見まごう邪馬台国

◇「至」と「到」

  「三国志魏書第一」だけで、「至」=57ヶ所、「到」=16ヶ所程の使用例がある。全てを取り上げると煩雑なるので、説明し易い例文を取り上げて、その使用法を考えて見たいと思う。尚、前述した「誤読だらけの邪馬台国」の著者張明澄は、以下の如く述べる。
 【台湾中華書局印行「辞海」には、「至(至部)」=「極」「到」「大」「善」等の語義とあります。また、「到(刀部)」=「至」「周」「倒」「弔」等とあって、中国人や台湾人は、「至」を英語の「till」「until」、「到」を「reach」「arrive at」と云う語義として理解します。】
 上記に異存はないが、少し、私見を述べると、「至」=何らかの原因や経緯が付帯して至る。「到」=到着した。或いは、何らかの目的で以て到る。と云う ニュアンスがあると思う。冒頭の「太祖曹操の出生」を述べる文章から始めてみたい。順に原文、通説的な読み下しで、文脈が切れる箇所に「/」を入れながら、私見を述べる。

 (1)太祖武皇帝沛國譙人也姓曹諱操字孟德 漢相國參之後 桓帝世曹騰爲中常侍大長秋封費亭侯 養子嵩嗣太尉莫能審其生出本末 嵩生太祖
 太祖武皇帝は沛國(江蘇省)譙人なり。姓は曹、諱は操、字は孟徳/漢相國参の後裔、後漢桓帝の世(147~168)、祖父騰は中常侍大長秋に為って費亭侯に封じられる。その養子の嵩は、とうとう太尉に昇進する/その出生は審らかにはできないが、その嵩が太祖を生んだ。
 太祖の曾祖父から父である養子「嵩嗣」が太尉に昇進する迄の経緯を述べるので、至=極まるの意味で使われるとして良い。その後、養子「嵩嗣」は出生が審らかにできないと意味深な事を述べる。尚、太祖曹操を沛国(現江蘇省)の「譙」と云う地の人とするが、漢和大辞典「譙」項、高殿、物見櫓、木を守り、育てる樵(きこり)と同系字で、宮城の門番と守衛を担う武人(校尉)と云う意味を持つのかもしれない。

 (2)大將軍何進與袁紹謀誅宦官 太后不聽 進乃召董卓欲以脅太后 卓未而進見殺。卓 廢帝爲弘農王而立獻帝 京都大亂 卓表太祖爲驍騎校尉欲與計事 太祖乃變易姓名 間行東歸 出關過中牟 爲亭長所疑 執詣縣 邑中或竊識之爲請得解。卓遂殺太后及弘農王 太祖陳留 散家財合義兵將以誅卓。
 大將軍何進(荊州南陽郡宛県)、袁紹(予州汝南郡汝陽県)与に宦官を誅せんと謀る。太后聴かず。進、乃ち董卓(涼州隴西郡)を召し、以て太后を脅さんと欲す。/董卓、未だ至らずして、 何進が見殺しにされた後、卓、到り、帝を廢して弘農王と為し、而して獻帝を立てる。/(それが理由か)京都大いに亂る。董卓、太祖を驍騎校尉と為さんと発 令し、与に事を計らんと欲すが、太祖(曹操)、姓名を変易し、密かに市中に紛れて東へ歸る。関門を出て司隷河南尹の中牟を過ぎて、亭長の疑ふ所となり、執 らわれて県役所に詣る。/邑中、或る者、窃(ひそか)に、これを識り、請ひて解放される。それを知った董卓、遂に太后と弘農王を殺す。太祖陳留に至り、家 財を散じ、義兵を募集し、将に董卓を誅せんとす。
 初めの「至」も、何進は聴き容れない何太后(何進の親族)に対し、董卓を召した等の経緯を述べるが、その董卓には何らかの思惑があったのか、なかなか来ず、何進が何太后派に見す見す殺害された後、(董卓は太后派を排除する目的で)到着した。(その思惑通り)献帝を擁立するが、事を計るため、曹操の援助を得られないと悟った董卓は、進退窮まり、太后と弘農王を殺す。(そうした経緯を見て取った)太祖は兗州陳留に至り、家財を散じて義兵を将いて、董卓を誅す。尚、何進と召された董卓との詳細な関係は分からない。今回は、ここ迄。

