見まごう邪馬台国

◇末盧国と蛋民

  又渡一海千余里至末盧国 有四千余戸
  浜山海居草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之

 末[muat][muat(mbuat)][mo]=(字統)木の先端に肥点を加えて終末を表す。仮借として、無・莫・蔑と通じ、否定的に用いる。
 盧[hlag(hlo)][lo][lu]=火桶・火入れ・黒い・柳で作る飯櫃(めしびつ)。「字統」盧と旅は黒いと云う語義を持ち、黒漆塗りの盧弓→旅弓・盧矢→旅矢と通用される。(字統)旅=旗を掲げて多くの人が出向する事で、軍行の集団(旅団=軍五百人)。「斿」=一人で旗をを奉じて行く。

 使われる漢字の音を併せると、「ムァッフラッ→ムァツラッ→マツラ」で、語義を考え併せると、玄界灘の「玄」が陰陽五行説、北(一白水星)の玄 (暗夜)となり、一海の瀚海(朝鮮海峡と玄界灘)=蒙昧な海上国(冥暗)の限り=末端、瀚海上にある倭人系海民国と陸上の倭地(≠女王国)との境で、海上 国の南限=天(海人)の太陽が南中する場所、「盧」=灯明のある顕かな国で、当初、魏使や陳寿の持っていた蒙昧な異民族と云う認識とは違っていたのだろ う。此処で外洋船を降りて、一大国の役所から派遣された文官や武官か、伊都国から迎えに出た官吏が付き添い、差配した蛋民の河川用平底船に大使や副使を乗せ、下賜品を載せて河岸から従者に曳かせ、陸行した。
 船の湊津や灯明等の維持管理は蛋民等にさせたとしても、監督する役人が必要だが、狗邪韓国同様、官と副官等の名称は見えない。おそらく、下級官吏や将兵が、伊都国か、一大率の役所から交替で派遣され、駐在する詰め所があったと考えられる。  
 尚、松浦半島北西の沖に松島や馬渡(まだら)島と的山(まとやま)大島とあり、「マツラ」を書き換えると海渡浦→馬渡浦になる。当時、この海域は大陸南や東南部から南西諸島を経て九州西沿岸部を北上した倭人系海民の領海で、投国と邪壹国の通字から両国は同系の人々か、同等(姻戚か)の関係で、国名「邪壹国」「斯国」「邪国」や、その官名「伊支」「彌升」「彌獲支」等は船を操る倭人系海民と考える。
 例えば、縄文中期の曽畑式土器の分布は特徴的である。南は九州西部から種子島・屋久 島、更に沖縄まで分布するが、九州でも大分や宮崎等の東部からは出土しない。本州では山口県西海岸の一部だけで内陸部には入っていないが、朝鮮半島西・南 部、中国東北部にも櫛目文土器が出土する。通説的には、縄文前期、朝鮮半島の櫛目の文様を持つ土器を使用する人々が海を渡り、九州西北部で使用されていた 土器に影響を与えたとするが、半島に櫛目文土器が出現するのはBC4千年頃とされ、縄文中・後期頃、黄河河口、山東半島付近から遼東半島へ黒色土器をを携 えた焼き畑耕作民と沿岸航海した蛋民系「韓(わに)」を伴い漢民族や遊牧騎馬民が朝鮮半島の西・南部へ流入、中国東南部から北上した倭人系外洋航海民(く ぬがわに)とが鬩ぎ合う最前線だったと考える。


 もう一つ、松浦半島西側佐賀県松浦市付近か、伊万里(有田)川河口付近一帯には沿岸航海を担う蛋民の沿岸航海用船や家船が係留され、投馬国へ向かうため の停泊地が在った。これまでと違い投馬国には独自の官名が見えるので、ここから下級官吏が派遣されて蛋民等に湊津の維持管理をさせたのかも知れない。「傍 国考」でも述べるが、「為吾国」「巴利国」等の治水と土木工事の設計施工を担う人々と蛋民(河伯)には関係があり、隋の煬帝が造らせたと云う大陸を南北に 貫く大運河を言うに及ばず、黄河下流域河北省天津、揚子江下流域会稽山のある浙江省杭州等を縦横に走る運河や堀川は、こうした人々の治水と土木工事に拠ってなされた。


