見まごう邪馬台国

◇投馬(とっま・たぐま)国=風を受けて海上を航行する船

 トグマッ→トッマッ(苫)→タマ(玉)で、地名として当麻(とうま・たぎま)・田隈・田熊・託麻・宅間、但馬(たぎま→たじま)等が考えられる。例えば、狗邪韓国から末盧国を経て投馬国への水行20日から推測すると、九州西岸の角力(すもう)灘を南下した長崎県長崎市手熊(てぐま)町・田子ノ浦(飯盛岳)・出雲・白木・八幡、同県西彼杵郡香焼町丹馬(たんば→たぬま)がある。
 また、対海(たま)を一海(瀚海)に対面する国とした様に、投[dug][dәu][t`әu]の上古音が「ダグ→ナグ」に転音して、訓「ナグへ る→なげる」になったとすれば、「投馬=ナギマ」となり、細長い陸地(長崎)に挟まれた細長い中海(大村湾)=凪海(なぎま)の基部、同県西彼杵郡時津 (とぎつ)町飯盛(飯盛岳)、同郡長与町山田、同郡多良見町大草・福井田、熊本県天草郡五和(いつわ)町御領・小串、同郡松島町教良木・大平・山田、同郡天草町久良(くら→きぅら)、同郡有明町大間(おおま)崎・福井田、同郡姫戸町山田付近に比定する。尚、他にも下記の如き地名が在る。

  熊本県鹿本郡鹿北町多久・岳間
  福岡県八女市宅間田・緒玉・福島・岩戸山古墳・乗馬古墳・八女古墳群
  福岡県大牟田市田隈・出雲町・教楽来・四箇・広瀬・松浦町・馬渡町・三池(宮地嶽神社)
  福岡県前原市多久(託杜神社)・有田・神在(宮地岳)・作出(宮地嶽神社)・高祖(同神社高磯姫)
  福岡県福岡市早良区田隈・有田・金武・熊本・四箇
  福岡県宗像市田熊・田久・赤間
  佐賀県多久市多久町・板屋・石州分・東多久町仁位所・南多久町大野
  島根県飯石郡三刀屋町多久和・神代(神代神社)・須所(八幡宮)・八幡
  島根県平田市(出雲市)多久町多久谷
  広島県因島市(現尾道市)田熊町・鏡浦町・重井町(馬神山)・土生(はぶ)
  岡山県津山市田熊・福井
  愛媛県今治市宅間・神宮
  香川県三豊郡詫間町詫間・粟島

 「タクマ→タッマ→タマ」とすれば、下記の如き地名が在る。

  佐賀県東松浦郡(現唐津市)浜玉町玉島
  福岡県福岡市南区玉川町・鶴田
  福岡県三潴郡三潴町玉満・田川
  熊本県玉名市玉名(大坊古墳跡)・山田(同神社)
  熊本県玉名郡玉東町白木・同郡南関町八田
  長崎県佐世保市早岐(はいき)・田子の浦
  長崎県南松浦郡玉之浦町
  大分県大分市玉沢・白木・佐野・奈良原・金屋迫(庄原遺跡・蓬莱山古墳)・田島・八幡
  大分県大分郡挟間町挟間・鶴田・馬籠・山田
  大分県大野郡(現大野市)三重町玉田・菅生・大野町
  大分県竹田市玉来・菅生・挾田、同県豊後高田市玉津・甘木・鏡谷・佐野・雷・楢林
  大分県西国東郡(現豊後高田市)真玉町西真玉

 「タギマ→タジマ→タイマ」とすれば、下記の如き地名が在る。

  奈良県磯城郡三宅町但馬
  京都府京都市伏見区下鳥羽但馬町
  長崎県西彼杵郡香焼町丹馬
  大阪府寝屋川市太間(たいま)・対馬江(つしまえ)
  和歌山県西牟婁郡すさみ町太間川

 尚、伊万里湾から大村(おおむら)湾東岸部には寄港地だったのか、~里と云う地名が点々と続く、凪の海は大海浦(おおみ・うら→おおむら)と云う転音した。その最深部の長崎県大村市付近には投馬国出先機関が置かれたと考える。
 奈良県北葛城郡(葛城市)當麻(たぎま→たいま)町、7世紀創建の當麻寺の開基(推 古20年)は聖徳太子の異母弟麻呂古王とし、創建時の本尊は弥勒仏(金堂)とある。その勒(手綱・馬銜)から麻呂古(まろこ→まるこ)も韓国語や蒙古語の 馬(mar)とすれば、蘇我馬子(マルコ)や男子の尊称「麿(まろ)→丸」から男性のトーテム馬の呼名「~丸」と、女神が司る海に浮かぶ船名「~丸」にさ れる事の理由と考える。

角力(すもう)灘=相撲を相(あい→立合い)・撲(うつ→なぐる) とすれば、本来、凪(なぎ)の海の大村湾とは違い、激しく当たり合う相撲の如き波の荒海と云う意味の周防(そばふ→すぼふ→すおう)灘か、諏訪(すはぬ→ すばう→すまう)灘で、当時、海道を領す沿岸航海民以外の航行は困難だった。「長崎(ながさき)」の由来は、凪の海「大村湾」と波の荒い外海の「角力灘」 を隔てる長い岬と考えられる。

