見まごう邪馬台国

◇瀚海の末端

  (D)又渡一海 千余里 至末盧(まつら)国

 前項(C)南渡一海と方位を示したので、此処では、又(=更に南へ) 渡一海とする。前項と同様の千余里とあり、通説の比定地、松浦半島一帯では距離が合わないと云う研究者や論者も居るが、これは先述した一日(半日)で漕ぎ 渡れる相対的な距離で、松浦半島西側の伊万里川(有田川)や東側の松浦川河口奥に湊津が在ったとすれば、問題は無いと思う。また、この一海も狗邪韓国以南 の海域と同じ倭人陸鰐の瀚海(わぬま)で、外洋航海民の領海で、伊都国の派遣した一大(ィエタ→イタ→エタ)率の管轄となる。
 對海国に置かれた一大率の官吏や武官が外洋航海民と共に出向き差配した倭の領域北岸狗邪韓国と同様、官も副官も記載されない末盧国にも一大国から官吏や 武官が出向くか、伊都国から出迎えた官吏や武官が、末盧国で上陸した郡使や魏使に付き添い伊都国へ向かったと思われる。この国を通説の松浦半島付近とし、 この後の記述、浜山海居草木茂盛行不見前人~=海に浜や山が近く草木が繁茂し、前を行く人は見えず~からすると、おそらく、湾岸部には蛋民や漁民の船が係留され、半島海岸部は断崖絶壁で歩くのは無理だったと思う。また、「好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之」と云う記述から推測するに、外洋航海を担う對海国と一大国等の海洋民の出先機関と思しき狗邪韓国には沿岸航海民が住むが、末盧国は漁労を糧とする蛋民(あま)の国で、河川航行も担ったと考える。
 次項(E)「東南陸行五百里到伊都国」と云う記述から倭人の領海「瀚海」末端の国(一大国管轄)で、倭地とされる陸 (くぬが→くが)に上がり、東南方向の伊都国中枢へと向かう。常識的には末盧国から見て東南方向の伊都国へは東側の松浦川河口奥で上陸したと思うが、松浦 半島西側の伊万里湾奥から有田川、その東側の唐津湾奥から松浦川か、玉嶋川等を河川航行用平底船に大使や副使を乗せ、魏帝の下賜品等も載せて、河川沿岸の 従者に曳かせて遡上した。何れにしても末盧国から東南方向の伊都国は糸島半島基部の福岡県前原付近ではあり得ない。
 前出の古田武彦氏は邪馬壹国の中枢を博多付近とせんがため、「道標」等と称し、歩き始めが東南方向だったと呆れた説を繰り出す。また、東南へ向かうため、態々、松浦半島北端にする説もある。おそらく、伊都国は防衛と戦略上の理由で内陸部に在り、鬱蒼と茂った草木に囲まれた道程の高台に、使者や不審者の動向を監視するため武官が常駐する検問所や見張台(神籠石?)が在ったと考える。(D)を意訳すると下記の如くなる。

  また(一大国から外洋船で南へ)渡る一海(=瀚海)、千余里程で末盧国に至る。

 後段の南至投馬国水行二十日と南至邪馬壹国水行十日の起点を末盧国とする研究者もいるが、此処で沿岸航行用船に乗り換えたのであれば、管理する役所が在 りそうだが、官や副官の記載は無い。投馬国への沿岸航海用船の乗り換えが、一大国の武官等が常駐する役所が在った場所とすれば、松浦半島西側の佐賀県伊万 里市波多津町板木(いたぎ)・田島神社(宗像系)、津留主屋付近か、玄界灘を眺望できる長崎県松浦市御厨町板橋免(金比羅神社)・小船免付近だろう。投馬国の管轄とすれば、佐賀県東松浦郡北波多村(現・唐津市)恵木・徳須恵付近か、地図では伊万里湾側へ流れる河川は見えないが、唐津湾側には松浦川支流徳須恵(行合野)川がある。また、佐賀県伊万里市山代町の城山(西分黒髪神社)、長崎県松浦市今福町の城山(宮地嶽神社)、最北端の同市星鹿(ほしか)町(綿津見神社)の城山に見張り台や烽火台が在ったかも知れない。

