見まごう邪馬台国

(6)好古都国

 好[hag][hau][hau]=母が子を抱く形で、全てを賞賛する時に用いる
 古[kag][ko][ku]=祝禱を入れた器とそれを護る干(武舞に用いる装飾のある盾)との合字
 都[tag][to][tu]=祝禱を入れた器を埋納し、城壁で囲んだ所

 語義を併せると、安寧を祈る祝禱を入れた器と盾を設け、邑とは違い祖先の宗廟を城壁で囲って護る所と云う名称になる。詰まり、漢王朝から授かった金印「漢委奴国王」の奴国連合委奴国の祭祀を掌る王都だろう。
 漢字音を併せると、ハッカッタッ→ハカタ(博多)→ゥアカタ→ワカタ(若田)・アカタ(赤田)で、(3)「伊邪l国」項の地図に拠ると、当時、現在の福岡市博多区や東区付近の海岸線は深く入り込み、殆どが海中なので、「ハカタ」の語源は、干潮時、河口に吐き出される濁流の土砂が堆積した泥濘地の吐田(はきた)で、福岡県福岡市東区箱崎や同区馬出(まいだし)は治水工事を施した陸地の這出(はいだし)や場出(ばいづる)で、同県福岡市中央区舞鶴(まいづる)、同県三池郡高田町舞鶴、大分県大分市舞鶴町、京都府舞鶴市等も同源と考える。
 地名「ハカタ」は、三重県津市博多町、京都府京都市東山区博多町、佐賀県唐津市七山村博多・木浦、長崎県長崎市今博多町、大分県中津市古博多町、愛媛県今治市伯方(はかた)町古江・木浦等、以上の何れもが幾筋か河川の流れる合流地点や、その河口入江の沿岸部に在る。

 述べてきた事と、この国を守護する武人の都支国や、この国の治水工事にも関わった彌奴国の比定地等、その流れに順うと、福岡県福岡市博多区美野島と多々良川や宇美川を挟んだ東側、筑紫平野東部、3世紀中~後半の光正寺古墳(翡翠製勾玉・碧玉製管玉・変形獣首鏡、鉄器他)のある福岡県糟屋郡志免町や同郡宇美町付近一帯に比定する。
 付近の金隈(かねのくま)遺跡の墳墓には銅鏡や銅矛・鉄剣等、被葬者が持つ権威の象徴を表す副葬品に殆ど見えず、伊国に奴国連合の統治権と祭祀権を剥奪され、殺された王の輪廻転生を阻止する呪詛等もなかったため、当時の一般人(下属の民)を葬った共同墓地とされる。
 もしかしたら、(4)都支(たけ)国の比定地とした福岡県福岡市博多区下月隈(つきくま→たけくま)、弥生後期の宝満尾(ほうまんを)遺跡の土壙墓4基には翡翠製勾玉、 硝子製小玉、中国製明光鏡、素環頭刀子鉄斧等とあり、70~80年続いた委奴国王墓かも知れない。

 邪馬壹国伊都国連合への服属を嫌った奴国連合の委奴国王係累で覡の卑彌弓呼(秘狗奴)が授かった統治権の象徴である金印「漢委奴国王」は跡目争いの最中、奪われたため、従者や関係者を率い狗奴国(カナラ→カナダ/クヌダラ→クダラ)として南下した後、代々の国王を祀る宗廟に安置された金印を警護する武官卑奴母離や神祇官の卑狗が一大率から派遣された。*敵・叶(かなう)

 
その後、狗奴国は邪馬壹国の内部分裂を謀り、成就したのか、その一部(壹與)と繋がり、邪馬国と称した。その攻勢に敗れた邪馬壹国の女王卑弥呼(秘巫女)は亡くなり、通説の伊都国比定地、福岡県前原市の平原遺跡の古墳に葬られたと考える。
 邪馬壹国伊都国の王族は東北方面の遠賀川沿岸部から中国地方の出雲付近へ逃げ延びる時、奴国連合の象徴、金印「漢委奴国王」を狗奴国に奪われるの恐れたのか、埋納し、その宗廟を焼いたのかも知れない。
 後代、中大兄皇子と斉明天皇は百済(くだら)を救援に筑紫に下向し、唐王朝を後ろ盾とした新羅に敗れ、熊本県阿蘇郡大津(おおづ)町瀬田・真木・古城付近から大分県大分市大津、高知県土佐清水市大津、同県高知市大津、徳島県鳴門市大津、大阪府泉大津、滋賀県大津市と移動した。

