見まごう邪馬台国

(2)已百支国

  前項迄、その概略ですが、私見として、「記紀」と邪馬壹国との関係を述べてきましたが、やっと、次の傍国「已百支国」の考察に戻れます。

  已[diəg][yiei][i]=曲がった耜の象形、万葉仮名「い」に使われる「以」と同音。
  百[păk][pʌk][pai(po)]=一と白の合字、成数の百、全一の意に用いる事が多い。
  支[kieg][tʃıĕ][tsï]=小枝を手に持ち支える。

 漢字音を併せると、ヂァッパッキェッ→チァパッケッ→タパケ→タファケ(タマケ)→タァケで、岳・竹・武(たけ)、滝(たき)・環(たまき)とすれば、(1)斯馬国の比定地東側、佐賀県東松浦郡(現唐津市)七山村滝川・鮎帰・博多・木浦(きうら)・松坂、同県伊万里市東山代町滝川内・讃岐、同県西松浦郡有田町大野(八坂神社)、熊本県阿蘇郡(現山都町)蘇陽町滝上・伊勢・大野・八木、同郡(現阿蘇市)波野村滝水、同県上益城郡御船町滝尾滝川・日向等がある。
 これを、タァケ→タァクとすれば、福岡県宗像市田久・田熊・赤間・田島(宗像大社)、島根県飯石郡三刀屋町多久和・神代(同神社)・八幡、同県出雲市(旧平田市)多久町・多久谷町・別所(鰐淵寺)・焼山や、私説で、伊都国領内とした佐賀県多久市別府・納所等がある。
 ただ、「斯馬国」を末盧国東北側、福岡県糸島市二丈鹿家東側一帯としたので、その記述順で時計回りとすれば、通説的な
伊都国の比定地、福岡県前原市多久・中原・有田・五反田・高祖(高祖神社)・宮地岳(託社神社)等の平原遺跡付近一帯とする。
 再起を期して南下していた狗奴国の北上で、伊都国も福岡県前原市多久付近へ逃れる最中、女王卑彌呼が亡くなり、葬られ、宗女臺與(壹與)が女王に擁立されるも、敗れて東遷した後、狗奴国の統治下、怡土(いと)・志摩(ちま→しま)と称される。

 タパケ→タマケ→タマキとすれば、「紀」垂仁天皇が遷都した纏向の珠城(たまき)宮「記」師木玉垣(たまがき)宮と関係があるのかもしれない。
また、卑彌呼・彌彌・彌馬升や彌奴国等、「彌」=爾(豊かな毛髪と女性の美しい文身)と弓(男性のトーテム)で、美しい文身を施した巫女(爾)を生す種胤(弓で射る矢を作る=矢作)で、邪馬壹国の官伊支馬(ヤキェマ=八木山・焼山→活目)は、この国の王(垂仁)で、皇后佐波遅比賣が斯馬国の娘になる。
 ッイァッパッキェッ→イァパキ→ヤパケ→ヤファキ(ヤマキ)→ヤァキとすれば、末盧国の比定地、佐賀県唐津市矢作(やはぎ)・山田、同市浜玉町飯塚・山田・横田伊岐佐、福岡県遠賀郡岡垣町高倉・海老津・山田峠付近を流れる矢矧(ヤハギ)川、その東南、同県飯塚市八木山・横田伊岐須等があり、領域の拡がりか、同意識や同語を持つ人々の移動と考えられる。

 「記」景行天皇が八尺入日子命の娘、八坂入比賣命(生母)を娶り生んだ五百木之入日子命と五百木入日賣命に関係すると云う研究者も居り、男女の御子を生ませ、二系に分裂させるが、針間(はりま)稲日大郎女を娶り、双子の大碓命と小碓命(倭建命)を生し、再度、繋ぐ。
 斯馬国の「斯」=机上で拆(さく)→「サク→サカ(尺・坂)」とすれば、末盧国の比定地とした佐賀県唐津市柏崎に八坂神社、山口県佐波郡徳地町鯖・八坂と奈良原が在る。旧く、奈良坂者と清水坂者が対立したと云う伝承があり、「紀」日本武尊の東征(蝦夷討伐)経路の酒折宮近く、建御雷男神に追われたとされる諏訪大社祭神建御名方富神の妻八坂刀賣神にも繋がると考えられる。

 万葉仮名の甲「き」=支は、父性の男系「伎・岐」=皇子、乙「き」=木国(母系)で三者鼎立の関係を示唆、大和三山や、八咫鏡・草薙剣・勾玉の三種の神器にも関係がある。

タマキ=福井県坂井郡芦原町玉木・轟木・白髭神社(竹田川)、福井県遠敷郡上中町玉置有田・兼田(かねだ)・武生(たけふ→たけを)・三宅、兵庫県朝来郡和田山町玉置・竹田、奈良県吉野郡十津川村玉置川(玉置神社)・大野・葛山・滝川、和歌山県東牟婁郡熊野川町玉置口・和田・倉神社(赤木)、滋賀県近江八幡市玉木町・板屋・金田・佐波江町・八幡町・八木町・赤尾町(白髭神社遺跡)
 玉置神社(奈良県吉野郡十津川村玉置川1)祭神 國常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊 配 天照大神、神日本磐余彦尊
 由緒 磐楯信仰は縄文期からの原始的な信仰か。三重県度会郡二見町海中の二見興玉神社(猿田彦大神、宇迦御魂大神)、三重県熊野市有馬町海岸壁の花窟神社(伊弉冉尊)、和歌山県新宮市神倉平地の小山の神倉神社(高倉下命)、山中深い玉置神社と熊野付近にネットワーク的に在る。神日本磐余彦尊が熊野に上陸し、神邑に到り、天磐楯に登るとあり、高倉下から横刀を受け、危難を逃れたとの説話が古事記にあるが、この磐楯信仰のネットワークの一つが玉置神社である。

