見まごう邪馬台国

◇本末転倒

  (南至邪馬壹(かまぃえ/やまぃえ)国 女王之所都 水行十日 陸行一月

 見まごうかな、南至を「東至」の間違いだとする研究者や論者がいる。何度でも云うが、末廬国で上陸して伊都国や不彌国へ徒歩で行く必要はない。況んや玄 界灘から瀬戸内海を経て「東至邪馬壹国水行十日+一月(水行四十日)とされて然る可きだろう。見まごうかな、短里の二千里では朝鮮半島東南部から畿内迄の 直線距離大凡900㎞にはならないので、公里「約434m」だと云う。縦しんば、そうだとしても倭人の領域北岸の狗邪韓国を「其西岸」として狗邪韓国から東側の福岡県宗像市沖ノ島、いや、島根県の隠岐島か、愛媛県大三島宗方とでもしなければ成立しない。当に本末転倒、意図的と云わざるを得ない。
 この「南至」の始点も狗邪韓国からの水行と陸行の総日数とすれば、この水行十日も狗 邪韓国から末盧国迄、実際に向かった水行三千余里の日程としての十日(実質航海3~4日)、陸行一月(実質陸行10~15日)は、末盧国で上陸後、伊都 国、不彌国を経て邪馬壹国迄を河川や水路沿道を歩いた日程で、これも狗邪韓国からの全日程と考える。()を意訳すると下記の如くなる。

  (倭の領域北岸狗邪韓国から)南で至る邪馬壹国女王が都する所(迄)水行十日 陸行一月

 当世、最高の文官だった編者陳寿は、この後、帶方郡より女王国迄、一万二千餘里で至るとして、帯方郡衙から韓国を歴て狗邪韓国迄の水行七千余里(最大 18~26日)と對海国と一大国と末盧国(半島を挟み東側の唐津湾岸)、夫々の渡海を合わせて三千余里=水行十日(実質3日)と残り、約二千里、領域内の 全里程を約五千里(水行十日と陸行一月)とした。詰まり、帯方郡衙~狗邪韓国迄の七千余里、狗邪韓国から末廬国迄の三千余里は最長で水行10日としたの で、末盧国から伊都国迄の陸行五百里、実際に向かってない奴国迄の百里を除き、不彌国迄の百里を足すと六百里、残り千四百里弱で邪馬壹国に至る。詰まり、 松浦半島付近の末盧国を中心に二千里(最大でも200㌔以内)では九州管内を出る事はない。
 述べてきた様に、「倭人伝」の編者陳寿は、その里程記事で帯方郡衙から朝鮮半島東南部への総距離七千餘里とした。その後、狗邪韓国、始度一海~とし、此処より倭人系海民の領海南側、女王国に属す對海国と一大国、末盧国を含む倭人陸鰐(くぬがわに)の海域(瀚海)を示唆した。一方、伊都国~は、末盧国以降、上陸後の邪馬壹国と伊都国連合の領域「倭地」を示唆したとすれば、(H)投馬国と() 邪馬壹国だけが、距離数ではなく日数で記述される理由が分かる。詰まり、帯方郡から韓国を歴て狗邪韓国に到る水行の総距離数七千余里を魏使は既知の情報に 従い水行した。そこから末盧国迄の海上領域三千余里(総日数十日)は実際に渡海し、一大率の官吏や武官からの伝聞を距離数に換算した情報となる。その海 民、陸鰐の領域末端(南岸)の末盧国で沿岸航行用船に乗り換えて西回りで、九州西岸を最長で十日(三千餘里)程、南下すると投馬国へ至ると云う日程は実際 に行ったかどうかは別として、これも伝聞としての情報になる。一方、邪馬壹国の水行十日も投馬国の水行二十日の半数と同様に狗邪韓国から末盧国への渡海に 要する最大日数で、南至邪馬壹国も狗邪韓国から南へ水行十日した後、末盧国から最長で一月程、大凡、南方向へ陸行すると女王の都邪馬壹国に至る。水行十 日、陸行一月は、倭人の領海である瀚海と陸上の倭地(狗奴国を除く)を併せた日程で、「南行」とされない理由は、前項と同様、不彌国からではなく、既に移 動した狗邪韓国からの里程を合わせ、日程に換算したからと考える。

