見まごう邪馬台国

◇末盧国と蛋民

  又渡一海千余里至末盧国 有四千余戸
  浜山海居草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之

 末[muat][muat(mbuat)][mo]=(字統)木の先端に肥点を加えて終末を表す。仮借として、無・莫・蔑と通じ、否定的に用いる。
 盧[hlag(hlo)][lo][lu]=火桶・火入れ・黒い・柳で作る飯櫃(めしびつ)。「字統」盧と旅は黒いと云う語義を持ち、黒漆塗りの盧弓→旅弓・盧矢→旅矢と通用される。(字統)旅=旗を掲げて多くの人が出向する事で、軍行の集団(旅団=軍五百人)。「斿」=一人で旗をを奉じて行く。

 使われる漢字の音を併せると、「ムァッフラッ→ムァツラッ→マツラ」で、語義を考え併せると、玄界灘の「玄」が陰陽五行説、北(一白水星)の玄 (暗夜)となり、一海の瀚海(朝鮮海峡と玄界灘)=蒙昧な海上国(冥暗)の限り=末端、瀚海上にある倭人系海民国と陸上の倭地(≠女王国)との境で、海上 国の南限=天(海人)の太陽が南中する場所、「盧」=灯明のある顕かな国で、当初、魏使や陳寿の持っていた蒙昧な異民族と云う認識とは違っていたのだろ う。此処で外洋船を降りて、一大国の役所から派遣された文官や武官か、伊都国から迎えに出た官吏が付き添い、差配した蛋民の河川用平底船に大使や副使を乗せ、下賜品を載せて河岸から従者に曳かせ、陸行した。
 船の湊津や灯明等の維持管理は蛋民等にさせたとしても、監督する役人が必要だが、狗邪韓国同様、官と副官等の名称は見えない。おそらく、下級官吏や将兵が、伊都国か、一大率の役所から交替で派遣され、駐在する詰め所があったと考えられる。  
 尚、松浦半島北西の沖に松島や馬渡(まだら)島と的山(まとやま)大島とあり、「マツラ」を書き換えると海渡浦→馬渡浦になる。当時、この海域は大陸南や東南部から南西諸島を経て九州西沿岸部を北上した倭人系海民の領海で、投国と邪壹国の通字から両国は同系の人々か、同等(姻戚か)の関係で、国名「邪壹国」「斯国」「邪国」や、その官名「伊支」「彌升」「彌獲支」等は船を操る倭人系海民と考える。
 例えば、縄文中期の曽畑式土器の分布は特徴的である。南は九州西部から種子島・屋久 島、更に沖縄まで分布するが、九州でも大分や宮崎等の東部からは出土しない。本州では山口県西海岸の一部だけで内陸部には入っていないが、朝鮮半島西・南 部、中国東北部にも櫛目文土器が出土する。通説的には、縄文前期、朝鮮半島の櫛目の文様を持つ土器を使用する人々が海を渡り、九州西北部で使用されていた 土器に影響を与えたとするが、半島に櫛目文土器が出現するのはBC4千年頃とされ、縄文中・後期頃、黄河河口、山東半島付近から遼東半島へ黒色土器をを携 えた焼き畑耕作民と沿岸航海した蛋民系「韓(わに)」を伴い漢民族や遊牧騎馬民が朝鮮半島の西・南部へ流入、中国東南部から北上した倭人系外洋航海民(く ぬがわに)とが鬩ぎ合う最前線だったと考える。


 もう一つ、松浦半島西側佐賀県松浦市付近か、伊万里(有田)川河口付近一帯には沿岸航海を担う蛋民の沿岸航海用船や家船が係留され、投馬国へ向かうため の停泊地が在った。これまでと違い投馬国には独自の官名が見えるので、ここから下級官吏が派遣されて蛋民等に湊津の維持管理をさせたのかも知れない。「傍 国考」でも述べるが、「為吾国」「巴利国」等の治水と土木工事の設計施工を担う人々と蛋民(河伯)には関係があり、隋の煬帝が造らせたと云う大陸を南北に 貫く大運河を言うに及ばず、黄河下流域河北省天津、揚子江下流域会稽山のある浙江省杭州等を縦横に走る運河や堀川は、こうした人々の治水と土木工事に拠ってなされた。


莫(日暮れ・暗い・無)=暮の初文と在り、「説文」日まさに莫れんとするなり~云々とあり、日が沈み冥暗な事が、何も見えないとされて「無」、更には、蒙昧で差別される「蔑」と云う語義にも派生した。
飯櫃=飯塚(いいづか)や飯田(いいだ・はんだ)、飯盛山等の地名や山名に関連が在るか。
末盧→松浦(マツゥラ)になるが、玄界灘の海上、佐賀県東松浦郡鎮西町馬渡(まだ ら)島=「まわたる→まぁたら→まだら」で、松=海津と考えられる。島の地名、番所ノ辻、八ノ尾ノ辻等、壱岐島と同系の地名が在り、阿曇系住吉海神との繋 がりが在る。ただ、「名馬の鼻」から騎馬民族の意識としても不思議ではない。
玄=糸把を撚った形、黒く染めた糸。「説文」幽遠なり、黒にして赤色の含む(字 統)ともあり、本来、玄米等の赤茶色や焦げ茶に近い色か。また、現在でも長崎県対馬や佐賀県吉野ヶ里で栽培される赤米(火炎の色?)との関わりも考えら れ、対馬の厳原(いづはら)町豆酸(つつ)の多久頭魂神社等では神事に使われる。
縄文中期以降、更に往来の証拠が増える。その一つが中国の黒陶文化である。黒色土 器は土器を作る時、煙で表面を燻して黒くしたもので、大陸では、遼東半島から山東半島を中心に江南方面迄分布する。韓国釜山市の東三洞貝塚(新石器時代) は、約4000~3500年前の縄文土器、阿高式、南福寺式、鐘崎式等、九州地方で見られる土器や、九州産の黒曜石が発掘されており、海人が往来、交易を していたとされる。韓半島と日本の海岸地域に住んでいた新石器人は海を挟んで、長い間、絶え間なく交流活動をしてきた。凡方貝塚や煙台島、上老大島貝塚 等、南海岸の各遺跡から出土した日本の縄文土器 ・石器 ・黒曜石と九州西唐津海岸遺跡、佐賀貝塚、越高遺跡から出土した各種の櫛文土器と装身具等、当時の文化交流の様相が見られる。各種縄文土器と黒曜石製石器 は、当時の東三洞貝塚人が海を越えて日本地域と直接交流した事を裏付ける。特に、多数出土した貝製腕輪は国内の色んな地域だけでなく、九州地域の黒曜石と の交易物として対馬等に供給されたものと思われる。 日本では縄文晩期から水耕稲作がかなり盛んであった。BC900年頃、佐賀平野や島原半島、最古の稲作の遺構が残る唐津の菜畑からも発見された。黒色土器 は稲作とともに江南付近から北上した海民や蛋民が齎した南西諸島を経て齎されたとも考えられる。

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  1. 2015/03/05(木) 14:59:45|
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