平原遺跡=瑞梅寺川と雷山川に挟まれた丘陵上にある。一号墓は、周囲に18m×14mの溝を回らせた四隅が丸い方形周溝墓で、長辺4.5mの墓坑中に長さ3mの割竹形木棺が検出された。棺内の頭部と右腕の付近からは、硝子勾玉・管玉・小玉、瑪瑙管玉・小玉、琥珀管玉・丸玉が多量に出土した。棺外の頭側には中国製の素環頭大刀があり、墓坑の四隅には埋葬時に破砕された鏡が39面も出土した。その中、34面が中国鏡、5面が日本の彷製鏡である。その後、5号墳間でも発掘が続く。
 他にも弥生時代中期 (BC1世紀)の三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡(福岡県糸島市三雲)、翡翠製勾玉、碧玉製勾玉、硝子製勾玉、瑠璃管玉、硝子製小玉(首飾り)、硝子製垂飾、硝子製璧、 計1万個以上 彩画鏡(彩文鏡)-赤青白緑の顔料で彩色した銅鏡、漢式鏡、金銅製四葉座飾金具、博多聖福寺。弥生時代中期の三雲遺跡八龍地区(福岡県糸島市三雲 )翡翠製勾玉。
 弥生時代中期の井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡(福岡県前原市井原)、鉛硝子製連玉(元の色は薄い緑) 銅鏡、漢式鏡20、巴形銅器、刀剣
 古墳時代前期の三雲石崎遺跡(福岡県糸島市二丈石崎)、翡翠製勾玉、同小玉。

岡垣町高倉=奈良・平安期の和名抄では岡垣町西部を垣前(かきさき)郷とする。系図資料では新羅三郎後裔南部氏流横田五郎行長は蠣崎氏を名告ると在る。尚、明治時代、岡県村と垣前(矢矧村)が合併した岡垣村。
 高倉神社(祭神 高倉下命 配 倭得玉彦命 境内社 八幡社、春日社)高倉下命の七世の孫倭得玉彦命が、この地に遷り、祖先をここの霊地に祀ったと云う。神社前の説明板には垂仁天皇代の創建と在る。倭得玉彦命は、卑弥呼の父親との見方がある。
 三重県伊賀市西高倉1046にも同神社があり、邪馬台国建国の謎を解きうる神社の可能性があるとする研究者もいる。また、倭得玉彦命の子に日女命と弟彦命がおり、日女命の孫に乎止与命がいる尾張氏系図が存在する。卑弥呼と男弟、また、臺與に充てる人も居る。大和東の都祁から近江南の柘植へ出るルート沿いに上野市があり、この平野北西に鎮座する。伊賀には縄文、弥生遺跡が多く、銅鐸も発見される。 

八坂=「紀」景行天皇が八坂入媛を娶り生む子稚帯彦命(成務)と在り、天皇京都の東山麓、元官幣大社の八坂神社(京都市東山区祇園町)の祭神は素戔嗚命・奇稲田姫命(八坂媛?)・八柱御子神。例祭の祇園会の他、特殊神事に白朮(おけら)祭がある。二十二社の一つ。もと祇園社と称し、1868(慶応4)年改称。私見で、坂を分けた事を示唆する八坂神社は、坂上田村麿の菩提清水寺の平安京系清水坂者と、平城京系奈良坂者の対立を示唆する。
 地名「八坂」は、福岡県小郡市八坂・馬渡(隣町佐賀県鳥栖市轟木・飯田町)、長崎県諫早市八坂町、大分県杵築市八坂・宮司、広島県三原市八坂町、同県佐伯郡大野八坂、鳥取県鳥取市八坂(八坂山)・玉津・福井、兵庫県西脇市八坂町・角尾山・大野、大阪府寝屋川市八坂町・葛原・対馬江、滋賀県彦根市八坂町、同県甲賀郡水口町八坂、岐阜県岐阜市八坂町・茜部大野、長野県北安曇郡八坂村大平、静岡県現静岡市八坂町・飯田、同県掛川市八坂大野、千葉県東金市八坂台・高倉・山田、福島県二本松市八坂町・大坂・山田、群馬県伊勢崎市八坂・鹿島等。尚、京都、八坂神社の山手、清水寺は坂上田村麿の菩提寺で、その子に大野とある。 