「かまぃえ→カメ」=「記」神武東遷、亀の甲羅(海民の船)に乗り、釣りをしつつ羽擧(はぶ)来 る人と速吸門で出遭い棹(さを)を差し渡して御船に引き入れ、倭国造等祖槁根津日子(さをねつひこ)と名付く。亀が手足(船の櫂?)を鳥の如く動かす様子 を「ハブク」とする。また、「海幸山幸神話」御子葺不合尊の乳母として玉依姫が亀に乗って山幸の上国へ向かったとある。後者は「やまぃえ→ヤメ」。*福岡 県八女市亀の甲環濠遺跡
大凡900㎞=千餘里を約400㎞は一日で航海出来る距離ではない。日本海や瀬戸内海沿岸部、何れを航海しても玄界灘や響灘の海上では碇泊できないので、対馬の鰐浦、宗像の沖ノ島や大島、山口県北西岸や彦島等に停泊せざるを得ないが、記述されない理由が判らない。
東側=福岡県宗像市(東郷・南郷・同県福津市西郷)の沖ノ島から山口県下関市豊浦町川棚・宇賀・同県長門市油谷町・板持・大津郡日置町二位の浜、島根県隠岐郡海士町福井中里・都万村都万・(上・中)・五箇村北方・南方・山田・西郷町東郷・犬来(いぬぐ)、同郡西ノ島町宇賀、同県平田市(出雲市)奥宇賀・口宇賀・多久。倭人系海民と耕作民((河川民=里)が拡がったのか、海岸線を一周り、新たな耕作地を求め、河川を遡上して山間の谷へ入ったと思われる。「~里」と云う地名は他にも以下がある。
 新潟県中魚沼郡中里村田代、秋田県仙北郡太田町中里、青森県北津軽郡中里町八幡、岩手県一関市中里・宮田・山田、同県下閉伊郡岩泉町中里、同県二戸郡一 戸町中里、同県宮古市中里・板屋、宮城県石巻市中里、同県栗原郡高清水町(栗原市)中里、同県古川市(大崎市)中里、長野県東筑摩郡坂北村中里、山形県東 田川郡羽黒町中里・同郡櫛引町馬渡、同県天童市中里(西沼田遺跡/矢野目・弁財天神社)、同県西玉置郡小国町越中里・東置賜郡高畑町中里、同県山形市中里 (八幡神社)、福島県二本松市中里、同県石川郡浅川町中里、茨城県那珂郡瓜連町中里(鹿島神社)、同県西茨城郡岩瀬町中里、同県岩井市(坂東市)中里、栃 木県河内郡上河内町中里、同県小山市中里・鏡、群馬県甘楽郡妙義町中里、同県群馬郡群馬町中里、同県高崎市中里町、同県多野郡中里村(八幡宮)、埼玉県北 葛飾郡栗橋町中里、同県行田市中里・長野、同県児玉郡美里町中里・八幡関、同県坂戸市中里・金田(八幡神社)・新堀(金山神社)、同県与野市(さいたま 市)中里、千葉県我孫子市中里、同県勝浦市中里・山田、同県香取郡下総町中里・高倉・名古屋、同県木更津市中里・下宮田、同県館山市中里・犬石、同県長生 郡白子町中里・福島、同県野田市中里・山崎、東京都北区中里・新宿区中里町・市谷八幡町、同都清瀬市中里、神奈川県小田原市中里、同県中郡二宮町中里、同 県平塚市中里、同県横浜市南区中里、静岡県浜松市中里町、同県富士市中里町、同県焼津市中里、愛知県江南市大海道町中里、三重県四日市市中里町、滋賀県愛 知郡湖東町(東近江市)中里・下里、兵庫県神戸市北区中里・同県三木市細川町中里・口吉川町中里、和歌山県牟婁郡那智勝浦町中里、山口県小野田市中里、高 知県安芸郡安田町中里。
南至=これも四分法で云う大凡「南」と云うニュアンスで、帯方郡衙から見て東南海上の山島に依りて住む倭人系海民が分裂、東側に住む倭種とは別の倭人系海民と耕作民(陸鰐)の領海と倭地(邪馬壹国伊都国連合)の領域を合わせ、狗邪韓国から見て南側とする。
最大でも200㌔=東南陸行五百里(最長50㎞)+東行百里(最長10㎞)+南側千四百里(最長140㎞)で、半径二千里ではない。




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  1. 2016/02/04(木) 16:46:10|
  2. 5.思惑と意図
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◇海洋民と遊牧民

