見まごう邪馬台国

◇倭母(わも)

 「記」伊久米伊理毘古伊佐知(いさち)命に倣い「紀」活目入彦五十狭茅尊も「狭」の北京音[xia]=シァ→サ、茅(ちがや)=「チ」としたのだろうが、万葉仮名が漢字音を訓音として使われると云う前提とすれば、狭[ɦap][ɦap][hia]と、茅[mŏg][mău(mbău)][mau]の上古音・中古音に拠ると、ファッマゥ→ゥアマゥ→ワム(ファム→ハム)、ワムバゥ(ハムバゥ)→ワボ(ハブ)となる。

 「記」小碓命が兄大碓命を打ちのめしたと聞いた父景行天皇は小碓命→倭建(ヤマトタケル)命の猛々しく荒い乱暴な性格を恐れ、西方にいる従わない無礼な熊曾建の二人を討てと遣わした。この時、未だ、髪を額の上で結っていた小碓命は父の妹、倭比賣(ヤマトヒメ)から衣装を授かり、その懐に剣を納めて出かける。
  剣(けん)=建(けん→たけ→たち)とすれば、懐の剣=小碓命(幼子)は姨倭比賣(乳母玉依姫)の庇護下、倭建命(葺不合=卑彌弓呼)として足が立ち成人した。尚、剣(つるぎ)は、死後、白鳥(おおとり)=鶴岐(⇔鶴美)となり、飛んでいった倭建命になる。

 「記」垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)が沙本毘古命の佐波遅比賣命を娶り、生す子唖の品牟都(本牟智)和気命(入日子=継子?)、旦波比古多多須美知宇斯王の娘比婆須比賣命を娶り生す子、印色之入日子命・大帯日子淤斯呂和気命(景行)・大中津日子命・倭比賣命・若木入日子命。とある。
 倭(やまと)の「ヤマ」=分ける事とすれば、垂仁天皇の和風諡号「倭母」は御子を産む皇后佐波遅比賣と後添いの旦波美知能宇斯(投馬道主)王の娘、後者は四姉妹(「紀」五姉妹)に変わる事に関わる。
 また、兄比賣(比婆須比賣命)→沙本毘古命、佐波遅比賣命→弟比賣(沙本毘賣=歌凝比賣命)、円野比賣命→双子の倭建命として転生させるが、「紀」は真砥野媛と竹野媛として、
その兄大碓命と繋ぐと考えられる
 小碓(倭建)命が伊玖米(垂仁)天皇の娘、布多遅能伊理毘賣命(ふたち)を娶り生す子、帯中日子命(仲哀)一柱。入水した橘比賣命を娶り、生す子若建王一柱。近淡海之安国造祖意富多牟和気の、布多遅比賣を娶り、生す子稲依別王一柱。吉備臣建日子の、大吉備建比賣を娶り、生す子建貝児王一柱。山代之玖玖麻毛理比賣を娶り生す子足鏡別王一柱。或る妻の子息長田別王。併せて六柱。
 
 尚、「紀」五十鈴川上の磯宮。崇神天皇の御世、豊鋤日賣命が祭祀する。この御世、天照大神の御魂を倭姫命に移し、その鎮座地を求め、現在の三重県東北部の伊勢国に至るとある。

 「紀」景行天皇熊襲討伐の終点「浮羽」から日向峠を越え、福岡県糸島郡二丈町佐波・福井や東側の同郡志摩町百目木の南側、雷山神籠石の同県前原市多久一帯に戻り、景行天皇(沙本毘古命→狗古智卑狗)→倭建命→倭男具那命(狗奴国王)は垂仁天皇の皇后佐波遅比賣命→沙本毘賣命(宗女壹與)を奪い邪馬臺国と称す。
 邪壹国伊都国連合に与した斯(セマ→サバ)国、邪(ヌガマ→ヤバ)国(卑彌呼の出生国?)、投(タグマ→タヌバ/タギマ→タジマ)国等の海民国(~馬国)の何れもが二分裂、それは邪馬壹国伊都国連合自体が分裂した事をも示唆する。それが故、女王卑彌呼の宗女に対する呼称が、「臺與」「壹與」と混乱し、国名が邪馬国から邪馬国が領域を拡げると、邪馬国系が東遷を始める。
 
 例えば、海驢(あしか→あししか)=足鹿(海馬)を船とすれば、地方に拠っては逆転することもあるが、人が牽く荷を担いだ驢馬(ろば)→艫(とも)=船尾=随伴者(とも)、船首(みよし・へさき)=舳(へ)には、航海の無事を祈願した持衰(じさい)=御先(みさき)が坐す。

ハム=巫女を出す国とした不彌(はみ)国と関係があるのだろう。蛇類の総称「ハミ」と同語源「噛む・食む」。鱧=古名「ハム」、ハモ科海産硬骨魚。体形は鰻形で、全長2㍍に達することも。吻(ふん)は尖り、口は大きく鋭い歯を持つ。背部は灰褐色、腹部は銀白色。体は滑らかで鱗がない。青森県以南沿岸部に産し、関西では鱧料理として珍重される。北日本で穴子。
 飯匙倩(はぶ)=クサリヘビ科の毒蛇。沖縄諸島・奄美(あまみ)諸島に分布。全長2㍍に達し、頭はほぼ三角形、飯を盛る匙(さじ)形でマムシに似るが、頭部背面の鱗は小さい。樹上や草陰に潜み、人畜を咬む。攻撃性が強く、猛毒をもつ。奄美・沖縄諸島には太く短い別種ヒメハブも分布。

