見まごう邪馬台国

◇娑麼

景行熊襲討伐図 
 先述の如く、福岡県内の地名「道目木」には神籠石を伴うが、何故か、一つだけ福岡県東端の京都郡(現みやこ町)勝山町、周防灘を望む御所ヶ谷神籠石には、ずっと北側、同県北九州市小倉南区徳力(とどろき→とづろき→とくりき)以外、道目木・百々や轟(木)は見えない。
  当初、斯馬国や已百支国が管理した長戸(水道)には沿岸航海民の家船が屯し、一大率の武官等が常駐したが、海退や土砂の堆積で使えなくなり、①伊都(yi-du/yi-do)→厳(いづ)→出とされる。狗奴國→邪馬国の攻勢で、その伊都国も東遷、「記紀」筑紫君磐井(竺紫君石井)の乱等を経て、位置関係が変化、後の筑紫(白日別)の一部=糸(いと)=怡土となる。

 「記紀」日向(ひなた)峠付近から南九州へ追われた「轟(木)」を熊襲(熊曽)とし、瀬戸内海や日本海沿岸部を東行した「道目木」「百々」等を東国へ追われた蝦夷とし、そうした経緯を垂仁天皇の皇后佐波遅比賣命と、その兄沙本毘古命の謀反や、景行天皇(小碓命)の熊襲(熊曽)や蝦夷等、異民族の討伐として記述する。

 邪馬壹国の前代、海民は北部九州から長門を経て日本海沿岸部に拡がっていたが、垂仁天皇(奴国王)が旦波美知能宇志王(投馬道主王)の娘を娶ると、(アスィシカ→アシカ)と奴国の連合委奴(ワニ)国として成立、70~80年を経た後、投(たじま)国は新たに渡来した伊都国系の男子を婿とし、争乱の後、邪壹国伊都国連合が成立する。
 おそらく、「紀」謀反を起こした皇后の兄を伊都国の副官泄謨觚(せまこ→しまこ)斯馬(せま→さば)国王(後の百済太子嶋君?)として化体、邪馬壹国伊都国連合と和せず南下していた狗奴国王卑彌弓呼と官狗古智卑狗の北上を助けたのか、女王卑彌呼(沙本毘賣)が死した後、宗女臺與は東遷する。尚、「記紀」旦波美知能宇志王娘、比婆須比売命、弟比売命、真砥野比売命を召し入れるとして女系統の変化を示唆する。

 投馬(タグマ)を当麻(たぎま→たじま→たいま)=但馬(たじま)・旦波(たんば)とすれば、海民の投馬国が斯=佐波(さば→せま)=狭(せま)い土地と、雲海上に浮かぶ山頂の如き海上の島(チマ→ジマ)=志摩、針間ちぬま→はりま)の二つに分裂、奴国王兕馬觚(チマコ→ジマコ)の系統の一部は服従せず、狗奴国として南下(くだ)り、対立する。
 
 「景行紀」熊襲討伐発進地、周芳の沙麼にも関連し、兄沙本毘古(大彦忍代別?)と共に謀反を起こした垂仁皇后の佐波遅比賣(沙本毘賣)命の本拠地を「サバ」とすれば、先の福岡県糸島郡二丈町佐波付近が、本来の娑麼で、海際迄、山が迫り、狭い事が国名「斯馬」の由来だろう。
 この熊襲討伐・巡狩の経路を地図上で確認すると、地名「轟(木)」が点々と付随、終着点の福岡県朝倉市杷木町道目木(神籠石)南側の同県うきは市付近から日向から大和に帰還したとする。
 これを宮崎県北部の日向とせず、南下していた景行天皇→小碓命→倭建命が福岡と佐賀県境の日向(ひなた)峠から二丈町佐波付近へ凱旋、福岡県東部、更には周防の娑麼へ宗女臺與(佐波遅比賣→比婆須比賣)を追い払うが、後、白鳥(おおとり)=倭建命として南九州に蘇る。

