見まごう邪馬台国

◇スサノヲ

 先の(8)姐奴(ざな→さの)国や次項の(10)蘇奴国とも関連し、「古事記(以下・記)」天照大御神、「日本書紀(以下・紀)」天照大神の弟とされるスサノヲの用字は、「記」建速須佐之男(須佐能男)命、「紀」武(神)素戔嗚尊とされる。
 漢和大辞典に拠ると、夫々に使われる漢字音は以下の如く在り、二つの名前は、本来から同訓音だったのかは、甚だ疑問と思う。

 「記」須[ŋiug][siu]siu]/佐[tsar][tsa][tso]/之[tiəg][tʃıei][tsï]/男[nəm][nəm(ndam)][nam]
    能[nəŋ][nəŋ(ndəŋ)][nəŋ](異音[nəg][nəi(ndəi)][nai])
 「紀」素[sag][so][su]/戔[tsān(dzan)][tsen(dzan)][tsien/ts`an]/嗚[・ag][・o][u]

 「記紀」成立期の中古音に拠ると、「記」シゥッ・サノ(シゥ・ツァノ) → スサノ(スタノ)になるが、「出雲神話」須佐能男(すさのぅお)命から、何れも訓音に拠る「之(の)」と「男(ぅお→を)」だが、漢字音とすれば、以下の如く山幸彦や海幸彦の「祖幸(スサチ)」として良い。

  スサチュェィナム(スタチュェィナム) → スサチェィナム(スタチェィナム) → スサチナム(スタチナム)
 
 また、丸括弧内の音「祖大刀(すたち→巣立)」とすれば、冠称の建(たち→たけ)=都支(タケ→トキ)と関連し、二本の足で立ち、巣立つ事、成人して独立、「紀」稲田姫を娶り、所帯を持つ事を示唆する。同時に「記」天照大御神との誓約(うけひ)で、自身が帯びていた十握剣から三女神(タマ)と、天照大御神の五百箇御統珠で五男神(タチ)を生す事とになる。
 その後、乱暴狼藉の理由で神遣いされた速スサノヲが出雲の肥河上で退治したヤマタノヲロチの尾を切り裂いて得た草那芸大刀にも繋がる。それを奇しいと天照大御神に献上すると、誓約の段に戻り、輪廻転生し、「建→神(建日別=熊襲国)」と「武」に分裂する。

 一方、「紀」万葉仮名成立期の中古音には別音があるので、夫々を 一つ一つ書き出すと以下の如くなる。

  ソッセヌオ(ソチェヌオ)/ソッザヌオ → ソセノヲ(ソテノヲ)/ソザノヲ 

 上記、「ソッザヌオ → ソザノヲ」は、「記」スサノヲの姉天照大御神とされるので、長女の意味があるとした傍国(8)姐奴(ザナ)国に繋がると考えられる。また、通説的な訓音の「スサノヲ」は、「記」須佐之男(スサノヲ)、「紀」素戔嗚尊(スォセヌオ → スォセノヲ)だろうが、その後者は次項で述べる傍国の(10)蘇奴(セヌオ→セノヲ)国の近似音として良い。
 
 「紀」神日本磐余彦(神武)天皇の御名、狭野(さの)尊は、狭[ɦap][ɦap][hia]・野[diăg(dhiag)][yiă(ʒıo)][ie(ʃiu)]とあり、何れも漢字音ではなく、訓音だが、全て中古音にすれば、H音系がカ行に転音して、ファフ・イァ(ファフ・ジォ) → ファゥヤ(ファフ・ジォ) → ハゥヤ(ハゥジォ)/カゥヤ(カゥジォ)となり、「記紀」河神やスサノヲの冠称「速(はや)」や、日本府の任那(ニムナ→みまな)の伽耶(かや)国、高野(かうや→こうや)の近似音になる。また、「カウジォ」は沖縄の古称「コザ」や和歌山県東牟婁郡古座町古座(こざ)に繋がるのかもしれない。
 
 他にも、京都府亀岡市本梅町加舎(かや)、同府相楽郡和束町木屋(きや)、同府京都市中京区木屋(きや)町、大阪府寝屋川市屋町、岡山県上房郡賀陽(かやぅ)町竹荘、広島県甲奴郡総領町木屋、同県比婆郡比和町木屋原、山口県下関市木屋川町、同県小野田市木屋、徳島県麻植郡美郷村木屋浦、同県美馬郡貞光町端山木屋、同県美馬郡木屋平村、愛媛県松山市木屋(きや)町、高知県幡多郡大正町木屋ケ内、福岡県北九州市八幡西区木屋瀬、同県八女郡黒木町木屋、同県糸島郡志摩町芥屋(けや)、長崎県西彼杵郡多良見町化屋名(けやみょう)、鹿児島建鹿屋(かのや)市等がある。

