見まごう邪馬台国

◇八幡

 伊都(イァタ→ヤタ/ィエタ→エタ/ヤァタ→ヤハタ→ヤワタ)とすれば、八幡神(応神天皇)=広幡八幡麻呂、広鰭(広幡)と狭鰭(佐波)に繋がり、佐賀県東松浦郡厳木(きうらぎ→きゅうらぎ)町西側同県伊万里市・武雄市・多久市境に八幡岳・女山(おんなやま)・眉山を迂回し、馬神峠から東側へ向かうと、不彌国に比定した同県小城市小城町石木(土生遺跡)・栗原(鏡山)・鯖岡、同郡三日月町金田・久米・三ヶ島、同県佐賀郡(現佐賀市)大和町佐保福島・東山田松瀬・久地井(肥前国庁跡)・尼寺(一本木遺跡)に至る。
 佐賀県東松浦郡相知町中山付近で厳木川に分岐せず、松浦川を遡上した武雄市付近を奴国とした。その東南側、有明海を挟んだ福岡県八女市や同県大牟田市付近が邪馬壹国。奴国南側が委奴国から分裂し、邪馬壹国連合と対立する狗奴国で、末盧国「鏡山」別称「七面山」と佐賀県伊万里市の境界にある眉山(まゆやま)が島原半島にも在り、同族の狗奴(かな)国を島原半島一帯と八代海を挟んだ熊本県南部に比定した。
 八幡(はちまん→ヤハタ)は、「分」「半」の上部「八」=二つに別ける、「幡」=巾(はた)+番(つがい)と云う語義を併せて、夫婦の旗を別ける事→父 母の離縁とすれば、宇佐八幡宮中宮と上宮に母の神功皇后と御子誉田別(広幡の八幡麿)=応神天皇は祀られるが、父の仲哀天皇は祀られずに海峡で別けた山口 県下関市、長門一之宮、住吉神社に仲哀天皇陵墓伝承地が在り、木屋川沿岸の同県豊浦郡豊田町江良(えた→えだ→えら)・飯塚・長野、同郡菊川町岡枝境、華山西麓に天皇の殯葬所跡がある等、その理由が判る。
 おそらく、狗奴国(男王卑彌弓呼+壹與=玉依姫)と邪馬壹国(女王卑彌呼→臺與=豊玉姫)と云う関係をも示唆し、金印を授かった奴国連合の首長だった委奴(わぬ→ゐぬ→いぬ)国王が邪馬壹国と伊都国連合に属す奴国と、狗奴国に分裂した事と繋がる。
 また、古墳とされる山の麓に鎮座する宇佐神宮下宮には須佐之男命と天照大御神の夫婦が祀られる事から、退治されたヤマタノヲロチが、ヤハタ→ヤバタ→ヤマタ(山田)のヲロチとすれば、大分県・熊本県・宮崎県境、祖母山麓一帯では、蛇をヤアタ・ロ(ヤァタの)と呼ぶ事にも関係があり、その北麓、大分県竹田市嫗嶽東側、同県大野郡(現豊後大野市)大野町住吉・矢田が在る。
 後述するが、巴利国の「巴」=(字統)器の把手の形。「説文」蟲なり、象を食う蛇なりとし、字を蛇形として解す。(字統)「邑」=囗(国構・イ)=城壁 を巡らせた所と「巴」=多数が生活する。(字統)「利」禾と刀で、金文には犂鋤や犂の形で見える。禾稲を刈り、収益を得る=利益とあり、大蛇の伊都国配下 の巴利国が為吾国の国人(象)を労役として使役させ、水田の為の治水工事等を担った。
 上記、佐賀県東松浦郡相知には、享保4(1719)年、山を削平した石段上に鎮座する波多壱岐守が勧請した熊野神社が在る。「相知郷土誌」中央高地の相知宿(相知村)は山間に在り、山岳信仰(彦山神社・鵜殿石仏)が盛んだった。
 先述の佐賀県東松浦郡相知町伊岐佐(大野・鶴田)と同地名とした福岡県飯塚伊岐須(いきす)東南側には英彦山神社本社がある。眺望佳なりとあり、松浦川の往来を見張る烽火台や櫓等があったのだろうが、そうした資料は未だ見あたらない。
 その相知町伊岐佐の三光神社と同名の大阪市天王寺区玉造本町姫山は、反正期創建、陸奥国青麻三光宮分霊の神職は武内宿禰後裔の武田氏で八十有余代を数える。その相知町の南側、佐賀県武雄市には武内宿禰と、その妻豊子(壱岐真根子の娘)の伝承が在る。