曹=周代の国名。周武王の弟叔振鐸が封ぜられた国(現在の山東省)。25代で宋に滅ばされた(前487年)。何人もいる下級の役人(属官)、獄曹=法廷や牢獄の属官、軍曹=下士官の階級、属官の詰めている所。多くの同輩、複数の仲間とある。
相国参=漢の高祖劉邦の幼馴染みで、蕭何の亡き後、相国(宰相)となった人物とされる。次の祖父には「騰」と姓を記載するが、相国参と実父で養子の「嵩」には諱だけ記載、姓を省くのは、操の曾祖父「参」、参の子「曹騰」、曹騰の養子「嵩嗣」というニュアンスだろうが、「嵩」は曹操の実父だが、血縁の嫡(子孫)ではない。また、以下の記述、「太祖乃變易姓名間行東歸」=太祖、姓名を変易し、紛れて東へ帰ると云う記述からすれば、現在、姓氏「鄒(すう)」はあるが、「嵩」は見えないので、「?嵩嗣(すうし)」と、その実子「操(孟徳)」、共々養子に迎えたとも考えられる。  
費亭侯=秦漢期、盗賊の追捕を担った亭長の上司か、その意味は良く分からない。ただ、「字統」亭=宿舎と候望、物見の楼を兼ねるとあり、櫓や亭長(譙人?)の官舎等の建設と管理に対する費用を司る役職かもしれない。
献帝=中国王朝の一つ後漢。前漢の景帝の6世孫劉秀が、王莽(おうもう)の新朝を滅ぼして漢室を再興、洛陽に都して光武帝と称してから14代の献帝迄、前漢を西漢というのに対して東漢ともいう(25~220)。最後の皇帝で、曹操の子曹丕に帝位を献じた(禅譲)からか。






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  1. 2015/12/10(木) 12:50:30|
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◇「到~」

 前項の「至」は何らかの経緯が付帯するが、「到」は、以下の如く、「何らかの目的で以て」として良いだろう。

 (1)邈、遣將衞茲、分兵隨太祖。滎陽汴水遇卓將徐榮。與戰不利、士卒死傷甚多。
 張邈、將の衛茲(え)を遣はし、兵を分けて太祖に隨わせしむ。滎陽(けいよう)・汴水(べんすい)に到り、卓の將、徐榮と遇ひ、戰ふも利ならず、士卒死 傷すること甚だ多し。→ 張邈の遣わした将衞茲は分兵して太祖に随わせた。太祖は滎陽汴水に到り、董卓の将徐榮に遭遇した。文脈的には、董卓を追うため で、その将徐榮に遇う事が目的ではないが、偶々、徐榮の居る滎陽汴水に到着した。

 (2)榮、見太祖所將兵少力戰盡日、謂酸棗未易攻也。亦引兵還。太祖酸棗。諸軍兵十餘萬、日置酒高會、不圖進取。
 徐榮は、太祖の將いる兵は少ないが、力戰して持ち堪えるのを見て、兗州陳留郡酸棗は、未だ攻むるに易からざるを謂ひ、亦、兵を引いて還る。太祖酸棗に到る。諸軍の兵十餘萬~云々。→ 徐榮の思惑とは関わりなく、太祖は諸軍の兵十餘萬と合流するために酸棗に到る。

 (3)術退保封丘。遂圍之。未合、術走襄邑。追太壽。決渠水灌城。走寧陵、又追之。走九江。夏、太祖還軍定陶。
 袁術は退き、兗州陳留郡封丘を保つ。遂に曹操は、これを囲むが、戦わないまま、袁術は兗州陳留郡襄邑に逃げる。これを追い太壽に到る。渠水を決して城に水を灌ぐと、袁術は予州梁国寧陵に逃げる。更に、これを追うと、中原を出て長江南岸揚州九江郡に逃げ帰ったので、夏、太祖還り、兗州済陰郡定陶に行軍す。→ 逃げる袁術を追う目的で到った太壽で、渠水を決して水を濯いだ。