 「記」母系祖を垂仁天皇(倭母)皇后の佐波遅比賣(沙本毘賣)→旦波美知能宇斯王の娘、比婆須比売、真砥野比売の二系統とし、父系祖景行天皇を大碓命と、小碓命→倭比賣→倭建命等、幾度か変化(へんげ)させる。その理由は南北朝を経て、熊襲(熊曽)や蝦夷等、全てが併合されたため、その前代として初代の神武天皇と10代の崇神天皇の間に欠史八代の天皇を父母と祖父母系統として挟み込み、夫々、後代の天皇へ繋ぎ、そうした矛盾を解消した。

伊都=伊[・ıər][・ıi][i]・都[tag][to][tu]の上古音「伊都(ヤータ)」としたが、中古音や中世音の変化に拠ると、イイトゥ(飯田)→厳(いつ)・五と考えられる。現代北京音には[du(ツ)][dou(ト)]の二種があり、夫々意味が違うとあり、前者[du]=集まる→みやこ、後者[dou]=全体・全てと在り、幾つかの島だったものが繋がり、一つになり、半島化=全体を示唆するのかも知れない。
 後代、中大兄皇子(天智)が百済の亡命貴族「達率」等に造らせた長門城と筑紫の二城は重複記載ではなく、戦局の悪化等の理由で、当初、長門城は雷山神籠石、筑紫の二城は怡土城とおつぼ山神籠石だったが、基肄城と大野城に移ったのかも知れない。

記(紀)=十五年春二月乙卯朔甲子喚丹波五女納於掖庭、第一曰日葉酢媛、第二曰渟葉田瓊入媛、第三曰真砥野媛、第四曰薊瓊入媛、第五曰竹野媛。秋八月壬午朔立日葉酢媛命為皇后以皇后、弟之三女為妃唯竹野媛者因形姿醜返於本土則羞其見返到葛野自堕輿而死之故号其地謂堕国今謂弟国訛也皇后日葉酢媛命生三男二女第一曰五十瓊敷入彦命、第二曰大足彦尊、第三曰大中姫命、第四曰倭姫命、第五曰稚城瓊入彦命、妃渟葉田瓊入媛生鐸石別命、与胆香足姫命、次妃薊瓊入媛生池速別命、稚浅津姫命。
 「古事記」第11代垂仁天皇の后妃として四姉妹が召されたとあり、比婆須比売命弟比売命(沼羽田入毘賣)・歌凝比売命円野比売命が記載される。後者の二人は醜かったために返されて円野比売は乙訓(おちくに)で自殺したとある。こうした事の意味は未だ判然としない。

百済太子嶋君=「雄略紀」六月丙戌朔孕婦果如加須利君言於筑紫各羅嶋産児仍名此児曰於是軍君即以一船送於国是為武寧王百済人呼此嶋曰主嶋(ニムリシマ)也。筑紫の各羅(かから)島で生まれた島君(シマクヌ→しまこ)が百済の武寧王となる。

宗女臺與=女王卑彌呼(佐波遅比賣命→沙本毘賣命)、臺與(比婆須比賣命→沼羽田入比賣)、奴国王(垂仁天皇→品牟都王→本牟智王)、伊都国王(沙本毘古命→大碓命→景行天皇)、狗奴国王卑彌弓呼(小碓命→倭建命)と壹與(景行天皇の妹倭比賣→弟比賣命→円野比賣)と云う関係になると思われる。

海馬(あしか)=「記紀」冒頭の「ウマアシカビヒコヂ」と考えられる。騎馬民族の足が馬で在る様に海民の足を船とし、倭国の海民(鹿)の倭人を足(機動力)を担う国とした。外洋航海民(穂積)と沿岸航海民(住吉)+河民(阿曇)の二系統に分裂、
 当時、通常、馬が一日で進む平均的な距離と船脚を略同距離に設定していたとし、狗邪韓国~對馬国~一大国~末盧国への三度の外洋航海に要する平均日数を予備日や休息日等を含めて10日、帶方郡から狗邪韓国迄の総日数を25日~30日とした。