「イァタ→ヤタ/ィエタ→エタ→エダ→エラ」=下記の地名が在る。
  山口県豊浦郡豊田町矢田飯塚江良・楢原
  山口県山口市大内矢田江良・鰐石町
  島根県安来市矢田町・住吉・福井(伯太川)
  岡山県和気郡佐伯町矢田山田
  岡山県吉備郡真備町箭田・金屋・金山・半田(はんだ)町 
  岡山県阿哲郡哲西町矢田・大野部
  岡山県勝田郡勝田町矢田・大平
  愛媛県今治市矢田・宅間・立花町・馬島
  福岡県嘉穂郡穂波町国(えだくに)
  福岡県北九州市八幡東区光(えだみつ)
  福岡県山門郡(現柳川市)三橋町光(えだみつ)
  佐賀県神埼郡(現神埼市)神埼町ヶ里・馬郡・作出・鶴田山田(仁比山)
  佐賀県鹿島市古、同県藤津郡塩田町大牟田
  熊本県玉名郡菊水町(和水町)江田・竈門(かまど)
  大分県宇佐市時・葛原・山田
  大分建県竹田市・菅生・玉来
  大分県豊後大野市三重町百(ももえだ)・菅生・玉田
  大分建県大野郡清川村宇田
  広島県安芸郡江田島町秋月・山田
  広島県御調郡御調町江田・釜窪・福井山田
  島根県出雲市江田町・大津町・白 
  徳島県小松島市江田町・豊浦町・前原町

奴国=奴国のトーテムが「牛」で、伊都国から不彌國から向かう東方向の道ではなく、東南方向の今出川から牛津川沿いの道を向かうと、奴国の出先津の佐賀県小城郡牛津町(牛尾神社)に至る。ここにも一大率の官吏が常駐する役所(牛津町柳)があったと思われる。
 尚、佐賀県厳木町屋西北側、八幡岳東北側、同町 船山には女山(おんなやま)が在る。その東側に伊都国と不彌国が並ぶ。南側の女山峠を越えると奴国の中枢部に到る。また、その東南側、有明海を挟んだ福岡 県山門郡瀬高町(現みやま市)女山(ぞやま)には女山神籠石が在り、邪馬壹国の比定地とした。

眉山=月読尊に殺された保食神の亡骸、頂に牛馬生れり、顱上に粟生れり、眉上に蠒生れ り、眼の中に稲、陰に麦と大小豆生れり。蠒(かひこ)とするが、繭(まゆ)と同字、蠶(かひこ)は簪や潜等と同系で、隠れる事とすれば、繭に籠む虫(甲 籠)となる。尚、阿波国(徳島県徳島市佐古山町)にも眉山・天神山(天神社・菅原道真)がある。

ヤマタノヲロチ=八頭とは八つの頭ではなく、魁(はたがしら)を二つに別ける事、月読尊に殺された保食神の頂に牛馬生る事に関連する。尚、邪馬壹国の比定地とした福岡県大牟田市甘木(あまぎ)・出雲町・教楽来(きうらぎ→きょうらぎ)・長田町・松浦町・馬渡町・三池(宮地嶽神社)等、祇園社(素戔嗚尊)では大蛇山(だいじゃやま)祭が行われる。

熊野神社=旧日月山神社、江戸中期、嬪山神社とされたが、維新後、宰相山神社とも号した。明治末期、境内に鎮座する三光神社を合祀し、三光神社に改められた。陸奥国青麻三光宮より勧請した三光神社と合併した嬪山神社の跡地に、大学の創始者は学舎を建てたいと願った。
 そこで三光神社の祭神、日、月、山の神と嬪山神社の祭神、仁徳帝、八幡神、稲荷神、風神を合祀、七柱の神を地主神とする事で合意、その名残と云う意味不明の由緒と説明が在る。
 尚、大分県下毛郡(現中津市)三光(さんこう)村宮地・山田、同県中津市金谷・博多町・八幡町・福島、福岡県築上郡(現上毛町)大平村有田・土佐井(つちさい)等が在る。*三光=日(天照大神)、月(月読尊)、星(素戔嗚尊→天津甕星・星神香々背男) 

陸奥国青麻三光宮=祭神「天照大神・月読尊・素盞嗚尊(星神香我背男)・仁徳天皇」、摂社武内宿禰社・野見宿禰社・主守稲荷社とあり、三光の由来は、太陽・太陰・星の三光と在る。





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  1. 2016/08/01(月) 08:40:36|
  2. 6.国々の比定
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◇河川陸行

