見まごう邪馬台国

◇南至の起点

 続いて下記の如く在る。これも陳寿の筆法だろうか、奴国へは伊都国と同じ東南の道を百里で至るとし、「東南至」と「」を付さないが、不彌国へは東の道を行くと百里で至ると「東至」にされる。これは末盧国から東南陸行して到着した伊都国から奴国への道ではなく、東への道で不彌国に向かう事、奴国へと続く東南への道は、次の女王国の都、邪馬壹国へ向かう道から外れる事を示唆すると考える。
 
  東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸。
  東不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家。

 詰まり、伊都国を分岐点として進行方向を変える事が、「伊都国」とされた第一の理由になる。次に下記の如く在る。

  南至投馬國水行二十日。官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
  南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

  さて、最大の難関とされる二国、投馬国と邪馬壹国の南至の起点は何処だろうか。通説的には、不彌国から南下して投馬国と邪馬壹国に至ると理解された。私見では、南至に「行」とされない事、今迄と違って里程ではなく日程として記載される事から、何れの起点も前項の不彌国ではあり得ないと考える。これこそ編者陳寿の筆法で、当初、倭人在東南大海之中~云々とした後、倭人の領域北岸狗邪韓国を「到」とした第一の理由が、この南至の起点と考える。当初、大きな領域として倭人海民の在所を東南方面とし、その領域中、南側の一海(瀚海)、現朝鮮海峡・対馬海峡・玄界灘を女王国に属する倭人系海民の領海と設定した。その領海南岸の末盧国で上陸後、小さな範囲(倭地)内の伊都国へは、再度、東南へ陸行後、邪馬壹国へは東行した不彌国から南側へ向かう。詰まり、有明海や筑後川河口部を迂回、浅瀬を平底船で渡り、九州中央部に向かったとせざるを得ない。こうした方向性には起点の設定に拠る遊びがあり、女王国の都「邪馬壹国」も帯方郡から見ると、大凡、東よりの南として良いが、大きな範囲として設定した東南方向の東側に女王国東渡海千余里復国有皆倭種~と云う別の海民らしき人々が居た事に変わりはない。
 この文脈から南至を女王国に属す倭人の領域北岸狗邪韓国を起点にした大きな範囲とすれば、狗邪韓国から末盧国迄の水行が十日、邪馬壹国に至る陸行の総日数を陸行一月とせざるを得ない。詰まり、邪馬壹国に属する海民の領域(海上)と倭地の領域(陸上)を併せての日程となる。一方、
投馬国は末盧国から別ルートの水行となり、この南至は外洋航海と沿岸航海を併せた総日数(水行二十日)となり、前半の水行十日と邪馬壹国の水行十日は、狗邪韓国~末盧国間(三千余里)の日程で、残りの水行十日は末盧国から九州西北沿岸部を南下したと考える。
 詳細は、「国々の比定」で後述するが、邪馬壹国への陸行一月は帯方郡より女王国に至る万二千余里から郡衙~狗邪韓国の七千余里と渡海の距離三千餘里を差し引いた二千里末盧国~伊都国(五百里)~不彌国(百里)~邪馬壹国(千四百里)を陸行した総日程にせざるを得ない。但し、こ の日程が多いのか、妥当なのかの判断は、当時の道路状況が判然としないので、難しく推測の域を出ない。一つ云える事は、魏使一行は沢山の荷物を負っていた と思われるので、少なくとも何日かおきに休みを取り、悪天候に対する予備日を設けた。更に云えば、でき得る限り、安楽な方法を用いたと思うので、河川航行 用平底船に大使や副使を乗せ、下賜品等の荷物を載せて河岸の従者に曳かせて遡行する等、河川に循じて陸行したのは、略間違いないと考える。

南至=述べてきた陳寿の筆法に拠ると、不彌国を起点とすれば、此処から南向きの水行に変わるので、「不彌国~南至」 等、何らかの示唆があって然る可きで、投馬国と邪馬壹国へ向かう「南至」の水行二十日と十日の起点は不彌国ではないと知れる。また、末盧国も伊都国へ東南 陸行の分岐点だろうが、「到」とされない理由は、狗邪韓国から末盧国迄が海上の領域(瀚海)、伊都国以降が陸上の領域(倭地)と云う認識と考える。
南側の一海(瀚海)=「東渡海千余里復国有皆倭種~」と云う記述から、東側は響灘や日本海となる。
関連記事
スポンサーサイト
  1. 2014/12/25(木) 08:05:56|
  2. 3.方向の感覚
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<◇まとめ | ホーム | ◇倭地への入口と分岐点>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://mimago.blog.fc2.com/tb.php/35-030bc01d
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)