見まごう邪馬台国

(20)烏奴国

 陳寿の記載順では、(13)鬼国だが、前項、委奴国連合宗主国「奴国」を分岐点とし、最後の(20)烏奴国から逆順に西北方面の松浦半島西側に向かって並ぶと考える(「地形と傍国配置」の図参照)。尚、漢和大辞典に拠ると、「烏」「奴」には、以下の如く在る。

 烏[ag][o][u]=鳥の形、生気を失った形が多い。寧ろ「於」の字形に近いと在り、鳥の羽を解いて縄に掛け渡した形で、鳥害を防ぐ。
 奴[nag][no(ndo)][nu]=捕らえた女で祭祀官下属の女囚。

 上古音で「アッナッ→アナ(穴)」とすれば、漢字の語義から神籠石(山城?)や洞窟等に隠って祈る巫女や神祇官に仕える女囚の国か。「仲哀紀」徳勒津から行幸された穴門(山口県豊浦郡周辺)に関係するのだろうが、前項迄の比定地周辺部に同音の地名は見あたらない。
 例えば、中古音に拠る「オゥノ(奥野→大野)」とすれば、佐賀県西松浦郡有田大野、その東、同県杵島郡山内町大野・板ノ川内(有田川)・黒髪山がある。同期の遺跡は、佐賀県伊万里市二里町の橋本遺跡(大里乙字大緑)、西尾遺跡(大里乙字西尾)の丹塗り土器は表面を赤く塗り、磨いた土器で、石棺に収められた死者へお供えをして祭祀をしていたとされる。

 委奴国連合の構成国だったため、邪馬壹国伊都国連合に服属し、板ノ川内(いたのかわち)に一大率の卑狗(神祇官・文官)と卑奴母離(武官)が駐屯した役所が置かれた。その後、女王卑弥呼が没すると、北部九州の状況が変化したのか、宗女壹與と共に狗奴(カナ→クド)国へ靡き、已百支国として比定した福岡県前原市多久・有田の山手、朝鮮式山城の雷山神籠石か、東側の怡土城、更には、筑紫城に比定された福岡県糟屋郡宇美町四王寺の大野城付近へ移動したか、領域を拡げたと考える。
 後代、新羅(しらぎ)の侵攻に備えた朝鮮式山城の一つ大野城を維持管理した人々だろうが、戦況の悪化か、中大兄皇子派は百済式山城、鞠智城の熊本県鹿本郡菊鹿町米原字長者原・木野、同県菊池市木野字深迫や、同県阿蘇郡大津(おおづ)町真城(真木)、白水(はくすい)村白川付近へと南下(くだ)った後、大分県大分市大津から高知県清水大津、同県高知市大津、徳島県鳴門市大津備前島・里浦町粟津、大阪府泉大津市を経て、滋賀県大津市粟津町へ移動する。
 「紀」同年9月条中大兄皇子は百済義慈王の子豊璋に織冠を授け、多(おおの)臣蔣敷の妹を妻とし、大山下狭井連檳榔と小山下秦造朴市田来津に兵五千余を率いさせ、百済(くだら)へ護送させたとあり、近世音「ウヌ→ウヅ」国→宇土(ウド→ウト)とすれば、福岡県春日市白水(しろうず)、同県筑紫野市萩原付近に比定した彌奴国や同県福岡市博多区板付・金の隈付近に比定した都支(岳→竹)国に追われて南下ったのかも知れない。他にも地名「大野」は以下の如くある。

 山口県豊浦郡菊川町大野(大野神社)・岡枝(桜井神社)・萩ヶ台(木屋川)、福岡県大川市大野島・早津江(呼邑国比定地)、佐賀県佐賀郡富士町大野、同県東松浦郡相知町大野、長崎県佐世保市大野町(但馬越)・黒髪町、同県平戸市大野町、同県西彼杵郡外海町神浦大野郷(大野岳)、熊本県八代市二見下大野町、同県人吉市大野町、同県下益城郡松橋町大野・浦川内・木浦田・萩尾宇土市隣町)、同県玉名郡岱明町大野下、同県阿蘇郡蘇陽町大野、同県八代郡竜北町大野(鏡山)、同県葦北郡芦北町大野、大分県臼杵市大野、同県大野郡大野町、同県日田郡前津江村大野・座目木・板屋、同県下毛郡耶馬溪町大野、宮崎県延岡市大野町、鹿児島県出水市大野原町鹿島・鯖淵(宮地嶽神社)、同県日置郡金峰町大野・五反田・大坂・白川等がある。