 「倭人伝」編者陳寿の思惑や意図を述べてきたが、末盧国中枢として佐賀県唐津市柏崎(柏崎遺跡・宇木汲田遺跡)で上陸後、伊都国中枢迄、佐賀県唐津市相知町伊岐佐(中原遺跡)→同市厳木町浦川内(河内遺跡)・広瀬・鶴田神社(浪瀬)の宿泊地は、末盧国の集落か、伊都国が派遣した一大率の見張台や役所だから記さないのだとすれば、不彌国以降、邪馬壹国(可七萬餘戸)迄の10~15程度の宿泊地名を記さないのも同様の理由として良い。だた、一つ疑問が在る。伊都国から邪馬壹国女王の宮殿には、東西に流れる河川も見あたらない地形の不彌国に向かわず、当時、有明海沿岸部だったと思しき佐賀県小城市牛津町とした奴国の泊津迄、多久川と牛津川を流れ下り、沿岸航海用船に乗り換えて有明海沿岸航行して、筑後川等の河川を遡上した方が楽に早く着いて合理的だと思うが、何故、魏使や郡使に河川を渡らせたのだろうか。
 例えば、「倭人伝」歴年、相攻伐した後、女王卑弥呼を擁して治まるとある。おそらく、「国」と次項の「国」 は同系国で、海民の棟梁だった投馬国王の女系(豊玉姫→卑彌呼→臺與)は外洋航海民と河川民や耕作民の連合国として奴国王(山幸彦)を婿として迎えていた が、伊都国台頭に因る倭国大乱を経て伊都国と奴国が対立すると、奴国王は宗女卑彌呼(豊玉姫→臺與)系統の壹與(玉依姫)を娶り、狗奴国として分裂したた め、海民投馬国王の娘婿、伊都国王(男弟)を摂政として邪馬壹国伊都国の連合が成立し、靡いた奴国(官兕馬觚)は海民との関係を剥奪され、その動向も一大 率に検察された。そうした経緯があり、有明海の海民を率いた狗奴国との最前線に於ける防人(さきもり)として置かれたと考える。
 他にも幾つかの疑問がある。人口の単位で、外洋航海民とした對海国「有千餘戸」と一大率の本役所の所在地とした一大国「有三千許(四千許りの家が有る)」との違いは、後者が役所に関わる官吏や神祇官、武人と製鉄民(技能集団)等の人口だとすれば、同単位の不彌国「有千餘」も同様の技能集団か、卑弥呼の如き巫女や占星術や陰陽師等の家系かもしれない。
 ただ、航海術等の知識も特殊技能としたので、他にも何らかの違いがあると思われる。例えば、壱岐のカラカミ遺跡の製鉄炉は、鉄の純度を高める精錬炉で、韓国の巨済島西側の小さな勒島(ぬくど)の炉に似ており、中国東北部や朝鮮半島北部の製鉄遊牧民と の関連が取り沙汰される。また、弥生土器も確認され、倭人が海を渡っていたとされるので、その担い手の海民には母系制が多く、長女が家船を嗣ぎ、成人男子 は新造船を仕立て独立し、代々の家を守るのではないのかも知れない。一方、遊牧(騎馬)民は末子相続とされ、姉妹は嫁ぐ時、年上の男子は嫁を取る時に両親 の財産(家畜)を分与されて独立、残った年少の男子がゲル(移動式住居)と、その家財を嗣ぐ。
 もう一つ、沿岸航海民と漁民の末盧国(有四千餘戸)と支配層の伊都国(有千餘戸)とは桁違いの人口を有す河民と耕作民の奴国(有二萬餘戸)、連合国中では大国の投馬国=五萬餘戸(五万余戸になる)と女王国都の邪馬壹国=七萬餘戸(七万余戸になる)、「有三千家」と「~餘戸」の何れもが「バカリ=計り」と訓じられる、こうした異表記にも陳寿の思惑や意図があるのだろうが、別の機会にしたい。

 以下、方向性と陸行の実質日数、末盧国~伊都国(五百里)=2.5日(35㎞)~5日(70㎞)、伊都国~不彌国(百里)=0.5日(7㎞)~1 日(14㎞)、不彌国~邪馬壹国(千四百里)=7日(98㎞)~14日(196㎞)を鑑みて邪馬壹国迄の行程を略図として示す。

