見まごう邪馬台国

◇えらいこっちゃ

 陳寿は、邪馬台国への道程で方向性を誤認していたとする研究者は多い。例えば、以下(【】内)の如く頓珍漢な説明する論者もいる。

 【方向を示す場合、通常は四分法、または八分法が使用されます。現代の様な測量技術がなかった古代では四分法で言う場合が多く、『三国志』での方向記事 2237中、八分法で記載されているのは、僅か40ヶ所に止まります。したがって、「倭人伝」東南、伊都国に至る。東南、奴国に至る。東南、裸国・黒歯国 に至る。との八分法は、『三国志』でも珍しいと言えます。拙著では、倭人伝の17ヶ所の方向記事のそれぞれが、四分法、または八分法のどちらで記載されて いるかを検討しました。 四分法の方角は90度の幅を持ち、現実の「東南」は東と記す事もあるし、南と記す事もあります。
 一方、太陽の昇る方角を「東」として基準にすると夏至と冬至では約60度違うので四分法での「東」は、実に150度(90+60度)の幅を持ちます。太陽が昇る方向を基準として「東]を決める場合のもう一つの落とし穴は、午前中でも6時と11時頃では太陽の位置がかなり違うという事です。】  

 「三国志」の記述を精査した訳ではないが、常識的には、現在地から多くて四方向に延びる道路を説明するのが四分法で、東南向きでも南方向き道があったならば、東南が東とされた。また、八分法であれば、少なくとも五つ以上の方向に道が延びていたと考える。
 末盧国からの「東南陸行伊都国」は、途中、地形的な状況から南向きの本流松浦川から分岐して東向きの支流厳木川へ向かい陸行したとすれば、「」とした編者陳寿の意図は、今迄の道「東南至奴国」と分岐する道「東行至不彌国」の位置関係を示唆した。尚、「東南至裸国黒歯国」も朝鮮半島の沿岸航海と同様、九州東岸を南下後、太平洋岸を東行するか、瀬戸内海を東行後、紀伊半島を南下する対角線的な方向性になる。

 【古代人が正確な時刻を把握していたとも考えられず、方向を決める際に一日の中で、今、何時頃かを正確に認識していなければ、とんでもない方向誤認を起こす可能性があります。太陽が昇る方向を「東」とすれば、方向誤認は起こすはずがないという学者はざらにいますが、これは間違いです。季節に拠り、一日の 中でも時刻に拠り、太陽の位置は大幅に変化します(中略)。また、位置関係が略確実な唐津(末盧国)から糸島郡三雲(伊都国)への現実の方角は「東北東」にも拘わらず、倭人伝は「東南」と記しており、60~70度の方向誤認があります。この一点からしても、倭人伝の南は現実の地理でも南だ。とは言えません。 】

 これでは現代人に比べ、古代人は何の知識もない間抜けだと云わんばかり。時計を持ち、公共交通機関が在り、整備され道路標示や地図情報、磁石等の道具を 持つ現代人は、何も考えずとも殆ど迷う事なく目的地に到着する。当時でも時間の知識や道路の情報はあったが、道路や水路のない砂漠を何日も行く隊商等、ど うやって自分達の位置を知り、目的地に着いたのか。それは大海原を航海する海民も同じで、彼等は方向を誤認したら死ぬ。詰まり、当時、時間も一定の単位と して正当な認識があり、方向性も略正中していたと考える。
 帶方郡に服属する沿岸航海民の水先案内で郡衙から狗邪韓国、そこから邪馬壹国に服属する倭人系外洋航海民の水先案内で末盧国へ向かい下船した魏使は、伊 都国から派遣された武人や官吏に方向を問うた。何故なら誤った情報は戦略的にも意味をなさず、地理志としての資料や情報を収集するのも目的の一つだったた め、そうした技量や能力を持った官吏が同行、当時としての正確な記録を残した。以下、次回。