   当時、列島の自然環境や道路状況を考慮するに縦横に走る河川や治水用水路で平底船を使い荷役に利用したと思う。詰まり、ここで云う陸行とは河川航行用の 平底船に大使や副使等の上級者を乗せ、荷物も載せて従者が河岸から船を曳いた。遡上する場合、歩く速度と同程度か、流れに逆らうので、幾分、遅くなるかも しれないが、大使や副使は疲れず、多くの荷物を運べると云う利点がある。下降する場合、川下りの船と同様、流れに乗るので遡上よりも早く進む。  
 奴国の位置関係はややこしい。伊都国と同方向の東南百里で至るとすれば、7~14㎞前後で、不彌国より南西に位置する。詰まり、この国も有明海沿岸部になるが、当時(弥生期)の海岸線は、現在のそれよりも内陸部にあったとされる。*「遺跡との照合」の図参照
 伊都国に到着した翌日を休息日として、翌々日、佐賀県多久市北多久町多久原(たくばる)付近、山犬川の流れで下り、牟田部付近で、八幡岳・女山(おんなやま)を源流の同市西多久町板屋山崎付近を流れる牛津川が合流した多久川から晴気川(小城市小城町晴気付近)に入り、佐賀県小城郡牛津町牛ノ尾(牛尾神社/祭神・素戔嗚尊の五世孫とされる天之葺根命)か、佐賀県多久市東多久町納所・天山・柳瀬松瀬付近が、道程で記述される奴国(同県小城郡牛津町柿樋瀬には生立ヶ里遺跡)だが、先述の如く魏使は向かって居ない。おそらく、奴国の出先機関(湊津)だが、一大率の官吏や武官が常駐し、検察したと考えられる。
 尚、一方の不彌国は、その東多久町別府・柳瀬松瀬か、小城郡小城町山崎や船田付近で下船したか、或いは、河川に拠らず、徒歩で小城町栗原付近の鏡山を目指し、迂回して同郡三日月町石木に向かった。略10㎞(百里)で着く。尚、同郡小城町鯖岡付近が不彌国中枢と考えられる。
 1971年9月、散乱していた土器が鉱害復旧事業で発見された佐賀県小城郡三日月町石木・甘木付近の土生(仁俣・久蘇)遺跡は弥生時代中期の大規模な集落跡で、発見時は登呂遺跡(静岡県)に匹敵する最大規模の遺跡として大きな話題になった。
 佐賀平野における中核的な集落、青銅器づくりの拠点でもあったとされる。朝鮮系無文土器や木製農具、青銅器の鋳型等が数多く出土している事から朝鮮半島 から渡ってきた渡来系の人々との強い繋がりを示す。表面が黒く塗られ、取っ手が牛角の如く尖った壺等、朝鮮半島系の特徴を持つ土器類が多数出土した。 朝鮮半島系から次第に弥生土器へと変遷していく様子が分かる。木製農具や道具も多数出土した。
 同遺跡から初めて完全な形で出土した韓国に伝わる“幻の農具”、土を耕すために人が踏んで使う弓状の踏鋤(ふみすき)は、韓国内でも出土例がない。

ariake2.jpg 

 上図は、末盧国からの河川陸行に使われたと思しき河川の略図で、青矢印は河川の流れる方向。黒矢印は陸路で、手持ちの地図では笹原峠に河川は見えないの で、従者は大使や副使を輿に乗せ、荷物を担いで、峠道を歩いて越えたと考えられる。一日で進む距離は短かいが、従者の疲労を考慮して、翌日、必ず、休息日 を設けたと思う。
 また、多久市南部を東西に流れる多久川を使ったとしても、今出川合流地点から東流する河川は見あたらないので、今出川を遡上し、笹原峠と同様に陸路を徒 歩で向かったか。或いは、福岡県柳川市大和町徳益の八枝遺跡では柱が軟弱な地盤に沈み込まない様に工夫された掘立柱建物が検出されたとあり、伊都国(蛇) 配下の巴利国が為吾国人(象)を使役し、耕作地を拡げたり、水運のための治水工事に従事させたとしたので、河川と河川を繋ぐクリーク(小運河)を造らせた とも考えられるので、平底船で不彌国付近迄も行けたのかも知れない。

西多久町板屋(いたや)=奴国の中枢部へ抜ける山越えの道沿いで、北西へ向かって流れる川辺の南西に位置する小高い丘の東北側斜面に在り、付近を一望できるので、一大率の見張り台があったと考える。 

