見まごう邪馬台国

(17)躬臣国

 躬[kıoŋ][kıoŋ][kioŋ]=弓(屈曲)と身との会意文字、身を屈めた状態を表す。
 臣[ghien][ʒıĕn][tʃ`ıen]=(字統)目を上げて見る形、その瞳を示す字形で、望の初文もその形に従い、王族出身の身分を示す文字。

 白川静編「字統」臣は、元々、神事等、聖職に従う者、神殿に捧げられた者(臣工)とあり、神祇官等は王朝が代わる毎に、その地位を失い「儀礼」夏祝・商祝等、死体を扱う最も低い職分とされた。後代、農業生産等が拡大すると、彼等の中から管理に任る者が生まれたとされる。
 当初、神官や神祇官を掌る国で、祖神に対して祈る一大率の大官卑狗(神祇官)を派遣する国で、前項の(18)巴利国や、(14)為吾国と共に農業生産の向上を祈念する神祇官と、その管理も兼務したのだろう。

 漢字の音を併せると、「キォヌヂェヌ→コヌヂ゙ヌ→クヂヌ→クチ(クジヌ→クシ)」になり、比定地の流れに順い、地形も考え併せると、前項の巴利(へり)国を廻り、南下した長崎県北松浦郡鹿町町口ノ里免長串免白岳神社)・大野木場(大観山)・関里、同郡佐々町里免・木場免(大岳)、同郡小佐々町口石免(三柱神社)・楠泊免(姫神社/豊玉姫)・矢岳(勝手神社)、同県佐世保市江迎町猪調(串田神社・天若子命)付近一帯に比定する。

 「クジ(クチ)/クシ(カシ)」=河川沿岸部や海岸や湾岸等の境界とすれば、九州西沿岸部を南下、早岐(はいき)瀬戸を通り、大村湾へ向かう出入口に位置する国で、漢字の語義から造船を担い、「東夷伝倭人条」禊ぎして航海安全を祈願、それを託される持衰(じさい)を排出する国と考える。

 関連の地名は、串野(くしの)・櫛野・串田(くしだ)・櫛田・岸田(きしだ)等があり、「くし」は、九州管内に以下がある。 

 長崎県西彼杵郡西彼町大串郷、同県東彼杵郡川棚町小串(をぐし)郷、同県大村市玖島(くしま)、同県南高来郡南串山町、同県南松浦郡奈留町大串郷、同県南松浦郡新魚目町小串(こぐし)郷、同県上県郡峰町櫛、福岡県朝倉郡夜須町櫛木、佐賀県佐賀郡富士町大串、同県東松浦郡鎮西町串、大分県日田市串川町、同県日田市二串町、同県東国東郡国見町櫛来・櫛海(くしみ)、同県南海部郡蒲江町猪串浦、同県宇佐郡院内町櫛野、宮崎県延岡市櫛津町、同県串間市串間、鹿児島串木野市口之町、同県揖宿郡喜入町瀬々串、同県川辺郡坊津町久志・同県肝属郡串良町。

 「記」肥国=建日向日豊久士(くじ)比泥別、皇孫邇邇芸命が天降った久士布流多気(「紀」槵觸之峯)、北部九州の称、築岸(チクキシ)→筑紫(チクシ/ツクシ)等に繋がり、誓約(うけいひ)後の乱暴狼藉に因り、高天原から神遣いされたスサノヲ命が出雲肥河上でヤマタノヲロチを退治する時、櫛(くし)に変えて御髪(おぐし)に挿した櫛名田比賣(「紀」奇稲田姫)にも関連がある。
 「記」天照大御神との誓約後、神遣いされた建速須佐之男命は、その冠称「速(はや→はぃえ)」=南風(はえ)に吹かれて北上、出雲の肥河上でヤマタのヲロチを退治した後、大山津見神後裔の櫛名田比賣を娶り、妻を出雲の八重垣(神籠石に囲まれた内側)に籠める。
 一方で、尾を斬り裂くと出てきた「記」草那芸大刀→「紀」天叢雲(あめのむらくもの)剣を天照大御神(天照大神)に献上すると、東風(くち→こち)が吹き、天気は下り坂で雨が降るのか、皇孫と天宇受賣(あめのうずめ)命が猿田彦に先導され、天降りする。

 これを「クチ→コチ→カチ」とすれば、宮地嶽神社の村大神頼大神や、天降りしなかった勝勝速日天之忍穂耳命にも繋がり、福岡県鞍手郡小竹町勝野(かちの→かつの)等も同地名かも知れない。 

白岳神社=祭神「伊奘美・素戔嗚尊・伊奘諾」。大分郡挾間町大字谷の白岳神社「伊邪那美命、速玉男命、泉都(よもつ)事解男命」、後鳥羽天皇の御代・建久の頃、熊野三社の分霊を勧請、祭神「素戔嗚尊・稲田姫・大己貴命他」。

