見まごう邪馬台国

◇「自」と「從」

   ここで序でに、今迄、述べてきた「自=相対より主体への動き」、「從=主体から相対への動き」と云う違いを考え併せ、「三国志魏書第一巻」に於いて二つの漢字を使う文を読み下してみたい。尚、自(みずか)ら、從(したが)うとされる場合も、本来、同じニュアンスだが、ここでは除外する。

 (1)公曰「尚大道來、當避之。若西山來者、此成禽耳」。尚果循西山來、臨滏水爲營。夜遣兵犯圍、公逆撃破走之、遂圍其營。
 公(太祖曹操)曰わく、「袁尚が、自身の居所(鄴?)から大道(官道?)に従い来ても、(大軍なので)これをやり過ごせ。若し、西山の道に循い巡り来たならば、(少数なので)これを必ず虜(擒=とりこ)にせよ」。果たして、尚は、西山の道に循い廻りきて、滏水に臨み屯営する。夜陰に紛れて兵を遣わし、囲みを侵犯するので、逆に公(太祖曹操)は撃破して、これを走らせ、遂に、袁尚の営を囲む。

 (2)興平元年春、太祖徐州還。初、太祖父嵩、去官後還譙。董卓之亂避難瑯邪爲陶謙所害。故太祖志在復讎東伐。
 興平元(194)年春、太祖は、遠征先の徐州より還る。初め、太祖の父嵩、官を去りて後、生国の予州沛国譙に戻ったが、董卓の乱が起こり、山東省東南部の瑯邪(ろうや)に避難するが、陶謙の害する所と為る。故に太祖の志、讎(あだ)を復す事に在り、東伐す。この場合、曹操は徐州より還った譙に於て、父嵩が瑯邪に遷居した後の経緯を知り、讐(あだ)をなすと誓い、東伐する。*瑯邪(ろうや)は同省「諸城」東南にある山名。

 (3)張濟、關中走南陽、濟死。從子繡領其衆。
 張濟、関中より南陽郡に走る。濟は死に、その從子の繡(甥)が衆を領す。これも張濟が、その居所の関中より、逃げ還った荊州南陽郡に於て死んだとなり、その後、從子の張繡が南陽郡の衆を領す。これも前項と同様、居所より移動し、既に到着している。

 (4)公謂諸將曰「吾降張繍等。失、不便取其質。以至於此。吾知、所以敗。諸卿、觀之!今已後、不復敗矣」。遂還許。
 公(太祖曹操)、諸將に謂ひて曰く、「吾れ、張繍等を降し、失(あやま)って其の質を取るを便(よし)とせず。以てこれに至る。吾、敗るる所以を知る。諸卿、観じよ、今より已後、再び、敗れず」と。遂に許に還る。詰まり、誤って人質を取らずに敗れた時より、この方、もう、こんな失敗は繰り返さないとなる。尚、許(もと)とすれば、今から人質を取らずに敗れた地所(時点)に還るとも読み解ける。

 (5)袁術敗於陳、稍困。袁譚、青州遣迎之。術欲下邳北過、公遣劉備朱靈要之。
 陳琳との戦に敗れてよりこの方、袁術は次第に追い込まれており、長子の袁譚は(居所の⑥青州より、(袁術の居所に)人を遣わして迎えさせる。袁術は、徐州の下邳からの道に従い北に過ぎんと欲す。それを知った公(太祖曹操)は、劉備・朱靈を遣はして要所を固めさせる。となる。この例文では、「自=時間経過と移動距離」、「從=随従」の典型的な用法として使われる。

 上記の何れの「從」と「自」も述べてきた用法で以て使われると思う。もう一つ以下の文章の「自」は、どの様に読み下したらよいだろう。

 (6)天子之東也、奉、梁欲要之不及。冬十月公、征奉。奉、南奔袁術。遂攻其梁屯、拔之。
 この前段、建安元年秋七月、楊奉・韓暹(かんせん)、天子を以て洛陽に還り、奉、別れて梁に屯すと在り、天子、東(許)に遷居するや、楊奉、司隷河南尹(予州)の梁より之を要害にせんと欲し、及ばず。冬十月、公(太祖曹操)、奉を征し、奉、南して袁術に奔ると、遂に、曹操は梁の屯営を攻め、これを拔く。と読み下される事が多いが、楊奉自ら、梁、これを要害として欲するも、及ばずと読み下した方が良いと思う。