土生遺跡(仁俣・久蘇)=佐賀平野西部の標高6~9mの扇状地に立地する弥生中期前半を盛期とする集落遺跡で、昭和4(1971)年 に発見された。多量の弥生土器とともに鋤や鍬、斧柄等の木製農工具をはじめとする豊富な木製品が発見され、青銅器生産は鋳型と土器との共伴関係から弥生中 期前半には本格的に開始されたとされる。また、朝鮮半島から持ちまれた技法とみられる国内で2例目の発見だった「井」の字に組んだ井戸用の板。青銅器の鋳 型(県重要文化財)で、日本で初めて発見された「銅槍鉋」の鋳型をはじめ、銅剣、銅矛等、種類も多く青銅器作りが盛んだった。
 平成4年度には銅ヤリガンナ鋳型1点、13年度には青銅器鋳型2点、14年度には青銅器鋳型4点が出土している。北東側に隣接する弥生時代を中心とする 集落遺跡の仁俣(ふたまた)遺跡は、平成8年の発掘調査で弥生時代中期前半の土器とともに銅矛鋳型1点が出土。久蘇(くしょ)遺跡は、土生遺跡西側から南 西部にかけて展開する弥生時代から近世にかけての複合遺跡であり、平成14年度の発掘調査で銅矛鋳型1点が出土。昭和48年に遺跡の一角が国史跡に指定。
 青銅器の産地は同定鉛同位体比の測定による銅産出地説
 東京国立文化財研究所の馬淵久夫(保存科学部長)により2,500点もの銅器の鉛同位体比が測定され、弥生期の鉛(銅の産地と一致すると仮定した上での 素材供給地の変遷が調べられた。その結果、弥生初期では朝鮮半島から供給され、やがて中国・華北地方へと移行したと結論。その境界は前108年(BC1世 紀)、漢の武帝による楽浪郡の設置に当たった時期としている。
 華中・華南の原料が使用されるようになったのは古墳時代からであり、この時代となると、華北原料は全く認められなくなる。この見解に従うなら、弥生中期から後期にかけての日本の銅器原料は中国華北地域ということになる。
 2007年に韓国立慶尚大学招聘教授の新井宏が発表した研究結果では、弥生前期末から中期初めのものとされる青銅器は、中国最古の王朝とされる商(殷、 BC17~11世紀)や西周(BC12~8世紀)の時代に多く見られる青銅器と、鉛同位体比が一致することが判明し、極めて特殊な鉛の種類が含まれていた という。

最大規模の遺跡=鳥取県米子市と大山町に跨る妻木晩田(むきばんだ)遺跡は、集落は弥 生時代中期後葉(BC1世紀)から形成され始める。弥生時代の遺跡としては佐賀県の吉野ケ里遺跡の3倍以上の面積を持つ集落跡が中国地方の最高峰、大山の 北麓にある。謎の多い古代の山陰地方で、弥生時代から古墳時代への移行期のカギを握る遺跡として注目を集める。
 鳥取県米子市と大山町に跨る152㌶が国史跡。遺跡中、最大の墳丘墓、3世紀後半の築造、仙谷8号墓の石で組まれた石棺から弥生時代最末期の首長の骨が見つかった。この巨大集落は、この後、程無く突然消滅。
 




  1. 2016/08/07(日) 22:34:00|
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◇弥生遺跡