一大(ィエタ→イタ→エタ)率=その後ろ盾の権威が瓦解し、彼等が領地から追われ、落 ち延び、俘囚となれば、矢作や鍛冶等の能力を生かした手仕事や、手にした刃物を使い屠殺等に従事せざるを得ず、差別される。穢多(ワイタ→ゥアィタ→ゥエ タ→ヱタ/アイタ→エィタ→エタ)との関連も考えられる。
陸(くぬが→くが)=陸(くが)=久賀・久我・古賀・古閑・古河(こが→ふるかわ)等の地名や姓氏は同源と考える。その漢字音は、古[kag][ko][ku] と賀[ɦag][hə][ho]に対して、閑[ɦan][ɦʌn][hian]と在り、「閑」の上古音は狗邪韓国や一大国で鰐(わぬ)と訓じた韓(かん)や瀚[ɦan][ɦan][han]と同音になる等、何らかの関連が考えられる。
 陸(をか)=雄処(⇔雌処)は、一方に対して高い事や突出する状態、「岡」「男鹿(をが)」「牡鹿(をぢか)半島」等は同源で、日本語では漢字音の「h」が閉口の「ウ」やK音に転音する事が多く、陸(をか)は、「hoka → uoka → oka(uka)」と転音。また、水辺の小高い所→河川の古い流れと云うニュアンスの陸(くが)は、「hoka → koka → koga → kuga」に転音した。銅鐸等に描かれる「鹿(宍=四支)」の漢字には「四角の米倉」と云う語義も在り、浮処(ホカノ→ゥオカノ→ヲカノ・ウカノ)→高床式米倉が、「紀」食神倉稲魂・「記」宇迦之御魂(うかのみたま)神に転音したか。*浮家=船の異称
 漁師や船乗りが、仕事を辞めたり、止める時には、陸(ヲカ)に上がる」と云うので、生活様式の違いからか、農耕民と水上生活者の海民や陸に上がった蛋民(河伯→河童)には抑揚や発音に違いがあったか。本来の言語に違いがあったのかも知れない。
古田武彦=先日、お亡くなりになりました。良きにつけ悪しきにつけ、多大なる影響を受けました。ご冥福をお祈りします。
松浦半島北端=こうした地点で下船して、態々、遠距離を陸行せずとも、沿岸航海用の船に乗り換えて「」に向かった方が合理的だ。尚、正倉院文書の大宝2(702)年、文武天皇期の戸籍に筑前国郡川辺里と見え、糸島半島基部は、川(水道)に拠って怡土(出)と嶋に別れていたか。
神籠石=オツボ山神籠石(佐賀県武雄市)武雄市街地の南、杵島山西麓小丘陵に在り、有明海側から見ると杵島連峰の蔭に隠れるので、有明海を意識したとは考えにくい。隣町の同県多久市と東松浦郡相知町と厳木町境に女山(おんなやま)と八幡岳(おとこやま=石清水八幡宮)。
 帯隈山神籠石
(佐賀県佐賀市)佐賀市北東部、標高178mの帯隈山頂付近を頂点として東西の尾根筋に築かれる。佐賀市街地とその先に有明海を望める。高良山神籠石(福岡県久留米市)有明海を睨んだ要所に位置、北側の城壁は崩壊しているが、南側中腹に神籠石状列石と土塁が残る。把木神籠石(福岡県朝倉郡杷木町)杷木町東部の標高200mの丘陵に神籠石が築かれる。女山(ぞやま)神籠石(福岡県山門郡瀬高町)東から延びてきた丘陵末端にある。神籠石の頂点から豊かな水田地帯の先に有明海を望み、その先には対岸の多良岳も良く見える。以上の四つは有明海を望む。
 阿志岐神籠石(福岡県筑紫野市)標高339mの宮地嶽を頂点として西側に展開しており、大野城や基肄城と共に太宰府を望む。雷山神籠石(福岡県前原市)玄海灘を望む雷山中腹に築かれる。鹿毛馬神籠石(福岡県嘉穂郡頴田町)遠賀川中流域の小丘陵(海抜80m)にある。御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市)行橋市と同県京都郡(現みやこ町)勝山町の境、標高247mのホトギ(竃)山頂付近から北と東に延びる尾根、北九州の瀬戸内海側に築かれる。唐原神籠石(福岡県築上郡)御所ヶ谷の南東に位置し、周防灘を望む。残りの5つは築いた理由や状況が違うと思う。
いたぎ=一大城とすれば、同県唐津市枝去木(えざるぎ→えだのぎ)=一大城→江田城とも考えられるが、地図ソフトに拠ると、何れの方角も周囲の山に遮られて望めないので、位置的に無理がある。もしかしたら支配組織の異変があり、逃げ延び、落ちた所かも知れない。*穢多(えた)
黒髪神社=源(鎮西八郎)為朝は13歳の時、九州へ追放となり、15歳で九州を平ら げ、鎮西総追捕使を称す。佐賀県武雄市の黒髪神社には為朝の大蛇退治の伝説が残される。同県有田市の黒髪山には万寿姫とのロマンスの伝承が在る。肥前国彼 杵郡「伊邪奈美命・事解命・御年神・大年神」長崎県佐世保市黒髪町2817番地。  




