見まごう邪馬台国

◇末盧(マツラ)国=海民(陸鰐)の領域南岸の国

 末盧(マツラ)国を水田跡が発掘された唐津湾山手の佐賀県唐津市の菜畑遺跡と松浦川を挟んだ東側の同市中原・柏崎(八坂神社)・鏡・鏡山(領巾振山)・宇木(宮地嶽神社/飯森山)・半田(はだ)・八幡町・矢作(やはぎ)付近一帯に比定する。
 河川水行と漁労を生業とする蛋民系海人の国とすれば、家船(浮家)で屯する沿岸部で平底船に乗り換え、松浦川の河岸より従者に曳かせて遡航した。菜畑遺跡や松浦川を渡った東側、鏡山頂に鏡山神社、西北麓に鏡神社、その東側の同県東松浦郡浜玉町飯塚・大野・横田(横田下古墳)・柳瀬、その東北側、福岡県志摩郡二丈町付近一帯には別の国があったと考える。

 玉島川沿岸部には玉島神社(神功皇后)が在り、「仲哀紀」天皇は陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲叛服常なきは新羅(しらぎ)後援に拠るものとし、自ら男性の髪型に変え、舟師を率い新羅(しらぎ)に向われた。その途、この岡に天神地祇を祭り、必勝祈願の御魂代、御鏡を鎮め崇め給い祈願したと云う。
 他にも熊本県人吉市鹿目町赤仁田(鏡山木浦山)・鶴田町・大村横穴群(青井町)、同県葦北郡芦北町国見(鏡山・天照皇大神宮)が在る。

 また、「記紀」皇后は新羅討伐成否に対して誓約、飯粒(いいぼ)を餌として鮎(あゆ)が釣れて希(めづ)らしいと土地の人、女豆羅(めづら)国と呼んだとあり、その佐賀県唐津市浜玉町を流れる玉島川を遡上すると、同県東松浦郡七山村鮎帰(あゆき)・木浦、その東側には福岡県糸島郡二丈町佐波・立花峠・吉井・福井が在る。
 「記紀」建内宿禰は禊ぎせむと、応神天皇を角賀(福井県)へ連れて行き、御子去来紗別尊と笥飯大神(誉田別神?)の名を易えたと在り、「記」伊奢沙和気(イザサワケ)大神に順い同訓にするが、「去(イ)ぬ・来(キ)ぬ→イキサ」とすれば、下記の如き地名が在る。

   佐賀県東松浦郡相知町伊岐佐(いきさ)・大野・鶴田 *松浦川上流
   福岡県飯塚伊岐須 (いぎす)・甘木・横田 *遠賀川上流

 魏使一行は、松浦川河口奥で外洋船から平底船に乗り換え、松浦川支流の半田(はだ)川や宇木川を遡上、柏崎遺跡や宇木汲田遺跡付近で、一泊、休息日を挟み、翌々日、同川を下り、松浦川を遡って唐津市(旧東松浦郡)相知町牟田部付近から支流伊岐佐川を遡上、伊岐佐(中原遺跡)で一泊、翌日か、翌々日、伊岐佐川を下り、同町山崎付近で、松浦川から支流の厳木川を遡上、同市(旧東松浦郡)厳木町浦川内(河内遺跡)・広瀬付近で、一泊、翌日か、翌々日、従者が大使や副使を輿に乗せ、下賜品を背負い徒歩で笹原峠を越えて伊都国中枢部へ向かう。
 投馬国への乗り換えは、同県伊万里市中里・金武(金武神社・弁財天)・同市立花町(伊萬里神社)・同市黒川町真手野(まての)・同市花房(大野岳)・同市波多津町畑津・馬蛤潟(まてがた)・飯盛山付近とする。
 伊万里湾を挟み対岸の長崎県松浦市御厨、同県伊万里市東山代町讃岐・浦川内一帯の河岸、同市松浦町久良木(くらき→きうらき)、同市山代町西分(黒髪神社)、同県西松浦郡西有田町広瀬村(山田神社)・有田町大野、松浦半島北部同県東松浦郡鎮西町加唐島対馬瀬(つしませ)・馬渡(まだら→まつら)島、同郡肥前町馬渡(まわたり)、福岡県糟屋郡新宮町立花口、同県八女郡立花町白木、同県大牟田市橘(たちばな)・甘木・松浦町・馬渡(まわたり)町・有明町、長崎県佐世保市黒髪町・松浦町・大野町・但馬越・飯盛山、熊本県玉名郡(玉名市)天水町立花、島根県益田市有田町・有明町・波田町・飯盛山・横田町・比礼振山、福井県大野市有明町・花房が在る。

マツラ=末[muat][muat(mbuat)][mo]・盧[hlag(hlo)][lo][lu]=ムァッゥラッ(ムァチゥラッ)→マツラ

別の国=玉島川を遡上した佐賀県東松浦郡七山村鮎帰・滝川・白木・中原・馬川・博多・木浦・松坂付近も含まれるかも知れない。また、玉島川支流の仁部川上流には浜玉町の飛び地「鳥巣(とす)・宇土」がある。

玉島神社=玉島神社祭神は神功皇后で、往古、聖母(せいもん)神社と称した。佐賀県武雄市橘(たちばな)町の「おつぼ山神籠石・潮見古墳」等の古代遺跡が多い。中でも、6世紀初めの玉島古 墳は壱岐直真根子の娘、豊子の婿武内宿禰の伝承に関連するのか、佐賀県下最大の円墳、武雄市と嬉野市塩田町を結ぶ道路側にあり、丸い丘状の典型的な古墳。 竪穴式から横穴式に移行する過渡期の竪穴系横口式石室で、西南方向に開口する。尚、他にも岡山県倉敷市玉島・百々・福島、大阪府茨木市玉島(摂津市に隣 接)と云う地名が在る。
 玉島駅(別名・大村駅)があったらしく、川を挟んだ北側、同町五反田に大村神社(無怨寺)がある。祭神の藤原広嗣は朝廷に反旗を翻すも佐賀県東松浦郡玄海町値賀川内・中通・轟木・石田付近か、値賀島で捕えられて斬首された。
 長崎県大村市玖島の「大村神社」には、藤原広嗣の名は見えないが、藩主大村氏祖藤原鎌足や、叛乱を興す藤原純友を祀る。北陸、或いは、伊勢松坂か、佐賀県神埼町の櫛田宮(素戔嗚命・櫛田姫命・日本武命)から勧請された博多の櫛田神社と縁深い北家藤原純友は四国西岸の海賊と云われるので、式家藤原広嗣も唐津湾や大村湾岸の海民との繋がりを否定できない。