吉野ヶ里遺跡(BC250-300)=北に背振山地と東南に筑後川に挟まれた地形に在り、北に三津永田遺跡、二塚山、検見谷遺跡、少し離れて安永田遺跡、千塔山遺跡がある。
石動四本松遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町三津)=石動字四本松の縄文~平安の複合遺跡。弥生期の甕棺墓、木棺墓、土壙墓、石棺墓等、弥生後期前半のJ032甕棺墓は単棺で棺外口縁部から連弧文昭明鏡一面、棺内から硬玉製勾玉、碧玉製管玉が出土。連弧文昭明鏡は8片に割られ、鈕の部分を抜き集めた状態で発見、面径12.6㎝。銘帯に「内而青而以而昭而明而光而象而日而月而夫而」20字。
三津永田遺跡(佐賀県神埼郡脊振村・東脊振村)=吉野ヶ里遺跡北方の段丘上、甕棺墓と箱式石棺墓。人骨と青銅器や鉄器、貝釧、硝子製品。連弧文清白鏡等、5面の漢式鏡等。
二塚山遺跡(佐賀県三養基郡上八村)=吉野ヶ里遺跡の東方、弥生前期末~後期の甕棺墓、土寇墓、箱式石棺墓。鏡、貝釧、硝子小玉、管玉が出土。鏡は連弧文清白鏡獣帯鏡を含む4面の漢式鏡と小型倣製鏡。
検見谷遺跡(佐賀県三養基郡北茂安町)=一括埋納された銅矛は12本中10本が研ぎ分けによる綾杉状の装飾を持つ。同例は島根県の荒神谷遺跡出土の銅矛16本中、4本にも。
千塔山遺跡(佐賀県三養基郡基山町)=弥生中期~後期の住居跡から青銅鋤先が出土。他41軒の住居跡や8棟の掘立柱建物を確認。
安永田遺跡(佐賀県鳥栖市安永田)=弥生中期後半~末。石製銅鐸鋳型片(横帯文)・砥石・石製銅矛鋳型片・鞴羽口片、方形炉遺構(3×4.5m)
一本木遺跡(佐賀市大和町尼寺)=弥生~鎌倉の集落と墓地。土壙墓の床面直上から長径10.5×短径9.1×厚0.2の猪目型湖州鏡が出土。鏡面上に鑷子(毛抜き)、13世紀前半の下部に陽刻された「湖州石家煉」の文字は類例と方向が異なる。
生立ヶ里遺跡(小城市牛津町乙柳字立籠)=晴気川支流の氾濫で形成された沖積平野の標高3~4mの微高地に立地。弥生~古墳、平安の集落を確認、状態が良好な木製品が多数出土。柱・杭・礎板等の建築部材、剣形木製品・槽等の儀器、鍬・鋤・臼・竪杵等の農耕具、杓子・皿・匙形木製品の農耕具、組合式木甲短冊形。弥生中期前半の槽は一木を刳り抜き、外面に黒漆と赤漆の直線文と重弧文様を描く。
高志神社遺跡(佐賀県神埼市神埼町神埼)=弥生期の集落、墓地、貝塚。北側では弥生前期、末~中期中頃の甕棺墓38基、一基から絹布に巻かれた完形の細形銅剣(35.9㎝)、30~40代、男性の人骨に刺さった銅剣の切先、石剣や石鏃、鮫歯製の鏃等が出土。
増田遺跡(佐賀市本庄町大字本庄)=脊振山地南麓の洪積台地南端、弥生~中世の複合遺跡。弥生期の甕棺墓主体の墓地が広範囲に分布、周辺部では朝鮮半島関連の遺構や遺物、弥生前期~中期の多鈕細文鏡は唐津市宇木汲田遺跡・大和町本村籠遺跡と3例目。
土生遺跡(佐賀県小城郡三日月町土生)=弥生前期末~中期前半の無文土器は朝鮮半島の特色を有す無文土器が多い。福岡市の諸岡遺跡や三国丘陵等、朝鮮半島と同様の物や、この遺跡等で見られる在地の土器に影響を受けた無文土器へと変遷する。

 弥生前期末~中期前半、北部九州各地に国ができ、朝鮮系多鈕細文鏡や細形銅剣・銅矛・銅戈(青銅器)を持つ首長層が現れる。土生遺跡や諸岡遺跡の初期で は、金属器鋳造の炉や滓、送風管の口、鋳型等は見つからない。それは隈・西小田遺跡(福岡県筑紫野市)の隣り、同県小郡市の三国丘陵遺跡群等も同様で、青銅器鋳造の資料は中期前半の無文土器とともに現れる。
 尚、祭祀用具と思しき鏡や銅剣等と、農具の鋤や杵臼、鋳型等の副葬品は国体の違いを示し、順に連合体に列する神官系や武人系、服属した耕作民系、治水や鍛冶鋳造等の技術者系だろう。

無文土器=
隈・西小田遺跡で朝鮮半島系の無文土器が3点ほど出土。朝鮮 で農業が始まった時代、無文土器時代、或いは、青銅器時代の土器で、早期・前期・中期・後期に分類され、朝鮮半島系無文土器と呼ばれ、弥生人は祭祀として ではなく、日用雑器として使った。尚、海上交易を担った倭人に拠るのか、擬弥生土器とされる列島側から搬入されたと思しきものもある。
 一方、弥生前期末から中期後半には、九州の対岸、朝鮮半島の慶尚南道地域にも、この時期の弥生土器を出す遺跡が幾つかある。特に慶尚南道泗川市(三千浦 市)南、南海島付近で狗邪韓国の比定地の西側の勒島遺跡では、弥生中期初頭~前半の搬入・忠実再現品や擬弥生土器がまとまって出ており(全体の7~8% 程)、弥生人(倭人)が長期間集住し、実際に九州と朝鮮南部の相互交流を示す。
 隈・西小田遺跡で少数だが忠実再現品とされる弥生前期末~中期初から直接にせよ間接にせよ、細々とした朝鮮南部との繋がりを示し、中期前半の第3地点 109号甕棺に副葬された細形銅剣を入手できた。当初、無文土器が出る集落は三国丘陵等、福岡県内に散在するが、やがて西の佐賀平野の土生遺跡等で見られ る在地の土器に影響を受けた擬無文土器へと変わっていく。