鶴岐(⇔鶴美)=伊邪那美と伊邪那岐と云う陰陽の神と同様、姨(おば)の倭比賣命(鶴美)から、成人男性の倭建命(鶴岐)に転生する。

佐波遅比賣命=垂仁天皇にも「伊理毘古」とあり、母系制に於て、婿入り先の佐波遅比賣と離婚し、奪い取った御子を継子として垂仁天皇の後添い弟比賣が養う。時系列的には逆だが、「記紀」海幸彦の、山幸彦と豊玉姫が夫婦(めおと)となり、豊玉姫が産んだ葺不合を山幸彦の後添い乳母(玉依姫)が妹背(妹と兄)として養う。詰まり、父系(兄→弟)と母系(妹→姉)の夫婦(姉と弟)となり、御子を生す。
 例えば、「記」邇芸速日命が先住民、那賀須泥毘古の妹、登美夜毘賣を娶り、宇摩志麻遅命を生む事と、「記」末弟の若御毛沼命(神武)の東遷した後、山神が土地の娘に生ませた神の子、七乙女中の長女(姉)を正后として娶り、即位するのと同様。

「記」四姉妹(「紀」五姉妹)=美知能宇斯王)の娘、氷婆州比賣命、次に弟比賣(沼羽田入毘賣)命、次に歌凝比賣命、次に円野比賣命、併せて四柱とある。「紀」十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭、第一曰日葉酢媛、第二曰渟葉田瓊入媛、第三曰真砥野媛、第四曰薊瓊入媛、第五曰竹野媛の五女とする。 

天照大神=豊鋤入日賣命が巫女として祭祀したとすれば、天照大神は男性神(太陽神)だったと思われる。その後、髪の毛が抜けてお祀りできなくなったと在り、その御魂を倭姫命に移すと太陽光を映す女神天照大御神(鏡)となる。
 初め、天津日高日子番能邇邇芸命の天降りを先導した男性の猿田毘古と、伴(とも)の女性天宇受賣命が、目的地の九十(くしふ→くじゅう)の山に着くと、逆転し、先導(先達)が女性の天宇受賣命となり、猿女君の名を負う
とされる。

~馬国=「距離の感覚」項で述べた如く、「馬」と「海」が上古音では近似音とされる事から、「私説」旧くは草原を走る馬を海原を走る船として擬えられており、それが故、一日で馬が走る平均距離と船のそれが略同等に設定されたとした。

邪馬国=狗奴国官狗古智卑狗(山幸彦)の後添いだろうか、宗女壹與(妹玉依姫)が卑彌弓呼(葺不合)を養育し、国王となった後、国名として称した。尚、「記紀」との略関係は以下と考えられる。

 伊都国(旦波道主王娘兄比賣と弟比賣=倭人と垂仁天皇=伊都国)
   ↓支配服属させる  *垂仁=前69~後70 倭国王帥升?
 奴国(沙本毘賣→神功皇后) → 狗奴国として分裂(景行→妹倭比賣→小碓命→仲哀天皇)
   ↓大碓命を東国へ追い払う(山口県佐波郡徳地町八坂→飛鳥→群馬県佐波郡)
 邪馬壹国連合の女王系(佐波遅比賣→八坂入姫命)と伊都国(大碓命→成務天皇)

持衰(じさい)=「魏志倭人伝」其行來渡海詣中國、恆使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人。如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病遭暴害、便欲殺之。謂、其持衰不謹。


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  1. 2017/02/03(金) 00:36:00|
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◇迫間(はさま)

   佐波(さば)・狭(せま=州)と同源の言葉に、迫(せま)る=間隔が狭い、閉まる・締まる=区画する→終う、縞(しま→せま)=細長く狭いがある。また、迫間(はさま)=谷間の奥まった狭い地形で、物と物との間が狭い所。他にも「狭間」「硲」等、西日本では以下の如くある。

  福岡県豊前市挾間(はさま)・大村・鬼木・轟・広瀬
  大分県大分郡挾間町挾間(はさま)・鬼瀬・鬼崎
  大分県東国東郡武蔵町狭間(はさま)・小城、同郡安岐町朝来
  熊本県菊池市西迫間(はざま・鞠智城跡)・大平・長田広瀬
  熊本県玉名市上迫間(はざま)・亀甲・山田・横田
  島根県大田市久利町佐摩、大屋町鬼村・角折、朝山町朝倉、五十猛町、大代町山田、鳥居町大平
  鳥取県西伯郡大山町佐摩(佐間神社祭神天津彦火瓊瓊杵尊・合祀五十猛命他)・長田・平神社(平)
 
 「記」垂仁天皇の唖(おし)の御子、品牟都(ほむた→ほむつ)和気王は大鳥(倭建命/大和武尊?)が飛ぶのを見て口を利いたため、品遅部(ホムチベ)を定める。一方、「紀」誉津(ほむつ)別王は、景行天皇の和風諡号「大足彦忍代別(オホタラシヒコオシロワケ)は、忍=声が出ないとする。