奥野(おうの→おくの)=京都府福知山市奥野部、同府八幡市橋本奥ノ町、兵庫県豊岡市奥野、同県氷上郡山南町奥野々、鳥取県八頭郡八東町奥野、広島県三原市奥野山町、同県豊田郡安浦町中切奥野原、徳島県板野郡藍住町奥野、同県麻植郡山川町奥野井、徳島県三好郡東祖谷山村奥ノ井、愛媛県北宇和郡松野町奥野川、熊本県球磨郡多良木町奥野。
 骨になる迄、亡骸を安置する場所とすれば、「おうの→あおの」で、京都府綾部市青野町、兵庫県小野市青野町、同県三田市青野、同県加西市青野町、奈良県奈良市青野町、岡山県井原市青野町、同県英田郡東粟倉村青野、同県英田郡英田町青野、徳島県美馬郡半田町青野、熊本県玉名市青野。

橋本遺跡=昭和40(1965)年、圃場整備の工事中、偶然、見つかり、弥生時代中期の前半頃、凡そ2150年前頃の墓地で、甕棺墓20基余りと箱式石棺墓が1基、見つかったが、甕棺墓の殆どは壊れていた。他にも伊万里市二里町の杢路寺(むくろじ゙)古墳等がある。

西尾遺跡=弥生中期の後半、凡そ2100年前の墓地と中世の建物跡の複合遺跡。昭和62(1987)年に伊万里市教育委員会によって、調査が行われ、橋本遺跡や西尾遺跡は有田川の西側、国見山系から延びる丘陵の先端付近に在る。橋本遺跡の標高は凡そ6mで、西尾遺跡の標高は、凡そ12~21m。甕棺墓3基と、箱式石棺墓が1基が見つかる。

委奴国連合=奴国の中枢を佐賀県武雄市内としたが、市内から山内町に延びる道路沿いにも、一大率の役所があったと思しき武雄市西川登町板屋(いたや)。

四王寺=「百済式山城」項でも述べるが、その一つ、稲積城の比定地、福岡県北九州市門司区庄司(しょうじ→しおうじ)町・稲積・城山町の対岸、山口県下関市長府豊浦山手の司王子山には、長門城、対馬国の金田城は遠賀川沿岸の福岡県飯塚市津島・庄司(しょうじ→しおうじ)と川を挟んだ東側の同県田川郡金田(かなだ)町神崎(こうざき)付近には、同県嘉穂郡頴田町勢田(せいた)の鹿毛馬神籠石がある。

白水(はくすい)=京都府京都市上京区新白水丸(しんはくすいまる)町、鳥取県日野郡溝口町白水(しらみ)、岡山県英田郡作東町白水(しらみず)、広島県豊田郡東野町白水(しろみず)、愛媛県松山市白水(はくすい)台、福島県イワキ市内郷白水(しらみず)町、愛知県名古屋市南区白水(はくすい)町等がある。

粟津=兵庫県加古川市加古川町粟津/同県赤穂市大津・県姫路市大津区大津町、石川県小松市粟津町/同県珠洲市三崎町粟津・同県鹿島郡田鶴浜町大津、同県羽咋郡志賀町大津、福島県相馬市粟津、群馬県吾妻郡長野原町大津、茨城県北茨城市大津町、千葉県安房郡富浦町大津、神奈川県横須賀市大津町、新潟県刈羽郡西山町大津・同県岩船郡荒川町大津



スポンサーサイト
  1. 2017/08/01(火) 11:04:00|
  2. 7.傍国考
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(19)支惟国

 支[kieg][tʃıĕ][tsï]=小枝を手に持ち支える事。
 惟[dıuər][yiui][uəi]=(字統)唯・維・帷等と同声、「説文」大凡に思うなり、鳥占の意を承ける事と関係が在る。

 私見で、「隹」を陰陽・有無・良悪等の二元に関係するとしたので、漢字の語義を考え併せると、前項(20)烏奴国とも関連し、鳥占等で、豊作を祈り、災害を防ぐための神祇を掌る神官系で、死者を弔う役目を担った下属民の「奴」を使役したと考える。

 上古音を併せると、「キェッヅィゥア→ケヂゥァ→キヅァ→キダ(木田・喜田・来田)」だが、前項迄の比定地周辺部には何れも見あたらないので、「キダ→キザ→キサ」とすれば、縄文遺跡の宮の前北遺跡がある佐賀県伊万里市木須(きす)町(大野岳)、北側の同市波多津町板木・飯盛山・田代、伊万里川を挟んだ西側、同市東山代町浦川内や志佐川を見下ろす長崎県北松浦郡吉井町板樋免・福井免等、付近一帯に比定する。