赤田(あかた)=ハカタ→ゥアカタ→ッアケタとすれば、山口県下関市垢田(綾羅木川)、秋田(あきた)と云う地名も雄物川等が吐き出す土砂が堆積した泥濘地を秋田運河等で治水した同源の地名、若田(ワカタ)→脇田(ワキタ)→和井田とすれば、湧水地にもなる。
 
尚、博多(はかた)と云う漢字の語義は、博=広く薄く、多=夕方から夕方→拡がるとなり、土砂の堆積を示唆する。「記紀」成立期の中古音では、「ハゥコツォ→ホコト→ココト」となり、「紀」興臺産霊(こごとむすび)に比定される。

馬出(まいだし)=福岡県福岡市東区馬出は付近の箱崎八幡宮の神馬(じんめ)を出したと云う地名説話がある。但し、他にも徳島県美馬郡貞光町馬出(うまだし)、富山県高岡市御馬出(おんまだし)町・小馬出(こんまだし)町、石川県小松市小馬出(こんまで)町等は同源の地名だろうが、地図ソフトに拠ると、何れも河川沿岸に位置するが、付近に大きな神社は見あたらない。

壹與=景行天皇が八尺入日子命の娘、八坂入比賣命(生母)を娶り、生んだ五百木之入日子命、五百木入日賣命として良いのかも知れない。また、景行天皇が吉備臣等祖若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶り、櫛角別王、大碓命、小碓(倭男具那)命、倭根子命、神櫛王を生むとあり、「臺與」は景行天皇の妹倭比賣命で、養われた倭建命(日本武尊)は卑彌弓呼に化体されたと考える。
 二十四史の一つ「後漢書(後漢の事跡を記した史書)」本紀10巻、列伝80巻は南朝宋の范曄(はんよう)(398~445)の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭(わ)に関する記事があり、邪馬国とされる。
 
大津(おおつ/おおづ)=当初、伊都国の攻勢に追われて南下(くだ)るが、人口増加に因る食料不足での政情不安からか、北上を始める。その攻勢に押された邪馬壹国伊都国連合の一部が山口県大津郡大津郡(長門市)油谷町大和、島根県出雲市大津、石川県羽咋郡志賀町大津(おおづ)、同県鹿島郡田鶴浜町大津、新潟県刈羽郡西山町大津(おおづ)、同県岩船郡荒川町大津、 青森県三沢市大津へと日本海沿岸部を移動した。
 もう一つ、三重県松阪市大津町、山梨県甲府市大津町、群馬県吾妻郡長野原町大津、神奈川県横須賀市大津町、千葉県東葛飾郡沼南町大津、同県長生郡長柄町大津倉、同県安房郡富浦町大津、茨城県北茨城市大津町(鹿島神社系)がある。*オホ(意富)津→イホ(已百→五百)津

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  1. 2017/05/01(月) 08:31:41|
  2. 7.傍国考
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(7)不呼国

 不[pıuəg][pıəu][fəu]=花萼の形で、花弁(巫女)を支える事を意味する。語義「大きい」が派生。
 呼[hag][ho][hu]=(字統)乎が初文と在り、神事に於て神を呼ぶ時に用いた鳴子板の形。