 「記」品牟都和気王から本牟智ほむち)和気王と御名が変わり、一夜、交わった出雲の肥長比賣が(をろち→へび→はみ)と知り、恐れて逃げ出す。悲しんだ比賣が海原を照らしながら船で追いかけると、御子は山の窪み=迫間(はさま)=船越から船を引き上げ、山を越して逃げ進む。この時、御子は海民の助けを失う。*「
 「記」景行天皇の和風諡号「淤斯呂(うしろ)→尻尾」とすれば、ヲロチの尾を切り裂き出てきた剣(けん→つるぎ)→草那芸大刀(建=たち)で、幼子小碓(倭建)命のが立ち、速く進み東国を討伐するが、その還り、足が多芸多芸(たぎたぎ)しくなる(重くて動かない)。

 景行天皇(大帯日子淤斯呂和気)は船を操る海民唖(オァシ)→国(馬国)を外洋航海民と沿岸や河川航海民の二系に別けたと考える。死後、白鳥(おおとり)となり、飛んで行く倭建命(日本武尊)の孫、「記」品陀(ほむた)和気命(應神天皇)として転生し、五百木之入日子命が尾張連祖建伊那陀宿禰の娘、志理都紀斗賣を娶り、生した御子品陀真若王の娘、高木之入日賣命。次に中日賣命。次に弟日賣命の三柱を娶り、宇佐神宮の比賣神と同体の宗像三女神と繋ぐ。
 八俣大蛇(「紀」八岐大蛇)とは母系海民が分裂、独身(豊玉姫)と夫婦(山幸彦と玉依姫)と云う二系統の成立を示唆する。尚、蛇(をろち)とされた肥長比賣(豊玉姫)と契りを結んだ本牟智和気王は山幸彦(河民)の化体として良い。

 邪馬壹国と狗奴国の戦いの最中、海民が外洋航海民(馬)と沿岸航海民(鹿)に分裂後、更に沿岸航海民が住吉系志賀(志賀海神社)と、河川民の安曇系四箇(飯盛神社)に振り分けられ、後者は稲作民を伴い耕作地を求めて河川を遡り、雲海上の山神と同一視される。

  志賀海神社=底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神、配祀 玉依姫命・神功皇后・應神天皇
  摂社 今宮神社=穂高見神(山神)、安曇磯良神

 「古事記上巻」=此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也阿曇連者其綿津見神子宇都志日金拆命之子孫也」
 「旧事記」=底津少童命・仲津少童命・表津少童命(綿津見神の別号)此三神者阿曇連等所祭筑紫斯香神也

 牡鹿(男神=ヲカ)の角が奉納される志賀海神社は鹿(ちか)=近島として良い。また、大阪府大阪市住吉区住吉の元官幣大社の住吉大社は新羅討伐の航海を扶けた上(表)筒之男神・中筒之男・下筒之男と云う男神と、その男系の女子、神功皇后を祀る。

迫間(はさま)=合間(あひま)は、物と物、人と人との組合せ、多く衣装の配色や人間関係、釣合い、間柄。折(をり)、都合、形勢。間(あひだ)=物と物、時と時との間。隙間(すきま)で、畑の畦(あぶ/あぜ)=田畑の畦畔、平地の小高い所。畦と畝が交互に列ぶ状態、山の谷間で奥まった所とも繋がる。一方、畝(うね)=田畑に作物を植えつけるため、間隔をおいて土を筋状に高く盛り上げた所。山脈・波等、小高く連なった所。織物等とある。畑の畦の場合、少し高い畝との間にある細長く低い所で、畝と畦が交互に列ぶ。ただ、水田の場合、畑とは反対に、田圃に水を貯めるので畦が高い。よく似た地形「迫(さこ)」=山麓にある谷間の先端は、開・拆・裂(さく)や、先・崎・碕(さき)等と同源、地名として略全国的に見られる。
 よく似た字形の「追(おふ)」= 〔他五〕距離をおいた対象を目指し、それに追いつこうと後から急ぐ。先に進むものに及ぼうとして急いで行く=追いかける。場所や物等を目指して進む事や追い求めるとある。

蛇(をろち→へび→はみ)=スサノヲがヤマタノヲロチの尾を切り裂いたとすれば、一本の尾が二本の足に成ったのかも知れない。尚、「はみ」=不彌(はみ)国との関連が考えられる。
 「紀」伊奘諾尊、斬軻遇突智命、爲五段。此各化成五山祇。一則首、化爲大山祇。二則身中、化爲中山祇。三則手、化爲麓山祇。四則腰、化爲正勝山祇。五則足、化爲シギ(酓+隹)山祇。是時、斬血激灑、染於石礫樹草。此草木沙石自含火之縁也。麓 山足曰麓 此云簸耶磨。正勝、此云麻沙柯。一云麻左柯豆。「シギ」此云之伎。音鳥含反。と在り、山(やま)の足(たる→たの)を麓(はやま)とする。

唖(オァシ)=景行天皇の忍(おし→しのぶ)を声を出さずに耐える事とすれば、「唖」も発声できないのではなく、言葉が喋れない事を云う。詰まり、垂仁天皇の御子本牟智(ほむち)和気王を「記紀」言葉の通じない国の人とすれば、「記」喋る様になる=和合、「紀」喋らないまま=不和を示唆するとも考えられる。