滏水=滏陽河(ふようが)は、中華人民共和国河北省南部から中部を流れる河川のひとつ で、海河水系西南の支流に属する。曾て、滏陽河は水量が多く邯鄲から天津市や北京市等へ向かう水上交通の重要な幹線であった。邯鄲市峰峰鉱区にある太行山 脈の滏山(ふざん)南麓に発する。源流域には元宝泉、黒龍洞泉、広盛泉等、72ヶ所の泉が湧出しており、これらが合流し、滏陽河となる。河北省南部の邯鄲 市、邢台市、衡水市を縦断し、滄州市の献県で山西省の五台山北部から流れる滹沱河(こだか)と合流し、子牙河(しがが)となる。
父嵩=裴松之が注に引く書(裴注)に拠れば、養子「嵩」は、夏侯氏の出とあり、夏侯惇 の叔父とする。漢高祖の武将に夏侯嬰とあり、滕の県令となった夏滕公と呼ばれた。尚、夏后(夏王朝の母系?)を出す諸侯=夏侯か。夏=商殷の前にあったと される中国最古の王朝。禹が舜の禅(ゆずり)を受けて建国したと伝わる。都は山西省安邑等。BC21~BC16世紀頃迄続く。桀(けつ)に至り、殷の湯王 に滅ぼされたという。殷に先行する時代の都市遺跡が夏王朝のものと主張される。
予州沛国=沛国は前漢高祖劉邦の生国。現在の江蘇省沛県とされるが、豫州は古代中国九州の一つ。河南省の風土がのんびりと広いところから命名された。「沛」=草の生えた沼地、ぱっと勢いよく出て拡がる様とある。
從子を甥(⇔姪)とするが、当時、漢字がなかったのか。何故か、その漢字を使わず、「従う子」とするには理由があるだろう。曹操の祖父曹騰と同様に張濟にも子がなかったのか、養子になったとも考えられる。「常侍」とは常に側近に侍い奉仕する。
許=鄭に滅ぼされた国。今の河南省許昌付近とされる。鄭=中国春秋時代の国。周宣王の弟友(桓公)を祖とする。今の陝西省渭南市の地から河南省新鄭市に移る。韓の哀侯に滅ぼされた(前806~前375)。
青州=古代中国、禹貢(うこう)の九州の一つ。今の山東省北部と遼寧省遼河以東とある。
徐州(Xuzhou)=古代中国、禹貢(うこう)の九州の一つ。今の山東省南部、及び江蘇・安徽省北部の地。江蘇省北西部の都市。京滬(けいこ)・隴海(ろうかい)両線の交わる交通の要衝。古く楚の項羽が都を置いた。
奉、梁欲要之不及=冬十一月公南征至宛(冬十一月、曹操自ら南を征し、宛てに至る)。公將東征備(曹操は自ら東へ向かい劉備を征伐)。紹軍破後、發病歐血、夏五月死(袁紹自ら、軍を突破した後、病を發し血を歐き、夏五月に死す)等と同様。




スポンサーサイト
  1. 2015/10/02(金) 15:46:14|
  2. 5.思惑と意図
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇瀚海と一海

  (C)又南渡一海 千余里、名曰瀚海 至一大(いた/えた)国

 (B)對海国の「始渡一海」と違い「一海」は、又(再度、外洋船で) として方位を示す。尚、前項同様、その距離は千余里とする。また、伊都国が常治する一大率から送られた對海国の大官卑狗(神祇官?)と副卑奴母離(武官) と同名称だが、官卑狗(文官?)と副卑奴母離と在り、對海国と同様に副卑奴母離が荷物や文書を監察・検察が行われ、内容を記録させたと考える。また、狗邪韓国と對海(對馬)国間の一海(朝鮮海峡)には名称はないが、この一海の名称は瀚海(かんかい)と特筆する。(C)を意訳すると下記の如くなる。