 国名の意味は、乎=鈴を鳴らして舞い喜ばせ、神を降臨させるための道具、神の意思を宣る。不=巫女(爾)を支える神祇官で、伊都国の官爾支は、この国の神祇官や王で、巫女を支えるのかも知れない。
 漢字音を併せると、「ピゥァッハッ→プァハ→パハ(ハハ)/ファハ→ゥアハ→アハ」で、後者の「アフ→アヒ→アイ」は、佐賀県東松浦半島相知(おうち)町相知、同県唐津市相賀(あふち→おうか)、福岡県福岡市博多区相生(あいおい)、同県北九州市八幡西区相生、同県飯塚市相田、同県朝倉市相窪、大分県中津市合馬(あふま→おうま)、山口県下関市阿内(あふち→おうち)、愛知(あいち→えち)や阿波・安房(あほう→あはう→あは)や粟等は川沿いや海岸沿いに多い。
 また、「プァハ→ハハ→ハウ→ホウ」(這・延・匍)とすれば、吐きだされた土砂の堆積した泥濘が這う様に延びた地形を表す言葉で、「記」因幡素兎の舞台とされる伯耆(ははき→ほうき)国や「国々の比定」項で述べた「不彌(ハフ→ハム→ハウ)国」は同源。
 近世音の「ファゥフ→ハコ」にすると、前項の福岡県福岡市東区箱崎付近を流れる多々良川上流とした好古都国「吐くた」等とも近い地形だろうが、述べてきた国々の流れに近似音の地名は見あたらず、全く違う漢字が使われるので、少し成立の状況が違う地名と考える。
 例えば、前者の「パハ(ハハ)→ババ→ハマ」から、巾(はば)、浜(はま)等とすれば、山間の川沿いの細長い低湿地に土砂が堆積した障(さへ)の河原で、穂波川沿岸の福岡県嘉穂郡穂波(ほなみ)、同郡桂川町馬場島(蓑島神社/天照大神・神武天皇・神功皇后)・瀬戸(小市神社/不詳)・土師・出雲・鶴田、同郡郡碓井町臼井付近一帯に比定する。
 これを「ハバ→ハマ→ホマ→ホム→ホン」とすれば、大阪府羽曳野市誉田(ほむた→こんだ)・碓井・白鳥、「ハニフ→ハニゥ→ハヌ→ハニ→ハジ」とすれば、埴生(はぶ→はむ)・土生(はにう→はに)・土師(はじ)等、細長い河原や合流地点の中州に位置するか。
 
 北側の福岡県飯塚市立岩の立岩遺跡(ゴホウラ貝製釧・碧玉製管玉・硝子製棗玉・硝子製管玉・硝子丸玉・内行花文日有喜鏡・内行花文清白鏡・重圏姚皎鏡・重圏清白鏡・単圏久不相見鏡・素環頭刀子・鉄剣・鉄矛等)を、不呼国の中枢とする。
 同郡桂川町馬場島の隣、同郡穂波町大字椿字スダレの弥生中期前半~中頃の墓地には、土壙墓(木棺墓)55基が主。甕棺15基の大部分は小児棺とあり、もしかしたら、花の蕾を守護し、開き切らない稚児の呪力を呼び覚ます役目の国かも知れない。
 その中型甕棺内で発見された成人骨の脊椎に磨製石剣が刺さり、争乱を感じさせるとあり、桂川町馬場島東南、同町豆田の6世紀中頃の王塚古墳には、黄や緑、黒等で、騎馬人物や靭、楯、連続三角文、双脚輪状文が施される。
  こうした墓制は狗奴国、後の邪馬の北上に因る争乱の終息後、北部九州東北部にも拡がったのか。また、線刻系の装飾古墳は、九州以外にも鳥取県や香川県、大阪府等にも分布する。

 尚、平原遺跡(已百支国)の方形周溝墓(二重木棺)と同系古墳が、前漢の武帝が支配した楽浪郡にもあり、伊都国王族を武帝に滅ぼされた燕の衛氏が平壌付近に興したとされる衛氏朝鮮の関係者とした事に繋がる。邪馬壹国伊都国連合の構成は箕子朝鮮系の焼畑農耕民と衛氏朝鮮系の遊牧騎馬民、南中国倭人系(海民と水耕稲作民)等の三つ巴だったと考える。
 
爾支=爾[ŋiəg][niĕ(rıĕ)][ri] 支[kieg][tʃıĕ][tsï]、魏志東夷伝成立期の上古音に拠ると、「ヌギァッ・キェ→ヌガケ」、「記紀」成立期の中古音に拠ると、「ニェ・チュェ→ネチェ→ニチ」で、邇芸速日(にぎはやひ)命の「ニヌギ」や、天津日高日子番能邇邇芸(ににぎ)命等の「ニニギ」とはできない。
 ただ、万葉仮名の甲「き」の漢字には、現北京音が伎[ji]や岐[qi]等、「ジィ」や「チィ」に近い音が使われるので、「ニチ→ニキ→ニイ」と転音したとすれば、焼津(やちつ→やきつ→やひづ→やいづ)と云う転音とも考えられる。

