見まごう邪馬台国

◇河川陸行

   当時、列島の自然環境や道路状況を考慮するに縦横に走る河川や治水用水路で平底船を使い荷役に利用したと思う。詰まり、ここで云う陸行とは河川航行用の 平底船に大使や副使等の上級者を乗せ、荷物も載せて従者が河岸から船を曳いた。遡上する場合、歩く速度と同程度か、流れに逆らうので、幾分、遅くなるかも しれないが、大使や副使は疲れず、多くの荷物を運べると云う利点がある。下降する場合、川下りの船と同様、流れに乗るので遡上よりも早く進む。  
 奴国の位置関係はややこしい。伊都国と同方向の東南百里で至るとすれば、7~14㎞前後で、不彌国より南西に位置する。詰まり、この国も有明海沿岸部になるが、当時(弥生期)の海岸線は、現在のそれよりも内陸部にあったとされる。*「遺跡との照合」の図参照
 伊都国に到着した翌日を休息日として、翌々日、佐賀県多久市北多久町多久原(たくばる)付近、山犬川の流れで下り、牟田部付近で、八幡岳・女山(おんなやま)を源流の同市西多久町板屋山崎付近を流れる牛津川が合流した多久川から晴気川(小城市小城町晴気付近)に入り、佐賀県小城郡牛津町牛ノ尾(牛尾神社/祭神・素戔嗚尊の五世孫とされる天之葺根命)か、佐賀県多久市東多久町納所・天山・柳瀬松瀬付近が、道程で記述される奴国(同県小城郡牛津町柿樋瀬には生立ヶ里遺跡)だが、先述の如く魏使は向かって居ない。おそらく、奴国の出先機関(湊津)だが、一大率の官吏や武官が常駐し、検察したと考えられる。
 尚、一方の不彌国は、その東多久町別府・柳瀬松瀬か、小城郡小城町山崎や船田付近で下船したか、或いは、河川に拠らず、徒歩で小城町栗原付近の鏡山を目指し、迂回して同郡三日月町石木に向かった。略10㎞(百里)で着く。尚、同郡小城町鯖岡付近が不彌国中枢と考えられる。
 1971年9月、散乱していた土器が鉱害復旧事業で発見された佐賀県小城郡三日月町石木・甘木付近の土生(仁俣・久蘇)遺跡は弥生時代中期の大規模な集落跡で、発見時は登呂遺跡(静岡県)に匹敵する最大規模の遺跡として大きな話題になった。
 佐賀平野における中核的な集落、青銅器づくりの拠点でもあったとされる。朝鮮系無文土器や木製農具、青銅器の鋳型等が数多く出土している事から朝鮮半島 から渡ってきた渡来系の人々との強い繋がりを示す。表面が黒く塗られ、取っ手が牛角の如く尖った壺等、朝鮮半島系の特徴を持つ土器類が多数出土した。 朝鮮半島系から次第に弥生土器へと変遷していく様子が分かる。木製農具や道具も多数出土した。
 同遺跡から初めて完全な形で出土した韓国に伝わる“幻の農具”、土を耕すために人が踏んで使う弓状の踏鋤(ふみすき)は、韓国内でも出土例がない。

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 上図は、末盧国からの河川陸行に使われたと思しき河川の略図で、青矢印は河川の流れる方向。黒矢印は陸路で、手持ちの地図では笹原峠に河川は見えないの で、従者は大使や副使を輿に乗せ、荷物を担いで、峠道を歩いて越えたと考えられる。一日で進む距離は短かいが、従者の疲労を考慮して、翌日、必ず、休息日 を設けたと思う。
 また、多久市南部を東西に流れる多久川を使ったとしても、今出川合流地点から東流する河川は見あたらないので、今出川を遡上し、笹原峠と同様に陸路を徒 歩で向かったか。或いは、福岡県柳川市大和町徳益の八枝遺跡では柱が軟弱な地盤に沈み込まない様に工夫された掘立柱建物が検出されたとあり、伊都国(蛇) 配下の巴利国が為吾国人(象)を使役し、耕作地を拡げたり、水運のための治水工事に従事させたとしたので、河川と河川を繋ぐクリーク(小運河)を造らせた とも考えられるので、平底船で不彌国付近迄も行けたのかも知れない。