150度=当時の人々に、そうした幅が認識できなかった主張するのであれば、呆れてし まう。こうした説には向かいたい目的地へと云う思惑や意図があるからで、例えば、夏至と冬至の日出を基本にすれば、夫々を中心に90度の範囲が重なり合う 範囲の約30度になる。そこを大凡の東として、山木や塔等、不動の目印を設けた。それが故、古来、日出と日入の位置や星座を日毎に監察し、記録した。
道路=当時、大陸での移動は河川航行の水先案内か、馬車や乗馬に拠った。馬車の場合、馭者の道案内に随った。乗馬や陸行の場合、予備知識で以て目的地へ向かった。何れにしても明け方に出て、半日か、日没前に宿泊地や目的地に到着できる様に宿場や宿営地が設定された。
松浦川本流と支流厳木川=末盧国~伊都国へは、佐賀県東松浦郡相知町付近から佐賀県武 雄市方面へ南流する松浦川から東流する厳木川で向かうが、そこから不彌国へは治水用の掘り割りがあったか、大使や副使を輿に乗せ、荷物を負い徒歩で向かっ た。邪馬壹国へは、同様の平底船で多くの小河川に分流する今の筑後川を遡上、途中、流れの緩やかな場所の飛島や設えた飛び石を使い、満潮時の逆流を利用し て渡河した。尚、投馬国へは末盧国で沿岸航海民の船に乗り換えて九州西沿岸部から大村湾に入り、南下した。何度も述べたが、「南至投馬国」と「南至邪馬壹国」の始点は、倭人の領域北岸とされた狗邪韓国で、この「南至~」も四分法で、東・東南ではなくではなく南側と云うニュアンスになる。
地形的な状況=途中、本流や支流、分水嶺等の分岐点はあったかも知れないが、始発地から小高い山や丘陵に囲まれた川縁の道を遡り、分水嶺は谷間の踏みしめ道を辿った。
裸国黒歯国=「国名と官名」項で、この裸国と黒歯国を小笠原列島付近かとしたが、上質の黒曜石が採れる神津島や恩馳島等の伊豆諸島かも知れない。おそらく、九州か、四国の東岸から太平洋岸沖へ出て黒潮に乗り、東へ向かい、満ち潮に乗り、列島沿岸部の寄港地に碇泊した。
位置関係=『邪馬台国はなかった』の著者古田武彦は、伊都国への東南を「道標」とした。これにも、博多に遺跡が多く、当時の中心部でなければと云う著者の思惑と、その方面へ行かなければと云う意図的な操作がある。
方向性=古代エジプトの遺物の正確な方向性等からも判る。そうでなければ、東西南北と云う文字が創られた理由や、その意義がなくなる。時間や暦等も、現在のそれと全く同じではないが、当時としての論理があった。それが故、古来、太陽や月、星々の運行を観察した。





 
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  1. 2016/01/11(月) 08:09:36|
  2. 5.思惑と意図
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◇論者の意図

 論者は以下の如く続ける。【方向の論理について、「地点と地点」と「地域と地域」を峻別し、倭人伝の17ヵ所の方向記事の夫々が、どちらにあたるかを検 討しています。則ち、末盧国から東南陸行500里で伊都国に至るとの旅程記事の「東南」は特定地点と特定地点、即ち末盧国中心から伊都国中心迄の特定方角 を示します。一方、狗奴国は邪馬台国の南という記事は、地域と地域を示すもので、狗奴国と邪馬台国の領域の大体の位置関係を表現しているものです。また、 視界内で起こる「方向座標軸の誤認」と視界外で起こる「地形誤認」に拠る方向誤認を区別しました。
 例えば、唐津(末盧国)から唐津湾越しに糸島半島(伊都国)へは視界内なので地形誤認はありえず、これを「東南」(実際の地理では東北東)とするのは、 方向座標軸に60~70度の狂いがある事になります。中国の会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とするのも60~70度の方向誤認がありますが、中国か ら日本列島は視界外なので「地形誤認」に拠る方向誤認です。則ち、会稽郡から実際の「東」を指差して倭国が、その方向に位置すると判断したのですが、日本 列島の位置を誤認したため実際の東には存在しないという事です。】

