見まごう邪馬台国

◇「~から」と「~より」

 岩元正昭氏は、次に以下の如く述べる。【漢籍解釈を難解なものにしている最たる原因は、嘗て平易に使っていた語法を現代人が知らない事である。これを前出の『魏志』東夷伝倭人条に載る「従と自」「至と到」「行と又」の三つのペアをモデルに実証してみよう。転注文字の用法原理に則り、使用される「從と自」「至と到」のツーペアの漢字について、上のツーペアの4字は「東夷伝倭人条」中の区間叙述に以下の様に載る。

 (1)從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里
    郡から倭に至るには、郡より海岸に沿って水行、韓国内陸を南行きと東行きを繰り返しながら倭の北岸狗邪韓国に到る。この間七千餘里。
 (2)自郡至女王國萬二千餘里
    郡より女王國に至る。この間万二千餘里。


 論者は、上記の読み下しで、從(~から)と自(~より)と訓み別けているにも関わらず、その意味の違いすら解らないのだろうか。二つの文字は二点間の関係を示唆するとして間違いではないが、前者の「~から」は、「手綱を引き馬を駆る」「知人から本を借る」「鎌で稲を刈る」「弓矢で鹿を狩る」等と同源語で、手前側の起点から相手側の至点に対する動きとなる。
 一方、後者の「~より」は、「通説に拠る」「大雨に因る」「占いに依る」「本屋に寄る」等と同源語で、相手側の起点より手前側の至点に対する動きと云う違いで使い分けられる。詰まり、二つは、魏使や編者の立ち位置に対する意識の違いになる。

 【「從」と「自」の二字は共に二点間の空間距離の起点に伴う前置詞である。「~ヨリ」の意に用いられている。「至」と「到」の二字は共に終点地名の前に置かれる詞である。「~にイタル」の意に用いられている。漢字学的には各ペアの前の字と後のそれは本字と①転注字の関係にある。
 夫々、英語の「from~」「to~」に相当する。この項の着眼点は、何故、「from」の意味に「従と自」の二字を、「to」の意味に「至と到」の二字が強いて使い分けられているかという事である
。】
 
 例えば、江戸期の道標に「從是南(ここから南)~」とあれば、その旅人は北から来たと分かる。道標ではなく国境の場合、「自是南(これより南)~」とすれば、そこは南に居る人の領域になる。こうしたニュアンスの違いは、日本語にだけにあって、当時の漢語に使われる漢字には無かったとでも云うのか。

 【結論を先に述べると、それぞれの二字の関係に転注文字の用法を託し、(1)と(2)のルートが起点の郡を共有するものの別の方向に旅立ち、「至」字を前置詞とする女王國へのルートが本源的道程であり、「到」字を前置詞とする狗邪韓国へのルートが郡より派生的に伸びた脇道である事を端的に表現しているのである。

 上記、(1)と(2)を読み下すと以下の如くなる(丸括弧内の青字は筆者に拠る意訳)。

(1)(魏使の居る)帯方郡から倭に至る。(海民の水先案内に従い)半島西岸に循じ、韓國(の領域西沿岸)を歴て、南下後、東行し、倭の北岸狗邪韓國に到る。そこ迄、七千餘里
(2)帯方郡(と云う起点)より、(今、魏使の居る)女王国に至る萬二千餘里。

 (1)從郡~は、出発地の帯方郡衙から先に述べた倭の領域に至る迄の経路に従い、朝鮮半島西沿岸に循じ、韓國の西岸を歴て、最南部を廻り、東行し、外洋航海用船に乗り換えるための寄港地(目的地)、倭の領域北岸狗邪韓國に到る事、詰まり、郡から狗邪韓国への流れを述べる。
 一方、(2)自郡~は、郡より到着した魏使の居る女王国の所都へ至った道程と里程、その時間経過を含み、狗邪韓国からの五千餘里が南至邪馬壹国水行十日陸行一月に対応する。以下次回。

