見まごう邪馬台国

◇英語の文型

 国語学界の研究発表は、以下の如く続きます。【他に「古川ロッパ昭和日記/戦前篇・戦中篇(晶文社)」の昭和10年代分を対象に個人における「全然」の 使用実態を調査した結果を併せ、昭和10年代の段階では、本来、否定を伴うと云う規範意識は、未だ、発生しておらず、使用実態も昭和20年代後半以降に広がる迷信を生み出す様なものではなかったと研究班は結論づけました。】

 昭和20年代後半以降に広まる迷信を生み出す様な使用実態が昭和10年代にはな かったとすれば、尚のこと、迷信が起こり、影響された大きな理由や原因があって然る可きだと思います。先述した様に語義からしますと、否定を伴うとする理由はありませんが、戦前戦中の国家的重要課題を念頭に置いた「標準語」「正しい日本語」をめぐる議論が盛んに行われた事の反発からか、明治期に流入した英語や、敗戦後の英語教育に使われる教科書の作成仮定に於いて、英語文法等にも影響を受けたとも考えられます。例えば、英語でも、at all / in the least 等、通常、否定(not)を伴って使われる副詞が在り、これらの使い方に影響されたとすれば、「全然、~ない」も、こうした英単語や熟語と同様のニュアン スを持つと考えられます。
 そこで下記の如き例文を使って比較してみましょう。

  A I can not understand it at all → 私には迚も理解できない。
  B I do not want it in the least → 私はちっとも欲しくない。

  何れの文章も背景には貴方や第三者と違う=他者との比較→(5)2つ以上の事物の差異を表す。難易・良悪・過不足→(7)マイナスの価値評価を表すのと同 様のニュアンスがあり、Aの場合、全然、解らない。Bの場合、全然、欲しくないとできます。尚、或る新聞記事には、辞書の世界では新しい変化も出てきてい ます。三省堂の大辞林第3版(2006)は諸研究を反映したのでしょうか。旧版にはなかった明治・大正期には「全て」「すっかり」の意で肯定表現にも用いられていたが、次第に打ち消しを伴う用法が強く意識される様になったという記述が追加されていますとあります。

 言語自体、時代を反映し、規範や語法、発音は変化変容します。例えば、戦前戦中、野球用語「ストライク」は敵性語として「良し」とされた。例えば、全然、良し(ストライク)=明白な良し(ストライク)→紛れもない良し(ストライク)と、比較して差違を表すので否定を伴う文章にできます。
 本来、「全然」には何かと比較する(完⇔欠)と云うニュアンスが在り、「全然、良い」の発言者や応答者は、その意識下で対照的な良くない状態や状況と比 較する。全然、良い=疑いなく良い=全然、問題ないは、それが差違や欠落等のマイナスの状態や状況、同等でないと云う感覚を生み、全然、~ないと否定を伴うと云う規範に派生したのでしょう。先の英語法との関連から推測すると、昭和20年後半、著名な学者や作家等が対談や文章中で、全然、~ないと否定を伴う 事が望ましい等と語ったり、その記事が契機となり、規範として認識され、国語教育に組み込まれたため、それに法ってきた人々には違和感を持つのは当然の事ですが、現在、そうした規範が持つ縛りが薄れたと考えます。
 但し、全然、大丈夫です→全然、問題ないですは、前後の脈絡に拠っては、少し、ニュアンスに違いが生じます。前者は「全然」が持つ比較すると云うニュア ンスから応対者は「本当に大丈夫か?」等、何となく、その疑いや不安感を拭えない。後者の場合、応対者は同様に一寸した疑いを持つが、心配ないと断言され た様に感じ、安心感を持つ。ただ、そうした不安感等、意外な感じを持たせるとすれば、良いのかも知れない。

迷 信=研究発表は、今後の課題は迷信が戦後のいつの頃、どのように発生し、浸透していったのかを解明する事とします。或る新聞の読者投稿欄に子供向けテレビ 番組で使っていた「全然、大丈夫」というフレーズは誤用であり、日本語の乱れだと断言する内容でした。専門家の研究が着実に進みつつあるものの、こうした 投稿が新聞に大きく掲載される現実は“迷信”が、まだまだ、一般に根強く浸透している事が窺える。
「全て」「すっかり」=本来、「全く以て然り」と状態や状況のままと云う語義で、 強調として使われていたが、それが「全く」「全て」「すっかり」と云う語義にも派生したと考える。尚、学界で認められた規範や語法の変容、発音の変化を辞 書は後追いで記載する。英語でも同様の変化や変容がある。そうした使い方を誤用とする前に、これらが持つニュアンスの違いを云々すべきだ。
規範=音楽の和声学とは使ってはいけないのではなく、なるべく使わない方が良いと云う程度で、逸脱する事で意外な効果(緊張等)を表現できる。同様に言語の規範や語法も規範として確立しているのであれば、則した方が真意は伝わり易いが、逸脱する事で意外な効果を生む。
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  1. 2015/08/01(土) 12:45:08|
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◇一段落