 例えば、伊万里湾岸の佐賀県伊万里市大坪町六仙寺(ろくせんじ)地区午戻(うまもどし)遺跡には、弥生中期中頃(BC1世紀頃)~弥生末期(3世紀頃)に架けての墓群があり、弥生終末期の石棺墓から青銅鏡1、鉄小刀1、鉄鎌1、ガラス小玉1、弥生期の中国製完鏡等、銅鏡が王や巫覡等、権威の象徴とすれば、弥生中期~末期に架けて伊万里地方にも有力者が居たとして良い。

 「キダ→キタ/キズ→キヅ」は、三重県鈴鹿市木田町、京都府京都市下京区川端町木津屋橋、大阪府寝屋川市木田町、同府東大阪市衣摺(きずり)、兵庫県西宮市木津山町、島根県邑智郡羽須美村木須田(きずた)、同県出雲市大社町杵築(きずき)、同県大原郡木次(きすき)町木次、鳥取県日野郡溝口町貴住(きずみ)、広島県山県郡千代田町 木次(きつぎ)、山口県宇部市木田、同県小野田市杵築、香川県木田(きた)郡三木町朝倉、長崎県壱岐郡郷ノ浦町木田触、同県東彼杵郡東彼杵町口木田郷、大分県大分市木田、宮崎県延岡市柚ノ木田町、鹿児島姶良郡加治木町木田等が在る。

 沿岸航海民の投馬国連合中枢へ乗り換える港湾や沿岸水道として重要視されたのか、佐賀県伊万里市波多津町板木(いたぎ)、志佐川沿岸の長崎県北松浦郡吉井町板樋免(いたびめん)、竜尾川沿岸の同県松浦市御厨町板橋があり、一大率から検察と監察のために官卑狗(文官)や副卑奴母離(武官)が派遣された。

 尚、「記」大国主神が淤岐(おき)島から渡ってきた稲羽の素菟を助けた気多前(きたのさき)や、大分(おおきた→おおいた)にも繋がるのかも知れない。

 大阪府岸和田市大北町、兵庫県小野市喜多町、同県多可郡黒田庄町喜多、同県氷上郡市島町喜多、島根県那賀郡旭町来尾(きたを)、徳島県美馬郡美馬町大北、同県美馬郡木屋平村大北、愛媛県喜多郡河辺村北平、福岡県北九州市門司区喜多久、同県飯塚市吉北、同県京都郡犀川町喜多良等が在る。
 何れも河川流域がうねる所や中州等で、佐賀県伊万里市木須町は山麓に細長く食い込む湾岸に位置する。他にも河川沿岸や境界に多い地名「北野」も在る。

 また、中古音で「ッシェユィ→シェユィ→シヰ」とすれば、福岡県北九州市小倉南区志井、同県北九州市戸畑区椎ノ木町、同県福岡市東区香椎、同市早良区椎原、同県嘉穂郡嘉穂町椎木、同県築上郡椎田町椎田、大分県大分市椎迫、同県宇佐郡院内町椎屋、佐賀県伊万里市 南波多町笠椎、長崎県長崎市椎ノ木町、同県佐世保市椎木町、同県下県郡厳原町椎根、熊本県鹿本郡鹿北町椎持、同県八代郡泉村椎原、宮崎県児湯郡木城町椎木、同県宮崎県東臼杵郡椎葉村等があり、この国も領域を拡げたか、東遷した後、何らかの事情で、九州へ蘇ったのかも知れない。

伊万里湾岸=他にも弥生期(水田稲作)の遺跡には土井頭(でいがしら)遺跡(同市黒川町)、小物成(こもなり)遺跡(同市大坪町)、小島古墳(山代町)、銭亀古墳・夏崎古墳(同市東山代町)等が在る。

完鏡=後漢期、中国で作られたもので一部を欠く。直径19.74cm、平縁、幅1.08cm、厚さ0.44cm、内側に向かって櫛歯文帯、雲雷文帯、櫛歯文帯、8個の連弧文帯、平頂素圏、偏平な四葉座、円鈕等が見える。四葉座の間に長宜子孫(ちょうぎしそん)の銘文があり、長宜子孫銘連弧文(めいれんこもん)鏡という種類に分類される。また、鏡と一緒に見つかった他の副葬品とともに副葬品の構成や、その出土状況が分かる点で資料価値が高いものとある。
 福岡県前原市の平原遺跡から粉砕された鏡、39点(34面が中国鏡、5面が日本の彷製鏡)が出土、粉砕されていない完鏡と粉砕された鏡も同様に、王や巫覡の象徴だったのだろうが、同じ副葬品でも意味が違い、平原遺跡の被葬者は、その霊力等を封じられた。
 また、景行天皇の熊襲討伐経路の宮崎県東臼杵郡南郷村神門には百済王を祀る神門神社が在り、33面の銅鏡が奉納される。残念ながら、後漢期や三国期の中国製ではないので、卑彌呼に下賜された銅鏡の百枚には関係ない。ただ、「33」と云う数字にも何らかの意味があると思う。