御鏡=「豊前国風土記逸文」田河郡、鏡山。昔、気長足姫尊(神功)が、この山に入らせ られて、遥かに国状を御覧になり、天神も地祇も新羅征伐のために幸福を与え給えと御鏡を以て、ここに安置した。鏡は化して石となり、今も山中にある。名付 けて鏡山と在る。神功皇后と仲哀天皇・応神天皇を併祀、御鎭座より1700余年の御宮居とある。鏡山頂に、鏡山大神社(陵墓参考地の河内王墓)と称す。ま た、佐賀県唐津市の鏡山頂に鏡山神社、山麓に鏡神社と由緒も似ており関連がある。また、同北九州市若松区東二島(旧道岸)山手の日吉神社(大国主神・大山 咋神)裏手には熊襲・新羅討伐のおり、皇后が御顔を写したとされる御影泉(遺跡)が在り、卑弥呼と神功皇后は銅鏡との関係で繋がる。

女豆羅(めづら)国=馬頭(めず)は地獄にいる馬頭人身獄卒馬頭羅刹(らせつ)、牛頭馬頭(ごずめず)、牛頭羅刹とあり、京都八坂神社に祀られる牛頭天王と馬頭観音との関連から神仏混淆の本地垂迹説と逆本地垂迹説の二系とした。

鮎帰(あゆき)→鮎市(あゆち)→愛知(あいち→えち)。例えば、帰[kıuәr] [kıuәi][kıuәi]は、万葉仮名乙「キ」に使われる音に近いが、甲「き」に使われる漢字が、現代北京音では日本語「チ」([jì]伎 [gieg][giĕ][ki]、[qí]岐[gieg][giĕ][k`i])に近い音なので、後代、甲乙の縛りがなくなり、同音にされた後、上記の如 く転音したとも考えられる。*熊本県球磨郡坂本村鮎帰

福井=長崎県北松浦郡吉井町福井免・長野免、福岡県朝倉郡東峰村(旧宝珠山村)福井・大行司、島根県安来市福井(伯太川)、広島県御調郡御調町福井、岡山県津山市楢・金屋・田熊・福井がある。

海髪(いぎす→おぎす→おご)=紅藻類オゴノリ科の海藻の総称。暗紅色で細い紐状。数 多の枝があり乱れた髪形をなす。汽水域の砂泥に覆われやすい内湾の磯や木杭等に付着する。別名、ウゴ・ナゴヤ・江籬(えご)。例えば、「記紀」神功皇后が 熊曽討伐のため髪を解き海に入り禊ぎをすると男性の髪型になったと云う説話から、高知方言「いごっそう(気骨のある)」にも関連が在るか。また、名前を易 えた伊沙別命(去来紗別尊)と福岡県遠賀郡水巻町伊佐座(いさざ)、滋賀県近江八幡市生須(いけす)、茨城県鹿島郡(現神栖市)神栖町息栖(いきす)等、何れも水辺に在り、治水後に付けられた地名だが、地形的には同源(砂州=イサゴス・オィゴス)と考える。また、海髪(おご)→(おご・る)とも繋がる。

二里町=橋本遺跡(二里町大里乙大緑)・西尾遺跡(二里町大里乙西尾)・杢路寺(むくろじ)古墳(二里町)・午戻遺跡石棺墓(大坪町六仙寺)・土井頭(でいがしら)遺跡(黒川町)・小物成(こもなり)遺跡(大坪町)・夏崎古墳・銭亀古墳(東山代町)・小島古墳(山代町)。

立花(たちばな)=投馬(タギマの→タジマの→タチバの)国の比定地大村湾奥の大村市や長崎市付近一帯とした。その南側の島原半島基部西側の千々湾は、橘(たちまの→たちばな)湾とも呼ばれる。

伊万里神社(比古布都押之信命・田道間守命)=旧くは香橘(こうきつ)神社と呼ばれ た。また、武内宿禰の母木国造宇豆比古の妹山下影比賣が祭神ともある。その武内宿禰を祀る神社に佐賀県武雄市武雄町の武雄神社、和歌山県和歌山市安原の武 内神社、付近に武内宿彌の誕生井が在り、この当たりで生まれたとされる。紀氏の傍系であったが、本流が途絶えた事もあって本家になった。数代の天皇に二百 年以上仕えたとされるが、子々孫々同名を名告るのは、商家、役者・職人等にもある。「紀」武内宿彌祖波多氏(佐賀県東松浦郡伊万里市波多津町)、巨勢氏 (同県佐賀市巨勢町)、蘇我氏(奈良県橿原市曽我)、平群氏(奈良県生駒郡平群町)、葛城氏(奈良県北葛城郡當麻)、紀氏は肥前国基肄(きい)郡と和歌山 県の「紀伊」に繋がる。*和歌山県有田郡吉備(キビ→キヒ→キゥイ→キイ)町長田

黒髪神社=長崎県佐世保市黒髪町2817番地(肥前国彼杵郡)にも同名の神社(伊邪奈 美命・事解命・御年神・大年神)。尚、大長谷若建命(雄略)の御子白髪大倭根子命(清寧)は皇嗣が無く、男浅津間若子命(允恭)の御子穴穂命(安康)に謀 殺された市邊忍歯別王の妹忍海郎女(巫女飯豊王)が葛城忍海、高木角刺(つぬさし)宮に坐しましき。後、一度、途切れた伊邪本和気(履中)系統市邊忍歯別 王の二人の御子を見つけ、異系の皇統を繋ぐために皇嗣の無い白髪老人とする。尚、兄弟二人にされた理由は二つの皇統(牛頭天王系と馬頭観音系)を万世一系 にするための方便と考える。
 天皇家以外の大臣の系譜が詳細に記されているのは珍しく権力中枢に於ける紀氏の大きな力を証明するものと云う説等、様々に云われるが、武内宿彌と天皇家 は別系の国だったと考える。武内宿彌祖の各氏族に関連し、福岡県甘木市周辺部の地名が大和にも分布、集団での氏族移動のあったと云われる。また、天之御中 主神の御子天八降尊後裔の橘(たちばな→たちまの)氏は田道間守(タチマモリ)命に繋がるのかも知れない。