 慣用句も一段落しました。最後に、一段落(ひとだんらく)は誤読で、「イチダンラク」が正しいとされる事を考えます。広辞苑「一段落(いちだんらく)」 項に、一つの段落、一区切り。物事が一旦、片付く事。「ヒトダンラク」は慣用的な読みとされます。しかし、これには疑問があります。例えば、上記、一区切 (イックセツ)とは読みませんし、広辞苑には「一(ひと)~」とされる言葉が他に幾つもあります。一つ一つ拾い順に見ていきましょう。

○一雨(ひとあめ)=一度の降雨。一頻り降る雨。*一雨一雨(ひとあめひとあめ)暖かくなる
○一息(ひといき)=一度の息つぎ、一呼吸(ひとこきゅう)。一休(ひとやすみ)。少しの時間。一気(いっき)。「いっそく」=僅かの息、一寸とした息。
○一切(ひときれ)=一つの切れ端。一片(いっぺん→ひとひら)。「イッサイ」とすれば、全ての事、全体、残らず等の意味。
○一言(ひとこと)=簡単に述べる、僅かの言葉、少し言う事。一つの言葉、一語(いちげん)。
○一入(ひとしお)=初めて染色液に浸ける事を初入(はつしお)、一入、一入と浸けて染め色を濃くしていく。幾度も染める事を千入(ちしお)。一層、一段等と共に「喜びも一入」。一入(いちしお)、二入(にしお)等とは呼ばない。
○一頻(ひとしきり)=(副詞的に用いる)暫くの間、盛んである様。
○一度(ひとたび)=一遍(いっぺん)、一旦(いったん)、同時。「度」は序数的なニュアンスを持ち、一度(ひとたび=いちど)、二度(ふたたび=にど)、三度(みたび=さんど)と、何れでも使われる。
○一時(ひととき)=暫(しばら)く。或る時、約2時間。「いちじ」=曾て、一頃、過去の或る時、その時限り。臨時、当座、同時、1回、1度、一時解雇、一時的、少しの辛抱。等、「度」と同様、何れにも使われる。
○一握(ひとにぎり)=片手で握る程の量。僅かの量。一掴(ひとつかみ)。敵等を容易に遣っつける事、この場合、二握(ふたにぎり)目はない。
○一晩(ひとばん)=日暮れから夜明け迄の間、或る日の晩。翌日、もう一晩の場合、二晩(ふたばん)
○一枚(ひとひら)=薄く平らなもの→一片(いっぺん)、花弁のひとひらひとひらは、数を数えるわけではない。
○一巻(ひとまき)=一度巻く。一族・同族。一巻物、一本。巻数一つ。一つの事。一式。「いちまき」=一巻子本(いちかんすぼん)・絵巻物。一書物の全内 容。(事物の)一部始終・一切・全部。「いっかん」=巻物・フィルム等の一つ。第一の巻。等、動詞と名詞で、「度」と同様、何れにも使われる。
○一目(ひとめ)=一度見る。一寸見る。目の中一杯。物や景色が一瞬の間に見渡せる(一望)。一目惚れ。「 いちもく」=囲碁で、一つの地や石。一目散、一目瞭然、一目置く。
○一休(ひとやすみ)=少し休む。小休止。*一入(ひとしお)と同様、何度、休もうとも。
○一夜(ひとよ)=一晩(ひとばん)、或る晩、或る夜。夜中、終夜(よもすがら)。一夜妻(いちやづま/ひとよづま)。「いちや」=日暮れから夜明け迄。一夜城(いちやじょう)、一夜漬(いちやづけ)、一夜干(いちやぼし)。

 上記からすると、「ひとだんらく」は序数ではなく、一固まり(区画)を示唆し、後はありません。もし次ぎにも在るとすれば、一段落(ひとだんらくめ)とされます。一方、「いちだんらく」は、序数詞として順番や回数を示唆するので、後に、二(に)段落や三(さん)段落が予想されます。詰まり、「ひとだんらく」=一つの段落、「いちだんらく」=一つ目の段落と云う使い分けがあったと思われます。(了)