 例えば、現在でも「東は何方」と云う問いに対して、磁石で正確に計り、東を指す人は居ない。会稽山と日本列島の位置関係を「地形誤認」とするが、それこそ南や北ではなく、90度開きのある四分法「東」と考える。また、奴国から見て視界内の南に有る狗 奴国の「南」等、60~70度の方向誤認しているのだろうか。魏使等は、朝鮮半島迄の方向性は正しく認識していたが、狗邪韓国から末盧国、そこから見た糸 島方面の東北東を東南と誤認して記述したのか。または、尋ねた倭人や伊都国の官吏が自国の方向性を誤認していたのか。それとも実際を東南と認識したのか。

 更に、【さて、唐津(末盧国)に上陸した帯方郡使が唐津湾越しに視界内の糸島半島付け根にある伊都国を東南と判断したのは、60~70度の方向座標軸の 狂いがある事になります。倭人伝の方向記事を検討する場合、視界内かどうかは極めて重要なポイントです。視界内の誤認は方向座標軸の狂いに拠るものです。 この唐津から糸島半島への方向誤認は、帯方郡使が九州に上陸した季節に関係がありそうです。先に述べた様に、太陽が出る場所は夏至と冬至では約60度も違 います。もし、帯方郡使が夏至近くに九州に上陸して太陽の出る方角を東としたら、実際の東は「東南」と表示され、逆に冬の最中に上陸したら、実際の東は 「東北」と表示されます。】
 
 「三国志」等の漢籍、いや、当時の方向性の基準を北極星、太陽の昇る東(あがり)、沈む西(いり)とすべきだ。何故なら、AD100年頃に成立したとされる漢籍の漢字辞典『説文解字』等では「東」を昇る日と扶桑(神木)との会意文字と云う認識だったからだ。
 通説的に、伊都(いと)国を糸島半島南部福岡県前原市山手付近とする理由は、糸島(いとしま)の音通と同期の遺跡が豊富にある事だろうが、当時の移動手段を考える限り、末盧国から陸行せずとも沿岸航海用船に乗り換えて糸島付近迄、沿岸部を水行後、平底船に乗り換え、河岸の従者に曳かせて河川を遡り、南下した方が、遥かに楽 に早く着く。こうした事に就いて合理的な説明もないまま、態々、海岸沿いや付近迄の河川もない山中を陸行したとでも云うのか。当時の人々には方向性の誤認 識が在り、道程に不備があるとして、論者の意図する場所に向かいたいのだろうが、方向性の誤認、意にそぐわないから、一つの誤記や誤植とすれば、全てとも なりかねない。そういう危うさがあると知るべし。以下、次回。