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  1. 2015/11/07(土) 12:57:07|
  2. 5.思惑と意図
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再開いたします。


11月7日より、しばらくお休みとしましたが、

本日11月16日より再開いたします。

多少、投稿日が不安定かも知れませんが、よろしくお願いします。





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今日の投稿を持ちまして、しばらく更新できなくなります。

また再開しましたら、どうぞよろしくお願いします。



未万劫哉
  1. 2015/11/07(土) 13:03:33|
  2. おしらせ
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◇距離の換算

 当時、陸行や水行には一日当りに進める平均距離があり、要した日数から換算したため、上記の(B)(C)(D)項の何れもが、同距離(同日数)にされる と云う宮崎康平氏等の説には概ね同意できる。ただ、換算した日数と同数の休息日と悪天候に対する波浪、風待ちや潮待ち等の予備日を設けたので、最長で実質 移動日数の三倍程になる。また、長距離程、予備日は多く設けたと思われる。但し、陸行は歩測や基本とする縄等を使い測ったので、日程と違い、その里程は略 正確だろう。大陸内での代表的な移動手段が河川航行や馬や駱駝に拠るとすれば、風向や水流、陸行でも悪天候等にも左右されるので、短里とされる距離の曖昧 さは、そうした陸行や水行の目安に因る。*「距離の感覚」参照
 モンゴル軍騎馬隊の場合、食事や休憩等を含めた速歩で6~10時間の移動距離、70~100km/日、独仏騎兵の速歩=240m/分(115㎞/日)、 明治期、日本の騎兵も約210m/分(100㎞/日)とある。馬の速歩=約210m/分(12.6㎞/h)に関係し、6~10hで、約75~125㎞(平 均値100㎞)/日となる。おそらく、船脚も櫓漕ぎと帆掛けの和船で、最大速度10ノット、櫓を用いた実船相当の船速は4~6ノット、1ノット=一海里 (約1852m)で、7.5~11㎞/h程度で、当時、午前中の干潮と満潮を利用した6~12時間、それを生業とする海民の複数の櫂船であれば、もっと速いかもしれないが、潮待ちと風待ちや悪天候等の影響を考慮すれば、65~135㎞/日(平均値100㎞/日)程度として良く、干潮と満潮や潮流を利用した沿岸部や河川の水行でも、大凡、千余里の100㎞/日が目安にされたと考える。 詰まり、帯方郡衙から狗邪韓国迄の沿岸航海七千餘里(500~800)も、これに則して計算すると、航行日数「5~8日」、同様に、15~24日、最長で一ヶ月弱の日程になる。狗邪韓国からの渡海三千餘里は、地図上、大凡、210(90+70+50)㎞、航行3日、休息日と、潮待ち、強風波浪等、悪天候に対する予備日等の2日を併せた三日サイクルとし、最長で9~10日の日程とした。
 最後に陸行で1日に進む平均距離(㎞/日)を、資料では、唐代=50里(約28 ㎞)/日、重装備での行軍=20㎞/日、江戸期、東海道五十三次の約500㎞を15日前後、戦国期の軍団は急ぎ20日で歩いたとする。これを実際に歩いた 日数とすれば、一日、500㎞÷15=約33.33㎞、500㎞÷20=25㎞になるが、通常、4㎞/h、休憩や食事の時間を除く、5~7hで、 20~28㎞/日が妥当だろう。当時の道路事情、下賜品等を負った悪条件等を考え併せると、末盧国~邪馬壹国の陸行二千里も、移動日と同数の休息日と悪 天候や河川増水等、足止めの予備日を併せた3日サイクルの陸行一月で、実質の移動10日(予備0日)、同15日(予備5日)、同20日(予備10日)と し、原則、隔日休息で、最速で移動すれば、28×10(280)÷30=9.33㎞、28×15(420)÷30=14㎞、 28×20(560)÷30=18.66㎞、平均移動距離は、約14㎞/日となり、陸行の二千里の実質移動日を10~20日と休息10日として換算すると、以下の目安になり、水行一里の換算値と同長の70~140m(平均値105m)になる。