「いちげん」=一言居士は、兎に角、何事にも、自分の意見を云わなければ、気のすまぬ性質の人。一家言(いっか・げん)=その人独特の主張・論説。また、見識のある意見。
序数詞=数量を量り、順序を数えるのに用いる語。前者は1・2・3、1個・2個・ 3個の類(基数詞)、後者は1番・2番・3番、第1・第2・第3の類(序数詞)。順序数=〔数〕自然数には、物の順序を示す機能と物の個数を示す機能とがある。前者の場合の自然数を順序数、後者の場合を濃度・基数・カーディナル数という。序数。オーディナル数。
 
  1. 2015/08/07(金) 19:33:30|
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◇陳寿の認識

 「魏志倭人伝」では記述法にも様々な違いが在る。里程や日程で云えば、冒頭の倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑~(中略)。從郡至倭循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里と在り、最後に郡衙から此迄の総距離数を記載するが、狗邪韓国で船を乗り換えた後、始度一海千餘里至對海國、又南渡一海 千餘里名曰瀚海至一大國、又渡一海千餘里至末盧國の三国は、何れも国名の前に同里数で千餘里とする。また、上陸後、東南陸行五百里到伊都國も国名の前に五百里。次の東南至奴國百里と東行至不彌國百里とあり、陸行の場合、~余里としない。また、最後の二国で、その前者は「東南至」、後者は「東至」とする。次に南至投馬国水行二十日、南至邪馬壹国女王之都水行十日陸行一月は、最後に距離数(里程)ではなく、その総日数(日程)を記載する。
 此処では、原文の記述に順い用いられる漢字の語義や解字を見ながら、「至と到」「度と渡」「従と自」等の違いを鑑み、編者陳寿の思惑や意図を考えてみたい。先ずは、「魏志東夷伝倭人条」冒頭の下記の記述から始める。

  (A)従郡至倭循海岸水行歴韓国 乍南乍東其北岸狗邪韓(くぬがわに)国 七千余里

 上記、「其北岸~」を外洋船を乗り換えたからとする研究者や論者がいる。確かに沿岸航行と外洋航行の船は同じではないので、それも 一つの理由だろうが、伊都国でも「到」とされる理由は何か。「陸行」は末盧国からで、次の奴国と不彌国にも「水行」と云う記述はない。例えば、伊都国が特 別有力国だったとしても「南邪馬壹国女王之所」と、女王国の都に着く事を「至」と記した理由は何か。一説に、魏使は伊都国迄は行ったが、邪馬壹国には行ってないからとする。しかし、これも対海国・一大国・末盧国に「至」が使われる事を説明しなければならず、下記の記述から魏帝の勅書と金印や下賜品を携えた魏使も女王に詣でたとせざる得ないと思う。

   王遣使詣京都帯方郡諸韓国 及郡使倭国 皆臨津捜露傳送文書賜遣之物 詣女王 不得差錯

 狗邪韓国の「到」が船を乗り換えたからとして、そこから伊都国迄の国々を通説の比定地とし、末盧国からの陸行後、伊都国から奴国や不彌国迄を水行したと しても、女王卑彌呼の頃、平均気温が一度近く高く、縄文海進に近い状態だった。福岡県の博多湾も現在より内陸部迄、浸水し、その西側の糸島半島は繋がって おらず、満潮時には水道があった。伊都国の比定地が糸島半島基部の南側だったとすれば、末盧国で河川水行用の平底船に乗り換えて従者に曳かせて河岸部を陸 行するよりも朝鮮半島西岸と同様、沿岸航海用船に乗り換えて潮流と潮汐を利用して東へ水行した方が合理的だろう。更に、狗邪韓国で沿岸航海用船から外洋船 に乗り換えたと云う事は、次項 (B)始度一海と云う記述で判断できるので、「到」とされた理由は別に在ると思う。尚、手持ちの漢和字典に拠ると、「至」「到」は下記の如く在る。

   「至」=(解字)矢+大地、放った矢が落ちた地点 → 或る所から至る迄の道程や経緯に重点
   「到」=(解字)至+刂(人)、到着地に人の居る事を表す → 目的地として到着した所に重点