キズ→キヅ=三重県南牟婁郡紀和町木津呂・板屋、滋賀県蒲生郡日野町木津、和歌山県海南市木津・大野、奈良県吉野郡東吉野村木津川・萩原、京都府京都市伏見区淀木津町、同府相楽郡木津町木津・大野山、同府竹野郡網野町木津(きつ)、大阪府大阪市浪速区木津川、同府東大阪市衣摺(きずり)・豊浦町、兵庫県神戸市北区淡河(おうご)町木津、兵庫県神戸市西区押部谷(おしべだに)町木津、同県赤穂市 木津、同県川辺郡猪名川町木津、和歌山県海南市木津、島根県那賀郡弥栄村木都賀(きつか)、同県邑智郡羽須美村木須田(きずた)、鳥取県日野郡溝口町貴住(きずみ)、徳島県鳴門市大津町木津野(丹生神社)、徳島県鳴門市撫養(むや)町木津・同県板野郡(吉野川)。

稲羽の素菟=「古事記」大国主神の兄弟には八十神が居り、夫々、稲羽の八上比売を妻にしたいという心を持っていた。その八十神と共に稲羽に出かけた時、大穴牟遅神に袋を背負わせ、従者として連れて行った。尚、淤[・ıag][・ıo][iu] 岐[gieg][giĕ][k`i]の中古音に拠り、「ィオキェ→ヨキ→ヤキ」とすれば、邪馬壹国の官伊支馬(イァケマ→ヤキマ)との関連が考えられる。
 雨の前兆とされる辰巳の風、東日本、関東で海から吹く南東/南西の強風の「いなさ」に吹かれたのか、長崎県西彼杵郡香焼(こうやぎ)町丹馬の東北側、同県長崎市出雲・稲佐、島根県簸川郡(出雲市)大社町杵築・稲佐浜・鷺浦も伊奈西波岐神社の摂社に白兔神が祀られる。
 焼火神社(たきび/たくひ)=大日孁尊は、島根県隠岐郡西ノ島町の火山(452m)焼火山中腹にある焼火神社は日本海の船人に海上安全の神と崇められている。焼火神社(大日孁尊/比奈麻治比賣命)長崎県西海市西海町七釜郷1814番地

 気多前(きたのさき)に来た時、丸裸の兎が伏せっていた。八十神は、海の潮を浴び、高い山の峰上で風の吹かれて伏せよ。と言った。その教えに従うと、潮が乾くにつれて、その身の皮は、悉く裂け、痛み苦しみ、泣き伏せっていると、最後にやって来た大穴牟遅神が、どうしておまえは泣き伏せっているのか。と言った。
 僕は、淤岐島から、この地に渡ろうと思いましたが、渡る術がありませんので、海の鰐(和邇)を欺き、私とお前と仲間の多い少ないを数えよう。そこで、お前は仲間を従え、この島から気多前迄、列になって伏して並べ。その上を私が走りながら数えて渡り、何れが多いかを知ろう。
 海民の和邇(わに)は欺かれ、列になって伏せったので、その上を踏んで数えながら渡って来て、いざ地面に下りようとした時、お前は、私に欺かれたのだと言い終わるや、一番端に伏せっていた和邇(わに)が、私を捕え、悉く衣服を剥いでしまったのです。

北野=滋賀県野洲郡野洲町北野、同県東浅井郡浅井町北野、京都府京都市右京区嵯峨野北野町、大阪府大阪市淀川区新北野、同府泉南市北野、兵庫県姫路市飾東町北野、同県姫路市広畑区北野町、同県赤穂市北野中、同県篠山市北野、同県川辺郡猪名川町北野、同県加東郡滝野町北野、同県氷上郡氷上町北野、奈良県山辺郡山添村北野、同県吉野郡大淀町北野、和歌山県海草郡美里町北野、鳥取県倉吉市北野、岡山県御津郡御津町北野、愛媛県宇摩郡土居町北野、福岡県三井郡北野町大城(おおき)、長崎県南高来郡小浜町北野等、天満宮に関係するか。
 尚、「喜多」「喜田」「木田」は河川や道路が集まり、入り交じる所や、湾が細長く入り込んだ所、河川の流域が大きくうねる所に多い。広辞苑「きた」項、東京都23区の一つ荒川の右岸にあり、旧滝野川・王子両区を統合。大阪市北区の大阪駅南東一帯の繁華街の俗称。江戸の吉原、大坂の曾根崎新地・北浜等の俗称。