大野=長崎県北松浦郡(現佐世保市)鹿町町口ノ里免東側、深江免の台地上、縄文~弥生時代に架けての大野台支石墓群。他にも、相浦川流域の佐世保市下本山町四反田遺跡は、縄文晩期から弥生前期の住居跡が21棟と屋外炉跡、貯蔵穴、墓地、水田跡等が検出された。弥生時代の集落である四反田遺跡や門前遺跡を含む地域一帯は、遺跡の内容からして拠点集落として位置づけられ、時代の変遷での遺跡のあり方を示す。
 縄文晩期~弥生前期の住居跡21棟、土坑100基、屋外炉跡29基、石棺墓、支石墓、甕棺、土坑墓、水田跡等。主に弥生時代前期後半から中期のものとみられる竪穴式住居集落と墓地及び長崎県内では初めての発見となった水田跡が発掘された。
 集落跡は東西約80m、南北約40mの楕円状に広がり、竪穴式住居跡は円形状で中央に炉を配する初期の二本柱のものと後期の四本柱以上をもつやや大型のものが合計20棟、水田跡は、弥生時代中期初頭のものとみられる小規模かつ不定形の9面が確認されている。
 本遺跡の特徴としては、古代から中世にかけての遺物・遺構が見られ、12世紀中葉から13世紀初頭にかけての白磁が多い。また、空堀からは中国磁州窯の陶器壺や白磁、土師器、石鍋等が出土しており、時期的には14世紀中葉から後葉に比定される事から、城の築城時期に関わる遺物として注目される。

勝手(かつて)神社=大己貴命・少童命、京都府長岡京市栗生清水谷の子守勝手神社(南側に光明寺)水分神・天忍穂耳尊・大山祇命、京都府宇治市小倉町寺内の巨椋神社摂社、勝手神社「手力男神」、奈良市油阪町の勝手神社「事代主命」。

くし=三重県松阪市櫛田町・同県伊勢市神田久志本町、京都府京都市上京区櫛笥町、大阪府堺市櫛屋町、同府茨木市玉櫛、同府東大阪市玉串町、兵庫県篠山市井串、同県佐用郡月町櫛田、奈良県御所市櫛羅、和歌山県日高郡美山村 串本、同県西牟婁郡大塔村串、同県西牟婁郡串本町串本・出雲(いつも)、鳥取県岩美郡福部村久志羅、島根県安来市久白町、岡山県岡山市小串(こぐし)、同県倉敷市串田、広島県安芸郡江田島町切串、同県豊田郡大崎町大串、同県比婆郡東城町小串(をぐし)、山口県豊浦郡豊浦町小串(こぐし)、同県宇部市小串(こぐし)、同県徳山市櫛ケ浜、同県佐波郡徳地町串、徳島県鳴門市北灘町櫛木、同県小松島市櫛淵町、同県海部郡海部町櫛川、香川県善通寺市櫛梨町、同県仲多度郡琴平町櫛梨、愛媛県越智郡弓削町久司浦(くじら)、同県伊予郡双海町串、同県西宇和郡三崎町串、同県南宇和郡内海村家串、高知県土佐清水市竜串、同県高岡郡窪川町茂串町、同県高岡郡窪川町平串

久士布流多気=九重(クシフ→クジュウ)と関係があるのだろうが、語義は、久志布(クチェイホ→クッシフ)・久士布(クジェイホ→クジホ→クシフ)「紀」槵觸之峯は槵(岸=境界)+触(共有)+峯(山頂)=境界(くし)の山頂(ほ)=国境の山で、天降りの地と伝承される高千穂(カゥチホ→クチホ→クシフ)も、国境の前線基地になる。
 長崎県の壱岐に見られる行政区画の「~触(ふれ)」も境界を共有するとして良い。*志[tiəg][tʃıei][tsï]・士[dziəg][dziei][sï]・布[pag][po][pu]

神籠石=何らかの宗教施設か、山城か、次章の「神籠石考」でも述べるが、邪馬壹国の傍国と神籠石、宮地嶽神社(山名の宮地岳)の配置も似た関係に在る。

宮地嶽神社=「私説」伊都国の比定地、佐賀県多久市北多久町多久原にもあり、伊都国の比定地(「私説」已百支国の比定地)とされる福岡県前原市多久にある託社(たくしゃ)神社(伊弉諾命、伊弉册命、瓊瓊杵命、埴安命彦、火火出見命、鵜草葺不合尊、木花開耶姫命)は、西側に宮地岳を見る。本来、託杜咩(たくとめ)神が祀られていたが、慶応年間、十六天神を村名に拠り、改名したとある。
 その村名が「多久」であった由緒は定かではない。その託杜咩神は託宣の神で、本殿背後の左右に木々は繁るが、その背後には植えられておらず、奥に見える丘を祀っているとされる。その東、同市高祖(高祖神社)の南側にも宮地嶽神社(同市作出)がある。


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  2. 7.傍国考
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