狗奴国=「倭人伝」~次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里とある。
音通=「国々の比定」項でも述べるが、伊都国(有千餘戸)を佐賀県東松浦郡厳木(きうらぎ→いつき)町や同県多久市多久町石州分(西に八幡岳)付近に比定する(古賀山1号墳・東多久町)。熊本県鹿本郡鹿北町多久、その後、狗奴国との戦いに敗れ、福岡県前原市多久・三雲・有田付近で、卑彌呼死して葬られたのか。福岡県宗像市田久・田熊・東郷・西郷・南郷・田代・田熊付近の宗像大社に祀られる三女神とも関連があった。後代、大社系と八幡宮系に大別されて、旧石見国の島根県平田市(現出雲市)多久町・東郷町・西郷町に移動した。この「タク」と云う地名を負う人々が、邪馬壹国伊都国系か、投馬国系か、狗奴国系の人々なのかは定かではないが、何らかの人為的な動きがあった。*きうらぎ→教楽来(けうらぎ→きょうらぎ)
 佐賀県唐津市厳木町浦川内の河内遺跡では西九州に多い曽畑式土器が出土した。同県多久市は二万年前から人が住み生活を営み、約1万2千年前から狩猟を 行った。三年山遺跡や茶園原遺跡周辺に尖頭器、槍先形の石器等、最大規模の遺跡があり、縄文時代、台地に定住、産出する硬いサヌカイト(讃岐石)を用いて 狩猟・漁撈・採集の生活をした。弥生時代、稲作が普及、牟田辺遺跡等に集落を形成、安定した生活を営んだ。
同期=古来、列島には朝鮮半島や大陸東南部等、多くの人々が渡来し、自身の生業に適し た土地を目指した。福岡県前原市付近に住んだ人々はどういった人々だったのか。もう一つ、副葬される品々は伝世される事もあり、その製作年代が、その古墳 の築造年代を表すとは限らないと思う。
糸島水道=地質学や気象学に拠ると、当時、平均気温が一度程高く、縄文海進に近い状態で、満潮時、糸島半島基部には水道があった。奴国や不彌国が博多湾岸だったとすれば、沿岸航海で行けたが、何故か、末盧国以降、伊都国や不彌国へは陸行とされる。
 漢和大辞典に拠ると、「倭人伝」伊[・ıər][・ıi][i]/都[tag][to][tu]とあり、伊都国は八咫(やあた)や八幡(やはた)の音訳 「ヤァタ」とした。「いと」の音訳漢字も怡[diəg][yiei][i]、土[t`ag][t`o][t`u]とあり、隋唐期以後の中古音や近世音でな ければ、イェィト(イツ)とは読めない。後代、音韻変化に拠り、「イト(怡土)→イツ(厳)」に転音した後、音読みで「きう」にされた。「厳=ゴン・ゲ ン」とされるが、漢和大辞典に拠ると、厳[ŋıam][ŋıʌm][iem]と鼻濁音で始まり、「厳(木)」を字音で、「ヌギァム(のき)→ギァム(な ぎ)→キァウ(だぎ)→キァウ(らぎ)」、訓読では「ヌキムしい→キビしい」。また、糸島の「イト」と云う訓は、伊豆(いづ→いず)、伊東、出雲(いず も)等の地名と同源の「出(いづ)」で、飛び出した半島や、扇状地等、土砂の堆積で延び出る地。
楽に早く着く=『「邪馬台国」はなかった』の著者古田武彦氏は、「倭人伝」魏使等は朝 鮮半島西岸の北部は沿岸航海したが、「韓国を歴て」と云う語句を取り上げ、ここから上陸して半島南部を東南方向へ陸行したとする。その理由を魏帝の威信を 誇示するためとする。しかし、当時、辰韓・弁韓・馬韓の三韓が帶方郡に服属させられたのであれば、独立を目指す人々が居なかったなどあるまい。倭の産物、 風習や気候等、詳細に記録した魏使や郡使等が、魏帝の勅書と下賜品を女王に確実に届け、受領させると云う命を受け、そんな危険を冒すような間抜けではある まい。


  1. 2016/01/15(金) 13:26:44|
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◇誤認識

 更に、以下の如く続ける。【仮に帯方郡使が夏至の頃、唐津(末盧国)に上陸したとすると、その頃の太陽は糸島半島から昇ってきますので、糸島半島付け根 の三雲(伊都国)を東南と判断した可能性が高いのです。「倭人伝」九州上陸地点の末盧国「倭の水人好んで魚・アワビを捕え、水深浅と無く皆沈没して之を取 る」とあります。北部九州でアワビを採るのは八月中旬迄です。それ以降になると海にはクラ ゲが出て皮膚を刺すからです。同じく、末盧国の陸路を「草木茂盛し、行くに前人を見ず」というのも夏の光景です。もう一つ、古代の航海は気温・水温が低い 晩秋から早春、特に冬期は避けたものです。また、朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道での季節的な風力は真夏が最も弱く航海の安全に適しています。以上の様に、 倭人伝の描写、及び航海の安全から見て、帯方郡使の九州上陸は盛夏であった可能性が強く、これが方向誤認を起こした理由の一つです。】

