見まごう邪馬台国

◇倭人と呉太伯

 福岡県前原市雷山の雷山神籠石は邪馬壹国伊都国連合の傍国「已百支国」の比定地、福岡県前原市多久有田高田・板持・王丸(白木神社/五十猛命)・荻浦、同県糸島郡二丈町唐原・道元南側、雷山北側の尾根に築かれた神籠石で、西北側に宮地岳、その西側に宮地嶽神社(同市高祖)が見える。前面には同郡二丈町一貴山弥生遺跡や、前原市街北側の同郡志摩町を隔てる糸島水道や玄海灘を望む。
 その糸島郡二丈町や前原市街北側、糸島半島の筑紫富士の可也山南麓に、「紀」景行天皇の熊襲討伐経路に点々と続く地名「轟(とどろき→どめき)」と同語源と云われる同県糸島郡志摩町道目木桜井桜井神社)・香月、西側の松浦半島、佐賀県東松浦郡玄海町轟木、南側に佐賀県鳥栖市轟木・高田がある。
 「紀」熊襲討伐と巡狩を終えた景行天皇は、浮羽(うくは)から討伐経路の日向に戻り、大和へ帰還する。ただ、公共交通機関や高速道路等が整備された現代ならば、いざ知らず、河川を利用した陸行か、沿岸航行以外に移動手段のなかった古代、そうした無駄な動きはしない。
 「紀」垂仁天皇の皇后狭穂姫とするが、「記」沙本毘古命の妹佐波遅比賣命とし、兄沙本毘古と共に謀反するとあり、熊襲討伐や巡狩の進行経路の流れに順うと、始発地の周防娑婆は、山口県佐波郡ではなく、福岡県浮羽郡吉井町桜井・若宮から筑後川北岸の同県朝倉市杷木町久喜宮(杷木神籠石)に渡り、佐賀県鳥栖市轟木から福岡県前原市と同県福岡市西区境、日向(ひなた)峠を越えた同県二丈町佐波や福井付近で、後代、周防娑麼へ東遷したと考える。

 福岡県前原市多久の託杜神社は、本来、託杜咩(たくとめ)神が祀られていたが、慶応年間、十六天神を村名に拠り、改名したとある。村名「多久」であった由緒は定かではない。その託杜咩神は託宣の神で、本殿背後の左右に木々は繁るが、真後ろには植えられておらず、奥に見える丘を祀っているとある。
 また、丹生広良氏の丹生神社と丹生氏の研究に拠ると託杜咩神は丹生都比売神の異称とする。一方、此処は新羅の天日矛(あめのひぼこ)との繋がりが強いので、赤留比売(あかるひめ)神とも云われる。

 尚、中国神話と歴史を繋ぐ実在した夏王朝や殷王朝、周王朝の王子太伯は、聖人とされた末弟に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、文身断髪した。太伯は、自ら勾呉と号し、呉の太伯と呼ばれた。
 「魏志東夷伝」倭人は大夫を自称したとある。周王朝末の小氷期、春秋(BC770~BC402)の動乱期、揚子江南岸の江南には越と呉の強国が興り、相争った。呉は太伯、越は禹の苗裔夏后帝少康後裔と称した。ともに「夷」だが、「華」の後裔を称す。
 そのBC5~BC3世紀頃、春秋時代から小国家が分立して相争う戦国時代、越の攻勢に大陸東南部から追われた呉太伯の血を嗣ぐ美しい姫、大日女と稚日女は倭国に渡来、文化や技術、水耕稲作や金属の使用を教えて国土開拓を導びいた二人は、天照大神と丹生都姫神に化体されたとも云われる。

 自国を誇り、漢民族が自称した華夏(華=文華・夏=大の意)とは、文華の開けた国や都の意味で、周王朝に与した殷王朝()、王朝の人々(母系?)を併せたとすれば、その三つ巴(鼎)が「漢」として良い。その枠組みに属さず、大陸周辺部に追い遣られた胡、夷に押し出されて南中国や東南アジアへ逃れた人々、中でも東南部に逃れた東夷が耕作民や海民を伴い南西諸島を経て西九州へ渡来した人々が倭人と呼ばれ、委奴国連合を構成したと考えられる。その後、東北部の満州から朝鮮半島に逃れた人々(朝鮮族)も大陸東岸の沿岸航海民(韓族?)を伴い渡来して邪馬壹国の中枢を担ったと考える。

唐原(とうばる)=糸島市二丈満吉北部、標高約330mの山間に在る小さな集落、唐原(とうばる)には平家の落人に纏わる悲しい伝承がある。平安末期、この里に平清盛の嫡男重盛の内室(妻)と二人の姫等が逃げ延びて安住の地を得たのも束の間、源氏の追っ手により、悲惨な最期を遂げた。残った家臣達も後を追って死のうとしたが、内室と姫達の霊を弔うために思い止まり、農耕を行いながら、この地に住み着いた。今も内室や姫等の墓や、都を懐かしんだ都見石、重盛の遺髪を納めた黒髪塚、姫達が、その前で舞ったとされる千寿院の滝等が残る。
 尚、九州管内には、福岡県築上郡大平村唐原の唐原神籠石、同県岡市東区唐原(とうのはる)が見える。