転注字=『説文解字』の「許叙」に六書の原理定義と挙例がある。
一に曰く「指事」は視て識すべく、察して意をみるべき。上、下是也(この字、上と下を表し、上の短い二の字が上、下の短い二字が下字を表す)。
二に曰く「象形」は描きて其の物と成り、体に随いて詰す。日月是也。
三に曰く「形聲」は事を以って名を為し、譬(たと)えを取り相成る。江河是也。
四に曰く「會意」は類を比し誼を合し、見を以って指撝す。武信是也。
五に曰く「転注」は類の一なる首を建て、同意相受く。考老是也
六に曰く「仮借」は本其の字無く、聲に依り事を託す。令長是也。

 以下、岩元正昭氏の説明。【許叙に「五曰転注」として転注文字用法の原理と挙例が以下の様にある。「転注者、建類一首、同意相受、考老是也」。「建類一首、 同意相受」部分が用法の原理を言い「考老是也」は挙例である。「老」字が、その本字であり、「考」は転注字である。読み方は、類、一首を建て、同意相受く。考老是なりとなる。「類」字は六書の會意文字の原理に「比類合誼」と既に使われている。義符として用いられている二つの漢字の義を比較して、その意味を組み合わせる事を言う。随って「類」とは字義そのものと見てよい事になる。随って「建類一首」とは義の一、同義なる首を建てる

 「考(こう)」「老(ろう)」は、部首の[土+ノ(おい)]に「丂」「匕」、「至(し)」「到(とう)」は、旁の[刂(立刀)]が付加される。「従」と「自」は何を共有し、何が付加されるのか。尚、広辞苑「転注」=或る漢字が持つ本来の語義を近似した語義に転用する事、通常、字音を変える。例えば、「わるい」意の悪(アク)を「憎む」の意として、字音「ヲ」にする類とある。

「~から」=現在から後に何らかの関係や関連が在る=今から先、「~より」=現在より前(原点)に関係や関連が在る今より前との違い。例えば、英語の[from]は、The train started from Nagoya..その列車は名古屋から(より)、出発した等、「~から」「~より」の何れにも使われるが、A few kilometers out of Paris. パリより離れること数キロ等に使われる「out of ~」=~の外に, ~より離れるが近いニュアンスを持ち、話者は、パリ近郊に居るか、当所に対して意識がある。

本屋に寄る=広辞苑「寄る」項、自然に寄せられる。引きつけられる。打ち寄せられる。とあり、自分の意志、本を見たい、買いたい等、本屋自体が持つ何かに因って引き寄せられるとして良く、意識が本屋に向かっている。

從是南=南下してきた四辻であれば、正面は、左「東至~」・中央「従是南~」・右「西至~」、石柱の右側面は、左「北至~」・中央「従是東~」・「南至~」、左側面は、左「北至~」・「従是西~」・「南至~」、後面には、左「西至~」・中央「従是北~」・「東至~」等と書き分けられる。

出発地=何れも郡衙だが、(2)自郡至~の場合、帶方(鼻祖)~狗邪韓国(二世)~末盧国(三世)~伊都国(四世)~不彌国(五世)~邪馬壹国(現世)等と郡衙から不彌国迄の行程が記述される。一方、從郡(の領域)至倭(の領域)~の場合、韓国を歴て狗邪韓国に到るとされ、その間の停泊地は省かれる。

時間経過=~次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。と云う記述を、作家の高木彬光氏だったか、「あぁ、遙々、来たものだ」等の感慨が感じられるとしていたが、達観だろう。


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  1. 2017/12/08(金) 23:42:58|
  2. 5.漢字の用法
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◇「従」と「自」

 岩元正昭氏は、続いて以下の如く述べます。【「從」と「自」の相違について詳しく述べよう。「東夷伝倭人条」は「從」「自」の二字が「from~」、詰まり、「~ヨリ」の意味に使われている。何故、一つの「~ヨリ」と言う表現の為に「從」と「自」という二つの別字を強いて使い分けるのか。ここに作為性がある。
 この「從」「自」という二字は共に「~ヨリ」という同意を持つが、字形も本義も異なっている。その相違性が(1)文と(2)文の主意の相違性を培う淵源になっている。つまり、「從」字にない義を「自」字が持ち「自」字にない義を「從」字が持つと言う関係が二文の主意の相違性を創出しているのである。これが二字の引用される理由である。