    doutei1

伊都国=その中枢を佐賀県多久市多久町山犬原(山犬原川)と多久川と今出川合流地点の南多久町牟田辺(牟田辺遺跡)や仁位所付近とした。
見張台=川を挟んだ南西対岸同市相知町相知の熊野神社が鎮座する松浦川と厳木川に挟ま れた小山、同町佐里の岸岳(城跡)から松浦川方面が一望できるので、一大率の山城や砦で出入りを見張り、検察した。後代、こうした見張台は、神籠石や山城 として使われた。尚、先に奴国として比定した佐賀県小城郡牛津町泊津からの有明海沿岸航海ではなく、松浦川を遡上、八幡岳を迂回して南下すると、陸行で中 枢部の同県武雄市に至る。
不彌国=佐賀県小城郡三日月町石木(土生・仁俣・久蘇遺跡)・金田(かなだ)・久米付 近とした。土生遺跡は佐賀平野西部の標高6~9mの扇状地に立地する弥生時代中期前半を盛期とする集落遺跡。多量の弥生土器とともに木製農工具(鋤や鍬、 斧柄)等の豊富な木製品が発見された。銅ヤリガンナ鋳型1点、青銅器鋳型2点、青銅器鋳型4点等が出土した。仁俣遺跡は土生遺跡北東側に隣接する弥生時代 を中心とする集落遺跡、弥生中期前半の土器とともに銅矛鋳型1点が出土。久蘇(くしょ)遺跡は土生遺跡の西側から南西部にかけて展開する弥生時代から近世 にかけての複合遺跡で、銅矛鋳型1点が出土している。土生遺跡群における青銅器生産は鋳型と土器の共伴関係から弥生時代中期前半と推定される。また、朝鮮 系無文土器が数多く出土、半島から渡ってきた渡来系の人々や本遺跡に居住していた弥生人達が青銅器生産に関わっていたと見られる。 
10~15程度=佐賀市大和町大字尼寺(一本木遺跡)・松瀬・久池井(肥前国庁跡)・佐保・東山田、佐賀県佐賀市金立(丸山遺跡)・福島・兵庫町、佐賀県神埼市千代田町高志(高志神社遺跡)・下板・大野・餘江(香椎神社)・崎村(冠者宮・真福寺)、佐賀県神崎郡吉野ヶ里(旧三田川)町田手・同郡神埼町鶴(吉野ヶ里遺跡)・馬郡・的(上・下仁比山神社)、佐賀県神埼郡東脊振村三津(三津永田環濠集落・石動遺跡)・大野、佐賀県三養基郡みやき(旧中原)町山田・同郡北茂安町板部(検見谷環濠集落)、佐賀県鳥栖市江島町本行(本行遺跡)・横田・大野、佐賀県鳥栖市柚比(ゆび)町安永田・田代(安永田環濠集落)・長野、福岡県小郡市横隈(横隈山遺跡)・御勢大霊石神社(大保)、10福岡県小郡市若山(若山遺跡)・大板井(小郡官衙遺跡)・小板井・馬渡・八坂、11福岡県朝倉(旧甘木)市平塚(平塚川添遺跡)・板屋・馬田・中原・奈良、12福岡県久留米市大橋町(宮地嶽神社)・草野町矢作・朝妻(筑後国府跡)・打越、13福岡県久留米市高良内町(持田遺跡)・柳瀬14福岡県八女市室岡(亀の甲環濠集落)・新庄の六反田遺跡・長野・納楚(のうそ)の柳・船底遺跡・柳瀬・川犬(宮地嶽神社)等が在る。
牛津町=佐賀県小城市牛津町柿樋瀬の生立ヶ里(うりゅうがり)遺跡・乙柳(おつやなぎ→いつやなぎ)同県多久市東多久町納所(のうそ)・柳瀬松瀬付近。尚、同市小城町池上・山崎・三里(みさと)の牛尾神社は多久川と晴気川に挟まれた中州上にある。
 納所=年貢等を納める倉庫。年貢を納める事、それを司る役人。寺院で施物を納め、会計等の寺務を司る所や僧。上記、「納所」に、そうした遺跡が在るとい う資料は見あたらないが、他にも以下の同地名があり、三重県津市納所町、京都府京都市伏見区納所・大野・星柳、岡山県岡山市納所(吉備津神社)・板倉、広 島県三原市沼田東町納所は、何れも幾つかの河川に挟まれた中州や河畔の小高い所、佐賀県東松浦郡肥前町納所(のうさ)・神田代・馬渡・晴気は小高い丘上の海岸縁にある。
狗奴国=狗[kug][kəu][kəu]・奴[nag][no(ndo)] [nu]。「倭人伝」成立期の上古音に拠ると、「クッナッ→カナ」、「記紀」成立期の中古音に拠ると、「カェウノ(カェウヌド)→ケウノ(ケウヌド)→ク ノ(クヌド)」となり、国=羅(ら)とすれば、クヌドラ(百済)と訓める。
防人=こうした事に関連するのか。福岡県の博多湾沿岸部福岡市西区生(いき)松原には壱岐 神社(祭神壱岐真根子)が在り、奴国の中枢とした佐賀県武雄市若木町川古・御所付近の伏尺(ふし)神社の伝承には、娘豊子の婿武内宿禰の身代わりで死んだ 壱岐直真根子の遺体を壱岐に運ぼうとしたが重すぎて、そこに葬ったとある。その南西には同市武内町亀の甲、同県杵島郡山内町犬走。その経緯は5世紀初頭 (履中期)創建された玄界灘に突き出る岬の突端にある福岡県宗像市鐘崎の式内名神大社織幡神社(壱岐真根子・武内宿禰・綿津見三神)に詳しいと云う。
技能集団=「魏志東夷伝」倭人が朝鮮半島南部で産する鉄に頼っていたと書き残す。壱岐 のカラカミ遺跡は、弥生中期後半(BC1世紀)から後期後半(AD2世紀頃)迄の300年間、その廃絶時期は「後漢書」が云う倭国大乱と重なる。北部九州 に鉄を供給し、長距離交易を行う中継基地として、朝鮮半島からの鉄素材が集配されたのか、複数の炉跡も確認された。屋内に炉を備え、工房の可能性が高い。 地面に穴を掘るのではなく、地上に炉を造る珍しい形態で、本土にはない。また、陰陽道では職神・式神(シキジン)の事を「みさき(御先)」とも称した。壱 州に来た陰陽師徒は「御先」を傭うのに簡単な方便よして、「やぼさ」と云う島に多く居る精霊を呪力で駆使する事。昔は、壱岐に矢保佐・矢乎佐等の社が大変 な数になる程あった。
 弥帆(やほ)=大船の舳先に張る小さな帆とあり、「倭人伝」航海の安全を祈願し、潔斎した持衰(じさい)と云う者を船の舳先(御先)に置いたとあり、矢 保佐(やぼさ)も同様の役目を担ったと考える。壱岐市芦辺町箱崎触の芳野家所蔵「神国愚童随筆」壱岐の神人の事とし、命婦(イチ)は女官長で大宮司・権大 宮司の妻か、娘がなり、斎(いつき→いっち)は陰陽師の妻が巫女になる。斎女(いつきめ→いっちめ)は、やぼさ社に常に参ると云う。
家系=例えば、茶道・華道等は家元や宗家と云われ、その家の技術や作法の知識等を一子 相伝して家系を守る。また、製鉄法や製陶技術にも秘伝があり、海民も、その海域に対する渡航技術や知識が彼等の糧となる。朝鮮の家父長制(宗家)に於ける 氏族(男系血族)の祖先発祥(本貫)の地名と姓と組み合わせて記し、他の氏族との区別を示す(例えば、安東金氏・慶州金氏)。韓国では現在も戸籍に記載す る。
支配者の伊都国=燕人の衛満が興した衛氏朝鮮が、秦の始皇帝に滅ぼされた後、その難を 逃れて渡来した王族や遊牧系の製鉄民等に比定した。彼等は列島での遊牧生活が難しかったので、漁民や耕作民を支配し、使役した。支配された奴国は、古朝鮮 の一つ殷王朝紂王の叔父箕子が、周武王に封ぜられて開いたとされる伝説上の箕子朝鮮(首都王倹城=平壌)。前195年頃、燕人の衛満に滅ぼされた後、難を 逃れて渡来した王族や青銅器制作者や畑作民等に比定した。 *論語「箕子、これを奴と為す」
 衛氏朝鮮(BC195頃~BC108)=古朝鮮の一つ。朝鮮北西部に逃れた燕人衛満の建国、都は王険城(平壌)。孫の右渠が漢の武帝に滅ぼされる。伊都国の支配者を、その難を避けて渡来した王族や貴族とした。男弟(年下の燕)が邪馬壹国女王を佐けたとある。