対馬瀬(つしませ/たぃませ→とませ→とばせ)=熊本県宇土郡(宇城市)三角町戸馳(とばせ)島波多・御船山田、同郡不知火町高良。熊本県 下益城郡松橋町御船、同県上益城郡御船町御船、長崎県佐世保市御船町。福岡県久留米市高良内町、同県三井郡北野町高良

花房=神功皇后伝説が多く残る福岡県北九州市八幡西区皇后崎・碇地(いかじ)や、同市若松区二島に在る花房山南麓、日吉神社裏手には、現在、水は涸れているが、史跡「御影の泉」があり、神功皇后が熊襲か、新羅討伐のおり、顔を映したと伝承される。
スポンサーサイト
  1. 2016/07/02(土) 22:38:07|
  2. 6.国々の比定
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇遺跡との照合

 邪馬台国論争での主題は、概ね、末盧国から邪馬台国迄の道程、或いは、不彌国以降の投馬国や邪馬台国への日程で、陳寿が記述した方向性では北部九州説、 不彌国からの日程的には近畿とされる。ただ、「南は東の間違い」は向かう目的地ああるからで、中でも邪馬壹国ではなく邪馬臺国(邪馬台国)の間違いで、 「ヤマタイ→ヤマト」として畿内の大和王朝(纏向遺跡)とする。その最大の理由は、万世一系とする現在の皇室に係わる国体に繋がるからで、或る意味、日本 人としての本源にまで遡るからだろう。
 こうした事も「記紀」初代神武天皇が九州から東遷したとする事や、それ以前に大和王権に縁の深い物部氏遠祖饒速日命が東遷していたとする事とも関連し、 現在、定着している地名に繋がるものが、邪馬壹国の時代、AD200年代から同位置だったのかと云う疑問は持っていたい。

 下図は手持ちの弥生遺跡(環濠集落・古墳等)の資料から、地図上で河川流域に照らした位置関係(アラビア数字)。また、海岸線を示唆すると思しき地名を拾って繋ぎ、佐賀大学低平地研究所作成の推定海岸図とを考え併せ、当時の有明海岸線の概略を赤線で示した。

有明沿岸遺跡    


①佐賀県唐津市柏崎(柏崎遺跡)・宇木(汲田遺跡) → 末盧国
②佐賀県唐津市(旧東松浦郡)相知町伊岐佐(中原遺跡)
③佐賀県唐津市(旧東松浦郡)厳木町浦川内(河内遺跡)・岩屋・広瀬鶴田神社(浪瀬)
④佐賀県多久市多久町牟田辺(牟田辺遺跡))・大橋・仁位所・東多久町納所 → 伊都国
⑤佐賀県小城郡三日月町土生(土生・二俣・久蘇遺跡)・金田・久米 → 不彌国
⑥佐賀県小城郡牛津町柿樋瀬(生立ヶ里遺跡)・乙柳(おつやなぎ)・東多久町納所・柳瀬・松瀬 → 奴国
⑦佐賀市大和町大字尼寺(一本木遺跡)・松瀬・久池井(肥前国庁跡)・佐保・東山田
⑧佐賀県佐賀市金立(丸山遺跡)
⑨佐賀県神埼市千代田町(高志神社遺跡)・下板・大橋・大野
⑩佐賀県神埼郡吉野ヶ里町(旧三田川町)(吉野ヶ里環濠集落)
⑪佐賀県神埼郡東脊振村三津(三津永田環濠集落)
⑫佐賀県三養基郡みやき町(旧中原町)・北茂安町板部(検見谷環濠集落)
⑬佐賀県鳥栖市江島町字本行(本行遺跡)・横田・轟木・大野
⑭佐賀県鳥栖市柚比(ゆび)町(安永田環濠集落)・長野
⑮福岡県小郡市横隈(横隈山遺跡)・乙隈(おとぐま)
⑯福岡県小郡市若山(若山遺跡)・大板井(小郡郡衙跡)・小板井・馬渡
⑰福岡県朝倉市(旧甘木市)平塚(平塚川添遺跡) ・板屋・馬田・中原・一木・奈良
⑱福岡県久留米市大橋町(祇園山古墳/宮地嶽神社/高良山神籠石)・枝光・草野町矢作・朝妻(筑後国府跡)・打越
⑲福岡県久留米市高良内町(持田遺跡)・柳瀬
⑳福岡県八女市新庄(六反田遺跡)・川犬(宮地嶽神社)・室岡(亀の甲環濠集落)・柳瀬・長野・納楚 → 邪馬壹国

 末盧国~不彌国迄の経由地は、松浦川~厳木川の沿岸から従者に曳かせて遡上した 1~5で、休息日を併せた約8日(実質5泊)で間違いないが、狗邪韓国~邪馬壹国の日程「南至水行十日、陸行一月」を末盧国~伊都国(五百里)=2.5日 (35㎞)~5日(70㎞)、伊都国~不彌国(百里)=0.5日(7㎞)~1日(14㎞)、不彌国~邪馬壹国(千四百里)=7日(98㎞)~14日 (196㎞)として、不彌国以降、邪馬壹国迄の7日~14日、平均で10泊と休息日を併せ、最長で約20日の日程として、6~20等の弥生遺跡の何れを経 由したのかを定かにするのは難しいと思う。
 尚、「南至投馬国水行二十日」も、狗邪韓国~對海国~一大国~末盧国迄の外洋航海を最長で「十日」、末盧国から最長で十日間(三千余里)の日程を北部九州西沿岸部を水行、南下したと考える。

