見まごう邪馬台国

◇倭人と呉太伯

 福岡県前原市雷山の雷山神籠石は邪馬壹国伊都国連合の傍国「已百支国」の比定地、福岡県前原市多久有田高田・板持・王丸(白木神社/五十猛命)・荻浦、同県糸島郡二丈町唐原・道元南側、雷山北側の尾根に築かれた神籠石で、西北側に宮地岳、その西側に宮地嶽神社(同市高祖)が見える。前面には同郡二丈町一貴山弥生遺跡や、前原市街北側の同郡志摩町を隔てる糸島水道や玄海灘を望む。
 その糸島郡二丈町や前原市街北側、糸島半島の筑紫富士の可也山南麓に、「紀」景行天皇の熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟(とどろき→どめき)」と同語源と云われる同県糸島郡志摩町道目木桜井桜井神社)・香月、西側の松浦半島、佐賀県東松浦郡玄海町轟木、南側に佐賀県鳥栖市轟木・高田がある。
 「紀」熊襲討伐と巡狩を終えた景行天皇は、浮羽(うくは)から討伐経路の日向に戻り、大和へ帰還する。ただ、公共交通機関や高速道路等が整備された現代ならば、いざ知らず、河川を利用した陸行か、沿岸航行以外に移動手段のなかった古代、そうした無駄な動きはしない。
 「紀」垂仁天皇の皇后狭穂姫とするが、「記」沙本毘古命の妹佐波遅比賣命とし、兄沙本毘古と共に謀反するとあり、熊襲討伐や巡狩の進行経路の流れに順うと、始発地の周防娑婆は、山口県佐波郡ではなく、福岡県浮羽郡吉井町桜井・若宮から筑後川北岸の同県朝倉市杷木町久喜宮(杷木神籠石)に渡り、佐賀県鳥栖市轟木から福岡県前原市と同県福岡市西区境、日向(ひなた)峠を越えた同県二丈町佐波や福井付近で、後代、周防娑麼へ東遷したと考える。

 福岡県前原市多久の託杜神社は、本来、託杜咩(たくとめ)神が祀られていたが、慶応年間、十六天神を村名に拠り、改名したとある。村名「多久」であった由緒は定かではない。その託杜咩神は託宣の神で、本殿背後の左右に木々は繁るが、真後ろには植えられておらず、奥に見える丘を祀っているとある。
 また、丹生広良氏の丹生神社と丹生氏の研究に拠ると託杜咩神は丹生都比売神の異称とする。一方、此処は新羅の天日矛(あめのひぼこ)との繋がりが強いので、赤留比売(あかるひめ)神とも云われる。

 尚、中国神話と歴史を繋ぐ実在した夏王朝や殷王朝、周王朝の王子太伯は、聖人とされた末弟に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、文身断髪した。太伯は、自ら勾呉と号し、呉の太伯と呼ばれた。
 「魏志東夷伝」倭人は大夫を自称したとある。周王朝末の小氷期、春秋(BC770~BC402)の動乱期、揚子江南岸の江南には越と呉の強国が興り、相争った。呉は太伯、越は禹の苗裔夏后帝少康後裔と称した。ともに「夷」だが、「華」の後裔を称す。
 そのBC5~BC3世紀頃、春秋時代から小国家が分立して相争う戦国時代、越の攻勢に大陸東南部から追われた呉太伯の血を嗣ぐ美しい姫、大日女と稚日女は倭国に渡来、文化や技術、水耕稲作や金属の使用を教えて国土開拓を導びいた二人は、天照大神と丹生都姫神に化体されたとも云われる。

 自国を誇り、漢民族が自称した華夏(華=文華・夏=大の意)とは、文華の開けた国や都の意味で、周王朝に与した殷王朝()、王朝の人々(母系?)を併せたとすれば、その三つ巴(鼎)が「漢」として良い。その枠組みに属さず、大陸周辺部に追い遣られた胡、夷に押し出されて南中国や東南アジアへ逃れた人々、中でも東南部に逃れた東夷が耕作民や海民を伴い南西諸島を経て西九州へ渡来した人々が倭人と呼ばれ、委奴国連合を構成したと考えられる。その後、東北部の満州から朝鮮半島に逃れた人々(朝鮮族)も大陸東岸の沿岸航海民(韓族?)を伴い渡来して邪馬壹国の中枢を担ったと考える。