 燕(?~BC222)=中国古代、戦国七雄の一つ。始祖は周武王の弟召公奭。河北・東北南部・朝鮮北部を領し、薊(北京)に都、43世で秦の始皇帝に滅 ぼされる。4世紀初~5世紀初にかけて遊牧民の鮮卑(せんぴ)族慕容氏が建設した前燕・後燕・西燕・南燕・北燕等の国々(五胡十六国)。 






  1. 2016/02/14(日) 22:35:40|
  2. 5.思惑と意図
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◇狗奴(かっな)国

 ~次有奴国此女王境界所盡 其南有狗奴国男子為王、其官有狗古智卑狗 不屬女王国 自郡至女王国万二千餘里

 上記を読み下しすると、次ぎに奴国有り、これ女王領の境界が尽きる所、その南に有る男子を王(卑弥弓呼)とする狗奴国。その官に狗古智卑狗が有る。女王国に属さない。帯方郡より女王国に至る一万二千余里。 この「奴国」を道程記事に見える奴国とした。敵対する狗奴(かな)国との通字「奴」には何らかの関連が在り、それが故、最南端の前線で狗奴国に対する防人 (さきもり)を兼ねていたのは間違いないと思う。おそらく、邪馬壹国伊都国連合の南端、有明海沿岸の重要な泊津であり、最前線でもあったので、一大率の出 先機関が置かれたのは云うまでもない。
 尚、通説的な「奴国」の比定地は銅鏡が出土した福岡県春日市の須玖岡本遺跡付近とされるが、邪馬壹国傍国の好古都(ハカタ)国とした。また、奴国の泊津とした佐賀県小城市牛津町の東南、同県佐賀市東与賀町大字飯盛字二本榎付近の沖神社(大綿津見神/大鷦鷯尊)が祀られる。
 縄文後期から弥生前期に架けて南中国から南西諸島を経て渡来した海民と水耕稲作民が興した北部九州の委奴(わぬ→ゐぬ→いぬ)国連合国へ朝鮮半島経由で渡来した北方(畑作と遊牧)系の箕子朝鮮王族と関係者(邪馬壹国)や北方(騎馬)系の衛 氏朝鮮王族と関係者(伊都国)が覆い被さり、こうした国域の変遷が起こった。当初、狗奴国は「カナ・ラ)」と称したが、後代、半島が新羅(シルラ)に統一 されると、加羅(カルラ→キァロ)や百済(ペクチェ)の王族と、その関係者が難を逃れ、北部九州に渡来、狗奴国に取り入るが、新羅の父系統が、唐王朝の王 族李氏(李氏朝鮮)に追われて新羅(しらぎ)として北部九州に渡来、百済(カヌドラ→くだ ら)として九州南部、四国を経て近畿圏へと追われた。こうした国域の変遷に因るのか、筑紫平野西部の室見川流域には福岡市早良区干隈(ほしくま)・田隈 (たぐま)、同市城南区七隈(ななくま)等、奥まった入江や谷間等の地形を表す「~隅・~隈」は在るが、「ハキ」の近似地名は見えず、、福岡県福岡市博多 区金隈や同県筑紫郡那珂川町埋金(うめがね)等、カナ⇔カネと訓音が変わるので、西部の新羅(しらぎ)+中国漢音系と東部の百済(くだら)+中国呉音系に 別れて、対立した事に関係すると思う。
 女王卑弥呼の死後、その宗女壹與(伊豫)を奪われたのか、その勢力範囲は狗奴国に併合されて組み込まれたため、邪馬壹国伊都国連合の王族(臺與=豊)は「邪馬国」と国名を変えて東遷したと思われる。例えば、佐賀県伊万里市二里町金武(かなたけ)や、福岡県福岡市西区金武(かなたけ)・叶岳(かのうたけ)、同県福岡市早良区金武(かなたけ)、同市城南区金山(かなやま)、同県大野城市乙金(おとがな)、狗奴(かな)国の訓みに繋がると思しき地名が在り、その伊万里市二里町金武には弁財天(海人の市杵島姫=宗像大社中宮)を祀る金武(かなたけ)神社が在り、上記、沖神社に祀られる大綿津見神(狗奴国王)と弁財天(卑彌呼の宗女)には何らかの繋がりがある。 
 福岡県春日市付近の福岡市博多区馬出(まいだし)、同市東区箱崎も多々良川と宇美川河口付近の堆積地先端部、同市中央区舞鶴(まいづる)も同様の堆積地 で「場出(ばいづる・ばいだし)」と考えられる。また、福岡県朝倉市杷木(はき)町も河川(筑後川)が土砂を吐き出す事で、博多(はくぁた)、吐田・伯 太・伯方(はくた)や八田・発田(はった)、垢田・赤田(はくぁた→あかた)等も同源で、こうした堆積地で稲作が行われたと考える。(了)