西多久町板屋(いたや)=奴国の中枢部へ抜ける山越えの道沿いで、北西へ向かって流れる川辺の南西に位置する小高い丘の東北側斜面に在り、付近を一望できるので、一大率の見張り台があったと考える。 

土生遺跡(仁俣・久蘇)=佐賀平野西部の標高6~9mの扇状地に立地する弥生中期前半を盛期とする集落遺跡で、昭和4(1971)年 に発見された。多量の弥生土器とともに鋤や鍬、斧柄等の木製農工具をはじめとする豊富な木製品が発見され、青銅器生産は鋳型と土器との共伴関係から弥生中 期前半には本格的に開始されたとされる。また、朝鮮半島から持ちまれた技法とみられる国内で2例目の発見だった「井」の字に組んだ井戸用の板。青銅器の鋳 型(県重要文化財)で、日本で初めて発見された「銅槍鉋」の鋳型をはじめ、銅剣、銅矛等、種類も多く青銅器作りが盛んだった。
 平成4年度には銅ヤリガンナ鋳型1点、13年度には青銅器鋳型2点、14年度には青銅器鋳型4点が出土している。北東側に隣接する弥生時代を中心とする 集落遺跡の仁俣(ふたまた)遺跡は、平成8年の発掘調査で弥生時代中期前半の土器とともに銅矛鋳型1点が出土。久蘇(くしょ)遺跡は、土生遺跡西側から南 西部にかけて展開する弥生時代から近世にかけての複合遺跡であり、平成14年度の発掘調査で銅矛鋳型1点が出土。昭和48年に遺跡の一角が国史跡に指定。
 青銅器の産地は同定鉛同位体比の測定による銅産出地説
 東京国立文化財研究所の馬淵久夫(保存科学部長)により2,500点もの銅器の鉛同位体比が測定され、弥生期の鉛(銅の産地と一致すると仮定した上での 素材供給地の変遷が調べられた。その結果、弥生初期では朝鮮半島から供給され、やがて中国・華北地方へと移行したと結論。その境界は前108年(BC1世 紀)、漢の武帝による楽浪郡の設置に当たった時期としている。
 華中・華南の原料が使用されるようになったのは古墳時代からであり、この時代となると、華北原料は全く認められなくなる。この見解に従うなら、弥生中期から後期にかけての日本の銅器原料は中国華北地域ということになる。
 2007年に韓国立慶尚大学招聘教授の新井宏が発表した研究結果では、弥生前期末から中期初めのものとされる青銅器は、中国最古の王朝とされる商(殷、 BC17~11世紀)や西周(BC12~8世紀)の時代に多く見られる青銅器と、鉛同位体比が一致することが判明し、極めて特殊な鉛の種類が含まれていた という。

最大規模の遺跡=鳥取県米子市と大山町に跨る妻木晩田(むきばんだ)遺跡は、集落は弥 生時代中期後葉(BC1世紀)から形成され始める。弥生時代の遺跡としては佐賀県の吉野ケ里遺跡の3倍以上の面積を持つ集落跡が中国地方の最高峰、大山の 北麓にある。謎の多い古代の山陰地方で、弥生時代から古墳時代への移行期のカギを握る遺跡として注目を集める。
 鳥取県米子市と大山町に跨る152㌶が国史跡。遺跡中、最大の墳丘墓、3世紀後半の築造、仙谷8号墓の石で組まれた石棺から弥生時代最末期の首長の骨が見つかった。この巨大集落は、この後、程無く突然消滅。
 




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