  また、(對海国から外洋船で)南へ渡る一海、名は瀚海、千余里程で一大国に至る。

 一大国の比定地を通説の現長崎県の壱岐(いつき→いっき)島とすれば、南ではなく東南にすべきではと云う研究者や論者もいるが、先述した様に編者陳寿は、倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑~(中略)。詰まり、帯方郡東南方面の九州北部沿岸部や日本海沿岸部の山陰や北陸付近迄にも拡がる倭人の領域中、邪馬壹国と伊都国連合に服属する倭人系外洋航海民の對海国や一大国、更には末盧国迄の一海全体が「瀚海」と云う名称で、郡衙から見て東側ではなく南側に属すと云う認識と考える。その領海や海道の往来に従事する海民の動向を監察、検察する役目を持つ一大率の本役所が特置されていたために伊都国(ィアタ→ヤタ)と近似音の一大(ィエタ)国とされたとも考えられる。
 尚、先に邪馬壹国と伊都国連合側に服属していた狗邪韓国を「クヌガワニ」と訓じたが、「瀚」も「韓」と同音[ɦan][ɦan][han]、海[məg][hai][hai]とあり、瀚海(ファヌマ→ゥアヌマ→ワニマ)として良い。
 また、「女王國東渡海千餘里、有國皆倭種。有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。有裸國黑齒國在其東南、船行一年可至」と云う記述とも繋がり、倭人は、その東海域と邪馬壹国と伊都国連合に服属する南海域を併せた領海中の山島に依りて暮らすと認識した。それは邪馬壹国伊都国連合の傍国の記載後、男子無大小、皆黥面文身~。計其道里、当在会稽東治之東とする事でも判る。
 この東治(東冶?)の比定地は判然としないが、会稽を中国浙江省杭州市北の山として、この東側では南西諸島や種子島付近になる。これは女王国だけで はなく、倭の領域が概略で、その北や南側ではなく東側と云うニュアンスで述べるのであれば問題ない。更に、夏后少康之子封於会稽~ 云々=夏后少康の子が会稽に於て封ぜられ、蛟(みずち)からの害を断髪と文身(入墨)で避けさせたと云う記述に比して此処で述べられる人々の風俗も大陸東南沿岸部の会稽付近に広く住んだとされる蛋民や海民の風俗に似ると云う意識だろう。これも大陸南東の沿岸航行と河川航行を生業とする蛋民系鰐(わに)等と 外洋航海の海民系陸鰐との関連を示唆したと思われる。
 尚、一大国の比定地、長崎県壱岐郡(現壱岐市)郷ノ浦町北側原の辻遺跡北西、同市勝本町の香良加美(からかみ)遺跡は周囲に堀を廻らした環濠集落で、鉄の精錬遺跡の他、漁労具、鹿の骨で占う卜骨、楽浪郡の古墓等で出土する漢式土器の楽浪土器や朝鮮半島の三韓土器等も出土した。その郷ノ浦町射手吉触(いてよしふれ)付近に一大率の役所が在ったかと考える。
 「論(微子)」箕子がと為ると在り、卑彌呼の前代、奴国連合と思しき時代の支配者には箕子朝鮮の亡命王族等が関わり、その後、邪馬壹国伊都国連合の支配者層には、前漢に滅ぼされた衛氏朝鮮等、朝鮮半島からの渡来民(製鉄遊牧騎馬民)が関わったと考える。