 上記と、(A)倭~~云々から、東南方とした倭人系海民の領域へは、帶方郡衙から郡治下の韓国を歴て狗邪韓国迄の沿岸部に於ける里程や日程、移動方等、魏使にとって既知の情報に従い到った。その北岸狗邪韓国は中華思想から外れた東夷の国々へ向かうための基地で、南に方向を転換すると云う意図で使われる。また、魏使には、倭人海民が持つ渡海方法や距離感、正確な地理的情報が得られると云う認識があった。

南至=「到其領域北岸」とする最大の理由を、この始点とした。「至」=始点から終点の経過に重点があるとすれば、何れも領域内の水行や陸行の全行程、狗邪韓国~邪馬壹国(水行三千餘里+陸行二千里=五千餘里)、狗邪韓国~投馬国(水行六千餘里)を日程として示唆したと考えられる。また、自郡女 王國、萬二千餘里は、帯方郡衙~狗邪韓国(七千餘里)と狗邪韓国~邪馬壹国(五千餘里)=萬二千餘里と全里程を示唆した。尚、帯方郡衙から狗邪韓国迄の全 日程は水行一月弱(25日程)で、邪馬壹国から魏の京都「洛陽」迄、6月に出て、12月に帰路に就いたと推測される記述が在る。帶方郡から洛陽迄、約 1500~2000㎞(萬五千里~二萬里)を黄河沿岸部の水行、20日×3=60日(二ヶ月)、全体で、二ヶ月+25日+10日+一ヶ月=四ヶ月強で到 着、一ヶ月程で遣使としての役目を果たした。おそらく、季節風を利用した半年の日程として良い。
至=東南至奴国百里や東至不彌国百里の如く、里程が文末にされると仮定文となり、実際には向かっていないとする論者もいるが、それでは、奴国は方向と距離「東南至奴国百里」とし、不彌国でも同様に方向と距離だが、「東至不彌国百里」とされる理由が判らない。おそらく、これが、東南伊都国五百里とされた理由で、伊都国を分岐点にせざる得ない。其北岸狗邪韓国とt違い、東南方向から東への分岐点になる。
東夷=中国大陸東岸の蛋民(河川民)や沿岸航海民も東夷と認識され、広東省等大陸東南部の「粤」と同系会稽の人々はも含まれる。尚、魏と交戦状態だった遼東太守の公孫氏は呉の海民と繋がりがあったとも云われる。
  1. 2015/08/14(金) 20:13:25|
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◇魏帝の思惑

 『「邪馬台国」はなかった』の著者古田武彦氏は、郡至倭海岸水行~韓国と、下記、「魏志」の記述から魏帝の威厳を示すために韓国領内を狗邪韓国迄を対角線上に陸行したとする。何れにしても半島南東部に向かった事に違いはないが。

  (1)八月、帝、遂に舟帥を以て、譙より(自)渦にいて淮に入り、陸道にい徐に幸す。
  (2)遂に歩従して卞水(べんすい)に到る。水深くして渡りえず、洪、水にいて船を得る。
  (3)太祖、白馬を祓いて還り、輜重(しちょう)を遣わし、河にいて西せしむ。