五百木之入日子命=次項の(2)已百支国との関連が取り沙汰される。また、尾張連祖伊那陀宿禰の娘、志理都紀斗賣の「都紀」も(4)都支(たけ)国を国とした事とも繋がる。「記紀」成立期の中古音、志[tiəg][tʃei][tsi]・理[lıəg][lıei][li]・都[tag][to][tu]・紀[kıəg][kıei][ki]=志理都紀(チェィレィトキェィ→チリトケィ→チリタチ)、「乙き」紀、「甲き」枳[kieg/tieg][kie/tʃıĕ][tsu]→支と云う違いはあるが、「魏志倭人伝」成立期の上古音とすれば、都[tag][to][tu]・支[kieg][tʃıĕ][tsï]、都支=タキェ→タケ(建)、中古音では、タチェ→タチ(大刀)になる。

雲海上の山神=山頂の神「大山咋神」が大山津見神として川を流れ下り、河口から海中に入ると安曇磯良になる。それが故、天降りした皇孫の日子番能邇邇芸命(彦穂瓊瓊杵尊)が笠沙岬(河口)で、木花佐久夜比賣(木花咲耶姫)を娶ると考えられる。

安曇磯良神=『八幡大菩薩愚童訓』神功皇后が乗った船の舵取りを務めた人で、長く海中に住んでいたために牡蠣等が顔面に付着した磯良の容貌は醜怪であったとあり、安曇磯良神と云う海底の物怪が鹿島明神とされ、古代の海人が持つ信仰に由来すると云う。
 その常陸国「鹿島大明神」が大和の春日明神、筑前の志賀明神が同体異名とする理由は、志賀海神社に牡鹿(をが)の角が奉納される事、春日大明神では神の使いが鹿とされ、何れも鹿と関係がある事。更に云えば、沿岸航海と湖沼や河川航海を鹿(ちか)=近(ちか)とすれば、外洋航海民の乗り物「船=馬」とした様に地名の長崎県対馬や、馬渡(まだら)等、馬=遠(とほ→とぼ→とも)=伴・友と云う関係があるのかも知れない。

斯香=四箇(しか)と同系。注の志理都紀斗賣の志理(しり)は、志賀=鹿(ちか)と同系音となる。これを斯理(しり)=尻・後・尾とすれば、四箇(しか)と同系音になる。花が咲いた木花佐久夜毘賣命とは反対に、大山津見神の娘木花知流(かはちる→かはちの)比賣は花が散る。
 天皇家の二大史書「古事記」と「日本書紀」の担い手が違うため、古事記は「チマ」と「シマ」と使い分けて示唆し、「記」大山津見の娘木花知流比賣と木花佐久夜毘賣の関係と同様、母系海人の分裂を示唆する。但し、南北朝期以降、日本(やまと→にほん)=二本(古事記と日本書紀)として併合されたため、正史とされた日本書紀は同系として記述する。江戸初期迄、行方知れずだった古事記は、名古屋市内の真福寺から発見されたが、当初、偽書とされた。その後、本居宣長や新井白石等が研究を始める。

住吉大社=二十二社の一つ。摂津国一の宮。他にも下関市住吉神社(長門国一の宮)や福岡市博多区住吉(筑前国一の宮)等、各地にある。


  1. 2017/02/03(金) 00:38:31|
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◇転生  *更新しました(2/20)

 「垂仁記」佐波遅比賣(沙本毘賣)命の系統に婿し、品牟都和気命を儲けた伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁)は、服従せず、謀反を起こした皇后の沙本毘古命と共に、沙本毘賣命が稲城で焼け死に、旦波比古多多須美知宇斯王(開化天皇の御子)の四姉妹を娶る。

 「古事記」氷羽州比賣命を娶り、印色入日子命・大帯日子淤斯呂別命(景行)・大中津日子命・倭比賣命・若木日子命を生む。沼羽田毘賣命を娶り、沼帯別(ぬたらしわけ)命・伊賀帯日子命を生む。阿邪美能伊理毘賣を娶り、伊許婆夜和気(いこばやわけ)命・阿邪美都(あざみつ)比賣命を生む。円野(まとの)比賣命(子女無し)。
 その比婆須比賣(兄比賣)命と弟比賣命を留め、残りの二人は醜いので、阿邪美能伊理毘賣は出産後に返されたのか、歌凝(かごり)比賣命と名を変え、伊許婆夜和気命・阿邪美都比賣命を養う。もう一人の円野比賣命は恥じて山代国之相楽にて木の枝に下がり死のうとした。その地を懸木、今は相楽(さがらか)と云う。(おと)国に到りし時、遂に深い淵に落ちて死んだ。その地を堕(おち)国、今は弟国(京都府乙訓郡)と云う。

 詳細は省くが、「記」御子等は佐波遅比賣と旦波道主王系統を併せたもの(耳成)で、返された二柱は沙本毘古命と沙本毘賣命に化体され、弟国の円野比賣命は、倭比賣命(景行天皇の妹)→小碓命→倭建(倭男具那)命に転生し、仲哀天皇(帯中津日子)に繋ぐ。
 一方、氷羽州比賣命「紀」日葉酢媛→比婆須比賣命(大中姫)→景行→兄大碓命(伊賀帯日子)と転生させ、成務(若帯日子)に繋ぐ。 