   末盧国~伊都国(五百里)=2.5日(35㎞)~5日(70㎞)
   伊都国~不彌国(一百里)=0.5日(7㎞)~1日(14㎞)
   不彌国~邪馬壹国(千四百)=7日(98㎞)~14日(196㎞)

 「倭人伝」景初2年6月に魏の京都洛陽に遣使を遣わした。同年12月、魏帝は女王卑彌呼の忠孝に対して詔書で報い「親魏倭王」に為したとあり、半年かからずに到着した。邪馬壹国~末盧国迄の陸行二千里(210㎞)=一月、末盧国~狗邪韓国迄の渡海三千余里(315㎞)=10日、帯方郡衙(平壌付近)迄の水行七千餘里(735㎞)=一月弱、渤海沿岸の水行と黄河河口~洛陽迄の河川航行を、地図上、1500~2000㎞(14300~19000里)とすれば、水行45~60(実質15~20)日の日程になり、併せると、110日~125日(略四ヶ月)で到着した。上記の記述に合致する。

6~12時間=草原を走る馬と違い海上での碇泊は難しいので、一航海の限度を超えた12時間以上の場合、潮流の変化や潮目に注意しながら休みなく漕ぎ続けたか、交代要員が居たと思う。また、河川航行の場合、往復の平均値と考える。
100㎞前後=「三国志」の300年後、「隋書流求伝」帝遣武賁郎將陳稜 朝請大夫張鎮州率兵 自義安浮海撃之至高華嶼 又東行二日至句辟嶼 又一日便至流求。大陸東南部の義安より高華嶼迄の日程は記述されないが、これを宮古島付近、句辟嶼を沖縄本島とすれば、地図上の約280㎞を二日、流求を奄美大島とすれば、同約120㎞の航海を一日で至ることになる。おそらく、北側を流れる黒潮に乗って航海すると思われる。
地図上=沿岸航海の場合、海岸から少し離れた海上を略直線で航行できるが、朝鮮半島か ら九州北部の場合、郡使や魏使は対馬海流(2㎞/h)に逆らう様に円弧を描き南下し、直線距離の倍近く航行するかも知れないので、一里「70~140m」 とした。何れにしても1日(6~12h)の航海。
3日サイクル=先述の宮崎康平氏は、朝鮮半島北部九州間の海峡は一週間で風向が変わる ので、7日(2日×3+予備1日)の日程とする。私説の水行10日は、航海日と休息日のセットで三航海=6日と、強風や波浪に拠る予備日(3~4日)も設 けて、最長で、9日~10日とした。陸行の場合も、これに則り、距離に則した日程に同日数の休息日と予備日を設けたと思われる。
500(800)㎞=帯方郡衙の通説的な比定地、ソウル(平壌)付近を目安にした。尚、自説の距離単位の一里「105m」とすれば、七千餘里=735余㎞となり、現在の平壌の南、南浦(ナムポ)付近になる。
