見まごう邪馬台国

◇違表記や異表記

邪馬台国等、倭人の国が記述される漢籍には、先述の三国志と後漢書や翰苑等がある。中でも「魏志東夷伝倭人条(以下・倭人伝)」倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑と云う記述に対応させたのか、「後漢書東夷伝」其大倭王居邪馬國樂浪郡去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里=その大倭王は邪馬臺国に居り、徼(予断を持って大凡を求めると)樂浪郡から去ること邪馬臺国は萬二千里、樂浪郡から去る倭人の領域西北界の拘邪韓國は七千餘里なりとする。
こうした違表記の取り扱い方にも注意が必要で、「三国志」編者陳寿の生没年「233~297年」、「後漢書」編者范曄(はんよう)の生没年「397~445年」とある。詰まり、「三国志」の150年後、「後漢書」の編者范曄は、旧来の漢籍等を基本に2世紀後半の倭国大乱後の影響、卑彌呼死後の邪馬壹国の動向等、謎の4~5世紀の状況変化に則して書き換えたとも考えられる。但し、今となっては、これが范曄の命名か、当時の呼称や国名か、はたまた、これらが同国なのかも判然としない。確かな事は、范燁の把握した樂浪郡と邪馬臺国や拘邪韓國の位置関係と陳寿の把握した帯方郡と邪馬壹国や狗邪韓国の位置関係として、思い込みや、先入観を持たずに読み解く事が肝要だと思う。
藤堂明保編「大漢和字典」と白川静編「字統」に拠ると、字音、拘[kıug(kug)][kiu(kəu)][kiu(kəu)]・狗[kug][kəu][kəu]と略同音なので、この場合、誤写や誤植と云うより、意識的に変えられたのかも知れない。では、その理由はなんだろうか。
漢字の語義には、「拘」=何かに固執する(コダワル)。何らかの関係や関連を持つ(カカワル・トラエル)。一方、狗(いぬ)=子犬の事、句=小さな単位とある。前者の場合、陳寿は狗邪韓国とするにも拘わらず、の領域北岸とする事を示唆し、後者の場合、犭(獣偏)=馬ではない小型の四つ足の動物(速く走る)と小さな単位→小型の四本櫂船と云うニュアンスとすれば、「記」虚空津日高を本つ国へ返すのに最も小さい一尋鰐が一番速いと云う記述に対応するのかも知れない。
「魏使東夷伝倭人条」を含む刊本には紹興本と慶元本(紹熙本)が在り、例えば、邪馬壹国と邪馬臺国、對海国と對馬国等の記述異なるのを取り上げて、此方が正しい。いや、間違いだと云う論争がある。刊行本の場合、編者陳寿の意向や意識的な変更や書き換えはないが、刊行者の意識的な文字の取り替えや誤植の可能性は否定できない。また、記述された年代や編者が違うとすれば、同本に基づいて書かれたとしても、その時代が持つ状況や認識に拠る書きかえの可能性を否定できない。ただ、誤植等の間違いと軽々しく云ってはならないと思う。何故なら、理解できない。都合が悪い。自分の論理に合わないとなれば、全てが間違いとされかねない。何れもが正しいとして読み解く事、先ずは目前のテキストのままで以て読む事から始めなくてなるまい。※後者の場合、海(ま) [məg][hai][hai]と発音しなくなったため、近い音の「馬」に変更したとも考えられる。
 
三国志=二十四史の一つ。魏・呉・蜀三国の史書65巻。晋の陳寿撰。紹興本=南宋初期(平安時代末期)の紹興年間(1131~62)に刊行されたもので倭人伝を含む刊本としては、現存最古。慶元本(紹熙本)=南宋の紹熙年間(1190~94)に刊行されたと云われる。「倭人伝」の部分は中華民国の学者張元済が百納本二十四史を編纂した時に宮内庁書陵部に存在するものを写真印刷した。
後漢書(ごかんじょ)=二十四史の一つ。後漢の事跡を記した史書。本紀10巻、列伝80巻は南朝宋の范曄(はんよう/398~445)撰。432年頃成立。志30巻は晋の司馬彪の「続漢書」の志をそのまま採用した。その「東夷伝」には倭(わ)に関する記事がある。
翰苑(かんゑん)=初唐の張楚金撰の類書。もと30巻。蕃夷部1巻のみが日本に現存し、倭国・朝鮮三国等の記事がある。

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  1. 2014/06/20(金) 22:44:32|
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