託杜神社の祭神、伊弉諾命、伊弉册(伊奘冉)命、瓊瓊杵命、埴安命彦、火火出見命、鵜草葺不合尊、木花開耶姫命。本来、託杜咩神とされる。由緒は不詳。十六天神と伝わるが、慶応年間、現社名に改名する。「多久」であった理由は不明だが、拝殿の正面には土俵がある。
 託杜咩神は託宣の神と在り、後背の丘を祀り、その延長線上の遥か先に宮地岳(福岡県前原市神在)。丹生広良氏の丹生神社と丹生氏の研究によれば、託杜咩 神は丹生都比売神の異称とされる。一方、この地は天日矛とのつながりが強く、赤留比売神ではないかとも推測されている。

神代(かむしろ)神社=島根県簸川郡斐川町宇屋神庭字宇屋谷485、宇夜都辧命・配神 大己貴命、譽田別天皇。荒神谷遺跡側に500m程東で、宇夜都弁命は、この里を治めた女神。石川県羽咋郡志賀町神代の神代(かみしろ)神社、祭神 宇迦之 御魂神、合祀 大物主神・崇徳天皇は、崇神天皇御宇の創建。古来、神代の宮坂と称し、甚だ眺望に富み神代八景として文人墨客が多く来訪した。

粟島=「記紀」国産神話に見える。福岡県北九州市門司区大里(だいり)の山手、奥田の淡島神社(少彦名命)、島根県大田市川合町川合の物部神社摂社。和歌山市加太の淡島神社等、 神功皇后が半島からの帰途、海上で大時化にあい、神に祈って苫(とま→とも→たま)を海に投げ、その流れにしたがって船を進めよとのお告げがあったので、 その通りにすると、一つの島(友の島→艫島)に流れついた。その島には小祠があり、少彦名命、大穴貴命の二神がまつられていたので数々の品を神々に捧げ た。その後、仁徳天皇が、この島へ狩りにきた時、その話を聞き、島では何かと不自由と社を加太の磯間の浦に遷し、神功皇后(息長足姫命)も併せて祀ったと ある。もしかしたら物部氏と蘇我氏の対立かもしれない。
 この淡島神社で少彦名命と神功皇后の男女一対の御神像が並べられたのが、男雛女雛の始まりで、御遷社の日が仁徳五年三月三日(美美→母母=桃)だったの で、この日が雛祭りの日になった。雛祭りの語源は、スクナヒコナ祭りが簡略化して、ヒコナ祭り→ヒナ祭りになったともいう。また、一説に淡鳥願人達が語り 聞かせたもので、淡島様は天照大神の第六番日の姫君。十六才で住吉明神の一の后になったが、下の病に罹り、綾の巻物、十二の楽器と一緒に虚ろ船に乗せられ て堺の浜から流されたが、翌年三月三日に加太の栗島(淡島)に流れ着いた。淡島様はさっそく巻物を取り出し、雛形を刻んだ。これが雛遊びの始まりである。 その後、淡島様は同病救済の悲願をたて、死後、この地に神として祀られたと云う。

タクマ=漢字音、投[dug][dәu][t`әu]、馬[măg] [mă(mbă)][ma]が、dug・mag→dugu・ma(詫間・田隈)→dәgi・ma(當麻)→dәdi・ma(田道間)→dәji・ma(但 馬)→daima(対馬)→danba(丹馬)、或いは、「タチマの→タジマ(田島→但馬)の」へと転音したと考える。

~里=佐賀県伊万里市二里町中里、長崎県北松浦郡福島町里免、同県松浦市御厨(み くりや)町里免、同県松浦市志佐町里免、同県北松浦郡鹿町町口ノ里免、同県北松浦郡佐々町里、同県佐世保市中里町・名切町、同県東彼杵郡東彼杵町里郷・名 切、同県大村市中里町、同県西彼杵郡多良見町中里名・名切、同県長崎市中里町等。

當麻(たいま)寺=草創については不明な点が多く、『上宮太子拾遺記』嘉禎 3(1237)年所引の『当麻寺縁起』は、創建の年は同じく推古20年とし、当初は今の當麻寺の南方の味曽地という場所にあり、朱鳥6(692)年頃、現 在地に移築されたとする。前身寺院の所在地には味曽地とする説の他にも、弘長2(1262)年の『和州當麻寺極楽曼荼羅縁起』等、河内国山田郷とする史料もあり、その河内国山田郷 の所在は交野郡山田(現大阪府枚方市)とする説と大阪府太子町山田とする説がある。また、聖徳太子の父用明天皇と母當麻倉首比呂娘飯女之子(別説葛城直磐 村娘広子)との間に生まれた當麻(たいま)皇子と在る。現在、西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」とそれに纏わる中将姫伝説で知られる。
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  1. 2016/09/12(月) 08:56:09|
  2. 6.国々の比定
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