唐代=(唐・五代)31.1㌢・1歩=5尺(155.5)・1里(360 歩=559.8㍍)、(周)19.9㌢・1歩=6尺(119.4)・1里(429.8㍍)、(秦・前漢)17.7㌢・1歩=5尺(138.5)・1里 (498.6㍍)、(新・後漢)23㌢・1歩=5尺(115)・1里(414㍍)、(魏・晋)24.1㌢・1歩=5尺(120.5)・1里(433.8 ㍍)、(北魏)27.9㌢・1歩=5尺(139.5)・1里(502.2㍍)、(隋)29.5㌢・1歩=5尺(147.5)・1里(531㍍)。何故か、 基準「尺」が長くなる。
休息日=朝鮮半島海峡や玄界灘を渡るのは、風や波の穏やかな夏期が良いと云われる。当時、平均気温が1度近く高かったと云われるので、現代日本の夏に近く、荷物を載せた河川航行用の平底船を曳いて上流へ遡るのは、従者にとって休息日なしでは厳しかったと思う。
河川の増水や悪天候=私説では、筑後川を渡る場合や台風等が考えられ、梅雨の時期は 丸々一ヶ月以上の足止めと云う事も在ったと思う。こうした日程では、休息日や予備日は、夫々、距離で換算した日数と同数の10日、黄河河口から洛陽迄の水 行は、15~20日と設定されていたかも知れない。
14㎞/日=本来、悪天候には移動できないので、予備日を使うと休息日が増え、平均の 移動距離は減る。また、最遅値に設定とした「20㎞/日」の場合、最速値の移動に比べると、移動10日では実質の距離が80㎞減るので、移動日が4日増 え、最短の日程が14日になる。例えば、①②×③△④×△⑤△⑥×△⑦△⑧×△⑨△⑩×△⑪△⑫×△⑬⑭(×休息・△予備)の様な日程で、20㎞ ×14(280㎞)÷26=10.76㎞、20㎞×19(380㎞)÷26=14.61㎞、20㎞×24(480㎞)÷26=18.46㎞。一日の移動時 間が増えて平均距離は、14.6㎞/日となる。
邪馬壹国=伊都国から卑彌呼の宮殿に向かった使者が勅書を受けてから出発したと考えられる。
渤海沿岸の水行=呉に服属したされる沿岸航海民と繋がった遼東太守公孫氏が、魏と対立していた頃の遣使とも云われるので、中国の大連から山東半島迄の渡海もあり得るが、この場合、帶方郡に属す沿岸航海民ではなく、この外洋海路を航行する海民への差配が必要になる。
略四ヶ月=往きの場合、黄河遡上に多くの日程を割き、還りは、魏使同様、海流に逆らう瀚海の渡海に多くの日程(10日)を割いたと思う。 






  1. 2015/11/16(月) 22:26:16|
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◇「渡」と「濟」

  当時、大陸の為政者には外海を渡ると云う認識はなかったのか、編者陳寿は、朝鮮半島沿岸部を循海岸水行とし、狗邪韓国~對海国~一大国~末盧国への外洋航海を「渡一海」として書き分けた。序でに、「三国志魏書第一」で使われる漢字の「渡」を拾ってみる。