青銅器鋳造=朝鮮でも後期無文土器とともに鋳型が出た例は未だないので、青銅器を作った人々は極めて限られた集落の限られた人々で、弥生前期末に日本に来た無文土器人に青銅器を作る技術はなかった。そして、こうした人々が拠点集落に配置され、朝鮮との交流の回路を確保して交渉を重ねる中、初めて青銅器工人を獲得できたとする。
 無文土器を使う渡来人の集落は朝鮮半島から来た青銅器の工人が渡り歩くネットワークの拠点だったのかも知れないとするが、八ノ壺遺跡等、南の熊本平野で も在地の弥生土器に交じって見つかっており、その分布は、先の青銅器鋳型の出土範囲と重なるとされる。こうした技術者の全てを半島からの渡来人としてよい のだろうか。





  1. 2016/08/16(火) 08:47:25|
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◇奴(ナッ)国=箕子氏後裔の奴国連合の宗主国

 佐賀県東松浦郡相知町付近を分岐点として、そのまま松浦川を遡るか、天ヶ瀬ダムのある鈴山峠を越えるか、八幡岳・女山(おんなやま)・眉山を迂回、南下した後、東行すると、佐賀県杵島郡北方町馬神、同県武雄市御所・楢崎・多々良・馬渡付近の杵島山麓に至る。同市橘町大日付近の犬山岳西側中腹には有明海側ではなく武雄市を見下ろすおつぼ山神籠石が在り、この一帯を奴国の中枢として比定する。
 有明海を挟み東南側、福岡県山門郡(現みやま市)瀬高町大草・広瀬女山(ぞやま)に女山神籠石、隣町の同県八女市岡山・緒玉(をだま)・福島・八幡が在る。二つの女山は、「記紀」御子葺不合命の生母、海人の娘姉の豊玉姫は離縁、その妹玉依姫は乳母(養母)となり、長じた御子の妻になる事、天降りした天孫に醜いと返された姉の石長比賣と妹木花佐久夜毘賣と云う関係にも擬えられる。
 尚、奴(ナ)・国(羅=ラ)=奈良・楢とすれば、他にも下記の地名が在り、狗奴国との戦いに敗れ、故地を追われた人々が東遷したと考える。

  福岡県甘木市(現朝倉市)奈良ヶ谷・原・長田大平・馬田(まだ)
  福岡県田川市奈良・伊田(いた)
  福岡県福岡市博多区奈良屋町・板付(金の隈遺跡)・山田
  福岡県三潴郡城島町津、同郡大木町蒲池・蒲生
  福岡県鞍手郡小竹町南良(なら)津・新山崎
  大分県宇佐郡安心院町本・大平・轟
  熊本県八代市奈良木町・長田町・八幡町・二見下大野町・大平
  長崎県南松浦郡奈良尾町奈良尾郷
  愛媛県北宇和郡広見町奈良・下大野
  滋賀県犬上郡多賀町
  奈良県天理市町・山田
  奈良県御所市原・玉手
  岡山県岡山市津・原・鮎帰・金田・久米・住吉・福島・八幡・山田
  岡山県津山市・金屋・田熊・福井・八代・山田
  岡山県英田郡美作町原・巨勢
  山口県豊浦郡菊川町崎・大野(大野神社)・岡枝・印内、同郡豊田町原・飯塚・江良・奈留・矢田

 杵島山麓には玉島古墳(六世紀)が在り、唐津市浜玉町の玉島川との繋がりが見える。先述の如く福岡県福岡市西区生の松原付近にある壱岐神社祭神壱岐真根子(いきまねこ)は、姿形がうり二つだった娘婿武内宿禰の身代わりに死んだ伝承され、その末裔が、代々、宮を守る。
 武内宿禰(山幸?)は、壱岐真根子(海人)の娘子の婿、舅と婿の関係になる。同じ伝承が佐賀県武雄市若木町の伏尺神社にもあり、その遺体を壱岐に運ぼうとしたが、遺体が重く、そこに葬ったと伝う。
 佐賀県杵島郡白石町大字馬洗(もうらい)の妻山神社、古記録の焼失で創祀年代は不明、社伝では五十猛命(いしぅたける→いったける)が韓(から→わぬ)国から樹木の種を持ってきて杵島山に播種、杉・樟の発芽を見てから紀伊の熊野に行った。
 全山が緑に覆われたので木島(きのしま→きしま→かしま)=杵島(鹿島)と呼ばれた。その徳を称えるため神社を創建し、妹抓津姫命(勇猛山)を合祀したと在り、勇猛(ゆもう→いぅもう)山=妹山を神奈備にするかに見えるとある。
 祭神抓津姫命を娘豊子、抓津彦命は婿の武内宿禰として良いのかも知れない。この神を祀るのは全国で妻山(つまやま=端山)神社だけで、当社の上宮を前 坊と称したのは神仏習合や修験道との習合とされる。また、豊前坊の名称も豊都彦(豊津彦)の豊国から勧請されたのか、熊野へ向かった後、杵嶋全山が緑に覆 われたため、再度、還ったとも考えられるので、「熊野」は、旧く遠賀川付近だったとも云われるので、五十猛命の有功神とは樹木を植えたからだけではなく、 功(いさを)は、九州北部に多い神功皇后と御子応神天皇の伝承に関係するのかも知れない。