桜井神社=神直日神・大直日神・八十枉津日(やそまがつひ)神を祀る。地名「桜井」は、福岡県浮羽郡(現うきは市)吉井町桜井・宮田、同県朝倉郡(現朝倉市)朝倉町、京都府京都市北区上賀茂桜井町・出雲路、同府京都市上京区桜井町、大阪府富田林市桜井町・五軒家、同府三島郡島本町桜井、奈良県桜井市桜井・朝倉台・出雲・高田、愛媛県今治市桜井、同県越智郡(現今治市)朝倉村朝倉、高知県高知市桜井町・朝倉(朝倉神社)・福井町、熊本県水俣市桜井町。
 朝倉神社「天津羽羽神、天豐財重日足姫天皇」、天津羽羽神は天石帆別神、天石門別神の御子。斉明天皇御陵地は、当社から3km西南の鵜来巣山にある。また、福岡県朝倉郡(現朝倉市)朝倉町須川・長安寺付近、斉明天皇の陵墓伝承地「橘の広庭」がある。 
 欽明天皇の子桜井皇子の娘吉備姫王[吉備島皇祖母命](茅淳王妃・皇極/斉明天皇・孝徳天皇母)、紀伊国造後裔桜井氏、後漢霊帝後裔阿智使主後裔桜井氏等が見える。

丹生都比売神=和歌山県伊都(いと)郡高野町慈尊院835の慈尊院の境内にある丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社とある。
 ●丹生都比売大神(丹生明神)・丹生高野御子大神(高野明神)・狩場明神
 ●丹生都姫神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野30)
 丹生都比売大神(丹生明神)・丹生大明神(神告門では天照大神の妹稚日女命)・丹生高野御子大神(高野明神)・大食都比売大神(気比明神)・市杵島比売大神(厳島明神)。丹生とは水銀を含む赤土で、その発掘に関わった氏神とも云われる。また、水分(みくまり)の神とも言われ、水を与え、水の配分を司った。 空海に高野山を譲った神としての伝承で有名。空海の資金源は水銀であった。
 ●田殿丹生(たどのにゅう)神社 和歌山県有田郡吉備町出335
 丹生都比売命(丹生大明神 天照皇大神の妹神)・大名草彦命(高野大明神 丹生大明神の御子神)
 配祀神 天照皇大神,菊理姫命、大穴牟遅命、八柱御子神、大物主命他
 境内社 夏瀬神社、白山神社(山頂)、吉備神社、春日神社、弁財天神
 ●丹生神社・丹生都姫(佐賀県嬉野郡嬉野温泉)、丹生川、塩田川上流に祀る。下流に稲佐神社、妻山神社、多良嶽神(五十猛命)が祀られる。

 ただ、託杜神社祭神の伊弉諾命、伊弉册命、瓊瓊杵命、埴安命彦、火火出見命、鵜草葺不合尊、木花開耶姫命とあり、何れが託杜咩神にあたるのだろうか。

赤留比売神=杭全神社摂社赤留比売神社(大阪府大阪市平野区平野東2-10) 半島系渡来族出石人の太陽女神とされている。
 ●楯原神社(大阪市平野区喜連6-1-38)
 武甕槌大神、大国主大神、孝元天皇、菅原道真、本来は、赤留姫命 配祀 豊玉彦命、豊珠姫命、境内摂社 十種神宝大神
 河内国伎人(くれひと)郷で、崇神天皇御代の創建とされる式内社。赤留比売を祭神とする理由は、平野郷の赤留比売神社(杭全神社摂社)より勧請した龍王社を合祀し、境内の別宮に祀り、奥の宮と称していたのを、現在は合殿している。
 住吉郡式内小社。現在は杭全神社の飛び地摂社で「三十歩社」と呼んでいる。 かっては住吉大社の末社であった。 三品彰英は「神妻である童女・赤留比賣命の原態は巫女、即ち、祀る者であり、祀られる神である天日鉾は巫女に招祷される存在であるが故に、彼女の到る地に従い、その後を追わねばならなかった。   歴史的に云えば、巫女の宗祇が伝来し、彼女ら日鉾族の移動に従って天日鉾の遍歴物語が構成されることになった。尚、巫女である祀る者が祀られる者に昇華する時、巫女は比売許曽社の女神となる」とある。佐賀県鳥栖市轟木東北側、姫方に姫古曽神社。
 天日鉾の遍歴物語は、都怒我阿羅斯等の物語とも重なり、兵主神社の分布もあわせて、日本の古代の王権の成立に深く関わる出来事であったようだ。

夏王朝や殷王朝=陳寿は、倭人の風習や慣習から中国大陸の東南部に向かった夏后少康の伝承を持ち出し、よくに似るとする。越は、夏王朝「禹」苗裔の夏后少康の流れを称したとされる。また、周王朝の王子呉太伯が殷王朝の関係者に関わりが在り、主流から外れたとすれば、両者は王朝交替の動乱で追われたとも考えられ、漢民族とは、この三王朝の併合として良い。それが天命を受けた王の神器で、三本足の鼎(かなへ)に化体された。


関連記事
スポンサーサイト
  1. 2017/10/11(水) 14:38:39|
  2. 8.神籠石
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<< ◇連合国境 | ホーム | (13)鬼国>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://mimago.blog.fc2.com/tb.php/167-95059f53
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)