見まごう邪馬台国

◇葬送

 女王卑弥呼の墓が出てきたら、そこが邪馬台国と云う研究者も多いが、「魏志倭人伝」以下の記述から狗奴国との戦いが緊張感が伝わり、女王卑彌呼が、その最中に亡くなったとすれば、当初からの所在地や、卑彌呼の宮殿近くに葬られたと云う確証はないので、残念ながら、それも怪しいと云わざるを得ない。ただ、墓が発掘される事で、今迄とは違った議論や論考がなされればと思う。

  倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯烏越等、詣郡~(中略)。卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩。殉葬者奴婢百餘人。

 
仮に邪馬壹国の関係者には、海民を伴い南西諸島を経て渡来した揚子江付近の水耕稲作民と大陸北部から朝鮮半島を経て渡来した人々が混在するとして、棺内に骨が残っており、近縁のDNAを持つ骨が出るか、彼女のDNAが分かっていれば良いが、それも儘ならない。
 邪馬壹国女王卑弥呼とでも記された墓誌が出土し、墓と確定しても、上記の理由で、そこが邪馬壹国女王卑彌呼の宮殿が所在したと確定する事は避けなければならない。

 私見では、通説的な伊都国の比定地の福岡県糸島市有田の平原遺跡一号墓、周囲(18×14)に溝を回らせた長辺4.5mの墓坑中に長さ3mの割竹形木棺を検出。棺内の頭部と右腕の付近で硝子勾玉・管玉・小玉、瑪瑙管玉・小玉、琥珀管玉・丸玉が多量に出土。棺外の頭側に中国製素環頭大刀、墓坑の四隅には埋葬時に破砕された鏡が39面も出土(34面が中国鏡、5面が日本の彷製鏡)。

 遺体を安置する棺の外、頭側に置かれた大刀は被葬者の霊魂の蘇りを阻止するための呪詛で、また、墓坑の四隅から詰まり、棺外から粉砕された鏡39面が発掘されたとあり、もし自然死だったとすれば、こうした葬送の仕方は有り得ないと思う。
 おそらく、王や巫覡等、その持ちものを壊して被葬者の強い霊力を封じ込めるための呪詛と考えられる。その被葬者は女性とされるので、もしも骨が残っているならば、現在の技術でDNAを鑑定して欲しいものだ。
 「倭人伝」祭祀を司る邪馬壹国の女王卑彌呼には強い霊力があったはずだが、狗奴国の北上に抗しきれず、殺されたのかも知れない。何れにしても逃れてきた女王卑彌呼と、その関係者が葬られたのだろうが、国の政を佐けたとされる男弟、詰まり、伊都国王は被葬者ではない。 
 尚、5号墓も1号墓と略同様の方形周溝墓だが、一回り小さい。こちらが伊都国王墓かとも考えたが、両墳の年代差は正確には判らないので、定かではないが、狗奴国に靡いた女王卑彌呼の宗女「壹與」の墓かも知れない。その周溝部から甕棺が出土したと在る。

 枚数の39面は3の倍数(3×13)で、これも何かの呪詛だろうが、朝昼夜、潮汐(干潮=ひると満潮=みつ)等、日々の繰り返しと関連が在り、最高数「九」とすれば、被葬者の霊力や人生の終焉を意味するのかも知れません。

 狗奴国の攻勢に追われて、東千里の海民を頼り、遠賀川沿岸部へ移動した邪馬壹国伊都国連合の人々は石見や出雲と繋がる。後代、「記紀」の云う出雲国譲に関係があり、平原遺跡の四隅を丸くした方墳は、出雲付近の四隅突出型方墳と何らかの繋がりがあると思う。ただ、四方の丸い平原遺跡と四隅の突出した出雲では何らかの違いが在るとして良い。

 狗奴国の北上に伴い邪馬壹国と伊都国が、已百支国の比定地、福岡県前原市(糸島市)多久有田の東側、高祖王丸(おうまる)から福岡県福岡市早良区有田、遠賀川河岸「御牧郡」北側、福岡県宗像市田久・田熊・王丸・武丸(たけまる)、島根県平田市多久町、同県益田市有田町へと移動した。尚、宗像(武ノ像)は、神武や武烈、天武・文武・聖武・桓武等、通字「武」を持つ天皇に関係があると考える。

3の倍数=中国製の鏡34面を魏王から授けられた100枚の一部として、残りの66面は、宗女壹與(平原遺跡五号墓内?)が譲り受けたのか。或いは、宗女臺與が持って逃げたのか。また、五号墓の周溝部から甕棺が発掘されたとあるので、百人が殉葬されたと云う事と関係するか。

四隅突出型古墳=弥生時代の山陰地方の墳丘墓の大きな特色として「四隅突出型墳丘墓」がある。墳丘の表面に化粧石を貼り、墳丘の四隅を突き出させる独特な形をしている。山陰地方を中心とした日本海沿岸に分布し、北陸地方にも石を貼らない形式の四隅突出型があり、それらを含めると約100基を確認。島根県(宍道湖南岸の出雲市・11基、松江市・7基、安来市・9基等)、鳥取県(淀江町福岡・17基)、広島県(三次市・16基)、岡山県(鏡野町竹田・竹田8号)、兵庫県(加西市網引町等、2件)、福井県(丹生郡清水町等、3件)、石川県(松任市一塚町・一塚21号)、富山県(婦負郡婦中町・六基他)、福島県(耶麻郡塩川町・舘ノ内1号周溝墓)が在る。
 天石門別(天磐門別)神社も幾つか祀られる中国山地には、出雲神社・清水寺・蓮花寺の三つを伴う地域が二ヶ所あり、京都府亀岡市千歳町千歳の出雲大神宮に向かったか、ここから出雲へと人々の移動があったのか、出雲国譲に関係が在るのかも知れない。更には長野県や福島県へと逃げ延びた人々も居るのかも知れない。
 もう一つ、鳥取県・福井県・石川県・富山県系統は、広島と島根県境、伊邪那美の墓と伝承される比婆山東麓付近から北上、日本海側へ出た。未だ、その詳細な経路は分からないが、越前から招かれたと云う継体天皇との関係が考えられる。

已百支国(タパケ→タァケ)=(4)都支国を建・武(タケ)国としたが、剣の国が「建(たけ→たち)」と「武(ほこ)」系統に分裂する事と関係が在るのかも知れない。それは「記」速須佐之男命が天照大御神に献上するとしたヤマタノヲロチの尾から出てきた草薙剣と、誓約に於いて天照大御神の物実とした十握剣(羽羽斬剣)は別のもので、十握剣から生まれた三女神が建速須佐之男命の御子とされる。
 他にも、広島県甲奴郡甲奴町有田、同県山県郡千代田町有田、岡山県笠岡市有田、和歌山県西牟婁郡串本町有田・出雲、同県有田郡吉備町長田、同県伊都郡高野町・同郡カツラギ町志賀。 



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  1. 2017/03/21(火) 21:36:22|
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