見まごう邪馬台国

◇侏儒国の位置

   女王國東渡海千餘里、有國皆倭種。有侏儒國在其南、人長三四尺女王四千餘里~

 これを以下の如く説明する研究者が居る。【倭人伝中、筆法による観点から解釈する上で重要な鍵となるのは「朱儒國」である~。先ず、問題となるのが、人長三四尺の解釈となる。人の丈が1㍍程度というのは、倭種に於ては考え難く~。しかし、侏儒國が小人を導くための人の喩えであると考えると、侏儒國自身が人となる。その解釈は、其の南に侏儒國が有り、人に喩えれば、1㍍程度の身長の国となる。ここで比べる相手は誰かという事になるが、その答えが「女王四千餘里」にある。即ち、女王が、その位置から移動してという事であるから女王が住んでいた所という事になる。即ち九州島となるが、倭人伝中で確認できるのは、投馬国は水行二十日、邪馬台国は水行十日・陸行一月が示すサイズとなる。 女王の居住する島のサイズとなり、単なる行程を表す文ではない事が解る。即ち、陳寿の筆法が具現されている事の証といえる。】

 上記、「女王国東渡海千餘里復国有皆倭種」は、先述した邪馬壹国に服属したを南海域と区別した東海域の倭種で、その身長の記載はないが、侏儒国の人々には、態々、身長三・四尺と特筆する。上記では、侏儒國の人々も倭人とするが、陳寿は「有国皆倭種」と狗邪韓国南側の邪馬壹国伊都國連合に服属した倭人と同人種の国とした後、改めて「有 る侏儒国~」とし、文脈を分ける。詰まり、比べる相手は皆倭種と呼ばれた人々で、邪馬壹国伊都國連合に属さないが、東側の山島に依りて国邑為す倭種の国か ら見て南側に居る身長1㍍前後の背の低い異人種が住む国として認識した。その人々をインドネシア東部のフローレス島で発見された身長1㍍前後の原人系統とも云われる人々に比定する。氷河期、浅くなった海を筏船等で南風に吹かれて南西諸島を経て北上、南九州に渡来し、石器を使い、槍や弓矢に長け、狩猟と採集で糧を得る彼等は、鬱蒼と茂る森林に住んだため、長い間、異人種との混血が無かったと考える。
 上記、女王の居住する島のサイズが領域の広さか、南北の距離なのかは判りかねる。ただ、これを女王の住んでいた所として、侏儒國に居た女性を女王に迎えたとするのだろうが、異人種の女王を共立したとすれば、その理由は何だろうか。「女王四千餘里」を読み下すと、(魏使の居た)女王(の宮殿)から(東南方向へ)四千餘里を隔てる。私説では、水行13~15日程、陸行では、2ヶ月程で着く距離と考える。次ぎに下記の如く在る。

  有裸國黑齒國在其東南船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里

 上記、「参問倭地=女王に目見え、問うた倭地」とは、当地の官吏から知らされた海民の領域を含まない大陸が絶えた海中の州島上、絶えたり、連なったり、女王国と男王狗奴国の領域を併せた周囲五千餘里、周辺部から東渡海千餘里に有る國は皆倭種だが、有る(倭種とは別種の侏儒國は女王の居る宮殿から東南へ四千餘里を隔たり在る。有る(侏儒國とは異種の)裸國と黑齒國は、倭種の領海から)東南へ一年ばかり、船で行くと、(倭種の国が)在る。これらは周旋可五千餘里の倭地の領域には含まれない。この二国をハワイ諸島とする研究者もいるが、小笠原諸島父島や母島、北の聟島(むこじま)等の列島付近に比定する。おそらく、「船行一年可至」とされた理由は、略沿岸航海と河川航行で約半年の日程で往復する魏の京都と違って行程の多くが外洋航海に拠るので、往来に適した風向と潮流を待つため、で一年を要すと考える。


 
「東 夷伝」でも身長の記載は此処だけで、背の低い異人種と認識されたと思う。世界的に小人伝説や巨人伝説があり、欧州人の身長に比べると、モンゴロイドは低 い。江戸期、日本人の男女も150㎝前後とされ、背の低いDNAを持つ種が居てもおかしくはない。現在の常識で量るのは危険。
原人=インドネシア東部フローレス島のリアン・ブア(Liang Bua)洞窟から、9.5万年前~1.3万年前の人骨(成人)が発見され、ホモ・フロレシエンシス=フロレス原人と名付けられた(2004.10月のネイ チャー誌)。同じフローレス島で発見された3.8~1.8万年前の新人類の頭蓋骨化石から推定すると身長1m程の小型人類で、ジャワ原人から派生して狭い 島で進化した。小さな原人が1万年程前迄、生存し、ホモサピエンスと遭遇していた可能性もあると云う。
 本来、ピグミーと云う名称は、民族集団として定義されるものではなく、形質的な特徴によるものだが、実際上、熱帯雨林に住み狩猟採集を行う低身長の人々 を指す。フィリピン諸島アエタ、ベンガル湾のアンダマン諸島人、マレー半島のセマン等のネグリト(Negrito)は黒色人種中、東南アジア周辺部に住む 身長140㎝以下の諸民族の総称。フロレス原人の血を受けついでいるのでは?云う記事も掲載された。アフリカにもアジアにも低身長の人々がおり、地元では 洞窟に住む小さい人々に食べ物を入れた瓢箪を置いていたと伝承される。彼等は竹や木の筏等を使いフローレス島に渡った。
異人種=狗奴国が味方に引き入れたとすれば、有り得る。宮崎県えびの市で、特異な 形式の地下式横穴墓郡(5c末~6c初頭)が発見された。副葬品には朝鮮半島の百済か、伽耶渡りとされる遺物が見つかった。侏儒国との直結するのかは判然 としないが、異質な文化があったと云える。また、同県西都市童子丸の西都原古墳群等、この童子(如来の王子菩薩の異称、菩薩や明王等の眷属八大童子)と は、小さな人々の総称とも考えられる。
 平安期、蝦夷や俘囚等を移住させたとも云われるので、何らかの理由で倭種が流入してきた。同県日南市宮浦の元官幣大社鵜戸神宮に「紀」神武天皇の正后「五十姫」が祀られる理由かも知れない。  
周辺部=九州東北部の響灘沿岸は暗礁が多く、当地の海民(宗像海人)以外の航海は危険だった云われる事と、渡海と在る事からすれば、外洋航海民の港がある一大国か、對馬国等から出港、東側へ向けて渡海、玄界灘の沖ノ島を経て大島付近と考える。
風向=夏期の西南風(はえ)、冬期の東北風(こち)を利用した。寄港地は分からない。また、太平洋岸を流れる黒潮も夏期と冬期では流量や流域に変化があるのだろうが、黒潮本流南側に黒潮再循環流と呼ばれる反対方向に向かう流速0.3ノット程度の弱い流れが在ると云う。
往復=「至」〔自五〕=極・到・大・善と在り、 極限に及ぶやってくる~の結果そうなる。等の語義を考え併せると、道程に使われる「至」の場合、他国から邪馬壹国内に向かい至るが、この場合、東側に在る倭種の領海内を行って戻る=往復で一年と云うニュアンスと考える。 
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  1. 2015/05/15(金) 11:02:31|
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