いつき→いっき=伊都国の比定地を佐賀県多久市と同県東松浦郡(現唐津市)厳木(きゅ うらぎ→いつき→いっき)町付近とした。また、福岡県前原市の怡土城跡は、怡[diəg][yiei][i]、土[t`ag][t`o][t`u]、伊都 が「ヤァタ→イェィト→イト(イツ)」と訓じられた後の用字で、隋唐期以降となる。
こうした「又」「復」「亦」等、同訓で意味の違う漢字の使い方を、次項から取り上げて考えてみたい。
東治(東冶)=浙江省紹興市(会稽郡東治?)、福建省福州市(建安郡東冶?)。会稽郡の一部が建安郡になった等の異動があったとされる。
倭の領域=文脈から瀚海を領海とする倭人と東千余里の倭種、更には、そこから東南に船行一年とされる裸国黒歯国の位置関係も含まれる。尚、海岸線や島嶼以外の山地中腹には縄文系狩猟採集民が住んでいた。
鹿の骨で占う卜骨=邪馬壹国伊都国連合の前代、奴国連合(委奴国)は亀卜を行ったとされる殷王朝、最後の「紂王」の叔父胥余が朝鮮に建国した箕子朝鮮の王族に関わりがあるとした。
香良=加羅(伽耶)とすれば、古代、朝鮮半島南東部にあった国々。諸小国全体をいう場合もあり、特定の国、金官伽耶・高霊伽耶等を指す場合もある。任那(みまな)とも云われる。562年新羅により併合された。加美(かめぃ→かみ)=亀石(長崎県壱岐市勝本町百合畑触)。
楽浪土器=沖縄県読谷村で出土した外来の「楽浪系土器」、滑石片を混入するのが特徴 で、本島の四遺跡から出土。楽浪郡とは、BC108年漢王朝の武帝が朝鮮半島北部に置いた支配拠点で、そこで製作された土器との関連が説かれてきたが、最 近、BC4~3世紀頃の春秋戦国時代のものと云う指摘があり、東京大所蔵の中国東北部の遼東半島の牧羊城遺跡で出土した土器の口縁部に貼り付けた粘土帶の 特徴等が似る。
 牧羊城=中国遼寧省大連市旅順区南西の老鉄山西麓にある戦国時代~漢代の古城址。前漢代に置かれた遼東郡沓氏県治に比定される。
衛氏朝鮮=燕の官吏や武官か、燕人の衛満が興したと伝わる。秦は、国 の公子商鞅(商殷に関係するか?)を用いて改革(変法)を行い富国強兵に成功し、一躍強国にのし上がった。国の経済の基を農業におき、農地の開拓を押し進 め、人民を五家・十家の単位に分け、治安維持に共同責任をとらせた(什伍の制)。「衛」=周代、今の河北河南の両省に跨る地にあった。殷王朝中心地、殷の 滅亡後、周王武が弟の康叔を封じた。
 燕(えん)=古代中国の戦国七雄の一つ。周武王の弟奭(しょうこうせき)、その子、匽侯旨(えんこうじ)が封ぜられたとされる。今の河北と満州南部や朝鮮北部を領して現北京の「薊」を都とし、43世で秦の始皇帝に滅ぼされた(?~前222)。当初、山東省付近の「奄(えん)」に封ぜられたとも伝わる。また、武王の子旦の長子伯禽は、魯(孔子の出生地)に封ぜられたともある。4世紀初~5世紀初に架けて鮮卑族慕容氏が建設した前燕・後燕・西燕・南燕・北燕等。
 召公奭=周初の宰相。奭は名。文王の子。武王や周公旦の弟とされるが、殷代、河南西部で勢力を揮った召族の出身。周に協力し、成王即位後、太保となり、陝西を治めた。「」=お呼び寄せになる。お取り寄せになる。召し出して役に就かせる。お命じになる。結婚の相手となさる。寵愛なさる。上からの命で捕らえる。囚人とする。上からの命令で…と呼ぶ。食う、飲む、買う、取る、(腹を)切る、着る、(風邪を)引く等の尊敬語。







  1. 2015/10/11(日) 09:36:26|
  2. 5.思惑と意図
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇「又」字

 先の岩元正昭氏は「又」に就いて以下の如く論じます。【「又」字には二種類の使用法がある。第一使用法は文章作成中、既に一度使用済みの文言を、後に再使用したい場合、その使用したい箇所に「又」字を置く事により、件の文言は、その位置に甦る「又」字が、その再使用したい語の代替詞として記入されるので ある。第二使用法は同語が立て続けに三度使用される場合、二つ目以降のそれを「又」字で代替する法を言う。以上に述べた「又」字の二つの使用法は、古代中 国人の文章の読み書き上の決まりであり、語法である。では、どのような経緯で「又」字が、このような役割を担う事になったかである。これを説く漢籍に未だ 出会わないので、筆者の憶説を述べておく。
  『説文解字』によると、「又、手也。象形、三指者、手之列多、略不過三也」とあり、段注に「此即今之右字」とある。つまり、「又」とは「右」の事なのである。右側に在るものとも解せる。因みに二字の発音は同 「ゆう」である。一方、二つの使用法に述べた様に「又」字は、既に一度書き終えた語句の代替詞である。既に書き終えた語句とは、漢文に於いては、常に 「又」字の位置より、右手に在る事になる。随って「右」、つまり、「又」字を代替の辞に用いたと筆者は考える。「又」字が古代漢籍に登場した場合、反射的に心に用意する事は、その「又」字に代替を託した「字」や「語」は既に読み終えた文章の中に形と意味を持って実在していると言う事である。これを被代替語 と名付けて置こう。】