  1. 2017/08/08(火) 21:43:47|
  2. 7.傍国考
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(18)巴利国

  (18)巴利国

 使われる漢字は以下の如くある。

 巴[păg][pă][pa]=(字統)器の把手の形。「説文」蟲なり、象を食う蛇なりとし、字を蛇形に解する。邑[・ıәp][ıәp][iәi]=(字統)囗(国構・イ)=城壁を巡らせた所と、巴=多くの人が生活するとある。
 利[lıed][lıi][li]=禾と刀の会意文字で、禾稲を刈り、収益を得る事=利益とある。(字統)金文には犂鋤や犂の形で見える。

 漢字音を併せると、「パェッリェッ→ペレ→パリ→ハリ」で、近似音の地名「原・春・針・丸(はら→はる→ばり→まる)」等がある。先述の福岡県福岡市博多区金隈西側、同県春日市春日原、東側の福岡県宗像市武丸・三郎丸等、河原や川縁の泥濘地に治水を施して開墾した耕作地をを持つ治国・墾国で、他にも筑後川や遠賀川沿岸部の治水工事に拠る耕作地や、河口付近の泥濘地に多い地名になりそうだが、比定地の流れに順い付近の地図を見ると、海岸から切り立った崖が多く、河原や扇状地の拡がる地形ではないので、水田等の耕作地、墾・治(はり)を国名にするには無理がある。

 そこで「ペレ→ペリ→ヘリ」とすれば、九州西北沿岸の縁(へり)、長崎県北松浦郡田平(たびら)町里免・荻田免・一関免・亀免一帯になる。付近の里田原遺跡では、鍬や鋤等の農業用具、弓やタモ網等の漁労用具、杓文字や藤籠といった生活用具等、多数の木製用具が発見され、水田へ水を引き込むための水門や板や杭を用いた護岸の遺構が検出された。
 用字は、長崎県北松浦郡田平(たびら→テヌベラ)町に付く同県平戸市の地形から器と把手に擬えたのかも知れないが、「説文解字」の巴=蟲なり、象を食う蛇なりとあり、委奴国連合宗主国の奴国を分岐点にして南西方へ向かった傍国(14)為吾(ヲギ/ハギ)国の「為」の語義、象を使役する事に関連し、為吾国の人々を使役して犂鋤等を用いて治水工事を施す技術者集団で、水路等の土木工事を掌る人々と考えられる。
 尚、田平町荻田免(をぎためん)とあり、「為吾国」項でも述べるが、その訓音「ヲギ/ハギ」とも関連し、「利」=犂鋤の形とされる事から、鐴(へら)=犂(からすき)の耳、犂先(すきさき)の後方にあって土塊を反して砕く部分で、平に均す事にも繋がり、何らかの農耕民との繋がりを無視できないと考える。

 また、長崎県北松浦郡田平町一関免(いちせきめん)と在り、古来、ここは肥前(長崎県)や薩摩(鹿児島)へ向かう重要な沿岸航路の水道で、邪馬壹国伊都国連合に於ても投馬国の動向を監視する重要な関所だったと考えられるが、何故か、付近に「イタ」と訓む地名は見えない。
 ただ、支惟(きだ)国との中間、長崎県松浦市御厨町板橋免・木場免・里免・亀免付近の最高峰と思しき「大岳」に山城があったとすれば、南西側を除き、略全域が見渡せたと考えられる。
 例えば、烏奴(大野)国・支惟(木須・木田)国の大野岳から同県平戸市大野町・田代・宝亀町(飯盛山)、同県北松浦郡鹿町町大野、同県西彼杵郡外海町神浦大野郷(大野岳)とあり、狗奴国の北上に拠り、支配権が変化したのか、烏奴国の支配を受けたとも考えられる。おそらく、追われた邪馬壹国伊都国連合に代わり、烏奴国に順う人々が武人として任用されたのかも知れない。
 740年に兵を起こした藤原式家宇合の子、広嗣の乱を鎮めた大将軍大野東人と副将軍紀飯麿とある。斯馬国とした佐賀県唐津市浜玉町五反田(ごたんだ)の大村で斬首されたと伝承される。彼を祭神とする大村神社の西南、松浦川を遡上した佐賀県東松浦郡(現唐津市)相知町大野、そこから支流の厳木川を遡上した東南には伊都国の比定地とした同郡(現唐津市)厳木(きうらぎ)町浦川内がある。
 