 「日本書紀」日葉酢媛を娶り、五十敷瓊入彦(いにしきにいりひこ)命・大足彦尊(景行)・大中姫命・倭姫命・稚城瓊入彦命を生む。渟葉田瓊入媛を娶り、鐸石別(ぬでしわけ)命・胆香足姫いかたらしひめ)命を生む。真砥野媛(子女無し)。薊瓊入媛を娶り、池速別(いけはやわけ)命・稚浅津(わかさつ)姫命を生む。竹野媛(子女無し)。
 子女のない三女真砥野媛(四女円野比賣)、出産後に返された四女薊瓊入媛(三女阿邪美能伊理毘賣→歌凝比賣)と順序を変え、恥じて輿から落ちて死ぬ竹野(たかの)媛を増やし、母系が併合(耳成)した後、誉津別命(胆香足姫)→大碓小碓(大中津日子命)→日本童男(をぐな)→日本武尊(稚足彦=成務)と転生させ、仲哀天皇(足仲彦)に繋ぐ。

 「記」母系制海神の娘、姉豊玉姫は婿の山幸彦の上(うはつ)国で、本の醜い姿(大蛇や鰐)で出産した事を恥じ、御子葺不合を残し、帰国、代わりに妹玉依姫を乳母として遣った如く、養父沙本毘古の下、唖の品牟都和気命は継母沙本毘賣に養われ、娶った妻沙本毘賣命→出雲の肥長比賣命が蛇(をろち)と知り、畏みて逃げると、兄系本牟智和気命として分離独立する。
 「紀」乳母の真砥野媛に養育され、大鳥を見て口の利けるようになった誉津別尊は、名を変えた薊瓊媛を娶り、池速別命・稚浅津姫命を生す。

 例えば、母系(姉と妹)が併合(耳成)した後、竹野媛が弟系統(日本武尊→葺不合)に転生、継母(姨)を娶り、狭野尊(神武)を生す。平安期、母系(天照皇祖神)の男子(兄系光仁天皇)と父系女子(高野新笠)の子、山部王(弟桓武天皇)が姉系藤原乙牟漏を皇后として即位、余計な兄系を蝦夷「鬼(オニ→あに)」として、言葉の通じない東国へ追い払う。
 鎌倉~南北朝を経て、妹玉依姫の生んだ西国の熊曽(「紀」熊襲)、弟若御毛沼命(神武)の東遷後、東国の蝦夷、長髄彦→阿日彦(兄海幸彦)の山神が麓の娘に生ませた女子とし、三輪山の大物主神を祭祀する崇神天皇に繋ぐ。

伊久米伊理毘古伊佐知命=通常、「記」イクメイリヒコ・イサチと訓むが、上古音で、「ィアケゥマゥ・ィアラェビェゥカッ・ィアッサチェ→ヤクモ・ヤリビカォ・ヤサチ」とすれば、「伊理=遣(やり)」となり、「入」と書き分ける理由が判る。おそらく、垂仁天皇(山幸彦)は、婿入り後、母系を別け、前妻の佐波遅比賣命を妹沙本毘賣命として追い遣り、新たに嫁を娶り、男子の系統(天孫)をも別けた天皇と考えられる。*依=余里

開化天皇=若倭根子日子大毘毘命、旦波之大県主名は由碁理の娘、竹野比売を娶り、比古由牟須美命を生む。庶母伊迦賀色許売命を娶り、御真木入日子印恵命(崇神)、御真津比賣命を生む。丸邇臣祖日子国意祁都命妹、意祁都比売命を娶り、日子坐王を生む。葛城之垂見宿禰の娘、鷲比賣を娶り、建豊波豆羅和気を生む。
 日子坐王、近淡海之御上祝が祭祀する天之御影神の娘、息長水依比賣を娶り、丹波比古多多須美知能宇斯王、水穂之真若王、神大根王(八瓜入日子王)、水穂五百依比賣、御井津比賣を生む。その母の袁祁都(をけつ)比売命(姨)を娶り、山代之大筒木真若王(妻丹波阿治佐波毘賣)、比古意須王、伊理泥王を生む。合わせて十一王。

氷羽州比賣=比婆須比賣命(兄比賣)と表記が変わり、島根県境の広島県比婆郡(現庄原市)比和町に在る「イザナミ」の墓と伝承される比婆山と関連、死後、黄泉国へ行ったイザナミが、「記」(生母)氷羽州比賣命「紀」日葉酢媛→比婆須比賣命(巫女の卑彌呼系)として転生する。その後、上国は弟山幸彦と、乳母玉依姫(後妻)→妻玉依姫+葺不合命の二系に分裂する。中国山地には、幾つかの天石戸(磐戸)別神社がある。

阿邪美能伊理毘賣=兄比賣と弟比賣(沼羽田入毘賣?)命を残し、二柱を返す。ただ、円野比賣には子の記載は無いが、阿邪美能伊理毘賣命は「伊理」とあり、出産後、返されり(遣られる)。詰まり、垂仁皇后の佐波遅比賣→沙本毘賣と同様、本来の歌凝比賣命に戻ったと考える。
 尚、「開化記」日子坐王の子、美知能宇志王丹波之河上之麻須郎女を娶り生む子、比婆須比賣命、真砥野(まとの)比賣命、弟比賣命、朝庭別(みかどわけ)王四柱。「垂仁記」と姉妹の順、その名称にも違いが在る。 詳細は省くが、他の御子も、夫々に化体されると思う。