合馬(あふま→おうま)=山国川の扇状地沿いにある大分県中津市合馬と違い、福岡県北九州市小倉南区合馬(おうま)は合馬川沿いの谷間にあるので、奥場(おうば→おうま)かも知れない。東京都青梅市青梅(あふば→おうべ→おうめ)は蛇行する多摩川上流域の谷間にある。手持ちの地図ソフトで河川は見えないが、同地名の栃木県芳賀郡茂木町青梅(おうめ)も、うねる谷間に位置する。また、大場・大庭(おうま→おおば)は、河川合流地手や沿岸部に拡がる河原や扇状地だろう。

障(さへ)=支(さえ→つかえ)」の意、山や丘、堆積した土砂に遮られて流域が変化する事を意味し、塞(さひ)と同源か。英彦山川沿岸の山間で、少し開けたの福岡県田川郡添田(そへだ)も同源の地名と考える。尚、〈類聚名義抄〉山野に構えて禽獣を遮り捕らえる囲いとある。
 「賽の河原」〔仏〕小児が死んでから苦しみを受けるとされる冥途(めいど)の三途(さんず)の河原にも通じるか。石を拾い父母の供養塔を造ろうとすると鬼が来て壊す、これを地蔵菩薩が救う。転じて幾ら積み重ねても無駄な努力とされる。西院(斎院)の河原。

穂波=穂波(ホハ→ほなみ)で、新潟県柏崎市穂波町、長野県上水内郡信濃町穂波、静岡県富士宮市穂波町、愛知県名古屋市千種区穂波町、大阪府吹田市穂波町、鳥取県東伯郡大栄町穂波、何れも川縁の細長い河原、低湿地に在る。
 また、馬の放牧地だったとされる地名「馬場」は、福岡県北九州市八幡西区馬場山、同県大牟田市馬場町、同県八女市馬場、同県行橋市馬場、同県豊前市馬場、同県糸島郡志摩町馬場、同県京都郡苅田町馬場、同県京都郡犀川町木井馬場、佐賀県藤津郡塩田町馬場、三重県一志郡香良洲町馬場、滋賀県大津市馬場(ばんば)、同県彦根市馬場(ばんば)、同県草津市馬場(ばんば)町等が在り、穂波と同様の地形として良く、その開けた河原の平地が馬場にされた事も在ったと考えられる。

王塚古墳=6世紀中頃の横穴式石室前方後円墳、金環(首飾り)・銀製鈴・琥珀製棗玉・管玉・切子玉・小玉(首飾り)・変形神獣鏡・鐙(あぶみ)・轡(くつわ)・雲珠・杏葉等の馬具50以上、大刀等の鉄製武器、武具、高坏他が副葬される(装飾古墳)とあり、馬具が見られるので、遊牧騎馬民としがちだが、海原を翔る船と天翔る馬を同意識とすれば、位置的な事からも水田を必要としない河川民(安曇系)と共に遡上したのかも知れない。

墓制=線刻系の装飾古墳は直弧文等、幾何学的な文様のものは、九州地方に分布中心を持ち、九州以外では、人物や船、木の葉等の写実的な図柄が中心です。非常に多様性に富み、色々なタイプのものがある。
 「石棺系装飾古墳」西隈古墳(佐賀県)、浦山古墳(福岡県)、石人山古墳(福岡県)、下山古墳(大分県)。「石障系装飾古墳」井寺古墳(熊本県)・釜尾古墳(熊本県)。「壁画系装飾古墳」竹原古墳(福岡県)、鬼塚古墳(大分県)、観音塚古墳(福岡県)、報恩寺山古墳(大分県)、鬼の岩屋1号墳(大分県)、太子古墳(茨城県)、栄安寺西古墳(熊本県)、空山15号墳(鳥取県)、木の葉古墳(香川県)、妻山4号墳(佐賀県)、日明一本松塚古墳(福岡県)、宮ヶ尾古墳(香川県)、千代丸古墳(大分県)、善神さん古墳(長崎県)、姫御前古墳(佐賀県)。「横穴系装飾古墳」石貫ナギノ横穴墓(熊本県)、加賀山横穴墓群(大分県)等、九州以外では茨城県や鳥取県、非常に稀な存在。  
  1. 2017/05/10(水) 23:52:25|
  2. 邪馬台国
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(8)姐奴国