東征=日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の途中立ち寄ったという甲府市酒折(さかをり)町(善光寺)付近とされる。尚、長野県諏訪にある元官幣大社諏訪神社は、建御名方富命と妃とされる八坂刀賣命。諏訪市中洲に上社本宮、茅野市宮川に上社前宮、諏訪郡下諏訪町に下社の春宮・秋宮がある。古来、武事の守護神として武将の崇敬が厚く、6年毎の御柱(おんばしら)祭が盛大。信濃国一の宮諏訪大社と称。長崎市上西山町にも同名があり、御九日が有名。 以下は、日本の名著「日本書紀」(中央公論社)所載の大和武尊の蝦夷討伐経路図。

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甲「き」=万葉仮名甲・乙「き(ぎ)」に使われる漢字は、微妙な音韻違いや、四声違いだけで振り分けられるものが多い。新羅(シルラ)=シルラ・ぎの「ギ」も男系の甲音「岐」「伎」に関係があり、大海人皇子(天武)と中大兄皇子(天智)、更には、母系斉明(皇極)天皇=大山津見神の娘、木花佐久夜比賣や木花知流比賣等、乙音「木(もく/き)」とに関連するのは云うまでもない。
 「記紀」垂仁天皇と皇后佐波遅比賣(+兄沙本毘古)の関係や景行天皇と、その御子の大碓命と小碓命(ヤマトタケル命)との関係、五百木入日子等に繋がり、邪馬壹国の傍国として名を連ねる已百支国が狗奴国に寝返ったのかも知れない。


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  1. 2017/03/03(金) 20:34:47|
  2. 7.某国考
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◇御真木入日子印邇恵

 「記」崇神天皇が尾張連祖意富阿麻比賣を娶り生んだ御子は、大入杵命、八坂之入日子命、沼名木之入日賣命、十市之入日賣命の四柱。景行天皇が、その八坂之入日子命の娘八坂入比賣を娶り、生んだ五百木入日子(五百城入彦)命と五百木入日賣(五百城入姫)命は「已百支国」に関係すると云う説もあり、漢和大字典に拠ると、両者の漢字音は以下になる。

 已[diəg][yiei][i] / 五[ŋag][ŋo][u](「字統」×字で蓋をする)
 百[păk][pʌk][pai(po)]
 支[kieg][tʃıĕ][tsï] / 木[muk][muk(mbuk)][mu]

 「魏志東夷伝」成立期の上古音を併せると、已百支「デァッ・パッ・キェ→タパケ(タマケ)→タァケ」、一方、「記紀」成立期の中古音を訓に拠る仮名を交えずに併せると、五百木「ヌゴ・パッ・ムッ→ッゴパム→ゴハン」になる。
 地名「ゴハン」は見あたらないが、音から末盧国の比定地東側の佐賀県唐津市浜玉町五反(ゴハン→ゴソル→ゴツォヌ→ゴタン)田とすれば、已百支国に比定した福岡県前原市(糸島市)多久・五反田(宮地岳)・牧(まき)、同県福津市津屋崎町五反田(宮地嶽神社)、長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷等がある。
 また、訓に拠る仮名を交えると、五百木「イッパッキ→イハキ(岩木・岩城)→イマキ(今来)」ともなり、狗奴国に寝返った已百支→五百木国は、今来(ぃまき→っまき)と訓みが変化し、後代、「真木」にされる。その
五百木入日子命の在地は、(1)斯馬国の比定地とした福岡県糸島郡二丈町佐波の東南、佐賀県鳥栖市真木町轟木・麓(ふもと)(對蘇国?)か、熊本県阿蘇郡大津町真木とする。

 福岡県宗像市田久の東南、遠賀川沿岸の同県遠賀郡水巻町や同県中間市付近の古地名「御牧(みまき)郡」は、崇神天皇の和風諡号の御真木入日子印恵命「紀」御間城入彦五十瓊殖尊に関連を説く研究者も居る。
 「御牧郡」の東北、福岡県北九州市若松区の洞海湾岸今光(イハミ津→イバミ津→イマミ津)の背後に聳える水源の石峰山(光明山)は、日本海沿岸部の旧国名「石見(いはみ)」の象徴で、後代、その領域から外れたため、石水(いはみ・の)山→石水(いしみ・ぬ)山→石峰(いしみね)山に転音したと考える。

 女王卑彌呼の死後、邪馬壹国伊都国連合の一部が千余里東側の倭人系海民(宗像)を頼って東遷、伊都母(出水→出雲)と称したのか、出雲国譲で、剣神伊都之尾羽張(天之尾羽張)神の御子、天之(あめの)系統に靡いた御雷神に敗れた御名方神が東国の科野(しなの)に逃げ込んだのと同様、「山幸海幸説話」妹玉依姫(乳母→妻)と葺不合(兄海幸彦)が併合し、父系の弟山幸彦を東国方面へ追い払う。

 「斯馬国」項で同地名とした山口県佐波郡徳地町鯖・八坂、同県防府市佐波町・仁井礼町西北側、同県長門市真木、同県美祢郡秋芳町真木、同県美祢市大嶺町真木へ領域を広げた初国知らすとされた崇神天皇の領域と考えられる。
 他にも島根県飯石郡赤来町真木、福井県福井市真木町、同県丹生郡朝日町真木、富山県東礪波郡上平村真木、新潟県糸魚川市真木、同県両津市真木、同県白根市真木(まぎ)新田、同県西蒲原郡分水町真木山(まぎやま)、同郡中之口村真木、山梨県大月市大月町真木、茨城県筑波郡谷和原村真木(まぎ)、千葉県八千代市真木野、岩手県下閉伊郡田野畑村真木沢、秋田県北秋田郡阿仁町真木沢がある。

