見まごう邪馬台国

◇弥生遺跡

吉野ヶ里遺跡(BC250-300)=北に背振山地と東南に筑後川に挟まれた地形に在り、北に三津永田遺跡、二塚山、検見谷遺跡、少し離れて安永田遺跡、千塔山遺跡がある。
石動四本松遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町三津)=石動字四本松の縄文~平安の複合遺跡。弥生期の甕棺墓、木棺墓、土壙墓、石棺墓等、弥生後期前半のJ032甕棺墓は単棺で棺外口縁部から連弧文昭明鏡一面、棺内から硬玉製勾玉、碧玉製管玉が出土。連弧文昭明鏡は8片に割られ、鈕の部分を抜き集めた状態で発見、面径12.6㎝。銘帯に「内而青而以而昭而明而光而象而日而月而夫而」20字。
三津永田遺跡(佐賀県神埼郡脊振村・東脊振村)=吉野ヶ里遺跡北方の段丘上、甕棺墓と箱式石棺墓。人骨と青銅器や鉄器、貝釧、硝子製品。連弧文清白鏡等、5面の漢式鏡等。
二塚山遺跡(佐賀県三養基郡上八村)=吉野ヶ里遺跡の東方、弥生前期末~後期の甕棺墓、土寇墓、箱式石棺墓。鏡、貝釧、硝子小玉、管玉が出土。鏡は連弧文清白鏡獣帯鏡を含む4面の漢式鏡と小型倣製鏡。
検見谷遺跡(佐賀県三養基郡北茂安町)=一括埋納された銅矛は12本中10本が研ぎ分けによる綾杉状の装飾を持つ。同例は島根県の荒神谷遺跡出土の銅矛16本中、4本にも。
千塔山遺跡(佐賀県三養基郡基山町)=弥生中期~後期の住居跡から青銅鋤先が出土。他41軒の住居跡や8棟の掘立柱建物を確認。
安永田遺跡(佐賀県鳥栖市安永田)=弥生中期後半~末。石製銅鐸鋳型片(横帯文)・砥石・石製銅矛鋳型片・鞴羽口片、方形炉遺構(3×4.5m)
一本木遺跡(佐賀市大和町尼寺)=弥生~鎌倉の集落と墓地。土壙墓の床面直上から長径10.5×短径9.1×厚0.2の猪目型湖州鏡が出土。鏡面上に鑷子(毛抜き)、13世紀前半の下部に陽刻された「湖州石家煉」の文字は類例と方向が異なる。
生立ヶ里遺跡(小城市牛津町乙柳字立籠)=晴気川支流の氾濫で形成された沖積平野の標高3~4mの微高地に立地。弥生~古墳、平安の集落を確認、状態が良好な木製品が多数出土。柱・杭・礎板等の建築部材、剣形木製品・槽等の儀器、鍬・鋤・臼・竪杵等の農耕具、杓子・皿・匙形木製品の農耕具、組合式木甲短冊形。弥生中期前半の槽は一木を刳り抜き、外面に黒漆と赤漆の直線文と重弧文様を描く。
高志神社遺跡(佐賀県神埼市神埼町神埼)=弥生期の集落、墓地、貝塚。北側では弥生前期、末~中期中頃の甕棺墓38基、一基から絹布に巻かれた完形の細形銅剣(35.9㎝)、30~40代、男性の人骨に刺さった銅剣の切先、石剣や石鏃、鮫歯製の鏃等が出土。
増田遺跡(佐賀市本庄町大字本庄)=脊振山地南麓の洪積台地南端、弥生~中世の複合遺跡。弥生期の甕棺墓主体の墓地が広範囲に分布、周辺部では朝鮮半島関連の遺構や遺物、弥生前期~中期の多鈕細文鏡は唐津市宇木汲田遺跡・大和町本村籠遺跡と3例目。
土生遺跡(佐賀県小城郡三日月町土生)=弥生前期末~中期前半の無文土器は朝鮮半島の特色を有す無文土器が多い。福岡市の諸岡遺跡や三国丘陵等、朝鮮半島と同様の物や、この遺跡等で見られる在地の土器に影響を受けた無文土器へと変遷する。

 弥生前期末~中期前半、北部九州各地に国ができ、朝鮮系多鈕細文鏡や細形銅剣・銅矛・銅戈(青銅器)を持つ首長層が現れる。土生遺跡や諸岡遺跡の初期で は、金属器鋳造の炉や滓、送風管の口、鋳型等は見つからない。それは隈・西小田遺跡(福岡県筑紫野市)の隣り、同県小郡市の三国丘陵遺跡群等も同様で、青銅器鋳造の資料は中期前半の無文土器とともに現れる。
 尚、祭祀用具と思しき鏡や銅剣等と、農具の鋤や杵臼、鋳型等の副葬品は国体の違いを示し、順に連合体に列する神官系や武人系、服属した耕作民系、治水や鍛冶鋳造等の技術者系だろう。

無文土器=
隈・西小田遺跡で朝鮮半島系の無文土器が3点ほど出土。朝鮮 で農業が始まった時代、無文土器時代、或いは、青銅器時代の土器で、早期・前期・中期・後期に分類され、朝鮮半島系無文土器と呼ばれ、弥生人は祭祀として ではなく、日用雑器として使った。尚、海上交易を担った倭人に拠るのか、擬弥生土器とされる列島側から搬入されたと思しきものもある。
 一方、弥生前期末から中期後半には、九州の対岸、朝鮮半島の慶尚南道地域にも、この時期の弥生土器を出す遺跡が幾つかある。特に慶尚南道泗川市(三千浦 市)南、南海島付近で狗邪韓国の比定地の西側の勒島遺跡では、弥生中期初頭~前半の搬入・忠実再現品や擬弥生土器がまとまって出ており(全体の7~8% 程)、弥生人(倭人)が長期間集住し、実際に九州と朝鮮南部の相互交流を示す。
 隈・西小田遺跡で少数だが忠実再現品とされる弥生前期末~中期初から直接にせよ間接にせよ、細々とした朝鮮南部との繋がりを示し、中期前半の第3地点 109号甕棺に副葬された細形銅剣を入手できた。当初、無文土器が出る集落は三国丘陵等、福岡県内に散在するが、やがて西の佐賀平野の土生遺跡等で見られ る在地の土器に影響を受けた擬無文土器へと変わっていく。

青銅器鋳造=朝鮮でも後期無文土器とともに鋳型が出た例は未だないので、青銅器を作った人々は極めて限られた集落の限られた人々で、弥生前期末に日本に来た無文土器人に青銅器を作る技術はなかった。そして、こうした人々が拠点集落に配置され、朝鮮との交流の回路を確保して交渉を重ねる中、初めて青銅器工人を獲得できたとする。
 無文土器を使う渡来人の集落は朝鮮半島から来た青銅器の工人が渡り歩くネットワークの拠点だったのかも知れないとするが、八ノ壺遺跡等、南の熊本平野で も在地の弥生土器に交じって見つかっており、その分布は、先の青銅器鋳型の出土範囲と重なるとされる。こうした技術者の全てを半島からの渡来人としてよい のだろうか。





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