針間(ちんま→はりま)=「針」の上古・中古音の針[tiəm][tʃıəm][tʃıəm](チェム/チュム)と間[kăn][kʌn][kian]の訓に拠る仮名(ま→ば)に拠る呼称。小(ちま→ちぬま)い、禿(ちび)る→小(ちび)等と同源。後代、土砂の堆積で張り出し、土地が拡がったためか、張間(ハリマ)=播磨(兵庫県の瀬戸内側)、茅渟海(ちぬま→ちぬのうみ)=大阪湾ともされたのかも知れない。尚、足の悪い跛(ちんば)と繋がるのかも知れない。
 尚、景行天皇は吉備臣等祖若建吉備津日子の娘、針間之伊那毘能大郎女を娶り、櫛角別王、大碓命、小碓命(倭男具那命)、倭根子命、神櫛王を生す。その櫛角別王は「クシツヌ→キシツン(岸突)」で、筑紫と呼ばれた博多湾岸(津岸=つくし?)や有明湾岸(地岸=ちくし?)の如く幾つかの河口の吐き出す土砂が足の伸びる如く、櫛状に細長く堆積し、岸が角の如く延びる事。その間に薄く堆積した土砂が扇状に拡がる様子を大碓・小碓の「ウス」は示唆するか。
 倭根子=背負子(しょいこ)をネコとも呼ぶので、土地(やまと)の背負い守るのだとすれば、倭(ヤマ・ト)=八間・台は区画を分ける役所と云う語義かも知れない。尚、本来、倭(やま)で、海幸山幸神話の如く、海民の領域を分ける(区画)と云う意味で使われた思われる。

娑麼(さば)=狭端(さは→さば→さま)・狭間(はざま)で、通説的には山口県佐波郡徳地町鯖・西大津・伊賀地(出雲神社)・大野・八坂・御所野・奈良原か、出自を百済王余璋の皇子琳聖太子後裔を称す大内氏の居処、佐波川河口の同県防府市佐波・多々良付近とも考えられる旧く糸島半島と福岡県前原市の間には狭い水道(長戸→長門)があり、独立した三つ程の小さな島(しま→ちま)に別れていた。また、大内氏には任那系帰化氏族多々良公の裔とする説もあり、福岡県前原市の西側、同県糸島郡二丈町佐波と多々羅、その東側、同県福岡市東区多々良がある。
○佐波良(さはら)神社「神阿多都姫命、佐波良神」。(岡山県真庭郡湯原町大字社字谷口大社1272)境内には後期古墳が分布していた。鉄の生産地域であり、これに支えられたものであろうとある。
○矢川神社「大己貴神、矢川枝姫命」古事記・大国主神系譜中、この大国主神、葦那陀迦(アシナダカ)神、亦名八河江(ヤカハエ→ヤカエ)比売を娶り、生みませる子、速甕多気佐波夜遅奴美(ハヤミカタケサハヤチヌミ)神と出ている(滋賀県甲賀市甲南町森尻310)。
佐和良義神社「加具土神」天兒屋根命『社前石灯籠の銘:明和五(1768)年 (大阪府茨木市美沢町9-27)住所は三島郡玉櫛村、また、澤良宣村の産土神とする。『平成祭礼データ、持撰神名牒』  平群都久宿禰『神名帳考証』 早良臣祖神歟『神社録』
 サハラギ→サワラギの意味については諸説、檜の木に似た椹(さわら)か、湿地帯に咲く菊科の多年草で澤蘭(佐波阿良々木)がある。創建年代は不明。式内社。東奈良遺跡は弥生期~室町期にかけての複合遺跡であり、平原古墳と同系統の方形周溝墓、銅鐸の鋳型等が出土している。
○形部(かたば)神社・佐波良神社(岡山県真庭郡湯原町大字社字谷口大社)境内には後期古墳が分布。鉄の生産地域。


矛盾=当初の目的、都合が悪いのではなく、思想や宗教性等、意識の違う、そうした人々をも、天皇(天照皇祖神)を中心として日本民族としての同一性を持たせる事が目的だったと考えられる。


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  1. 2017/01/20(金) 10:02:00|
  2. 7.傍国考
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