 >朝鮮海峡・対馬海峡・壱岐水道での季節的な風力は真夏が最も弱く航海の安全に適しています~云々。こうした知識を持った海民の水先案内で半島沿岸部や瀚海を渡った魏使が、末盧国から見た伊都国方面の東北東を「東南」に方向座標軸を誤認としたというが、昇る太陽を見て、東南と認識する等、有り得まい。況んや、狗邪韓国から対馬と、そこから壱岐も東南方向だとして、目視で「南」に誤認したとでも云うのだろうか。

 【中国大陸、及び朝鮮半島から見た日本列島の位置について、歴代の中国正史や他の漢籍は、全て朝鮮半島の「東南」としています(中略)。ところが、現実には朝鮮半島の東南は、九州、及び西中国だけで、日本列島全体(九州~関東~北海道)は朝鮮半島の東、または東北東に位置します。
 「会稽東治の東」「帯方の東南」』から分かる様に、60~70度の方向誤認があります。以上の様に、中国側は歴史的に一貫して日本列島の位置について、60~70度の方向誤認をしてきたのです。】

 漢籍には、倭(わ→やまと)国や日本(やまと→ひのもと)国等と記載される。また、平安遷都後でさえ、東に蝦夷が居る。これをして倭人の領域を日本列島全体とできるのか。「倭人伝」以下の記述から倭の範囲を東西を九州~中部地方、南北を北陸~紀伊半島南部の長方形として比定した。

 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里 

  【1402年に朝鮮で世界地図として作成された『混一彊理歴代国都之図』が日本を南北に長い列島と配置しているのを根拠とし、古代中国では日本列島が朝鮮半島から台湾近く迄、南北に連なっていると誤認していたという有力説があります~云々。しかし、混一彊理図は、室賀信夫氏が畿内説の根拠として紹介した龍谷大学所蔵のもので教科書にも載っており有名です(中略)。ところが、本来、この混一彊理図は、中国での地図に日本から齎された行基図を合成した世界地図である。最近、長崎県島原市本光寺で龍谷大学所蔵図とは一字の違いの地図が発見され、それでは日本列島は東西に正しく配置されています。】

 今では、測量技術の発達や人工衛星等の画像で地球の様子が手に取る様に分かるが、江戸期でも伊能忠敬図の完成を待たなければ、列島の正確な形状と位置関 係は知られておらず、況んや、古代、大凡の形状や配置しか分からなかった。但し、こうした事と方向性を誤認する事とは意味が違う。当時、国外への移動は命がけだった。砂漠や外海を渡るとなれば、言わずもがな、当時の方向感覚や知識に対する我々の誤認識だと思う。