莫(日暮れ・暗い・無)=暮の初文と在り、「説文」日まさに莫れんとするなり~云々とあり、日が沈み冥暗な事が、何も見えないとされて「無」、更には、蒙昧で差別される「蔑」と云う語義にも派生した。
飯櫃=飯塚(いいづか)や飯田(いいだ・はんだ)、飯盛山等の地名や山名に関連が在るか。
末盧→松浦(マツゥラ)になるが、玄界灘の海上、佐賀県東松浦郡鎮西町馬渡(まだ ら)島=「まわたる→まぁたら→まだら」で、松=海津と考えられる。島の地名、番所ノ辻、八ノ尾ノ辻等、壱岐島と同系の地名が在り、阿曇系住吉海神との繋 がりが在る。ただ、「名馬の鼻」から騎馬民族の意識としても不思議ではない。
玄=糸把を撚った形、黒く染めた糸。「説文」幽遠なり、黒にして赤色の含む(字 統)ともあり、本来、玄米等の赤茶色や焦げ茶に近い色か。また、現在でも長崎県対馬や佐賀県吉野ヶ里で栽培される赤米(火炎の色?)との関わりも考えら れ、対馬の厳原(いづはら)町豆酸(つつ)の多久頭魂神社等では神事に使われる。
縄文中期以降、更に往来の証拠が増える。その一つが中国の黒陶文化である。黒色土 器は土器を作る時、煙で表面を燻して黒くしたもので、大陸では、遼東半島から山東半島を中心に江南方面迄分布する。韓国釜山市の東三洞貝塚(新石器時代) は、約4000~3500年前の縄文土器、阿高式、南福寺式、鐘崎式等、九州地方で見られる土器や、九州産の黒曜石が発掘されており、海人が往来、交易を していたとされる。韓半島と日本の海岸地域に住んでいた新石器人は海を挟んで、長い間、絶え間なく交流活動をしてきた。凡方貝塚や煙台島、上老大島貝塚 等、南海岸の各遺跡から出土した日本の縄文土器 ・石器 ・黒曜石と九州西唐津海岸遺跡、佐賀貝塚、越高遺跡から出土した各種の櫛文土器と装身具等、当時の文化交流の様相が見られる。各種縄文土器と黒曜石製石器 は、当時の東三洞貝塚人が海を越えて日本地域と直接交流した事を裏付ける。特に、多数出土した貝製腕輪は国内の色んな地域だけでなく、九州地域の黒曜石と の交易物として対馬等に供給されたものと思われる。 日本では縄文晩期から水耕稲作がかなり盛んであった。BC900年頃、佐賀平野や島原半島、最古の稲作の遺構が残る唐津の菜畑からも発見された。黒色土器 は稲作とともに江南付近から北上した海民や蛋民が齎した南西諸島を経て齎されたとも考えられる。

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  1. 2015/03/05(木) 14:59:45|
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◇伊都国と金印

  東南陸行五百里到伊都国 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千余戸
  世有王皆統屬女王国
 郡使往来常所駐

 朝鮮半島西や南沿岸部を航海する海民「韓(わに)」と同系と思われる狗邪韓国で、「到」とする理由を邪馬壹国と伊都国連合に取り込まれて支配されたた め、帶方郡に服属する沿岸航海民の領海(水道)や韓国領域を出て伊都国(一大率)に服属する倭人系外洋航海民(陸鰐)の領海に入る事を示唆するとしたが、 「到伊都国」は、その領域(海上)から外れ、陸上の女王国連合と狗奴国領域(倭地)に入った事になる。