字統=漢字学者の白川静氏が、中国の古い金文等を用いて漢字の形状から読み解いた辞典。

田平町=大分県宇佐郡院内町田平・荻迫・櫛野があり、烏奴(大野)国の支配を嫌った巴利(へり)国と躬臣(くし)国は東遷したのかも知れない。肥国=建日向日豊久士比泥別と考えられる。

○里田原遺跡(平戸市田平町里免)=縄文時代・弥生時代、花粉分析によると、夜臼式土器の時期には、イネ属型の花粉や重弁が急増する。そして船の用材か、椎の木属、赤樫亜属等の照葉樹林の主要構成種の花粉が極端に減少する。また、イネ属型ともに沢潟属、水葵属等の水田雑草の花粉も増加する。この結果から夜臼式時期には、水田稲作農業が導入された事が明らかになった。夜臼式の時期に稲作が開始されていたのはプラントオパールの分析結果からも判明している。
 また、支石墓も確認されており、弥生時代当時としては最先端の文化が根付いた集落が存在した。
○中野ノ辻遺跡(平戸市北松浦郡)田平町荻田免中野ノ辻)=弥生時代・古墳時代 、標高60m、幅50m程の北側に延びる低丘陵上に21基の箱式石棺を検出。石棺は長さが110㎝以下の小型のもの、110~130㎝の中型、160~180㎝の大型のものに分けられ、夫々、小児用と成人用とに分けられる。
 石棺の主軸は東西を向き、頭は東を向いている。副葬品は 7基の石棺から出土しているが、 ガラス製小玉の他には管玉、鉄刀子が見られる程度である。時期的には石棺の構造と副葬品から見て、弥生時代末から古墳時代初頭に属するものと推定される。主な遺構として箱式石棺21基。

(14)為吾国=長崎県佐世保市萩坂(はぎさか)・同県東彼杵郡川棚町小串(をぐし)郷・白岳付近一帯に比定する。*招(をぐ)/剥(はぐ)・接(はぐ)

鐴(へら)=箆=竹・木・象牙・金属を細長く平らに削り、やや先端を尖らせた道具。折り目・標をつける。漆・糊を練ったり塗ったりするのに用いる。

大岳=長崎県松浦市御厨町板橋免・木場免・里免の大岳に山城が在ったと云う資料は見あたらないが、同県北松浦郡(平戸市)田平町里免には里城が在り、その死角になる南側、長崎県北松浦郡佐々(さざ)町木場免・里免・羽須和(はすわ)免(東光寺山城)にも佐々浦を見渡す位置に「大岳」、佐々(さざ)川を挟み西側、同町古川免の城辻山には鳥屋城が在る。尚、何れも詳細な資料がないので、建造年代等は不明。

大野東人=系図資料に「飯麿」は見えない。多氏や大野氏に東人は見えない。ただ、縣犬養宿禰祖東人(630年頃)、阿智大蔵氏後裔坂上東人(680年頃)、車持国子後裔東人(680年頃)、尾張宿禰大隅の孫、東人(不詳)、もう一人、恵美押勝の乱(706~764)に功があったとされる紀国造天道根命後裔(中略)「豊布流」の流れ伊蘇志臣東人(不詳)、「豊布流」祖の兄弟の流れ「大名草彦」後裔には大村宿禰(直)忠澄とある。
 伊蘇志臣東人の子、宗像朝臣綿麿(820年頃?)は、年代に開きが在り、再興したのかも知れない。大名草彦の父とも云われる久志多麻(くしたま/くちたま)彦とあり、更には、大名草彦の玄孫には紀直豊布流とも在る。


  1. 2017/08/17(木) 00:20:18|
  2. 7.傍国考
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

(17)躬臣国

 躬[kıoŋ][kıoŋ][kioŋ]=弓(屈曲)と身との会意文字、身を屈めた状態を表す。
 臣[ghien][ʒıĕn][tʃ`ıen]=(字統)目を上げて見る形、その瞳を示す字形で、望の初文もその形に従い、王族出身の身分を示す文字。

 白川静編「字統」臣は、元々、神事等、聖職に従う者、神殿に捧げられた者(臣工)とあり、神祇官等は王朝が代わる毎に、その地位を失い「儀礼」夏祝・商祝等、死体を扱う最も低い職分とされた。後代、農業生産等が拡大すると、彼等の中から管理に任る者が生まれたとされる。
 当初、神官や神祇官を掌る国で、祖神に対して祈る一大率の大官卑狗(神祇官)を派遣する国で、前項の(18)巴利国や、(14)為吾国と共に農業生産の向上を祈念する神祇官と、その管理も兼務したのだろう。

