見まごう邪馬台国

◇奴国

「東夷伝倭人条」自女王國以北其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有、次有好古都國、次有不呼國、次有、次有對蘇國、次有、次有呼邑國、次有、次有鬼國、次有爲吾國、次有、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有、次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國男子爲王。其官有狗古智卑狗不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。男子無大小皆黥面文身。自古以來其使詣中國皆自稱大夫

 上記、「奴國」と邪馬壹国迄の道程に見える奴国が、同国か、その飛び地か、別国なのか、陳寿は何も示唆しないが、「東夷伝韓条」馬韓や辰韓と弁韓にも同国名の重複があり、魏志一行が向かわなかった「奴国」を邪馬壹国への道程でも記述し、再度、傍国の最後に記載する事には、何らかの意図があり、陳寿の筆法として間違いない。
 況んや狗奴国か、女王国東渡海千餘里の倭人を含めないと、30国にはならず、狗奴国を含む倭地、女王国への道程の国々や、余の傍国を含まない邪馬壹国、女王国領域で倭地を含まない倭人系海民の領海(瀚海)として書き分ける。

 傍国は斯馬国を起点に東へ拡がり、不呼国を境に西南へ向かう。要所の奴国で交差、西北方面と西南方面に分かれる。(12)華奴蘇奴国から西側へ奴国の中枢(佐賀県武雄市内)を経て(20)烏奴国、そこから佐賀県伊万里市方面へ北上すると、(19)支惟国に至る。一方、そのまま西南方面に向かえば、投馬国連合の領域に至る(前項の配置図参照)。

 委奴国が邪馬壹国伊都国連合へ交替した理由を、殷王朝の最後王紂の叔父胥余(しょよ)が建国した箕子朝鮮が、周の武王が召公奭を封じたと云う燕の国人衛満に滅ぼされたため、逃れて渡来した人々を委奴国の王族関係者に、漢の武帝に滅ぼされた衛氏朝鮮の王族関係者も渡来したためとする。

 例えば、現代韓国語の成立を、殷王朝系の箕子の関係者に拠る北方系漢語や衛氏関係者に拠る騎馬民族系言語と、大陸東岸を北上した沿岸航海民系や南西諸島を伝い渡来した夏后少康に近い海民の言語等の混合して、「倭人条」冒頭の「舊百餘國漢時有朝見者、今使譯所通三十國」を、文脈から解すると、旧来の委奴国連合の宗主国奴国と同系の狗奴国も使訳を通じる必要はないと思われる。詰まり、使訳を務めた大夫は、「魏」の用いた言語を解した倭人系の航海民とせざるをえない。

 朝鮮半島情勢の悪化に拠り、倭人系海民(綿津見)が航海民の住吉系と河川民の阿曇系に別れたため、倭国の争乱となる。その阿曇系木国(紀伊国)に繋がると思しき、以下の地名が何れも河川沿岸部に見える。

 福岡県大牟田市教楽来(きうらぎ→きょうらぎ)・松浦町
  同県北九州市八幡西区京良城
  同県三井郡北野町高良(こうら)
  同県久留米市高良内町
 佐賀県唐津市七山村木浦(こうら→きうら)・博多
  同県東松浦郡厳木(きうらぎ→きゅうらぎ)町
  同県伊万里市松浦町久良木(きうらぎ→くらき)
 長崎県北松浦郡世知原町木浦原免
  同県西彼杵郡大瀬戸町雪浦久良木郷
  同県天草郡松島町教良木
 大分県佐伯市宇目町木浦内
 愛媛県越智郡伯方町木浦
 新潟県西頸城郡町能生町木浦
 島根県八束郡鹿島町古浦(こうら)

 佐賀県多久市(伊都国)との境、女山峠西麓、委奴国連合宗主国の奴国中枢、同県武雄市若木町川古・御所の南側に(13)鬼国を配置し、奴国の出城(15)鬼奴国との連繋を絶ち、投馬国連合や狗奴国の動向を監視する役目として一大率の武官を派遣したのか、長崎県東彼杵郡波佐見町鬼木郷(おにぎ)=鬼城?との境、佐賀県武雄市板屋、同県藤津郡嬉野町一位原・築城が見える。

自女王國以北~=(倭人系海民の領海を含まない)女王国領内、北から道程、末盧国から不彌国迄の戸数と道里は略載できるが、余の傍国は遠く途絶えており、(道程に含まれないので訪れておらず)詳らかにできない。(女王国への道程最北、末盧国の)次に斯馬国有り~云々、次に奴国有り、これ女王の治める境界が尽きる所。その南狗奴國あり、男子を王と為す。その官、狗古智卑狗あり、女王国には属さない。郡より女王國に至る萬二千餘里。その男子、大小となく、皆黥面文身す。古より以來、その使いが中国に詣でると、皆、大夫を自称す。