 (4)會張邈與陳宮叛、迎呂布、郡縣皆應。荀彧程昱保鄄城、范東阿二縣固守。太祖乃引軍還。布、攻鄄城不能下、西屯濮陽。
 会した張邈と陳宮が叛して、迎える呂布に郡県司、皆応じる。荀彧(じゅんいく)、程昱(ていいく)は鄄城を保ち、兗州東郡范、兗州東郡東阿の二県を固守する。曹操は二人に任せて軍を引き還る。呂布、到り、兗州済陰郡鄄城を攻めるが下せず、兗州東郡濮陽の西に屯営す。→ 文脈的に、呂布は太祖が還ったのを 見計らい、鄄城を攻め滅ぼす目的で到る。

 (5)張濟、自關中走南陽。濟死、從子繡、領其衆。二年春正月、公宛。張繡降、既而悔之、復反。
 張濟、關中より荊州南陽郡に走る。濟が死んで、從子張繡、後を継ぎ其衆を領す。二年春正月、公(曹操)、同郡宛に到る。張繡は降伏したが、もう既に、これを悔い、再度、反く。→ 曹操は南陽郡に逃げた張濟を滅ぼす目的のために追って同郡宛に到る。

 (6)夏四月、公北救延。荀攸説公曰「今兵少不敵、分其勢乃可。公延津、若將渡兵、向其後者。紹必西應之。
 夏四月、公(曹操)は北に向かい劉延を救う。荀攸、曹操に説いて曰く「今、兵少なく敵わないので、袁紹の軍勢を分けさせるべし。曹操は、兗州陳留郡延津 に到り、兵を将い河を渡った後、西に向かったならば、袁紹は、必ず西に向かい、これに應じるだろう。→ 袁紹の軍勢を別けるための作戦を実施する目的で延 津に到る。

 (7)太祖兵少乃與夏侯惇等詣揚州募兵。刺史陳温丹楊太守周昕、與兵四千餘人。還龍亢士卒多叛。銍建平、復收兵得千餘人。
 太祖の兵は少ないので、夏侯惇(かこうとん)等と揚州に詣り、兵を募り、刺史陳温、丹楊郡太守周昕(しゅうきん)に四千餘人の兵を与えて、太祖は還り、 予州沛国龍亢に到る。士卒多く叛したため、予州沛国銍、建平に至り、再び兵を收め千餘人を得る。進みて河内に屯営す。→ 前段に在る何らかの目的で龍亢に 到る迄の間、士卒の多くが叛したと云う理由で、当初の目的ではない、銍、建平で、再び、兵を収め、千餘人を集める。

九江(Jiujiang)=中国江西省北部の都市。鄱陽(はよう)湖口に近く長江南岸に臨む河港。風光明媚の廬山(ろざん)がある。潯陽(じんよう)。九つの川が濯ぐ事から洞庭湖の旧称。
從子=当時、甥(おひ→おい)や姪(めひ→めい)という文字が無かったのだろうか。 「從子」とする理由はなんだろうか。日本では、従兄・従弟・従姉・従妹(いとこ)とされる。従う=強大で、不動・不変なものの権威や存在を認め、自分の行 動をそれに合わせる。後について行く。随行する。逆らわない。意のままになる。相手の言うなりになる。命ぜられた通りに行動する。降参する。屈服する。動 かされるままに動く。任せる。川・道等に沿う。その進む通りに行く(~から)。「遵う」とも書く。慣例・法規等に倣う。拠る。違反しないようにする。応ず る。順応する。従事する。その事に携わる。
 
  1. 2015/12/19(土) 09:18:47|
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◇阿利那礼川