おつぼ山神籠石=佐賀県唐津市厳木町・相知町と同県県多久市の境、女山(おんなやま) と、その東側、福岡県八女市の女山(ぞやま)と云う二つの山から推測すると、母系豊玉姫と玉依姫に関連して乙母(オツ・ボ)=妹母→姨(オッボ→オバ) で、姉母=甲母と云う関係と考えられる。

奴国の中枢=何度か述べたが、道程に於て記述される伊都国から東南百里の奴国は佐賀県 小城郡牛津町柿樋瀬(生立ヶ里遺跡)付近で、その出先津とした。同町山崎・池ノ上の牛尾神社北側の小高い丘には、その動向を探る見張り台、その東側、同町 乙柳(いつやなぎ→おつやなぎ)には積荷等を検察する一大率の役所があったと考える。また、牛津川を挟み西側、同県多久市東多久町納所には、後代だろう が、租税や船の積荷を保管する倉庫群があったのかも知れない。

女山(おんなやま/ぞやま)=卑彌呼の宗女とされる臺與、または、壹與に関連が在ると考える。「記紀」海幸山幸説話に擬えると、狗奴国に抗しきれず、臺與(豊)は九州東北部に東遷、壹與(伊豫)は狗奴国王卑彌弓呼の乳母から妻になったと考えられる。

奴国=使われる漢字音は、奴[nag][no(ndo)][nu]・国[kuək] [kuək][kuo]、国(クァェッ→ケッ)とすれば、「ナケ/ヌダケ」となり、邪馬壹国伊都国連合を受け容れ、承諾した「紀」伊奘諾(イザゥナ ク)、「記」伊邪那岐(イジァナギ)は、そうした状況下へと導いた黒幕か、投馬国(タグマ→ナグマ)の国名(投[dug][dəu][t`əu]・ 海[məg][hai][hai])、その訓音、長(ながい)・長押(なげし)・投(なぐ→なげる)・薙(なぐ)に関連して、長崎県の地名由来の長い岬の囲まれた大村湾を凪海(なぎのうみ→なぐ)とした事に関連があるのかも知れない。

武内宿禰=蒙古襲来以後、北條氏が築いた鷲尾城址(福岡市西区姪浜)の鷲尾山東側の浦山には武内宿禰の出城があったと伝承される。神功皇后が新羅討伐に出港したとされる湊の経営は壱岐真根子か、武内宿禰系統で、当初、倭人の海洋国家を支配した委奴国王かも知れない。
 現在の愛宕神社は、景行期に祀られた鷲尾神社とされる。また、姪浜から室見川を遡上すると、同市西区金武・飯盛・同市早良区四箇(しか)、佐賀県伊万里市二里町大里の金武神社(祭神弁財天)神社、その西側、小高い所に弥生中期の甕棺墓群がある。
 尚、佐賀県多久市との境、女山峠を挟み西側には「御所」という地名もあり、本来、彼等は壱岐から百済や九州北部(倭国?)の小戸等、自由に往来した海民 系統を支配した人々だったが、衛氏朝鮮系統の伊都王と歴年相攻伐した勢力争いに敗れ、服属させられたか。靡いて、一女王卑彌呼を擁立して連合した。それを 嫌がった人々が、狗奴国として南下して対立した。

杵島(きしま)郡=箕子(きし→きね)島/杵島(きねしま→きのしま)/岸島(きししま→きしま)。箕子=殷の貴族、名は胥余(しょよ)で、伝説では紂王(ちゅうおう)の暴虐を諫めたが用いられず、殷が滅ぶと朝鮮に入り、朝鮮王として人民教化に尽くしたと云う。
 箕子朝鮮=古朝鮮の一つ。殷の箕子が紂王(ちゅうおう)の末年に開いたとされる朝鮮の伝説上の王朝。首都は王倹城(現、平壌)。前195年頃、衛満(衛氏朝鮮)に滅ぼされた。尚、論語「微子」箕子、これと為る。と在り、奴国王を箕子朝鮮国や殷(商)王朝後裔に繋がる人とした。