30国=「倭人条」の冒頭、旧百餘國、漢時、朝見者有り、今、使訳を通じて朝見する国が三十国とすれば、狗邪韓国・対海国・一大国・末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬壹国に傍国最後の奴国を含めた21ヶ国を足すと、30ヶ国だが、同国とすれば、狗奴国を含めなければ、29となり、足りない。また、旧百余国から邪馬壹国伊都国連合の三十国を除く70余国の全てが狗奴国の構成国として分裂したのかは判らない。

西北方面と南西方面=傍国は奴国起点に東西方向にアラビア数字「8」を横向きか、無限大(∞)の形状に列んでおり、自女王國以北其戸數道里可得略載~=女王国より、以て北側、その戸数、道里を略載できる~として、初め、倭人の領域を帶方郡の東南方面とした後、半島沿岸部を南下し、東行して到着した狗邪韓国で、その北岸として、邪馬壹国と伊都国連合国の領域を南側に限定した理由の一つで、中でも南側への道里上に位置する国々は、戸数や道里等を略載できるが、その東西に拡がる余の傍国には訪問していないので、それを省くと云うニュアンスになる。

胥余=殷の貴族「箕子」。伝説では、叔父胥余(しょよ)は、甥とされる殷王朝の紂王の暴虐を諫めたが用いられず、殷が滅ぶと朝鮮に入り、箕子朝鮮の王として人民教化に尽くし、技術や思想・言語等も伝え、文化的な整備したと云われる。

文脈=旧百余国中、漢王朝時、(使訳を用いず)朝見する者(大夫)があった。今、使訳を用いて朝貢する三十国となる。詰まり、年を歴た争乱後、男王を頂く、旧来の委奴国(海民の投馬国連合を含む)連合から選ばれた女王卑弥呼を共立して収めたのか、政を助ける男弟との間には、卑彌呼の食事を供したり、伝辞を務める男子が居り、詔を伝える役目を務めたとすれば、用いる言語が変わったと推測される。そうした変化を嫌い、狗奴国は独立した。

言語=当時、中国全土で、全く同じ言語が用いられていたとは考えられず、南中国や東南アジアに住んだ海民を外洋航海や沿岸航海に拠る旅客や、物資を諸外国に運び交易するのが生業とすれば、諸国の言語を解するバイリンガルであった可能性は高い。
 昔夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害、今倭人亦文身、以厭水害也。とあり、浙江省の会稽山付近に封ぜられたと伝承される。おそらく、夏后少康=夏王朝の王子の関係者で呉人に近い海民や、不老不死の妙薬を求めて渡来した徐福等、中国大陸東南岸の言語を齎したと考えられる。

御所=委奴国連合の王が坐したのか。為吾(はぎ/をぎ)国の比定地とした長崎県佐世保市萩坂町と早岐の瀬戸を挟んだ西側、同市針尾島の江上町も御所・名倉があり、投馬国の官彌彌、或いは、副官彌彌那利が坐したとも考えられる。福岡県京都郡勝山町(みやこ町)御所ヶ谷・高屋、同県福岡市中央区御所ケ谷、熊本県上益城郡矢部町御所・市原・一の瀬・大野、同県天草郡(天草市)御所浦町。

嬉野町一位原=佐賀県伊万里市と同県鹿島市(丹生神社)への分岐点にあり、伊万里焼の一種、嬉野焼の窯元がある。当時、塩田川を利用した。尚、丹生神社の見える紀伊半島の三重県一志郡嬉野町一志(いちし)、同郡一志町、同県伊勢市一志町、同県伊都郡カツラギ町御所(ごせ)・教良寺(きょうらじ)・萩原、同郡高野口町大野・九重・名倉(なぐら)、同郡高野町筒賀(丹生神社)、同郡花園村(有田川)がある。*教良寺→木浦路
 突出した荒磯(あらいそ)とは対照的に湾曲した入江の奥にある浦磯(うらいそ)と云う関係からすると、河浦(こうら)→木浦(きうら)の転音で、湾曲した河川内側の泥濘地が治水等で水が抜けた浦州野(うらすの→うれしの)、教楽来(きょうらぎ→きうらぎ)は、泥濘地の水を抜くために通した人口の河川か。 


   
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  1. 2017/07/23(日) 17:20:00|
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