  (F)東南至奴(なっ)国 百里

 「東南至」と在り、末盧国から伊都国と同方位へ百里、詰まり、末盧国から同じ道を陸行したのであれば、伊都国の前に記載されるべきで、始発地は伊都国として良い。前項(E)は方位を示唆した後、陸行とするが、(B)(D)項の方位を示さず、「一海」とする筆法とは異なり、本項では「東南」とされない事、次項(G)で「東至百里」とされる事とも関連し、この場合、伊都国からの同方向へ向かうが、途中、不彌国へ向かう道程から外れるか、伊都国で分岐して東への道を行ったか。何れにしても同じ道では不彌国へ通じないので、女王卑弥呼に詣で謁見する使者は奴国へは行ってない。それが「」とされない理由になる。実際には行かなかった奴国を記載した意図は、「伊都国にる」として奴国への道と不彌国・邪馬壹国へと続く道の分岐点と云う目的地に到着した事、「東南ならば、奴国に至る(仮定)」とし、今迄、来た道から外れる分岐点を示唆したと考える。
 通説では、奴国の比定地を福岡県福岡市の博多湾奥、その東側同県糟屋郡宇美町を不彌国とするが、邪馬壹国と同時代の佐賀県吉野ヶ里遺跡は地質調査等に拠 ると、当時、南側は有明海の干潟が広がっており、同様に御笠川や那珂川の河口が内陸部に入り、その福岡市博多区や東隣糟屋郡付近迄、満潮時、海道や水道を 使い水行で行けた。では、末盧国から伊都国、不彌国・邪馬壹国迄、陸行した理由は何だろうか。
 邪馬壹国前代、70~80年間、祭祀権と統治権を持つ男王(委奴)を戴いていたが、朝鮮半島を追われた新たな渡来民(衛氏朝鮮=遊牧民系)が地盤を固めて台頭し、旧来の男王を輩出する系統は、その既得権が剥奪された。それに服従しない一派は、狗奴(カナ)国の男王卑彌弓呼(ヒメカナ=秘 狗奴)として対抗したため倭国大乱となる。奴国連合の補佐官だった兕馬觚(ジマコ→チマコ)は女王を擁立する事で、邪馬壹国伊都国連合と合意し、奴国の官として命脈を保ち、防御上や戦略的に狗奴国に対する防人として伊都国南側の有明海沿岸部に配置された。詰まり、河岸や内海の湊津に臨み沿岸航行や平底船を 曳く河川水行(陸行)できたが、邪馬壹国伊都国連合は、その海道や水道に水門や関所を設けて封鎖し、一大率から動向を監察・検察する役目を負った武官(卑 奴母離)が派遣されていたと考える。(F)を意訳すると下記の如くなる。

   (伊都国と同方向の東南ならば至る奴国、百里程
 
 尚、福岡県筑紫郡那賀川町安徳の裂田神社由緒や「紀」神功皇后伝承の裂田溝等の記述 から、旧くは筑紫平野を南北に貫く水道の阿利那礼川が在ったとする研究者や論者もいる。また、天智天皇が新羅の侵攻に対して築かせたとされる福岡県太宰府 市の水城だが、本来、この水量を調整するために造られたと云う説も在る。更に、現在の地質学的調査では筑後川沿岸部扇状地の奥、福岡県朝倉市杷木町付近が 河口だったとされるので、満ち潮により、阿利那礼川を遡行した後、干潮時、両側へ引く潮を上手く利用して航行した。これを証明する手立ては満潮時、海水が流入した痕跡、汽水域に棲息する生物等の遺物を探るボーリング調査を行う以外にはない。何れにしても船を人力で引いて越したのだろうが、当時、博多湾と有 明海が往来できたとすれば、南至投馬国水行二十日や南至邪馬壹国水行十日は、伊都国での乗り換えも可能だったのかも知れないが、邪馬壹国と伊都国連合が統 治していた当時には既に使えなくなっていたのか、使わせなかったか。何れにしても編者陳寿の記述に拠り、それは否定されると思う。