 姐[tsiăg][tsiă][tsie]=且(積み重ねた頂上)と女、一番年上の女、姉(卑弥呼→猿女君→天照大御神)
 奴[nag][no(ndo)][nu]=祭祀官下属の民

 漢字音を併せると、ッシァナッ(チァナッ→ジァナ→ザナ)→サナ(タナ)とになり、(5)彌奴国と同様、水耕稲作民の奴を通字とする奴国連合の構成国で、丸括弧内のチァッナッ→タナ(棚)→タノ(田野)とすれば、天候や潮汐の見張り台(棚)だろうか、東千余里の海民の福岡県宗像郡玄海町田野等、他にも以下の地名がある。

  熊本県天草郡倉岳町棚底
  長崎県東彼杵郡川棚町・小串(をぐし)郷・五反田郷
  長崎県佐世保市棚方町
  長崎県平戸市魚の棚
  佐賀県杵島郡有田町田野
  佐賀県東松浦郡(現唐津市)肥前町田野
  福岡県久留米市三橋町棚町
  福岡県北九州市若松区棚田町
  福岡県北九州市門司区田野浦     
  山口県豊浦郡豊浦町川棚川棚神社)・吉永(宮地嶽神社)・小串(こぐし)
  山口県宇部市棚井
  広島県佐伯郡宮島町魚之棚
  広島県佐伯郡大野町棚田
  兵庫県氷上郡春日町 棚原

 訓音の近似性から大分県大分市佐野(さの)、同県豊後高田市佐野、同県宇佐市佐野、宮崎県延岡市佐野町等、河岸段丘や山に挟まれた川沿いの小高い丘を表す地名になる。これに順い、前項からの流れから小高い丘に遮られた福岡県太宰府市大佐野(おおざの)・向佐野(むかいざの)付近に比定する。その西北の丘上には以下の弥生遺跡が在る。

 隈・西小田遺跡群 弥生~古墳時代(福岡県筑紫野市光が丘)勾玉・諸岡型貝製腕輪・芋貝製腕輪・ゴホウラ貝製腕輪・管玉・硝子製小玉等、前漢鏡、細形銅剣・鉄剣・鉄戈・銅戈等、 甕棺130基。
 野黒坂遺跡、弥生時代後期(同市針摺)翡翠製棗玉。
 原口古墳、3~4世紀頃(同市武蔵)管玉・丸玉・三角縁神獣鏡・直刀・鉄斧・前方後円墳(全長80m)。

 次項の傍国(9)對蘇国に使われる「對(版築の作業を云う)」に関連し、福岡県筑紫野市の前畑遺跡から発見された7世紀頃の太宰府政庁の防御施設とされる大規模な土塁は版築工法に拠るものとある。

 (10)蘇奴国と近い音を持つ事から山口県豊浦郡豊浦町小串(こぐし)と同訓の同県宇部市小串、岡山県岡山市小串、長崎県南松浦郡新魚目町小串郷と、長崎県東彼杵郡川棚町小串(をぐし)郷と同訓の広島県比婆郡東城町小串、群馬県多野郡吉井町小串の二系統があり、「記紀」神功皇后と仲哀天皇の夫婦と同様に死別する伊邪那岐(伊奘諾)と伊邪那美(伊奘冉)の男女の二神に通じる「イ・ザナ」にも関連がある。
 更に、「紀」東遷した神武天皇の御名「狭野(さぬ)尊」の関連もあり、三重県伊勢市山手、同県多気郡多気町大字仁田の天照大御神を天石屋戸から引きだした天手力男神が坐す佐那神社の佐那那県(さなながた)=佐野儺県にも繋がる。
 他にも広島県福山市高西町真田(さなだ)、島根県鹿足郡六日市町真田、大阪府大阪市天王寺区真田山町、長野県小県(ちいさがた)郡真田町等の地名も関連があると思う。