八月中旬=景初二年六月。倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。六月に 魏の京都洛陽に遣わしたと在り、当時の六月は、現在の7~8月の夏期として良い。その年の十二月、魏帝は女王に対して詔書で報いる。その後、帰途に就いた と思われる。次の「其(正始)四年倭王復遣使~云々」「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授~云々」「其八年~云々(中略)、因齎詔書、黄幢。拜假難升 米、爲檄告喩之。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。殉葬者奴婢百餘人」も同月だったからか、何故か、月の記載はない。
方向座標軸の誤認=論者は方向の論理について、「地点と地点」と「地域と地域」を峻 別、末盧国から東南陸行500里で伊都国に至るとの旅程記事の「東南」は特定地点と特定地点とする。一方、狗奴国は邪馬台国の南という記事は地域と地域を 示すもので、狗奴国と邪馬台国の領域の大体の位置関係を表現している。また、視界内で起こる「方向座標軸の誤認」と視界外で起こる「地形誤認」に拠る方向 誤認を区別したと云う。
東南=漢書(82年)楽浪海中、魏志倭人伝(280年)帯方の東南、後漢書(5c前 半)韓の東南、宋書(488年)高麗の東南、南斉書(510年頃)帯方の東南、隋書(636年)百済新羅の東南、晋書(646年)帯方の東南、北史 (659年)百済新羅の東南、翰苑(660年)韓帯方楽浪の東南、通典(801年)帯方百済新羅の東南、旧唐書(946年)新羅の東南、唐会要(961 年)新羅の東南、新唐書(1060年)新羅の東南。等と、陳寿は倭を帶方東南山島依りて~とした後、外海を渡る基地狗邪韓国、倭の領域山島の北岸とした理 由はなんだろうか。 
倭の範囲=陸上に住む人々倭地の九州北部(西南部を含むか)邪馬壹国と伊都国連合と狗奴国(東南沿岸部には異種の侏儒國)とは対照的に、帶方郡東南の海上の山島に拠りて住む倭人は、次項のとも関連して北陸沿岸部付近迄と紀伊半島と同緯度の伊豆大島や八丈島付近にも住んだと考える。尚、内陸部には縄文系の狩猟採集民も居ただろうが、未だ交易等、接触がなかったのか、「倭人伝」に、その記載は見えない。
裸國・黑齒國=「国名と官名」項で、小笠原諸島か、としたが、伊豆諸島の神津島・恩馳 島で採れる黒曜石が本州に多く分布、沼津市の愛鷹山、三万八千年前の遺跡からも見つかったとされる。裸国=木々の生えない国、黒歯国=黒曜石の採れる国等 の意味があるのかもしれない。伊豆半島南東方の大島・利島(としま)・新島・神津島(こうづじま)・三宅島(みやけじま)・御蔵島(みくらじま)・八丈島 (はちじょうじま)の七島。各島黒潮につつまれ、近海は好漁場。椿油を産出。朝鮮半島の南西海上の済州島と同様、火山島により、地下水に乏しく雨水を利用 する所もある。
室賀信夫=畿内大和説、昭和31年に論文「魏志倭人伝に描かれた日本の地理像」
行基=飛鳥~奈良時代の僧侶(668~749年)。混一彊理図は、他にも天理図書館所蔵図、熊本県本妙寺所蔵図が有り、これらでも日本列島は、略正しく配置される。龍谷大学所蔵の混一彊理図は畿内説の根拠としては影が薄れ、評価が一変した云われる。



 
  1. 2016/01/21(木) 22:31:11|
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◇南至の起点