唐原(とうばる)=糸島市二丈満吉北部、標高約330mの山間に在る小さな集落、唐原(とうばる)には平家の落人に纏わる悲しい伝承がある。平安末期、この里に平清盛の嫡男重盛の内室(妻)と二人の姫等が逃げ延びて安住の地を得たのも束の間、源氏の追っ手により、悲惨な最期を遂げた。残った家臣達も後を追って死のうとしたが、内室と姫達の霊を弔うために思い止まり、農耕を行いながら、この地に住み着いた。今も内室や姫等の墓や、都を懐かしんだ都見石、重盛の遺髪を納めた黒髪塚、姫達が、その前で舞ったとされる千寿院の滝等が残る。
 尚、九州管内には、福岡県築上郡大平村唐原の唐原神籠石、同県岡市東区唐原(とうのはる)が見える。

桜井神社=神直日神・大直日神・八十枉津日(やそまがつひ)神を祀る。地名「桜井」は、福岡県浮羽郡(現うきは市)吉井町桜井・宮田、同県朝倉郡(現朝倉市)朝倉町、京都府京都市北区上賀茂桜井町・出雲路、同府京都市上京区桜井町、大阪府富田林市桜井町・五軒家、同府三島郡島本町桜井、奈良県桜井市桜井・朝倉台・出雲・高田、愛媛県今治市桜井、同県越智郡(現今治市)朝倉村朝倉、高知県高知市桜井町・朝倉(朝倉神社)・福井町、熊本県水俣市桜井町。
 朝倉神社「天津羽羽神、天豐財重日足姫天皇」、天津羽羽神は天石帆別神、天石門別神の御子。斉明天皇御陵地は、当社から3km西南の鵜来巣山にある。また、福岡県朝倉郡(現朝倉市)朝倉町須川・長安寺付近、斉明天皇の陵墓伝承地「橘の広庭」がある。 
 欽明天皇の子桜井皇子の娘吉備姫王[吉備島皇祖母命](茅淳王妃・皇極/斉明天皇・孝徳天皇母)、紀伊国造後裔桜井氏、後漢霊帝後裔阿智使主後裔桜井氏等が見える。

丹生都比売神=和歌山県伊都(いと)郡高野町慈尊院835の慈尊院の境内にある丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社とある。
 ●丹生都比売大神(丹生明神)・丹生高野御子大神(高野明神)・狩場明神
 ●丹生都姫神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野30)
 丹生都比売大神(丹生明神)・丹生大明神(神告門では天照大神の妹稚日女命)・丹生高野御子大神(高野明神)・大食都比売大神(気比明神)・市杵島比売大神(厳島明神)。丹生とは水銀を含む赤土で、その発掘に関わった氏神とも云われる。また、水分(みくまり)の神とも言われ、水を与え、水の配分を司った。 空海に高野山を譲った神としての伝承で有名。空海の資金源は水銀であった。
 ●田殿丹生(たどのにゅう)神社 和歌山県有田郡吉備町出335
 丹生都比売命(丹生大明神 天照皇大神の妹神)・大名草彦命(高野大明神 丹生大明神の御子神)
 配祀神 天照皇大神,菊理姫命、大穴牟遅命、八柱御子神、大物主命他
 境内社 夏瀬神社、白山神社(山頂)、吉備神社、春日神社、弁財天神
 ●丹生神社・丹生都姫(佐賀県嬉野郡嬉野温泉)、丹生川、塩田川上流に祀る。下流に稲佐神社、妻山神社、多良嶽神(五十猛命)が祀られる。