弥生遺跡=有明海沿岸部には図に示したものだけでなく、他にも多くの遺跡がある。古来、干拓工事等に拠って失われた遺跡も多いと思う。尚、上図のアルファベットは以下の如くなる。

=佐賀県佐賀市本庄町大字本庄の増田遺跡は、佐賀市西部に位置、脊振山地南麓の洪積台地群南端部に立地する弥生時代から中世にかけての複合遺跡。特に弥生期の甕棺墓を主体とする墓地が広範囲に分布、周辺部の調査では朝鮮半島との関連を示す遺構や遺物が検出されている。
=佐賀県佐賀市諸富町徳富の徳富権現堂遺跡・上大津遺跡等、弥生時代後期、約1,800年前から室町時代の約500年前にかけての遺跡。
=福岡県久留米市田主丸町には、数多くの弥生時代 の遺跡があり、本格的な弥生文化の定着は筑後川の河岸段丘を中心に始まる。弥生前期後半の集落跡である水分遺跡や豊城中ツブロ遺跡、弥生中期中頃の遺跡と して秋成・亀王遺跡、船越一ノ上遺跡、西郷天神免遺跡、弥生後期の遺跡として千代久遺跡などがあり、平野部を中心に弥生文化が展開している。後期に入る と、中心は山麓へと動き、竹野三明寺遺跡、益生田寺徳遺跡と発掘事例は少ないものの有力な集落が形成されていたとある。
=福岡県柳川市大和町徳益の八枝遺跡は、弥生時代 前期から中期初頭、約2,200年前の集落。調査では柱が軟弱な地盤に沈み込まない様に工夫された掘立柱建物や井戸が検出された。また、柳川市三橋町磯鳥 の磯鳥フケ遺跡では、弥生時代中期後半、約2,000年前に比較的短期間に集落営まれた。約3,500㎡の広範囲にわたり掘立柱建物群や井戸等が検出、集 落は更に広範囲に広がる。柳川市三橋町蒲船津の蒲船津江頭遺跡では、弥生時代後期、約1,800年前の集落が調査された。
=佐賀県杵島郡白石町堤(妻山神社)付近の杵島郡白石町大字馬洗字道祖谷の妻山古墳群4号墳や道祖谷(さやんたに)古墳は杵島山系北東部に位置する栗岡山から東に延びる丘陵南斜面に築造された。出土遺物から6世紀後半の横穴式室を内部主体とする円墳。
=佐賀県杵島郡白石町深浦(海童神社)=オツボ山 神籠石は、武雄市街地南杵島山西麓の小丘陵にある。殆の神籠石に共通する特有の構造。柱間隔が平均3mだったので、唐尺の一尺(29.5㎝)として七世紀 後半の築造とされたが、南朝(420~589)の小尺(24.5㎝)の略十二尺とする説も在るらしい。有明海側から見ると杵島連峰の蔭に隠れるので有明海 を意識した山城ではない。

柏崎=青森県八戸市柏崎・沢里・新井田・古里・八幡、岩手県久慈市柏崎・寺里・新井田・外里・日向・山田、同県遠野市土淵町柏崎(八幡山)、宮城県気仙沼市柏崎・八幡前、同県古川市(大崎市)柏崎、福島県相馬市柏崎、石川県羽咋郡押水町柏崎・同郡志雄町柳瀬(やなぜ)、茨城県新治郡霞ケ浦町柏崎、栃木県塩谷郡高根沢町柏崎(出雲神社)・仁井田簗瀬(やなせ)、埼玉県岩槻市柏崎・飯塚・上里・徳力、同県東松山市柏崎・山崎・同県比企郡滑川町打越・広瀬山田、新潟県柏崎市飯塚町・久米・半田(はんだ)・穂波町・大和(やまと)町・吉井

納所=三重県津市納所(のうそ)町・大里山室・里・博多町・半田(はんだ)・八幡町、京都府京都市伏見区納所(のうそ)大野・讃岐町・板橋・下鳥羽長田(おさだ)町・但馬町・伯耆町・大和町・八幡町、岡山県岡山市納所(のうそ)・鮎返・鮎帰・久米・長野・広瀬・福井・室山・八幡・半田(はんだ)・山田・大和町・飯盛山・三光山、広島県三原市沼田東町納所(のうそ)・八坂町・八幡町・同県御調郡御調町福井、佐賀県東松浦郡肥前町納所(のうさ)・晴気・馬渡、福岡県八女市納楚(のうそ)・亀の甲・長野・柳瀬

柳瀬=福島県石川郡石川町梁瀬(やなせ)、富山県砺波市柳瀬(やなぜ)・福岡、石川県羽咋郡志雄町柳瀬(やなぜ)・押水町柏崎、栃木県宇都宮市簗瀬・鶴田・大和、群馬県安中市簗瀬・八幡・日向・山田、岐阜県安八郡神戸町柳瀬(やなぜ)・福井、 同県武儀郡武儀町柳瀬(やなぜ)・多良木、静岡県田方郡中伊豆町柳瀬(やなせ)・八幡、愛知県名古屋市中川区柳瀬(やなせ)町・八幡本通、滋賀県神崎郡五 個荘町簗瀬、和歌山県有田郡広川町柳瀬(やなせ)、同県日高郡龍神村柳瀬(やなせ)・福井、同県伊都郡花園村梁瀬(やなせ)、島根県邑智郡邑智町簗瀬(や なせ)、岡山県後月郡芳井町簗瀬・吉井、高知県香美郡物部村柳瀬(やないせ)・柳瀬神社・仁井田神社、同県吾川郡伊野町柳瀬(やなのせ)、同県安芸郡馬路村魚梁瀬(やなせ)、福岡県福岡市南区柳瀬(やなせ)・鶴田・大和町、同県八女市柳瀬(やなぜ)・長野・納楚(のうそ)、同県京都郡犀川町柳瀬(やなせ)、熊本県球磨郡相良村柳瀬(やなせ)

従者に曳かせて遡上=ローマ帝国でもガレー船等、櫂や帆に拠る推進だけでなく、奴隷に同様の労働をさせて河川を遡上したとされる。 また、魏氏や郡使が派遣された時期は、渡海の安全性から夏場が多かったと云われるので、熱さ対策として多くの休息日を設けたと思われる。
 