 上記の三つは順に以下の如く理解する。(1)陸行以外に方法が無かった等の理由で、淮から陸道で徐に幸す。(2)歩いて到った卞水の流れが深かったので 川縁で船を得た。(3)何らかの理由で太祖は陸道を安全祈願した白馬に乗って還り、代わりに輜重に水行か、河川沿道を陸行させた。
 何れの場合も水行(乗船)と陸行(徒歩・乗馬等)と判る示唆があり、況んや、「循」や「従」とするが、「歴」はない。これをして「倭人伝」の記述を韓国からは陸行したとできる理由が解らない。
 例えば、天皇皇后両陛下は慰霊の為に南太平洋の島々に至られ、激戦地を歴訪されたとした場合、今ならば、飛行機だろうが、一昔前は、船旅で島々を巡っ た。詰まり、歴韓国乍南乍東~陸行~とされない限り、「循」=順う・巡る、「歴」=転々と彼方此方にと云う漢字の語義に拠り、直線的な二点間の動きを表す 「経」に対し、暦と同源「歴」は転々とした動きで、文脈的には帯方郡からリアス式海岸に循じて水行、彼方此方に碇泊しながら韓国を歴て南下、西南隅から東へ向かう。これが南西方向にへ行ったならば、「歴韓国乍南乍西」にされたと考える。更に、「東南陸行五百里到伊都國」から末盧国で上陸した事が判り、その後も水行とされないので陸行となる。
 もう一つ、循海岸水行韓国乍南乍東其 北岸狗邪韓国~に使われる「従~至」と「歴~到」の関係に拠り、韓国からの水行とは別ルートの陸行で狗邪韓国に到ったとしたり、朝鮮半島西海岸は暗礁等が 多く危険だったから陸上を通ったとする研究者や論者も居るが、当時、韓国領の馬韓・弁韓・辰韓は帶方郡に服属を強いられていたが、反対勢力は居なかったと は考えられず、魏帝の命を受けた魏使は勅書と金印等の下賜品を間違いなく女王卑彌呼に届けるため、最も安全で迅速な方法を用いたと思う。詰まり、そうした 水道を安全に航行する知識や技術を持った沿岸航海民だからこそ、その存在意義があった。例えば、九州東北部の玄界灘沿岸部も暗礁が多いので、宗像海人族の 水先案内でなければ危険だったと云われる。帯方郡は、そうした彼等を服属させていたからこそ韓国も支配できたと考える。
 河川航行や沿岸航海、外洋航海に従事する蛋民や海民が持つ能力は為政者にとって重要で、彼等を支配服属させる事は国力を充実させる重要な手段となる。当 時、魏帝にとって外洋航海民倭人を取り込み、繋がりを持つ事は戦略的にも大きな収穫だった。それが故、その支配権を認め、法外な返礼品で以て魏使を派遣し たと考えられる。領海と云う言葉が在ったかどうかは別として国域や領域とは陸地だけではないと知るべし。
 述べてきた理由で、何れも可能性は低いと思う。(A)を意訳すると下記の如くなる。尚、赤字は意訳部分とする(以下同)。

 帶方郡衙から半島西沿岸を(郡に服属する沿岸航海民の水道に)循じて水行、韓国を歴て(南西隅から南沿岸を)東へ水行し、(外洋船に乗り換えるための寄港地)倭人の領域北岸の狗邪韓国に到る。(郡衙から此処迄)七千余里。

半島東南部=「東南陸行」を「道標」等と称し、伊都國を博多付近としたいためか、歩き始めの方向と云う。こうなると邪馬壹国への道程や行程を述べる陳寿の意図ではなく、著者古田氏の意図や思惑になる。
渦=渦水、河南省通許県を源とし、安徽省で淮水に注ぐ。目まぐるしい動きのある所の意で、急流だったか、渦を生じるのかも知れない。
暦=太陰暦(陰暦→旧暦)で、新月~満月~新月と月の形状が日毎(約29.5日)に変化する事を基本として作られたもの。日本では明治初期迄、農事暦との関りからか、太陽暦=太陽と地球のとの関係をも含み持たせた旧暦(太陽太陰暦)が使われた。
循=循環器に使われる様に、血管等、決まった経路に従い移動する事を意味するので、沿岸の水道を使って航海したと考える。



 
  1. 2015/08/20(木) 15:45:39|
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◇支配者の思惑

 或る友人は、海民に就いて以下の様な疑問を投げかけてくる。

  (1)朝鮮半島や大陸東沿岸部の海民は渡海できないのか。
  (2)直接、東シナ海を渡海できないのか。
  (3)海民の彼等は、違う海域の渡海や水道の航海ができないのか。
  (4)海民や川民は、互いの海域や水道を取り合わなかったのか。
  (5)南東部の狗邪韓国ではなく、南西部の済州島では駄目だったのか。