好古都(ハカタ)国=那珂川と御笠川中流域の奥まった同県福岡市博多区月隈(つきぐま)付 近、同区の弥生期の稲作跡が発掘された板付遺跡、同期の共同墓地跡の同区金隈の金隈遺跡(かねのくま)、紀元前とされる銅剣の鋳型が出土した須久タカウタ 遺跡付近一帯とした。海民と耕作民の委奴(わぬ)国連合の京都(けいと)として良いと思う。
大綿津見神=沼名前(ぬなくま)神社「大綿津見命・須佐之男命」広島県福山市鞆町後地。神功皇后西国へ御下向時、この浦に船を寄せると海中より尺余の霊石を得ると神璽として斎場を設け、大綿津見命を祀り、海路安全と戦勝を祈る。田土浦坐(たつちのうらにまします)神社「大綿津見神」岡山県倉敷市下津井田之浦。大国玉神社の摂社宇留布津(うるふつ)神社「埴安姫命・大綿津見命」三重県松阪市六根町。海(あまの)神社「大綿津見命」兵庫県豊岡市小島字海ノ宮。二見興玉神社(猿田彦大神・宇迦御魂大神)三重県度会郡二見町大字江の摂社・龍宮社「竜宮大神・大綿津見神」。大国玉神社「大國御魂神 配大上御祖神・市杵嶋姫命・菅原道眞・早玉男命・須佐之男命」三重県松阪市六根町の摂社宇留布津神社「埴安姫命・大綿津見命」。大 海(おおわたつみ)神社「豐玉彦命・豐玉姫命」大阪市住吉区住吉。延喜式神名帳では「津守安人神」、安人神とは現人神で海人の信仰する塩筒老翁か、安曇磯 良、または、大綿津見命・玉依姫命、塩土老翁・豊玉姫命・彦火火出見尊。尚、大和岩雄氏は住吉大社創建前から鎮座していたとし、安曇氏の祀神を津守氏が担 い津守安人神となったとする。田裳見宿禰の領地を社地とし、後裔津守氏の氏神的存在だが、祭祀は安曇氏、管掌の津守氏は専ら住吉大社の祭祀に係わった。綿津見神社「大綿津見神・闇於加美神・玉依姫命・五十猛神」福島県相馬郡飯舘村草野字大宮内「陸奥(磐城)行方」。大神社(天照皇大御神・配豐受姫大神)の摂社西神社「天疎向津比賣命、大綿津見命、大屋比古命、火具土命」和歌山県田辺市芳養町。10猛島神社(五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神)長崎県島原市宮町の配・譽田別命・大綿津見命・菅原道眞・猿田毘古命・多紀理比賣命・狹依比賣命(市寸嶋比賣命)・多紀津毘賣命・神速須佐能男命・大國主命他。11老津神社「正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命、配・多紀理毘賣命・市寸嶋比賣命・田寸津比賣命・須佐之男命・菅原道眞・大綿津見神」愛知県豊橋市老津町字宮脇(三河国渥美郡)等がある。
箕子朝鮮=古伝承では殷の紂王の暴虐を諫めたが用いられず、気違いを装い逃げたと云う叔父の胥余は殷王朝の滅亡後、周武王に朝鮮(箕)に封ぜられて、BC1600年頃、朝鮮半島の王険(平壌)に入り、箕子朝鮮を興す。尚、「論語」箕子を奴と為すとある。
衛氏朝鮮=秦始皇帝に滅ぼされた「燕」の人衛満が衛氏朝鮮(BC195頃~BC108)を 興した。漢の武帝に滅ぼされて、その出先機関(楽浪等四郡)に拠って支配される。そうした興亡の難を逃れた王族や高官の一部が、その度に北部九州へも渡来 したと推測され、そんな彼等と上手く繋がり共存、共栄する人々と反抗する人々に別れて争乱が起こる。
百済(くだら)=狗[kug][kəu][kəu]奴[nag][no(ndo)][nu]を「記紀」が成立した隋唐期の「中古音」に拠ると、「ケァノ(ケァヌド)→カノ(カヌド)国」。
対立=飯盛神社(福岡県福岡市西区飯盛)の上社=伊奘・玉依姫・誉田別命、中宮=五十猛命(素戔鳴尊)、下社=天太玉命(大山咋神)と、福岡平野を挟み東側、同県糟屋郡篠栗町大字若杉字石ヒシキの若杉山に坐す太祖神社(伊邪那尊)は、飯盛山(飯盛神社)と夫婦山として古代よりの国産み伝説の基となったと云う。この二系が夫婦になり、万世一系の天皇家、引いては単一民族の日本人と云う思想が生まれた。
狗奴(かな)国=他にも九州管内には、福岡県北九州市小倉北区金田(かなだ)、同県福岡市 城南区金山(かなやま)、同県甘木市金丸、同県行橋市金屋、同県鞍手郡若宮町金生(かなう)、同県鞍手郡若宮町金丸、同県田川郡金田町金田、佐賀県小城郡 三日月町金田、長崎県長崎市金屋町、同県南高来郡小浜町金浜・同郡国見町金山・宮田・里名、同県北高来郡高来町金崎(かなさき)名、同県諫早市金谷町、同 県東彼杵郡波佐見町金屋郷、熊本県荒尾市金山、大分県大分市金池町、同県中津市金屋、大分県宇佐市金丸・金屋、同県下毛郡耶馬溪町金吉(かなよし)、宮崎 県都城市金田(かなだ)町等、略全国に在るが、何故か、高知県・佐賀県・長崎県は「金(かね~)」は見えない。*兼
弁財天=旧来、インドの河神で、音楽・弁才・財福等を掌る女神。妙音天・美音天ともいう。 二臂(にひ)か、八臂。琵琶を持つ姿か、武器を持つ姿等で表される。後、学問・芸術の守護神となり、吉祥天と共にインドで最も尊崇された女神。日本では後 世、吉祥天と混同、福徳賦与の神として弁財天と称され、七福神の一つとして信仰される。弁財天は、安芸国一宮・厳島神社の宗像三女神の一人、市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)と云われる。田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)を合祀する社殿は海辺に建つ。宝物類には平家寄 進のものが多く、大鳥居・朱塗の殿堂・五重塔・千畳閣・能舞台等、国宝・史跡に富む。他にも、大和の天川、近江竹生島、相模江ノ島、陸前金華山を併せて五 弁天と称す。