  1. 2016/07/08(金) 10:05:59|
  2. 6.国々の比定
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇唐津市付近の遺跡

 「倭人伝」一大国から寄港地、南の「末盧国」を列島の地形的な状況や伊都国への方向性から佐賀県唐津市付近とすれば、市街地の山手、桜馬場遺跡や菜畑(なばたけ)遺跡とも考えられるが、満潮時に唐津湾から大型外洋船が入れる松浦川河口奥で下船した方が合理的だろう。
 そこで平底船に乗り換えて宇木川か半田(はだ)川を遡上した同市柏崎(八坂神社)の柏崎遺跡や松浦川東岸の同市久里双水古墳遺跡の東側、先の両河川に挟まれた鏡山南麓の丘陵地、宇木汲田遺跡(飯森山・宮地嶽神社)を伊都国方面への始発地(末盧国の中枢)とした。
 柏崎石崎遺跡から3例しか出土してない「触角式有柄銅剣」、柏崎田島遺跡からは「連孤日光銘鏡」という前漢中期の鏡が出土、日本と中国の関係を示す遺物として注目された。
 その北側、コニーデ状の鏡山(領巾振山)は七方向から同形状に見えるので、別名七面山とある。その美しさからか、崇拝の対象として鏡を奉納した神功皇后、夫との別れを惜しんで領巾を振った作用姫の伝承が残る。玄界灘や松浦川を一望できるので、略間違いなく出入する船の見張台等が、中腹か、山頂に在っただろうが、未だ、そうした資料は見あたらない。

 帶方郡衙から末盧国へ、約40日(実質二週間)程の船旅で到着した郡使や魏使は、翌日を休息日とし、翌々日、佐賀県唐津市柏崎付近から松浦川支流の宇木川か、半田川を下り、夕日山を迂回して松浦川沿いを遡上し、佐賀県唐津市(旧東松浦郡)相知町牟田部付近で支流伊岐佐(いきさ)川に入り、同町伊岐佐(三光神社)付近の中原遺跡(弥生後期)へ向かった。ここ迄、大凡14㎞の里程、一泊する。尚、不彌国以降の道筋、佐賀県三養基郡中原町(現みやき町)香田(香田遺跡)・同郡北茂安町部(物部神社)が在る。
 翌日か、休息日を挟み、翌々日、伊岐佐(いきさ)川を下り、佐賀県東松浦郡(現唐津市)相知町山崎付近で松浦川支流厳木川を遡上、相知の熊野神社を経て、同郡厳木(きうらぎ→いつき)町浦川内一帯で、大凡、14㎞になる。尚、その付近には以下の遺跡が在る。

  山神遺跡(浦川内字山神)=縄文
  有ノ木遺跡(浦川内字有ノ木)=縄文
  松尾遺跡(浦川内字松尾)=縄文
  詰原遺跡(浦川内字松尾・柏葉)=縄文
  柳遺跡(浦川内字柳)=縄文
  河内遺跡(浦川内字河内)=縄文・弥生

 上記、浦川内付近で一泊、翌日か、休息日を挟み、翌々日、同県多久市牧瀬付近で厳木川から外れ、笹原峠を徒歩で越えると、伊都国中枢部の同市北多久町莇原(あざみばる)・多久原(宮地嶽神社)に到る。ここ迄、約10㎞。
 多久市では、2万年前から産出するサヌカイト(讃岐石)を用いて狩猟を行い、約一万 二千年前には尖頭器という槍先形の石器を三年山遺跡や茶園原遺跡周辺で製作、最大規模の遺跡が在る。縄文時代、市内各地の台地に定住、狩猟・漁撈・採集生 活を続けた。弥生時代、稲作が普及、多久町南多久町の牟田辺遺跡等に集落を形成し、安定した生活を営んだ。

 尚、そのまま松浦川を遡上すると、享保4(1719)年、波多壱岐守が勧請した熊野神社(相知町相知)が鎮座する松浦川と厳木川に挟まれた小山と八幡岳を迂回して南下すると、奴国中枢部、同県武雄市に至る。その小山から松浦川方面が一望できるので、一大率の山城や砦で出入りを見張り、管理された。もう一つ、多久市内の山犬原川沿岸に海童神社、その南西側の小山には同市西多久町板屋(いたや)と在り、同県唐津市厳木町笹原峠付近から女山と八幡岳尾根道からを通り、女山峠を経て同県武雄市御所(伏尺神社)へ向かう道もあったが、これも一大率の見張台や関所があって検察されたと考える。

遡上=「魏志倭人伝」での陸行を平底船に下賜品と大使等を載せ、河川沿岸から従者に曳 かせて遡上する事とすれば、有明海沿岸部を平底船で向かう事も可能だろうが、もしそうであれば、奴国の外港と思しき、佐賀県小城郡(現小城市)牛津町前満 江付近から船出したらよいので、東行する必要はない。縦しんば、東南の奴国へ向かった後、不彌国へ東行したのであれば、「伊都国」とされた論理的な説明ができない。

柏崎遺跡=特異な出土物から「魏志倭人伝」に記されている末廬国中枢に比定され、有柄銅剣は有力部族長の権力を象徴するもの。故佐原真氏は銅剣の貴重さからみて墳丘墓は王族の墓であることは間違いないとするが、官や副官の名称が見えない事に対する倫理的な説明はない。