委奴=倭・委[[・iuar][・ıuē][uəi]/奴[nag][no(ndo)][nu]=ィウアルナッ→ィワルナ(鰐) 岩魚(回帰)⇔山女(陸封) *別音 倭[・uar][ua][uo]
遊牧民系=この列島では広大な土地を必要とする遊牧生活には向かないので、遊牧民は耕作民や漁民を支配し、使役せざるを得ないと思う。
秘狗奴=春秋時代、大陸の東部にあった「斉」でも太陽を拝する習慣があったされるので、卑彌呼を日の巫女とすれば、「鬼道を能くし、衆を惑わす」とはされないと思う。「倭人伝」女王になって姿を見た者は少ない。と云う記述からすれば、「秘(ひめ)」とした方が良い。
 卑[pieg][piĕ][pi]彌[miər][miə(mbiə)][mi]弓[kıəuŋ][kıəŋ][kıoŋ]呼[hag][ho] [hu]の訓みは「ピェミェキゥァッヌッハッ→→ペメクァッヌッァッ→ピメカナ」、その語義を考え併せると、父系の宗女、巫女王の卑彌呼に対して、伊都 国に祭祀権を奪われた母系の「奴(箕子)」を祀る委奴国の覡王(婿=父系)と思われる。*「出雲国譲」天若日子に男性のトーテム「弓」と矢を託される。
 斉=周の武王が太公望の呂尚を封じた国(山東省)。都は営丘「淄博(しはく)市臨淄」。姜斉(前1122~前379)。田氏(田斉)の下で名目的な存在になる。南北朝の南斉・北斉。*淄=黒ずむ、どす黒く染める、川の名「淄水」、山東省莱蕪県を発する。
那珂川町=H26年11/12付の朝日新聞、東隣の同県春日市「須久タカウタ遺跡」から、国内最古、弥生時代前期(BC2世紀)の土製鋳型や有柄式銅剣の石製鋳型が見つかった。通常、この付近を奴国とするが、傍国の好古都国を「ハカタ」と訓み、この付近に比定した。




  1. 2015/12/26(土) 12:08:44|
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◇河川水行と陸行

  (G)東行至不彌(はみ)国 百里

 国名の後に里程が記載されると、「仮定」になるので、前項と共に実際には向かって居ないとする論者や研究者もいるが、道程を説明するのに無関係の国名を記載する理由が解らない。前項と違い「東」とされるので、実際に行ったと考える。所在地は違うが同じ道を行き、何処かで分岐したとしても末盧国からの距離とすれば、伊都国の前に記載されるべきで、奴国と同様、この始発地も伊都国になる。
 また、「東南陸行五百里到伊都国」と同様に陸行したため、前項の「東南至」は「行」を省いたとしても、「伊都国」とされた事に対する納得できる編者陳寿の意図を見いだせないので、奴国方面と不彌国方面への分岐点(衢)とする以外にはない。詰まり、今迄の同方向の道ではなく伊都国から邪馬壹国に向かうための東向きの道を行ったと考える。(G)を意訳すると下記の如くなる。