 ただ、託杜神社祭神の伊弉諾命、伊弉册命、瓊瓊杵命、埴安命彦、火火出見命、鵜草葺不合尊、木花開耶姫命とあり、何れが託杜咩神にあたるのだろうか。

赤留比売神=杭全神社摂社赤留比売神社(大阪府大阪市平野区平野東2-10) 半島系渡来族出石人の太陽女神とされている。
 ●楯原神社(大阪市平野区喜連6-1-38)
 武甕槌大神、大国主大神、孝元天皇、菅原道真、本来は、赤留姫命 配祀 豊玉彦命、豊珠姫命、境内摂社 十種神宝大神
 河内国伎人(くれひと)郷で、崇神天皇御代の創建とされる式内社。赤留比売を祭神とする理由は、平野郷の赤留比売神社(杭全神社摂社)より勧請した龍王社を合祀し、境内の別宮に祀り、奥の宮と称していたのを、現在は合殿している。
 住吉郡式内小社。現在は杭全神社の飛び地摂社で「三十歩社」と呼んでいる。 かっては住吉大社の末社であった。 三品彰英は「神妻である童女・赤留比賣命の原態は巫女、即ち、祀る者であり、祀られる神である天日鉾は巫女に招祷される存在であるが故に、彼女の到る地に従い、その後を追わねばならなかった。   歴史的に云えば、巫女の宗祇が伝来し、彼女ら日鉾族の移動に従って天日鉾の遍歴物語が構成されることになった。尚、巫女である祀る者が祀られる者に昇華する時、巫女は比売許曽社の女神となる」とある。佐賀県鳥栖市轟木東北側、姫方に姫古曽神社。
 天日鉾の遍歴物語は、都怒我阿羅斯等の物語とも重なり、兵主神社の分布もあわせて、日本の古代の王権の成立に深く関わる出来事であったようだ。

夏王朝や殷王朝=陳寿は、倭人の風習や慣習から中国大陸の東南部に向かった夏后少康の伝承を持ち出し、よくに似るとする。越は、夏王朝「禹」苗裔の夏后少康の流れを称したとされる。また、周王朝の王子呉太伯が殷王朝の関係者に関わりが在り、主流から外れたとすれば、両者は王朝交替の動乱で追われたとも考えられ、漢民族とは、この三王朝の併合として良い。それが天命を受けた王の神器で、三本足の鼎(かなへ)に化体された。


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  1. 2017/10/11(水) 14:38:39|
  2. 8.神籠石
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◇連合国境

 鹿毛馬(かけのうま)神籠石は、遠賀川支流の穂波川中流域東側、福岡県嘉穂郡頴田町鹿毛馬の小丘陵(海抜80㍍)上に築かれる。城壁の延長は約2kmで、今でも1m程の切石を並べた列石が延々と連なる。麓の谷にある城門と水門二箇所が発掘調査された。
 おそらく、邪馬壹国伊都国連合の傍国「不呼(はは)国」の比定地、福岡県嘉穂郡穂波町天道・高田(たかた)、同郡桂川町馬場島(蓑島神社)・土師・出雲・鶴田、同郡碓井町臼井付近一帯を望む位置どりと考えられる。
 ただ、前項の雷山神籠石と同様、北の同県直方市上頓野(秋葉神社/火産霊・迦具土神)に「道目木」はあるが、何故か、宮地岳や宮地嶽神社は見えない。

 上記、神籠石東南に在る御所ヶ谷神籠石は、同県田川郡香春町の河内王墓参考地の鏡山大神社(神功皇后/仲哀天皇)から仲哀隧道を抜けた同県行橋市津積と同県京都郡勝山町(現みやこ町)大久保・浦河内の境、傍国の比定地境界と思しきホトギ山頂付近から北と東に延びる尾根に築かれ、北部九州の東側、豊国の官衙を見下ろす。
 城壁の延長は約3km、高さ3~5mの土塁底部には列石が連なる。七ヶ所に城門・水門が在り、その中門は幅30m・高さ7~8mの大規模なもので、東門脇に礎石造りの大型建物が在り、神籠石としては終末期の築造とされる。
 この一帯には、「景行紀」熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟」や「道目木」、宮地岳や宮地嶽神社の何れも見えないが、この南東の海岸沿い、女王国連合の傍国比定地域から外れた福岡県築上郡大平村唐原の周防灘を望む小丘陵に位置する唐原神籠石があり、御所ヶ谷神籠石との中間付近、福岡県豊前市吉木はあるが、この付近にも宮地岳や宮地嶽神社は見えない。