伽耶=古代、朝鮮半島南東部にあった諸小国の全体をいう場合と、特定の国「金官伽耶」「高霊伽耶」等を指す場合もある。562年、新羅により併合された。日本では多く任那(ニンナ→ニムナ→みまな)と呼ぶ。加羅。尚、朝鮮半島南東部の巨済島(コジェド→カゥジォ)南部には加羅山がある。

高野(かうや→こうや)=桓武天皇の母御、高野(たかの→カゥヤ)新笠は百済(くだら)王後裔とされる。これを三韓時代、半島に在った百済(ペクチェ)と同国とするが、新羅の併合を嫌った伽耶国関係者が、南下(くだり)、渡来したのかも知れない。
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  1. 2017/06/03(土) 18:10:36|
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(10)蘇奴国

 蘇[sag][so][su]=「穌」が初文で、紫蘇の類を用いて魚等の生気を保たせる。金文では国名以外では使われない。
 奴[nag][no(ndo)][nu]=捕らえた女で祭祀官下属の民。

 上記の漢字を併せると、「サッナッ→ソナゥ→セノゥ」、前述した「記紀」建速須佐之男命(スサノヲ/スツァノヲ)、「紀」武素戔嗚尊(ソセヌオ→ソセノゥオ)に関係が在り、地名や姓氏に見える瀬尾や妹尾(せぬを→せのを)に繋がる。述べてきた比定地の流れに順い佐賀県神埼郡東脊振村瀬尾(せのを)・吉野ヶ里付近に比定する。
 使われる漢字から委奴国連合を組織していたが、王族や巫女等の輪廻転生を促すための神事を掌る神官と考える。邪馬壹国伊都国連合に支配されて服属したため、一大率から官卑狗か、副卑奴母離が派遣されており、その下属として病気や怪我等に処方する薬を製したり、管理する人々と考えられる。

 伊都国に関わる新たな人々が渡来し、70~80年続いたとされる前王統の委奴国連合は邪馬壹国伊都国連合に取って代わられたため、女系姐奴(ざな)国の「紀」天照大神と誓約した素戔嗚尊(ソザヌオ→ソザノゥオ)と、「神遣い」された素戔嗚尊の如く不服従の男系狗奴国と、靡いた蘇奴国に分裂する。
 長崎県彼杵(そのき)や讃岐(さぬき)かとも考えたが、これらは大陸の情勢変化に乗じた狗奴国の北上に拠り、邪馬壹国女王卑弥呼の宗女「壹與」が靡いたからか、追われた邪馬壹国伊都国連合が同宗女「臺與」を奉じて東遷した後、男系の蘇奴岐(さぬき)の領域が拡がったと考える。
 神籠石や古代山城とされる遺跡の配置と、「後漢書」倭在韓東南大海中依山島為居、凡百余國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。樂浪郡徼去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里~。陳寿は、その北岸として邪馬壹国を南側に比定したが、その西北界として東南側にする事からも判る。

 平成2年から発掘調査が開始された瀬ノ尾遺跡(佐賀県神埼郡東脊振村瀬の尾・横田)は、同郡神埼町萩原(吉野ヶ里遺跡)・馬郡北側の丘陵に位置する弥生時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡とある。その調査区南部、古墳時代前期の竪穴住居跡埋土、及び、その上部を覆う包含層から出土した絵画土器は接合できる同一個体の3片中、2片に人物画が描かれる。
 このような武器・武具を持ち頭に飾りをつける司祭者を表した絵画は、近畿、中国、九州地域の弥生時代後期の遺跡から数多く見つかっており、西日本各地でも共通の祭式が営まれたことを示す。

 狗奴国との戦いに敗れた邪馬壹国伊都国連合が東遷した後、「記」天照大御神と速須佐之男命が対立した様に、姐奴国(さの)と対立したとすれば、佐賀県鳥栖市付近に比定した前項の(9)對蘇(とさ)国が、後代、現在の高知県付近に東遷して土佐(建依別)を称し、その対面する国の(10)蘇奴(せのを)国は、現在の香川県(讃岐=飯依比古)一帯を指すのかも知れない。地図を精査すると同様の対立関係が見えるのかも知れない。