 中大兄皇子(天智)が百済(くだら)救援のため斉明天皇と筑紫に下向後、新羅に大敗する。天皇の崩御後、大津宮に遷都した中大兄皇子は、福岡県の太宰府付近から熊本県菊池郡大津(おおづ)町真木(真城)・御所原・古城付近へ南下(くだ)ったと考える。

八坂入媛命=第一曰稚足彦(成務)天皇、第二曰五百城入彦皇子、第三曰忍之別皇子、第四曰稚倭根子皇子、第五曰大酢別皇子、第六曰渟熨斗皇女、第七曰渟名城皇女、第八曰五百城入姫皇女、第九曰麛依(かごより)姫皇女、第十曰五十狭城入彦皇子、第十一曰吉備兄彦皇子、第十二曰高城入姫皇女、第十三曰弟姫皇女。
 又妃三尾氏磐城別之妹水歯郎媛生五百野皇女。次妃五十河媛生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子是讃岐国造之始祖也、稲背入彦皇子是播磨別之始祖也。次妃阿倍氏木事之女高田媛生武国凝別皇子是伊予国御村別之始祖也。次妃日向髪長大田根生日向襲津彦皇子是阿牟君之始祖也。次妃襲武媛生国乳別皇子与国背別皇子一云宮道別皇子、豊戸別皇子、其国乳別皇子是水沼別之始祖也、豊戸別皇子是火国別之始祖也。夫天皇之男女前後并八十子然除日本武尊稚足彦天皇、五百城入彦皇子外七十余子皆封国郡各如其国、故当今時謂諸国之別者即其別王之苗裔焉

「デァッ・パッ・キェ→タパケ(タマケ)→タハケ→タァケ」=戯(たはけ)、謀(たばけ)。岳(たき)=断崖、断崖の多い山。滝=旧くは「タギ(滾る)」、河の瀬や、急な傾斜の所を勢いよく流れる水、激流、奔流、断崖から流れ落ちる水(瀑布)。沖縄では拝所のある山を御岳(うたき)と云う。*
滝に出現すると伝わる童形の怪物を岳童(たきわろふ)

五反田=反=段とも、距離の単位。6尺を1間(けん)、6間=1段。土地の面積、1段(反)は300歩(坪)で、約991.7㎡。太閤検地以前は360歩。布帛の大きさの単位・「端」。成人一人前の衣料に相当する分量。1反は、普通、布では並幅で鯨尺2丈6尺、または、2丈8尺とされる。官狗古智卑狗(山幸彦)か、継子の男王卑彌弓呼(葺不合)と宗女壹與(玉依姫)を合わせた夫「(二=伎・岐)」+乳母(三=美)=五と関係するか。
 三重県松阪市五反田町、同県桑名市五反田、滋賀県甲賀郡甲賀町五反田、京都府京都市右京区山ノ内五反田町、同府京都市右京区龍安寺五反田町、同市伏見区深草五反田町・同区向島五反田、同市西京区樫原五反田、同府八幡市八幡五反田、鳥取県鳥取市五反田町、 愛媛県八幡浜市五反田、長崎県東彼杵郡川棚町五反田郷等が在る。*伍伴(ごはん)=仲間・連れ

今来(いまき→いばき→いはき)=岩木は、男系卑彌弓呼(葺不合命+玉依姫→五百木入日賣命)、山幸彦(五百木入日子命)、今見(いまみ)=石見は、女系の卑彌呼と云う関係に比定されると考える。
 もしかしたら、狗奴国王卑彌弓呼との戦いに敗れて、亡くなった邪馬壹国女王卑彌呼の宗女とされる臺與(豊玉姫、壹與=玉依姫?)の東遷後、石水→石見→今見と称されたのかも知れない。*伊吹(いふき)→五百木(いほき)→岩城(いはき)

轟木(とどろき)=傍国(9)對蘇(ツィス→トス)国に比定した。「記」土佐国(建依別)と在り、建速須佐之男命の建(たけ)国=都支国に憑依され、服従させられたのか、同音の地名「トサ」は福岡県内には見あたらない。
 尚、福岡県糸島郡二丈町佐波の西側、同郡志摩町道目木(どうめき)の南側、同県前原市雷山(雷山神籠石)、同県直方市道目木の南側に同県嘉穂郡(飯塚市)頴田町鹿毛馬(鹿毛馬神籠石)、同県朝倉市杷木町道目木の南側(杷木神籠石)、東日本にも百目鬼・百目木・道目木等が在る。
また、「日本の名著」日本書紀所載の地図「紀」景行天皇が熊襲討伐経路の伝承地に循い「轟(木)=紫点」が転々と残る。*緑点=麓
麓と轟 
今光(いまみつ)=西側の若松区用勺(ようじゃく)は石見津(いはみつ)の庸津役(ようつやく)で、これと同系の地名には福岡県北九州市八幡西区町上津役(まちこうじゃく)、上上津役・下上津役、これは古遠賀湾か、金山川の「津役」で、湾域の縮小に伴う遠賀川の流域の変化に因り、その役目を終える。他にも彌奴国の比定地とした福岡県春日市白水の西北、同県筑紫郡那珂川町今光・中原がある。
 尚、「光明」とは日光であり、水神でもある。聖武(首皇子)天皇皇后、藤原不比等の娘、光明子も水神と考えられる。東大寺二月堂のお水取りでは、大松明の火の粉を浴びると、一年、無病息災とされる。その大松明(首皇子)を鎮火する水神(光明子)は、春日神社「比賣神」の御神体で、裏手にある水源と考えられる。尚、火之神迦具土神の首(こうべ→くび)から大雷(おほいかづち)が生るとある。*烏賊津(いかつ)臣