 伊[・ıər][・ıi][i]=(字統)君(旧くは女性)を補佐する役職名。伊尹=伝説上の殷初の名相、名は摯と云い湯王を補佐、夏の桀王(けつおう)を滅ぼして天下を平定したので、尊んで阿衡(あこう)と称したと云う。
 都[tag][to][tu]=(字統)祝禱を入れた器を埋納し、城壁で囲んだ所。
尚、現代北京音[dou]=京都、[du]=集める・集まる、全て等と在り、その全体を城壁で囲った京都や都市には人が集まる。

 使われる漢字の音を併せると、訓みは「ィェアータッ→ヤァタ(八咫)」、エタ(江田)・イタ(伊田)・ヤタ(八田・矢田)、語義を考え併せると、巫女王 卑弥呼を補佐する男弟(丞相)を輩出し、その宗廟を守護する城壁を構えた国で、郡使や魏使が往来する国と云った語義になる。また、前項、末盧国の「灯明」 とも関連し、「記」伊邪那岐が我が子火之迦具土神の頚を斬った剣神伊都尾羽張神(亦名天之尾羽張神)の裔孫建御雷之男神→建御(タケミィカヅチ)神が出雲国譲に遣わされた。こうした経緯との係わりを示唆する様に、傍国の名称や女王国の情報等を述べた後、先述した以下の如き記述が見える。

  自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
  王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物 詣女王不得差錯

 伊都国の常治する一大率を畏怖したと在り、近似音の国名「一大(ィェタ)国」も旧くは王権と祭祀権を持っていたが、諸国を監察するために置かれた一 大率の本役所か、出先機関から、邪馬壹国と伊都国に支配されていたと思しき対象となる以北の倭人系の航海民と水行稲作民の諸国、對海国や一大国の他にも文 官や武官の「卑狗」か「卑奴母離」が派遣されたとして良い。また、我国中に有る刺史と云う役職の如くとも在り、卑狗と卑奴母離の組織体系がよく似ていたの だろうか。上記の前段、國國有市、交易有無、使大倭監之とも在り、「都」=集める・集まる、全てと云う語義からすると、常置する一大率の役人だけではなく倭人系海民の長(水上警察)だろうか、「大倭」をして交易の有無を監するとあり、邪馬壹国を連合国の全一、卑彌呼を盟主として伊都国(一大率)が二重支配したと考える。

  今以汝爲親魏倭王假金印紫綬 裝封付帶方太守假授 汝其綏撫種人勉爲孝順
  汝來使難升米・牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印青綬

 金印紫綬「親魏倭王」を仮すので安心して人民へ孝順を為せ。遠路遙々詣でた難升米を率善中郎大將、牛利を率善校尉と為し、仮銀印青綬(不明)とあり、使者が戻ると委奴(わぬ)国王から奪っていた印璽「漢委奴国王」は不要になり、委奴(ワヌ/ゥイヌド→イドゥ)国王墓か、伊都(ヤァタ→イドゥ)王墓に埋納されたと思われる。ただ、(伊都国)世、王有りとあり、伊都国王墓とされる福岡県前原市の平原遺跡から径46.5㌢の銅鏡(八咫鏡か)が出土したが、これは狗奴国に敗れた伊都国王や卑彌呼の呪力を削ぐためと考える。次回は、伊都国の官職名を考えてみる。