 上記、神籠石の遥か西南側、有明海沿岸部の佐賀県佐賀市久保泉町上分(勝宿神社/勝宿大明神)の帯隈山神籠石は、同市金立町千布に在る縄文早期の東明遺跡東側、帯隈山頂付近を起点として東西の尾根筋に築かれる。城壁の総延長は約2.4㎞、山頂北に北門跡が確認されたが、南側の谷は水田や用水池として開発されたのか、水門や城門jは残っていない。
 佐賀市街地と南の有明海を望む位置にある。先述した邪馬壹国伊都国連合の傍国、蘇奴(せのを)国の比定地の西側になる。「景行紀」熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟」や「道目木」、宮地岳や宮地嶽神社の何れも見えないが、先の香春町「鏡山(呉山)」と同じ山名が帯隈山神籠石西側、佐賀県小城郡(現小城市)小城町と、伊都国の比定地、同県多久市との間にも在る。
 佐賀県佐賀市兵庫町・巨勢町・伊勢町や同県神埼郡神埼町仁比山の仁比山神社(松尾大社分霊大山咋神・鴨玉依姫・日本武尊他)等が見える。

 もう一つ、その南西側、オツボ山神籠石(佐賀県武雄市橘町大日・楢原)は、市内東側の杵島山西麓の小丘陵にある。城壁の全長は約1.8km、途中、6ヶ所の城門・水門がある。長さ1m位の切石を一列一段に敷き並べる列石と、その上面と背面に版築による土塁を築き、土塁の前面には平均3m間隔で柱穴列が検出された。尚、当初、唐尺の一尺(29.5cm)として七世紀後半の築造と判断されたが、このような構造は殆どの神籠石に共通しており、特有のものとされるので、南朝(420~589年)の小尺「24.5㎝」での略十二尺とされる。こうした単位が使う系統の人々が、他にも居たのかも知れない。

 この付近にも「景行紀」熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟」や「道目木」、宮地岳や宮地嶽神社の何れも見えない。更に云えば、有明海側から見ると杵島連峰の陰になり、六角川の流れる武雄市街を望む位置に築かれるので、神籠石は山城で、委奴国連合宗主国、奴国の動向を監視、警戒したと考える。
神籠石 
高田=滋賀県長浜市高田(たかだ)町・宮司町、同県東浅井郡湖北町高田(たかた)・馬渡(もうたり)、同県伊香郡高月町東高田(たかだ)、京都府京都市中京区高田町、同府京都市中京区壬生東高田(たかた)町、同府京都市南区唐橋高田(たかだ)町、同府京都市南区久世高田町、同府京都市右京区西院高田町、同府京都市右京区嵯峨野高田町、同府京都市伏見区醍醐高田、同府相楽郡加茂町高田(たかた)、大阪府枚方市 高田(こうだ)、同府茨木市高田(たかだ)町、兵庫県姫路市網干区高田、兵庫県尼崎市高田町(たかた)、同県西脇市高田井(こうだい)町、同県小野市 高田(たかた)町、同県赤穂郡上郡町高田台、同県朝来郡和田山町高田・宮田、奈良県大和高田(たかだ)市高田、同県大和郡山市高田町豊浦町、同県桜井市高田(たかた)・朝倉・出雲、和歌山県新宮市高田、同県伊都郡カツラギ町高田(たかだ)・萩原、鳥取県西伯郡名和町高田、島根県浜田市高田町(たかた)・同県仁多郡仁多町高田・亀嵩(かめだけ)、岡山県岡山市高田(たかだ)、同県和気郡吉永町高田(たかた)・ 同県和気郡吉永町高田・同県真庭郡勝山町高田、広島県佐伯郡能美町高田、同県高田郡甲田町高田原、愛媛県新居浜市高田・同県北条市高田・院内・萩原、同県東予市高田・大野、同県越智郡菊間町高田(こうだ)・同県北宇和郡津島町 高田(たかた)、福岡県北九州市門司区高田(たかだ)、同県北九州市小倉北区新高田・金田、同県豊前市高田(たかた)・吉木、同県前原市高田・有田・王丸・荻浦(をぎのうら)、同県糟屋郡篠栗町高田・萩尾(はぎのを)、同県朝倉郡三輪町高田・奈良、佐賀県鳥栖市高田・轟木町、長崎県福江市高田(こうだ)町・大津町、同県西彼杵郡長与町高田郷・山田、熊本県菊池郡七城町高田(たかた)、大分県豊後高田市高田(たかだ)・佐野、鹿児島川辺郡川辺町高田(たかた)・馬場

