見まごう邪馬台国

◇手と足

子午線の1/4千万(メートル原器)を基本とした仏国のメートル法は分かり易いが、足先から踵(かかと)迄の長さを基本にした英国のフィート法 (統一後、12吋=30.48㎝)は、一説にヘンリーⅠの足とも云われる。その起源は、BC6000年頃、古代メソポタミアのキュービット(肘から手の指先)から派生した単位に遡るとも云われる。一方、古代中国の度量衡の基本単位「一尺(親指から人差指/中指の先)」は下記の如く在る。
   周    =19.9cm 1歩=6尺(119.4cm)  1里=300歩(358.2m)
   秦・前漢=27.7cm 1歩=5尺(138.5cm)  1里=360歩(498.6m) *1里=300歩(415.5m)
   新・後漢=23.0cm 1歩=5尺(115.0cm)  1里=360歩(414.0m)
   魏・西晋=24.1cm 1歩=5尺(120.5cm)  1里=360歩(433.8m)
   北  魏=27.9cm 1歩=5尺(139.5cm)  1里=360歩(502.2m)   
   隋    =29.5cm 1歩=5尺(147.5cm)  1里=360歩(531.0m) *1尺=8寸(23.6㎝)
   唐・五代=31.1cm 1歩=5尺(155.5cm)  1里=360歩(559.8m) *1尺=8寸(24.8㎝)
 
上表からすれば、手の大きさが基本とされる度量衡の単位「尺」も時代に拠って変化し、夫々に違いが在る。特徴的な事は、秦と前漢の単位を除き、時代が下り、王朝が代わる度に長くなる事で、その理由は度量衡の単位が大きいと租税の徴収率が増える事も一因と云われる。また、日本でも基本単位の違う尺貫法が幾つかある。唐・五代十国に至っては「31.1㎝」、こんなに大きな手があったのかと思う程だが、誰の手が基本にされたのか。英国のフィート法と同様、この度量衡を制定した権力者の手だろうか。例えば、周代の一歩(六尺/12進法?)=119.4㎝は、「三国志」が成立した魏・晋朝の一歩(五尺/10進法?)=120.5㎝に略合致するが、その前代、度量衡も統一した史上初の統一王朝「秦」と、前漢では一尺(27.7㎝)・一歩=五尺(138.5㎝)と大きく変わる。しかし、その次代、新・後漢は一尺=23.0㎝とある。更に、一里が360歩や300歩、一尺=10寸や8寸、一歩が六尺や五尺とされた時代もあるらしく秦・前漢(27.7㎝)と北魏(27.9㎝)を「8/10」にすれば、22.2~22.3㎝となり、本来、基本的な単位は、親指と人差し指(中指)を広げた先端幅の20~24㎝程として良いのではあるまいか。
もう一つ、「秦」の単位(27.7㎝)を異民族とされる遊牧民の鮮卑族拓跋(たくばつ)氏が興した南北朝北魏の一尺(27.9㎝)と略合致するのは特筆すべき事で、同じ鮮卑族慕容氏が興した五胡十六国の鮮卑族慕容皝(ぼようこう)が燕王を称した前燕(337~370)と独立した後燕(384~409)等の資料もあれば良いのだが、後燕の慕容垂は同族の慕容泓(おう)が山西省南部に建てた西燕(384~394)との戦いで、初め、北魏と連携、友好関係を持ち、両国は頻繁に使節の交換した。391年7月慕容垂から「名馬を要求された」北魏は、それを拒絶し、西燕に接近したため、両国は国交は断絶し、抗争状態になる。慕容垂は西燕を滅ぼした後、395年5月皇太子慕容宝に10万の兵を預け、北魏を攻撃させたと在る。
例えば、中国の古代王朝「周」の王族「召公奭」が治めた薊(現北京)から満州一帯の「燕」の領民は漢民族化し、遊牧騎馬民との繋がりが途絶えたのだろうか、国名を継いだ「後燕」から名馬を要求された「北魏」は遊牧騎馬民との繋がりや関わり強かったのか。その北魏は鮮卑人と漢人の通婚を奨励して中国化政策を推進したとあり、特有の基本単位が使われたのかも知れず、異民族と漢民族が持つ単位の折衷が秦や北魏の単位と推測される。
「邪馬台国はなかった」の著者古田武彦氏は三国志の里程記事より自身で割り出した一里=75~90mと云う換算値で説明する。もう一つ『資治通鑑』唐代の天文学者南宮説に拠る「一寸千里の法」と云う記述が在り、詳細は定かではないが、その結果から導き出される数値は、魏・晋代の一里「434m」の略四分の一「一里=116m」とする説もあるらしい。
こうした短い異単位の基本は何だろうか? また、態々、魏・晋代の公里(434m)と違う単位を使用した理由や意図をどの様に捉えるのか、ただ、計算が合うからと云うのでは説得力はない。
 
五代十国=唐の滅亡から宋の統一に至る間に、華北に興亡した五代王朝と華北以外の諸地方に割拠し、興亡した十国の併称。
北魏=中国、南北朝時代の北朝の最初の国。鮮卑族の拓跋(たくばつ)珪(道武帝)が、386年魏王を称し、398年平城、今の山西省大同に都し、建国。494年洛陽に遷都。534年東魏・西魏に分裂、東魏は550年、西魏は556年滅亡。拓跋魏・後魏・元魏とも称。
唐代の「資治通鑑」壬子の命、太史監南宮説等、河南北の平地にて晷(日陰→日時計)と極星を測定する。夏至の日中に八尺の表を立てて同時に測定する。陽城では影の長さが一尺四寸八分弱だった。夜、北極星を見ると地面から34度と10分の4の高さだった。浚儀岳台では同1尺5寸より僅かに長かった。極高は34度8分。南方の朗州では、同7寸7分。極高は29度半。北方の蔚州では、同2尺2寸9分、極高は40度。南北で3688里90歩離れると、同1尺5寸2分、極高は10度半違った。 又、南の交州では、影は表(反対側)の南へ3寸3分出た。八月、海中から老人星の下を望めば、多くの星が燦然と輝いていたが、皆、昔から名が付いていない星である。南極から大凡20度以上離れた星は、皆、見えたと在る。日影(晷)二寸=526里270歩、一寸当たり、263里135歩(115885m)と在る。


 
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  1. 2014/06/05(木) 13:39:59|
  2. 1.距離の感覚
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