 漢和大辞典「又」項、庇う様に出した右手を描いた象形文字で「右」の原字。字統「又」=右手の指を出している形で、同音「有」の語義もあり、上古では「助ける」「庇う」とも在り、庇う様に覆い被す事で、「更に」「その上」の語義になる。また、同訓「復」=元に戻す→再度、繰り返す→往復。「亦」=人の両手と両足の間の象形、詰まり、左右や上下、此方と彼方等、二例を上げ、一方か、その反対か、その何れをも示唆する。

 更に以下の如く続ける。【文章中、「又」字に遭遇し、その被代替語を探す目安は、「又」字の次に記されている「辞」が何かを先ず確認する事である。被代替詞は概ね「又」字の次字と同じものの前に在る。第二使用法の「又」字と「行」字のコンビネーションが放射式行程を表現する典拠。
 『隋書』琉求國伝、次の叙述に、「至高華嶼、又東行二日至句辟嶼、又一日便至琉 求」。この一句に第二使用法の二つの「又」字が見える。何れも高華嶼の代替である。「方位」語の次に直接する「行」字が見える。これにより「句辟嶼」の先 に行程がない事を告げている。以上により、高華嶼より、句辟嶼、琉求の二方面の放射状に行程が描かれる事になる。】

 中国東南部福建省泉州付近とされる義安から高華嶼への方向と、その日程、最後の琉求にも方向が記されない。私見では、『隋書』の編者や朝請大夫張鎮州にとり、高華嶼への東向きの航路は既知の情報で、その意識は従わない東夷の流求にあった。それが故、之(=流求)を撃つとされる。
 海中に小山が集まりできた群島=「嶼」とすれば、高華嶼は台湾北部の島嶼か、先島諸島や尖閣諸島付近、そこから渡海2日の句辟嶼は沖縄本島、1日便の流求は奄美大島で、台湾から転々と飛び石の如く続く南西諸島(奄美琉球列島)が東シナ海に浮くと云う認識だろうか。
 自義安浮海撃之、至高華嶼、東行二日至句辟嶼、一日便至流求=義安より、(東側の)海に浮く、これ(東夷の流求)を撃たせた。(東の)高華嶼に至り、(そこより、更に東行二日程で句辟嶼に至り、(そこより、更に東行)一日程の便で流求に至る。と読み下す。

「ゆう」=「漢和大辞典」右=口+右手の象形(音符)の会意文字、庇う様にして持つ 手。又(右手)→有(庇って持つ)→佑(庇う・たすける)。又=組んで支える手。補佐=側から支える等と同系字、又・右・有[ɦıuəŋ][ɦıəu] [iəu]とある。尚、左[tsar][tsa][tso]=左手+工(しごと)の会意文字で、工作物を右手に添えて支える手と在る。
隋書=二十四史の一つ。隋代を扱った史書。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。特に「経籍志」は魏晋南北朝時代の図書目録として貴重。唐の太宗の勅撰により魏徴等により、636年成立。志30巻は656年成立後に編入。
 大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風靜、東望依希、似有煙霧之氣、亦不知幾千里。三年、煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻倶往、因到流求國。言不相通、掠一人而返。明年、帝令寬慰撫之、流求不從、寬取其布甲而還。時倭國使來朝、見之曰、此夷邪久國人所用也 帝遣武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州率兵 自義安浮海撃之至高華嶼。又東行二日至句辟嶼、又一日便至流求。初、稜將南方諸國人從軍、有崑崙人頗解其語、遣人慰諭之、流求不從、拒逆官軍。稜撃走之、進至其都、頻戰皆敗、焚其宮室、虜其男女數千人、載軍實而還。自爾遂絶。
高華嶼=棉嶼(めんかしょ)=台湾本島の北東の島。彭嶼(ほうかしょ)=台湾本島の北東、基隆市沖約56kmの東シナ海に浮かぶ島で北方三島の一つ。瓶 嶼(かびんしょ)=棉花嶼・彭佳嶼とともに北方三島と呼ばれる。蘭嶼(らんしょ)=台湾本島の南東沖にある周囲40kmの孤島で、台東県蘭嶼郷に属する。 曾て紅頭嶼(こうとうしょ)と呼ばれた。台湾原住民の一つで、フィリピン・バタン諸島より移り住んだとされるタオ族の四千人程が暮らしている。亀山島(きさんとう)=台湾宜蘭県頭城鎮が所管する島嶼。火山島であり、太平洋上に浮かぶ姿が亀に似ている事に拠る命名。
句辟嶼=本字は、句(+黽)辟(+黽)嶼で、元(+黽)辟(+黽)嶼ともある。尚、前者の場合、句(=節/括)+辟(=傾/君)+黽(=努)と云う語義から推測すると、「従わない飛び島の地」。一方、従った「高(相手を尊ぶ)華(礼文の盛 んな地)」と、従わない「流(礼文の普及/海路)求(もとむ)」。
便=沖縄へは一日一便等と使われる一航路と考える。往路は対馬海流に逆らう朝鮮半島~ 対馬~壱岐~松浦の航路と違い、この場合、黒潮の流れに循じ、全4、5日便で、潮待ちや風待ち、休息日等を合わせ、一週間から十日の日程と考える。裸国と 黒歯国の場合、黒潮の流れに乗る。黒潮には、南側に反対方向に向かう流速0.3ノット程度の弱い流れが観測されており、これは黒潮再循環流と呼ばれる。帰りはこれを利用したと考える。
南西諸島=鹿児島県坊津より出港した遣隋使や遣唐使も、この逆航路を辿った。連日(二日間)の沖縄本島への航路では交代要員が乗船したか。
義安=中国福建省南東部の港湾都市泉州付近か。マルコ=ポーロはザイトンの名で西洋に紹介。唐代から元代迄、南海貿易の中心として栄え、華僑の出身地としても知られる。または、中国福建省都福州、閩江(びんこう)下流に位置する。古来からの貿易港の南側。