 何れにしても祭祀官(神官)を補佐する下属の奴国連合構成員で、一大率から官卑狗(文官)、副卑奴母離(武官)が派遣される。その武官だったのか、「記紀」誓約に勝った須佐之男命(素戔嗚尊)の乱暴狼藉に恐れをなして天石戸(天磐戸)に隠れた姉天照大御神→天照大神に関連し、狗奴国卑彌弓呼(ひめかな)の北上に拠り、邪馬壹国女王卑彌呼の死後、姐奴国等の連合国は追われて国域が移動し、蘇奴国の領域が拡がる。おそらく、サナギ→サヌキ(讃岐)、長崎県西彼杵(にしそのぎ)郡香焼(こうやぎ)町但馬(たぬば→たづま→たじま)と同県東彼杵(ひがしそのぎ)郡川棚町白石郷(豊姫神社)・浦川内等も治めたのかも知れない。

田野=熊本県人吉市田野町、大分県玖珠郡九重町田野、宮崎県宮崎郡(宮崎市)田野町、島根県那賀郡弥栄(やさか)村田野原、同県鹿足郡六日市町田野原、和歌山県和歌山市田野、福井県大野市田野、山梨県都留市川棚・大野、高知県幡多郡大方町田野、同県高知市田野町大野、徳島県小松島市田野町等、西日本では小高い丘上や山麓にある。

川棚神社(應神天皇・神功皇后・仲哀天皇)=初め北八幡宮と称したが、1397年の火災で焼失、大分県宇佐市の宇佐八幡宮(應神天皇・神功皇后・比賣大神)を勧請、南八幡宮(仲哀天皇)を併祭したと在る。尚、川棚(かわたな)を河岸丘だとすれば、棚(たな)は、山と山、その麓の河川が流れる谷間の細長い土地を意味すると考えられる。

太宰府市=付近には政庁跡が発掘されており、北部九州の中心で、愛岳山中腹の竃門神社は子孫繁栄のための天之石戸と思われる。また、丸山神社には、天津五神の一人、天之菩卑能命→天菩比命(御子建比良鳥命)/「紀」天之穂日命が祀られる。尚、岐阜県各務原市大佐野(おおざの)町(春日神社)は、木曽川の中州(河岸丘?)に拠り遮られた低湿地を新境川放水路で治水した。

小県=山間を流れる川が合流する谷間の低地に位置する小干潟(ちいさひがた→ちいさぃがた→ちいさがた)と云う転音になる。

速須佐之男命(素戔嗚尊)=滋賀県神崎郡能登川町佐野、同県東浅井郡浅井町佐野、京都府熊野郡久美浜町佐野、大阪府泉佐野市佐野台、同県相生市若狭野町福井、同県豊岡市佐野、同県神戸市兵庫区須佐野通(スサノドオリ)、同県揖保郡新宮町佐野、同県氷上郡氷上町佐野、同県津名郡津名町佐野、和歌山県新宮市佐野、島根県浜田市佐野町、山口県防府市佐野、同県豊浦郡豊田町佐野、徳島県徳島市国府町佐野塚、同県三好郡池田町佐野・同郡東祖谷山村佐野、高知県香美郡土佐山田町佐野、同県高岡郡越知町佐之国。
 尚、日本語の漢字音は、上古音か、中古音に拠るので、佐野は、ッサル・ヂァェ → サダェ → サド → サヅ → サヌ → サノ、或いは、ツァ・ヤ(の) → タ・ヤ(の)と転音する。*左・佐[tsar][tsa][tso]=サ 野[diăg][yiă][ie]=ジェ→ジョ/ヤ

卑彌弓呼(ひめかな)=卑[pieg][piĕ][pi]・彌[miər][miə(mbiə)][mi]・弓[kıəuŋ][kıəŋ][kıoŋ]・呼[hag][ho][hu]で、漢字の音を併せると、ピェミェキゥァッヌッハッ → ペメクァッヌッァッ → ピメカナ(秘狗奴→秘金)で、もしかしたら、秘[pier][pii][pi]・光[kuaŋ][kuaŋ][kuaŋ]が、ピェルクァヌク → ペムカヌッ → ヒムカナ → ヒメカナ(日光を受ける銅鏡)」と転音したか。*卑彌呼(秘巫女)