  1. 2016/02/19(金) 08:47:01|
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◇古代日本語と朝鮮語の関係

 日本語は文法的に朝鮮語、音韻的にはポリネシア系に近く、古代には8種あったとされる母音は5種に減り、母 音調和等、音韻上での朝鮮語からの影響は消滅したとされます。また、語彙の面でも日本語と朝鮮語に共通する単語は非常に少く、4世紀頃と7世紀頃に朝鮮半島から多くの人々が渡来したにしては、その影響は大きくないとも云われます。私見では、地理的状況から現在でも一衣帯水の関係にある日韓、文法的にも同形 式として発展した言語に関係性がないこと等、あり得ないと考えます。 仮にそうだとすれば、何らかの理由や経緯が在って然る可きだと思います。
 古代朝鮮語の資料は、10世紀の高麗王朝期以降のもの以外、余り残っていないらしく、古代日本語との関係を研究するには材料不足と云う指摘があります。 東京外国語大学の趙義成氏等に拠ると、万葉集が朝鮮語で解けると云う研究者や論者達は、勝手に古代朝鮮語を創作して万葉仮名と対応させていると詳しく解説 されています。以下、「記紀」や万葉集は韓国語で読めると云う研究者や論者の有名な説(【】内)を参照し、古代日本語(倭語?)と古代朝鮮語の関係を考えてみましょう。