  (H)南至投馬たぎま→たいま→とま)国 水行二十日

 通説では「南至」の起点を不彌国(福岡県糟屋郡宇美町)とするが、ここから南へ20日も水行する水道や海岸はない。「倭人伝」女王國渡海千餘里復有國皆倭種 有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里と云う記述から一大国から福岡県福岡市西区小呂(をろ)島、同県宗像市大島を経て九州北岸を千余里渡海すると別の倭種が有り、更に女王の領域から四千余里を隔て南の侏儒國を九州東南部とした。また、起点を帯方郡衙とする説もあるが、当時はエンジン付きの船と違い、主として櫂 を用いた手漕ぎの船で、最大速度は10ノット(18.52㎞/h)程度、実船相当の船速4~6ノット(7.5~11㎞/h)程、午前中の干満を利用した 6~12時間で、1ノット=一海里/h(約1852m)として約60~90㎞位を目安とし、当時、それを生業とする海民に拠る複数の手漕ぎ船であれば、 もっと早く進んだのかも知れないが、潮待ちや天候の影響等を考慮して馬の速歩と同様に、最速で100㎞/日と設定した。これを基本に帯方郡~狗邪韓国迄の七千余里を直線距離として地図上で計測すると、約650~850㎞を航行日と休息日や台風等の悪天候に因る予備日を設けた3日サイクルで、最長の日程「18~26日」となり、水行二十日では狗邪韓国付近迄が精一杯と思う。
  こうした事に則し、狗邪韓国~末盧国迄の三千余里(180~270㎞)を7日~14日(平均10日)、末盧国から投馬国迄は全水行二十日の残りの十日で到着したと考える。詰まり、「倭人伝」其北岸狗邪韓国からの始度一海と南至投馬国水行二十日が対応、倭人の領域東北岸とせず、北岸とした狗邪韓国から四分法での南への水行で投馬国に至る迄の最大日数が二十日となる。
 狗邪韓国の「到」は船を乗り換えただけではなく外洋航海民倭人領海に到った事、伊都国の「到」も、その領海を出て倭地の領域に到った事を示唆し、編者陳寿には、二つを併せて邪馬壹国女王の領域と云う認識だったと思う。(H)を意訳すると下記の如くなる。

  (倭の領域北岸狗邪韓国から南で至る投馬国 そこ迄 水行二十日程

 尚、末盧国には官や副官が記載がされないので、投馬国へは伊都国方面の碇泊地とは違う松浦半島西側の有田川河口奥で沿岸航行用船に乗り換えたと考えられる。詰まり、上陸した末盧国から伊都国迄、徒歩(河川水行)で東南へ陸行した魏使は向かっていない。それが「南至」とされない理由とも考えたが、次項でも「南至邪 馬壹国~」とされて、郡使等は邪馬壹国女王に謁見するため詣でたとあるので、里程(距離数)でない理由とも関連して、既に通過した南至の基点狗邪韓国から末盧国迄の里程も合算され、日程として記述されたと思われる。詰まり、帯方郡衙から狗邪韓国迄の総距離七千余理は既知の情報として文末に里程として記したが、そこから実際に水行した三千余里(日程)以外、当地での伝聞としての末盧国から投馬国迄の里程に費やす最長の日数、水行10日を併せた狗邪韓国からの 総日数が水行二十日になる。
 この投馬国への実質航海3~4日(最長で10日=三千余里)は、伊万里湾奥の佐賀県伊万里市二里町中里・大里・東山代町浦川内付近から有田川を下り、伊万里湾を出て、九州北岸を西側へ水行後、長崎県北松浦郡田平町と平戸間の水道を通り、大村湾東沿岸を南下した長崎県西彼杵郡多良見町中里名・浦川内・中通福井田、同県諫早市西里・松里・名切中通町・馬渡町・、同郡長与町中通・同郡時津(とぎつ)町中通・飯盛(飯盛岳)、長崎市中里中通付近一帯を投馬国中枢として比定した。その実質水行3~4日の停泊地に就いては次章の「国々の比定」で考える。

