見まごう邪馬台国

◇支配者の思惑

 或る友人は、海民に就いて以下の様な疑問を投げかけてくる。

  (1)朝鮮半島や大陸東沿岸部の海民は渡海できないのか。
  (2)直接、東シナ海を渡海できないのか。
  (3)海民の彼等は、違う海域の渡海や水道の航海ができないのか。
  (4)海民や川民は、互いの海域や水道を取り合わなかったのか。
  (5)南東部の狗邪韓国ではなく、南西部の済州島では駄目だったのか。

  (1)(2)(3)の三つは何れも否だ。何故ならば、海民とは、長い間の経験則や知識に基き、自らの海域や水道に於ける独自の航海術を研いた。詰まり、それを持ち得ない人々、幾ら海民が船に乗る事はできても、上手く操舵し、安全に航海する術はない。これは大陸の河川を航行する川民や砂漠を往来する隊商等 も同様で、既得の経験則や知識を持つ。隊商の宿、航海の寄港地、悪天候に於ける避難所や避難港の位置を把握する等、既得の技術や知見が彼等の糧となり、支配者にとっても有意義な存在だった。
 当時の航海術に関する資料が殆どないので、推測する以外にないが、略間違いなく、季節風、潮流や干満等の自然の力を利用した。例えば、朝早く出港する漁 師には様々な理由があるのだろうが、一つには、午前中の干潮を利用して出港する事だろう。それはエンジン付の船でも燃料の節約になる。エンジン等の動力を 持たない当時では、当然の事だった。また、暗礁を避ける技術、季節に拠る風向、満潮時の水深や潮流の有無や流水の方向、その流量等も知識があって、初めて安全に航行できた。詰まり、狗邪韓国へ向かった最大の目的は、半島と九州の間に横たわる一海の瀚海を安全に渡るためとなる。
 (4)は、古来、そうした海域や水道では争奪戦が繰り広げられたのは間違いない。ただ、それを奪われる事は自らの存亡に関わるので、身体を張って阻止し たと考える。そうした戦いを経て、自ずと、A地点~B地点は誰某、B地点~C地点は誰某、C地点~D地点は誰某の領域といった暗黙の了解が生まれる。そう した安定が治安の悪化に因り、崩れ、再び、爭乱になれば、何方側に付くのか、その舵取りが重大事だった。但し、為政者が武力で従わせ、刺史の如き武人を帯 同させたとしても、何せ、船上と云う敵の腑所に入り、砂漠等の敵陣内を移動し、運搬するので、多勢に無勢、彼等の思うつぼ、都合の悪い事が多かったであろう事は推測されるので、或る程度の権益を認める事で服属させたのだと思う。
 述べてきた事から、遼東太守公孫氏との戦いの最中か、直後に、狗奴国に対しての後ろ盾を期待し、遣使して来た卑彌呼に魏帝(の側近)が、その支配権を認める金印「親魏倭王」を授け、多くの下賜品を持たせて返礼した理由が分かる。また、呉に服属していたとも云われる大 陸東沿岸部の航海民と遼東太守公孫氏には繋がりがあったと云われる事からも、魏帝には、文字通り、渡りに船で、半島からの渡海術を持つ倭人海民を服属させる事が孫権の「呉」に対する後方支援や抑止力となり、引いては狗奴国や呉に服属する海民、大陸東沿岸部や南西諸島を往来する航海民を服属させる事も視野にあったのは間違いない。国の支配者は、そうした布石を一つ一つ打ちながら国力の充実を図り、支配力を強めたのだと思う。
 (5)は、朝鮮半島南西部の木浦等から沿岸の島々を経て済州海峡を渡海後、済州島(耽 羅)から五島列島迄の間、手持ちの地図を見る限り、浮島が見えず、この海路があったのかどうかは判然としない。当時、外洋を一日で航海する距離を千余里 (約100㎞)とすれば、少し厳しい航路になるの確かで、釜山付近から対馬、壱岐、松浦と云う航路が遥かに楽だったと思われる。

東沿岸部の航海民=彼等も呉との関係を脱解する目的があったのか、公孫氏は魏から独立し、王たらんとした。呉は魏に対する後ろ盾とする等、三者の思惑は合致した。
済州島=「魏志東夷伝韓条」又有州胡、在馬韓之西海中大島上。其人差短小、言語不與韓同。 皆髠頭、如鮮卑、但衣韋。好養牛及豬。其衣有上無下、略如裸勢。乘船往來、市買韓中。この州胡の比定地は済州島か、ソウル近郊の江華島説がある。私見で は、ソウルの南、泰安半島とした。後者、二つの何れかであれば、済州島の記載はない事になる。火山島の済州が、当時、どうだったのか知る由もないが、人が 住めない状況だったのかも知れない。中国の元朝時代は馬場にされた。李朝時代は政治犯の流刑地で良く難破した。当時でも飲料水の確保が難かったと云われ る。
 「天智紀」秋八月、遣達率答[火本]、春初築城於長門国。遣達率憶礼福留達率四比福夫於筑紫国築大野及椽二城。耽羅遣使来朝。これも朝鮮半島南岸部を経て九州へ渡来した。尚、遣唐使は平戸付近の生月島とは別に、鹿児島県坊津からも出港したと云われ、これは南西諸島を経て台湾から大陸東海岸を伝った。
耽羅=耽羅=済州島に疑問がある。「旧唐書」劉仁軌傳(665年)麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟・耽羅倭四國 酋長赴會。「隋書倭国伝」明年上遣文林郎裴清使於倭國。百濟行至竹島南望耽羅國經都斯麻國迥在大海中。又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國=度る百済、南に耽羅国を望む竹島とは、朝鮮半島南西部の珍島か、それとも彼の竹島か。また、遙か大海中にある都斯麻(つしま/としま)国を経て、東側の一支国も壱岐ではあるまい。 
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  1. 2015/08/27(木) 16:39:01|
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