 上記、「從」と「自」の何れも「~ヨリ」とするが、前回、掲示した読み下し文では、「~から」と「~より」を使い分けると云う矛盾がある。この二字が持つ語義の相違は、前回と前々回とで述べた通りなので省く。
 論者は、「魏志」の120年程前、許慎に拠って成立した『説文解字』「從=随行也。从从。从亦聲」、「從」の本義は「随行」だが、何故か、人に随伴すると云う語義を持たないとし、以下の如く説明する。

 【「随」字の本義は「從也」とある。その義符は「从+辵」であり、「辵」字の義に因っている。「從」字の義符は「从从。从亦聲」とあり、「從」字が会意形声文字である事が判ると同時に、「辵+从」の二字の本義が重なって出来る新たな意味範囲に「從」字の本義がある事になる。詰まり、「随と從」の二字の義符に、辵字が共存する。そこで「辵」を先ず検証する。『説文』に拠ると、「辵」の本義は「乍行乍止也」である。乍~乍~」という形の句は二つの「乍」字の次の動作を順次繰り返す句である。随って「行と止」の二字は繰り返す。

 例えば、「春秋公羊傳」階を辵(こえ)て走るが若くすと在り、今本は「躇」=走って超える意とする。また、白川静編「字統」も、辵=彳(小径)+止(歩)、辵=走って越える=迷わず(躊躇なく)とある。おそらく、「歩」は、足先を交互に出して一歩ずつ進む事、「止」は歩むの省画とあるが、足先が揃い佇むと考えられる。
 私見では、「従」の訓「シタガフ(下合う)」からも、何らかの基準(彳=径)=海民の水先案内で以て迷わずに向かう。詰まり、何処をどう取っても「従」の本義とする随行=何らかの指示や方法に従い後から迷わずに行くにならざるを得ないと考える。

 【「乍行」の「行」字には進む者が止まるという意味がある(後述)。随って「乍行乍止」とは厳格に言えば、1進み、そして2止まるという動作と、3止まるという三つの順にある行為を繰り返す意なのである。止まったものを、更に「止」まると許慎が述べるのは、3「止」字が2の、それとは異なった「トマル」の意である事に他ならない。】

 例えば、人や動物が始めた行動を己が意志で留めたり、止める。強風や大雨等の気象も、神の意思か、その原因が収まり、自ずと止むからこそ、その動きを示唆する「行う」と、その動きが「止む」と云う二つの文字と「乍(~ながら、~しつつ)」で、行ったり、止まったりを表す。当時、当り前に使われていた用法がなくなったとでも、論者は云いたいのだろうが、これでは表意文字としての機能を逸脱している。

 述べてきた事に順い、「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東~」を意訳すると、郡衙の領域から倭に至る。(郡に服属する海民の水先案内に従い)朝鮮半島西岸の地形に循い水行し、(順次、既定の湊に碇泊をしながら)韓國沿岸部を歴て、南下した後、(南西部を廻り)東行する~。になる。 以下次回。

説文解字(せつもんかいじ)=AD100年頃、中国最古の部首別字書。後漢の許慎撰。中国文字学の基本的古典。15巻。漢字九千字余を540の部首により分類、六書(りくしょ)の説により字形の成り立ちと、夫々の漢字本来の意味を解釈した。

辵(ちゃく)=漢和大辞典(藤堂明保編)「進む(之繞)」の意。「字統」彳(てき=小径)と止(歩)とに従う。道を行く意で、白川静編「字統」歩(止+少)=一歩一歩と進むの省画(足先の象形)、単独では「止(一歩=佇む)」。金文には「遣・追・遹・遺」=辵に従う字形と、「後・復・御」=彳に従う字形が見える。とある。

乍~乍~=「誤読だらけの邪馬台国」の著者張明澄氏は、台湾中華書局印行「辞海」=暫(しばらく)・忽(たちまち)とあり、乍A乍Bを、殆どの中国人は、忽ちA忽ちBと云う意味では使われるより、暫くA忽ちBと理解していると云う。
 当時の言語法が、現代中国語と同様のものだったとする根拠はないが、文脈と、朝鮮半島の地形からすると、ほど遠いものではないと考えられる。