七面(しちめん)山=長崎県島原市南千本木町・亀の甲・八幡町、普賢岳の裾野に七面山と眉山、北側の南高来郡有明町甘木、南高来郡深江町と有家町境に鮎帰滝。他にも奈良県吉野郡十津川村、山梨県南巨摩郡早川町と同郡身延町の境にあり、この二つは仏教の聖地に近い。
 また、佐賀県武雄市と同県伊万里市の境、眉山と八幡岳・板屋、徳島県徳島市佐古山町・ 鮎喰(あくい)町・住吉の眉山等、こうした地名や山名の共通性を無視できない。おそらく、七方向から見るのではなく、狗奴国(くなら→くだら→くづら)の 北進に因り、仏教を奉じた奴国(なら→なだ→なな)は領域を奪われて大和方面へ東遷したと考える。
 「灘」は京都府京都市右京区梅津石灘町、兵庫県神戸市灘区灘浜)町、同県三原郡南淡町灘、鳥取県米子市灘町、同県倉吉市上灘町、島根県松江市灘町、同県 平田市灘分町、岡山県児島郡灘崎町、広島県安芸郡倉橋町灘、同県佐伯郡大野町下灘、山口県山口市名田島、同県岩国市灘町、徳島県鳴門市北灘町、同県海部郡 牟岐町灘、愛媛県八幡浜市向灘、同県伊予市灘町、同県伊予郡双海町上灘、同県北宇和郡津島町北灘、高知県幡多郡大方町灘、大分県佐伯市灘、同県宇佐市灘等 がある。
 尚、大分県下毛郡三光村(現中津市)・鮎帰と、同県下毛郡耶馬溪町の境に八方の何処から見ても同形に見えるからと云われる八面(はちめん)山、同県豊後高田市甘木・加礼川に屋山の別名「八面山」、徳島県美馬郡一宇村と、同郡穴吹町の境に八面山、北側に半田(はんだ)町がある。

伊伎佐(いきさ)神社=兵庫県豊岡市(旧城崎郡)香住町余部字宮内の「伊弉諾尊」三 座、文武天皇御代、彦坐王命を伊岐佐丘に勧請とあるが、関連地名は見あたらない。御由緒、文武の御代、慶雲四年七月、諸国に悪疫病が流行す。天皇は、諸国 に神祇を祀る事を命じられし時、美含郡大領椋椅連小楢、彦坐王命を伊岐佐の丘に勧請した事に創まる。今より約千二百八十年前の事。天平七年には伊弉諾命 を勧請し、主祭神とする。 嘉祥4年正月27日時の神祇官より、「正弐位上」が授けられ、数少ない延喜式の小社に列し、延喜22年春3月、奉幣の儀あり官社となる。又、文永7年夏、 異国(蒙古)来襲と聞き、武神男山八幡宮の御分霊、中臣氏祖天児屋根命を勧請し、異賊退治の祈祷式を行う等、由緒ある神社である。
 三光神社=福岡県浮羽郡吉井町大字福益1358の熊野神社摂社に三光神社「天照皇大神 配 月讀神、天加賀世男神」。姫山に鎮座、もと日月山神社と云う が、江戸時代中頃、姫山神社としたが、維新後宰相山神社とも号した。明治末期、境内に鎮座の三光神社を合祀して三光神社と改めた。社は反正天皇の時代に創 建された。創建以後の神職は武内宿禰後裔武田氏で八十有余代を数える。合祀された旧三光神社は、宮城県仙台市の陸奥国青麻三光宮の分霊で、信徒諸国に増加 した。姫山神社の影が薄くなったので、三光神社を合祀した。

多久市=古墳時代、南東部の低丘陵地を中心に集落を形成、小豪族が誕生した。千基を超 える古墳が造られた。奈良~平安期には別府・下多久地区を中心に条里制が敷かれ、高来(たく)の地名が誕生、駅が設置された。当時の遺跡も相次いで発見さ れた。東側の東多久町古賀には古賀山1号墳(壁画系・線刻)がある。多久地区は砥川石工領域であるため、彼らが得意とした岩狛が数多く見られるとある。 尚、彼杵半島と島原半島の繋ぎ目には長崎県北高来郡高来町里名、同県南高来郡西有家町里坊、福岡県行橋市高来(たかく)、同県前原市高来寺(こうらい じ)・油比。
 熊野大権現(佐賀県多久市北多久町小侍)=権現とは権(かり)に現われる事。中世の本地垂迹説では本地である仏が仮に神の姿となって現れて人々を導くと説く。熊野三山の神にも、夫々、仏が割り当てられ、古来、信仰されていた神は実は仏の化身であったという教義が広まった。
 八幡神社(佐賀県多久市東多久町別府)=大永8(1528)年、佐賀領主龍造寺氏が宇佐八幡宮を勧請して創建した。江戸期に至っても龍造寺系多久家代々の尊崇を受け、明治期には村社となる。

熊野神社=大正4年の相 知郷土誌には「相知村相知宿の中央高地に在り、眺望佳なり」、山手に鵜殿石仏が在り、山に囲まれた相知では山岳宗教系の信仰が盛んだった。同郡北波多村と 相知町境の岸岳城跡がある。狛犬の顔立ち等、唐津くんちで曳かれる金獅子や赤獅子に似ており、一般的に知られる獅子舞のものとも共通性がある。
 青幡(あおはた)神社(佐賀県唐津市相知町佐里)=延徳元(1489)年再建の棟札を所蔵する古社。松浦党波多氏の氏神で国常立尊等を祀る。伊万里市に在る同名の神社も松浦党の関連だが、祭神は異なる。尚、「青幡」は神功皇后の軍旗の色に由来する。
 先述した大分県三光(さんこう)村上深水の八面山上には二つの池があり、鎮座する大山祇神社の山神が日神化身(水神)としてが降り、同村下深水の雷神社(水神八代竜王を合祀)に宿る。これも豊穣神タノカンサーが水神となり、麓の祠に宿るとした事に繋がる。
 八幡大神の生母神功皇后のご神体とされる三つの巨石、和与石・石体菩薩・金色犬石が在る。八幡大神が宇佐の法蓮と和与して如意宝珠を受けた所で、神仏混淆の六郷満山へと発展する仲介的な役割を果たした霊山と云われる。尚、雷神社は雨乞いの場で、犬丸川は禊ぎの川。