道目木=地図にはないが、邪馬国の比定地とした長崎県西彼杵郡(現西海市)西彼町亀浦郷・亀岳・木場・八木原郷背後の白岳を越えた西側、同郡大瀬戸町道目木・板浦には、城ノ尾岳があり、神籠石か、山城があったのかも知れない。また、熊本県本渡市(現天草市)枦宇土町道目木・亀場町亀川がある。

豊国の官衙=豊前国府跡は、福岡県京都郡豊津町(現みやこ町)国作(こくさく)地区・国分(国分寺卍)・惣社(そうしゃ)付近にあったとされるが、同県行橋市の福原長者原遺跡は、8世紀頃(奈良時代)の役所の跡で、九州では大宰府政庁に次ぐ規模や、門の格式から国府だったとされる。*臺與の国
 一辺約150m四方の溝と、内側の一辺約120m四方の回廊に囲まれた区画に大規模な堀立柱建物が整然と建ち並び、区画の南側からは八脚門と呼ばれる格式の高い大規模な門の跡も発見された。尚、豊国(とよくに)とするが、「君の本」と同様、豊が持つ国とすれば、「とよのくに」とした方が良い。

勝宿(かししゅく)神社=加知彌(かちみ)神社「彦火火出見命、鵜萱葺不合命、玉依姫命」 鳥取県気高郡鹿野(しかの)町寺内155-1
 寺内部落の薬師堂付近、勝宿大明神の別当寺の旧跡とされる遺瓦は奈良後期のもので、塔礎とみられる礎石がある。また、同町鷲峯の鷲峯神社は、孝元天皇を祀る。鳥取県神祇年表の巻頭に孝元5年八千矛神(亦名大己貴命)が天羽車大鷲に乗って、この山に降りられたとある。
 飯田の森にある創立年代は不詳の加知弥神社は延喜式神名帳に載る式内の古社。昔、勝宿大明神と号し、旧社地は宮谷、或いは、明神ガ鼻であったという。中世以降武将の崇敬が篤く、永録8(1556)年、武田高信、田公高清、矢田幸佐等が社殿を造営し、天正8(1580)年、吉川元春は戦勝を祈願して社領を寄進した。尚、元春の祈願状、寄進状2巻が昭和32年12月県の保護文化財に指定されている。
 社伝に拠ると、天正年中、豊臣秀吉が防己尾(つづらを)城落城時、社領を寄進した。また、元和9(1623)年、池田光政が社殿を修理し、寛永10(1638)年、国主池田光仲は、改めて社領39石6斗9升3合を寄進したが、累代の藩主も崇敬篤く、社殿の営繕ある毎に金殻木材を寄進、幣帛を奉納した。
 明治4年、県社になり、同40年3月、神饌幣帛共進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定。大正2年11月、当社の摂社、及び付近の神社14社を境内に合祀して1社を建て、新たに勝宿神社と称えた。例祭日は10月21日。

鏡山=佐賀県唐津市の菜畑遺跡と松浦川を挟んだ東側、末盧国の比定地とした同市中原・柏崎(八坂神社)・鏡(別名・領巾振山)にもある。

オツボ=苧麻(からむし/ちょま)を耕作する畑の苧坪(おつぼ)、苧麻(まを)=カラムシの茎の皮の繊維で作った糸。靫(うつぼ)=矢を盛り、腰に背負う用具。中空の籠(羽壺の合字)。御壺=膳部にのせる壺に盛った食物。禁中の局(つぼね)。小坪(をつぼ)=小さい中庭や小壺(をつぼ)=小形の壺。等と関係するか。

南朝=420~589年にわたり、漢族の立てた宋・斉(南斉)・梁・陳の四朝をいう。呉、及び、東晋の二朝と合して六朝(りくちょう)ともいう。
 尺の換算値は、西晋の頃、一尺=24.1㎝・一歩=五尺だが、3m前後では、12尺でなければ合わない。但し、周朝以後、一歩=五尺とされる理由は分からず、騎馬民族に近い晋朝(司馬氏)の持つ馬の走行距離/日(70~150㎞)の平均値「105m」を一里=100m前後とした根拠といsた。もしかしたら、本来が、遊牧騎馬民族の満州族やツングーズ(扶余)に近い馬韓の伯済(百済)は晋朝に巣くった騎馬民族の意識だったのかも知れない。