 【日本書紀(以下・紀)や古事記(以下・記)の書き下し文に多少の解説を加えると、かなりの部分が理解できるので、八世紀の日本語は現代日本語と余り遠くないと考えられる。「記紀」を無理矢理、朝鮮語で読み解こうとする説は別として、現代韓国人は理解できるのだろうか。
 例えば、「紀」月読尊が保食(ウケモチノ)神に食物を乞うたが、汚れたものを出したと怒り殺した。その亡骸から家畜や穀物ができた在る。このままでは何のことだか判らないが、朝鮮語で解釈すると次のような掛詞になる。

 (1)頭(アタマ)から馬(ウマ)      頭(mara)から馬(mar)
 (2)額(ヒタイ)から粟(アハ)      額(cha)から粟(choh)
 (3)眉(マユ)から蚕(カヒコ)      無し
 (4)目(メ)から稗(ヒエ)        目(nun)から稗(nui)
 (5)腹(ハラ)から稲(イネ)       腹(pai)から稲(pyo)
 (6)陰部(ホト)から麦(ムギ)豆(マメ) 陰部(poti)から麦(pori)小豆(pat)

 朝鮮語では体の部位と化生した動物や植物とが奇麗に対応するので、この神話は朝鮮半島で生まれ、日本語に翻訳されたものと考えられる。翻訳によって原語にあった掛け言葉が全く意味の判らないものになってしまったのだとすれば、古代朝鮮語は現代朝鮮語とそんなに違わず、日本語とはかなり相違していたと考えることができよう。】
 
 12世紀半ば~13世紀朝鮮半島の高麗王朝時代に成立した古文献にも似た様な説話が記載されると、何かで読んだ気がします。確かに朝鮮語に拠る近似音が使われます。但し、上記、日本書紀や古事記の書き下し文に多少の解説を加えるとかなりの部分が理解できるので、八世紀の日本語は現代日本語は余り遠くない。 としますが、「日本書紀」成立当初から現在の訓読点が在り、それがあるがままに書写されてきたと云う前提であれば、当時の言語と現日本語に大きな相違はないと云えます。ですが、現存最古(奈良後期~平安初期)の「紀」写本には仮名や訓読点、校異等の注記はありませんので、古態には訓読点等はなかった。詰まり、成立当初の700年代初期の言葉とする確証はありません。その後、9世紀後半~10世紀半ばの写本には、平安中期と後期、一条兼良に拠る室町期、三期 の訓読点が付されます。その平安中期とされるものが、現在、見られる訓読点と略同じで、平安中期に書写された後の書き足しではないとすれば、平安中期から後期には、現日本語に近づいたとして良いでしょう。今回は、ここ迄とします。

母音調和=一つの語に現れる全ての母音が、或る音声上の特徴、例えば、円唇・前舌等を共有 する事。トルコ語・フィンランド語・朝鮮語等にはみられ、曾て、古代日本語にも存在したと云われる。おそらく、大陸北方に居た遊牧騎馬民族の突厥族や匈 族・鮮卑族等の言語に在ったものが、漢族の拡がりに因るのか、周辺部へ分散して影響を及ぼしたと考える。
古事記=稗田阿礼が天武天皇の勅により、誦習した帝紀、及び、先代旧辞を太安万侶が元明天 皇の勅により撰録、712(和銅5)年献上。現存する日本最古の歴史書(三巻)とされる。江戸期、真福寺(宝生院前身)に残されていた「古事記」写本を本 居宣長の門人で尾張藩士稲葉通邦が発見する迄、行方不明だったと云われる。真福寺第二世信瑜(しんゆ)の命で寺僧賢瑜が、応安4(1371)年に上・中 巻、翌年に下巻を写し終えて、信瑜が校正した。全て流麗な古漢字で書かれ、訓読点や訓注はない。全巻揃ったものでは、現存最古。奥書に「執筆賢瑜俗老廿八 歳」とある。尚、上・下巻と中巻は伝来系統が異なるとされる。また、真福寺本に次いで古い、永徳元(1381)年に道果が書写した。上巻前半部しか現存し ない。訓読点が記され、所々に訓があり、道果の書き込みもある。その目的は校正だったのではないかとも云われる。
 真福寺=名古屋市中区にある真言宗の寺。別称「宝生院」。通称「大須観音」。建久(1190~1199)年中、尾張国中島郡大須郷(岐阜県羽島市)に建 立、中島観音堂と称したものを1612(慶長17)年現在地に移建。古事記・日本霊異記等の古写本を蔵し、大須本・真福寺本と称する
古文献=『三国史記』朝鮮の現存最古の史書。50巻。高麗の仁宗の命で金富軾等の撰。 1145年に成る。新羅・高句麗・百済の三国の歴史を紀伝体に記す。『三国遺事』三国史記に漏れた事項等を集録。5巻。高麗の忠烈王の時、僧一然 (1206~1289)撰。三国の遺聞、特に仏教説話が多く、風俗・地理等の資料を含む。
訓読点=当時、「記紀」を漢文を読み理解できる支配者層の知識人には訓読点等の必要ない。もしかしたら新しい語と旧訓の整合性を持たせるための校正作業だったのかも知れない。


 
  1. 2016/02/25(木) 21:19:38|
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