見まごう邪馬台国

◇「飛鳥」と「明日香」

 矢治一俊氏は【それがやがて、「日の下のくさか」の日下(ひのもと)が「くさか」、「飛ぶ鳥のあすか」の飛鳥が「あすか」、「春日のかすが」の春日が「かすが」となった様に、「倭のやまと」の「倭」が「倭」だけで「やまと」と読まれる様になったと考えられるのである。それでは、この「倭」が「やまと」と読まれる様になったのはいつの事なのだろうか。元興寺塔の露盤銘は651年に作られたものであるが、その内容は588596年迄の建通寺(元興寺)建設に就いてのものとされ、この「山東」を『日本書紀』は敏達紀迄、「東」と書き、推古紀からはαβ群とも「倭」と書いた。そうすると「山東」「東」は6世紀末迄は使われていたのであり、7世紀中頃の皇極紀には「倭」と書かれる様になったのは確実であるから、推古紀の記録と元興寺塔の露盤銘に拠れば、「やまと」と読む「倭」は7世紀初め頃に出現したという事ができるのである。ただ、この事は、その時迄、「倭」は使用されていなかったという事ではなく「倭」は「わ」として使用されていたのであり、「倭」一字で「やまと」と読まれる様になったのが7世紀初め頃だという意味である。
『古事記』『日本書紀』にいう倭の語源は「山東」であり、その発音は橋本進吉氏が挙げる「曾」「登」等の例に拠れば、ヤマトゥ→ヤマトー→ヤマトと変化したのである。中国正史がいう「倭」は九州を指しており、その生い立ち、成り立ちは畿内ヤマトとは全く異なっている。】
 
 通底する意味や関係もなく漢字に和訓を附ける事はないと思います。こうした枕詞の日下(くさか)、飛鳥(あすか)、春日(かすが)等の詳細は述べませんが、その由来を云々する事こそ重要でしょう。
先に、山東(ヤマト)とされる理由は「山の東」と云う意味ではないとしました。おそらく、分裂した大国(ヤマタィとヤマタゥ)の一方は、天照大御神の岩戸隠れ後、南風(速)に吹かれて北上、輪廻転生して岩戸に隠れていた太陽が再び出ると云う意味で、日下(ひのもと→くさか)と呼んだと思います。一方、残留した麻登(狗奴国?)も後発で東遷し、耶麻騰の人々を併合する(明日処)。それを嫌った人々は、飛鳥(天之鳥船)として此処での山=生駒山地を越え、東側に逃れて分裂(山)したのだと考えます。
>『古事記』『日本書紀』にいう「倭(やまと)」の語源は「山東」であり、その発音は橋本進吉氏が挙げる「曾」「登」等の例に拠れば、ヤマトゥ→ヤマトー→ヤマトと変化した~云々。「記紀」は大和(やまと)の成立を「ヤマタィ」「ヤマタゥ」と云う二種の訓音を用いて二系の併合や分裂等、その経緯を示唆します。
>中国正史がいう「倭」は九州を指しており、その生い立ち、成り立ちは畿内ヤマトとは全く異なっている~云々。例えば、「魏志」倭帯方東南山島依りて~云々。「後漢書」倭人楽浪東南山島依りて~云々等の記述から推測しますと、倭は九州を指すとは限らないと考えます。上記、漢籍では、少なくとも北部九州から日本海沿岸部の山陰、もしかしたら北陸付近迄も含まれるでしょう。また、「紀」長脛彦=背の高い男子とすれば、「倭」=背が低いとされる事に対照されたと思います。彼等は北回りで渡来した狩猟採集民後裔と考えます。また、「記」那賀須泥毘古も「紀」長脛(ナガスネ)に順いますが、「なかすねびこ」=河川の中州(なかす)泥彦とすれば、水耕稲作民とも考えられます。これを同一人物として良いのでしょうか。先ずは、人名や言葉自体が持つ意味を明らかにする事こそが肝要でしょう。
 
日下(くさか)=二種の「日(ひらび/ひ)」が在り、日光と月光を表す。太陽の昇る東(あがり)に対して太陽の沈む西(いり)で、夜の月光と関係する。海行かば、みづく屍(かばね)、山行かば、くさむす屍~と謡われる様に、滅びる肉体(日=太陰)と不滅の魂魄(日=太陽)と云う関係と考える。 
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  1. 2014/10/13(月) 08:31:46|
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