 周    19.9cm 1歩=6尺 119.4cm
 秦・前漢 27.7cm 1歩=5尺 138.5cm 1里=360歩 498.6m
 新・後漢 23.0cm 1歩=5尺 115.0cm 1里=360歩 414.0m
 魏・晋  24.1cm 1歩=5尺 120.5cm 1里=360歩 433.8m
 北魏   27.9cm 1歩=5尺 139.5cm 1里=360歩 502.2m
 隋    29.5cm 1歩=5尺 147.5cm 1里=360歩 531.0m
 唐・五代 31.1cm 1歩=5尺 155.5cm 1里=360歩 559.8m



  1. 2017/10/19(木) 08:14:00|
  2. 8.神籠石
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◇宮地岳

 倭地「末盧国」比定地の西側、長崎県北松浦郡高島町阿翁免宮地岳(猿田彦神社→宮地岳神社)、福岡県前原市の雷山神籠石北側、同市神在の宮地岳東側、同市高祖に宮地嶽神社がある。その西側、同県糸島郡二丈町松末南側、同県朝倉郡(現朝倉市)杷木町林田・穂波付近の大山中腹、筑後川や有明海を望む城壁の全長2.5km、二ヶ所の水門を持つ把木神籠石付近にも同町道目木松末(ますゑ)には宮地嶽神社、その西北、同県朝倉郡宝珠山(現東峰)村福井・板屋、同郡三輪(現筑前)町高田がある。

 傍国「姐奴(ざの)国」比定地、福岡県太宰府市大佐野の東南、同県筑紫野市阿志岐・吉木高良神社)の阿志岐神籠石は、宮地岳(339m)西側の宝満川を望む位置に展開するが、何故か、西側に在る太宰府政庁南東7㌔の前畑遺跡で、7世紀頃の版築に拠る土塁が発見された。当時、太宰府と対立する勢力が在ったのかも知れない。
 その南側、福岡県久留米市御井崎の高良山神籠石は高良大社(高良玉垂命・八幡大神・住吉大神 豐比咩大神)を登った所に在り、有明海を睨む要所に位置する。現在、北側の城壁は殆ど崩壊するが、南側中腹に列石と土塁が残る。東北側の同市善導寺町島には宮地嶽神社がある。

 福岡県久留米市草野町吉木、古僧都山や清水山(清水寺)麓に山門(やまと)、筑後川南岸の同県八女郡三橋町起田(玉垂神社)、同県八女市川犬との境、同県筑後市溝口と同市若菜に宮地嶽神社、同市長浜に玉垂命神社、同県山門郡(現柳川市)大和町北関に高良神社、同県大牟田市岬に玉垂神社、同県三池郡高田町舞鶴がある。
 また、福岡県山門郡瀬高町大草の女山(ぞやま)神籠石は、東からの丘陵、女山(ぞやま=宇佐神宮の比賣大神?)の末端にある。山頂から南北に伸びる尾根に沿う総延長推定3kmの列石や土塁が連なり、麓の谷には四ヶ所の水門が残る。神籠石群中、列石・水門共に残る貴重な例である。頂点から豊かな水田地帯の先に有明海の対岸、奴国付近が望まれる。
 有明海西北部から西部の佐賀県多久市と同県東松浦郡相知町と同県厳木町境の女山(おんなやま=宇佐神宮の神功皇后?)に関係し、三町と佐賀県武雄市境にある八幡岳(石清水八幡宮の仲哀天皇→應神天皇)と云う関係かもしれない。

 神籠石は見えないが、狗奴国の領域か、熊本県本渡市(現天草市)枦宇土町道目木宮地岳町(十五柱神社合祀宮地嶽神社)、同県天草郡(同市)新和町大宮地・小宮地・宮地浦が見える。官名を彌彌と彌彌那利とする海民(投馬国)が分裂して山幸彦(官狗古智卑狗)に靡いた沿岸航海民→河川民の玉依姫(壹與)を葺不合尊(卑彌弓呼)を伴い北上、航海民の豊玉姫(臺與)を追い払ったと考える。
 例えば、「古事記」天降条、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命と高木神の娘、万幡豊秋津師比賣命との間に生る皇孫天津日高日子番能邇邇芸命が天降りする。皇孫は、国神の道祖神猿田毘古命と天宇受賣命に先導され、氏祖神を従え、竺紫日向の高千穂の久士布流多気に天降り、大山津見神の娘、木花之佐久夜毘売命を娶り、三兄弟を生む。
 道祖神猿田彦に先導された後、天宇受賣命に先導されて伊勢海で死んだ猿田毘古→猿女君の御魂「皇祖天照大御神」を祀る神南備(宮地岳?)、福岡県宗像郡(現福津市)津屋崎町宮司元町の宮地嶽古墳に葬られた後、石室自体を御神体とする宮地嶽神社本社は、その蘇りを禦ぐために建立されたのかも知れない。