初め半島から逃れてきた殷王の叔父と伝承される箕子朝鮮関係の王族や高級官僚に拠る委奴(わぬ)国連合として漢王朝に朝貢したが、漢王朝に滅ぼされた周王の 兄弟が封ぜられたと伝承される燕(大陸東北部)の人衛氏朝鮮の王族や高級官僚に支配される。尚、神功皇后の新羅討伐の後ろ盾、住吉系海民(一大国系)や漢 王朝の圧迫から逃れてきた遊牧騎馬系衛氏朝鮮(衛満)後裔と考えられる。邪馬壹国前代、奴国連合(委奴)の時代、祭政一致だったが、新たな渡来者に拠っ て、政事を奪われて、祭祀の邪馬壹国と伊都国(政と武)で二重支配した。
伊都尾羽張=漢字音を併せると、ヲハハリ→ヲゥハリ→ヲワリ(尾張→終→末)と訓 める。伊邪那岐が竺紫日向橘小戸阿波岐原で禊ぎ祓いして生る神直日命・大禍津日命・大直日命と、安曇連祖神の以ち拝く綿津見三神、墨之江の三前の筒之男三 神とある。一大国の比定地、壱岐から鉄の精錬工房跡が見つかった。*尾羽=舵羽→船舵(ふなかじ)
建御雷之男神=迦具土神の頚を斬った剣(伊都尾羽張神)の本に著いた血も亦、津石村を走り就きて成れる神、甕速日神、樋速日神、建御雷之男神、亦名を建布都神、豊布都神。「紀」火神軻遇突智の身体を三つに斬った剣の鐔から滴った血から甕速日神(武甕槌神の祖先)、熯速日神とする。
漢委奴(かんのわぬ)国王=「委」に人偏が付かないので補佐役の男弟(遊牧騎馬民 の衛氏系)は含まれない。水耕稲作民と海民を束ねる王。尚、糸島半島基部に在る「怡土城跡」は、怡・已[diəg][yiei][i]、土・菟 [t`ag][t`o][t`u]、伊都が「ヤァタ→イェィト→イト」と訓じられた後の用字で、早くとも平安期以降となる。尚、佐賀県唐津市に属す島や糸 島近辺を経て東に向けて宮地嶽神社や同山名が在り、福岡県福津市宮司の
宮地嶽神社が鎮座する古墳に埋納されたと推測する。
平原遺跡=前一世紀の三雲南小路遺跡西北1㌔程、瑞梅寺川と雷山川に挟まれた福岡県前原市大字有田1番地の丘陵上にある。1965年多数の鏡が発見され、発掘された一号墓は18m×14mの溝を周らせた四隅が丸い方形周溝墓(出雲等、山陰地方は四隅突出型の方形墓)、長辺4.5mの墓坑内に長さ3mの割竹形木棺が検出された。棺外の頭側には中国製の素環頭大刀1本があり、墓坑の四隅には埋葬時に破砕されたであろう鏡39面が出土した。
伊都国=狗奴国として南下(くだ)った委奴(わぬ→イドゥ→イヅ)の王族や高級 官僚の一部に卑弥呼の宗女壹與を奪われ、追われた伊都国は宗女臺與(豊)を伴い東遷した。福岡県遠賀郡水巻町頃末の伊豆(イドゥ→イヅ)神社(彦火火出 見尊、合祀 神直日命・大禍津日命・大直日命他)、他にも福岡県遠賀郡岡垣町、奈良県宇陀市榛原内牧。*伊豆=出(いづ)







  1. 2015/03/13(金) 10:59:41|
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◇官職名と国王

 ○官爾支
 爾[nier][niĕ(rıĕ)][ri]=(字統)人の正面(大→不+冂)と女子の胸部にする美しい文身で、神事を掌る巫女か、判子・印璽の象形ともある。
 支[kieg][tʃıĕ][tsï]=木の小枝を手に持つ形象、枝の初文。分ける・分かれるとあり、小枝を手に持ち支える、支点とある。

 使われる漢字の音を併せると、訓みは「ニェゥキェッ→ネゥキェ→ヌケ(糠・ 額)/ニケ」となり、語義を考え併せると、胸部に文身を施した巫女(花弁)を支える官吏(萼)で、「倭人伝」巫女王卑彌呼を佐けて政治を執り行う男弟とな る。殷王が行ったと云う亀卜と同様の神事に係わり、女王卑弥呼が吉凶を占ったのだろう。もしかしたら「記紀」饒速日(にぎはやひ)命や天津日高日子番能邇邇藝命等と関連があり、印璽や御璽を持つと云う意味かもしれない。