 (1)是歳、孫策受袁術使、渡江。數年閒遂有江東。
 この歳、孫策、袁術の使を受け、長江(揚子江)を渡り孫策は、遂に数年間、江東を有す。
 (2)是歳長安亂。天子東遷、敗于曹陽。渡河、幸安邑。
 この歳、長安で乱が起き、天子は東に逃れ、曹陽の地で破れ、黄河を渡り、司隷河東郡安邑に行幸した。中国山西省南西部河東郡付近を流れる黄河東側の地域の称。
 (3)公到、撃破蕤等、皆斬之。術走渡淮。公還許。
 公到り、張蕤等を撃破し、皆、これを斬る。術走り、淮河を渡る。公(曹操)は、許に還る。袁術が淮河を渡り、河南省に逃げたため、追うのを止め、予州潁川郡許に還る。尚、許(もと)とすれば、前線基地か、生国の予州(江蘇省)沛国「譙」に還ったとも考えられる。
 (4)夏四月進軍臨河、使史渙曹仁、渡河撃之。
 夏四月、軍を進めて黄河に臨み、史渙・曹仁に、黄河を渡らせて、これを撃たす。
 (5)二月紹遣郭圖淳于瓊顏良、攻東郡太守劉延于白馬。紹引兵至黎陽、將渡河
 二月、袁紹、郭圖・淳于瓊・顏良を遣はし、兗東郡太守・劉延を兗州東郡白馬に攻めさせる。袁紹、兵を引いて黎陽に至り、將に黄河を渡らんとする
 (6)公到延津、若將、向其後者。紹必西應之。
 公(曹操)、兗州陳留郡延津に到り、若し、将に兵を渡たし、その後、向かはんとすれば、袁紹、必ず西し、これに応じるだろう。前段に、荀攸公に説きて曰く「今、兵少なく敵せず、其の勢を分くるが乃ち可なり」とあり、延紹の兵を別ける策として、将いた兵を渡らせる。
 (7)遂解白馬圍、徙其民、循河而西。紹於是渡河追公軍、至延津南。
 遂に兗州東郡白馬の圍(かこ)みを解き、其の民を徙(うつ)し、河を循じ、西す。袁紹、黄河を渡り、曹操の軍を追い延津の南に至る。
 (8)郃等聞瓊破、遂來降。紹衆大潰、紹及譚棄軍走、渡河
 張郃等、淳于瓊が破れたと聞き、遂に来降す。それを知った袁紹の兵衆は意気消沈し、袁紹と袁譚、軍兵を放棄して逃げ、黄河を渡り、生国の河南汝陽に還る。

 何れも単に黄河や長江等の大河川や、その支流を渡る事を云う。また、同訓「濟(わたす)」が在り、序でに、この使い方も見ておく。

 (1)玄謂太祖曰「天下將亂、非命世之才不能也~」
 橋玄謂ひて太祖に曰く、「天下將(まさ)に亂れんとし、世の才に命ずるに非ざれば、濟す能はざらんや」。→ 天下、将に乱れようとするが、天命でもない限り、この乱れを収めることはできないでしょう。
 (2)光和末、黄巾起。拜騎都尉、討潁川賊。遷爲南相。
 光和末、黄巾乱が起こる。(太祖)騎都尉を拜し、潁川の賊を討つ。遷りて黄河南岸の南相(黄河南岸の水運を司る役人?)になる。
 (3)且紹、布衣之雄耳、能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順、何向而不
 且つ袁紹、布衣(ほい=無官)の雄なるのみ。能く人を聚(あつ)めるが、用ふる能力はない。夫れ、公(曹操)の神武明哲(天命)を以て、而して輔くるは大いなる順を以てす。何ぞ向ひて濟さざらん。→ 袁紹に、そんな能力はないが、曹操、貴方にはある。何故、身を投じて収めようとしないのですか。
 (4)九年春正月、濟河遏淇水入白溝以通糧道。
 九年春正月、河を濟(わた)り淇水を遏(とど)め、白溝に水を入れ、以て兵糧の水道を通す。→ 黄河の水運を治め、淇水の流れを止めて白溝に水を入れて兵糧を運ぶ水道を通す。

