見まごう邪馬台国

◇「又」字

 先の岩元正昭氏は「又」に就いて以下の如く論じます。【「又」字には二種類の使用法がある。第一使用法は文章作成中、既に一度使用済みの文言を、後に再使用したい場合、その使用したい箇所に「又」字を置く事により、件の文言は、その位置に甦る「又」字が、その再使用したい語の代替詞として記入されるので ある。第二使用法は同語が立て続けに三度使用される場合、二つ目以降のそれを「又」字で代替する法を言う。以上に述べた「又」字の二つの使用法は、古代中 国人の文章の読み書き上の決まりであり、語法である。では、どのような経緯で「又」字が、このような役割を担う事になったかである。これを説く漢籍に未だ 出会わないので、筆者の憶説を述べておく。
  『説文解字』によると、「又、手也。象形、三指者、手之列多、略不過三也」とあり、段注に「此即今之右字」とある。つまり、「又」とは「右」の事なのである。右側に在るものとも解せる。因みに二字の発音は同 「ゆう」である。一方、二つの使用法に述べた様に「又」字は、既に一度書き終えた語句の代替詞である。既に書き終えた語句とは、漢文に於いては、常に 「又」字の位置より、右手に在る事になる。随って「右」、つまり、「又」字を代替の辞に用いたと筆者は考える。「又」字が古代漢籍に登場した場合、反射的に心に用意する事は、その「又」字に代替を託した「字」や「語」は既に読み終えた文章の中に形と意味を持って実在していると言う事である。これを被代替語 と名付けて置こう。】

 漢和大辞典「又」項、庇う様に出した右手を描いた象形文字で「右」の原字。字統「又」=右手の指を出している形で、同音「有」の語義もあり、上古では「助ける」「庇う」とも在り、庇う様に覆い被す事で、「更に」「その上」の語義になる。また、同訓「復」=元に戻す→再度、繰り返す→往復。「亦」=人の両手と両足の間の象形、詰まり、左右や上下、此方と彼方等、二例を上げ、一方か、その反対か、その何れをも示唆する。

 更に以下の如く続ける。【文章中、「又」字に遭遇し、その被代替語を探す目安は、「又」字の次に記されている「辞」が何かを先ず確認する事である。被代替詞は概ね「又」字の次字と同じものの前に在る。第二使用法の「又」字と「行」字のコンビネーションが放射式行程を表現する典拠。
 『隋書』琉求國伝、次の叙述に、「至高華嶼、又東行二日至句辟嶼、又一日便至琉 求」。この一句に第二使用法の二つの「又」字が見える。何れも高華嶼の代替である。「方位」語の次に直接する「行」字が見える。これにより「句辟嶼」の先 に行程がない事を告げている。以上により、高華嶼より、句辟嶼、琉求の二方面の放射状に行程が描かれる事になる。】

 中国東南部福建省泉州付近とされる義安から高華嶼への方向と、その日程、最後の琉求にも方向が記されない。私見では、『隋書』の編者や朝請大夫張鎮州にとり、高華嶼への東向きの航路は既知の情報で、その意識は従わない東夷の流求にあった。それが故、之(=流求)を撃つとされる。
 海中に小山が集まりできた群島=「嶼」とすれば、高華嶼は台湾北部の島嶼か、先島諸島や尖閣諸島付近、そこから渡海2日の句辟嶼は沖縄本島、1日便の流求は奄美大島で、台湾から転々と飛び石の如く続く南西諸島(奄美琉球列島)が東シナ海に浮くと云う認識だろうか。
 自義安浮海撃之、至高華嶼、東行二日至句辟嶼、一日便至流求=義安より、(東側の)海に浮く、これ(東夷の流求)を撃たせた。(東の)高華嶼に至り、(そこより、更に東行二日程で句辟嶼に至り、(そこより、更に東行)一日程の便で流求に至る。と読み下す。

「ゆう」=「漢和大辞典」右=口+右手の象形(音符)の会意文字、庇う様にして持つ 手。又(右手)→有(庇って持つ)→佑(庇う・たすける)。又=組んで支える手。補佐=側から支える等と同系字、又・右・有[ɦıuəŋ][ɦıəu] [iəu]とある。尚、左[tsar][tsa][tso]=左手+工(しごと)の会意文字で、工作物を右手に添えて支える手と在る。
隋書=二十四史の一つ。隋代を扱った史書。本紀5巻、志30巻、列伝50巻。特に「経籍志」は魏晋南北朝時代の図書目録として貴重。唐の太宗の勅撰により魏徴等により、636年成立。志30巻は656年成立後に編入。
 大業元年、海師何蠻等、毎春秋二時、天清風靜、東望依希、似有煙霧之氣、亦不知幾千里。三年、煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗、何蠻言之、遂與蠻倶往、因到流求國。言不相通、掠一人而返。明年、帝令寬慰撫之、流求不從、寬取其布甲而還。時倭國使來朝、見之曰、此夷邪久國人所用也 帝遣武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州率兵 自義安浮海撃之至高華嶼。又東行二日至句辟嶼、又一日便至流求。初、稜將南方諸國人從軍、有崑崙人頗解其語、遣人慰諭之、流求不從、拒逆官軍。稜撃走之、進至其都、頻戰皆敗、焚其宮室、虜其男女數千人、載軍實而還。自爾遂絶。
高華嶼=棉嶼(めんかしょ)=台湾本島の北東の島。彭嶼(ほうかしょ)=台湾本島の北東、基隆市沖約56kmの東シナ海に浮かぶ島で北方三島の一つ。瓶 嶼(かびんしょ)=棉花嶼・彭佳嶼とともに北方三島と呼ばれる。蘭嶼(らんしょ)=台湾本島の南東沖にある周囲40kmの孤島で、台東県蘭嶼郷に属する。 曾て紅頭嶼(こうとうしょ)と呼ばれた。台湾原住民の一つで、フィリピン・バタン諸島より移り住んだとされるタオ族の四千人程が暮らしている。亀山島(きさんとう)=台湾宜蘭県頭城鎮が所管する島嶼。火山島であり、太平洋上に浮かぶ姿が亀に似ている事に拠る命名。
句辟嶼=本字は、句(+黽)辟(+黽)嶼で、元(+黽)辟(+黽)嶼ともある。尚、前者の場合、句(=節/括)+辟(=傾/君)+黽(=努)と云う語義から推測すると、「従わない飛び島の地」。一方、従った「高(相手を尊ぶ)華(礼文の盛 んな地)」と、従わない「流(礼文の普及/海路)求(もとむ)」。
便=沖縄へは一日一便等と使われる一航路と考える。往路は対馬海流に逆らう朝鮮半島~ 対馬~壱岐~松浦の航路と違い、この場合、黒潮の流れに循じ、全4、5日便で、潮待ちや風待ち、休息日等を合わせ、一週間から十日の日程と考える。裸国と 黒歯国の場合、黒潮の流れに乗る。黒潮には、南側に反対方向に向かう流速0.3ノット程度の弱い流れが観測されており、これは黒潮再循環流と呼ばれる。帰りはこれを利用したと考える。
南西諸島=鹿児島県坊津より出港した遣隋使や遣唐使も、この逆航路を辿った。連日(二日間)の沖縄本島への航路では交代要員が乗船したか。
義安=中国福建省南東部の港湾都市泉州付近か。マルコ=ポーロはザイトンの名で西洋に紹介。唐代から元代迄、南海貿易の中心として栄え、華僑の出身地としても知られる。または、中国福建省都福州、閩江(びんこう)下流に位置する。古来からの貿易港の南側。





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  1. 2015/10/17(土) 12:52:16|
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