剣神=建[kiān][kıʌn][kien]・剣[klıăn][kıʌn][kiem]、「記紀」成立期の中古音が同音である事を考え併せると、剣神の伊都之尾羽張が分裂した後、天之(あめの)=建御雷神が出雲の事代主神と繋がり、服従しない建御名方神を科野へ追い遣ったと考えられる。

東国方面=海民が二つに分裂する事を「山(と陰陽が揃った→間)」と呼んだ。邪馬壹(かまぃえ/がばぃえ/やまぃえ)国伊都国連合の宗女臺與(とよ=豊)は東千余里の福岡県宗像市付近の海民を頼り、福岡県京都郡(現みやこ町)豊津町や響灘沿岸部の山口県豊浦郡(下関市)豊浦町・豊田町、更には日本海沿岸部の島根県石見や出雲市へと逃げた。一方、狗奴国は宗女壹與(いよ)と繋がり、邪馬臺国と称す。
 後代、筑紫君磐井(竺紫君石井)乱等の情勢変化からか、狗奴国王系統(中兄大兄皇子)は壹與(妹→弟)系統を残して東征、先行の宗女臺與系統(皇極天皇)
と蘇我蝦夷と入鹿親子を倒し、政権を握る(乙巳の変)。

大津宮=女王(臺與)と男弟の「邪馬壹国」と、男王と巫女(壹與)の狗奴国→邪馬臺国に分裂し、熊本県菊池市付近の鞠智城南、同県阿蘇郡大津(おおづ)町から大分県大分市大津、高知県土佐清水市の大津、同県高知市大津、徳島県鳴門市大津、大阪府泉大津、滋賀県大津市へと移動した。これとは別に邪馬壹国系が移動したのか、山口県大津郡(長門市)日置町、島根県出雲市大津、石川県羽咋郡志賀町大津(おおづ)、同県鹿島郡田鶴浜町大津、新潟県刈羽郡西山町大津、同県岩船郡荒川町大津、青森県三沢市大津がある。
 もう一つ、山梨県甲府市大津町、群馬県吾妻郡長野原町大津、神奈川県横須賀市大津町、茨城県北茨城市大津町、千葉県長生郡長柄町大津倉、千葉県安房郡富浦町大津が在り、日本武尊(倭建命)の東征に関係するのかも知れない。


  1. 2017/03/15(水) 22:10:03|
  2. 7.某国考
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◇葬送

 女王卑弥呼の墓が出てきたら、そこが邪馬台国と云う研究者も多いが、「魏志倭人伝」以下の記述から狗奴国との戦いが緊張感が伝わり、女王卑彌呼が、その最中に亡くなったとすれば、当初からの所在地や、卑彌呼の宮殿近くに葬られたと云う確証はないので、残念ながら、それも怪しいと云わざるを得ない。ただ、墓が発掘される事で、今迄とは違った議論や論考がなされればと思う。

  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡~(中略)。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。殉葬者奴婢百餘人。

 
仮に邪馬壹国の関係者には、海民を伴い南西諸島を経て渡来した揚子江付近の水耕稲作民と大陸北部から朝鮮半島を経て渡来した人々が混在するとして、棺内に骨が残っており、近縁のDNAを持つ骨が出るか、彼女のDNAが分かっていれば良いが、それも儘ならない。
 邪馬壹国女王卑弥呼とでも記された墓誌が出土し、墓と確定しても、上記の理由で、そこが邪馬壹国女王卑彌呼の宮殿が所在したと確定する事は避けなければならない。

 私見では、通説的な伊都国の比定地の福岡県糸島市有田の平原遺跡一号墓、周囲(18×14)に溝を回らせた長辺4.5mの墓坑中に長さ3mの割竹形木棺を検出。棺内の頭部と右腕の付近で硝子勾玉・管玉・小玉、瑪瑙管玉・小玉、琥珀管玉・丸玉が多量に出土。棺外の頭側に中国製素環頭大刀、墓坑の四隅には埋葬時に破砕された鏡が39面も出土(34面が中国鏡、5面が日本の彷製鏡)。