 漢字の音を併せると、「キォヌヂェヌ→コヌヂ゙ヌ→クヂヌ→クチ(クジヌ→クシ)」になり、比定地の流れに順い、地形も考え併せると、前項の巴利(へり)国を廻り、南下した長崎県北松浦郡鹿町町口ノ里免長串免白岳神社)・大野木場(大観山)・関里、同郡佐々町里免・木場免(大岳)、同郡小佐々町口石免(三柱神社)・楠泊免(姫神社/豊玉姫)・矢岳(勝手神社)、同県佐世保市江迎町猪調(串田神社・天若子命)付近一帯に比定する。

 「クジ(クチ)/クシ(カシ)」=河川沿岸部や海岸や湾岸等の境界とすれば、九州西沿岸部を南下、早岐(はいき)瀬戸を通り、大村湾へ向かう出入口に位置する国で、漢字の語義から造船を担い、「東夷伝倭人条」禊ぎして航海安全を祈願、それを託される持衰(じさい)を排出する国と考える。

 関連の地名は、串野(くしの)・櫛野・串田(くしだ)・櫛田・岸田(きしだ)等があり、「くし」は、九州管内に以下がある。 

 長崎県西彼杵郡西彼町大串郷、同県東彼杵郡川棚町小串(をぐし)郷、同県大村市玖島(くしま)、同県南高来郡南串山町、同県南松浦郡奈留町大串郷、同県南松浦郡新魚目町小串(こぐし)郷、同県上県郡峰町櫛、福岡県朝倉郡夜須町櫛木、佐賀県佐賀郡富士町大串、同県東松浦郡鎮西町串、大分県日田市串川町、同県日田市二串町、同県東国東郡国見町櫛来・櫛海(くしみ)、同県南海部郡蒲江町猪串浦、同県宇佐郡院内町櫛野、宮崎県延岡市櫛津町、同県串間市串間、鹿児島串木野市口之町、同県揖宿郡喜入町瀬々串、同県川辺郡坊津町久志・同県肝属郡串良町。

 「記」肥国=建日向日豊久士(くじ)比泥別、皇孫邇邇芸命が天降った久士布流多気(「紀」槵觸之峯)、北部九州の称、築岸(チクキシ)→筑紫(チクシ/ツクシ)等に繋がり、誓約(うけいひ)後の乱暴狼藉に因り、高天原から神遣いされたスサノヲ命が出雲肥河上でヤマタノヲロチを退治する時、櫛(くし)に変えて御髪(おぐし)に挿した櫛名田比賣(「紀」奇稲田姫)にも関連がある。
 「記」天照大御神との誓約後、神遣いされた建速須佐之男命は、その冠称「速(はや→はぃえ)」=南風(はえ)に吹かれて北上、出雲の肥河上でヤマタのヲロチを退治した後、大山津見神後裔の櫛名田比賣を娶り、妻を出雲の八重垣(神籠石に囲まれた内側)に籠める。
 一方で、尾を斬り裂くと出てきた「記」草那芸大刀→「紀」天叢雲(あめのむらくもの)剣を天照大御神(天照大神)に献上すると、東風(くち→こち)が吹き、天気は下り坂で雨が降るのか、皇孫と天宇受賣(あめのうずめ)命が猿田彦に先導され、天降りする。

 これを「クチ→コチ→カチ」とすれば、宮地嶽神社の村大神頼大神や、天降りしなかった勝勝速日天之忍穂耳命にも繋がり、福岡県鞍手郡小竹町勝野(かちの→かつの)等も同地名かも知れない。 

白岳神社=祭神「伊奘美・素戔嗚尊・伊奘諾」。大分郡挾間町大字谷の白岳神社「伊邪那美命、速玉男命、泉都(よもつ)事解男命」、後鳥羽天皇の御代・建久の頃、熊野三社の分霊を勧請、祭神「素戔嗚尊・稲田姫・大己貴命他」。