海童(かいどう)神社=佐賀県杵島郡白石町深浦は海神豊玉姫命(龍神)を祀る。奴国の比定地を佐賀県小城郡牛津町付近としたが、佐賀市嘉瀬町を流れる嘉瀬川と同地名の嘉瀬川(河川は見えない)が在り、同県杵島郡や武雄市にも広がっていたと思う。
 付近の妻山神社には素戔嗚尊の御子五十猛命が韓(から→わに)国から樹木の種を持ち帰り、杵島山に播種し、その発芽を見てから紀伊(きい)の熊野に 行った。全山が緑に覆われたので木島=杵島と呼んだと伝称される。その徳を称える神社を創建、妹抓津姫(玉依姫)命を合祀して勇猛山(妹山)を神奈備にす るか。と在る。こうした伝承も海民(わに)が奴国(姉豊玉姫)と狗奴国(五十猛命と妹玉依姫)に分裂した事を示唆する。






  1. 2016/07/16(土) 10:27:12|
  2. 6.国々の比定
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

◇伊都(ヤァタ)国

 伊[・ıər][・ıi][i] 都[tag][to][tu]=ィァタ(八咫)→ヤワタ(八幡)→ヤバタ→ヤマタ(山田)は、末盧国(佐賀県唐津市柏崎付近)から松浦川を遡り、牟田部付近から伊岐佐川を遡上、同市相知町伊岐佐(中原遺跡)付近で一泊、翌日か、休息日を挟み、翌々日、同川を下り、同町山崎付近の松浦川と厳木川分岐点から厳木川を遡上、同市厳木町(いつき→きうらき)浦川内・広瀬・うつぼ木・浪瀬(鶴田神社)で、一泊、翌日か、休息日を挟み、翌々日、大使や副使を輿に乗せ、下賜品を負い従者は徒歩で笹原峠を越えた同県多久市北多久町多久原(宮地嶽神社)・大野・仁位所・松ヶ浦、多久町東ノ原(多久聖廟)一帯に比定する。尚、奴国へ通じたであろう山越道沿い同市西多久町板屋(いたや)にも一大率の役所があり、往来を検察し、出入りを規制した。
 通説の糸島半島基部福岡県前原市にも板持(いたもち)・多久(託杜神社)・雷山(神籠石)・高来寺(こうらいじ)の怡土城跡・神在(宮地岳)と、筑紫平野を挟み東側、奴国の比定地の一つ、同県福岡市博多区板付(いたづけ)・金の隈遺跡、その東側の不彌国の比定地、同県糟屋郡宇美町の東北側、博多湾を望む同郡篠栗町乙犬(いついぬ→おといぬ)が在り、これらも、その往来が検察されたのだろう。
 篠栗町金出(かなで)の飯盛山南側、夫婦山の若杉山太祖神社(糟屋郡篠栗町大字若杉字石ヒシキ1047)には、「記」国産神話で黄泉国から還った伊邪那命が祀られる。博多湾を挟んだ西側、同県福岡市西区飯盛・金武(かなたけ)・飯盛山(飯盛神社伊奘冉)が在る。
 宮地岳や宮地嶽神社は長崎県北松浦郡(現松浦市)鷹島町阿翁免「宮地岳」、同県松浦 市今福町滑栄免(なべるばえめん)「宮地岳神社」、福岡県前原市神在「宮地岳」・同市作出「宮地岳神社」、同県筑紫野市山家「宮地岳」、同県宗像郡(現福 津市)津屋崎町宮地浜・宮司(みやじ)には、宮地嶽神社(神功皇后・勝村大神・勝頼大神)の本社が在る。
 地名「宮司」は大分県杵築市宮司・大平・熊野・筒木・奈多・美濃山・八坂・山田、滋賀県長浜市宮司・八幡中山町・一ノ宮町(豊国神社)、同県坂田郡(米原市)山東町大野木・北方・小田(やないだ)・村居田には息長日広姫陵(神功系)が在る。
 「記」御食津大神(みけつ)を「紀」笥飯(けひ)大神「気比(きひ→きび)」とし、岡山県の旧国名「吉備」との関連を示唆する。また、地名「鮎帰」は佐賀県東松浦郡七山村鮎帰・馬川・木浦・白木・博多、熊本県八代郡(現八代市坂本町)坂本村鮎帰・早水・板持・久多良木(きうたらぎ→くだらき)・百済来川、大分県西国東郡(現杵築市)大田村鮎帰・白木原、岡山県岡山市鮎帰・鮎返・納所(のうそ)・乙子・金田・久米・長野・広瀬・福井・室山・八幡・半田(はんだ)・山田・大和町(飯盛山・三光山)等が在る。
 「記」名前を易えた事に対する御幣(みてぐら)の海豚(イルカ)の血が臭かったので、血浦(ちうら→きうら)と呼んだが、今は都奴賀(つぬが)と云うとする。例えば、仲哀天皇の父倭建命(日本武尊)が白鳥になり飛んでいったと伝承される事、都奴賀を大鳥の鶴賀(つぬが→つづが→つるが)とすれば、河内恵賀に葬られた仲哀天皇と福岡県田川郡香春町の鏡山大神社(河内王墓)の神主鶴賀氏と、「紀」垂仁天皇に会うために渡来したと伝承される同町採銅所の現人神社の「都怒我阿羅斯等」にも繋がり、角賀(つぬが→つづが→つるが)=鶴賀(敦賀)とされた。
 尚、角[kūk][kɔk][kiau(kiue)]・賀[ɦag][hə][ho]の上古音に拠ると、「クッファッ→カハ」で、角賀羅=香春(か・はら→かわら)ともなる。

伊[・ıər][・ıi][i]/都[tag][to][tu]=何度ものべてきた が、隋唐期以降の音でなければ、イト(イツ)とは訓めない。また、乙[・ıĕt][・iĕt][iəi]とあり、旧くは、壱(一・壹)と略同音だった事か らすれば、男弟(伊都国王)が政を佐けたと在る事に影響されたのか、「イツ→オツ→オト」にされた。

多久聖廟=孔子を祀る。伊都国の支配者層は儒教的思想で統治した周武王の弟、召公奭 (しょうこうせき)か、その子が封ぜられた「燕」の人とされる衞滿が興した衛氏朝鮮の王族に関系するとした。燕=現河北・東北南部・朝鮮北部を領し、薊 (現北京)に都し、43世で秦の始皇帝に滅ぼされた(~前222)。4世紀初め~5世紀初めにかけて鮮卑の慕容氏が建国した前燕・後燕・西燕・南燕・北燕 等の国々(五胡十六国)。河北省の別称。