讃岐=「記」国産神話、伊豫国=愛比賣、讃岐=飯依(いひより→いいより)比古、粟国=大宜都(げつ/いと)比賣、土佐国=建依別と在り、西九州に多く見られる山名「飯盛山」等の飯(いひ/めし/まま)に関連が在ると考える。
  1. 2017/05/17(水) 22:33:24|
  2. 7.傍国考
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(9)対蘇国

 対[tuəd][tuəi][tuəi]=木槌等の道具を持ち行う版築の作業を行う事=対面
 蘇[sag][so][su]=「穌」が初文、紫蘇の類を用いて魚等の生気を保たせる。金文では国名のみ使われる。

 上記の漢字を併せると、ツァッサッ→タサ(トサ)、高知県の旧国名「土佐」と同音かも知れない。「記」土佐国=建依別と在り、速須佐之男命の建(たけ)国=都支国に依り、服属して、前項の(8)姐奴(ざの→さの/たの)国や他の傍国と同様、邪馬壹国伊都国連合から官卑狗(文官や技官)、副官卑奴母離(武官)等が派遣されていたと考える。
 尚、下記の如く同地名が殆どが河岸や海岸等水際に在る。

  大阪府大阪市西区土佐堀・福島区、大阪府堺市土佐屋台
  奈良県高市郡高取町土佐・吉備
  和歌山県和歌山市土佐町・福島
  徳島県那賀郡鷲敷町土佐、徳島同県鳴門市土佐泊浦
  高知県香美郡土佐山田村大平・仁井田、同県土佐市宇佐町福島

 但し、北部九州には福岡県築上郡大平村土佐井(つちさい)以外の他に同地名は見あたらないので、述べてきた比定地の流れに順い推測すると、その近似音から佐賀県鳥栖(とす)市田代町・真木町轟木・麓・姫方(姫古曾神社)・大野付近に比定する。
 付近の柚比遺跡(ゆびいせき)群(青銅器鋳型・鐸形土製品)は、弥生期~奈良期の竪穴住居約1,500棟、掘立柱建物約50棟、弥生期の甕棺墓約1400基等が確認された。出土遺物には縄文~近世にかけての多種多様なもので、弥生期のものは青銅器、及び青銅器関連遺物が特筆される

 茨城県鹿島郡鉾田町鳥栖(とりのす)、愛知県名古屋市南区鳥栖(とりす)等、何れも平地を流れる川縁にあり、上記、鳥栖市も南側の宝満川に流れ込む何本かの支流が流れる平地に位置し、旧くは低湿地帯だった。
 そうした地形の状況を改善するため、「対」=木槌等の道具で行う版築作業民の国で、(5)彌奴(みな)国と共に版築で一段一段と堤防や水路等を造り、治水工事を施し、泥濘地の陸化を担い水田や耕作地にして「足す」と云う意味の国名かも知れない。

 この説を補足する発見があった。朝日新聞に拠ると、太宰府政庁から南東に7㌔の前畑遺跡、姐奴(ざの)国比定地付近の福岡県筑紫野市丘陵上で長さ500㍍に及ぶ7世紀頃の版築工法の大規模な土塁が見つかった。土壁は、高さ1.5㍍・下部の幅13.5㍍の二段構造で東側を急勾配にしてを巡らせた防御施設とされる。
 これからも邪馬壹国伊都国連合には版築作業の技を持つ中国系の人々が居たとして良く、奴国連合王族の出自をを殷王朝最後の紂王の叔父胥余が、周武王より、箕を賜り、朝鮮王を名告って建国したとされる箕子朝鮮の人々(奴)が、燕人(騎馬系)の衛満が起こした衛氏朝鮮に滅ぼされて渡来、建国したとする私説の傍証ともになる。