 また、佐賀県伊万里市東山代町滝川内讃岐、長崎県佐世保市山手の南側、同県東彼杵(そのぎ)郡川棚町小串(をぐし)郷・日向(八幡山)、福岡県北九州市門司区社ノ木(しゃのき)・柄杓田と関門海峡を挟んだ山口県豊浦郡(現下関市)豊浦町川棚(川棚神社・宮地嶽神社)・小串(こぐし)、山梨県都留市川棚・柄杓流川。茨城県龍ヶ崎市佐貫町、栃木県塩谷郡塩谷町佐貫、群馬県邑楽郡明和町大佐貫、千葉県長生郡睦沢町佐貫、同県富津市佐貫、兵庫県多紀郡(現篠山市)篠山町佐貫、同県三田(さんだ→さぬら)市、鳥取県八頭郡河原町佐貫等が在る。

管理する人々=邪馬壹国伊都国連合の一部は、卑彌呼の宗女臺與を戴き東遷したとすれば、「記紀」出雲の大国主神(「紀」大己貴命)と共に建国したとされる「記」神産巣日御祖命の子、少名毘古那(「紀」高皇産靈尊の子少彦名)に繋がる人々かも知れない。

樂浪郡=前108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして今の平壌付近に置いた郡。後漢末の204年頃、楽浪郡を支配した公孫康は、その南半を割いて帯方郡を設置。313年高句麗に滅ぼされた。遺跡は墳墓・土城・碑等を主とし、古墳群からは漢代の文化を示す貴重な遺物を出土。*楽浪の位置を中国の遼河付近とする説もある。
 後漢書=二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝の宋の范曄(はんよう・398~445)の撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭(わ)に関する記事がある。

横田(よこた)=京都府京都市山科区北花山横田町、同府船井郡園部町横田、兵庫県加西市横田町(糠塚山・万願寺川)、同県氷上郡氷上町横田・佐野、奈良県奈良市横田町・佐保・矢田原、同県大和郡山市横田町・高田町・満願寺町・矢田町、鳥取県倉吉市横田・和田、鳥取県八頭郡八東町横田・同郡智頭町横田・鳥栖、同県益田市横田町・有田町、広島県高田郡美土里町横田・山田、愛媛県今治市横田町・矢田、同県伊予郡松前町横田、福岡県飯塚市横田・津島、佐賀県東松浦郡浜玉町横田・飯塚・鳥栖柳瀬・山田、熊本県玉名市横田・山田、同県上益城郡甲佐町横田・柳瀬、大分県大分市横田・佐野・高田、同県宇佐市横田・山田・稲積山等。

人物画=人物は羽飾りを頭に付け、嘴とみられる突起を付けた仮面を装着しており、左手には、上部、中央、下部を鋸歯文帯で飾る盾を持つ。右手は欠けているが、戈を始めとする武器を握っていたと想像されるとある。また、土器は共伴した土器の特徴から古墳時代前期に位置付けられるため、弥生時代的な習俗が古墳時代迄、継承されていることを推測させる。

小串(をぐし)=山口県豊浦郡豊浦町小串(こぐし)の如く、地名「小竹」にも「をだけ」「こたけ」がある事にも関係が在り、前者は、成人して嫁を娶ったスサノヲで、後者は、鬚(ひげ)が伸びても泣きいさちるスサノヲに化体されると考えられる。


  1. 2017/06/12(月) 06:56:12|
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(11)呼邑国

 呼[hag][ho][hu]=(字統)乎が初文と在り、神事に於いて巫覡が神を呼ぶ時に用いたと云う鳴子板の形。
 邑[・ıəp][ıəp][iəi]=(字統)囗(国構・イ)=城壁を巡らせた所、巴=器の把手の形で、「説文」蟲なり、象を食う蛇なりとして字を蛇形に解するとし、多くの人が生活すると云う意味の合字で、行政区画の一つとされる。

 宗廟先君の在る「都」と無い「邑」とされるが、殷の都を大邑商とし、殷を滅ぼした周初、新邑(洛陽)、列国が弊邑・小邑と称すともあり、大邑商は、周の武王に滅ぼされたため、宗廟先君の祭祀ができなったのか。或いは、本来、安寧秩序を祈念する施設なのかも知れない。

