見まごう邪馬台国

◇衛氏朝鮮と邪馬壹国

   倭人帯方東南大海之中依山島為国邑 旧百余国漢時有朝見者 今使訳所通三十国

  これを読み下しすると、倭人は帯方郡東南方大海中の山島に依りて国邑を為す。旧く倭人の国邑は百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳を通じて朝見する 三十国。この文脈から意訳すると、倭人は帯方郡東南方の大海中、平地の少ない島嶼や列島の沿岸部に住み国邑とする。旧くは百余国、漢の時、朝見する者がい た。今、通訳を用いて朝見する三十国。となり、旧く百余国の頃は通訳を伴わなかったが、今は通訳を伴って朝見すると読める。詰まり、邪馬壹国と伊都国連合 の支配者や遣使は魏の公用語の漢語が話せなかった事になり、北方の遊牧騎馬民等に近い人々と考える。また、通訳を必要としなかった前代の倭人は日本海の島 嶼や列島沿岸部に住み交易や荷役を生業とし、列島と大陸や半島を往来する海民で、本来、南方系漢語圏の人々だったか、交易の手段として漢語を話したのか は、判然としないが、当初、彼等は列島内の河川下流域の泥濘で水耕稲作に従事する耕作民と棲み分けたが、互いに交易しており、当時、両者を併せて倭人と認 識されたと考える。
 古伝承では、殷(商)王朝の滅亡後、その王「紂」の母系か、叔父胥余が朝鮮半島へ入り、箕子朝鮮を建国するとある。例えば、藤堂明保編の漢和大字典には、奴[nag][no(ndo)][nu]=女を捕らえて奴隷化し、祭祀官下属の女囚にする。「論・微子」箕子、これがに為ると在り、福岡県の志賀島で発見された金印「漢委奴国王=漢に属す委奴(ワナ)国王」は、そうした難から逃れた箕子氏後裔が興した国と考える。その後、中国東北部薊(北京)や満州付近にあった周武王の兄弟召公奭(せき)が封ぜられた国燕が秦始皇帝に滅ぼされると、その官吏や武 官だろうか、燕人の衛満が箕子朝鮮を征服、衛氏朝鮮(父系制)を建国した。その難を逃れた箕子朝鮮の王族達は北部九州に倭人系海民の船で渡来、倭人系の稲 作民を束ねて奴国連合を組織する。その衛氏朝鮮も前漢武帝に滅ぼされると、支配を嫌い難を逃れた王族達が加羅や伽耶、更には北部九州にも流入して、女王卑 彌呼の前代、互いに婚姻関係を結び、共存を図るが、「倭人伝」其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼と在 り、男王が治めた旧来の奴国連合との歴年の争乱が起こる。女王卑弥呼を共立して収拾するが、最後迄、抵抗した狗奴国は南へ下り、対立する。箕子朝鮮後裔は、朝鮮半島南部にあった国々(562年、新羅が併合)の諸小国全体を指す場合と特定の金官伽耶・高霊伽耶等を云う場合もあるが、加羅・伽耶(から・かや)等とも関連があり、もしかしたら、後代、任那日本府と呼ばれるものも含まれるかもしれない。詰まり、朝鮮半島や日本列島でも大陸北方の遊牧騎馬民、中原の漢民族、南方の海民や蛋民等、日本人を構成するとした三系統の興亡が繰り返されたと考えられる。
 
殷の王族と伝承される箕子後裔「奴」を通訳を必要としない「漢時有朝見者」とすれば、彼等が女王卑弥呼の使者に随行した通訳者と なる。おそらく、狗邪韓国~末盧国迄は漢語の話せる海民や蛋民等、委奴国(箕子朝鮮)に親しい倭人海民の領域、伊都国は漢語の話せない遊牧騎馬民族の烏丸 鮮卑・扶余・満州族女真や燕人(衛氏朝鮮)に近い人々と考えられる。詰まり、卑弥呼の男弟(燕=年下の男)を政治的な王とする伊都国と女王卑弥呼を宗教的 な巫女王とする倭人系鰐(耕作民と海民)の奴国連合との共和が女王国の領域で邪馬壹国の全一だと云うのが編者陳寿の認識だったと考える。  

「燕」=春秋戦国七雄の一つ周姓召公せき)、河北、南満州、北鮮を領し、薊(現北京)を都とするが、秦に滅ぼされる。高句麗の武人とも関係があるのかもしれない。4~5世紀、騎馬系鮮卑族の慕容氏建国の前燕・後燕・西燕・南燕。衛満(前195)=燕人の衛氏朝鮮が前漢武帝に滅ぼされた後、楽浪郡や帯方郡等の出先機関が置かれた。衛子夫=前漢武帝の后、将軍衛青と在る。北部九州に渡来した燕人は箕子朝鮮系奴国連合と対立したと考える。
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  1. 2015/01/21(水) 15:21:31|
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