  (1)(2)(3)の三つは何れも否だ。何故ならば、海民とは、長い間の経験則や知識に基き、自らの海域や水道に於ける独自の航海術を研いた。詰まり、それを持ち得ない人々、幾ら海民が船に乗る事はできても、上手く操舵し、安全に航海する術はない。これは大陸の河川を航行する川民や砂漠を往来する隊商等 も同様で、既得の経験則や知識を持つ。隊商の宿、航海の寄港地、悪天候に於ける避難所や避難港の位置を把握する等、既得の技術や知見が彼等の糧となり、支配者にとっても有意義な存在だった。
 当時の航海術に関する資料が殆どないので、推測する以外にないが、略間違いなく、季節風、潮流や干満等の自然の力を利用した。例えば、朝早く出港する漁 師には様々な理由があるのだろうが、一つには、午前中の干潮を利用して出港する事だろう。それはエンジン付の船でも燃料の節約になる。エンジン等の動力を 持たない当時では、当然の事だった。また、暗礁を避ける技術、季節に拠る風向、満潮時の水深や潮流の有無や流水の方向、その流量等も知識があって、初めて安全に航行できた。詰まり、狗邪韓国へ向かった最大の目的は、半島と九州の間に横たわる一海の瀚海を安全に渡るためとなる。
 (4)は、古来、そうした海域や水道では争奪戦が繰り広げられたのは間違いない。ただ、それを奪われる事は自らの存亡に関わるので、身体を張って阻止し たと考える。そうした戦いを経て、自ずと、A地点~B地点は誰某、B地点~C地点は誰某、C地点~D地点は誰某の領域といった暗黙の了解が生まれる。そう した安定が治安の悪化に因り、崩れ、再び、爭乱になれば、何方側に付くのか、その舵取りが重大事だった。但し、為政者が武力で従わせ、刺史の如き武人を帯 同させたとしても、何せ、船上と云う敵の腑所に入り、砂漠等の敵陣内を移動し、運搬するので、多勢に無勢、彼等の思うつぼ、都合の悪い事が多かったであろう事は推測されるので、或る程度の権益を認める事で服属させたのだと思う。
 述べてきた事から、遼東太守公孫氏との戦いの最中か、直後に、狗奴国に対しての後ろ盾を期待し、遣使して来た卑彌呼に魏帝(の側近)が、その支配権を認める金印「親魏倭王」を授け、多くの下賜品を持たせて返礼した理由が分かる。また、呉に服属していたとも云われる大 陸東沿岸部の航海民と遼東太守公孫氏には繋がりがあったと云われる事からも、魏帝には、文字通り、渡りに船で、半島からの渡海術を持つ倭人海民を服属させる事が孫権の「呉」に対する後方支援や抑止力となり、引いては狗奴国や呉に服属する海民、大陸東沿岸部や南西諸島を往来する航海民を服属させる事も視野にあったのは間違いない。国の支配者は、そうした布石を一つ一つ打ちながら国力の充実を図り、支配力を強めたのだと思う。
 (5)は、朝鮮半島南西部の木浦等から沿岸の島々を経て済州海峡を渡海後、済州島(耽 羅)から五島列島迄の間、手持ちの地図を見る限り、浮島が見えず、この海路があったのかどうかは判然としない。当時、外洋を一日で航海する距離を千余里 (約100㎞)とすれば、少し厳しい航路になるの確かで、釜山付近から対馬、壱岐、松浦と云う航路が遥かに楽だったと思われる。

東沿岸部の航海民=彼等も呉との関係を脱解する目的があったのか、公孫氏は魏から独立し、王たらんとした。呉は魏に対する後ろ盾とする等、三者の思惑は合致した。
済州島=「魏志東夷伝韓条」又有州胡、在馬韓之西海中大島上。其人差短小、言語不與韓同。 皆髠頭、如鮮卑、但衣韋。好養牛及豬。其衣有上無下、略如裸勢。乘船往來、市買韓中。この州胡の比定地は済州島か、ソウル近郊の江華島説がある。私見で は、ソウルの南、泰安半島とした。後者、二つの何れかであれば、済州島の記載はない事になる。火山島の済州が、当時、どうだったのか知る由もないが、人が 住めない状況だったのかも知れない。中国の元朝時代は馬場にされた。李朝時代は政治犯の流刑地で良く難破した。当時でも飲料水の確保が難かったと云われ る。
 「天智紀」秋八月、遣達率答[火本]、春初築城於長門国。遣達率憶礼福留達率四比福夫於筑紫国築大野及椽二城。耽羅遣使来朝。これも朝鮮半島南岸部を経て九州へ渡来した。尚、遣唐使は平戸付近の生月島とは別に、鹿児島県坊津からも出港したと云われ、これは南西諸島を経て台湾から大陸東海岸を伝った。
耽羅=耽羅=済州島に疑問がある。「旧唐書」劉仁軌傳(665年)麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟・耽羅倭四國 酋長赴會。「隋書倭国伝」明年上遣文林郎裴清使於倭國。百濟行至竹島南望耽羅國經都斯麻國迥在大海中。又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國=度る百済、南に耽羅国を望む竹島とは、朝鮮半島南西部の珍島か、それとも彼の竹島か。また、遙か大海中にある都斯麻(つしま/としま)国を経て、東側の一支国も壱岐ではあるまい。 
  1. 2015/08/27(木) 16:39:01|
  2. 5.思惑と意図
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