 ○副泄謨觚
 泄[siat(diad)][siєt(yiєi)][sie(iəi)]=(字統)世は「卅」の字形とは明らかに違い「止」に縦画の肥点三本を添える と在り、寧ろ「生」に近い字形とし、生まれる水=漏れて生まれる事とすれば、妊婦の破水とも繋がり、世継ぎを産む事とも関係があるのかも知れない。
 謨[mag][mo(mbo)][mu]=神に祈る「謀」に対し、政治的な定めを決めると在る。ただ、(字統)莫と冥(くらい)とは双声。「謨」=莫+ 言とすれば、暗い・見えない→神事で以て隠れて諮り決めると云う語義で、「謀(はかる)」=某+言とすれば、某=曰+木に従うと在り、曰(いはく/ィエ ツ)=神に祝祷する祝詞を入れる器を木枝上に付け神に捧げ、神示を受ける。「謀は密なるを以て吉とす」とある。
 觚[kuag][ko][ku]=細長く口の広がった酒器とあり、酒を容れる事=保管・管理する事。

 使われる漢字の音を併せると、訓みは「シァッマックァッ→セマコ(斯麻子→狭子)」で、語義を考え併せると、傍国の王や族長の会議等で神意を諮り、決定 された事項、黄泉国(冥土)への旅支度(天之鳥船)等、葬儀礼(隠坊)や新生児の除霊等(呪術師)を拘わり、世継ぎの輪廻転生に掌る官吏になる。
 当時、この列島全域で使われた言葉や邪馬壹国連合の為政者等が用いる言葉が、現代中国語や韓国語に近い音韻だったのか、現日本語に通じる音韻だったのか 判然としないが、謨・模[mag][mo(mbo)][mu]や馬[măg][mă(mbă)][ma]の上古音は全くの同音ではないが、万葉仮名と同様 に現代日本語の「マ」に近似音が幾つも使われるので、その漢字が持つ語義を無視してはならないと考える。

 ○副柄渠觚
 柄[piaŋ][pıʌŋ][piəŋ]=(字統)「説文」柯(斧の柄・から)なりと在る。旧くは木の枝を適当な長さに切った。手で柄を握る。
 渠[gıag][gıo][k`io]=人口の堀割や用水路、間延びしている様、大きい、第三人称代名詞(=隔たる)と在る。
 觚[kuag][ko][ku]=保管・管理する。

 使われる漢字の音を併せると、訓みは「 ピァヌギァックァッ→パヌガカ→ハヌガコ」で、語義を考え併せると、「柄」=木の枝を適当な長さに切る事=設計と施工、手で柄を握る=掌握する事。 「渠」=水路(つる)や古墳の水掘とすれば、接子(はぎこ)=接ぎ合わせた構築物の設計施工を掌る人、筑紫平野の中央を貫いていたとも云われる水道(阿利那礼河、「神功紀」神田(みたしろ)に水を引く溝(うなて)を掘る時、迹驚岡(とどろきのをか)の大磐を雷電が踏み裂いたとされる裂田溝にも関連し、水田や水路の設計施工や維持管理を掌る役人、それを守護する武官かも知れない。尚、福岡県太宰府市の水城も、その水道の治水を目的として造られたとする研究者も居る。付近には白水(はくすい→しろうず)と云う一族が居り、その維持管理を担ったか。

額・糠(ぬか)=糠は穀類の表面、額は目や鼻と頭内(脳)、萼は花弁を保護する。尚、額田王→額田姫王(妻)→額田大君(巫女)→額田部皇女(推古)
印璽や御璽=「紀」神武東遷条、天皇が饒速日命と同じ印璽や御璽を持つとある。
阿利那礼河(ありなれがわ→あまのかわ)=日本書紀に見える河の名。古くは鴨緑江 を指すとされたが、新羅国都慶州の北川「古名・閼川(ありなる)」とする説が有力とされる。おそらく、天翔る鳥→天之鳥船(あめのとりふね)=北方の遊牧 騎馬民族は岩山だが、奄美沖縄地方の人々は、奥島(おふしま)→青島(あおしま)に遺体を安置して鳥に啄ませると云う風習が在り、故人の霊魂が鳥に宿り、 天(彼の世)に運ばれると云う思想に拠ると考える。
裂田溝(さくたのうなて)=「記紀」火之迦具土(軻遇突智)神の頚を斬った剣の前(さき)の血に生る拆(裂)神、次ぎに根裂(根裂)神(中略)~、甕速日神、次ぎに樋速日神、次ぎに建御之男(武甕槌)神とある。福岡県筑紫郡那賀川町安徳には裂田神社(祭神神功皇后)が在り、その地名から宗像(赤間)や対馬等にも御陵の伝承がある安徳天皇との関連も取り沙汰される。*山口県下関市の赤間神宮
 