 上記の漢字を併せると、ハッィァフ→ハヤゥ→ハヤ(早・速・南風)となる。「記紀」出雲国肥河上へと遡った建速須佐之男命の「ハヤ」や水戸(みなと)神→河神速秋津日子と妹速秋津比賣と在り、南風(ハィエ)や疾風の如く速く移動できる船を操る沿岸航海民や川民(河伯)に関係があると考える。
 例えば、長崎県諫早市(いさはや)早見、大分県速見(はやみ)郡山香(やまが)町等も在るが、今迄、述べてきた比定地の流れを考慮すると、福岡県三潴郡三潴町早津崎、佐賀県佐賀郡川副町早津江付近に比定する。
 付近には、佐賀県佐賀市諸富町の徳富権現堂遺跡・上大津遺跡等、弥生期の約1,800年前~室町期にかけての遺跡がある。例えば、河川が運ぶ土砂が堆積し、舌状に延びた吐崎(はきさき)に掘っ立て柱に屋根だけ、今でも東南アジアの河川や湖上に見られる簡素な家屋に住み、船の荷役等を糧に暮らす人々の集落と考える。
 そうした暮らしを裏付ける福岡県柳川市大和町の徳益八枝遺跡(弥生前~中期初頭/約2,200年前)の集落跡が下図「D」にあり、調査では軟弱な地盤に柱が沈み込まない様に工夫された掘立柱の建物や井戸が検出された。おそらく、気候変動に因る気温の変化で、海岸が移動、住めなくなり、他所に移ったのかも知れない。

 他にも三重県松阪市早馬瀬(ハヤマゼ)町、滋賀県東浅井郡湖北町速水、同県東浅井郡ビワ町早崎、京都府京都市下京区風早町、同市下京区早尾町、大阪府南河内郡千早赤阪村千早、兵庫県姫路市広畑区早瀬町、同県佐用郡上月町早瀬、同佐用郡南光町林崎、和歌山県田辺市芳養(ハヤ)、鳥取県八頭郡智頭町早瀬、岡山県敷市茶屋町早沖、同県都窪郡早島町早島、広島県福山市赤坂町早戸、同県安芸郡音戸町早瀬、同県豊田郡安芸津町風早、徳島県徳島市国府町早淵、愛媛県今治市風早(カザハヤ)町、同県越智郡宮窪町早川、同県西宇和郡保内町広早、福岡県福岡市東区千早、同県前原市千早新田、佐賀県東松浦郡鎮西町早田、長崎県長崎市早坂町、同県佐世保市早岐(ハィエキ→ハイキ)、同県西彼杵郡西彼町風早郷、熊本県八代郡宮原町早尾、大分県大分市羽屋、宮崎県都城市早水町等、何れも海岸、河岸や河川合流点に在る。

 中古音や中世音「ホヤ→コヤ(木屋・小屋)」とすれば、福岡県北九州市八幡西区 木屋瀬(こやのせ)、福岡県八女郡黒木町木屋等の地名があるが、これは、卑弥呼の死後、狗奴国の北上に伴い、敗れた邪馬壹国連合が東遷した後なのかも知れない。
 他にも兵庫県尼崎市西昆陽(コヤ)、同県伊丹市昆陽、和歌山県和歌山市古屋(コヤ)、島根県大田市三瓶町木屋原(コヤバル)、広島県広島市安佐北区白木町古屋、同県安芸郡坂町小屋浦、同県比婆郡比和町木屋原(コヤバラ)、山口県下関市木屋川(コヤガワ)、同県小野田市木屋、徳島県麻植郡美郷村木屋浦、同県美馬郡木屋平村、同郡貞光町端山木屋(ハバヤマコヤ)、愛媛県越智郡朝倉村古谷、高知県幡多郡大正町木屋ケ内等が在る。

弥生期=柳川市三橋町の磯鳥フケ遺跡では、弥生中期後半(約2,000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査されました。約3,500㎡の広範囲に亘り、掘立柱建物群や井戸等が検出され、集落は広範囲に広がっているとある。同町蒲船津の江頭遺跡では、弥生後期(約1,800年前)の集落跡が調査された。先の二つの遺跡と同じく多くの掘立柱建物が見つかる。
 これらの遺跡以外にも、弥生時代の貝塚として柳川市西蒲池の三島神社貝塚や同市大和町鷹ノ尾の島貝塚が知られる他、柳川市西蒲池の扇ノ内遺跡では石田と呼ばれる田圃に残る大型の石の地下から甕棺が出土しており、支石墓の可能性がある。

下図=「国々の比定」項で掲上した有明海沿岸部の遺跡地図。
有明沿岸遺跡 


  1. 2017/06/21(水) 16:43:11|
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