 北部九州に拡がる神籠石は宗教施設とする説が有力だが、邪馬壹国伊都国連合東側の傍国(私説)を囲む様に位置する事から、本来、70~80年続いた委奴国連合宗主国の奴国と、その構成国の動向を見張る山城だったと考える。
宮地岳 

阿翁(あをう)免=妻が夫の父を呼ぶ称、祖父とあるが、もしかしたら、猿田彦の呼び名かも知れない。

城壁=その阿志岐神籠石の西側、7世紀頃の太宰府政庁を護る城壁とされる土塁が発掘された。政庁を周る城壁の一部で、その高さ1.5㍍・下部の幅13.5㍍の二段構造は、東側を急勾配にしてを巡らせた防御施設で、版築工法に拠り、固められたとある。これからも對蘇国の比定地とした佐賀県鳥栖市付近に版築作業の技を持つ中国系の人々や石工等が居たのは略確かだろう。
 邪馬壹国が敗れて東遷した後、500~600年頃、対立する政治組織があったのか、この阿志岐山神籠石は含まれない。付近には「景行紀」熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟(木)」や「道目木」、宮地嶽神社も見えない。ただ、福岡県筑紫野市吉木には、高良神社(高良玉垂命・大伴建将)がある。

吉木= 岡山県川上郡川上町吉木(よしぎ)、広島県山県郡豊平町吉木(よしき)、愛媛県温泉郡中島町吉木、福岡県久留米市草野町吉木・矢作(やはぎ)、同県豊前市吉木、同県遠賀郡岡垣町吉木・矢矧(やはぎ)川

宮地=岡山県御津郡建部町宮地、同県上房郡北房町宮地、同県上房郡賀陽町宮地(みやち)、同県久米郡久米南町宮地、広島県山県郡芸北町宮地、山口県宇部市宮地町、徳島県麻植郡山川町宮地、高知県高岡郡越知町宮地

海民=「海幸山幸説話」山幸彦が娶った豊玉姫が生んだ葺不合尊、その御子の乳母として送られた玉依姫。また、「記紀神話」伊邪那岐が黄泉国から帰還した後、生した宗像系綿津見三神や住吉系筒之男三神等。尚、「記紀」共によく似た説話が見えるが、夫々に微妙な違いがある。

三兄弟=その火が盛んに燃える時に生まれた子の名は火照(ほでり)命。これは隼人阿多君の祖である。次に生まれた子の名は火須勢理(ほすせり)命。次に生まれた子の御名は火遠理(ほをり)命、亦名天津日高日子穂穂手見命三柱。

宮地嶽古墳=260年以上前に発見された宮地嶽中腹の不動神社を祀る日本最大級の巨石古墳は、御物から推察すると六世紀末~七世紀始めとされる。全長23mという大規模な石室は、高さ、幅とも5mを超す大きな石を積み重ねたもの。
 創建は約1600年前、本来の被葬者は、伊勢の海で亡くなった猿田彦(委奴国王=皇祖天照大神)と考える。その後、天宇受賣命(女王卑彌呼?)も追葬されたが、天照皇祖神として伊勢神宮に遷座したため、祭神は息長足比売命(神功皇后)と、勝村大神、勝頼大神に変わったと考える。
 古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉や硝子板等、凡そ300点が発見され、どれも第一級の素晴らしいもので、その中、十数点は国宝に指定される。この地を支配した氏族の繁栄と富みを象徴する品で地下の正倉院といえる。ただ、馬具が副葬されるから騎馬民族とするのは、早計で、何度も述べてきた様に、海原の船=草原の馬とすれば、投馬国を構成した海民かも知れない。


  1. 2017/10/28(土) 11:08:33|
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