春秋公羊傳=「春秋」の注釈書。春秋三伝の一つ。11巻。公羊高の伝述したものを、その玄孫の寿と弟子の胡母生らとが録して一書としたものとされる。戦国時代(AD403~AD221)に成立。魏・趙・韓の三国が晋を分割して諸侯に封ぜられてから秦の統一に至る時代。

随(まにま)に= 〔副〕そのままに任せる。物事の成り行きに任せる。詰まり、決められた方法や既知の情報等、その関係者に任せる。

歴=「字統」字形的には「暦」と同系、厤(軍門のある所)と、曰(祝詞を収める器)や止(往来のある所)の違い。何れも行軍に関わる漢字で、行軍して点々と移動するといったニュアンスを含む。「経」は、そうしたニュアンスや状況を含まず、直線的な移動になり、履歴・歴訪と、経由・経過等の違い。



  1. 2017/12/17(日) 10:53:21|
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◇「從」は接続詞

 或る論者は、「至」や「到」は「从別処来(他の場所から来る)」や「(向かう)」の意味があり、「倭人伝」到其北岸狗邪韓國、至對馬國、至一大國、至末盧國、到伊都國、至奴國、至不彌國、至投馬國、至邪馬壹國女王之所都等は、全て到着して居り、「從郡至倭」を郡から至るとすれば、到着した事になる。
 前後の文章しだいで、この主語「郡」は郡衙、郡治内、郡の人等を指す事があり、郡衙にすると、「至」は終端の意味を表し、郡から倭迄と訳す。その官吏にすると、郡の人は倭に向かうになると云う。

 私見では、何れの場合でも文脈に拠っては、「至」「到」としても意識は向かうが、始発地から当着地への物理的な動きとは限らず、未だ、その地に到着していないこともあると考える。
 この「從郡至倭」は、編者陳寿(郡使や魏使)の意識が郡衙の東南に広がる倭人の領域に、今から向かうとなるので、「郡から倭に至るには~」と未然形として意訳しても全く問題ないと思う。詰まり、郡衙に居る郡使や魏使等が倭に至るために、朝鮮半島沿岸の航海民に拠る水先案内に従う道程の七千餘里で到った倭の領域北岸狗邪韓国とした後、女王に服属する海民の領海「瀚海」を南に向けて渡海すると述べる。

 更に論者は、「從」を「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」と「郡至倭~」を繋ぐ接続詞とし、郡から倭迄~と訳すと、上の文章を記載した意味が無くなり、「倭人在・・・・」と始まる文章は、「郡使は倭に向かう」の枕詞で、倭とは、これこれの国だと前置きをして、その倭に向かう順路を記載すると云う。
 その用法とは、「後従而刑之(しかるのち従ってこれを刑す)」等の使い方で、倭人は帶方東南の大海中、山島に依りて住み国邑を為す。旧百余国、漢時、朝見者が有った。今は使訳を通じる三十国。従って、その倭に郡使は向かう~とするのだろうが、私見では、傍国記載後の文章「自郡至女王国萬二千餘里」=郡より女王国に至る萬二千餘里と云う文章との繋がりを重要視する。
 この「自郡~」は、国境等で、「自是南~(これより南~)」とあれば、その南側に居るのと同様、陳寿の意識上、郡使や魏使は女王国所都付近に至っており、二つは対を為して郡衙から狗邪韓国迄の里程、七千餘里と、そこより郡使や魏使の居る女王国付近迄の里程を合わせ、一万二千里とする。
 一方、「從郡至倭」は道標の刻印「従是南至~(是から南至る~)」等で、北から来た人が、この道に従い南で至る~と同様、未だ、郡使や魏使は郡衙に居り、そこから沿岸航海民の水先案内で、先に述べた倭人の領域中南側に属す30国の北岸狗邪韓国へ到る道程と里程を七千餘里とする。