馬洗=馬洗神辺(もうらいこうのへ)は杵島山北部、東に突出した妻山丘陵の東で、旧く は妻山神社領だった。神社西側の高所に弥生中期の甕棺墓群がある。東側妻山古墳群は、6世紀後半の古墳時代後期の遺跡で、妻山神社の社務所前に印鑰(いん やく)石があり、印鑰神社祭神、市杵嶋姫命(弁財天)、その子蘇我石川宿禰を、この社の前身とする見方がある。尚、佐賀県伊万里市二里(にり)町中里の金武神社(弁財天)、同県唐津市浜玉町とも繋がる。
 通常、印鑰神社は国府の近くに置かれるが、志賀島の安曇族祖神を祀る志賀海神社摂社船玉社として鎮座する事から、 『小さき社の列島史』(牛山佳幸著)に印とは国司の印、鑰とは府庫の鍵との説があり、金印との関係を示唆する。
 香椎宮摂社印鑰神社、他にも印鑰神社(熊本県八代郡鏡町鏡村)、この地は八代郡倉跡で、奈良平安期、八代近郷の租米を集めていたが、武家政治となり、郡 倉が廃止された後、郡倉の印と鑰(かぎ)を祀り、祭神として蘇我氏祖石川宿禰を迎えた。印鑰神社(石川県七尾市府中町 223)、その由来には養老三年國府を七尾港付近に設け、港の守護神と鎮祭し、能登國國衙の印璽を保管した由来から印鑰神社と称す。印鑰=官印と官庁の倉 庫のかぎ。天台座主(ざす)の職印と宝蔵を開く鍵で、共に座主となった人が受けるもの。
 御和神社(徳島市国府町府中 644)祭神大己貴神・合祀大山咋神、由緒には名方郡の延喜式内小社で、府中宮(こうのみや)、江戸期には印鑰大明神と呼ばれた。王朝政治の頃、当地は国 司の置かれた阿波国中心地で、印鑰の由来について、当社が国司の官印や国庫の鍵を守護したとされた事、或いは、祭神大己貴命が天子の鍵をお預かりしたと か、弁財天(市杵島比賣)の童児の印鑰が社名となった等、諸説ある。印鑰神社は全国で約20社あり、九州が、その八割を占める。

木島=杵島(鹿島)=武内宿禰の子「紀角(宿 禰祖)」と在り、丹沙産地の杵島郡南側同県鹿島市古枝(祐徳稲荷神社)一帯は塩田川や鹿島川等、数本の川が流れる泥濘地だったと考えられる。その語源は、 糟場(かすば→かしま)・河岸場(くしば→かしま)、霞ヶ浦東側の北浦沿岸部茨城県鹿嶋市宮中(鹿島神宮)・鰐川付近等、殆どが同地形で同源地名となる。

豊前坊=遠賀川沿岸部の福岡県遠賀郡水巻町の豊前坊山、同県北九州市八幡東区荒生田付近にも豊前坊山があった。

神功皇后と御子応神天皇=五十猛命は奴国(奈良→木国)から熊野(遠賀)へ移ったと云う伝承と、福井という地名に関連し、建内(武内)宿禰が御子の禊ぎのため現在の福井県「角賀(つぬが)」へ云ったと云う説話がある。
 「福井」と云う地名が福岡県朝倉郡宝珠山村 福井・同県糸島郡二丈町福井、長崎県北松浦郡吉井町福井免。他にも以下の如く在り、福井をを背負った人々も東遷した後、再度、還り、蘇ったのかも知れない。
 京都府舞鶴市福井、大阪府茨木市福井、兵庫県姫路市網干区福井・同県相生市若狭野町福井・同県宝塚市福井町・同県三木市福井・同県篠山市福井・同県美嚢 郡吉川町福井・同県三原郡南淡町賀集福井、和歌山県海草郡野上町福井・同県日高郡龍神村福井、鳥取県鳥取市福井・同県八頭郡船岡町福井、鳥取県西伯郡淀江 町福井、島根県隠岐郡海士町福井、岡山県倉敷市福井・同県津山市福井・同県総社市福井、広島県御調郡御調町福井、山口県阿武郡福栄村福井、徳島県阿南市福 井町・同県那賀郡那賀川町上福井、高知県高知市福井。


  1. 2016/08/25(木) 20:04:00|
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