 遺体を安置する棺の外、頭側に置かれた大刀は被葬者の霊魂の蘇りを阻止するための呪詛で、また、墓坑の四隅から詰まり、棺外から粉砕された鏡39面が発掘されたとあり、もし自然死だったとすれば、こうした葬送の仕方は有り得ないと思う。
 おそらく、王や巫覡等、その持ちものを壊して被葬者の強い霊力を封じ込めるための呪詛と考えられる。その被葬者は女性とされるので、もしも骨が残っているならば、現在の技術でDNAを鑑定して欲しいものだ。
 「倭人伝」祭祀を司る邪馬壹国の女王卑彌呼には強い霊力があったはずだが、狗奴国の北上に抗しきれず、殺されたのかも知れない。何れにしても逃れてきた女王卑彌呼と、その関係者が葬られたのだろうが、国の政を佐けたとされる男弟、詰まり、伊都国王は被葬者ではない。 
 尚、5号墓も1号墓と略同様の方形周溝墓だが、一回り小さい。こちらが伊都国王墓かとも考えたが、両墳の年代差は正確には判らないので、定かではないが、狗奴国に靡いた女王卑彌呼の宗女「壹與」の墓かも知れない。その周溝部から甕棺が出土したと在る。

 枚数の39面は3の倍数(3×13)で、これも何かの呪詛だろうが、朝昼夜、潮汐(干潮=ひると満潮=みつ)等、日々の繰り返しと関連が在り、最高数「九」とすれば、被葬者の霊力や人生の終焉を意味するのかも知れません。

 狗奴国の攻勢に追われて、東千里の海民を頼り、遠賀川沿岸部へ移動した邪馬壹国伊都国連合の人々は石見や出雲と繋がる。後代、「記紀」の云う出雲国譲に関係があり、平原遺跡の四隅を丸くした方墳は、出雲付近の四隅突出型方墳と何らかの繋がりがあると思う。ただ、四方の丸い平原遺跡と四隅の突出した出雲では何らかの違いが在るとして良い。

 狗奴国の北上に伴い邪馬壹国と伊都国が、已百支国の比定地、福岡県前原市(糸島市)多久有田の東側、高祖王丸(おうまる)から福岡県福岡市早良区有田、遠賀川河岸「御牧郡」北側、福岡県宗像市田久・田熊・王丸・武丸(たけまる)、島根県平田市多久町、同県益田市有田町へと移動した。尚、宗像(武ノ像)は、神武や武烈、天武・文武・聖武・桓武等、通字「武」を持つ天皇に関係があると考える。

3の倍数=中国製の鏡34面を魏王から授けられた100枚の一部として、残りの66面は、宗女壹與(平原遺跡五号墓内?)が譲り受けたのか。或いは、宗女臺與が持って逃げたのか。また、五号墓の周溝部から甕棺が発掘されたとあるので、百人が殉葬されたと云う事と関係するか。

四隅突出型古墳=弥生時代の山陰地方の墳丘墓の大きな特色として「四隅突出型墳丘墓」がある。墳丘の表面に化粧石を貼り、墳丘の四隅を突き出させる独特な形をしている。山陰地方を中心とした日本海沿岸に分布し、北陸地方にも石を貼らない形式の四隅突出型があり、それらを含めると約100基を確認。島根県(宍道湖南岸の出雲市・11基、松江市・7基、安来市・9基等)、鳥取県(淀江町福岡・17基)、広島県(三次市・16基)、岡山県(鏡野町竹田・竹田8号)、兵庫県(加西市網引町等、2件)、福井県(丹生郡清水町等、3件)、石川県(松任市一塚町・一塚21号)、富山県(婦負郡婦中町・六基他)、福島県(耶麻郡塩川町・舘ノ内1号周溝墓)が在る。
 天石門別(天磐門別)神社も幾つか祀られる中国山地には、出雲神社・清水寺・蓮花寺の三つを伴う地域が二ヶ所あり、京都府亀岡市千歳町千歳の出雲大神宮に向かったか、ここから出雲へと人々の移動があったのか、出雲国譲に関係が在るのかも知れない。更には長野県や福島県へと逃げ延びた人々も居るのかも知れない。
 もう一つ、鳥取県・福井県・石川県・富山県系統は、広島と島根県境、伊邪那美の墓と伝承される比婆山東麓付近から北上、日本海側へ出た。未だ、その詳細な経路は分からないが、越前から招かれたと云う継体天皇との関係が考えられる。

已百支国(タパケ→タァケ)=(4)都支国を建・武(タケ)国としたが、剣の国が「建(たけ→たち)」と「武(ほこ)」系統に分裂する事と関係が在るのかも知れない。それは「記」速須佐之男命が天照大御神に献上するとしたヤマタノヲロチの尾から出てきた草薙剣と、誓約に於いて天照大御神の物実とした十握剣(羽羽斬剣)は別のもので、十握剣から生まれた三女神が建速須佐之男命の御子とされる。
 他にも、広島県甲奴郡甲奴町有田、同県山県郡千代田町有田、岡山県笠岡市有田、和歌山県西牟婁郡串本町有田・出雲、同県有田郡吉備町長田、同県伊都郡高野町・同郡カツラギ町志賀。 



  1. 2017/03/21(火) 21:36:22|
  2. 7.某国考
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(3)伊邪国

(3)伊邪国

 伊[・ıər][・ıi][i]=尹(弾正台の長官・左右京職の長官の唐名)を補佐する人。
 邪[ŋiăg(yiă)][ziă][sie(ie)]=邪なる事(よこしま・悪い)=呪術等、漢方では陰陽のバランスが悪い事、傾(かし)ぐ。