たぎま=投[dug][dəu][t`əu]・馬[măg][mă(mbă)] [ma]=「タグマグ→タッマッ」「テァゥマ(テァゥバ)→タゥマ(タゥバ)」。奈良県磯城郡三宅町但馬、同県北葛城郡當麻(たぎま→たいま→とう ま)町、長崎県長崎市田子の浦(たごのうら)・手熊(てぐま)・中通、同県西彼杵郡香焼町丹 馬(たんば)・里・馬手ヶ浦・角力(すもう)灘→周防(すぼう)灘→諏訪(すわ)灘、福岡県大牟田市田隈・同県福岡市早良区田隈、同県宗像市田熊・東郷 (西郷・南郷)、広島県因島市田熊・鏡浦町・土生町、岡山県津山市田熊・福井、福岡県八女市宅間田・福島・柳瀬、香川県三豊郡詫間町香田等の同系地名が在る。
 長崎県宇土市の曽畑貝塚で出土した縄文中期(BC3000年頃)の曽畑式土器の分布は特徴的で、九州西部から南は種子島・屋久島や沖縄まで分布するが、 東部の大分県や宮崎県からは出土せず、本州では山口県西岸の一部だけで内陸部には入っていない。BC5000~BC1500年頃、韓国慶尚南道釜山市の東 三洞遺跡から曽畑式土器と同様のものが発掘されて半島経由とされたが、古い時期の曽畑式土器が、鹿児島県日置郡金峰町(田代)阿多貝塚、同県大口市(里・ 田代・鳥巣・馬渡)の日勝山遺跡(隣に鶴田町)、同県姶良郡横川町(馬渡)の星塚遺跡、同県頴娃町(鶴田)折尾遺跡から発見されたため、南西諸島を北上した海民の関わりを否定できない。他にも福岡県甘木市大字矢野竹・田代の矢野竹(やのたけ)遺跡、佐賀県鳥栖市牛原町・轟木・田代の牛原前田遺跡、山口県西 岸でも出土した。南中国や東南アジアの海民が南西諸島伝い北上して伝えたと考える。
水道や海岸=先述した様に、「まぼろしの邪馬臺国」の著者宮崎康平氏は、当時、博多湾 奥の低地を南北に貫く水道が在ったとするが、そうした水道を利用したならば、何らかの示唆があると思われる。また、九州の西海岸では、邪馬壹国が投馬国の 南側に位置する事となり、女王国の最南端とされる奴国と狗奴国に対する位置関係に整合性がない。
東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里=女王国(一大 国)から東側へ千余里を渡海すると、また、倭人が国を有す。更には人長三四尺の女王国を去るの四千餘里南側に侏儒國が在る。この場合、地形的に九州北海岸と東海岸を結ぶ対角線的な航海だが、投馬国の場合、直角三角形の短辺と長辺を航海するので、狗邪韓国から見て、略南へ向かう。
櫂を用いた手漕ぎ船=風向きに拠っては帆を掛けたとも思われるが、夏期の朝鮮海峡や玄界灘は南風(はえ)で逆風になる。
約650~850㎞=通説的に帶方郡の比定地にはソウル付近や平壌付近がある。、
伊万里川河口奥=佐賀県伊万里市波多津町板木(いたぎ)の田島神社や中山の大山祇神社付近に一大率の役所、西側の三岳頂に見張り台があって、その動向を監視・検察されたのかも知れない。
~里=佐賀県唐津市中里・佐志中里中通、長崎県壱岐郡郷ノ浦町触・母ヶ浦・名切、同県北松浦郡福島町免・同郡田平町免(さとめん)・同郡鷹島町免・中通免・同郡鹿町町口ノ免・関・同郡生月町免・同郡佐々町・同郡世知原町中通免、同県佐世保市中里町・名切町・中通町・但馬越・針尾島指方町(飯盛山)・美町(木場山)・宮田町、同県東彼杵郡東彼杵町郷・名切・川内・木場・飯盛(飯盛山)、同郡川棚町中組・日向、同県大村市中里町・久原(市杵嶋神社)・大里町・木場(飯盛山)・玖島(大村神社)、同県長崎市中里町・木場(七面山)、同県北高来郡飯盛町名。他にも熊本県球磨郡湯前町中里・宮田・ 久米、高知県安芸郡安田町中里、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町中里、三重県北牟婁郡海山町中里、同県四日市市中里町、山口県小野田市中里・亀ノ甲、兵庫県三 木市細川町中里、同県神戸市北区中里町等。大村湾西岸を航海した場合、時津町付近、東岸の場合、多良見町付近が停泊地か。
福井田=長崎県天草郡有明町福井田・倉岳町宮田・御所浦町大通越・松島町教良城・苓北町木場と在るが、何故か、「里」の地名は無い。


 
  1. 2016/01/28(木) 14:16:04|
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