  1. 2015/10/17(土) 12:52:16|
  2. 5.思惑と意図
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇「又」と「復」

 「三国志魏書第一巻」に於て、「又」、「復」の字が使われる文章を読み下してみる。

 (1)袁紹與韓馥謀、立幽州牧劉虞爲帝。太祖拒之。紹、又嘗得一玉印。於太祖坐中、舉向其肘。太祖由是笑而惡焉。
 袁紹、韓馥と共に幽州牧・劉虞(りゅうぐ)を立て帝にしようと謀るが、太祖、これを拒む。袁紹、その上、以前にも、一玉印を得て、太祖が座る中、その肘に向けて挙げる。太祖、笑顔で応えたが、これにより袁紹を悪(にく)む(~に良い印象はない)。
 (2)太祖要撃晆固、撃匈奴於夫羅於内黄。
 太祖は、晆固を要害で待ち伏せして撃ち、更に、匈奴の於夫羅も内黄に於て撃つ。
 (3)今、不若畜士衆力。先爲固守、彼欲戰不得、攻不能、其勢必離散。
 今は兵士達の力を畜えておかなければならない。先ず、固く守る策を為せ。それに戦おうとしても良い結果は得られず、その上、攻めることもできず、その士気は必ず失せてしまうだろう。
 (4)術走襄邑、追到太壽。決渠水、灌城。走寧陵、追之。走九江。
 袁術が、襄邑に逃走すると、太祖は追い太壽に到り、渠水を決して城に灌ぐと、袁術、寧陵に逃走する。更に、これを追い払うと、袁術は揚州九江に逃走する。
 (5)汝南潁川黄巾何儀劉辟黄邵何曼等衆各數萬、初應袁術。附孫堅。
 汝南潁川の黄巾は何儀・劉辟・黄邵・何曼等、各々数万を集め、初め、袁術に応じる。その次ぎに孫堅に附く。
 (6)陳宮等沮其計、求救于術勸布出戰。戰敗、乃還固守、攻之不下。
 陳宮等、その計を沮(はば)み、袁術に救いを求めた呂布に出戦を勧める。(呂布は)その上、この戦いにも敗れて還り、固く守り、(陳宮等は)これを攻めるも下せず。
 (7)備將關羽屯下邳、進攻之、羽降。昌豨叛爲備、攻破之。
 (袁紹に敗れた)劉備の將關羽が徐州下邳に屯営しているので、(曹操等は)再度、進攻して関羽を降す。昌豨が叛き、劉備に為(くみ)したので、更に、これを攻めて破る。