 漢字音を併せると、ィアッヌギァッ→ィアヌギァ→ィアヌガ→ィアガ→ヤカで、福岡県福岡市南区屋形原、同県柳川市矢加部、同県甘木市屋形原、同県築上郡新吉富村矢方等がある。*屋形原(やかたばる)→伊邪羅原(やからばる)
 ただ、比定地の流れから、「記紀」成立期の中古音のイイジァ(イイチァ)→イイジ(イイタ)で、福岡県福岡市西区飯氏(いいじ)・四箇・金武・飯石神社(御食入沼命)
・女原(出雲大社分院)・飯盛(飯盛神社)、同市早良区飯倉(いいざぅ→いいくら)・有田、同市城南区飯倉付近に比定する。

 野方遺跡=弥生時代後期(福岡県福岡市西区野方)翡翠製勾玉・管玉・硝子玉・玉類等・(舶載)獣帯鏡・内行花文鏡・太刀
 吉武高木遺跡=弥生前期末~中期 (福岡市西区吉武高木)翡翠製勾玉・銅製腕輪・碧玉製管玉・水晶算盤玉・硝子製小玉・多紐細文鏡、重圏久不相見鏡・素環頭大刀・素環頭刀子・把頭飾銅剣・銅剣・鉄剣・銅戈・銅矛・鉄製武器他。
 
 「イシェ→イセ」とすれば、君(女王卑弥呼)の飲食を給仕や伝辞、その託宣を男弟(伊都国王)や官吏に伝える神祇官を排出、伊勢神宮内宮の天照皇祖神を養う外宮の豊受大神と関連する。
 伊都国は安寧と秩序を祈る祝禱を入れた器を護る城壁を構えるが、「邪」=陰陽のバランスの悪い伊邪国は邪馬壹国伊都国連合に服属、祭祀権を奪われ、一大率から卑狗(神祇官)や卑奴母離(武官)が派遣された。 
 「記紀」崇神天皇は娘の豊鍬入姫を伊勢神宮の斎宮(妻)とした後、天照大神の鎮座地を求め、御魂を倭姫命に移すと、男神天照大神→女神天照大御神(倭姫命)に性が変わり、陰陽のバランスが悪かったのか、豊耜入姫は髪の毛が抜けて祀られずとあり、皇孫の生母木花佐久夜比賣命の姉で醜い石長比賣と同様に石女(うまずめ)にされたのだろう。

 「記紀」景行天皇の御子兄大碓命(狗奴国王卑彌弓呼)は、邪馬壹国伊都国連合と対立、南下した後、姨倭姫命→弟小碓命→倭建命(景行)が北上し、五百木入彦命の娘八坂入比賣(壹與)を娶る→熊襲梟帥の娘、弟市鹿文(壹與)と内通し、兄市乾鹿文(臺與)を討伐する。
 「紀」日本武尊は蝦夷討伐の帰途、当芸野を経て、同県上野市(現甲賀市)上野市東側の能煩野(能褒野)で亡くなり、白鳥になって飛んでいったと伝承される。尚、三重県伊勢市西北、同県員弁郡北勢町飯倉(いぐら)が在る。
 地名「白鳥」は全国的に見られ、白鳥神社(日本武尊)は大阪府羽曳野市古市(御陵)、
香川県大川郡白鳥町松原・白鳥、福岡県田川市白鳥、同県山門郡(柳川市)三橋町、宮崎県えびの市末永(白鳥山)・白鳥と、岐阜県郡上郡白鳥町白鳥、神奈川県川崎市麻生区白鳥、宮城県桃生郡桃生町城内字白鳥下(倭建命)、同県白石市白鳥、同県刈田郡蔵王町宮馬場の刈田嶺(かったみね)神社(白鳥大明神)、富山県等にも見られる。

 「仲哀紀」伊覩県主祖五十迹手が船の舳と艫に五百枝賢木を立て、上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡(ますみのかがみ)、下枝に十握剣を掛け~、天皇は五十迹手をお褒めになり、伊蘇志と仰せられ、伊蘇国、伊覩は訛とした後、儺県に至り、橿日宮に居られる。
 旧来の行政区画「郡」の下部に属す県(あがた)の訓「懸け離れる」「遙かなり」を河川が吐き出す土砂が堆積し、海岸や浜辺が離れていく事とすれば、儺吐田(なのはかた→なのあかた)は王都から離れた鄙(ひな)で、県主=卑奴母離として良い。

弾正台=糺す司の意。律令制で京都内の非違を糺弾し、官人の綱紀粛正を司る役所。親王、及び左右大臣以下の朝臣の非違をも太政官を経ず、直ちに奏聞する権力を有した。尹・弼・忠・疏の四等官と巡察弾正とがある。9世紀初頭、検非違使の設置後は形骸化した。
 白川静編「字統」の「尹」=神丈を持つ聖職者と在り、これに祝詞や祝禱を入れる器(口)を加えた「君(巫女)」を口寄せする巫子(いちこ)とすれば、「伊」=女王卑彌呼を補佐する伊都国王(男弟)、或いは、飲食を給し、伝辞する伊邪国の人として良い。

