見まごう邪馬台国

◇南加羅

前項で述べた(図1緑点線)付近一帯が、狗邪韓国の比定地ではないのかと云う人も居られるだろうが、倭人東南之大海中~云々とし、帯方郡治下の西沿岸航海に従事した沿岸航海民韓(わぬ)と邪馬壹国伊都国連合に服属した外洋航海民狗邪韓(くぬがわぬ)国以外に倭種として区別した韓国弁韓に服属した海民の弁辰狗邪(くぬが)国、更には九州東北沿岸や日本海沿岸(臺與系?)や四国西北沿岸(壹與系?)にも倭人系海民や蛋民が居り、九州東南岸(宮崎県)には侏儒国があると云う認識が「陳寿」には在ったと考える。
 
image003.jpg私見では、朝鮮半島東南隅と日本海沿岸部、山陰の石見・出雲や北陸(くぬが)の越国方面を往来する倭人海民の拠点で、後代、北陸を拠点とした継体天皇とも繋がる南加羅(下図4参照)で「記紀」任那日本府の領域とも考えられる。
尚、半島東北部の大陸日本海沿岸部に住んだ挹婁人(図2橙点線)は、養豚が盛んで豚を主食とし、豚の皮を着物にした。夏には略全裸で僅かな布だけで前後を隠したが、冬には豚の膏(あぶら)を身体に数センチの厚さに塗って風や寒さを防いだとある。人の少ない東北部の長白山脈や咸鏡山脈等の山に住み、衆は規律に服さず、船が巧みで、屡々、近隣諸国を寇掠したとも記される。おそらく、沿海州南部を拠点として半島沿岸部断崖の陸(くぬが)に上がるか、湾入する海上の家船で住む等、農耕地を持たない彼等も遊牧民と沿岸航海民や漁労民等の交雑種で、前漢の台頭に拠って周辺部に追われた。帯方郡西海岸や韓国南岸部に服属する沿岸航海民や蛋民の州胡等とも同系だが、環境の違いに因り、その生活習慣が変化したと考える。
最後に纏めると、「倭人伝」帯方郡から倭人領域北岸狗邪韓国迄の総距離七千余里と「韓伝」方可四千里との因果関係は無視できないので、帯方郡衙をソウル北側、平壌の開城(ケソン)付近の帶方郡衙から韓国を歴て五千餘里(約315+210餘㎞)程南下後、西南隅の木浦から東へ二千餘里(約210餘㎞)程水行した慶尚南道馬山(瀆盧国?)の対岸付近に到る里程が水行七千餘里(約735㎞)となる。
私見では、狗邪韓国の比定地は半島東南部の現釜山市から40~50㎞程手前の南海に浮かぶ弥勒島や巨済島か、東向きか西向きに突出した殆ど平地のない半島(山島)とする。狗邪韓国~末盧国、伊都国に常治される一大率が検察する瀚海を往来した。
*図3(出所不詳)
 
 
image004.gif2013年8月、滋賀県高島市の上御殿遺跡(BC350~AD300)で、内モンゴル地区の黄河に囲まれた地域(河套)オルドス(鄂爾多斯)辺りの北方騎馬民族が使うものに類似する短剣の鋳型が発見された云う。これなど朝鮮半島東北部から女王国東千余里の倭種の海民に拠ってもたらされたと推測される。詰まり、南沿岸東南隅には、後代、南加羅=金官加羅(慶尚南道金海)と呼ばれた邪馬壹国に服属しない倭人海民の領域があったと考える。
「継体紀」21年夏6月壬辰朔甲午近江毛野臣率衆六万欲往任那為復興建新羅所破南加羅(ありしひから)喙己呑而合任那於是筑紫国造磐井陰謨叛逆猶予経年。「同」23年是月(春3月)遣近江毛野臣使于安羅勅勧新羅更建南加羅喙己呑。喙己呑(トッコトン)は慶尚北道達城郡慶山とされる。詰まり、半島東南隅にも帯方郡や邪馬壹国に服属しない彼等が交易の拠点とした領域があったとして良く、後代、北陸(くぬが)を拠点とした継体王朝と対立した筑紫君磐井等とも関連が在ると思う。(了) *図4(日本の名著「日本書紀」中央公論社)
オルドス(鄂爾多斯)と云う地名は、明代以降、この地に住み着いたモンゴル人部族の「オルドス」に由来する。それより遙か前の旧石器時代から人が住み、特にBC6c~AD2cにかけて遊牧騎馬民族に拠るオルドス青銅器文化(殷の影響?)が栄えた。匈奴、趙、秦、漢によって次々に征服され、南部には万里の長城が築かれた。その後も匈奴系や突厥系等の遊牧民が住み、遊牧民族王朝の遼・西夏・元等、或いは、中華王朝の唐・明等に拠る支配を受けた。
 
 
 
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  1. 2014/07/27(日) 11:49:55|
  2. 2.領域の表記
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