仁位所=対馬の浅茅(あそう)湾岸部の長崎県下県郡豊玉町仁位(にい)港の仁位和多都見神社(祭神彦火火出見尊・豊玉姫命)に繋がる。もしかしたら、桓武天皇御子葛原親王後裔平忠時の娘で平清盛の妻、二位尼時子と関係が在るのかも知れない。全国に二位田・仁井田・新井田等の地名が在る。尚、佐賀県神埼郡神崎町大字的の仁比山下宮神社「天知加流水姫命(大山津見神の娘)配大山咋命」がある。

託杜神社=伊弉諾命・伊弉册命・瓊瓊杵命・埴安命彦・火火出見命・鵜草葺不合尊・木花開耶姫命。由緒は不詳。「十六天神」とされていたが、慶応年間現社名に改名した。村名とされるが、村の名が「多久」であった理由は定かではない。
 丹生広良氏の丹生神社と丹生氏の研究によれば、本来、託杜咩神は丹生都比売神の異称と云う。一方、この地は天日矛との繋がりが強く、赤留比売神とも云われる。託杜咩神は託宣の神で、本殿背後の丘を祀っているらしく、その遥か延長線上に宮地岳がある。

飯盛山=『飯盛神社由緒』に拠ると、上宮・中宮・下宮に神宮寺を設ける。高皇産霊尊後 裔忌部臣祖の天太玉命が伊奘冉尊を奉齋することを創建のを起源とする。上宮に伊奘冉尊 合祀 宝満大神(玉依比売)・八幡大神(品陀和貴命)、中宮に五十 猛尊を奉齋、下宮に天太玉命(大山咋神)を祀ったと云われ、飯盛三所権現宮と称した。
 佐賀県伊万里市山代町久原にも同神社、長崎県佐世保市指方町(飯盛山)・松浦町・松瀬町・大和町、長崎県北高来郡飯盛町嵩(飯盛山)、「飯盛」は全国に地名や山名として見られ、磐窓神社とも関連が在るとも云われる。佐賀県北松浦郡福島町里免の西北海上、同郡鷹島町には宮地岳、また、福島県会津若松市にも飯盛山が在る。
 「倭人伝」八幡岳や女山(おんなやま)源とする牛津(多久)川で東南方面へ下り、佐賀県小城郡牛津町(奴国の泊津)に向かう。そこから有明沿岸航海で奴国中枢部に向かった。尚、同町乙柳(おとやなぎ→いつやなぎ)付近に一大率の役所があったと思われる。
 尚、そのまま松浦川を遡り、鈴山峠を越えるか、女山(おんなやま)を迂回するか、同県武雄市・御所・多々良・真手野・ 楢崎(ならさき)付近が奴国領で、同市橘町には武雄市を見据える、おつぼ山神籠石、玉島古墳、潮見古墳等、古代遺跡と南側の同県藤津郡塩田町には飯盛山が ある。また、大分県下毛郡本耶馬渓町大字西谷4443番地の山神社の境内社宮地嶽神社、山口県下関市中之町1の1(宮田町)の亀山八幡宮摂社にも在り、長 崎県佐世保市八幡町・宮田町・比良町にも亀山八幡宮、隣町の同県東彼杵郡川棚町日向付近に八幡山、同郡東彼杵町大平・飯盛付近に飯盛山が在る。

宮地嶽神社=社が鎮座する丘陵(宮地嶽)中腹、奥宮八神社の一つ不動神社奥に最大級の 横穴式石室古墳があり、山頂を宮地(宮司)とする人々は東遷後、故地を奪った人々と対立したと考える。他にも宮地(宮司)は、岡山県御津郡建部町宮地、岡 山県上房郡北房町宮地。同県上房郡賀陽町宮地、同県久米郡久米南町宮地、広島県山県郡芸北町宮地、山口県宇部市宮地町、徳島県麻植郡山川町宮地、高知県高 岡郡越知町宮地、長崎県佐世保市宮地町、熊本県八代市宮地町、同県本渡市宮地岳町、同県下益城郡城南町宮地、同県阿蘇郡一ノ宮町宮地、同県天草郡新和町 大宮地・小宮地、滋賀県長浜市宮司町、福岡県宗像郡津屋崎町宮司、大分県杵築市宮司が在る。

血浦(ちうら→きうら)=万葉仮名甲「き」と乙「き」には、旧くは「ki」や「gi」系の音から現北京音「ji(ジ)」「qi(チ)」と転音する漢字が使われる。例えば、以下が在る。*音は順に上古音・中古音・近世音・北京音
  伎[gieg][giıĕ][ki][ji](ギ→キ→ジ)  吉[kiet][kiĕt][kiəi][ji](キチ→キツ→ジ)
  岐[gieg][giıĕ][k`i][qi](ギ→キ→チ) 祈[gıer][gıi][k`iəi][qi](ゲ・キ→キ)

香春町=東側へ抜ける仲哀隧道(七曲峠)付近の御所ヶ岳(馬ヶ岳)西麓、福岡県京都郡 (現みやこ町)犀川町木山、同県行橋市津積(つつみ)・大谷と同県京都郡勝山町大久保の境には御所ヶ谷神籠石が在り、或る時期、この付近が新羅系と百済系 の最前線だったとも考えられる。その福岡県田川郡香春町には、勾金(まがりかね)と云う地名が在り、金(かね→かぬ→かづ→かど)とすれば、曲角(まがり かど)か。

敦賀(つるが)=福井県南部、敦賀湾に面する港湾都市。古代から日本海側における大陸交通の要地。奈良時代には角鹿(つぬが)と称とある。尚、敦[tuər(tuən)][tuəi(tuən)][tuəi(tuən)]とあり、音的には、ツル(ツヌ)の何れもでも良い。前者の語義は、太くてズッシリとした黍稷(キビ類)を盛る祭器、後者は、「形」ズッシリと安定している様子。
 



  1. 2016/07/26(火) 07:57:02|
  2. 6.国々の比定
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0