見まごう邪馬台国

◇倭地への入口と分岐点

  こうした簡潔で内容豊富な記述が、当時の文官に通じるのか、陳寿の筆法なのかは判らないが、帯方郡から見て倭人の領海は四方を八分割した東南に属すとするが、一大国で女王国に属する海民の一海の名称を瀚海(わぬま)と特筆、到着した狗邪韓国は、その領域北岸として女王国に属す倭人系外洋航海民の領海は南側に拡がる瀚海とし、晋帝等に、そうした状況や位置関係を分かり易く説明した。次に下記の如く在る。

  
又渡一海千餘里至末盧國 有四千餘戸
  濱山海居草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之

 又再度、南へ外洋船で)渡る一海千余里~。好捕魚鰒水無深淺皆沈沒取之と在り、此処では「亦(乖船)南北市糴」とされないので、前の二国と違い末盧国は離 島ではないと判る。その住民は河川航行の蛋民か漁労民と思われる。こうした筆法が持つ脈絡や論理性を理解しようとしないのか、できないのか、分からない人 が多い。前項で目前の地図を見て、壱岐は対馬の東南に在るとしたり、本項でも方向の記載がないから糸島や平戸方面に行った等とする研究者や論者もいるが、 文章で道程を説明するのに、「東南(西南)渡る一海」等、前出と違う記述がない限り、「又」=再度、南へ外洋船で渡海とする以外の合理性や論理性は見いだせない。
 例えば、大凡の位置関係で方向性を述べる時、福岡県から見て鹿児島県を南とすれば、大分県や宮崎県は東南になる。逆に福岡県北九州市から見て大分県や宮崎県を南にすれば、鹿児島県は南西になる。何れも、倭人の領域「東南大海中~」との対比
、相対的な方向感覚だ。
 對海国の海民は女王国側(一大率)の官吏や武官を乗せ、狗邪韓国へ向かい魏使や郡使と下賜品等を乗せて一海を渡り、對海国の浅茅湾で碇泊した後、東南側の外港へ沿岸航海用船で水行する。そこで一大国から官吏や武官を乗せて迎えに来た同海民の外洋船に乗り換え、一大国や末盧国迄南へ渡海したと考える。次に下記の如く在る。

  東南陸行五百里、到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚
  有千餘戸 世有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐

 通説的な松浦半島基部佐賀県唐津市や同県松浦市付近を末盧国糸島半島基部福岡県前原市付近を女王国中枢部伊都国、同県糟屋郡宇美町付近を不彌国として、当時の気候条件を踏まえると末盧国で沿岸航海用船に乗り換え、九州北沿岸を東への水行の方が合理的だと思う。私見では、東南陸行とされる伊都国は、伊万里(有田)川か、松浦川河口奥で一大率官吏の差配で蛋民の小河川航行用平底船に郡使や魏使を乗せ、下賜品等を載せて河岸の従者に曳かせて遡上、内陸部を陸行したと考える。これは東南方向とした大きな範囲の倭人領海中、南側の一部、女王国に属した海上の領域(瀚海)から出て、陸上の女王国倭地領域内へと移動して新たな方向性を設定したと考える。詰まり、東南方面とした倭人領域南側の小さな範囲中、上陸地の末盧国から東南方向の九州内陸部に在る伊都国へ向かう。
 尚、狗邪韓国と同様、末盧国にも一大率の役所から官吏や武官港湾を管理する詰め所等に交替で派遣されたのか、常置の記載は見えない末盧国で上陸し、倭人海民の領域から女王国の領域(≠倭地)内へ入った郡使や魏使は、伊都国から迎えに来たか、或いは、一大国から来た官吏や武官に付き添われて東南方向へ次の伊都国迄、陸行した。
 また、郡使往來常所駐から郡使や魏使等は迎賓館等の施設に滞在したが、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露。傳送文書賜遺之物、詣女王不得差錯と云う記述から勅書等を奏上するため女王に詣でたと考えられる。

瀚海(わぬま)ついては後述するが、「瀚」も狗邪韓(くぬがわに)国の「韓」[ɦan][ɦan][han]と同音で、海[məg][hai][hai]とされることからも漢字の上古音的にも「ファヌマ→ゥアヌマ→ワヌマ」と転音したと考える。
また、對海国→對馬国とされる理由も「海」の中古音が変化したため、近似音「馬」が持つ草原の馬と海原の船が乗り物と云う同一の範疇として捉えられていたことによる。
女王国=編者陳寿の云う「倭地」とは女王国領域だけではなく、陸地の邪馬壹国連合に属さない狗奴国の領域も含まれる。



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  1. 2014/12/17(水) 00:25:15|
  2. 3.方向の感覚
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