 (1)還到龍亢士卒多叛。至銍建平收兵得千餘人。
 還りて龍亢に到り、士卒の多くが叛したので、銍・建平に至り、離反した兵を收めて、再び千餘人を得る。
 (2)董卓之亂、避難瑯邪、爲陶謙所害。故太祖志在讎東伐。
 董卓の乱に難を徐州瑯邪に避け、陶謙の害する所と為る。故に太祖の志、陶謙に讐を復(かえ)す事、東伐する。
 (3)夏、使荀彧程昱守鄄城、征陶謙。拔五城、遂略地至東海。
 夏、荀彧・程昱を使い鄄城を守らしめ、再度、陶謙を征し、五城を下し、遂に、地を略(なら)して東海に至る。
 (4)二年春正月、公到宛。張繡降、既而悔之、反。
 二年春正月、公(曹操)、宛に到る。張繡降るも、既に、これを悔い再び、反く。
 (5)「~諸卿、觀之!自今已後、不敗矣」遂還許。
 「~諸卿、これを觀よ、今より已後、二度と再び、敗れず」と。遂に許に還る。
 (6)公之自舞陰還也、南陽章陵諸縣叛爲繡。
 公(曹操)、舞陰より還ると、荊州南陽と章陵の二縣が、再び叛して張繡に為(くみ)す。
 (7)呂布爲袁術使高順攻劉備。
 呂布、再び、袁術に為(くみ)し、高順を使(つか)い劉備を攻めさせる。
 (8)使登壘望之曰、「可五六百騎」。有頃白、「騎稍多、歩兵不可勝數」
 使い土塁に登り、これを望みて曰く「五・六百騎なるべし」と。暫くして、再び、白(まを)す「騎、(先より)やや多し、歩兵は勝り数えられず」
 (9)公謂運者曰「卻十五日爲汝破紹、不勞汝矣」。
 公(曹操)、謂ひて兵站を運んだ者に曰く「十五日を卻(却)りて汝が為に袁紹を破り、二度と再び、汝を労す事はないだろう。」
 (10)紹歸、收散卒攻定諸叛郡縣。
 袁紹、帰り、再度、離散した兵卒を收めて攻め、叛いた諸郡縣を定む。

「瀚海と一海」項、(C)南渡一海~は、述べてきた事からすると、「更に南へ渡る一海~」とした方が良いようです。此処で訂正します。
内黄=冀州魏郡、襄邑=兗州陳留郡、 予州沛国龍亢、予州沛国銍・建平、鄄城=兗州済陰郡鄄城、五城=益州広漢郡、宛=荊州南陽郡、舞陰=荊州南陽郡 


  1. 2015/10/22(木) 21:10:35|
  2. 5.思惑と意図
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇「復」と「亦」

 今回は、「三国志魏書第一巻」より、「復」と「亦」の字が使われる文を拾い読み下してみる。

 (1)蝗蟲起、百姓大餓、布糧食盡、各引去。
 蝗蟲(いなご)の起こり、百姓は大いに餓える。それでまた、呂布も糧食尽き、両軍、引き去る。詰まり、百姓(曹操)も、また、呂布もと云うニュアンスとして使われる。
 (2)公分營與相當、合戰不利。時公兵不滿萬、傷者十二三。紹進臨官渡、起土山地道。公於内作之、以相應。
  公(太祖曹操)もまた、袁紹と同様に軍營を分けて袁紹に対して相当る。この時、公の兵、一萬に滿たず、負傷者十人に二・三人なり。袁紹、再び、進み官渡に臨み、土塁を築き、塹壕を掘る。公もまた、袁紹と同様に分営の内に於て、これ(土塁と塹壕)を作り、以て相応ず。
 (3)榮見太祖所將兵少力戰盡日、謂酸棗未易攻也。、引兵還。
 徐榮は、太祖の將(ひき)いる所の兵は少ないが、力戦して日を尽しているを見て、未だ、兗州陳留郡酸棗を攻めるのは容易くないと謂い。撤退か、抗戦か二つに一つとして、兵を引き、還る。
 (4)袁紹雖有大志、而見事遲。必不動也。郭嘉勸公、遂東撃備破之。生禽其將夏侯博。
 袁紹が大志を有すと雖も、事を見るに遲いので、必ず動かないだろう。郭嘉もまた(曹操と同じ意見で)、公(曹操)に勧め、遂に東して劉備を撃ち、これを破り、その將夏侯博を生禽(捕虜)にしましょう。
 (5)公曰「夫、人孝於其親者、豈不忠於君乎!吾所求也」。以爲魯相。
 公(太祖曹操)曰く、「それ、人、その親に孝たる者、これもまた、君に忠ならざらんことがあろうか。吾れ求むる所なり」と。以て魯相と為す。