  (伊都国から奴国に通じる道を外れて東へ行けば至る不彌国 百里程

 本項と前項とも陸行と水行の何れも示唆されないので、何れでも行けたとする研究者や論者も居る。通説で不彌国は福岡県糟屋郡宇美(うみ)町付近とされ る。当時、縄文海進期に近い状況とされ、比定地も河川からの土砂が堆積した中州(陸=くが)や小高い丘(をか)が国域の全体と云った状態で、満潮時、西側 福岡県糟屋郡粕屋町や同郡志免町でも河口や海浜の干潟に浸水した。詰まり、泊津を設けて平底船で物資を運搬する様な状況で、おそらく、内陸部に在る伊都国 の本役所に向かい勅書や賜遺之物を搜露、点検後、邪馬壹国女王に詣でるため、小型船に大使や副使を乗せ、朝貢品等を載せて行ったはずだが、水行とされな かった理由は、河川航行用平底船を従者に曳かせる陸行(河川水行)だからと思われる。
 この国にも官多模、副卑奴母離とある事から人々の動向や物資の輸送を一大率から派遣さ れたと思しき副卑奴母離に管理された。また、この国名の不彌国をハム(馬銜)→ハブ(土生・埴生・羽生)とし、「国々の比定」でも述べるが、その比定地を 佐賀県小城郡(現小城市)小城町との境、同郡三日月町石木字土生(はぶ)の弥生中期の大規模集落土生(久蘇・仁俣)遺跡付近とした。
 例えば、上古では、海[mәg][hai][hai]と馬[măg][mă(mbă)][ma]の近似音にされる事、古英語、船(mere- hengest)=海の馬とされる事からも草原を走る馬、海原を走る船と云う意識があり、旧く舳先は龍頭や馬頭にされた。もしかしたらギリシャ神話に登場 するトロイの木馬も大きな木船だったのかもしれない。後代、南中国では、海の女神媽祖と される。こうした事から馬=船として、不彌国を邪馬壹国と伊都国連合に服属した海民陸鰐の国とすれば、本来、官「多模(たも→たま)」は對海(たま)国王 で海民連合国陸鰐系王だったが、奴国と同様、邪馬壹国と伊都国連合に靡き服属して命脈を保った。詰まり、前項と同様、その動向を検察するために派遣された 副官卑奴母離が官多模に轡と馬銜を着けて海民の勢力を制御した。
 不彌国と對海国は「記紀」海民が生母豊玉姫(婿取)と乳母玉依姫(嫁入)の二系(対)に分裂した事、「神 功紀」新羅討伐に住吉系海人(熊鰐?)が助力したとされる事、「仲哀紀」徳勒津(とくろつ)等と関連し、(字統)「勒」=馬を馭する革紐、勝手に動かない 様に引き締める・程よく調整する。古訓に「クツワ」「アラタム」と在り、不彌(はみ)=馬銜→食み・噛みは、「傍国考」でも述べるが、伊都国が派遣した一 大率の官吏や武官の管理下、巴利国が為吾国の人々を使役して潅漑施設を造らせて、奴国と不彌国等、女王国以北の国々に検問所や関所を設け、その水路や水道を封鎖させた。

土生遺跡=東西方向に流れる河川は見えないが、当時、河川を繋ぐ潅漑用水路で平底船を 使ったか、この道程も輿に大使や副使を乗せ、荷物は背負うか馬車等に載せて移動した後、東北方面の吉野ヶ里(佐賀県神埼郡神埼町鶴)の環濠集落や、幾つか の集落に宿泊した後、南下、流れが緩やかな筑後川の中州や飛島との間に設えられた飛び石等を使い渡河したと考える。
海の女神媽祖=馬は男系のトーテムで、騎馬民族は男系の末子相続とされる。海民や川民は母系制だったのか、中国大陸東南部の海民や蛋民では媽祖(女神豊玉姫)とされた。尚、日本海沿岸部の海民や漁民は諏訪大社(建御名方富神と八坂刀賣神)の御札を船霊とする、
巴利国=為吾国の「為」=(字統)手と象に従う。卜文や金文等では、手綱で象を使役す る形、土木工事等の工作を行う。「吾」=(字統)交差した木で蓋をして祝禱を入れた器(口)を敔(まも)るとあり、御(馭)=轡を着ける事と声義が近く通 用される。巴利国の「巴」=(字統)器の把手形、「説文」蟲は象を食(は)む蛇なりとし、字を蛇形に解する。(字統)「利」=禾と刀で、金文には犂鋤や犂 の形で見える。禾稲を刈り、収益を得る事=利益とあり、象を使役する事に関連し、巴利国の人(蛇)が為吾国の象(為吾国人?)を使役し、水路や水田等の土 木工事を掌っていたと考える。
水路や水道=とも関連して、山手から流れて有明海沿岸部に注ぐ河川は多いが、東西方向に流れる河川はないので、長(揚子)江下流域のクリークの如く河川と河川の間に用水路を造り、往来したが、一大率の武官に管理、観察された。



 
  1. 2015/12/31(木) 09:17:35|
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