耳成(みみなし)=大和三山の耳梨山に関係し、神遣らいされた速須佐之男命が大気津比賣神に食物(をしつもの)を求めると、大気都比賣は鼻や口、尻から様々な食物を取り出し、調理する。その行動を立ち窺い、穢して献上したと思い、大宜津比賣神を殺す。神の頭に蠶(かひこ)生り、二つの目に稲種(母実)生り、二つの耳に粟(あは)生り、鼻に小豆(あずき)生り、陰部に麥(むぎ)が生り、尻に大豆(まめ)生り。
 「紀」(月読尊に殺される)是時、保食神實已死矣。唯有、其神之頂化爲牛馬。顱上生粟。眉上生蠒。眼中生稗。腹中生稻。陰(ほと)生麥及大小豆(まめ)とあり、「記」両の耳に生る粟(あは)が、顱上で併合(あは)さり、一つになる。*都=合わす・顱上=頭蓋骨上→牛馬

成務天皇=崇神(御真木入日子印恵)天皇、尾張連祖意富阿麻比売を娶り、大入杵(おほいりき)命・八坂之入日子命・沼名木之入日売命・十市之入日売命を生む。その八尺入日子命の娘、八尺入日賣命を娶り、若帯日子命(成務)を生むとある。
 「成務紀」景行皇后の八坂入媛命を播磨太郎姫の薨後、母を皇太后と称すとし、「景行紀」の記述があり、弟媛ではなく、姉の八坂入媛を娶る。

竹野(たかの)媛=光仁天皇(母紀橡姫)の妃で桓武天皇の生母、百済(くだら)王後裔高野真妹の妹(或いは、娘)、高野新笠と関係が在り、現在、京都市内を流れ下る鴨川(妹系→弟系)と合流する高野川(姉系)に関係する。
 尚、福岡県浮羽郡田主丸町竹野、大分県南海部郡米水津村竹野浦、京都府竹野郡丹後町竹野(たかの)、兵庫県城崎郡竹野町竹野・轟・田久日(たくひ)三重県鈴鹿市竹野町(たけの)等。

輿から落ちた=四年春二月甲寅朔甲子天皇幸美濃左右奏言之茲国有佳人、曰弟媛容姿端正八坂入彦皇子之女也。天皇欲得為妃幸弟媛之家、弟媛聞乗輿車駕則隠竹林、~云々。於是天皇権令弟媛至而居于泳宮、之泳宮此云区玖利(くくり)能弥揶、鯉魚浮池朝夕臨視而戯遊時弟媛欲見其鯉魚遊而密来臨池。天皇則留而通之爰弟媛以為夫婦之道古今達則也然於吾而不便則請天皇曰妾性不欲交接之道。今不勝皇命之威暫納帷幕之中然意所不快亦形姿穢陋久之不堪陪於掖庭唯有妾。名曰八坂入媛容姿麗美志亦貞潔宜納後宮天皇聴之仍喚八坂入媛為妃生七男六女。*聞乗輿車駕則隠竹林=天皇の乗る輿車駕(こし)が来ると、聞いた弟媛は、竹林に隠れる。

養父沙本毘古=高群逸枝氏に拠る古代の母系制研究では、男子は婿に入ると、その姓氏や役職等を受け継ぐが、自らの氏神を祀るので出自は変わらない。また、他家の娘との間にも子を生す事がある。但し、生まれた子供は母系統に属すため、通常、母の家で育てられる。それが故、自らが生した子でも養父と認識されたと考える。また、正妻が在地の有力者であれば、生母でも、乳母でもある。

継母沙本毘賣=「記」若倭根子日子大毘毘命(開化=葺不合命)は、旦波之大県主由碁理の娘、竹野比賣を娶り、比古由牟須美命を生む。また、庶母の伊迦賀色許売命[乳母玉依姫]を娶り、[兄]御真木入日子印恵命。次に[妹]御真津比売命を生む。また、丸邇臣の祖日子国意祁都命の、意祁都比売命を娶り、日子坐王を生む。葛城之垂見宿禰の娘、鷲比売を娶り、建豊波豆羅和気を生む。
 この御真木入日子印恵命(崇神)が木国造荒河刀弁の娘、遠津年魚目目微比売を娶り、豊木入日子命、豊鋤入日売命を生む。尾張連祖意富阿麻比売を娶り、大入杵命、八坂之入日子命、沼名木之入日売命、十市之入日売を生む。大毘古命の娘、御真津比売命を娶り、伊玖米入日子伊沙知命、伊邪能真若命、国片比売命、千千都久和比売命、伊賀比売命、倭日子命を生む。
 「記」神武天皇が崩御後、その庶兄当芸志美美命は、神武の嫡后、伊須気余理比賣命(五十鈴媛)を娶り、その三人の弟を殺そうと謀る。


  1. 2017/02/10(金) 10:06:00|
  2. 7.傍国考
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◇伊佐知