 論者が「從郡至倭」の枕とする文章は、漢時、朝見した帶方郡の東南に広がる倭人の百余国だったが、今回、使訳を通じて朝見した南側に属すの三十国を束ねた邪馬壹国連合の位置関係を其北岸狗邪韓国として示唆した。更に、そこより女王国の都するへは、倭人領海(瀚海)を渡ること三千余里、末廬国より邪馬壹国迄、陸行する道程の内、末盧国より東南の伊都国迄の五百里、そこより東の不彌国迄の百里か、東南の奴国迄と東の不彌l国迄の二百里、そこより郡使や魏使の居る女王国の都する所迄の残りの千四百里か、千三百里、女王国領でない郡衙から狗邪韓国迄の七千餘里を併せて萬二千餘里とする。
 倭人領域北岸狗邪韓国からの五千餘里に要する最長の日程が南至邪馬壹国水行十日陸行一月で、南至投馬国への水行二十日は、これも最長で同地から九州北岸への水行十日と、そこより投馬国連合の中枢への水行十日になる。

至=「誤読だらけの邪馬台国」の著者張明澄氏の提示した台湾中華書局印行「辞海」に拠ると、「至(至部)=・到・大・善」と、「到(刀部)=至・・弔」とあり、至→極から「迄」とする事に問題ないが、「至」「到」の何れもが同義の「到着」とすれば、「到」を創り、使い分ける必要はない。

從郡至倭=「自郡~」の如く、其北岸狗邪韓国~(南)始度一海千餘里至對海国~又南渡一海千餘里名曰瀚海千餘里至一大国~又(南)渡一海千餘里至千餘里至末盧国~東南陸行到五百里到伊都国~(東南百里奴国)~東行至不彌国百里等と違い、「循海岸水行歴韓国」の停泊地等、その詳細を述べない。

南側に属す30国=おそらく、旧百余国が集約されて三十国になったのではなく、女王に属さない狗奴国にも服属する国々もあり、更には女王国東渡海千餘里に居る倭種を合わせて百余国と考える。「狗」=(語に冠して)似て非なるもの、劣るものの意を表す。(卑しめ軽んじて)くだらないもの、無駄なものの意を表す。

其北岸狗邪韓国=狗邪韓国の北岸とする論者もいるが、「狗邪韓国北岸」とすれば良い。尚、「其」=倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者と、今使譯所通三十國の「北岸」になり、後段、南至邪馬壹国水行十日陸行一月(残り五千餘里の日程)と、南至投馬国水行二十日の起点になる。

東南の奴国=「倭人伝」東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家~云々とあり、奴国には「~行」とされない事から、奴国へは行かず、不彌国へ東行、有明海を迂回したと考える。
  1. 2017/12/25(月) 10:33:00|
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◇三国志の用法 「従と自」

 述べてきた事に順い、「魏書」第一巻の「武帝紀」より、幾つかの文章に使われる「従」と「自」の使用法を考える。

 (1)袁術敗於陳、稍困。袁譚青州遣迎之。術欲下邳北過、公遣劉備朱靈要之。

 袁術は陳琳との戦に於て敗れてより、やや困苦する。袁譚、青州より、人を遣わして袁術を迎える。袁術、下邳から北に過ぎんと欲しており、公(曹操)は劉備・朱靈を遣はし、これを護らせる。
 袁術が、少し困っているとを知り、袁譚は自分の居る青州より、袁術に遣いを送り、迎えると、太祖曹操は、その位置関係から袁術が、現在の山東省県付近の下邳から北の河南や河北に向かおうとしていると察して、劉備と朱霊を遣わして、これを要と固めさせた。

 (2)公謂諸將曰「吾降張繍等失不便取其質。以至於此。吾知所以敗。諸卿觀之今已後不復敗矣」遂還許。

 公(曹操)、謂ひて諸將に曰く、「吾れ、張繍等を降し、失(あやま)って其の質を取るを便(よし)とせず。以て、この状態に至る。吾、敗るる所以(ゆえん)を知る。諸卿、之を觀よ、今より、已後、復たび、敗れず」と。遂に許に還る。この「自」も人質を取らずに敗れたと、過去の経緯を語り、今から後、こんな失敗は繰り返さないと諸卿に誓って、許に還る。