水行=河川航行に拠る水運が軍団や兵站の重要な移送・輸送手段だろうが、常識だったの か、「三国志魏書第一巻」に「水行」と云う記述はない。上記、(10)黄河南岸の濟南相になる事や、(12)河を濟り=黄河の水運を収める等、為政者にと り、戦略上、有効な手立てと考える。
渡一海=狗邪韓国から對海国へ「始一海」とした編者陳寿の意図を、「初めて=一度目」と云うニュアンスとした。「三国志魏書一巻」でも、度数や回数や「制度」等、尺度と云う語義として使われる。詰まり、「始度一海=一海を渡り始める」となる。
孫策=呉郡富春県出身、呉を建国する孫権の兄で、孫堅の子とある。
江東=大きく北向きに湾曲する長江下流南岸の地。江蘇省南部、及び浙江省北部に相当する。江左ともいう。春秋戦国時代の呉越地方の古称。孫策は呉を建国する孫権の兄で、孫堅の子とある。詰まり、江東=呉となり、この場合、国境と考えられる。
山西省(Shan xi)=太行山脈西方、華北地区西部の省。東西を山地に挟まれた高原地帯で省都は太原。別称「晋」「山右」。春秋時代の「晋」の地。石炭・鉄等の地下資源が豊富。
淮河(Huai He)=中国の大河。河南省南部の桐柏山に発源し、安徽省を経て洪沢湖を貫流、江蘇省に出て大運河に連なる。旧、下流は黄河の河道を通って黄海に注いだ。中華人民共和国成立以来、大規模な治水工事が進んだ。全長約1千㎞。淮水。
袁紹=後漢末の群雄の一人。河南の予州汝南郡汝陽の人。霊帝の死後、宦官を皆殺しにしたが、董卓のために冀州に追われ、後、反董卓派の盟主となる。やがて曹操と対立し、200年河南の官渡で大敗。(?~202)
黄巾乱=184年、後漢の霊帝の時、張角を首領として河北で起こった農民反乱。張角等 は、悉く黄巾を着け、黄老の道を奉じて太平道と称し、貧民を救済したので、忽ち強大となり、蜂起した。同年末、張角の病死によって衰えたが、その後も残党 の反乱は続き、後漢滅亡の契機となった。
潁川(えいせん)=河南省臨潁県付近。隠士の許由が帝尭から位を譲ろうという話を聞き、耳が汚れたと、この川で耳を洗い清めたという。潁水。
済南(Jinan)=山東の省都。黄河南岸に位置、京滬(けいこ)・膠済(こうさい)両鉄道の交点。物産集散地で、重工業も発達。河南(He nan)=中国華北地区南部の省。黄河中流以南と、若干、黄河北方も含まれ、省都は鄭州。殷代以後、屡々、洛陽・開封が首都となった。周代、洛陽の別称。別称「中州」「豫(よ)州」。
淇水=河南省にあり、衛河に濯ぐ。衛河=兗州(山東・河北両省の一部)東郡衛付近を流れるか。



 
  1. 2015/11/24(火) 18:53:28|
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◇分岐点

   (E)東南陸行 五百里 到伊都(やぁた)国

 「東南陸」とされるので、前項の末盧国で上陸して実際に徒歩で向かったとして良い。前項と違い、~余里とされない理由は、風向きや潮流に因る影響を受けやすく、櫂を漕いだ回数や線香の燃える長さ等で時間 を計ったとしても、その時点の状況に拠って違う水行に比べて、陸行は縄を使ったり、歩測で略正確に測れたからだろうが、何れにしても日程と1日で移動する 大凡の距離を基本にして換算したと考える。
  国名は、伊[・ıər][・ıi][i]、都[tag][to][tu]=ヤァタ(八咫)→ヤワタ(八幡)→ヤバタ→ヤマタ(山田)、この音が八咫鏡に関連があるとすれば、末盧国の比定地とした佐賀県唐津市鏡(鏡山)、伊都国へ松浦川を遡ると佐賀県多久市と同県小城郡(現小城市)小城町栗原境にも鏡山が在る。
 八幡(やばた→やまた)とすれば、佐賀県唐津市八幡町、同県多久市、同県伊万里市、同県武雄市の境、八幡岳、佐賀県唐津市山田、隣町の同県東松浦郡(現 唐津市)浜玉町東山田、同県小城郡小城町と同郡三日月町を挟んで東側にも同県佐賀郡大和町東山田等が在る。(E)を読み下しすると下記の如くなる。

  (外洋航海民倭の領域南岸)末盧国で下船して、東南へ陸行、五百里で到る分岐点の伊都国

 尚、「對海国」で述べた文章の後半部には下記の如く気になる記述が在る。

 自女王国以北 特置一大率 検察諸国 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺使
 王遣使詣京都帯方郡諸韓国 及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遣之物 詣女王不得差錯

  先述した宮崎康平氏等は「皆臨津捜露」と云う記述から伊都国が「津」に臨んでいるとする。現在より平均気温が1度程高かった当時、河川が縦横に走り、干潟があったので、殆どの国は荷役のため河川航行用平底船の泊津を設けたと思う。但し、海岸の湊津に臨んでいるのであれば、態々、末盧国から陸行したり、河川を遡上せずとも末盧国で沿岸航海用船に乗り換えて水行すれば良い。上記の如く、女王国 より以北の国々が恐れ憚ったと云う伊都国が司り、特置された一大率の官吏や武官と思しき卑狗や卑奴母離が派遣された對海国と一大国が湊津に臨んでいる事から「皆臨津捜露」は、一大率の官吏や役人の卑狗や卑奴母離が派遣された国々と考える。後半部を意訳すると下記の如くなる。