イイダ=飯田は福岡県大牟田市飯田町、同県久留米市善導寺町飯田、同県嘉穂郡碓井町飯田、佐賀県鳥栖市飯田町、同県鹿島市飯田。また、地名「飯盛」や飯盛山が大村湾岸部山手に点々と続き、旧く松浦水軍等の勢力の拡がりに拠るのかも知れない。
 また、「飯倉」は、茨城県稲敷郡阿見町飯倉(イイグラ)、群馬県佐波郡玉村町飯倉(イイグラ)、埼玉県児玉郡児玉町飯倉(イイグラ)、千葉県八日市場市飯倉(イイグラ)以外は見えない。もしかしたら、茨城県鹿嶋市宮中にある元官幣大社の鹿島神宮(武甕槌神、経津主神、天児屋根命を配祀)、古来、軍神として武人の尊信が厚い常陸国一の宮と関係が在るのかも知れない。


飯氏(いいじ)=5世紀の兜塚(かぶとづか)古墳(福岡市西区飯氏マツヲ)硝子製玉類(首飾り)・馬具・鎧・鉄刀(前方後円墳全長54m)。
6世紀初~前半、飯氏二塚(いいじふたつか)古墳 硝子製玉類(首飾り)・辻金具・雲珠等の馬具(前方後円墳全長48m)。

飯石神社=島根県飯石郡三刀屋町大字多久和の飯石(いいし)神社(伊毘志都幣命)。出雲国風土記に飯石社、延喜式に飯石神社とみえる式内社で、「出雲国風土記」飯石郡条、飯石と号くる所以は、飯石郷の中に伊毘志都幣命坐せり。故飯石と云ふ。また、郡家の正東一十二里なり。
 
伊毘志都幣命天降り坐しし処なり。故、伊毘志と云ふ(神亀三年に字を飯石と改む)とあり、伊毘志都幣命の天降りましたと伝える磐座が御神体とされるので、本殿はなく、幣殿、通殿、拝殿を配している。即ち磐境、磐座という自然信仰の形態のままで現在に伝え、この地を命の降臨の聖地として、古来、注連縄を用いないのも特殊の習慣である。
 出雲(伊都母)国造家の祖神にあたる御祭神の伊毘志都幣命は天照大神の第二御子天穂日命の御子で、天夷鳥命、武夷鳥命とも云い、出雲国譲に際して三穂之崎に事代主神を尋ね、国土奉還の大業を成就された神とされる。その時に使用された船を熊野諸手船という。尚、別名は、伊都之尾羽張神→天之尾羽張神の子、建御雷之男命→天之御雷神等、冠称が変わる事と同変化と考える。

石女(うまずめ)=太陽神天照大神に斎き祀る巫女(妻)を天照御祖神(日光の化身=女王卑彌呼の鏡)として祀った。「日本書紀」是月天皇聞美濃国造名神骨之女兄名兄遠子弟名弟遠子並有国色則遣大碓命使察其婦女之容姿時大碓命便密通而不復命由是恨大碓命
 「崇神六年」百姓流離或有背叛其勢難以徳治之是以晨興夕惕請罪神祇先是天照大神倭大国魂二神並祭於天皇大殿之内然畏其神勢共住不安故以天照大神託豊鍬入姫命祭於倭笠縫邑仍立磯堅城神籬神籬此云比莽呂岐亦以日本大国魂神託渟名城入姫命令祭然渟名城入姫命髪落体痩而不能祭とあり、これも女神の倭国魂神が男神の日本国魂神に転生したからかも知れない
 九州管内には佐賀県佐賀市伊勢町、長崎県長崎市伊勢町、熊本県上益城郡山都町伊勢、宮崎県日向市伊勢ヶ浜等。伊勢(いせ→いし=石)=イシュァィ→イセ/イァスィァッ→イァサ→ヤセ、勢・世[thiad][ʃıəi][ʃıəi]

当芸野(たぎの)=次項の(4)都支(たぎ)国(建=剣→刀)と関係があるのかもしれない。ここ迄の流れから伊邪国の東側と思われる。「記」小碓命の蝦夷討伐に於いて、当芸野の辺りにやって来た時、私の心は、いつも空を飛翔したいと願っていた。しかし、今は、私の足は歩くこともできず当芸当芸斯玖なってしまった(足が行かない山田案山子?)と言った。その地を名付けて当芸(たぎ)野と言う。
 その地より少しだけ進んだが、とても疲れたので杖をついて緩りと歩いた。その地を名付けて杖衝坂と言う。尾津前の一本松の所へやって来ると、以前に食事をした時、その地に忘れていた御刀(みはかし→みたち)が、無くならずに未だあった。

儺県=AD200~300年頃、温暖化に因る海進で博多湾は奥に入り込み、福岡県福岡市東区名島の多々良川河口奥に橿日宮が鎮座、同市博多区那珂や同県糟屋郡新宮町、同郡粕屋町大隈等、那珂川流域の河口付近一帯の儺県を拠点として宗女臺與を蝦夷として追い払う。通説的に儺や名島は奴(な)国の「ナ」とされるが、私説は奴国の領域としないので、狗奴(かな→くど)国の北上に因る領域の変化で儺県とされたと考える。
 以下、弥生期の博多湾岸線=「まぼろしの邪馬臺国(宮崎康平著)」所載の図。
博多湾2  


  1. 2017/03/24(金) 08:37:00|
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