 前項の「注1」でも述べたが、「記」垂仁天皇の和風諡号「伊久米伊理毘古伊佐知命」の伊佐知=八幸(やさち)とすれば、「海幸山幸説話」男系兄海幸彦と弟山幸彦の幸(さち)を分け、母系海民に婿入り後、八雲(伊久米)=母系も姉豊玉姫(生母→巫女)と妹玉依姫(乳母→嫁)を二つに分けた天皇(弟山幸彦)として設定される。
 一方、「紀」活目入彦五十狭茅尊の「狭茅=倭母(わも)」としたが、「伊」に代わりに使われる「五十(50+50)」=百(も)とすれば、母系を分けた天皇として設定されるが、後代、併合(耳成)されて、百(もも)となる。

 「紀」神渟名川耳(綏靖)天皇神日本磐余彦天皇第三子也、母曰媛蹈鞴五十鈴媛命、事代主神之大女(姉)也~。二年春正月立五十鈴媛為皇后(一書云磯城県主女川派媛、一書云春日県主大日諸女糸織媛也)、即天皇之也。后生磯城津彦玉手看(安寧)天皇。

 「記」五穀の起源、二つの目(め=女)に稲種(母実)生るとあり、「紀」活目(いきめ)は、足仲彦(仲哀)天皇の皇后(應神の生母)で、寡婦の息長足姫命(生母豊玉姫)=母系「息(ぉいき→いき)」に関連し、「紀」活目入彦五十狭茅尊は海民に婿入り、母系を二系(臺與と壹與)に別けた天皇で、「記」伊久米伊理毘古伊佐知命は、母系海民に婿入した後、父系を二系(伊都国王と卑彌弓呼)に別けた天皇になる。

 また、阿邪美能伊理毘賣命の「伊理=遣(やり)」から皇后佐波遅比賣→妹沙本毘賣命と同様、出産後、遣られて歌凝(かごり)比賣命と名を変える。*駕籠降(かごり)→籠(かご→こもる)→隠(かくる)

 「紀」四年春二月甲寅朔甲子天皇幸美濃左右奏言之茲国有佳人曰弟媛容姿端正八坂入彦皇子之女也。天皇欲得為妃幸弟媛之家、弟媛聞乗輿車駕則隠竹林~。「聞乗輿車駕則隠竹林」を訓じると、天皇の乗る輿車駕(こし)が来るとを聞いた弟媛は、則ち竹林に隠る。

 阿邪美能伊理毘賣命(沙本毘賣→弟媛)を妹姫に化体、沼羽田毘賣命の子、沼帯別命(葺不合)の乳母として遣られ、養育後、景行妃の兄比賣(八坂入媛・八尺入日賣)命の生む若帯日子命(成務)と繋ぐ。
 一方、針間之伊那毘能大郎女との双子「大碓命・小碓命(他三子)」として 弟媛命(歌凝比賣→弟国円野比賣命)を、妹倭比賣→弟小碓命→倭建命→倭男具那命と転生させ、孫の仲哀天皇に繋ぐと考える。
 それが故、「記」景行天皇が自身の子、倭建命の曾孫須売伊呂大中日子王の娘、具漏比売を娶り生む子、大枝王。更には、仲哀の子、品陀和気命(應神)が具漏比売を娶り生む子、川原田郎女、玉郎女、忍坂大中比売、登富志郎女、迦多遅王。その倭建命と弟橘比売命の子、若建王が飯野真黒比売命を娶り生む、須売伊呂大中日子王。この王が淡海之柴野入杵の娘、柴野比売を娶り生む子、具漏比売命とある。

 「伊理=遣」や「入」の付かない兄比賣命(氷羽州比賣→比婆須比賣)を姉豊玉姫は、印色日子命を入婿弟山幸彦とし、沙本毘古の妹沙本毘賣(弟比賣→沼羽田伊理毘賣)を妹玉依姫とし、その継母に養育された品牟都和気命の妻肥長比賣命(「紀」渟葉田瓊入媛(兄媛=八坂入媛)→妹真砥野比賣命→兄系本牟智和気命(蝦夷?)として分離・独立する。

 尚、天神山幸彦が上位者だったからか、豊玉姫は、態々、婿山幸彦の上国で出産、本来の姿(鰐=海民)を見られた事を恥じ、その御子葺不合を置いて帰った後、妹玉依姫を乳母(後妻)として遣る(伊理)。養母と養父(山幸彦)の下で育つと、継母の玉依姫を娶り(余里)、生む末弟の神武天皇(他三人)は、父系(天つ神)に属す家父長制と考えられる。さて、次回から傍国の考察に戻ろうと思う。

五十狭茅尊=「紀」素戔嗚尊の子(母不詳)、五十猛(いたけぬ)命。「紀」垂仁天皇(母・日葉酢媛)の子、五十(いしきに→いふに)入彦命。「開化紀」伊香色謎命為皇后(是庶母也)后生御間城入彦五十殖(いにゑ)天皇等とも関係が在る。

五穀の起源=「記」速須佐之男命に殺された神の頭に蠶(かいこ)が生る。二つの目に稲種(もみ)が生る。二つの耳に粟(あは)が生る。鼻に小豆(あずき)が生る。陰部(ほと)に麦が生る。尻に大豆(まめ)が生る。「紀」(月読尊に殺され)是時、保食神實已死矣。唯有、其神之頂化爲牛馬。顱上生粟。眉上生蠒(まゆ)。眼中生稗。腹中生稻。陰生麥及大小豆。