 の遣使が魏の京都や帯方郡、諸韓国に詣でて郡使が倭国に及ぶと、津に臨む地に派遣された一大率の官吏が夫々の任地で、文書や物品の照合点検(捜露)し、賜遣之物の目録を伝送、郡使は女王に詣でるので、差錯(あやま)り得ない。

  この「」と邪馬壹国女王は同一ではあるまい。伊都国の記述には「世王有皆統属女王国」とあり、後段では「名曰卑彌呼(中略)~有男弟佐治國」とされるので、女王を佐けた男弟=伊都国王(後の太政大臣)と考える。また、自女王国以北特置一大率検察諸国~云々から、他にも津に臨む国が在り、一大率の役所や検問所には官吏や武官(卑狗や卑奴母離)が派遣された。
 佐賀県伊万里市波多津町板木(いたぎ)、福岡県前原市板持、同県福岡市博多区板付(いたづけ)、同県北九州市小倉北区板櫃(いたびつ)、同県北九州市八 幡東区枝光(えだみつ)、同県田川市伊田、同県田川郡糸田町打越、熊本県上益城郡甲佐町糸田(同郡砥用町境に打越峠)、同県熊本市板屋町等、他にも、稲光(いなみつ→いだみつ→イェタミツ)、江田等の地名も関連があるかも知れない。
 尚、「伊都国」とされた理由は、末盧国からと同方向の東南への道で至る次項の奴国へは行かず、此処から東向きの道で不彌国、更には邪馬壹国への向かうための分岐点(目的地)に到着するからと考える。

八咫鏡=伊勢神宮のご神体とされる。伊都国比定地と目される平原遺跡(福岡県前原市) では大形彷製内行花文鏡(46.5㌢)が発掘されたと云われる。本来、伝世される鏡や剣等の重要な物が古墳に副葬される理由は、王や巫女等、被葬者が持っ ていた力を殺ぐためで、大きな鏡が副葬されたとすれば、被葬者の絶大な力が籠もる。また、壊された剣や鏡等は被葬者の魂の籠もる所持品で、何らかの理由で殺害されたと考えられる。尚、狗奴国の領域と思われる熊本県の鹿本郡鹿北町多久が在り、佐賀県多久市多久町、福岡県前原市多久、同県宗像市田久・田熊、島 根県平田市多久町、同県飯石郡三刀屋町多久和等があり、もしかしたら、「タク」は狗奴国系の東遷かもしれない。
卑狗や卑奴母離=常治伊都国 於国中有如刺使と在り、陳寿は、我国での刺史が負う役職とよく似ると感じた思われる。
稲光=福岡県鞍手郡若宮町稲光・平、同県京都郡苅田町稲光、山口県豊浦郡豊田町稲光・ 矢田(イェタ→ヤタ)、鳥取県西伯郡大山町稲光・長田。他にも福岡県北九州市戸畑区一枝、同県北九州市八幡西区椋枝、同県嘉穂郡穂波町枝国、同県山門郡三 橋町枝光、滋賀県大津市枝、同県甲賀郡信楽町江田、同県犬上郡豊郷町 、兵庫県神戸市西区枝吉、同県美嚢(みのう)郡吉川町畑枝、和歌山県西牟婁郡串本町江田、鳥取県八頭郡八東町重枝・富枝、同県出雲市江田町、広島県三次市 江田川之内町、同県安芸郡江田島町秋月、同県御調郡御調町江田、徳島県小松島市江田町、愛媛県松山市枝松、高知県吾川郡伊野町枝川、佐賀県鹿島市古枝、同 県神埼郡神埼町枝ケ里、熊本県玉名郡菊水町江田、大分県別府市枝郷、同県中津市枝町、同県竹田市枝等、穢多(ィエタ→エタ)とも関連があるのかも知れな い。 




  1. 2015/11/30(月) 10:21:07|
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