 最後に見てきた事を考え併せて、「倭人伝」以下の文章を読み下してみたい。
 (1)女王國東渡海千餘里 有國皆倭種。有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里有裸國黒齒國在其東南船行一年可至
 女王國の東を渡海する事、千餘里。再び、(同種の)国が有る皆倭種。更に、(倭種とは違う)侏儒國が有る。それは倭種の住む地域の南に在り、背丈が三四尺(1㍍前後?)、邪馬壹国女王が統治する地域から隔たる事、四千餘里(九州西沿岸部の水行12日程)。更に(侏儒國とは違う)倭種の裸国と黑歯国が有る。これもまた(先の倭種が住む地域から見て)東南方向に在り、を乗り継ぎくと、(往復)一年ばかりにて至る。

 尚、この裸国と黒歯国を小笠原列島付近かとしたが、上質の黒曜石が採れる伊豆諸島の神津島や恩馳島とも考えられる。「裸」=木も生えない岩ばかりの火山島、「黒歯」=黒曜石の刃物が採れる島と云う意味か。

 (2)其國本以男子爲王、住七八十年。
 本来、その国もまた、(狗奴国同様女子でなく)男子を王と為し。過去七・八十年を住まう。

 中国の古代王朝「商殷」、最後の紂王の叔父とされる箕子(奴)が朝鮮半島に逃れて建 国した箕子朝鮮が、周武王の弟とされる召公奭(せき)か、その子匽侯旨(えんこうじ)が封ぜられた燕の人「衛満」が建国した衛氏朝鮮に滅ぼされると、その 難を逃れて渡来した人々に拠り、男子の王を戴く奴国連合が成立する。その後、その衛氏朝鮮が前漢の武帝に滅ぼされると、逃れてきた人々に、(朝鮮半島と同様の状況)も乗っ取られ、巫女王を頂く邪馬壹国と男弟の摂政を輩出する伊都国連合に移行する。

 前回から述べてきた様に、「又」=庇う様に覆い被す事から「更に」「その上」。「復」=元に戻す→再度、繰り返す→往復。「亦」=左右や上下、此方と彼方等、二例を上げ、一方か、その反対か、その何れも示唆すると云う違いがあり、夫々が持つ語義に則して使われると思う。

官渡=官渡の戦は、中国後漢末期の200年に官渡、現在の河南省中牟付近に於いて、曹操と袁紹との間で行われた戦い。地名とされるが、本来、官(つかさ=役所)の渡と云う意味だったと考えられる。
倭種=一大国から千余里とすれば、相島、宗像大島や地島付近となり、後代、響灘を領海とした宗像海人と呼ばれた人々、更には、日本海の隠岐諸島や沿岸部迄、拡がっていたと考えられる。
侏儒國=インドネシア東部フローレス島で発見された身長1㍍前後の原人の系統とも云われる人々の後裔に比定する。島に住んだと在り、氷河期の食糧不足に因る人々の移動で、彼等も筏船等を使い黒潮海流に乗って漂着したと考えられる。例えば、 江戸期、日本人の平均身長は、140~150㌢前後だったと云われる。一方で、源(鎮西八郎)為朝は、180㌢以上あったとも云われるので、低身長の侏儒 系と始皇帝の兵馬俑に見られる高身長の人々の混血があった思われる。宮崎県都城市山之口町花木の王子山遺跡から縄文時代草創期の約1万3千年前の葱の根本部分(鱗茎)と、同時期の土器に蔓豆の跡とみられる窪み(圧痕)が見つかった。もしかしたら、彼等と関連が在るのかも知れない。
奴=「論・微子」箕子、これが奴に為ると記される。尚、狗奴国と対峙する様に奴国が最南端に位置する理由は、二国が奴国連合の盟主を輩出する一族だったが、奴国が邪馬壹国伊都国連合に靡き寝返っため、防人(さきもり)としての役目を負わされたと考える。




  1. 2015/10/31(土) 10:13:16|
  2. 5.思惑と意図
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0