大野=長崎県北松浦郡(現佐世保市)鹿町町口ノ里免東側、深江免の台地上、縄文~弥生時代に架けての大野台支石墓群。他にも、相浦川流域の佐世保市下本山町四反田遺跡は、縄文晩期から弥生前期の住居跡が21棟と屋外炉跡、貯蔵穴、墓地、水田跡等が検出された。弥生時代の集落である四反田遺跡や門前遺跡を含む地域一帯は、遺跡の内容からして拠点集落として位置づけられ、時代の変遷での遺跡のあり方を示す。
 縄文晩期~弥生前期の住居跡21棟、土坑100基、屋外炉跡29基、石棺墓、支石墓、甕棺、土坑墓、水田跡等。主に弥生時代前期後半から中期のものとみられる竪穴式住居集落と墓地及び長崎県内では初めての発見となった水田跡が発掘された。
 集落跡は東西約80m、南北約40mの楕円状に広がり、竪穴式住居跡は円形状で中央に炉を配する初期の二本柱のものと後期の四本柱以上をもつやや大型のものが合計20棟、水田跡は、弥生時代中期初頭のものとみられる小規模かつ不定形の9面が確認されている。
 本遺跡の特徴としては、古代から中世にかけての遺物・遺構が見られ、12世紀中葉から13世紀初頭にかけての白磁が多い。また、空堀からは中国磁州窯の陶器壺や白磁、土師器、石鍋等が出土しており、時期的には14世紀中葉から後葉に比定される事から、城の築城時期に関わる遺物として注目される。

勝手(かつて)神社=大己貴命・少童命、京都府長岡京市栗生清水谷の子守勝手神社(南側に光明寺)水分神・天忍穂耳尊・大山祇命、京都府宇治市小倉町寺内の巨椋神社摂社、勝手神社「手力男神」、奈良市油阪町の勝手神社「事代主命」。

くし=三重県松阪市櫛田町・同県伊勢市神田久志本町、京都府京都市上京区櫛笥町、大阪府堺市櫛屋町、同府茨木市玉櫛、同府東大阪市玉串町、兵庫県篠山市井串、同県佐用郡月町櫛田、奈良県御所市櫛羅、和歌山県日高郡美山村 串本、同県西牟婁郡大塔村串、同県西牟婁郡串本町串本・出雲(いつも)、鳥取県岩美郡福部村久志羅、島根県安来市久白町、岡山県岡山市小串(こぐし)、同県倉敷市串田、広島県安芸郡江田島町切串、同県豊田郡大崎町大串、同県比婆郡東城町小串(をぐし)、山口県豊浦郡豊浦町小串(こぐし)、同県宇部市小串(こぐし)、同県徳山市櫛ケ浜、同県佐波郡徳地町串、徳島県鳴門市北灘町櫛木、同県小松島市櫛淵町、同県海部郡海部町櫛川、香川県善通寺市櫛梨町、同県仲多度郡琴平町櫛梨、愛媛県越智郡弓削町久司浦(くじら)、同県伊予郡双海町串、同県西宇和郡三崎町串、同県南宇和郡内海村家串、高知県土佐清水市竜串、同県高岡郡窪川町茂串町、同県高岡郡窪川町平串

久士布流多気=九重(クシフ→クジュウ)と関係があるのだろうが、語義は、久志布(クチェイホ→クッシフ)・久士布(クジェイホ→クジホ→クシフ)「紀」槵觸之峯は槵(岸=境界)+触(共有)+峯(山頂)=境界(くし)の山頂(ほ)=国境の山で、天降りの地と伝承される高千穂(カゥチホ→クチホ→クシフ)も、国境の前線基地になる。
 長崎県の壱岐に見られる行政区画の「~触(ふれ)」も境界を共有するとして良い。*志[tiəg][tʃıei][tsï]・士[dziəg][dziei][sï]・布[pag][po][pu]

神籠石=何らかの宗教施設か、山城か、次章の「神籠石考」でも述べるが、邪馬壹国の傍国と神籠石、宮地嶽神社(山名の宮地岳)の配置も似た関係に在る。

宮地嶽神社=「私説」伊都国の比定地、佐賀県多久市北多久町多久原にもあり、伊都国の比定地(「私説」已百支国の比定地)とされる福岡県前原市多久にある託社(たくしゃ)神社(伊弉諾命、伊弉册命、瓊瓊杵命、埴安命彦、火火出見命、鵜草葺不合尊、木花開耶姫命)は、西側に宮地岳を見る。本来、託杜咩(たくとめ)神が祀られていたが、慶応年間、十六天神を村名に拠り、改名したとある。
 その村名が「多久」であった由緒は定かではない。その託杜咩神は託宣の神で、本殿背後の左右に木々は繁るが、その背後には植えられておらず、奥に見える丘を祀っているとされる。その東、同市高祖(高祖神社)の南側にも宮地嶽神社(同市作出)がある。


  1. 2017/08/24(木) 08:44:02|
  2. 7.傍国考
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:1