  1. 2015/03/21(土) 12:57:04|
  2. 4.国名と官名
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◇奴国と海民

  東南至奴国百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二万余戸

 奴[nag][no(ndo)][nu]=(字統)捕らえた女で祭祀官下属の女囚「論・微子」箕子、これが奴に為る。最後の殷王紂の叔父胥余(しょよ)は周武王から「箕」に封ぜられたと漢籍では伝承され、中国東沿岸部の蛋民等を伴い朝鮮に入り、箕子朝鮮を興した。「倭人伝」其国本亦以男子為王、往七八十年、倭国乱相攻伐暦年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼~ と在り、後、燕人の衛満(衛氏朝鮮)に滅ぼされると列島に渡来、倭人系の海民や水耕稲作民の祭祀権を奪い男王を戴く奴国連合とした。更に、その衛氏朝鮮が 前漢武帝に滅ぼされた後、楽浪郡・帯方郡等、漢の出先機関が置かれて服属を余儀なくされると、一部の王族や高級官僚(遊牧騎馬民か)等が北部九州へ渡来、 伊都国として、その支配権を奪おうするが、長引く戦いから女王卑弥呼を共立して争いを収めた。それに従わない奴国連合の人々は狗奴(カナ→クド)国として 南下、邪馬壹国と伊都国連合に対立した。
 奴国の支配者層は潅漑施設等の設計施工や土木工事に関わり、城京や安京とも関連して河原や小高い丘を平(なら)して建設した。韓国語では奈良(なら)=国とされるが、新羅(シル→しぎ)、百済(ペクチェ→くだ)等から、奴国=奴羅(なら)で、狗奴羅(クヌァ→クヌド)となる。

 ○官兕馬觚
 兕[不明][zii][sı]=一本角の野牛(水牛)に似た動物とし、犀の一種と在る。
 馬[măg][mă(mbă)][ma]=草原を駆ける馬と帆に風を受けて海上を航行する船=天翔る鳥(天之鳥船)、何れも雄のトーテム。
 觚[kuag][ko][ku]=保管・管理する。

 使われる漢字の音を併せると、「兕」を中古音に拠ると、「ツィマックァッ→チマコ/チムバコ」で、語義を考え併せると、一本角(帆柱)の馬(=船)を 操る海民や蛋民の長(大倭?)となる。「記」歌謡「島」を「斯麻」「志麻」と二種の万葉仮名で訓じ、前者の「斯麻(狭=せま→せば)」は伊都国の副泄謨觚 (大倭)、後者「志麻(ちま)=小し→低し」とすれば、官兕馬觚は卑狗(凹=ぺこ)となる。また、「記紀」黄泉国から還り、禊ぎして伊奘諾尊(伊邪那岐 命)の生した綿津見神(穂積系外洋航海民)と住吉系筒之男神(沿岸航海民→阿曇系川民)等、二系の海民がおり、奴国(ナクォ)=凪・薙・投・和(倭)とも繋がる。
 述べてきた外的要因で、此迄の秩序が乱れた。先述した燕人の衛満が興した衛氏朝鮮も前漢武帝に滅ぼされた後、その王族や高級官僚が倭人系海民を伴い渡来して興した伊都国の男弟(年下の)が、箕子朝鮮系の奴国の統治権と祭祀権を剥奪、伊都国の一大率から派遣された官吏、対海国や一大国の副官と同名称の卑奴母離に監察させた。おそらく、奴国の兕馬觚は金印「漢委奴国王」を授かった王の後裔で、伊都国と協定を結び大倭として命脈を保った。その後、南下した呉音系の人々(遼東太守公孫氏等)が後押したのか、奴国(壹與→天照大御神)と狗奴国(スサノヲ系統大年神)が統治権を奪い伊都国王(+臺與)を東国(豊=登余)へ追い遣り、女系卑弥呼の宗女壹與を服属させる。
 上記の流れと「記」出雲神話で、海の彼方から少名毘古那命(スクナビコナ)神が顕れるが、その名前を足の立たない山田之案山子(曾冨杼=蛭子)だけが知る。そのスクナビコナは大国主神(大穴持神・大己貴神)と共に国作りをした後、常世国へ逝かれたとする等、大国主神との対比か、優劣のニュアンスを持つ文字「少」が使われるので、「卑狗」「卑奴母離」に関連すると思われる。
 
