝から殷王朝前期とされる。
乳母=古来、母系制では生まれた子供を一族内の女性が全員で養育したとされるので、生母が我が子に母乳を与えるとは限らず、生母=養母とはならない。詰まり、子守=雛守(ひなもり)となる。
薊=帝堯の子孫、薊が封ぜられたとされる現北京東郊に住んだ燕人の衛氏一族は半島 を経由して渡来したが、中南部の黄河と揚子江の挟間の地域に住んだ殷の箕子一族等、中には大陸南部の海民や蛋民(粤人)等を伴って南西諸島を経て九州南西 部に漂着した人々もいたと考える。尚、帝堯=中国古代の伝説上の聖王。名は放勲。帝嚳(ていこく)の子。舜と並んで中国の理想的帝王とされる。陶唐氏・唐 尭。

  1. 2015/02/18(水) 21:44:23|
  2. 4.国名と官名
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◇一大国と瀚海

   
  又南渡一海千余里名曰瀚海至一大国 官亦曰卑狗副曰卑奴母離 方可三百里
  竹多木叢林 有三千許家。差有田地耕田猶不足食亦南北市糴

 一[・iet][・iĕt][ıəi]=(字統)横一を記す。当初、数字の1~4迄は横画で記号的に表示した。数の始めであり、声義の近い、壹(壱)は壷の中で発酵したものが充満する事、詰まり、壺一つ=全一。
 大[dad/dar][dai/da][tai/ta]=(字統)天と大地の間で手を広げて立つ人の正面の形を表す。金文の「太保」では特に優れた体格の形に記し、盛大・長大等の語義。

 使われる漢字の音を併せると、訓みは「ィエタ→エタ(江田)・イタ(伊田)・ヤタ(八田・矢田)」で、これを現在の壱岐として、語義を考え併せると、前 項の對海国の比定地とされる南北二島の対馬と違い、独島=全一とできるが、決して大きくはないので、他に大きな理由や意味があると思われる。
 これに関連すると思しき記述、「倭人伝」伊都国が常治する一大率が女王国以北の諸国を検察、皆、これを畏怖すると在り、對海国と同様、この一大国にも卑狗と卑奴母離と同一名称の官吏が置かれる。但し、役割が違うのか、對海国の場合、大官卑 狗とされる。この大官を海神「たま(玉)」の神祇官とすれば、官卑狗は文官、副卑奴母離は武官で、一大国には一大率の本役所か、出先機関があったのだろう が、国名に拠る命名か、機関名が国名にされたのかは判じがたい。ただ、ここでは40~50㌔四方の南側に陸地や離島が見えるので、前項の「所居絶島~」 の記述はないが、一海の名称「瀚海」と特筆、同じ領海として示唆する。また、その漢字、瀚[ɦan][ɦan][han]=広い海、ゴビ砂漠、唐代、都護 府の名称、ゴビ砂漠以北の遊牧民を管理したと在り、海[məg][hai][hai]の上古音は馬[măg][mă(mbă)][ma]と近似音である 事、英語で船=mere-hengest(海の馬)とされる事や「氵(さんずい)」のない「翰」=高く飛ぶ事→縦の広がり(天空の鳥→天馬)に対して、 「瀚」=横の広がり→草原を走る馬や河川や海上を航行する船として良い。更には、同音の韓[ɦan][ɦan][han]が使われる倭人系外洋航海民の狗 邪韓(くぬがわに)国を考え併せると、「瀚海」=ファヌマッ→ゥァヌマ→ワヌマ(鰐海)とせざるを得ない。詰まり、この一海は倭人系海民の鰐(わに→鮫)、「記紀」和邇氏・和珥・丸邇氏等の領海の南側全体で、福岡県の志賀島で発見されたと云われる金印「漢委奴国王」を「漢の鰐国王」とした事にも繋がるので、瀚海(一)上の鰐国(大)を統率する役所と云ったニュアンスと考えられる。
 魏帝の勅書と下賜品を授けるため、初めて外洋(瀚海)を渡った魏使は、此処でも戦略的な見地から列島の地理的な状況を調査し把握する事が目的とせざるを 得ない程、正確な地理情報を報告した。当時、日出と日没(東西)、その南中と北極星(南北)、地形等を頼りに相対的な八分割の方向と徒歩や乗馬・馬車等、 一日で進める距離の設定から換算した一里を基本とするのだろうが、地図で簡単に位置関係を判断できる現代人には考えられない程、倭人が持つ朝鮮半島と日本 列島西側、九州北部の地理的状況の知識が如何に正確だったかが判る。
 白川静編「字統」「韓」=旗竿の取っ手に鞣し革を付ける。旗を掲げ、韓人思想の広がりを示唆するが、編者陳寿には、当時の韓国は楽浪郡や帯方郡を通じて 中華思想が広まっていると云う認識があった。一方、海[məg][hai][hai]と毎(まい)・悔(くい)・晦(つごもり・くらい)等は同声で、「」とされた狗邪韓国や、「始度一海」とされた對海国と同様、邪馬壹国上層部は「漢委奴国王」の時代とは違い異言語で蒙昧な民族と云う認識だったと考える。

(字統)旧くは 横画を四本引いたと在るが、漢数字「四」、アラビア数字「4」やローマ数字「Ⅳ」等、1~3と規則性が違うので、干潮(ひる)→経過(ふる)→満潮(み つ)→経過(よる)と経過し、新月→半月→満月→半月、朝→昼→夕→夜(よる)等、十二進法(3×4)に関連する。
瀚海(わぬま)=對海(たま)を対馬とすれば、最北端の長崎県上県郡上対馬町鰐 浦、付近には高麗山(こうれいやま)が在り、鳥取県西伯郡淀江町と同郡大山町の境にも孝霊山(こうれいさん)、別名「瓦山」と在る。カハラ(河羅)→カッ パ(河伯→河童)→カワラ=蛋民(阿曇系)で、高句麗王祖解(高)朱蒙の生母は河伯の娘、柳花「ユファ→イゥファ→イワ(石・磐)」とすれば、沿岸航海民 (住吉系)にも繋がり、神功皇后の新羅討伐は住吉海人の後押しで行われたとある。「仲哀紀」五百枝賢木を舳と艫に立てて~等とも関連し、錦(二色=白黒→ 陰陽)の御旗の下、支配と服従の関係も示唆。*賢[ɦen][ɦen][hien]
漢委奴国王=「金印考」で後述する予定。



  1. 2015/02/26(木) 21:29:31|
  2. 4.国名と官名
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