見まごう邪馬台国

(18)巴利国

  (18)巴利国

 使われる漢字は以下の如くある。

 巴[păg][pă][pa]=(字統)器の把手の形。「説文」蟲なり、象を食う蛇なりとし、字を蛇形に解する。邑[・ıәp][ıәp][iәi]=(字統)囗(国構・イ)=城壁を巡らせた所と、巴=多くの人が生活するとある。
 利[lıed][lıi][li]=禾と刀の会意文字で、禾稲を刈り、収益を得る事=利益とある。(字統)金文には犂鋤や犂の形で見える。

 漢字音を併せると、「パェッリェッ→ペレ→パリ→ハリ」で、近似音の地名「原・春・針・丸(はら→はる→ばり→まる)」等がある。先述の福岡県福岡市博多区金隈西側、同県春日市春日原、東側の福岡県宗像市武丸・三郎丸等、河原や川縁の泥濘地に治水を施して開墾した耕作地をを持つ治国・墾国で、他にも筑後川や遠賀川沿岸部の治水工事に拠る耕作地や、河口付近の泥濘地に多い地名になりそうだが、比定地の流れに順い付近の地図を見ると、海岸から切り立った崖が多く、河原や扇状地の拡がる地形ではないので、水田等の耕作地、墾・治(はり)を国名にするには無理がある。

 そこで「ペレ→ペリ→ヘリ」とすれば、九州西北沿岸の縁(へり)、長崎県北松浦郡田平(たびら)町里免・荻田免・一関免・亀免一帯になる。付近の里田原遺跡では、鍬や鋤等の農業用具、弓やタモ網等の漁労用具、杓文字や藤籠といった生活用具等、多数の木製用具が発見され、水田へ水を引き込むための水門や板や杭を用いた護岸の遺構が検出された。
 用字は、長崎県北松浦郡田平(たびら→テヌベラ)町に付く同県平戸市の地形から器と把手に擬えたのかも知れないが、「説文解字」の巴=蟲なり、象を食う蛇なりとあり、委奴国連合宗主国の奴国を分岐点にして南西方へ向かった傍国(14)為吾(ヲギ/ハギ)国の「為」の語義、象を使役する事に関連し、為吾国の人々を使役して犂鋤等を用いて治水工事を施す技術者集団で、水路等の土木工事を掌る人々と考えられる。
 尚、田平町荻田免(をぎためん)とあり、「為吾国」項でも述べるが、その訓音「ヲギ/ハギ」とも関連し、「利」=犂鋤の形とされる事から、鐴(へら)=犂(からすき)の耳、犂先(すきさき)の後方にあって土塊を反して砕く部分で、平に均す事にも繋がり、何らかの農耕民との繋がりを無視できないと考える。

 また、長崎県北松浦郡田平町一関免(いちせきめん)と在り、古来、ここは肥前(長崎県)や薩摩(鹿児島)へ向かう重要な沿岸航路の水道で、邪馬壹国伊都国連合に於ても投馬国の動向を監視する重要な関所だったと考えられるが、何故か、付近に「イタ」と訓む地名は見えない。
 ただ、支惟(きだ)国との中間、長崎県松浦市御厨町板橋免・木場免・里免・亀免付近の最高峰と思しき「大岳」に山城があったとすれば、南西側を除き、略全域が見渡せたと考えられる。
 例えば、烏奴(大野)国・支惟(木須・木田)国の大野岳から同県平戸市大野町・田代・宝亀町(飯盛山)、同県北松浦郡鹿町町大野、同県西彼杵郡外海町神浦大野郷(大野岳)とあり、狗奴国の北上に拠り、支配権が変化したのか、烏奴国の支配を受けたとも考えられる。おそらく、追われた邪馬壹国伊都国連合に代わり、烏奴国に順う人々が武人として任用されたのかも知れない。
 740年に兵を起こした藤原式家宇合の子、広嗣の乱を鎮めた大将軍大野東人と副将軍紀飯麿とある。斯馬国とした佐賀県唐津市浜玉町五反田(ごたんだ)の大村で斬首されたと伝承される。彼を祭神とする大村神社の西南、松浦川を遡上した佐賀県東松浦郡(現唐津市)相知町大野、そこから支流の厳木川を遡上した東南には伊都国の比定地とした同郡(現唐津市)厳木(きうらぎ)町浦川内がある。
 