微子=殷代末の忠臣、紂王腹違いの兄「啓(開)」、紂王の淫乱を諫めたが聞き入れられず、逃げたが、周公旦は殷の後を嗣ぐものとして宋に封じた。
奴国の通説的な比定地福岡県春日市(須玖岡本遺跡)の近く同県福岡市南区横手南町の笠抜遺跡から大規模潅漑施設が発掘された。また、官兕馬觚=小さいとすれば、水耕稲作民の豊壌を祈願する巫女「委(わ)」が身体を屈めて踊る姿とも繋がる。
新羅(チルアゲ→チラゲ→しらぎ)=「百済(くだら)考」で詳述の予定だが、高天原に参上る速須佐之男命=南風(はえ→ハィエ)に関連が在る。
「紀」大伽羅王子都怒賀阿羅斯等(角が在る人)と関連して、二本角の牛(二本帆 柱)と一本角の犀(一本帆柱)の船を操る外洋航海民と沿岸航海や河川を往来する蛋民が居り、夫々の縄張り争いで対立した。尚、後代、白村江戦で倭軍を破っ た新羅の大将軍「金庾信」とも繋がり、海民の長と考える。
奴国=漢和大辞典「奴」項、箕子、これが奴と為る(論・微子)。漢籍の史記に殷王 紂の叔父胥余は周武王に「箕」に封ぜられると云う伝承があり、風神箕伯と呼ばれるので、戎克(ジャンク)船や小形船(サンパン)等を使い大陸東沿岸部や南 西諸島を南風に吹かれて北上した海民や蝸夷人の百済禰軍等との係わりを抜きには考えられない。「神功記」建振熊命が伊佐比宿禰を謀り、弓弦を絶ちて偽りて 帰服させた後、頂髪(たぎふさ)に設けた弦を出して追い撃ちき。とあり、蝸夷人とは髪の毛を頭の頂で捻り丸めた人々と考える。
前漢武帝=この頃、遼東郡・楽浪郡・帯方郡等、漢民族の半島経営が始まる。
服属させられた委奴(ワヌ)国王は神事や農耕儀礼を掌る(委=早乙女)等の既得権を奪われ、奴国とされたが、邪馬壹国と対立して南下(くだ)った狗奴国は男系卑弥弓呼(大年神)を奉じ、服従・服属する事を嫌がり、分裂するも、壹與を奪い北上(あが)ると考える。
壹與(臺與)=私見では、壹與=伊豫と臺與=豊に関連が在り、当初、狗奴国王卑彌 弓呼は邪馬臺国を標榜、壹與を奪うと、海人豊玉姫と玉依姫の如く分裂し、敗れた伊都国(出雲)系は臺與を伴い日本海側へ東遷する。一方の壹與は周防(す は)灘から四国沿岸部を東遷したと思われる。 
  1. 2015/03/26(木) 14:22:07|
  2. 4.国名と官名
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