 (3)公曰「尚大道來當避之。若循西山來者此成禽耳」 尚果循西山來臨滏水爲營。夜遣兵犯圍公逆撃破走之遂圍其營。

 公曰く、「袁尚、大道から來たらば、當(まさ)に之を避くべし。若し西山道に循じて來たらば、此れ禽(擒=とりこ)になすのみ」と。果たして、尚は西山道に循じて来て滏水に臨み營す。思い通りに西山道に循じて来たならば、失(あやま)らず、これを虜とする。この「従」も袁尚の居所からでは、大道と西山道の二通りがあり、その何れかに従って来ると云うニュアンスで使われる。

 (4)興平元年春、太祖徐州還。初、太祖父嵩、去官後還譙。董卓之亂、避難瑯邪、爲陶謙所害。故太祖志在復讎東伐。

 興平元年春、太祖徐州より還った。初め太祖の父嵩、官を去りて後、譙に還り、董卓の亂に瑯邪(ろうや)に避難するも、陶謙の害する所と為る。故に太祖の志、復、讎(あだ)に在り、東伐す。詰まり、太祖が徐州より、許に還り到った理由は、瑯邪に避難した父を殺したと云う過去の経緯から陶謙に仇を反すため。

 (5)張濟、關中走南陽、從子繡、領其衆。二年春正月、公到宛。張繡降、既而悔之、復反。

 張濟、函谷関の西、武関の北、隴関(ろうかん)の東に位置する関中より南陽に走る。その濟が死して、從子の繍が後を継ぎ、民衆を治めた。その後、太祖、宛に到り、後を継いだ張繡は降伏するも、既に悔い、またも反する。詰まり、関中より南陽に走り、済が死んで以後、現在というニュアンスで述べる。
 
 (6)天子之東也、奉、梁欲要之不及。冬十月公、征奉。奉、南奔袁術。遂攻其梁屯、拔之。

 天子、これ東なり、楊奉、梁より、要所として欲すも及ばず。(自身の居所)梁より、天子の移った東側を要所として欲するが、上手くいかず思いは及ばなかったと云う経緯から、太祖の征した楊奉は、袁術を頼り、南に奔走したため、遂に、その梁に屯して、これを攻めて奪う。

 今迄、見てきたた様に、「倭人伝」に見える從郡至倭(郡衙から郡使や魏使が倭に至る)と、自郡至女王国萬二千餘里(郡より女王国へ郡使や魏使の至った萬二千餘里)と同様に、「三国志魏書」武帝紀に見える何れの例文でも、「今から先」「是から先」と「今より前」「是より後」等のニュアンスで、現在や過去等の時系列の違い、現在の居所と過去の居所等の位置関係の違いに順い、使い分けていると考えられる。

許=春秋時代、に滅ぼされた国、今の河南省許昌付近とされる。ただ、日本語「許(もと)」=杵を上下する事(=ずれ)とある。これを振り下ろした所、詰まり、同じ所とすれば、二度と同じ事を繰り返さないと云う決意から人質を取らずに敗れた所に還るとも読み解ける。それが地名「許」とされたか。
 鄭=春秋時代の国。周の宣王の弟友(桓公)を祖とする。今の陝西省渭南市の地から今の河南省新鄭市に移る。韓の哀侯に滅ぼされた(前806~前375)。

父嵩=裴松之が注に引く書(裴注)に拠れば、養子「嵩」は夏侯氏の出身とあり、夏侯惇(かこうとん)の叔父とする。漢高祖の武将に夏侯嬰とあり、の県令となった夏滕公と呼ばれた。尚、瑯邪(ろうや)は山東省東南部、その地域にある山名とされる。

從子の繍=從子を甥(をひ⇔姪)とするが、その漢字を使わずに「従う子」とするには理由があり、曹操の祖父曹騰と同様。張濟にも子がなかったのか、養子とも考えられる。


  1. 2017/12/30(土) 10:53:53|
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