字統=漢字学者の白川静氏が、中国の古い金文等を用いて漢字の形状から読み解いた辞典。

田平町=大分県宇佐郡院内町田平・荻迫・櫛野があり、烏奴(大野)国の支配を嫌った巴利(へり)国と躬臣(くし)国は東遷したのかも知れない。肥国=建日向日豊久士比泥別と考えられる。

○里田原遺跡(平戸市田平町里免)=縄文時代・弥生時代、花粉分析によると、夜臼式土器の時期には、イネ属型の花粉や重弁が急増する。そして船の用材か、椎の木属、赤樫亜属等の照葉樹林の主要構成種の花粉が極端に減少する。また、イネ属型ともに沢潟属、水葵属等の水田雑草の花粉も増加する。この結果から夜臼式時期には、水田稲作農業が導入された事が明らかになった。夜臼式の時期に稲作が開始されていたのはプラントオパールの分析結果からも判明している。
 また、支石墓も確認されており、弥生時代当時としては最先端の文化が根付いた集落が存在した。
○中野ノ辻遺跡(平戸市北松浦郡)田平町荻田免中野ノ辻)=弥生時代・古墳時代 、標高60m、幅50m程の北側に延びる低丘陵上に21基の箱式石棺を検出。石棺は長さが110㎝以下の小型のもの、110~130㎝の中型、160~180㎝の大型のものに分けられ、夫々、小児用と成人用とに分けられる。
 石棺の主軸は東西を向き、頭は東を向いている。副葬品は 7基の石棺から出土しているが、 ガラス製小玉の他には管玉、鉄刀子が見られる程度である。時期的には石棺の構造と副葬品から見て、弥生時代末から古墳時代初頭に属するものと推定される。主な遺構として箱式石棺21基。

(14)為吾国=長崎県佐世保市萩坂(はぎさか)・同県東彼杵郡川棚町小串(をぐし)郷・白岳付近一帯に比定する。*招(をぐ)/剥(はぐ)・接(はぐ)

鐴(へら)=箆=竹・木・象牙・金属を細長く平らに削り、やや先端を尖らせた道具。折り目・標をつける。漆・糊を練ったり塗ったりするのに用いる。

大岳=長崎県松浦市御厨町板橋免・木場免・里免の大岳に山城が在ったと云う資料は見あたらないが、同県北松浦郡(平戸市)田平町里免には里城が在り、その死角になる南側、長崎県北松浦郡佐々(さざ)町木場免・里免・羽須和(はすわ)免(東光寺山城)にも佐々浦を見渡す位置に「大岳」、佐々(さざ)川を挟み西側、同町古川免の城辻山には鳥屋城が在る。尚、何れも詳細な資料がないので、建造年代等は不明。

大野東人=系図資料に「飯麿」は見えない。多氏や大野氏に東人は見えない。ただ、縣犬養宿禰祖東人(630年頃)、阿智大蔵氏後裔坂上東人(680年頃)、車持国子後裔東人(680年頃)、尾張宿禰大隅の孫、東人(不詳)、もう一人、恵美押勝の乱(706~764)に功があったとされる紀国造天道根命後裔(中略)「豊布流」の流れ伊蘇志臣東人(不詳)、「豊布流」祖の兄弟の流れ「大名草彦」後裔には大村宿禰(直)忠澄とある。
 伊蘇志臣東人の子、宗像朝臣綿麿(820年頃?)は、年代に開きが在り、再興したのかも知れない。大名草彦の父とも云われる久志多麻(くしたま/くちたま)彦とあり、更には、大名草彦の玄孫には紀直豊布流とも在る。


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  1. 2017/08/17(木) 00:20:18|
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