 尚、見つかった土塁(前畑遺跡)は、同記事の地図に拠ると、想定される外郭線(赤色の点線)の丸く囲んだ部分で、標高49~61㍍の尾根を略南北方向500(残存390)㍍に及ぶとあり、福岡県糟屋郡宇美町四王寺の大野城(姐奴国)、同県大野城市大利の水城(彌奴国)、佐賀県三養基郡基山町の基肄城(対蘇国)等を繋ぎ、太宰府を取り囲む様に築かれる。
 何故か、太宰府市都府楼の東側、福岡県筑紫野市山家付近、宮地岳山頂の阿志岐山城(神籠石)は含まれない。その北側、福岡県宗像郡津屋崎町(福津市)宮司の宮地嶽神社本社、長崎県松浦市今福町滑栄免(宮地嶽神社)、同県北松浦郡(松浦市)鷹島町阿翁面(宮地岳)、佐賀県唐津市宇木(宮地嶽神社)、福岡県前原市神在・作出(宮地嶽神社)が在り、北上してきた狗奴国(邪馬)の攻勢に御岳(みたけ・おんたけ・うたき)を御神体とする末盧国以西の人々が東行して対立したからかも知れない。

版築(はんちく)=古く、中国の竜山文化に始まった土壁や土壇の築造法で、木枠を作り、その中に土を盛り、一層ずつ杵で突き固める。現在、見られる万里の長城も版築に拠る土壁の上から石を積んだ。
 竜山文化=中国の新石器時代の二大文化中、仰韶(ぎょうしょう)文化から発展した。山東省章丘市竜山鎮の城子崖遺跡に拠る命名で、黒陶(こくとう)が見つかる。

柚比遺跡(ゆびいせき)群=鳥栖市北東部及び基山町南部に位置し、標高約30~70mの八ツ手状に伸びる丘陵上に立地する縄文時代から近世にかけての約30箇所の遺跡により構成される。
 主な遺跡としては、柚比本村遺跡、安永田遺跡、前田遺跡、大久保遺跡、平原遺跡等がある。鳥栖北部丘陵新都市開発整備事業及び関連事業に伴い、県教育委員会が20遺跡(約68万平方m)を対象に平成3年度から11年度にかけて発掘調査を実施した。

中国系=西側の佐賀県佐賀市金立には、始皇帝に不老不死の薬を探し求めると進言して、列島に渡来したと伝承される徐福を祀る金立神社がある。

燕人の衛満=燕は、春秋戦国七雄の一つ周姓召公奭(せき)、河北、南満州、北鮮を領し、薊(現北京)を都とするが、秦に滅ぼされる。4~5世紀、騎馬系鮮卑族の慕容氏が前燕・後燕・西燕・南燕を建国した。もしかしたら、高句麗の武人とも関係があるのかもしれない。
 衛満=BC195年頃、建国した衛氏朝鮮が前漢武帝に滅ぼされた後、楽浪郡や帯方郡等の出先機関が置かれたと在る。王族関係者は北部九州に渡来、箕子朝鮮系奴国連合と対立したと考える。
 衛子夫=前漢武帝の后、弟に将軍衛青(?~BC106)=前漢の武将。字は仲卿。姉が武帝の皇后となった縁で将軍となり、匈奴を征すること十数回、武名高く長平侯に封ぜらる。大将軍、後、大司馬。諡は烈侯。その甥、霍去病(かくきょへい)=前漢の将軍。武帝の時、匈奴を討ち、大功を以て冠軍侯に封。驃騎将軍、大司馬に任じられた。諡は景桓侯(BC140頃~BC117年)。

地図=2016年11月29日(火)付の朝日新聞所載
土塁推測図 

宮地岳=本社は福岡県福津市宮司元町の宮地嶽中腹にある古墳羨道奥の石櫃内に御神体があり、祭神は息長足比売命(神功皇后)と勝村大神・勝頼大神。他にも同県八女市川犬と溝口境の宮地嶽神社、同市竜ヶ原と同県筑後市羽犬塚の宮地嶽神社、大分県東国東郡(国東市)国東町岩屋の宮地嶽神社。

御岳(うたき)=沖縄の村々にある聖地で多くは森。石やクバ・ガジュマルの木等があり、最も神聖な場所とされ、祭りの多くは、ここで催される。威部(いび・いべ)=奄美・沖縄地方で、巫女達が神祭りを行う聖地。または、神。御岳中、最も神聖な場所で、神の依代としての神木や自然石があり、香炉が置かれる。
  1. 2017/05/24(水) 08:26:00|
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