母系=若倭根子日子大毘毘命(開化)が、近淡海之御上祝が祭祀する天之御影神の娘、息長水依比売を娶り生む子、旦波比古多多須美知能宇斯王品陀和気命(應神)が、咋俣長日子王の娘、息長真若中比売を娶り生む子、若沼毛二俣王一柱。品太(應神)天皇の五世の孫、袁本杼命(継体)が息長真手の娘、麻組郎女(をくみいらつめ)を娶り生む子、佐佐宜(ささげ)郎女一柱。沼名倉太玉敷命(敏達)が、息長真手王の娘の比呂比売命を娶り生む子、忍坂日子人太子(麻呂古王)、次に坂騰王、宇遅王三柱。等が見える。
 佐佐宜(ささげ)=大角豆、マメ科の一年生作物。ヤッコササゲ(ハタササゲ)・ササゲ・ジュウロクササゲの3亜種。アフリカ中部の原産。9世紀頃に渡来。莢・種子を食用とする。ササギ。*継体紀「荳角、此をば娑佐礙といふ」
 また、「紀」敏達天皇の娘、糖手(ぬかて)姫皇女(母系息長)と押坂彦人足大兄皇子との子、田村皇子の和風諡号、息長足日広額(舒明)天皇は母系息長が生んだ男子になる。

阿邪美能伊理毘賣命=旦波美知能宇斯王の娘、比婆須比売(兄比賣)命、弟比売(沼羽田毘賣)命、阿邪美能伊理毘賣(歌凝比売)命、円野比売命四柱。「開化記」日子坐王の子、美知能宇志王丹波之河上之麻須郎女を娶り生む子、比婆須比賣命、真砥野(まとの)比賣命、弟比賣命、朝庭別(みかどわけ)王四柱。「垂仁記」と姉妹の順と名称に違いが在り、こうした事にも何らかの意味や意図があると思えあれる。

妹沙本毘賣=「記」開化天皇が丸邇臣祖日子国意祁都命の妹、意祁都比売命を娶り、生む日子坐が、春日建国勝戸売の娘、沙本之大闇見戸賣を娶り、沙本毘古王、袁邪本王、沙本毘売(垂仁の皇后佐波遅比賣)命、室毘古王(若狭耳別)を生む。
 尚、「紀」垂仁天皇、旦波道主王の娘、薊瓊入媛を娶り、池速別命・稚浅津(わくあさつ→わかさつ)姫命を生む。竹野媛(子女無し)とある。

景行妃=吉備臣等祖若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶り、櫛角別王、大碓命、小碓(倭男具那)命、倭根子命、神櫛王を生む。八尺入日子命の娘、八尺入日売命を娶り、若帯日子命、五百木之入日子命、押別命、五百木之入日売命を生む。或る妾は豊戸別王、沼代郎女を生む。或る妾は沼名木郎女、香余理(カグヨリ)比売命、若木之入日子王、吉備之兄日子王、高木比売命、弟比売命を生む。日向之美波迦斯毘売を娶り、豊国別王を生む。伊那毘能大郎女の妹、伊那毘能若郎女を娶り、真若王、日子人之大兄王を生む。倭建命の曾孫、名は須売伊呂大中日子王の娘、訶具漏比売を娶り、大枝王を生むとある。*余理=依?

印色日子命=「イヌシキイリヒコ」、「紀」日葉酢媛を娶り、五十敷瓊入彦(いしきにいりひこ)命・大足彦尊(景行)・大中姫命・倭姫命・稚城瓊入彦命を生む。渟葉田瓊入媛を娶り、鐸石別(ぬでしわけ)命・胆香足(いかたらし)姫命を生む。真砥野媛(子女無)。薊瓊入媛を娶り、池速別命・稚浅津姫命を生む。竹野媛(子女無し)。
 また、美知能宇が丹波之河上之麻須郎女を娶り、比婆須比賣命真砥野比賣命弟比賣命朝庭別(あさばわけ/みかどわけ)王を生む四柱とあり、「垂仁記」と姉妹の順序と名称に違いが在る。*旦波比古多多須美知宇

家父長=伊勢平氏流れ忠盛(弟山幸彦)の妻、藤原北家太宰帥隆家流れ宗兼の娘、禅尼(妹玉依姫)は、清盛(葺不合)の養母と云われる。仲が悪かったとされる兄弟、大納言平頼盛の生母と考える。
 平頼盛(1132~1186)=平安末期の武将。忠盛の子。母、池ノ禅尼が源頼朝を助けた功により、平家滅亡後も頼朝に厚遇された。池殿。尚、清和源氏多田満仲の流れ頼盛とある。
 継子の清盛と同名が醍醐源氏の後裔岡本氏流れに同名が見える。清盛(得度名「浄海」)は、桓武平氏時信の娘二位尼時子を娶り、生した徳子を高倉天皇の皇后(安徳の生母)とし、平家を創立する。平家滅亡後、建礼門院徳子は安徳天皇(言仁=ときひと)の菩提を弔ったと云われる。
 *建礼門=平安京内裏の外郭門の一つ。南面の中央で内郭の承明門に対する。白馬(あおうま)の陣。


  1. 2017/02/20(月) 23:03:14|
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